さっぽろ地下鉄のなかでマルクスを呼吸する、世界を呼吸する

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「格差」という言葉に潜む競争主義・成長主義への拝跪(4)

▽何の罪もない親子がなぜ1億4000万円の税金で買った軍艦によって無惨に海に突き落とされねばならないのだろう。捜索のために船を出した漁師仲間の映像を見て思わず涙しそうになりました。

▽犯人の証拠隠滅の片棒を担ごうとした犬山署といい、冤罪をなかったことにしようとした法務大臣といい、漁をして働く人を暗く冷たい海に沈めた軍艦といい、誤った情報を流したり口止めをしようとしたりした防衛省自衛隊といい、政治的権力は腐敗するという陳腐な法則・傾向は生きています。

司法解剖の問題に取り組んでいる柳原三佳(Amazon.co.jp: 焼かれる前に語れ: 岩瀬博太郎,柳原三佳: 本)が日刊ゲンダイで連載をしているんですが、そこでも時津風部屋の傷害致死事件に触れられていました。

もしも「遺族が新潟大学に承諾解剖を依頼していなかったら」(「『死因究明』お粗末過ぎる日本の現状2」日刊ゲンダイ2月19日号発売18日)、犬山署によって病死とされたままだったのです。おそろしい。司法解剖率世界最低レベルとはこういう隠蔽を可能にすることです。

▽経済権力についても腐敗する法則は妥当。生産物の安全な供給という使命を忘れたJTといい、中国国営企業といい、生協といい。

労災申請をさせないようにしたグッドウィルにおいては、より多くの利潤を得るよう強制されている企業が、労災申請を阻止しようとした愚劣な労働者の行為を介して、労災申請しようとした労働者を抑圧した。資本という生産関係が、法令を遵守しないような個人の野蛮な個性をとらえて、主体化・能動化して、法に反するような行為を行ったのである。資本とは労働者の関係なのに労働者を抑圧する未熟な生産関係である。

グッドウィルに労災隠しの疑い…指骨折報告せず派遣継続(読売新聞) - goo ニュース
<グッドウィル>派遣男性の骨折労災事故、報告せず 宮崎(毎日新聞) - Yahoo!ニュース

企業が民主主義と人権と人間の自由と法を阻碍している。生産関係が犯罪を犯すのが現代です。

▽次の記事によると、米兵による暴行事件の被害にあった14歳の子供を中傷する人がいるらしい。もしもそれが本当だとしたなら、この記事が周辺的なマイナーな現象をことさら取りあげて危機を煽っているではなくて取りあげるに足る現象をきちんと取りあげているのだとしたら、この成熟しつつある社会に、自己責任論ブームは終焉したのに、被害者の傷に集る蠅のような人間以前的な感情が人民のごく一部分にでしょうが、残っているということになる。優しそうな人でも警戒するようにといった心構えを心構えとして限定して知性的に対話するならまだしもであり、人々が犯罪被害にあわないよう対策を構築するために、米兵による犯罪を減らしたり被害にあわないようにするために考えるならよいとしても、そのようなふりをして被害者を中傷する人がたくさんいるのだとしたらいいことではないと思います。米兵に対する米軍の管理指導体制が行き届けばよいという見解も成立しますから基地の是非からは相対的に独立した問題として扱うこともできますしそうすべきでしょうけど、基地反対闘争にこの事件を皮相に利用することに対して反対することが少女を断罪することでできると考えるのは、単に裏返しに過ぎずあさはかです。加害者被害者双方の相関において起きるからといって被害者がいなければ犯罪が起きなかったのだぞと被害者に責任を転嫁するなんてことをばかばかしいとは思わないほどの低い知性なのか、お上やお国を批判することをこころよく思わない奴隷根性、農奴的未開の心情がまだ残っているのか、法と道徳を区別できないのか、軍や政府を批判することに対して悪意と反感をもって被害者を叩かなければと、なにか被害妄想をいだいているのか、米軍基地の街沖縄の抱える問題という文脈を女の子のミスを叩くというテーマにすりかえて矮小化できるとでも思っているのか、人権擁護に対する悪意なのか、人と反対のことを言ってみたいだけなのか、新聞やテレビに出ないような自分の感情論を正しいものとして主張して偉くなった気分を味わいたいのか、劣等感を埋めるために自分を臣民が尽くすべき王の位置において人を断罪してみたいのか、犯罪を犯した側よりも被害者を責めることを正義だとおもう幼稚で冷酷な感情を相対化・反省できないのか、被害者には落ち度あるのだと称して被害者を叩くことで自分を道徳的にご立派な人物だと思い込みそれによって自分のコンプレックスをごまかしたいのか、加害者を免罪して被害者を叩く転倒を転倒と思わない知性のレベルは結局何の経験も学びもしないのか、異性や外国人の友達をつくれないひがみなのか、自分の道徳を絶対として他者に押しつけたい宗教右翼的な共同体幻想なのか、道徳によって他者を支配したいのか、心構えの問題を犯罪加害者を免罪するという転倒にまで不当に一般化して平気な論理能力のなさなのか、個人の心構えと社会問題とを区別できないのか、個人の自己責任・心構えの問題で犯罪がなくなるとでも思っているのか(それなら警察も検察も裁判所も法律も政治家も議会も選挙もいらないし、社会科学も社会そのものもいらない)、知力・価値観・体力など被害者の多様な個性に応じて加害者よりも被害者を叩くのが正しいと思っているのか、鍵を閉めない田舎の家に泥棒が入ったら泥棒ではなく鍵を閉めなかった人が犯罪の原因であるから刑罰を受けるべきだとでも思っているのか、人を信じやすい無垢な人や知識の乏しい人をだます詐欺があったらだまされる方が悪くだます方はやむを得なかった・しかたなかったとでもいうのか、知りませんが、なぜ被害者によってたかって嫌がらせをするのかとおもいます。こういう粗野で教養のない姿勢は、社会病理として分析する必要はあるでしょう。自分以外のあらゆる人間を泥棒や強姦魔や殺人鬼の可能性があるものとみなして行動するという絶対的な人間不信を、実現不可能な信頼の拒絶を、非人間的な敵対を追求したい人は、勝手に独りで自分に対して説教していればよいのです。いっさい警察も検察も裁判も頼らずに殺されたら自己責任と歓び、それをけっして他の人に強要しないでいればよいのです。

asahi.com:自己責任論にNO 女性団体、立ち上がる 米兵事件 - 社会

同世代の子たちはどう感じているのか。

 県中部の高校2年の女子生徒(17)は「繁華街に出かけると、米兵にプリクラや携帯電話の番号を交換しようと話しかけられることも多い」と言う。米兵の友達もいるが、危険な目に遭ったことはない。「米兵の友達を作ることが悪いんじゃなくて、悪いのは性犯罪をする人でしょ?」


米国人と仲良くなったら強姦されても殺されても仕方ないのか。毒入り冷凍食品を食べて死んだら、リスクを考えないのかおまえはと、よってたかっていたぶられねばならないのか。「悪いのは」犯罪する人です。被害者がだれであろうと犯罪は犯罪。女子生徒の言う通り。おしまい。



「格差」という言葉に潜む競争主義・成長主義への拝跪(4)


資本のグローバルな展開

この一国福祉国家もまた資本主義の展開において過渡的なものです。株式会社を要素としている市場という形をとった社会的生産、社会的生産を実現している世界市場、この社会的生産・世界市場という客体的世界を産出しながらそれを喪失している発展した諸個人。こうした資本主義の頂点において、一国福祉国家は人類の最終的な姿ではありえない。

単純にいって資本主義自身が国家を制限と感じ、規制の束を解こうとします。資本主義は、低賃金、長時間労働を強要する圧力を内在しています。いまやそれが、グローバルな連関の力として作用し、国家による規制の効力を弱める形で現れています。この連関の力から問題が発生しているのであれば、新自由主義が国内で「生活」「福祉」をまもろうとする声によって頓挫するのとまったく同様に、一国福祉国家もまた実現しえない理念の地位に落とされることになります。この理念の内部にとどまるかぎり、資本主義のグローバルな圧力を無化することができないというべきであり、この理念は労働する諸個人に対してごまかしとして作用することになりましょう。

「格差社会」批判が労働者にとっての資本の圧力に対する抵抗という側面をもつとしても、そこにとどまるなら解体していく思想でしかないのではないか、ということです。

「格差」の悪循環からの脱出を

一国福祉国家路線が頓挫するという点から「格差社会論」の限界をみましたが、さしあたり2つにわけて異なる論点からも考えてみます。

第1に、「格差社会」論議の受け取り方のなかに、諸個人による協働的規制ではなく諸個人の孤立と相互の否定を表現する立場が混じっていることです。「格差社会」論の受容態度には競争崇拝に連続する契機が含まれている、あるいはもっと強くいえば、流行の「格差社会」論議には「自己責任論」イデオロギーが混在している。

自分の下には下がいると安心したり不安になったりするだけだったら、それは「格差社会」を対象化する態度ではありません。それは、上の上には上がいて、下の下には下がいるという悪循環、これを「格差社会」論議の悪循環の罠、とすれば、この罠にとらえられてしまうことです。「格差社会」の受け取られ方のなかに、自分はニートでなくてよかった、と安心する気分があるとすれば、それは、《比較》による安心と不安というエゴイスティックな《社会関係》が混じっていることです。だれもがこういう関係から逃れられないのですけれど、問題の立て方を「格差」に限定してしまうと、この関係を超える契機をみえなくさせるそういう方向をふさぐことができない。

自分の子供がフリーターとして企業の車輪の下敷きにされないように、正社員として下敷きにされるように教育という社会的活動を利己的生存の手段に貶めるというみみっちい話が「格差社会」論議には混在してます。人間どうしが疎外された現代ではだれもがこの卑小さから逃れられない。「格差社会」論はこの卑小さを超える協同的な契機をふくむとともに、この卑小さにとどまらせる契機もふくんでいる。

すぐに捨てられる部品としてよりも長く使われる部品になること、非正規雇用として労働力をモノとして売り搾取されるよりも、正規雇用として労働力をモノとして売り搾取されることを望んで相互に足を引張りあい否定しあう(「競争する」ともいう)という利己的振舞に働く人々が終始するかぎり、社会的解決の糸口は閉ざされています。弱い資本よりも強い資本に買われることをのぞみ、他の労働者より高く買われることをのぞむという制約されたありかたを、「格差」論議は相対化できない。労働者間競争は競争しあう資本の運動の一側面にすぎず、「格差社会」を対象化せずそこに埋没することは自分をモノにしつづけるということです。

差の問題なのか

第2に、問題は量の差なのか、ということです。

上の上には上がいて、下の下には下がいるという悪循環は、まさしく競争主義を前提するものです。剰余価値の飽くなき追求による蓄積のための蓄積という資本の本性は、資本どうしが押しつけあう競争において実現し、競争とは、相互に否定しあうことです。競争を通じた成長のための成長は、環境破壊、労働における自由の制限、民主主義の企業による空洞化を招きます。上だの下だのという蟻地獄のなかでの話ではなく、蟻地獄全体を対象化すること、成長のための成長というシステムそのものの転換をすることが現実的な変革です。

端的にいえば、労働者という1つの階級のなかでの「差」は重要な問題ではない、ということです。大衆のあいだでの収入なりなんなりの量的な差ではなくて、大衆一人一人の自己疎外の全体こそが問題であって、「格差社会」論議は肯定的な契機を含んではいても、この論議にとどまるのでは、成長主義・競争賛美・物神崇拝・市場原理主義の裏返しという側面から抜けられないのではないかということです。分配において諸個人が受け取る生産物の量的差や、雇用条件の差別的体系に問題を限定してしまうと、問題の領域そのものの転換ができない。問題のなかでのあれこれになってしまう。

「格差」論はじつは市場原理主義と同じものを共有していながらそれを批判する論議であって、根底的な批判になるためには労働者のなかでの「格差」を超え出なければならないとおもいます。「格差」という問題の立て方をすると、市場主義が前提する労働者の疎外や孤立を追認することをふくんでしまうのです。

「格差」について以前に書いたことと多少異なる点もあるかもしれませんが、「絶対的不平等」という言葉を以前に使ってみた(抽象物としての「市場経済」(5)-メンヘル、格差、知識労働-)のも、量の差ではなく、生産関係における対立という質的なものこそが重要だといいたかったからです。(続く)
by kamiyam_y | 2008-02-22 23:27 | 資本主義System(資本論)

「格差」という言葉に潜む競争主義・成長主義への拝跪(3)

▽補足。輸入食品の検疫違反率について前回触れましたが、落ち着いて考える必要があるということで、率だけではわからない点があることはいうまでもありません。日本の食料・食品市場に占める中国産の規模からすれば、他の小さな途上国産とは同列ではないですし。共同体成員のための防御策も、食の安全を求める声も重要であることは前提であり、その実現のためにも社会的生産過程の公開と制御に向かう国際主義です。中国の資本の巨大さとその未熟さは世界の労働者に影響を与えます。厚労省は中国の企業の直接の監督者ではない。中国社会の未成熟は日本の人々の生活にとって制限。もちろん日本のなかでのチェック体制の拡張は当然です。ちなみに「速攻処刑」とも書きましたが、国連総会で死刑執行の停止決議が採択されるこの国際的潮流(12月18日。反対は中国アメリカ合衆国日本)にあって、処刑されても秘密に処理じゃないかなあと不安。となると推論で暗鬱になったり論じたりすることになってしまいますけど。

ギョーザ問題は中国における生産関係の未熟度や、中国の市場文化や食文化もわからないとなんともいえないところもありますが、日本の食の安全のためにもいよいよ諸個人の国際主義しかないという方向性・展望を語っておいたということで。孤立した存在が否定しあうことで相互依存がふかまるという資本の展開は、問題をますます普遍的で世界的なものに拡げていきます。

▽まず国語辞典で冤罪の説明をみて下さい。えんざい ゑん― 0 【▼冤罪】 - goo 辞書

冤罪ではないとは、「罪がないのに疑われた、のではない」ということになります。

こういう発言と謝罪こそもっと報道すべきでしょう、自由で民主的を標榜できる社会をめざすなら。

<鳩山法相発言>志布志事件の元被告ら反発 「謝罪も形式」 | エキサイトニュース
<鳩山法相>「検察が言っていること」…「冤罪」発言で | エキサイトニュース
<鳩山法相発言>鹿児島の元被告ら抗議声明 謝罪求める | エキサイトニュース
「政治家としての資質を問う」 鳩山批判がメディアで強まる | エキサイトニュース
<志位共産委員長>「冤罪」発言問題で鳩山法相の罷免要求 | エキサイトニュース
「冤罪じゃない発言」の鳩山法務大臣に謝罪を迫る - 保坂展人のどこどこ日記
志布志事件国賠訴訟原告団、鳩山大臣に抗議声明 - 保坂展人のどこどこ日記

「検察が常日ごろ言っていることをそのまま言った」らしいのですが、抗議声明にあるように「警察、検察の犯罪」なのであって、警察・検察による権力の濫用を掣肘すべき立場にあるのであれば、権力の犯罪をあいまいにするこのような態度は許されないでしょう。


「格差」という言葉に潜む競争主義・成長主義への拝跪(3)

自由と平等

普通いわれる平等は、働くときに差別がないことがまず第1。これは自由といっても同じです。人間の形式的な社会的行為能力、つまるところは私有物を売買する資格は、生まれや土地に縛られないってことです。これは、労働する諸個人が生産手段・生活手段から遊離してしまい、労働能力を売らないと生存できない、ということをベースにしてなりたつ形式上の平等です。

次にやはりよくいわれる平等は、機会や結果なんですけど、どっちにしても生産物の分配にかんするもの。実質的な平等の主張です。これは、労働者と使用者との対立点をなすとともに、労働力の保全と再生産を確保するという共同的利害でもありますから、共同的装置による修正を招きます。労働の成果の再分配、分配の修正なしに資本主義は維持できません。

「格差社会」論に潜む肯定的契機

山口・宮本の論文でも、この分配変更について、「政策とは分配の変更をもたらすもの」であり、「労働分野の規制緩和を進めて低賃金労働を可能にすることは、労働者から企業への富の再分配をもたらす。・・・[中略]・・・いわば、強者に対する再分配は改革と賞賛されてきた](41頁)と述べています。たしかにそうです。労働法制の規制緩和は分配の変更ですから、労働者が闘うのも当然です。改革の実態が弱者から強者への分配の変更であったことはあきらか。

新自由主義に対する社会民主主義の定着、政治的態度の対立の軸を二大政党という形で鮮明にすることに期待している山口・宮本からは以下離れることにしますが、労働の低コスト化はもちろん、労働者の協働の成果がますます企業なるものに移転して現れることを意味します。

自由のための改革という美しい文句は、資本の自由のために労働者の自由を抑圧することにほかならない。これは労働者大衆が実際的にすでに知っていることです。「格差社会」論が労働環境の悪化に対する批判であるかぎり、それは、このような労働者の批判の意識を反映しているといえます。

さらにいえば、「格差」を問題視する意識には、他者の幸福こそが自分の幸福の条件である、という人間の社会的存在様式がその根底にあるはずです。

また、この問題視を支えているのは、あたかも自然災害のように個人に襲いかかる社会の動向の犠牲になった人々に対して、全体の力に翻弄されて意図せざる貧困に落ちてしまった人々に対して、救いの手をさしのべることがまさしく共同社会の任務である、とする共同性の自覚でしょう。

共同社会が再分配のしくみを整えていくことは、資本主義が延命するために資本主義自身が取りこんでいく環境です。資本は共同体を同化し、かつ共同体によって規制される。社会保障政策のような再分配のしくみは、孤立しあって疎外された労働する大衆諸個人を、この孤立の枠内で(=資本主義のなかで)、乗り越えようとする試みであり、貫徹できない試みにほかなりません。資本の内側にある労働のその外側で労働者を福祉国家の国民として共同化するという資本主義の運動形態は、自己を分解するのだけれどもそれによってなんとか自己を維持するという、資本が資本から遊離する自己解体的な振舞です。(続く)
by kamiyam_y | 2008-02-19 08:44 | 資本主義System(資本論) | Trackback | Comments(0)

「格差」という言葉に潜む競争主義・成長主義への拝跪(2)

新聞雑誌から。高山佳奈子京大教授の「世界の潮-危険運転致死傷罪の死角」(『世界』3月)は、法律の厳格な適用が裁判の絶対的な基本であるという法治国家の柱をあらためて確認しています。罪刑法定主義は近代の基本ルールの1つであり、裁判権力の匙加減が法律を越えてしまう事態はいかなる理由であれ当然容認されえない。

道新2月17日6面「くらし」の「労働者に適正配分を」。「富が企業に偏在している」様子を家計貯蓄の減少と配当金・内部留保・役員賞与の増大によって示すグラフがみやすい。大企業の業績好転として現れた資本蓄積は賃銀抑制の賜だったのでした。

『週刊東洋経済』2/16号。特集「雇用漂流」は非正規雇用の問題や「偽装」をとりあげています。とくに「労働現場にはびこる『三つの偽装』の実態」という記事は、偽装管理職・偽装雇用・偽装請負という偽装のひどさをレポート。偽装管理職について「管理職かどうかよりもまず問題とすべきは、本来最低基準である1日8時間、週40時間という労働基準法の規定を大きく越える長時間労働が蔓延している現実ではないだろうか」と締め括っているのは、まさにそのとおり。「時間」問題において資本の運動が人間の自由な生活と衝突するものとして現れます。

資本の理論的把握が「時間」問題を積極的に取りあげるのも、資本の限界を労働時間をめぐる闘いが示すからです。理論は現実による現実の批判であり、現実の実践的問題群に対する自覚的振舞を助長する。「格差社会」論は、この「時間」問題に代表される現代の労働問題に対する関心の高まりとして重要ですね。

同号では短い記事ですが、「中国産は意外に危なくない 毒ギョーザ騒動と危険妄想のウソ」がふつうに冷静。輸入食品の検疫違反率などから、中国産が他国より格段に危険だとする証拠がないことを伝えており、煽る報道が氾濫するなかで有意義な素材を提供しています。


「格差」という言葉に潜む競争主義・成長主義への拝跪(2)

新自由主義的「改革」と社会民主主義

『世界』3月号に掲載された山口次郎・宮本太郎による世論調査分析「日本人はどのような社会経済システムを望んでいるのか」を参考資料としてまず紹介してみます。

この調査によると、「小泉、安倍政権が進めた改革の結果、日本の社会はどうなったと思うか(%)」という質問では、「貧富の差や都市と地方の格差が広がった」とするのが、自民党支持層では58.9%、民主党では70.1%(43頁)。当然民主党支持者の方がポイントは高いんですが、それでも、自民党支持層でも6割がそう考えているのは興味深い。

「改善すべき日本型制度(%)」という質問では、「競争原理を導入し、平等の行き過ぎを見直すこと」という項目に自民党支持層が16.8%、民主党支持層が6.4%賛同。「公的な社会保障を強化すること」は自民党支持層が28.4%、民主党支持層が37.5%。自民党支持者のなかでもいわゆる「競争原理」よりも「社会保障」を重視する人が多いのですね。「官僚の力を弱めること」は、「小さな政府」論の自己陶酔的論調にもみられるのですが、民主党支持層者の方がポイントが高い。政府の仕事と官僚支配とを切り離して考えることができているようです。

山口・宮本は、「都市のサラリーマン」が「競争・効率重視で『小さな政府』を志向するという構図はもやは当てはまらなくなっている」と分析(47-48頁)しており、この間の短期的な雰囲気の読みとしてはまあありうるかなとも思えます。

ところで質問の選択肢にある「平等の行き過ぎ」ってなんでしょうね。本来差別がないと人間は怠けるから差別の鞭が必要だ、政府が弱者を保護するから怠け者が増えた、って性悪説からする見え方でしょうか。本来平等にできないのに無理して平等にしようとすると官僚が権力を握って不平等がひろがる、というひねくれた思想もありましょう。が、この本来平等にできないという見方は、それを逆手にとれば、平等が行き過ぎることが問題なのではなく、タテマエとして掲げながらも実態は不可能だということが問題なのだ、ってぐあいに逆転することもできます。

平等はありえないと主張するのが筋の通った市場主義だとしたら、それは理念的自由平等が現実にはないと断定するに等しくなってしまうため、実際の市場主義は福祉国家との折衷論以外ありえず、平等を配慮しないと正統性を得られません。ここから、機会の平等は国が進めるが結果の平等は個人の責任だというように折衷論もでてくると考えられます。しかし、あらゆる偶然が機会を構成するのであり、結果なるものがまた機会を準備するのですから、機会の平等は保証しますが、結果は保証しません、という分け方はできないというべきですわ。機会の修正のためにはそもそも分配の修正が不可欠なのです。

市場主義批判的平等主義も省略しますが同様にひっくりかえるでしょう。

要するに、平等の基準は何か、何をもって平等とするのか限定しないとほとんど無意味な議論になります。(続く)
by kamiyam_y | 2008-02-17 21:32 | 資本主義System(資本論) | Trackback | Comments(0)

旭川(冬祭)など(2)


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牛朱別川
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牛種別川が石狩川に合流してすぐのところに架かる旭橋
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Ricoh GR Digital
by kamiyam_y | 2008-02-14 08:58 | Trackback | Comments(2)

「格差」という言葉に潜む競争主義・成長主義への拝跪(1)

数日前に腸の具合が変になりました。キシリトールとってないのになぜ、とおもって、原因とかんがえられるものをあげてみたところ、酒からくるアセトアルデヒドなども候補にあがったのですが、おそらくは、サプリメントが原因だろうと。

サプリメントの袋の注意書きにはよくみると胃腸関連の副作用みたいなもんが書いてあります。

サプリじゃなくて野菜なり肉なりとった方が文化的であるだけでなく合理的なのか、やっぱり。栄養素を一部分だけ抽象することが効率よいようにおもっても、やっぱり野菜や肉の筋みたいな嵩(かさ)・ボリュームというか全体が大事なんですね。有機性が合目的的なのでした。無駄におもえるものにこそ存在意義があるのでした。


格差」という言葉に潜む競争主義・成長主義への拝跪(1)

「格差社会」という観念の定着

「自分さえよければいいという人が格差社会をつくっている」

テレビドラマ「特命係長只野仁」で主人公が最後にこんな独白をしてました。

「格差社会」という言葉が流行っているのも、いろいろ理由はありましょうが、この言葉でああそうそう、と納得するできるようないろんな要素が現実にあるからなのでしょう。

「格差社会」批判の盛りあがりには、企業に対する規制緩和、民営化を旗印にする新自由主義路線、もっと短期的には小泉「構造改革」路線に対するわかりやすい反対とか、「構造改革」路線のマイナスの修正とか、以前のスローガンに対する反動という面がありますよね。

生活と福祉の防衛を掲げる野党にとって、与党の「改革」路線を批判する象徴的なキーワードとして、この言葉が働いたのもたしかです。与党がこの批判を取り込むのも、「構造改革」なるものが完結不可能な、社会システムを形成することができない偽の原理だということを証明してます。

よりひろくかんがえると、「格差社会」批判には、拝金主義・利己主義、人間の分断といった現代の負の側面を超えようとする意識が表現されているともいってよい。新自由主義という「市場原理主義に対する批判、労働者の酷使や長時間労働に対する批判が、「格差社会」論議の言葉のなかには現れている。こんなふうにおもうわけです。

格差社会は国会で議論されるテーマにもなったほど。政治が「格差」論議を主題にせざるをえないという事実が、人権と共同体(国家)のそれなりの成熟を語っています。生存権のような人権の発展と、人権をもつ個人からなる共同体のそれなりの深化をみとめていいようにおもえます。

告知

明日11日に北大北大学術交流会館で「北海道の労働と福祉を考える会」主催「格差社会とホームレス―北海道の現状とその行方」というシンポがあります。関心のおありの方は足を運んでみてください。

講演する岩田正美氏は「格差」でなく「貧困」こそが問題と主張しています。

「格差」の機能

ちゃんと読んでないので、不正確かもしれませんが、「格差」が単にあるものにすぎないのに対して、「貧困」はあってはならないという価値判断を含む概念だ、と述べているみたいです。

「格差」が問題なのではない、という論点はおもしろい。「格差」という言葉と「貧困」という言葉にこういう区分をするのはどうなのかな、とも思いますけど。

以下では、氏の主張とは全く関係なく、「格差」を問題として、すこしばかり綴ってみます。「格差」という言葉のイデオロギー性を考えてみようかと。いいかえると、「格差」という言葉は、ある対象のたしかに批判なのですが、この批判対象にとらわれた批判であり、あくまでも中途半端で通過点にすぎないもの、もっといえばこの言葉は、本来批判すべき対象をじつはみえなくしてしまうのではないか、ということです。
by kamiyam_y | 2008-02-10 21:06 | 資本主義System(資本論) | Trackback | Comments(0)

日本産

研究会の慰労で夜、中華料理店に入りました。「冷凍食品はいいよ」とだれかが冗談で言うと、中国の娘さんがにこやかに

「材料、ぜんぶ日本産」

と笑ってました。国際交流は心に余裕が必要ですね。

こころなしか客が少なく思えました。というか、いませんでした、われわれ以外。

日本の資本であろうと中華料理店であろうと、中国からの輸入なしには成り立ちませんし、日本の人民の生活は中国の生産物なしにありえません。低コストによる利潤増をはかって資本は日本から中国に多くの生産点を移してきたのです。雪祭りの中華料理出店の売り上げが伸びないって北海道新聞で知りましたけど、それほどの用心深さってちょっとどうなんでしょうか。

日本の共同体(国)は、検査等の共同体成員のための防御策を工夫するべきでしょうが、私たちはそこにとどまってはいられません。中国の生産管理の未熟さ一般についていいますと、これが、日本の大衆にとっても、中国の大衆にとっても制限であることをみぬかねばならないでしょう。

潜在的には国境を越えた有機的な生産体系がすでに出現しつつあるわけです。が、直接的には、私有に分断された非公開な生産であり、この排他的な生産がおこす対立が、野蛮な資本蓄積まっただなかの中国で、野蛮なしかたであらわれている。一般的にいえば、生産物という結果の検査だけでなく生産過程そのもののいっそうの公開が解決方向として求められおり、これはいうまでもなく、国境を越えて大衆の利益です。

一つの国家領域のなかに途上国と先進富裕国との格差が発生しているのが中国です。グローバルな対立が一国内に発生しているのが中国という後発資本主義です。周辺的な地域において資本の無秩序ぶりはあらわであって、それは先進資本の矛盾を拡大した姿にほかならない。

問題は資本のグローバルな連関において起きています。生産者による偽装は生産者による労働搾取と一体です。

いってみれば、超格差社会中国の野蛮な労働者搾取を放置してきたのは、中国と日本の国家企業という形をとった資本であって、それに加えて悲しいことにも協同組合の形をとった資本だったというわけで。協同の理念を掲げながらも、人間に無関心な資本のふるまいに批判的であることができていない。

資本の成長第一主義的な、物神崇拝的なふるまいを突破すること。現実が求めているのはまさに、貨幣(資本・物象)のグローバルな連関を規制する労働者の国際主義ではないでしょうか。資本の世界的な連関を制御する諸個人の連帯こそが問題のリアルな解決として求められているのではないでしょうか。

不満分子の仕業として誰かが、国家による効率的処刑の生け贄となって、速攻処刑されて幕引きにされてしまうのかもしれないと思うと、暗澹とした気分になります。いやですね。
by kamiyam_y | 2008-02-08 13:51 | 消費者の権利と社会的労働