さっぽろ地下鉄のなかでマルクスを呼吸する、世界を呼吸する

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協業と機械-スミス『国富論』とマルクスの《資本の生産力》(4)

ザ・ボディショップの創業者がなくなったんですね。『ビッグイシュー日本版』(第81号2007/10/15)の追悼記事(「ビジネスは何のために存在する?それを考えさせてくれた」)で知りました。

って知らない人には分からないでしょうが、ザ・ボディショップは「フェア・トレード」で有名。

フェア・トレードとは、経済的に貧困な地域のためにそこから原材料を「公正な価格」で購入する運動です。公式サイトにも、目立たないところにですが、“SUPPORT COMMUNITY TRADE”とか“DEFEND HUMAN RIGHTS”などと書いてあったりします(ここ)。社会的公正のために起業したわけですから、ザ・ボディショップは、社会的企業・社会企業でもあります。

ちなみに、EUは競争戦略としてフェア・トレード的なものをとりこもうとしています。また、ボディショップを日本で展開しているのは、企業の社会的責任(CSR)においてわりと先進的であったりするイオンの系列です(イオンでバイトしてる学生には優しいといえるかは分からないが)。

この記事によると、ザ・ボディショップが大手化粧品企業ロレアルに買収されたさいに、彼女を批判する人もいたそうです。

まあ、こういう社会運動ですから、巨大企業に吸収されることをよしとしないのは分かります。もっというと、推測ですけど、運動を売り渡したとか、堕落した、とみる人もいるんでしょうね。

でも、こういうみかたは期待の裏返しというべきで、社会企業で社会がすべて変わるかもしれない、という願望があるんでしょう。

もともと企業を利用して運動をしていくわけですから、企業の利潤追求原則に従って巨大企業、巨大資本に飲み込まれることも、ありうべきことですよね。

とすれば、問題は巨大資本をどう見るか、に帰結します。市場が社会的公正に使えるとおもうのなら、巨大資本はどうなのさ、って話です。

社会企業を巨大資本が買うということは、巨大資本のなかに、社会企業と同質のものがあるからです。

それは、社会企業のなかにある資本性でしょうし、巨大資本のなかにある社会性でしょう。つまり、矛盾です。巨大資本のなかにある社会性とは、グローバル企業の公共性といってもいいし、私企業がそもそもグローバルだし、それは労働が本来的にグローバル、普遍的で地球的なものだからです。

で、説明しておくことが多くて、話はやや小難しくなります。前回『国富論』の分業をみましたが、やっと『資本論』の分業です。

分業とは労働の生産力の飛躍でした。

労働の生産力の増大は、資本の増殖の条件です。この条件が同時に、資本主義の前提をくつがえします。つまり、孤立しあう私有という状態をくつがえしていきます。私的諸資本のなかに、社会的労働の生産力がつくりだされるのです。矛盾です。

資本は、より多くの貨幣=剰余価値をめざすなかで、私物であるにもかかわらず、私物でなくなります。公共物になります。というのも、資本は、買った労働力を計画的に連結して使うからです。機械を使えば、機械は個人では使えませんから、労働力を買った側の意思のもとに、労働者の共同作業が、実現してしまいます。

そもそも、剰余価値生産=資本の増殖とは、社会的生産を労働者の手からとりあげることが前提だったわけですが、この社会的生産を発展させることで、資本は増大します。

資本の増大とは社会的生産の増大です。

資本は、労働させること(労働力の消費)によって、労働力に支払ったおかね(可変資本価値)を再生産するだけでなく、剰余価値を生産します。労働力の代金は、労働者の生活必需品価値です。この価値を生んでいる時間を必要労働といい、それをこえる部分を剰余労働というわけです。

剰余価値とは、労働時間の絶対的時間の延長ですから、絶対的剰余価値です。しかし、これには限界がありますから、必要労働時間の短縮によって剰余価値をえることになります。必要労働時間の短縮とは、生活必需品価値が下がることであって、それは、生産力の増大によってもたらされます。生産力が増大すれば、1つ1つの生産物にかけるコストが下がるからです。

しかし、この低下は、「みんな、これから生産力をあげましょう」と社会的合意があって計画的にすすむのではなくて、淘汰されたくないという個々の資本の欲求、増大しようとしないと生きていけないという個々の資本の衝動の結果、意図することなく生じてしまうんです。

同じ商品を生産する資本がいくつもあるとしますね。そのうち、標準的な生産力よりも高い生産力をもつ資本は、他の資本よりも商品単位あたりにかける労働がより少ない。ですから、社会的価値よりも、低い個別的価値でこの商品を生産できることになります。

この差額である特別剰余価値を、生産力の高い資本はえるわけです。他方、劣等な生産条件しかもたない資本は、逆に剰余価値を喪失します。

高い生産条件が一般化すれば、この商品の社会的価値そのものが低下し、こうした低下が、必需品を生産する生産手段部門におよべば、労働力価値の低下につながります。

科学が行き渡るのは、労働が地球の開発といえるくらいに発展することです。資本主義時代がこういう労働の普遍的なありかたを開花させるのは、剰余価値生産の意図せざる結果です。剰余価値生産を実現する剰余価値獲得競争のダイナミズムが、資本主義を労働の生産力の発展の諸世紀として特徴づけます。
by kamiyam_y | 2007-10-29 00:53 | 資本主義System(資本論) | Comments(0)

協業と機械-スミス『国富論』とマルクスの《資本の生産力》(3)

スミス『国富論』の第1章のタイトルは、

「第1編 労働の生産力の改良、および労働の生産物が国民のさまざまな階層のあいだに自然に分配される順序について 第1章 分業について」


です。「労働」が生む「生活の必需品」「便益品」として富をとらえるスミスは、その豊かな供給を支える要因を「熟練、腕前、および判断力」に求め、これと「労働の生産力の最大の改良」を「分業の結果」として描きます。

第1章のピンマニュファクチュアの例を読んでみましょう。

 「1人は針金を引き伸ばし、別の1人はそれをまっすぐにし、3人目はそれを切断し、4人目はそれをとがらせ、5人目は頭をつけるためにその先端をけずる。頭をつけるには2つまたは3つの別々の作業が必要であり、頭をつけるのも独自の仕事であるし、ピンを白く磨くのも別の仕事である。ピンを紙に包むことさえ、それだけで1つの職業なのである。ピンをつくるという重要な仕事が、このようにして、約18の別々の作業に分割されているのであり、・・・・・・。私はこの種の小さな製造所をみたことがあるが、そこでは10人しか雇われておらず、したがってまたそのうちの何人かは2つか3つの別々の作業をしていた。しかし、彼らはきわめて貧しく、したがってまた必要な機械もいいかげんにしか備えていなかったのに、精を出して働いたときには、1日に約12ポンドのピンを自分たちで造ることができた。1ポンドで中型のピンが4000本以上ある。それだからこの10人は、自分たちで1日に4万8000本以上のピンを造ることができたわけである」(水田洋監訳・杉山忠平訳『国富論(1)』岩波文庫、2000年、24-25頁)


作業場内分業がなければ、1人「20本」も、「おそらくは1本のピンも」つくれない。自分の見聞として書いているところがなんか論文というよりルポ的ですが、真偽のほどはおくとして、スミスの驚き、私たちが共有すべき驚きは何でしょう。「10人の作業場では・・・・・・1人あたり、4800本」。0 本から4800本とすれば能力の無限大の拡大ですな。

マルクスは単に労働の生産力ではなく、「社会的労働の生産力」として合成された労働者の力をとらえ、分業に先立って協業の効果を詳しく論じています。それに比べてしまうとスミスの把握は素朴すぎてみえますが、スミスの分業に対する驚きをマルクスに引きつけてとらえかえしてみましょう。

労働においては単なる個人の力の平面的足し算ではない人間の社会的能力がつくられます(ちなみに多人数が直接結合された状態ではなく1人でパソコンに向かう仕事であっても一般的には社会的支出)。そうした社会的力がつくられるのはまずは計画的に協働する協業一般においてであり、さらにマニュファクチュアにおける労働の分割と配分ではいっそう緻密な計画性が求められることになります。

スミスの関心は、といっても計画性にあるのではなく、労働の生産力を高める作用に向けられています。この観察のためにスミスが選ぶのは小さな製造業。スミス曰く、大きな製造業では職人を一カ所に集められず分業がよくみえないんじゃ。生産物を消費される姿に仕上げるためには、素材探し、原材料づくり、場所確保、加工、袋詰め、移動など、じつに多くのプロセスが複雑に絡んでいるわけですが、スミスは製造プロセスをごく少数のブロックに区分できるような小さな作業場を対象とし、たしかにそのおかげでシンプルで印象深い話にまとまったようではあります。

スミスはしかしここで、流通を介した社会的分業と作業場内分業という区別されるべき分業を混同してしまっているようにみえます。しかもそれらを交換の性向という、ブルジョア社会が生み出した個人を無自覚に理念化することで説明しており、別の箇所で分業の弊害を述べてはいても、ここではいたって楽観的、調和的。

現代に生きる私たちは、労働の組織化を調和においてのみとらえこれを誉め称えるということはもはやできません。資本主義的大量生産はその環境破壊的本性をあらわにし、職場の権力は人間を鋳型にはめる強制法則として諸個人を抑圧し、貨幣のための貨幣の飽くなき増殖運動は民主政治を空洞化。社会的分業による人間の解放は実現せず、組織的労働の力は、資本の力として、利潤追求と蓄積を求める他人の所有の力として、労働する諸個人に疎遠な対象の力として、自由を奪う鉄鎖として、労働の牢獄として現れます。

資本主義システムにおいては、労働の社会的生産力の形成は民主的合意による制御の解体として実現します。労働の社会的統一体(1人の全体労働者)の形成は、労働する諸個人の自発的な社会力の支出として実現するのではありません。諸個人はその自然的社会的諸力を他人の力として形成し、自由な人格的ふるまいから脱した力として展開し、それゆえにまたその奪還と制御という、現代を超える社会産出へと駆り立てられざるをえません。スミスの物語空間は、マルクスの矛盾の把握によって止揚されることになります(「経済学批判」)。(続)
by kamiyam_y | 2007-10-27 22:11 | 資本主義System(資本論)

協業と機械-スミス『国富論』とマルクスの《資本の生産力》(3)

資本は価値の露わなかたちとしては貨幣であり、露わでないかたちでは生産物であり私物なんだけれど、剰余価値生産のためには、共同化された生産手段のもとに労働力を結合し、私物なんかではない社会的生産過程を発展させざるをえない。この社会的生産過程を剰余価値生産のために労働者の外部に立て、労働者を消尽する。こういう相反する契機の暴力的な繋ぎ合わせにおいて、資本は存在してます。資本が自己を実現するのは自己解体的なかたちでしかありえない。

資本は労働の社会的生産力を暴力的に引き出し発展させます。資本は、労働者の社会的生産力を、労働者に対立する資本の生産力として、つくりだします。

剰余価値生産=資本の増殖が、社会的生産を労働者の手からとりあげて、自己の手段として発展させるわけです。剰余価値といっても、労働時間の延長によってえられる絶対的剰余価値と、必要労働時間の短縮によってえられる相対的剰余価値があり、ここで取りあげるべきは後者です。

労働者の必需品の価値低下を引き起こすのは、科学を適用した現代的生産、大量生産です。必需品の価値が低下するということは、より少ない労働時間によって、労働者の必需品が生産されることを意味します。必需品の価値低下は、労働者が労働力を販売するさいの労働力の価値の低下です。つまり、資本家が労働力に支払った可変資本部分の再生産に要する必要労働時間が短くなることですから、1日の労働時間が同じであれば、その分、剰余労働時間が増大することです。

この相対的剰余価値の増大は、社会的生産力の発展の意図せざる結果として生じます。同じ商品を生産する資本のうち、標準的な生産条件よりも高い生産条件をもつ資本は、他の資本よりも商品単位あたりにかける労働がより少なく、社会的価値よりも低い個別的価値でこの商品を生産します。この差額である特別剰余価値をえるわけです。他方、劣等な生産条件しかもたない資本は、逆に自ら生んだ剰余価値を喪失していきます。高い生産条件が一般化すれば、この商品の社会的価値そのものが低下し、こうした低下が、必需品を生産する生産手段部門におよべば、労働力価値の低下につながります。

こうした相対的剰余価値生産において生産方法が変革され、資本主義にふさわしいものになり、絶えざる生産方法の変革が、科学を意識的・計画的に適用した大工業的生産によって、技術的に基礎づけられ、資本主義時代を特徴づけるものになります。
by kamiyam_y | 2007-10-21 22:18 | 資本主義System(資本論) | Comments(0)

協業と機械-スミス『国富論』とマルクスの《資本の生産力》(2)

領収書書き換え(首相、領収書書き換えで陳謝 参院予算委スタート | エキサイトニュース)だけでなく、国と請負契約した企業から献金を受け取るのも脱法でしょう。企業献金による税の搾取でしょう。

こういう搾取においても、貨幣が貨幣を突破していることをみることができます。

貨幣が、物として認知されている関係を飛び出して、政治を攪乱する力として、人を操り、大衆を搾取している主体としてあらわれているのですから。

政治という場面において、自己増殖する貨幣の敵対的諸関係、企業の諸関係という現実的疎外を貨幣自らが示してしまっています。政治という場面において、企業中心社会の転倒的性格が露呈しているともいえます。この転倒性は、企業の力が労働者大衆の社会的生産過程の力でありながら、すくみあう他人の私有としてあらわれ、労働者大衆を抑圧することです。

現実的に疎外された社会的なものである企業の力が、観念的に社会的なものである政治を乗っ取ろうとする。このことによって、社会的なものの分裂が誰の目にも露わになる、といってよいかとおもわれます。

巨大な貨幣の力は、政治を引き裂くことによって、主権在民的な近代的政治という、人々が観念的には主人公である場面を引き裂くことによって、現実の疎外を、人々の現実的な未解放を、非主人公性を、露わにします。転倒を、法的に解放されても現実的に非主人=奴隷であるという転倒を、公開しているのです。

企業において存在してるのは、私物=売買対象のかたちで社会的生産組織にほかなりません。この私物総体は、労働する諸個人にとって外的な疎遠なものとしてそびえたっています。

企業献金の不当さは、企業の力が主権者ヅラをすることにあるわけですけど、この主権者ヅラにおいて、生きた諸個人の社会力が彼等に対して敵対していることを意味しましょう。

私物として認知された貨幣は、それ自体社会的生産の力だったのですが、企業という姿においてそれは、実在的にも社会的生産過程そのものとして立てられています。私物である貨幣が、私物でないものとして、物である貨幣が物ではないものとして、存在しています。

この私物において、私物ではない社会的生産過程そのものをたてるという資本の自己解体的自己媒介は、資本が労働の社会的生産力を資本の生産力として立てるという相対的剰余価値の議論に基本があります。
by kamiyam_y | 2007-10-19 22:52 | 資本主義System(資本論) | Comments(8)

協業と機械-スミス『国富論』とマルクスの《資本の生産力》(1)

紀元水。藁をもすがる思いで信じる人もいれば、もっと軽い人もいるのでしょうが。

<女性信者死亡>長野の宗教法人を捜索 集団暴行の疑い | エキサイトニュース

ありとあらゆる病気を治癒させる水らしい。こんなん霊感商法や新興宗教では、陳腐すぎるくらいのアイテムなのでしょうね、きっと。

これに対して、おかしいと感じたり、笑ったりしてしまうのは、それがただの対象(=物)である水だと喝破しているからからです。しかし人間は個別的な物のなかに不可視の関連があるのだと想定したがりますから、これを信心するビリーバーは、ただの水ではないのだ、水ではないなにか、なのだと言うでしょう。彼等は、水ではないものとして崇拝しています。彼等が崇拝しているのは、水ではなく、病気を治す力です。彼等が水に託しているのは、病気を治す力という彼等の希望でしょう。

彼等が信じているのはじつは、治したいという彼等自身の願望なんです。つまり、彼等は水を見ているようで、そうではなく、そこに、病気が治りますようにという彼等自身の願いを、そうとは知らずに、あたかもそれが対象であるかのようにして、崇拝しているのです。

そう、彼等は、自分自身の祈りや願いを、祈ったり願ったりしている。自己分裂と、分裂した物の間の堂々巡りなんです。

彼等は祈りを祈っている。つまり彼等は対象(=物)において自分の願望を、自分自身を、拝んでいる。こういう自己回帰構造はありふれたものです。誰もが陥る可能性をもっています。人間であるがゆえに。

このありふれた自己回帰構造は出口のない観念の堂々巡りです。これを信じる諸個人の間のつながりも、信者の小さな共同体を越えて拡がることはありえません。現代は貨幣が支配する世界だからです。この世界では貨幣が普遍的であり、小さな共同体をつくる自由は、「売買の自由」の派生項目に落とされています。

資本主義システムにおいて普遍的に崇拝することは、貨幣となった普遍的なものを崇拝することです。崇拝する対象である貨幣とは、私的諸労働の産物を商品として交換しあう世界の媒介項であり、社会的労働を媒介するその姿です。

貨幣を自己の生存のための手段にすることは、社会的労働という、自己の外に拡がる自己の世界を手段にすることです。

社会的労働過程の形成を、労働による世界形成を、手段にすることです。貨幣は、本質的に、小さな共同体にとどまることができない。いってみれば、貨幣は、全世界を形成します。

しかし、この自己の世界とは貨幣の世界です。貨幣の世界は、じつは、貨幣の世界の自己否定としてしか存在しようがありません。

なぜなら、貨幣は、社会的生産過程の世界をその中身としてつくりだすことによってのみ、増殖しうるのだからです。貨幣が社会的生産過程という、過程でありかつ実現した社会的な労働そのものであるような世界にまで展開することで、貨幣は貨幣である。つまり、貨幣は物として人々の眼前にあらわれますが、物なんかではなかったという真理を現します。

貨幣という物を崇拝することは、貨幣がその中身を展開することによって、突破されるのです。

物を崇拝するこの崇拝だって、社会を再生産するような展開力、総括力のある活動ではありません。狭く閉じたものです。これとは異なって、自己再生産を行うことで社会的諸関係を自己の姿態に位置づけるような運動は、労働以外にはありえません。

労働は、交換において貨幣とそれへの崇拝を生み出しますが、社会的労働として実現することによって貨幣崇拝を否定します。この否定によってのみ、逆説的に、貨幣増殖を労働は実現しています。ここに資本主義の展開と崩壊の鍵が隠されています。

社会的労働は、大工業、すなわち労働手段の絶えざる変革とそれに命ぜられる労働の社会的組織の形成として実現します。ここで、社会的生産過程は、労働者の外で、労働者に敵対するような、資本の力としてあらわれています。

しかし、このことは、同時に、貨幣という私物のなかで、私物としての貨幣が否定され、社会的生産過程が顕在していることを意味します。

このような分裂の構造が資本主義です。資本とは、社会的生産過程の外皮です。社会的生産過程が社会的生産過程として完成した姿態をもつことによって自ら突破していく、社会的生産過程の蛹(さなぎ)です。

資本主義では、水を拝むのであろうとなんであろうと信心は、社会全体の紐帯にはなりえず、私的な売買の位置に落とされたものです。選択の「自由」として表象される自由の、1つの恣意的な対象にすぎません。

拝む心も、そうです、貨幣増殖の手段なのでした。信心はそれを禁止することによって乗り越えられるというように存在していません。それは人間疎外の顔でしかないからです。信心的転倒からの解放は社会の主題ではなく、資本からの人間的解放の従属函数でしかありません。
by kamiyam_y | 2007-10-18 23:00 | 資本主義System(資本論) | Trackback | Comments(0)

人類の疎外

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globeにひかれたちっぽけな境界線。
by kamiyam_y | 2007-10-13 23:44 | 現代グローバリゼーション | Trackback | Comments(1)

自由という名の隠蔽(補)

きのうのNHKニュース解説で、政治資金支出公開、自民党案にいう第三者機関が、間違いを指摘する小規模なもので、アメリカ合衆国のような大規模で、強大な権限をもったものではない、と説明されてました。

ま、自民党の幹部のいう「民間」並みって、なんだいって話です。お墨付きを与える認証ビジネスみたいな第三者機関をイメージしてるんだろうか。

「民間」ってのは私的経済だべさ。「政党」の「政治活動」をそのレベルに落としちゃだめでしょ。

国民全体に直接公開するのがすじ。自治体レベルの公開では「個人情報」を理由に公開拒否がされているようですが。

昨日の解説では、一円以上の領収書の量があまりに膨大、という話がありました。技術的に解決してくださいな。
by kamiyam_y | 2007-10-13 23:38 | Trackback | Comments(0)

自由という名の隠蔽

<領収書公開>交付金は1円から 献金は持ち越し 自民方針 | エキサイトニュース

「政治とカネ」がこれだけ問題になれば、自民党も対応せざるをえない。ジャーナリズム、国民が追求することは大事ですね。

とはいっても、自民党案は一円からといいつつも、政治資金収支報告書の領収書を一般には公開しない方針らしい。

この間伝えられた範囲内の話ですが、その理由が笑えます。

政治活動の自由とか、守秘義務とか、手の内をライバル企業に見せないとか。

政治という公共的なものは、私的所有、私的営利、商売に等しいと宣言しているのですから。
by kamiyam_y | 2007-10-11 00:16 | 民主主義と日本社会 | Comments(0)

自由の分裂

NHKのBS1で昨晩、アレックス・ギブニー監督『「闇」へ』(原題:Taxi to the Dark Side)というドキュメンタリーを観ました。

番組は、「テロ」と闘うという名目でジュネーブ条約を遵守しなくなった「民主主義」国家米国の闇を、グアンタナモで拷問に関わった調査官に対するインタビューをはじめとする取材をとおして浮き彫りにしてました。

個人の尊厳、人権の尊重という原理を踏みにじるのは、米国の建国者たちに対して恥ずかしい、という趣旨の番組の締めくくりの言葉が印象的。

自由を守ると称して「拷問」が復活してしまうほどに、現代社会の分裂は深い。
by kamiyam_y | 2007-10-09 22:19 | 自由な個人の権利と国家 | Trackback | Comments(0)

9.29沖縄雑感

民主党が御手洗経団連会長に対して偽装請負を追求する構え。ぜひやってもらいたい。

asahi.com:御手洗会長の招致要求 民主、国会で追及へ 偽装請負 - 政治(http://www.asahi.com/politics/update/1002/TKY200710010403.html)

偽装請負という違法行為に対して厚労省も立ち入り調査と指導を増やしてます。
asahi.com:偽装請負で文書指導、06年度急増2646件 厚労省 - 社会(http://www.asahi.com/national/update/1003/TKY200710030341.html)

御手洗招致は半年以上前から野党が主張してました。参議院を制覇した勢いをもって、野党は力を分散しないで対決してもらいたいものです。
しんぶん赤旗3/31(http://www.jcp.or.jp/akahata/aik07/2007-03-01/2007030102_03_0.html)

参議院の首相(民主党:【参院本会議】過半数を獲得で小沢代表が首相指名に)が、前安倍政権のイデオロギーが検定で削ったと実質的に述べています。軍の関与を否定するのは、安倍的「歴史認識」といえるかもしれません。誰がじっさいに検定で削除したのかとは別に、です。イデオロギーのかたちが同じってことです。(誰が削除を求めたのか明らかにしながら、検定問題を論じているのは、世界の片隅でニュースを読む : 教科書改竄の「黒幕」。沖縄戦の学問的通説について 教科書検定の徹底検証を)。

民主党 web-site米軍等への給油は戦争そのもので憲法違反 小沢代表が会見でhttp://www.dpj.or.jp/news/dpjnews.cgi?indication=dp&num=11911



で、11万人はすごいですね。
沖縄県民大会に11万人 「集団自決」削除検定に抗議  | エキサイトニュース
「知恵出す」と文科相 沖縄知事ら検定意見撤回を要請 | エキサイトニュース

沖縄の思い。戦争という国家の巨大な力の前に尊い命を絶つことを余儀なくされた民衆の無念さがいまなお沖縄の人々を動かしている。語り継ぐべきものを隠すことはできない。

日高六郎が、保坂展人(http://blog.goo.ne.jp/hosakanobuto/)との対談で、興味深い話を披露しています(「戦後の憲法感覚が問われるとき『世界』10月号」)。

親泊中佐という軍人が、敗戦直後に殉死したさいにしたためた遺書のなかで、大戦中の日本軍による残虐な蛮行を「最大の恥」と記しているのだそうです。遺書では、残虐行為に走った皇軍を皇族軍人が批判していたことも書かれているそうで、この皇族軍人の1人は日高によると、東久邇宮(ひがしくにのみや)。陸軍大将で敗戦直後の総理をした人ですが、パリ留学時代にマルクスのような世界思想に触れ世界について「開眼」したらしい(40頁)。

戦前の日本は、下の方では産業革命を経て資本主義的生産様式が進んでいきながら、上の方では、幕府という政権を暴力で転覆した支配層が封建制的状態から軍事的に(かつ宗教的に)統一国家を形成しようとしていた時期。

この日本の軍事的統一を素晴らしいとは言わないが、親泊中佐や東久邇をこの理念的中枢とみたてるならば、それに対して、強行された戦争の実際の非人間的な現場では、兵士の非人間的行為が暴走していきます。言うまでもなく沖縄における自決用手榴弾配布も親泊の言葉を借りれば「恥」というべき蛮行にほかなりません。

世代を経ると劣化するのは二世・三世の政治家も同じでしょうか。同じ対談で、保坂が、舛添要一から聞いた話として、自民党憲法草案をまとめる際に「“青年将校”がいて大変だった・・・・・・日本帝国憲法に戻せと言う力が強かった」と紹介してます(44頁)。

驚くべき無進歩ぶり、退廃ぶりです。自民党民主党の一部分に教育勅語礼賛的扇動的反応が残っていることはよく知られた事実であるとはいえ、呆れます。歴史は繰り返す、2度目は何とやら、3度目は何とやら、ですね。政治思想の品質劣化です。

国民が権力を縛る現代憲法から、国家が国民に命令する明治憲法へと原理を全面的に逆回転するなんて不可能なのに。生きた個人一人一人の主人公性と人類の同胞精神の宣言を、局地的な転倒した支配体制に戻すことなどできないのに。

敗戦という日本の現代化の端緒(革命)を通過してなお、戦争の愚劣さと野蛮な全体主義を信奉する理由があるのか、謎と言っておきます。これでは、諸国の支配層に正統性を昂揚する契機を与え国際秩序を安定させるという国際協力を意図して演技しているにちがいない、などと妄想したくなる人もいるかもしれませんね(笑)。

幕府崩壊から敗戦までの近代産出のための通過点を通り終えてなお、前近代的国家主義的観念にしがみつく人がいる理由は、どこにあるのか。利権と集票という物質的欲望以外に、また、企業や国家を通さないと自己確認できない倒錯した観念の存在以外に、古い共同性に回帰しようとする戦前美化的国家崇拝が存続しつづけている理由は、謎であると言っておきます。

あるいは、ほんの60年では支配層に巣くっていた古い虚偽意識は精算できず、むしろよくここまで短期間で近代化・現代化したと思うべきなのでしょうか、とも思ったりします。
by kamiyam_y | 2007-10-04 22:34 | 民主主義と日本社会 | Trackback