さっぽろ地下鉄のなかでマルクスを呼吸する、世界を呼吸する

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正社員/非正社員の分断を越えること

ニンテンドーDSの「DS文学全集」で読書してみました。DSを縦にして持つとちょっと本みたいです。質問に答えていくとお薦めの本を示してくれる「本の案内」から入ったら、安吾くんの『堕落論』を薦められました。

でも私が読んでるのは、葛西善蔵『子をつれて』。貧困と借金に詩を感じさせる作品です。最後まで読むか分らないですけど。画面上で栞を挟んでおきました。岡本かの子も途中まで読み、マキノ雅弘監督・山田五十鈴主演『婦系圖』1942年(見てない)の原作の泉鏡花もそのうち読もっかなとも。

本というパッケージでは紙質やデザインを作り手からの贈物として楽しみますが、DSでは、本体のデザインや質感を楽しみます。100作品は物体としての本だと重たいですが、小さなメモリーでは手のひらに入ります。さらにDSはBGMを選んだり、ゲーム的遊びの要素が加わります。一覧性や眼に対する優しさでは、紙という媒体には劣るとはいえ、コンピュータを介した言語的コミュニケーションが発展していくことは革命的です。DS文学全集:収録作品一覧

DS革命について宣伝してしまいました。

DSにはあらすじ機能もあります。知ったかぶりをしたい人や、読んだ気になってみたい人には使えるかもしれません。

『蟹工船』をあらすじだけで読んだら、どうも没頭できず、えっ、こんな話だったの、という驚きを感じたりもしました。カムチャッカに漂着して助けてくれたロシア人が「みんなで力を合わせて金持ちをやっつけなさい」と教えてくれた、とか。なんかヘンです(立派な作家の立派な作品であることを否定しているわけではありませんから誤解なきよう)。

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2日の朝日新聞にロフトが「パート、契約社員、正社員の区分をなくし」「勤務時間に関係なく正社員になれる仕組み」を実施することを伝える記事がありました(14版1面)。しかも「短時間勤務の人も含め大規模に正社員化する」のだと。

ロフトが全パートを正社員化へ - goo ニュース
asahi.com:ロフト、全パートを正社員化 短時間勤務でも - ビジネス

少なく働いても正社員か。

もしも仮に、労働時間が1日3時間の正社員だけというような状態の社会が実現したとしたら、これは、あらゆる賃銀労働者を、よい意味での非正規雇用におくことと同じです。非正規雇用に期待され非正規雇用のすばらしさとして喧伝されるのは、【好きなときに好きなだけ働く】という働き方ですから。

しかしこれは実現しないでしょう。

あるいは仮に、短く働いてもいいというタテマエの正社員を増やして、正規雇用と非正規雇用との形式的な壁を取り払うことが社会全体に行き渡るなら、どうでしょうか。

これも中身としては実現しない。つまり短く働いてもいいという契約はあってもじっさいにはみんな長く働きます。

あらゆる労働者を正社員にすることで非正規雇用をなくすことは、そのじっさいのところは、賃銀労働者のおかれた貧困や差別を一般化することを意味します。

あるいは、非正規雇用においてあらわであった無権利状態、差別を一般化することであって、あらゆる賃銀労働者を、悪い意味での非正規雇用におくことと同じでしょう。短時間正規雇用とは、【資本が好きなときに好きなだけ働かせる】非正規雇用の一般化になるのかもしれない。

あるいは、労働者間の正規/非正規の格差をなくすことは、労働力という商品の売買契約、この商品の使い方を統一することでしかなかったりするにちがいない。

問題は壁をなくすことのむこうに開けている。

だれもが短時間しか働かない正社員からなる社会が実現しない理由は、ちょっとかんがえるだけでも出てきます。

少ない時間で働くことがタテマエ上可能でも、正社員ですから、時間が空いているからといって他の企業では働けないのではないか。

労働力を商品として労働者が売るためには、労働力を再生産するための消費手段が必要であり、これを手に入れるためには労働者はこの消費手段の生産に要するよりも多くの労働を資本に捧げなければなりません。資本に雇われるためには、資本が用意するより多くの貨幣をもたらさなければならない。賃銀労働者は長時間労働しないと、生活費は稼げない。

労働時間を延長すること、生産した商品を吸収する消費を拡大することは、資本蓄積の至上命題です。好きなだけ短く働くことは阻止されます。無政府的な生産を駆り立てるのはこの至上命題です。社会的生産過程に対する社会的規制がなければ、「だれでも短時間労働」社会は実現しない。

正社員非正社員の格差がなくても、資本にもとづく生産様式であるかぎり、自由な労働は、社会的生産から疎外されている自由におかれたものであって、強制された労働です。だれもが強制的労働から解放されならそれは資本主義ではありません。

だれもが短時間労働で生きていける状態は、資本蓄積を目的としない生産様式を条件としています。短時間労働を真に実現する状態は、自由な意思で働くことが社会的に他の個人の自由な欲求を満たしその成長を支えることとして措定されている状態であり、人が強制的労働から解放されることであって、だれもが自由な個性を発揮し育成するように労働することですから、現在の資本賃労働関係においては不可能な話です。

だれもが短時間しか働かない正社員からなる社会が実現しない理由は、こんなふうに、あげられます。資本主義社会である以上実現は困難だということになります。

とはいっても、正社員化のこの試みは面白く感じるのですよ。資本の限界内でいろんな試行錯誤があるわけであり、それが資本に対する規制や、労働者の権利の拡大につながりますし。

個別の企業であればロフト的方向にもメリットがあるのでしょう。

日本の最近の格差社会化の元凶とされている非正規雇用化に対してそれを改善しようとする社会的意識の高い企業、という評価を得ることもありえるかもしれません。

そういう企業の社会貢献の裏では、厚労省による正社員化後押しの動きを先取りしてはやく適応体制を準備するとか、他の企業と差異化して賃銀労働者の忠誠心を買い取るとか、労働力の働きぶりを高めるとか、労働に対する参加意識の低い非正社員を減らして不祥事を防止するとか、逆に内部告発の機会を減らすとか、排他的で利己的な利益があるはずです。社会正義は他人を出し抜くことであり、格差社会を改善する社会善は、他人を欺すことに裏打されています。皮肉ではなくて、いや皮肉もありますが、これが物象化された生産関係というものです。社会の存立の様式として公共善は排他的利益なのです。
by kamiyam_y | 2008-03-11 23:55 | 企業の力と労働する諸個人 | Comments(0)

市民社会における信頼の否定(後)

asahi.com:米兵釈放 「そっとしておいて、と」 地検「適正捜査」 - 社会

事が大きくなりすぎて傷が拡がるので忘れたいということなのかもしれませんし、女性が拒絶の意思を示しているのにキスを暴力的に強引に迫りつづけたのであればそれでもたしかに問題ですけれども、トーンダウンです。強姦が事実でもしも中傷によって取下げたのなら、中傷は強姦魔を免罪する機能を果したことになる、とでも言えたのですけど、結局、米兵はたいしたことはしてなかったのに、周りが騒いで事が大きくなってしまって中学生は困ってしまった、というのが真相のようにおもえます。まあ、セクハラで冤罪がおきやすいのは被害を主張する人の内心の不快を証明なしに基準にすることを疑わない人が多いからだし、痴漢でもやったと主張すればそれが検証なしに事実とみなされがちだからであり、そうしたことが本当に取りあげるべき人権侵害を見逃すことにつながるとかんがえますが、今回は、冤罪だったという線は棚上げして書いてました。朝日新聞の記事は取りあげるに値する事件を記事にしているので煽っているのではないと仮定して書いたのでしたが、この仮定は撤回した方がよさそうです。米軍基地問題の象徴的存在にこの件を祭り上げさらに被害者を中傷するネットの一部の声をことさら取りあげて大きな問題にしようということだったのかなということで。悪いのは強姦する人であり米国人と交流したい人はすればいいという論点は書いたとおりとはいえべつにいま言わなくてもいいことで、推定無罪の原則を堅持せずにブームに載っかった点反省。米軍だからといって犯人扱いする叩き方をしては、推定無罪の感覚の薄い、俗受けメディアや世論なるものや騒ぎ立てて中傷に熱中する愚かな人達と同じ穴の狢です。米兵だからといって原則を無視していいわけもありません。すみません。

沖縄タイムスhttp://www.okinawatimes.co.jp/day/200802281300_01.html

共同体を実質的に代表するのはその一人一人の構成員であって、この構成員の侵した犯罪について共同体を正式に代表する人が規律の強化を宣言するのはあたりまえですから、ライス長官の反応は、その立場上当然で、文明的対応でした。福田も町村も動きましたし。

沖縄タイムスによると、「沖縄市基地政策課」は「沖縄市内で過去五年間に発生した米軍構成員および外国人による犯罪発生状況をまとめ」、「発生件数は合計九十七件(二十八日現在)で、そのうち約67%が午後十一時から午前七時までの時間帯に発生していた」とか。規律強化はいいとしても、外出を制限された米兵にちょっと同情したくなります。まったく。これからも米日の交流がんばって下さい。

ライス長官とは対照的に高里鈴代は「訴えたことが分かるとみんな殺されるんじゃないかと思い黙っている」(「なくせるか米軍性犯罪」北海道新聞3月2日16版第三社会面37頁)と言っています。服役終了後に報復があり、それをおそれる心理なのでしょうか。そうだとしたら本当に怖いです。米軍による殺人がどの程度多発しているのかも分らないで書きますけど、ほんとかなあと疑問を感じざるをえません。もしほんとだったら沖縄でこのような恐怖にさらされている方々を理解できていないということになり申訳なくおもいますけど、黙っている原因を暴力による恐怖と解説されると、どうなのかなあと若干分りにくさを感じざるをえないです。銃によって言論が封殺されているのだろうか。個人の事件を強引に政治的主張やステレオタイプのジェンダー差別反対論のための手段として取りあげて大衆を引き回そうとしているようにもみえます。もし法に訴えたら、司法を用いるたら、殺されるかもしれないという恐怖が蔓延しているのだとしたらこりゃあ大変すぎます。警察は何をしているのでしょう。政府は何をしているのでしょう。

高里発言を仮に煽りとかんがえるとすれば、こういうかたちでの煽りは、地位協定や治外法権、軍縮等々大きなテーマを人々がまじめにかんがえていくうえで、批判的立場に対する信用に傷を付けます。引き回しは大衆を運動から離脱させていく。あんまり調べないで危機を煽るような言葉と思考法は、反戦運動一般にとってもマイナスでしかないです。

結局確認できたのは米政府の文明的対応であったと評価すべきかな。

以下、高里から離れて、暴力による言論の封殺、暴力による人権への攻撃について、法の支配は空想だったのか、この社会は法治国家でなく恐怖と暴力が支配する社会であったのか、疑問を提起してみたい。やや強引な話題転換ですけど。

で、プリンスホテル新高輪の対応を見るとその要素は指摘できるんじゃないか。とりあえず次の記事だけ参照して読込んでみました。

港区が日教組から聴取 プリンスホテル宿泊拒否で | エキサイトニュース
日教組のホテル使用拒否を了承 社長会見「宿泊客の安全のため」 | エキサイトニュース
東京新聞(TOKYO Web)
社説2/2http://www.tokyo-np.co.jp/article/column/editorial/CK2008020202084385.html

準備が面倒だったからキャンセルしたのかと推測できますが、暴力による言論封殺はこの社会では建前上ないことになっているし説明不足を非難するばかりでは自分の非を認めず責任転嫁してるようにしかみえないでしょう。お気の毒にも、企業としてはここでしっかりとした対応を経験しておけば応用可能なノウハウも蓄えられるし、各種集会客を今後も獲得できるかもしれなかったのに、必要な準備の手配等の調整をする力もなく、憲法も知らず法律も知らずということをみずから晒してしまいました。理不尽な暴力や恐喝に屈服する企業だということを世に知らしめてしまいました。日本社会の一員としての意識の低さを露呈してしまいました。経営担当者の社会的意識の低さを公開してしまいました。顧客に対する差別を行う非人道的な企業だいうことを宣言してしまいました。監督省庁も役所も厳しく調査してほしいとおもいます。

それだけではありません。

理不尽な暴力に屈する企業、言論に対する脅迫に屈服する組織であることを宣言したこの企業は、日本の法律も警察も信用することもなく、基本的自由を暴力で封殺することを「公共の福祉」を持ち出して既成事実として容認するかたちで扱ってしまったのです。公共性という概念を人権の抑圧を認めるトリックに用いてます。騒音から客と地域を守るという公共事は、このような人権否定として実現するべきではありません。しかるべき手段を講じて実現すべきでしょ。皇帝の神話的起源を祝日として押しつけるような前近代的な迷信にとらわれた部分を残す政府を私たちの社会がその共同体的統一の頭上に載せているからといってテロを正当化するほど日本が法治国家として未熟であることはかんがえられず、この迷信が野蛮な国粋主義的妄想をもつ病的な暴力部隊を震い動かすとしても、社会によって正当なものとして認知された暴力機構がこちらの異常な暴力部隊による犯罪を堂々と見逃すということはそうないというか、警察が癒着をその得意技とするといっても、一応業務はするでしょう。

この企業は、今回の振舞において、共同体組織に対しても法律に対しても警察に対しても信頼をおいていないのです。さらにいえば、この企業は、社会に対する信頼を否定し、社会の根源的原理である人間を否定しているのです。基本的人権も憲法も西武ホールディングズの視野のなかには存在していないのです。人権一般・自由な個人一般に対して、人間の尊厳一般に対して侮辱の汚水を浴びせたのであり、人間の本質に対して尊厳を失っているのです。テロリズムと軍国主義と全体主義とに荷担する、もしくはそれを助長する、容認する行動をとったこの企業には、いいかえると近代社会の基本的理念である人権を否定するテロの存在をするこの企業には、よき企業市民だの社会貢献だのCSR(企業の社会的責任)だのコンプライアンス(法令遵守)だの口が裂けても言う資格は今後一切あるまいとおもいます。加藤紘一の背中の垢でも飲んだらいいんじゃないだろうか。
『テロルの真犯人』講談社|エキサイトブックス

人間とその社会に対する不信が、この企業において集会の自由に対する暴力的否定を容認するというかたちで現れています。この企業の振舞はまた今までこの種の暴力を放置してきた私たちの社会のありようを、人間の尊厳と人権を貫き通すことのできない私たちの社会のありようを反映しているのであり、暴力による人間の否定を放置してきた共同体、行政、警察のありようも照らし出しています。憲法論議をしても皇室を税金で経営することの是非を世論調査で問う程度のことすらしないメディアだって、タブーを残しているのですから、一ホテルとその責任者を批判して済む話ではなく、テロという社会病理を治療できない私たちの社会の非人間的現在の現れとして今回のこの企業のこの対応を反省しそこから学び取っていかなければとかんがえます。

この企業が今回の振舞を選択したのも、個別資本の回転の維持のためであり、利潤追求の維持のためであり、そのために事なかれ主義をこの場合選択したのでした。利潤追求維持の圧力が背景にある。

どの個人、どの企業もこの追立てられる圧力からは自由ではありません。

この圧力自体がじつは市民社会における信頼の否定です。他者への不信を前提して私利追求を相互に強制しあうのが市民社会の生還関係的実態ですから。

特殊歴史的な条件を土壌として現れては消えるこうした個別的で偶然的な事件のその背後を貫いて必然的に定着している真の問は、したがって、主体が孤立し相互に否定しあう市場・市民社会の編成をどのように止揚するのかという問です。貨幣が共同体であるという、人格的関係解体的な、社会解体的な生産関係、人格否定的な生産関係、生産における信頼(諸人格の相互承認である社会)の否定を、諸個人が社会的生産を我がものとしてどのように共同制御して止揚していくのか、という問にまで遡ることが、個別的偶然的な流れゆくものを超えた現実的な問いかけであり、現存の編成では解決しないことを解決するようにみせる体制正当化を解体するような正当な問いかけです。企業がより成熟した対応をするように規制を高度にしていくことが、この問いかけを突きつめていく1つの局面であることはまちがいない、ということができます。
by kamiyam_y | 2008-03-07 08:40 | 企業の力と労働する諸個人

市民社会における信頼の否定(前)

国連拷問禁止委員会は死刑執行停止勧告を日本政府に出しています。石塚伸一「【法律時評】動く世界の死刑、孤立する日本-裁判員は、銃殺を命ずることができるか?」(『法律時報』2008年80巻第3号1-3頁)によると、昨年12月の国連決議で死刑執行停止に反対した54ヵ国は日米以外すべて途上国。しかも米国では州によっては死刑が廃止されていたり、電気椅子による処刑に違憲判決が出ているらしい。

死刑の存続如何という問題の立て方はおそらく制約されたものであって、そこに隠された最奥のテーマは国家の止揚でありましょうが、それは市民社会における生産の対立性の止揚に依存しています。共同体による刑罰には一定の根拠があり、そのあり方も社会の成熟の度合いによって条件づけられています。

「刑罰がそのうちに犯罪者自身の法を含んだものと見られること、ここに犯罪者が理性的存在として尊敬されるゆえんがある。・・・・・・犯罪者が単に無害にされるべき有害な動物のように考えられるにすぎなかったり、・・・・・・。」(ヘーゲル『法の哲学』§100、高峯一愚訳・論創社)

犯罪は害虫による作物被害ではなく、犯罪者は害虫ではない。害虫は人間共同体の成員ではない。犯罪者は人間共同体の成員として、生きた1つの類的存在の偶然的な姿として、裁かれ、刑を受ける。

「死刑を廃棄せしめようというベッカリアの努力は有効な効果をもたらした。ヨゼフ二世もフランス国民も死刑の全廃をまだ実施することはできなかったとはいえ、それでも何が死に値する犯罪であり、何がそうでないものであるのかが考究されはじめた。このようにして死刑はこの最極刑にふさわしいように、一そう稀なものとなったのである」(同上)。

「刑法法典はそれ故、特にその時代およびその時代における市民社会の状態によって左右される。・・・・・・社会がそれ自身安定している間は、やはり犯罪はつねに社会に背く個別的なもの、不安定なもの、孤立的なものである。・・・・・・それ自身安定した社会においては、犯罪の行われることはきわめて微弱で、したがって犯罪を廃棄するための刑罰もそれに応じて計量されねばならない」(§218)。

刑罰という共同的秩序維持の行為はその社会のあり方に依存しているから、どうってことないように見えても大きな刑罰を受けるところがあったり、刑罰そのものが社会の安定や社会の成熟によって小さくなっていったりする。社会の不安定さ、未成熟さを刑罰の残虐さは反映する。社会が粗野で野蛮で分裂的であれば、刑罰も粗野で残虐となる。

「死刑大国」中国ですら死刑執行が年間4000人以上から1000人代に減っており、即時執行も減っており、銃殺から注射に転換しているんだそうですね(石塚前掲論文2頁)。

刑罰が当該社会の特質の反映であるならば、死刑執行が多くなるほどに人の命の重さが軽く人命尊重的ではない社会であることになりましょう。

浜井浩一「死刑という『情緒』の前に データで見る日本社会の実情」(『論座』3月号通巻154号号、111-121頁)では、ニュージーランドの犯罪学者ジョン・プラケットの研究結果として、「ポピュリズム的な厳罰化に対して抵抗力を持つ国は、政府や人に対する信頼感が強く、社会保障に対する信頼感があり、・・・・・・」といった条件を備えていることを紹介しています。浜井自身の調査でも「格差社会を肯定し、ホームレスは自業自得だと考える人」「治安の悪化を憂い、犯罪不安の強い人」「防犯のためにはプライバシーの犠牲はやむを得ないと思っている人」等が死刑を支持しやすい傾向を見いだせるとしています(117頁)。

《信頼》の崩壊は権力による厳罰化的統治スタイルの土俵になっているわけです。この「情緒」は、信頼ではなく不信が人と人とを結びつける社会の表現です。

個々の犯罪者に対する予防効果は認められるが、社会一般的な効果は検出されないというのが死刑の犯罪抑止効果の定説みたいです。「英米の犯罪学会においては、死刑の犯罪抑止効果は、科学的に確認されていない(将来にも確認できる見込みも乏しい)というのが合意事項」であり、犯罪抑止は「信仰」である(118-119頁)。まさにそれが信仰であるならばそれがそれ自体として止揚されるものではないことはあらためて強調することもないでしょう。国家的信仰の止揚が政治的民主主義の形成であったが、それは市民社会における人間の不信に転回し、市民社会における人間の社会の形成いかんにもろもろの疎外の解消は依存する。迷信そのものの否定は迷信にとらわれているにすぎない。誤解のないように付けくわえると、迷信に対して科学を対置する専門的学術的コミュニティからの正確な情報の発信・流通が人間の開発として重要であること、それが物象的な連関の支配によって歪められること(メディアによる学術的知識の疎外)はいうまでもありません。

参考 憲法第3章

第三十三条【逮捕に対する保障】
 何人も、現行犯として逮捕される場合を除いては、権限を有する司法官憲が発し、且つ理由となつてゐる犯罪を明示する令状によらなければ、逮捕されない。
第三十四条【抑留・拘禁に対する保障】
 何人も、理由を直ちに告げられ、且つ、直ちに弁護人に依頼する権利を与へられなければ、抑留又は拘禁されない。又、何人も、正当な理由がなければ拘禁されず、要求があれば、その理由は、直ちに本人及びその弁護人の出席する公開の法廷で示されなければならない。
第三十五条【住居侵入・捜索・押収に対する保障】
1 何人も、その住居、書類及び所持品について、侵入、捜索及び押収を受けることのない権利は、第三十三条の場合を除いては、正当な理由に基いて発せられ、且つ捜索する場所及び押収する物を明示する令状がなければ、侵されない。
2 捜索又は押収は、権限を有する司法官憲が発する各別の令状により、これを行ふ。
第三十六条【拷問及び残虐な刑罰の禁止】
 公務員による拷問及び残虐な刑罰は、絶対にこれを禁止する。
第三十七条【刑事被告人の諸権利】
1 すべて刑事事件においては、被告人は、公平な裁判所の迅速な公開裁判を受ける権利を有する。
2 刑事被告人は、すべての証人に対して審問する機会を充分に与へられ、又、公費で自己のために強制的手続により証人を求める権利を有する。
3 刑事被告人は、いかなる場合にも、資格を有する弁護人を依頼することができる。被告人が自らこれを依頼することができないときは、国でこれを附する。
第三十八条【不利益な供述の強要禁止、自白の証拠能力】
1 何人も、自己に不利益な供述を強要されない。
2 強制、拷問若しくは脅迫による自白又は不当に長く抑留若しくは拘禁された後の自白は、これを証拠とすることができない。
3 何人も、自己に不利益な唯一の証拠が本人の自白である場合には、有罪とされ、又は刑罰を科せられない。
第三十九条【刑罰法規の不遡及、二重刑罰の禁止】
 何人も、実行の時に適法であつた行為又は既に無罪とされた行為については、刑事上の責任を問はれない。又、同一の犯罪について、重ねて刑事上の責任を問はれない。
by kamiyam_y | 2008-03-06 08:38 | 自由な個人の権利と国家