さっぽろ地下鉄のなかでマルクスを呼吸する、世界を呼吸する

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うんどう【運動】

私は歩くのが好きです。メタボ業界に対抗したい気持ちもあってということではないのですけど。

メタボ予防が体を適度に動かすことだとすれば、これだけで解決してしまうのなら、メタボビジネスには利潤源泉がなくなりますから、これははじめから限界を設けられている予防法です。メタボは解決しなければならずこのビジネスが求められるが、このビジネスにとってはメタボは解決してはならない利潤源泉でもあります。解決しなければならず解決してはならない。

ここで現れるのが、労働において労働の産物や労働の時間が人を支配する、世界の分裂した運動のありようです。散歩に限界を劃するのが、資本という生産様式なのです。メタボがもっとも心配されるような年代の人こそが会社に拘束されているのですから。健康も環境も根は同じです。

生産様式のありかたをに抜きにした狭い視点には限界があります。ここでは生産様式も運動するという点について着目してみましょう。人は体操して身体の運動をするだけではなく、その労働行為の集合によって、生産様式を運動させ、それによって社会を運動させ、それに規制されて、自分たちの個性を運動させる。人は散歩し、生産様式も運動する。

生産様式というとややこしくなりますから、言葉を換えて、資本主義にすると、運動するのは当たり前、ってかんじがしますよね。

社会を編成する資本でもかまいません。資本は形を変えて、手段を自らの過程によってもたらしている価値の運動体です。

資本が編成する社会でもいいです。資本の再生産運動が、社会を、運動して自己再生産するものにしているからです。資本の社会にしているのだからです。資本が編成する社会は、その全体の再生産の条件をその活動自体がもたらしている社会、生産有機体として生きたまとまりをもって自己再生産している社会です。労働する個人が労働という運動をし、資本が運動し、社会が運動する。運動はつらぬく過程であり、みえない連関をなす。

散歩だってじつはみえない。人が体を動かすことは、それ自体は、物理的に落下法則に従うとか、化学反応が起きているとかいった人間以前の自然の段階そのものですが、私たちは、意志に反して物体として体が落下することを体操するとはいいません。強制労働で歩くのも、浮き浮き散歩するのも、物理法則の展開としては変わりありません。歩くのも、個別的なありかたは自然法則でありながら、それをつらぬく目的の螺旋運動がなりたっています。

会社の命令で笑顔で歩かされるのも、組合の行事で歩くのも、猿から見たら区別ありません。社会関係は超感覚的です。

体操という意味での運動も、自然である人間自身とその環境に対して、人間がみずからを二重化して制御すること、対象に対してふるまうこと、自覚してふるまうことです。

自然の運動すらも、直接感覚に与えられるものではなく、人間の知識というみえない普遍的なものでしょう。物理法則は感覚的存在ではなく、科学としてなりたつ対象の普遍的な、みえない秩序です。

運動といえば、芸術の運動もあります。運動家という言葉を思い浮かべる人もいるでしょう。アウトノミアとかやら、労働者階級の解法戦略、政治家に働きかけて社会変革を志すこと、批判的な知識をひろめていくことも運動です。この場合も、運動は目的によって直接的現実を変化させようとする営みです。労働ですね。


資本主義社会の矛盾に満ちた運動は、実際的なブルジョアには、近代産業が通過する周期的局面のなかで最も痛切に感ぜられるのであって、この局面転換の頂点こそが、一般的恐慌なのである。(マルクス『資本論』第2版後書、大月書店全集版、S.28.)


運動によって、しかも矛盾というエネルギーによって形あるものとなり、形をつくられているのが資本主義という自己再生産する社会。運動によってのみ、資本主義はいっとき存在しているものとして形をもってとどまりうる。

激しく運動するからそこにある。この運動は不安定ゆえ、より安定した形を求めています。この安定した形(1つの人類社会)へと形を変えてしまうまで、この激しい運動に人は気づかない、というものではありません。資本主義は私たち自身がつくりだしているものだからです。

人間と自然との安定した運動形態を創出したときが資本主義の消滅でしょうが、それは、自覚性のモメントをその媒介要因として資本主義自体が生み出すことを前提しています。


……これ〔価値形態-引用者〕よりずっと内容の豊富な複雑な諸形態の分析に、少なくともだいたいのところまでは、成功したのである。なぜだろうか?成育した身体は身体細胞より研究しやすいからである。そのうえ、経済的諸形態の分析では、顕微鏡も化学試験も役にはたたない。抽象力がこの代わりをしなければならない。ところが、ブルジョア社会にとっては、労働生産物の商品形態または商品の価値形態が経済的細胞形態なのである。教養のないものには、この形態の分析は、ただあれこれと細事の詮索をやっているだけのように見える。(同上、S.12.)


身体細胞という基礎の分析を終えていなくても、眼前にあらわれた、できあがった成育した身体は研究できる。

だからといって、細胞は非現実だということにはなりませんよね。

基礎的なもの、単純なものほど把握が困難なので、「教養のないものには」基礎づけの議論は机上の空論にみえるということです。

個人の体操はリアルだが社会の運動は非現実だ、ということもありません。眼前にいる道ゆく人も、ビルの上からみおろした街も、どちらも現実です。全体が非現実ということはありません。もちろん生きた個人を抜きにして、かれら諸個人の媒介である生きた社会が再生産されることもありえませんけど。

運動する全体を大づかみにした輪郭の描写が、細かい描写よりも非現実的だなどと考える人がいるとすれば、愚かしいことでしょう。

身体は現実的だが、細胞の運動は非現実だと主張する人はいません。商品の生産関係も、生産関係の物象化でありそれ自体リアルな関係です。基礎の分析は仮説にすぎないという見方もありますが、そうはちょっとどうかと。
by kamiyam_y | 2007-12-30 23:58 | 労働論(メタ資本論) | Trackback | Comments(2)

当選商法

先週のUSENに対する総務省の行政指導の内容は、「加入金免除行為」「違約金徴収行為」「視聴料割引行為」をやめろということでした。

総務省(報道資料)電気通信役務利用放送の業務の改善について(警告)

USENに警告 無料なのに「加入金ゼロ当選」 総務省(朝日新聞) - goo ニュース
http://news.goo.ne.jp/article/asahi/nation/K2007122102180.html?C=S

学生からは自分も引っかかった、引っかかりそうだったという声が数件私のもとにも寄せられました。引っかからなかった学生は、ネットで調べて、確認の電話が来たときに断ったそうです。たしかに検索してみると、2005年時点でまとめサイトもつくられているほどです。 【当選商法】サウンドプラネット(SOUND PLANET) - 箱の中身は全部2等!?
by kamiyam_y | 2007-12-26 22:23 | Trackback | Comments(0)

不信にもとづく信としての国家

警視が霊感商法で荒稼ぎとは。

警視自宅やサロンなど捜索 霊感商法、被害百億円か  | エキサイトニュース
<霊感商法>神奈川県警視、部下ら勧誘認める 女社長と同居 | エキサイトニュース

なぜこうもいかがわしい商法が絶えないんでしょうかね。テレビの影響もあるかもしれません。資本主義という生産のありかたでは、当然だます土壌もだまされる土壌もあります。

カネを儲けるということのなかに含まれる人間への不信を拡大すれば、だまして儲けることですし、資本の側に人間の集合力が従属することからすれば、金をもつ側がいわば知識をも代表し、もたない側はバラバラの個人として、折伏の対象となりましょう。

現実に人間が不自由かつ不平等である以上、国家という形での空想のなかでの自由平等は現実を隠す働きをします。

おなじように、現実に人間が不幸である以上、空想を信じるという形で空想のなかでの幸福を求めようとする人間のふるまいも絶えることはないでしょう。

生命とは、環境の物質の連鎖反応が循環しつづけることであり、物質の発散と収束のなかで自律的に目的となっている存在ですが、人はこの循環を物質から切り離してそれ自体モノとして表象し、霊などとして崇めます。人間はオカルトにおいて自分の生命性を崇拝してます。

現実から反転した不合理な世界を信じこむことによって、心の中にしかないような幸せをつかもうとする庶民のふるまいは、現実の不幸を埋め合わせるだけではなく、それ自体不幸な疎外状況でしょう。

だます・だまされる土壌があるとともに、それを超える社会的な協同の智恵もやっぱり発展しています。「霊感商法」として「詐欺」として国家による取締の対象になるんですから。

それにしても神奈川県警がニュースに出ると「またか」と思ってしまいますよね。


もう1つ。年金です。

まさに国家による二次的収奪以外のなにものでもないのではないか、「消えた年金」は、と思います。

衆議院厚生労働委員会が「旧台帳」を補完する倉庫に視察に行った模様を保坂展人が伝えています(どこどこ日記)。

今朝、「旧台帳」年金倉庫の扉が開いた
旧台帳・倉庫は長い間、年金記録の「墓場」だったのか?

大衆から巻き上げるときは巻き上げておいて、何も言ってこない爺さん婆さんには払わないままでおこう、とする国家の姿勢を感じますねえ。まさに搾取の派生的形態です。


国家は幻想の協同社会であり、かつ社会的な規制を行う共同の機関であり、搾取者でもあるというわけです。
by kamiyam_y | 2007-12-23 22:51 | Trackback | Comments(0)

愛と貨幣

インフルエンザのワクチンって打った方がいいんですかね。人と接する仕事だし、これから入試で繁忙期だから打てという説があるのですよ。

繁忙期といえば今月は飲み会の繁忙期です。昨日、一昨日のほかにも、飲み会が入っていたほか、一人で「串鳥」で食事してたら、大先輩の教授と会ったりして、飲み会続きみたいでした。

最終学年の学生の飲み会なんかですと、大学生のあいだ毎週顔を合わせていた連中が、のこりわずかの学生生活を惜しんで飲むのでなんかせつない雰囲気だったりもします。

その飲み会で何の話をしていたのか忘れましたけど、店員に対して不当に威張っている客は嫌いだ、と私が言ったら、ちょっと盛りあがりました。バイトをしていると、ヘンな客がほんとに多い、自分も客の立場の時ほどていねいに接する、と。

そういう印象の客観的裏付けはおくとして、お金を払う側は何を言ってもいいのだとカンチガイしている人をみると、資本主義という人間の孤立においてだれもがもっている卑しさがそこに拡大されているのをみてしまい、とても恥ずかしい気持ちになります。

あなたの性格が好きだから、私はあなたに自分のつくった物をあげるの。

という愛情の関係性ではなく、ここでは、あなたのもっている貨幣が私の未来の欲望をかなえる手だてだから、私はあなたを喜ばせ、貨幣を手にする、という交換の関係性。売買は、相手の個性の承認が本筋なのではなく、人がお金にひれふしているのが実態なんだから、そんな偉そうにするなっていうの。買うときは常に申し訳なくしなさい、とまでは言わないですけど。

売買においては、物々交換のような相互性は崩れていて、売る方が大変。買う方は何でも交換できる商品である貨幣をもってますから、それを特殊な商品に換えるだけで、チョイスするだけ。売る方は特殊な欲望を探し、開拓する修行が待っている。W-G(商品→貨幣)は、命がけの飛躍というやつです。

ここで、売るための商品は、売る人にとっては、手段にすぎず、売る人は、商品のなかの貨幣がじっさいの貨幣に変わるための手段にすぎない。関係性は愛情ではなく、掠奪です。貨幣において、人々のつながり(社会)が外部の手段になってしまっていますから、人々はバラバラにされている。売買という結合は、相互の孤独を生みだす。売買は相互の掠奪を秘めている。

売る人にとって、買う人は、売る人の未来の欲望をかなえさせてくれるであろう貨幣が人間の顔をしてそこにあらわれたにすぎない。買う人にとっても売る人の人格や個性を承認するのではなく、物さえ手に入ればいい。

買う人と売る人とのあいだに一時の信頼や愛情が芽生えることもあります。といってもそれは偶然です。本筋は相互に利己的です。人間的関係が偶然であり、非人間的関係が本質です。

売る人が買う人に対してご機嫌を取るのは、買う人が貨幣をもっているから。貨幣は商品の社会的な絆であり、どんな個性の持ち主、どんな社会的立場の人にも平等に社会的な威力をそのサイフのなかにもたせる。良くも悪くも人に力を与える。買う人の卑しさも貨幣においては買う人の立派さに転換する。

註 売買のこういう本質は、『経済学哲学草稿』や『資本論』の「貨幣」にかんする記述など、参照。

たれもがこういう関係性にあるのであり、お金を払う側はどんなことをしてもいいと思うのは、こういう関係性の野蛮でストレートな現象でしょう。商品関係による社会的生産の拡大がもたらす摩擦の一種として、肯定的なものの産出過程に付随するつまらん現象ともいえるかもしれません。

まあ、こういういやな客が増えるほど、いい客を心がける人のポイントが上がり、きっといいこともあるので、いやな客にはもっと増長してほしい。なんて思うのも、買う側の騙しあい、自分だけ得すればいいという競争に私の心が浸食されてるのかな(笑)。

註 売買における競争には、売る側の騙しあいと団結、売る側と買う側との闘争、買う者のあいだの競争がある。
by kamiyam_y | 2007-12-09 23:58 | 資本主義System(資本論) | Trackback | Comments(0)

自由のための不自由

トヨタの利潤率が高いことになんの疑問も抱かず喜ぶばかりでは、人権も民主主義も発展しない。

Google 検索:

asahi.comhttp://www.asahi.com/national/update/1201/NGY200711300006.html

トヨタ元社員は「過労死」、遺族側勝訴 名古屋地裁 - 社会

トヨタ自動車の堤工場(愛知県豊田市)に勤めていた内野健一さん(当時30)が02年に急死したのは過重な労働が原因で、労災を認めず、療養補償給付金、遺族補償年金などを不支給とした処分は違法だとして、妻の博子さん(37)=同県安城市=が、豊田労働基準監督署長を相手取り、処分取り消しを求めた訴訟の判決が30日、名古屋地裁であった。多見谷寿郎裁判長は、死亡は業務に起因すると認め、不支給処分を取り消した。(以下略)


労基署が訴えられてたんですね。まさか豊田では労基署も自動車メーカーの味方ということはないでしょうけど、労基署が労働者を守ってくれなかったら、司法しかない。

裁判長は、「倒れる直前1カ月の時間外労働時間は106時間45分と認定」したのことで、過労死ラインをゆうに超えてます。

過労死の労災補償の請求件数も支給決定件数も増大しているのに、労働契約法って厚労省矛盾してますね。

厚生労働省:脳・心臓疾患及び精神障害等に係る労災補償状況(平成18年度)について

労災とは労働に原因があって怪我したり病気になることです。労働は、労働力を買った人間による労働力の消費として資本主義では実現します。労働力を使用する側に責任があるわけです。労働者の自由を実質的に支えるためには、企業の自由に縛りをかけねばなりません。会社の都合で就業規則によって一方的に不利益変更をするのは、この点からすれば人間の自由の条件を浸食するものといえます。

補足:トヨタが自らの企業の社会的責任を主張するなら、消費税を上げるよりもトヨタの蓄積を社会の蓄積とすればよい。私的人格となった個別資本を納税者にするのも変な部分があるんですけどね。
by kamiyam_y | 2007-12-03 00:16 | 企業の力と労働する諸個人 | Trackback | Comments(4)

2つの私有と全地球の搾取

労働者を搾りながら、労働の対象・手段と労働自身を社会化するのが資本主義。日々搾乳です。

労働契約法が成立、労働条件切り下げ促進法 (全国国公私立大学の事件情報)

第九条 使用者は、労働者と合意することなく、就業規則を変更することにより、労働者の不利益に労働契約の内容である労働条件を変更することはできない。


労働がその社会的性格を、公共的なものとして承認されています。労働者との合意なしには、生産手段の私的所有者といえども、企業内の私的立法をもって「労働条件」を勝手に変えてはならない、というほどには。企業内が公共的です。

ただし、次条の場合は、この限りでない。
第十条 使用者が就業規則の変更により労働条件を変更する場合において、変更後の就業規則を労働者に周知させ、かつ、就業規則の変更が、労働者の受ける不利益の程度、労働条件の変更の必要性、変更後の就業規則の内容の相当性、労働組合等との交渉の状況その他の就業規則の変更に係る事情に照らして合理的なものであるときは、労働契約の内容である労働条件は、当該変更後の就業規則に定めるところによるものとする。ただし、労働契約において、労働者及び使用者が就業規則の変更によっては変更されない労働条件として合意していた部分については、第十二条に該当する場合を除き、この限りでない。


「労働契約の内容である労働条件」とは、労働力の使用条件でもあります。

労働力の使用条件は、労働力の売手である労働者の意思によらず、その買手の意思によって変更してよい。組織のルールという労働者の統一性は、議会制民主主義も要らずに「就業規則」を執行する私的専制権力に委ねる。

労働力も、原材料や機械と同じく、買ってきた物だから、それを捨てたり、買い直したりするのは、買ってきた商売人の都合による。

グローバル化に伴うこうした開き直りは、人をますますみすぼらしくするけれども、しかし、労働条件切り下げ競争として、システムの本質を労働者に示し続けます。社会的労働過程は労働者のものではなくて一体だれのものなのだ?と。

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『資本論』第1部の最終章は「近代植民理論」。まとめにふさわしく、マルクスの皮肉や罵倒が一段と生き生きしてます。そんなことないか。

 経済学は二つの非常に違う種類の私有を原理的に混同している。その一方は生産者自身の労働にもとづくものであり、他方は他人の労働の搾取にもとづくものである。後者は単に前者の正反対であるだけではなく、ただ前者の墳墓の上でのみ成長するものだということを、経済学は忘れているのである。(『資本論』マル・エン全集23a、S.792.)


生産者自身の労働にもとづく私有、とは商品生産において、資本主義において、前提となっている法的自由の基盤です。資本主義システムといっても、搾取による私有ですよ、という合意などありえないわけです。

しかしこの自由は封建制からの、国家権力からの解放にすぎず、封建的社会的生産の解体のうえにあるものでしかなく、個人の点的存在の承認形態です。点的存在が社会的存在になるためには、この承認形態をくつがえしていくような搾取にもとづく社会的生産の発展が必要。

ですから、自由な私有を前提しているのにもかかわらず、搾取による私有が必要なのだと資本主義システム自身が告白せざるをえない。この告白はいろいろな形でなされますけど、ここでは「植民理論」です。

生産者自身の労働にもとづく自由な私的所有を否定しなければならない、という資本の要請が植民地ではあからさまに語られる。この事態をマルクスは取りあげています。

生産者自身の労働にもとづく私有を解体し、その解体のあとに、資本主義的私有は成長します。生産手段からの人民の分離が資本主義システムの基礎です。しかし資本主義は自由な私的所有というフィクションを必要としますから、資本主義は即座に矛盾した運動であるほかありません。

 すでに見たように、民衆からの土地の収奪は資本主義的生産様式の基礎をなしている。これとは反対に、自由な植民地の本質は、広大な土地がまだ民衆の所有であり、したがって移住者はだれでもその一部分を自分の私有地にし個人的生産手段にすることができ、しかもそうすることによってあとからくる移住者が同じようにすることを妨げないという点にある。(S.795-796.)


イギリスにおいて資本主義が発展するには、農民を土地から追い出す「土地囲いこみ」が必要でした。植民地ではだれもが土地を自分のものにして自分の生産手段にすることができます。せっかく資本主義を輸出しようとしているのに、植民地では資本主義が否定してきた個人による生産手段の私有へと、いってみれば歴史が逆に回ってしまいます。

「奴隷を別とすれば、また大きな事業のために資本と労働とを結合する奴隷使用者を別とすれば、アメリカの人口のどの部分も農業を専業としてはいない。自分で土地を耕している自由なアメリカ人は、それと同時に他の多くの仕事をも営んでいる。彼らが使用する家具や道具の一部分は通常は彼ら自身の手でつくられる。彼らは自分の住む家を自分で建てることも多く、また自分の工業の生産物をどんなに遠い市場にでも運んで行く。彼らは紡ぎ手でもあり織り手でもあり、自家用の石鹸やろうそく、靴や衣服も自分でつくる。アメリカでは耕作が鍛冶屋や粉屋や小売商人の副業になっていることも多い。」(S.796.ウェークフィールドからの引用部分)


すごいな。土地をもっていて、耕作して、家具も道具も石鹸もロウソクも、服も自分でつくる。家族のなかに社会的分業がコンパクトに入っているみたいです。

これは、自分の意志ですべて制御して生産することですから、じつに愉快で自由。

しかし、病気になっても現代的な組織医療を受けることはなく、テレビもなく、パソコンもない。生産物の種類は個人の身の丈を超えません。これに対して資本主義的生産では、個人はわずかのパートを受け持つだけだが、多くの個人が多くの生産をして結びあっているので、生産物の種類は無数です。

自由だけど孤立した状態。これは、不自由だけど社会的生産である生産が発展することによって駆逐されます。

 ・・・・・・植民地ではどこでも資本主義的支配体制は、自分の労働条件の所有者として自分の労働によって資本家を富ませるのではなく自分自身を富ませる生産者という障害にぶつかる。植民地ではこの二つの正反対の経済制度の矛盾が、両者の闘争のなかで実際に現われている。資本家の背後に本国の権力があるところでは、資本家は、自分の労働にもとづく生産・取得様式を暴力によって一掃しようとする。資本の追従者である経済学者に、本国では資本主義的生産様式を理論的にそれ白身の反対物として説明する任務を負わせる利害関係、その同じ利害関係が、植民地では彼をそそのかして「事情を打ち明け」・・・・・・させ、二つの生産様式の対立を声高く宣言させるのである。この目的のために、彼は、労働の社会的生産力の発展や協業や分業や機械の大規模応用などは労働者たちの収奪とそれに対応する彼らの生産手段の資本への転化なしには不可能だということを指摘する。いわゆる国富のために、彼は人民の貧困をつくりだす人工的手段を探求する。彼の弁護論的甲冑は、植民地ではぼろぼろになった火口のように次々にこわれてゆくのである。(S.792-793.)


発展した資本主義社会では、「だれもがたくさん働いて努力すれば自分で生産手段やら財産をもてるようになる」なんていう資本主義以前的夢想が弁護論として持ちだされます。ところが、じっさいに賃労働者がつぎつぎと賃労働者を卒業して自由な土地所有者になっていく未発展の植民地では、全く逆。ここでは同じ弁護論者が、賃労働者を自由な所有者にしないために、労働者をむりやり機械装置の付属品にしておくために、土地価格の人為的吊り上げといった方法で人民を貧しくすることが重要だと主張していて、語るに落ちたとはこのことだ、ってわけです。

以上みた『資本論』第一部の最終章を、『フランスにおける内乱』につなげてみます。この著作は哲学者・理論家マルクスというよりは、ノンフィクション作家マルクス、運動家マルクスの書いた一種文学的な作品ですけどね。労働者が蜂起して労働者のコミューン(協同社会)をつくった革命であるパリ・コミューンを描いたものです。

・・・・・・コミューンは、多数の人間の労働を少数の人間の富と化する、あの階級的所有を廃止しようとした。それは収奪者の収奪を目標とした。それは、現在おもに労働を奴隷化し搾取する手段となっている生産手段、すなわち土地と資本を、自由な協同労働の純然たる道具に変えることによって、個人的所有を事実にしようと望んだ。

労働者階級はコミューンに奇跡を期待しなかった。彼らは、人民の命令によって・・・・・・ 実施すべき、できあいのユートピアをなにももっていない。自分自身の解放をなしとげ、それとともに、現在の社会がそれ自身の経済的作因によって不可抗的に目ざしている、あのより高度な形態をつくりだすためには、労働者階級は長期の闘争を経過し、環境と人間とをつくりかえる一連の歴史的過程を経過しなければならないことを、彼らは知っている。彼らは、実現すべき理想をなにももっていない。彼らのなすべきことは、崩壊しつつある古いブルジョア社会そのものの胎内にはらまれている新しい社会の諸要素を解放することである。(マルクス『フランスにおける内乱』マル・エン全集17、S.342-343.)


コミューンは敗北しますが、ここに人類の未来を先取りして瞬間的にあらわれたものは、資本の止揚の試みであり、《個人的所有の再建》の自覚的な実現の試みです。この歴史の一時点の小さな場所に輝いたものは、労働する諸個人による社会的生産の奪還の試みです。

社会的生産手段なのに搾取の手段となっている資本を止揚し、《自由な協同労働》に転換すること。搾取は労働の搾取であり、労働とは対象の変革ですから、搾取は対象の搾取であり、対象は地球です。全地球の搾取が資本主義を特徴づける人間の自己疎外のありようです。地球の搾取にまでなった社会的生産は、自由だけど孤立した状態を否定してあらわれています。この自由を、搾取による社会的生産の成果をふまえたものに転換して復権すること。

この現実による現実自身の変革要求は、資本の解体運動の行き着く果てに産み落とされる新社会の必然として、現在の資本の解体的運動が指示しています。歴史のなかで生じた闘いは不可避だが、「労働者階級は奇跡を期待しなかった」。

「経過」すべき「一連の歴史的過程」である資本主義の時代はその存在理由をもっています。諸要素を解体することによってのみ新たな諸要素をつくりだし、それをまた解体し、諸要素をつくりだす資本主義の解体性。これこそが自由な人間社会を産み出す諸条件をつくりだす。「できあいのユートピア」が資本主義のあとにくる時代なのではない。この点の理解は、マルクス理解の基本線であるとおもわれるのですが。
by kamiyam_y | 2007-12-02 00:18 | 資本主義System(資本論) | Trackback | Comments(0)