さっぽろ地下鉄のなかでマルクスを呼吸する、世界を呼吸する

<   2007年 09月 ( 10 )   > この月の画像一覧

学問の炎はあらゆる人のなかにある

20世紀は人類が経済成長を目的とした特異な一時代であり、後半は特にグローバルに人々が結びついていく時代でした。

グローバリゼーションも、経済成長も何のためにあるべきなのか、と問うならば、それは、人間一人一人の自由で豊かな成長が実現する社会を、一人一人が人間として大切にされ、自由に自分の成長をできる社会を実現するための土台づくりのためにある、と主張できます。

じっさいのグローバリゼーションは反対に地球規模で問題をもたらしています。環境問題、地球規模での格差社会化。

現代社会は、国境を越えて貨幣の増殖がすすむ時代です。貿易が拡大し、カネの移動がますます国を超えるようになり、企業の利益追求主義の相互強制もいっそうひどくなります。やさしくいえば、企業は、より大きな利益を求め、安く生産するために、労働力の安いところに生産点を移します。その結果、国内での雇用が減って失業が増えたりします。海外の安い製品と競争するために、労働者の給料を下げようとしたりします。

正規雇用者と非正規雇用者とでは、非正規雇用者の方が、企業は金をかけないですみます。給料を安くできるだけではなく、雇用保険などの企業負担を減らすこともできます。さらに、いつでも雇い止めをできる人を増やすことで、正規雇用者の賃銀も抑えることも効果としてあります。

超国籍的な資本の蓄積は、こうして、いままでつくられてきた福祉のしくみを弱めるように働くわけです。

現代社会は人間の自由平等の実現を目標として立てていますから、それに沿って格差を是正する知恵を集めて、実行してきました。低所得者層の税負担を軽減する累進課税。失業保険や、失業対策も、だれもが豊かに働ける権利を実現していくための格差是正装置です。これがまた企業の利潤追求のハードルとして作用していたわけです。

学校教育、奨学金、産業保護、補助金、なども格差是正の装置です。

企業のグローバル化はしかし、政府に、福祉よりも企業を支援するために税金を使ったり、企業にかかる税金を安くするように圧力を加えます。企業が人件費を安く抑えられるように労働立法を空洞化しようとします。その結果、働く人々の家庭では、負担が増大していきます。

地球規模でみても、貧困削減のためにも、経済のグローバル化が有効に働いているとはいえません。

豊かな人間の成長をもたらすはずの経済成長が、その逆に作用しています。

貧困は、人々の文化や社会に対する関心を消し去り、利己主義は、社会的な連帯の絆を断ち切ります。

貧しい階層が増え、学校に行きたいのにいけない子供がたくさんいる。情報の格差があって、支配する人々が出てくる。治安が悪化する。医療を受けられない人々がたくさん出てくる。教育の機会が生まれた家庭で固定され、社会的地位が同じ家庭でうけつがれる。お金のある人々が教育機会を得る。所得、地域、企業、雇用形態などによって、教育の機会や、豊かな老後を過ごす可能性が制限される。少子化が進む。

政治参加度の格差も生じる。

文化や社会に対する関心が薄れてしまう。利己主義がはびこり、社会的な連帯の絆が弱くなってしまい、民主主義が崩壊する危険が出てくる。総じて豊かな人間の成長が阻止される。

このように誰かが犠牲になる。

誰かが犠牲になる社会は、誰もが犠牲になりうる社会です。人間としての尊厳を否定される人が出てくることは、その社会は人間の尊厳を否定していることであり、人間の本質を実現した人間的な社会とはいえません。

人は生まれてくる地域を選んで生まれてるわけではありません。どの地域で生まれても、どの家庭で生まれても、どの活動(しごと)についても、豊かに生きることができる社会が豊かな、人間らしい社会です。人間らしさを否定した社会から人間らしい社会へ。

格差というと貧富の差の問題だと思われているが、そうではなく、人間が人間らしく生きる社会をつくる問題です。

人間が人間らしく生きる社会をつくることが21世紀に問われている大問題です。

人間一人一人が、豊かに成長し、人間として尊重される人間らしい社会を、目標としたのが、現代の人権宣言です。

世界人権宣言
前文「人類社会のすべての構成員の固有の尊厳と平等で譲ることのできない権利とを承認することは、世界における自由、正義及び平和の基礎である……」
第1条「すべての人間は、生れながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利とについて平等である。人間は、理性と良心とを授けられており、互いに同胞の精神をもって行動しなければならない。」(外務省仮訳)


こういう宣言を人類がすること自体、現代社会の必然の1つです。

資本増大一辺倒の企業社会という経済の貧しい現実や、それを強化する、環境や生活を顧みない経済成長に偏った政策があるからこそ、人類は、抽象的な自由平等にとどまることなく、人間の権利をこうして再定義しているのです。搾取があるからこそ尊厳と自由平等を目標にし、戦争があるからこそ、平和を目標にするのです。

註 「憲法は現実を追認するものではなく、めざすべき目標なのだ」(町山智浩「改憲したら僕と一緒に兵隊になろう。」内田樹・小田嶋隆・平川克美・町山智浩『9条どうでしょう』毎日新聞社、2006年、84頁)

問題の解決がもたらされるのも、このように問題が発生するがゆえです。いまでは、地球規模で社会づくりのための目標がたてられています。国連が国際社会の目標として、貧困の撲滅を掲げたり、国際労働機関ILOが「ディーセントワーク」といって、人間らしい仕事を世界中の人間が与えられるようにしようと宣言をしているように。

21世紀は人類の歴史の転換期であり、企業中心の現実がもたらした20世紀の歪みをいかにしてなくしていき、人間らしい社会をつくっていくか、という方向転換の時代です。

経済学は、こうした人類の課題を解決するために、社会のしくみをそのおおもとから捉えるという学問です。経済学とは、いかにして人を欺してお金を儲けるかをかんがえるような安っぽい話でありません。他人を蹴落とすためのちっぽけな話ではなく、そういう安っぽい話を粉砕するものです。

学問は、人類の英知を集めたものです。時代の方向転換をささえる真理です。社会的関心を失った人々に、社会的関心を復活させるように働きかける社会の知恵であり、人々がもっている友愛と同胞の精神をよみがえらせるのが学問です。

特別な才能なんていりません。人間である以上誰もがもっている情熱に、学問は働きかけます。

------------

よかったら大学にきてください(笑)。受験生が多いほど私にとっていいので。

------------

私も、物神崇拝的な競争のなかで神経をすり減らすこと、いいかえると、学問を自分の給料を確保するための手段におとす行動様式を強制されているのでした。

しかし、疎外を乗り越える条件も疎外のなかにしかありません。学問を普及するのは人類的な仕事です。

自分の個人的創意を社会の利益に、社会の関心を自分の生活に、転換するのが経済であるなら、学問を支えるのも経済。なんて予定調和にはなっていないのです。学問も人類解放のための闘いです。
by kamiyam_y | 2007-09-27 23:33 | 学問一般

復習

学生向けです。資本・必須労働・剰余労働・労働力・剰余価値・不変資本・可変資本といった耳慣れない堅苦しい漢語に悩める方のため、簡単な復習問題つくりました。

練習問題
by kamiyam_y | 2007-09-26 23:58 | 資本主義System(資本論)

抽象物としての「市場経済」(5)-メンヘル、格差、知識労働-

抽象物としての「市場経済」(5)-メンヘル、格差、知識労働-

スティグリッツの本に献金をあつかった部分があり、面白かったので書きました。抽象物としての「市場経済」前回(4)、献金をあつかったので続きという意味もあり、このシリーズに入れます。

格差社会とメンタルヘルスにもふれました。孤立した個人の虚妄性を引き剥がし、、個人の孤立的理解の体制弁護論的本性を暴きたて、市場原理主義の幻想を批判するというこのシリーズの目的の1つにもあってるかな、と。

------------------

偶然の威力

例えばです。労働現場で被災して解雇されてしまった人が不幸を嘆くばあい、【個人の責任に帰すべきではない偶然の犠牲になった】というニュアンスがふくまれているようにおもえます。安全に働く権利、職業につく権利を実現するためには、安全衛生対策と職場復帰プログラムが必要であることはいうまでもないですが、それが実現していないから偶然が力をもつ。

あるいは、「運悪く」会社が倒産した。このばあいの偶然というのは、社会をみわたすとかならず誰かが犠牲者のポジションにおかれているということです。会社が黒字だって連鎖倒産はあるわけです。恐慌というのは、労働の社会的労働としての統一が、会社をなぎ倒す形でつらぬかれるってことでした。

こうした不幸は「合理的個人」の「自己責任」なる幻想に帰することができず、社会的に協同して解決していくべき問題としてあらわれています。

ついでにいえば、個人の気質だの、能力だのいったものも人類の共有なものがたまたま誰かに割り当てられているだけの話であり、どこの地域のどこの階級のどの家庭に生まれ、どう育てられたか、なんて話は自己責任ではない。

倒産のような個人が背負う不幸は、人類がその形成途上で背負うさまざまな悲惨さが、さまざまの個人にいろんなしかたで強制されたものでしょう。社会の全体的な力が個人を押しつぶすように作用し、ある特定の個人が「運悪く」社会の車輪の下敷きになることは、あらゆる個人が生け贄にされる可能性があることです。社会が個人に対して対立している状態です。

格差社会のグローバリゼーション

「格差社会」現象も、社会が個人に対して対立しているから生れます。「格差社会」が社会問題化していることは、社会問題を個人の努力の問題にすりかえるような市場主義的通念がここでは越えられているということでしょう。社会問題化とは資本批判ですから、資本の弁護論は、社会問題を非社会問題化しようとします。格差社会化も雇用問題も労働災害も自己責任論にすりかえようとしますが、それはできない相談です。

とりあえず確認。問題は「差」に矮小化すべきではないので、全体の年収をみてみます。

1997年の平均年収は467.3 万円であったのに対し、2005年は436.8万円。全体として沈没してます(国税庁「平成 17 年 分民間給与実態統計調査-調査結果報告-平成18年 9月」http://www.nta.go.jp/kohyo/tokei/kokuzeicho/minkan2005/menu/pdf/00.pdf、10頁)。

やはり背景にあるのは、グローバル資本主義の展開。

資本主義システムは、一国レベルで、格差是正のための共同的な装置を、その成熟に欠かせないものとしてつくりだしてきました。社会保障、労働法制、推進課税、などなど。ひらたくいえば、「市場経済」のひずみを修正するために共同の装置をつくることで延命してきたわけです。

資本のグローバルな競争は、こうした格差是正のための福祉国家的装置を外すように働きます。労働立法があるから市場が働かない、といった、市場原理主義的な反福祉国家の逆立ちした主張もこうした圧力の代弁です。

資本の競争は、不安定雇用の拡大をもたらしてます。雇用者における正規/非正規の割合をみても、1985年は正規雇用が83.6%、非正規雇用が16.4%であったのに対して、2006年は66.8%、33.2%になっています(厚生労働省『平成19年版 労働経済の分析』http://www.mhlw.go.jp/wp/hakusyo/roudou/07/index.html、18頁)。

格差社会は地球規模で問題にすべきなので、ちょっと確認。先進資本主義国について、国連開発計画(UNDP)がこんなふうに書いてます。

OECD諸国の大半では過去20年間に所得が増大したにもかかわらず、所得不平等が拡大した。なかでも、英国と米国における所得の不平等の拡大は著しいものだった。豊かになったのは、もともと豊かな人々だけで、貧しい人々には豊かさが分配されずに取り残されている。米国の最も豊かな世帯1%の所得は、1979年には中間居世帯の所得の10倍だったが、97年には23倍になった。ところがカナダとデンマークでは不平等が抑制あるいはわずかに減少している。政治的意思があれば、所得の上昇に伴う不平等の増大は避けられるといえよう。

(国連開発計画(UNDP)東京事務所 パンフレット『人間開発ってなに?』(PDF)http://www.undp.or.jp/publications/pdf/whats_hd200702.pdf、11頁)

註 貧困に対する国際的な報告として、UNDP『人間開発報告書2005』国際協力出版会、世界銀行『世界開発報告』田村勝省訳、シュプランガーフェアラーク東京、2004年、など。

疑問もあるんですが、米国こそ格差社会の本家です。

地球規模での格差とは、国ごとの格差だけではなく、一国内に先進国と途上国が併存することです。一国内に最貧地域と先進資本主義地域とが併存する。こういう断片化をともなって資本主義は生産力を発展させます。

グローバルな資本主義の展開は、格差社会の社会問題化をグローバルにしていきます。ですから、一国福祉国家解体作用をともなう現在の資本のグローバルな展開は、反転せざるをえません。

無秩序なアメリカ中心的なグローバリゼーションに対抗するものとしてしかグローバリゼーションは展開しないということです。資本の無自覚なグローバリゼーションは、社会問題のグローバリゼーションを増幅しなければ、すすまないのです。たとえば、ILO(国際労働機関)が1999年にディーセント・ワークという理念を掲げたのも、一種の対抗グローバリゼーションというグローバリゼーションの姿の1つ、とかんがえてよいとおもわれます。

 「ILOはこうしたインフォーマル経済で働く人々の状況を「ディーセント・ワーク(人間らしい仕事)」の欠如という観点から見ています。女性や若者の多くが、残念ながら、ディーセント・ワークの欠如という状況に置かれています。すなわち、法律の保護が受けられない、非生産的で報酬の少ない仕事、職場での権利の欠如、不適切な社会保障、団結して自らの主張を行うことができないというような状況です。」

ディーセント・ワークとインフォーマル経済フォーラム-ILO東京支局http://www.ilo.org/public/japanese/region/asro/tokyo/conf/informal.htm

量的な不平等から絶対的な不平等へ

失業のような個人を襲う不幸は、社会の力が個人を犠牲にする社会の未熟さだし、犠牲にすることによって社会的な力をつくりだしている。社会と個人の対立状況が格差社会の本体といえます。

失業者が労働力を売れず生活手段から疎外されるのも、労働者一般が生産手段から疎外され労働力を売らなければ生きていけないからです。だれもが失業者になりうる可能性をもっている。

この前みましたように、資本蓄積が人口を現役労働者軍と、失業・半失業状態の産業予備軍・相対的過剰人口とに分割することは、個人の努力をこえた社会の生きた運動法則です。かならず人口の何割かが相対的過剰人口の貯水池に流されたり、現役軍に吸収されたりしているのです。誰もが相対的過剰人口に入りうるし、資本蓄積は、相対的過剰人口に依存したものとしてすすみます。収入格差の前提にはこうした生きた運動があります。

労働する大衆がみずからの社会的産物から除外され、それらを共同で理性的に用いることができない。生産手段から疎外され、労働力を販売しなければ、生活手段を得られない、これを絶対的貧困とよぶならば、資本蓄積とは絶対的貧困の再生産にほかなりません。富を措定するのが貧困である。これこそ資本主義の基本矛盾でしょう。

資本主義は生産力拡大によって必需品の価値を下げ、労働力の再生産費用を縮小し、必要労働を短くするように作用しますが、それは富と自由時間の少数者の独占という形をとります。賃金体系による格差ではなく、賃金労働者と少数者という格差が存在します。

「資本の傾向はつねに、一方では、自由に処分できる時間を創造することであるが、他方では、それを剰余労働に転化することである。」(『要綱』S.584)

「社会一般と社会のすべての構成員とにとっての必要労働時間以外の多くの自由に処分できる時間〔disposable time〕(すなわち個々人の生産諸力を、それゆえにまた社会の生産諸力を十分に発展させるための余地)の創造-こうした、非労働時間の創造は、資本の立場のうえでは、少数者にとっての非労働時間、自由時間として現われるのであって、それは以前のすべての段階の立場のうえでもそうであったのと同様である。資本が付け加えるのは、それが大衆の剰余労働時間を、技能と科学とのあらゆる手段によって増加させるということである。なぜなら、資本の富は直接に剰余労働時間の取得にあるからであり、それというのも資本の目的は直接に価値であって、使用価値ではないのだからである」。(S.583-584)


政策の大企業優遇バイアス

絶対的貧困をいいかえれば、社会的な力が人に制御されず人を犠牲にしている、という転倒です。これを絶対的な格差とよぶこともできましょう。個人に対して企業の力がおしかかってくるという絶対的な格差に、格差社会問題は気づかせてくれます。

個人と企業の力との対立は、絶対的な格差です。グローバル企業の政治支配について、スティグリッツが例をあげて批判している箇所は、とりわけここで取りあげるべき興味深い素材でしょう。

 贈収賄と汚職は、社会と個人の利益がぶつかるもうひとつの領域を代表している。多くの場合、採鉱会社や石油会社は、政府高官に賄賂を贈って利権を手にし、天然資源入手のコストを下げる。石油や他の天然資源の市場価格を支払うよりも、政府高官に多額の賄賂を贈ったほうが、ずっと安くすむからだ。・・・[略]・・・
 アメリカのように洗練された経済のもとでは、贈収賄は主として政治運動への献金という形をとり、その見返りは市価より高額での道路建設契約だけにとどまらず、その副産物が社会にはるかに大きなコストを強いる政策変更にまでおよぶ。・・・[略]・・・
 製薬会社は1998~2004四年までのあいだに、1400の議会法案を操作するために7億900万ドルを費やした。・・・[略]・・・アメリカ政府は国際貿易交渉で製薬業界の利益を最優先させたうえに、新しい医療保険制度の薬剤給付において、低価格での薬剤の入手を違法とした。それだけで数十億ドルにもなる条項だ。
(J・E・スティグリッツ『世界に格差をバラ撒いたグローバリズムを正す』楡井浩一訳、徳間書店、2006年、288-289頁)


政治家に投資せよ。リターンは大きいぞ。賄賂とよばず献金とよべ。政治支配はビジネスなのだ。

個人が協同社会に参加する政治が、利益(剰余価値)獲得のためのビジネスに転換してます。個人の自由平等な契約という形式が、不払労働に転換するように、個人の自由平等な政治が、剰余価値収奪の条件に転換してます。

スティグリッツが「社会と個人の利益がぶつかる……領域」と表現しているのはちょっと感心しました。

個人の生存権の実現よりも、企業の利益が優先されます。製薬業界の利益が貧困削減よりも、医療を受ける権利よりも、まず優先されてしまう。資本の目的は直接には価値にあり、人間的必要と人間的欲求はそのための手段です。

貧困層において子供の死亡率が高い(『人間開発報告書2005』73頁)のは、人間の自由平等に反しています。自由平等が人間の本質であるならば、こうした格差は人間の本質が疎外されていることです。

製薬業界が開発費と称して独占的価格を、知的財産保護と称して社会の利益を排除する私的所有の自由を、政治を通して押しつけてくることが、貧困撲滅という人類的課題と衝突している。「神の見えざる手」という牧歌的な時代ではないのです。諸個人の利益に対して業界の私的利益が優先される。これはまた、医療に対するアクセスから貧困層をいっそう排除するように働く。貧困が富を生み、剰余労働の増大が少数者の自由として自由を実現する。

社会的には、人々に対して大きな犠牲を強いるにもかかわらず、企業の利益を実現するように、政策を誘導する。個人に対して、ここで自由な政治主体は企業です。人々ではなく、企業のカネが政治を動かす。絶対的に不平等じゃないですか。個人に対して、個人の集合力が用いられているのですから。

組織された労働者と知的労働

諸個人に対立する企業の力は、労働者の共同労働にもとづいています。計画的な協働である協業の力がそっくりそのまま諸個人に対して敵対的な力になっています。

献金問題の本質も、諸個人の社会的労働の力を諸個人のもとに包摂しなければならない、という人類史的課題にあります。献金において深くつかむべきは、大企業の悪事やら、グローバリゼーションの性悪な本性でありません。もちろん、個人の自由を資本の自由と混同する弁護論でもありません。そうではなく、諸個人が労働においてつくりだした世界を、諸個人が奪還する、という課題です。

最後に協業について冒頭の労災との関わりで少しだけ確認します。

……大工業の発展とともに……直接的労働は……監視と制御の活動に転化される……生産物がばらばらな直接的労働の生産物であることをやめて、むしろ社会的活動の結合〔Conbination〕が生産者として現れる……。……直接的交換では、ばらばらの直接的労働は、ある特殊的生産物または生産物部分のかたちで実現されたものとして現われるのであって、この労働の共同的な社会的生活-一般的労働の対象化および一般的欲望の充足としてのそれの性格-は、ただ交換によって措定されるにすぎない。これにたいして、大工業の生産過程では、一方で、自動過程にまで発展した労働手段の生産力においては、自然諸力を社会的理性に従わせることが前提なのであり、また他方で、直接的定在における個々人の労働は、止揚された個別的労働として、すなわち社会的労働として措定されているのである。(『要綱』S.585)


めっちゃ面白い文章です。19世紀のイギリスでマルクスは現代のコンピュータ社会を先取りしてます。協業という社会的労働が、労働のいわば情報化をふくんでいます。自然法則の適用が自動的な過程にまで進まざるをえない。目の前の事象が資本主義一般から外れていることを証明するのにエネルギーを費やす議論がありますけど、マルクスは全然違います。マルクスの理解に「型」とか「段階」はありません。

単純な交換では、個人の私的労働は、商品の価値・使用価値というかたちでその社会的性格を反映し、交換によって社会的労働として実現しました。資本主義的大工業の発展は、この私的労働のなかに、直接、社会的労働組織を編成してしまいます。

生産物は労働組織の産物であり、生産手段所有者は労働力1つ1つに支払うだけで、労働力の結合の成果は、ただで手にいれます。情報通信網も科学も無償の環境になります。

注目したいのは生産過程の性格です。自然諸力を社会的理性によって制御し、労働手段の体系が自動的なものに変わっている。労働者はコンピュータが制御する生産過程を監視する位置に立つ。労働は共同的に、そして監視と制御の活動に転換する。労働者は社会的労働に組織され制御を行う。ドラッカー風にいえば、「知識労働」です。「知識労働」は労働の社会化であり、管理の社会化です。発展した資本主義ではあらゆる労働が知識的になっていく、といっても過言ではないでしょう。

労働現場での人間破壊もまたメンタルヘルスの問題として「知識労働」的になっていくにもかかわらず、社会問題として解決する努力はまだまだです。誰もが精神をやられうる時代です。精神疾患に陥るのは自己責任ではなく、人類の共同の課題をその心身において示している人です。
by kamiyam_y | 2007-09-25 22:54 | 労働論(メタ資本論) | Trackback | Comments(2)

抽象物としての「市場経済」(4)

勝訴ですね。松山地裁が仙波さんの主張を認める判決。

内部告発の警官勝訴 松山地裁「配置転換は報復」| エキサイトニュース
違法配転に本部長が関与 愛媛の警官訴訟で地裁 | エキサイトニュース

警察の裏金づくりがあったことを前提にしたうえで、内部告発を封じる工作と、告発に対する報復があったことが認められたのですから、意義は大きい。税金を使って違法行為をしてるんですから、実態の解明をさらにすすめ、監視をしていかなければならないと思います。

公益通報者保護法

(不利益取扱いの禁止)
第五条  第三条に規定するもののほか、第二条第一項第一号に掲げる事業者は、その使用し、又は使用していた公益通報者が第三条各号に定める公益通報をしたことを理由として、当該公益通報者に対して、降格、減給その他不利益な取扱いをしてはならない。

労働基準法
(定義)
第9条 この法律で「労働者」とは、職業の種類を問わず、事業又は事務所(以下「事業」という。)に使用される者で、賃金を支払われる者をいう。

----------------------------------------

抽象物としての「市場経済」(4)

システムはアクターを操って欺瞞を告知する

2006年の日本経団連の会員企業による政治献金額が前年より1億3000万円増大したそうです。御手洗会長は「政治寄付が重要な社会貢献であるとの認識は定着しつつある」と語ったのだと(「経団連会員企業 政治献金26億円に増加」日本経済新聞、9月15日、14版5頁)。

政治を手段化しようとする資本の蓄積衝動は、「貨幣が政治をつくりだす」とか、より平凡に「カネで政治を買う」などとは表現されずに、経団連会長の口を通すと「重要な社会貢献」に変換されるんですね。

こういう変換を通さないとオーソライズされないということは、「企業とカネ」に対する批判が「定着しつつある」ということでしょう。変換したってそこに透けてみえる関係は、《貨幣の集合体が政治を取得しようとする運動》です。

「社会貢献」という居直りは、批判の定着です。役者の口を通して資本は、人民よ、企業を批判せよ、と呼びかけているのです。資本による《批判の強制》を無防備な口は語っているのです。

生きた個人ではない彼等の関係が独立化して政治をつくりだそうとすることを、あからさまに告白しているともいえましょう。資本主義の現代は、個人にもとづく民主主義と、それと対立する企業中心社会との衝突です。

エゴイズムの調和と天賦人権の楽園

この衝突においては、個人の《関係》が、個人から独立して、企業の増大しようとする貨幣となって、個人を抑圧する主体として、個人の合意した関係を破壊する力として、つくられています。資本は《生産関係》です。

貨幣ってモノじゃないの?と、私たちの表象は反応するかもしれませんけど、ちがいます。約束してつくった便利な道具でもありません。だったらなんで長時間労働や環境破壊が問題になるのさ。貨幣は、約束事として人々が意識してつくったもの、などでは断じてありません。

貨幣は、人が意識することを否定して、貨幣なのです。約束してつくったのではなく約束の反対です。自分たちの関係を、外部の恐ろしい自然力のように放つところに、貨幣は存在します。意識したり、合意したりする関係の外で、人々のつながりを実在させているのが貨幣なんです。

近代の自由平等もここに由来します。貨幣どうしの絆の発展は、人格的隷従という意識する関係を不要にするからです。労働力の売買には、人が土地と職業に固定される隷属関係を壊す必要もあります。

ちょっと大げさにいえば貨幣が近代をつくる。この貨幣は、対立において貨幣である。人が孤立しており、こうした孤立した人に対して、生産関係がモノの関係としてつくられています。この対立において貨幣は貨幣である。諸個人の生産の社会的紐帯が、諸個人から独立して、彼等の外部のモノの運動に置きかわり、諸個人の側は、社会のなかみに無関心な私人へと分解してしまう。これが近代のなかみだともいえましょう。

貨幣は、商品交換がうみだす商品の共同の絆です。商品においては、個々の労働は社会の労働としては立てられていません。個人は労働を社会的労働として自覚してふるまうことができません。労働が社会的な意義をもつのは、商品を等価交換させる商品価値のなかみとしてのみです。

この価値を追求するのは、自分たちの社会的労働をモノとして追求すること。つまり、私利追求とか競争とかいわれているものは、社会的労働から孤立した人間が、モノとしてそれを自分の私利の対象として求める、という転倒にほかなりません。物神崇拝は、競争賛美や、利己主義や、自由主義といった近代の諸観念になります。

モノだと思っている商品・貨幣は、生産の社会的関係が諸個人にとって制御されない外部になってしまったものです。同時に、物象化した関係は、単に諸個人に所属するモノとして現れることで、諸個人を突き動かしています。人がモノに操られることが、近代の「私有財産の自由」という観念にかわります。物神崇拝とモノの人格化は御手洗にかぎったことではないのだった(笑)。

てか、先の御手洗発言は、物神崇拝とモノの人格化を批判する意識を呼びよせるという資本の矛盾なのでした。商品交換のなかでは貨幣はまだおとなしいです。

「天賦人権の楽園」的幻想のなかに貨幣はモノとしてまだ隠れています。社会組織の力としては現れてません。

労働力の売買が、その限界のなかで行われる流通または商品交換の部面は、じっさい、天賦人権のほんとうの楽園だった。ここで支配しているのは、ただ自由、平等、所有、そしてベンサムである。(『資本論』第1部第4章、マルクス=エンゲルス全集刊行委員会訳、大月書店、S.189.)


孤立しあいモノに動かされる個人は「自由」な主体と表象され、交換されるモノは「平等」な人間という姿をとり、個人が相互に排除しあうことは「所有」として合法化され、彼等の「利己主義」「私利追求」は香しい公共利益として賛美されます。

しかし、市民社会の楽園を解体することでしか、貨幣は、自己再生産をできません。私的所有の自由は物象の自由に、私利調和は私利の衝突に、制御しえない物象化された世界に、転じていかざるをえません。交換に埋もれた対立は交換において解消不可能であり、矛盾によって現出します。それが資本です。自分に対して解体的な運動でしかありえないのが資本です。

必要労働と剰余労働

貨幣は増大しなければなりませんが、交換は等価交換であり、騙しあっても全体の価値は増大しません。貨幣の増殖を可能にするのは、ある独自の商品です。

それが労働力(労働能力)です。労働者の精神的・肉体的諸力の総体であり、この諸力の発現が労働です。商品としての労働力は、買った側が処分します。つまり労働させます。労働すると労働力は疲れて動けなくなります。労働力は1日ごとに労働過程で買った側が消費します。

他方、また翌日も動けるように労働者は、労働力を使わせる権限を回収して、つまり企業の外に出て自分の生活を営む。このことが労働力の再生産という意味を客観的に帯びます。労働力は1日ごとに売ります。

c0064668_2339012.jpg



1日の生きた労働は、必要労働時間と剰余労働時間からなります。必要労働時間は、労働者が正常に暮らすのに必要な生活手段をつくりだします。資本主義社会の賃金労働者のばあいは、この時間で、労働力の値段分の商品を生産します。これで、労働力の買手が支払った分を返しているわけです。

労働者が、労働力の値段に代えて受け取った紙や金属は、生活に必要な物(生活手段)に引き替えられます。企業の外の生活時間で、労働者は、この生活手段を消費して、労働力を明日も売ることができるようにメンテし、自分がなくなったあとの労働力の売手をもつくりだします。なお、ここでは資本と労働者の、資本間の、労働者間の競争は無視すべきなので賃銀の差は考えません。

説明は省きますが、細かくみると、次のようなイメージになります。

c0064668_23412114.jpg


c0064668_23415421.jpg



交換の自由平等と労賃

ここで交換の生みだす法的幻想は、労働力ではなく労働そのものへの支払いという観念によって、必要労働と剰余労働の区別を消すように作用します。これが労賃です。労賃は、資本を交換の自由平等のなかに埋めてしまうよう働きます。

前資本主義的な生産、たとえば、封建社会であれば、必要労働と剰余労働とはそのまま人に認知されます。たとえば、必要労働は農奴が自分の土地で行う労働として、剰余労働は農奴が領主の土地で行う労働として分割されているというように。生産関係がそのまま人格的支配関係と癒着しているから、生きた労働の質的境界がハッキリと諸人格に示されているのです。

これに対して、資本主義では、貨幣関係が労働と生産物の結びつきを不明にしてしまいます。生きた労働の産物が、必要労働の産物も剰余労働の産物もいったんすべて企業の商品となってしまいます。生産物がすべて生産手段の所有者の生産物として、商品として販売され、貨幣に変えられます。

結果として出てきた貨幣を労働力の売手と買手とがただ分け合っているようにもみえたりします。たとえば、労働者1人の必要労働が2万円分の商品を、剰余労働が2万円分の商品をつくりだすとします。労働者が得るのは2万円です。しかし労働者は剰余労働の存在を自覚せず、単に分け前の一部を得たと理解する。

近代の法的意識は、労働力の売買をそのまま公式化することはせず、生きた労働時間と、それと等価なものとの交換というように変換します。この変換によって労働時間内の必要労働と剰余労働との区別を見ないようにするのです。生きた労働時間に対する等価を交換すると契約することによって、この区別に対する無自覚さが固定されます。

こういう変換をとおすことで、実態を、自由・平等に整合したもののようにして示す。等価を支払っているのだとしないと、平等に反することになり、システムを正統化できなってしまいます。生きた労働時間全体に対して支払うのだとしないと、交換の自由・平等に収まるものとして資本を示せない。労働時間が必要労働と剰余労働とに分かれていて、剰余労働の産物は、生産手段の所有者が無償で得ている、なんて認めるわけにはいかないのです。

労働者が1日に4万円の価値を生む。しかしそのうち労働者が賃銀として得る労働力価値の等価は2万円。この2万円が労働時間全体の値段になるので、剰余価値は意識から消されます。ということは資本の得る剰余価値は出生不明になり、出自は幻想化します。交換によって生みだされたとか、危険に対する報酬だとか、監督賃銀だとか、資本の生む利子だとか、競争が生みだしたとか、競争で勝ったからだとか、「抜け目のない」弁護論(註)の数々が発生します。

註 「・・・・・・各人がただ自分のことだけを考え、だれも他人のことは考えないからこそ、みなが、事物の予定調和の結果として、またはまったく抜けめのない摂理のおかげで、ただ彼らの相互の利益の、公益の、全体の利益の、事業をなしとげるのである。/この、単純な流通または商品交換の部面から、卑俗な自由貿易論者は彼の見解や概念を取ってくるのであり、・・・・・・」(『資本論』S.190.)

しかし、剰余労働は、交換の平等・自由というヴェールを剥ぎとるように発展します。

可視化する簒奪

貨幣はこのヴェールのなかに潜みつづけることができません。貨幣の進行する過程は、剰余価値を資本として再投下する蓄積として実現していきます。これは交換の自由平等からかけはなれた生産の内部に、社会的労働組織を蓄積してしまうことです。交換が想定していないものです。交換とは社会を否定された労働なのですから。資本は労働者の蓄積した労働であり、社会的労働組織です。私的に孤立しあう社会的労働組織の連関が、諸個人に敵対するのが、環境破壊をはじめとする現代の諸矛盾だとしたら、この矛盾をとおして、剰余労働の発展は社会的労働過程を労働者大衆諸個人のものとして示します。

企業の貨幣は社会的労働組織の集合力であり、まさに献金問題において問われているのは、社会的労働を民主主義破壊的に用いてよいのか、ということです。

献金問題においては、「自由平等な個人」の位置を企業が簒奪しています。企業連合が「自由平等な個人」の地位を盗んでいるとすらいってもいいでしょう。交換に向かう幻想のなかでは、企業は生きた個人たちの延長であり、モノ・道具のはずだった。ところが今や企業が人格として姿をとっている。このことが交換的諸幻想を溶かしさっています。企業の貨幣が社会的集合力であり、生きた個人とは同格・対等ではありえないことは誰の目にも明らかでしょう。交換の生みだす幻想のなかに沈んでいた関係が、明解なコントラストで現像されています。

註 企業献金の問題性は、有井行夫『株式会社の正当性と所有理論』青木書店、1991年、52-53頁。
by kamiyam_y | 2007-09-16 23:48 | 企業の力と労働する諸個人 | Trackback | Comments(7)

レズビアンを処刑する非近代に強制送還する非先進性

あらゆる個人はマイノリティーだ。

同性愛者も異性愛者も同じエレメントを共有している。社会的排除による自己同一性の確認ほど野蛮なものはない。

個人が多様な欲求をもつ個人として生きることが生の充実となっているかどうかは、社会の成熟を測る物差しの1つだと思う。

ペガーさん強制送還反対
by kamiyam_y | 2007-09-11 00:07 | 自由な個人の権利と国家 | Trackback

剰余人口Surpluspopulation(5)

(続き)

絶対的な窮乏が、現役労働者と失業者への分割を生む

まとめのかわりに最後に、『要綱』のマルサス批判から長々と引用しておきます。

労働能力を買われなければならないのに買われない人を失業者とよびます。資本にがっちりと捕まえられている現役労働者に対して、労働力販売が不安定な状態にある半失業者も一種の失業者です。

失業者に対して、対極には剰余生産物を食い尽くすだけの人口も現れます。

なぜか、この人口は失業者とはいわれません。不思議です。

「資本がさらに発展していくなかで示すように、この剰余人口のうち産業的な〔勤労的な〕一部分-産業資本家-とならんで、純粋に消費するだけも一部分が分肢してくる。こののらくら者の仕事は、他人の生産物を食い尽くすことであり、……。経済学者たちがこの剰余人口について論じるときには、こののらくら者の剰余人口は問題にされない。反対にそれは-食い尽くすという彼らの仕事は-狂信的人口論者によって、まさに必要人口として取り扱われるのであるが……。」(S.496-497)


必要人口として扱われるのらくら者は資本から直に養われている。この対極に、資本から排除された人口が生み出されています。

資本のもとに直接労働能力を集められた現役労働者も、資本から排除されているのですが、剰余人口化された労働者群は、この排除をまさに文字通りの排除にして示しています。過剰人口において、排除は、資本によって労働能力を安定して継続的に日々買われることができない、という排除として実現しています。現役労働者における排除を補完しています。

資本から弾き出された労働者は、資本主義における剰余人口です。剰余人口は、人口増大が食料増大をはるかにうわまわるといった馬鹿話ではありません。剰余人口は、労働能力の増大と食料の増大との抽象的な結びつきによって生まれるのではありません。こういう結びつきを、歴史的形態規定性を欠いた空虚な抽象といいます。生産のありかたから切り離された超歴史的な過剰人口なんてないのです。

資本から弾き出された剰余人口は、資本による剰余労働収奪にとっての剰余であって、この剰余は、現役労働者に対する労働条件悪化の圧力にもなり、資本が急激な拡大のさいに使える労働能力のプールでもあり、利潤率低下による蓄積の低下をおさえる土台でもあります。剰余人口は、資本の蓄積欲求に対する剰余でしかありません。まさに『資本論』蓄積論の『相対的過剰人口」が批判するところです。

ここは『要綱』から引用します。

「この剰余〔Surplus〕は純粋に相対的なものである。すなわち、けっして生存手段一般にたいする関係における剰余ではなく、生存手段を生産する様式にたいする関係における剰余である」(S.496)


労働能力を買われない人口は、資本の蓄積という生産のありかたによってつくりだされるのです。剰余労働の収奪が剰余人口をもたらす、といえます。

資本内部の協業という社会的な力の内部にいながら、この社会的力から排除されるのが、現役労働者だとしたら、この協業からも排除されるのが、剰余人口です。

労働能力から切り離された形で、生産手段や生産物が集積する、という資本の大前提がそもそもあらゆる労働者を、潜在的に、労働能力を買われない喪失者にしています。

自己の客体的諸条件からの分離を絶対的窮乏とよぶならば、この窮乏ゆえに、資本に吸収される労働者と、資本から弾き出される労働者とがいるわけです。

「自由な労働者という概念のなかには、すでに、彼が被救済民〔Pauper〕であるということ、潜勢的な被救済民であるということがふくまれている。彼の経済的諸条件からみれば、彼は、たんなる生きた労働能力であり、したがってまた生活の諸欲求をも備えている。労働能力以外の労働能力の実現のための客体的諸条件を欠いた、あらゆる面から見ての窮乏。資本家が彼の剰余労働を使用することができなければ、彼は自分の必要労働をすることができず、自分の生活手段を生産することができない。……彼が労働者として生きていくことができるのは、ただ、彼の労働能力を資本のうちの労働ファンドをなす部分と交換するかぎりでしかない。この交換そのものが、彼にとっては偶然的な、彼の有機的存在にとってはどうでもよい諸条件と結つけられている。だから彼は、潜勢的な被救済民なのである。さらに、資本にもとづく生産の条件は、彼がますます多くの剰余労働を生産することなのだから、ますます多くの必要労働が自由になる。つまり、彼の被救済民状態〔Pauperismus〕の機会は増大するのである。剰余労働〔Surplusarbeit〕の発展には、剰余人口〔Surpluspopulation〕の発展が対応する。」(S.492-493)


自己の客体的諸条件を喪失した裸の労働能力であるに落とされていることを《窮乏》とよべば、この窮乏ゆえに、労働者は強制労働に身を捧げる部類と、強制遊休の生け贄にされる部類とに分割されます。

窮乏する諸個人のなかに、現役労働者も、失業・半失業者もふくまれています。窮乏するがゆえに、労働する諸個人は窮乏を通じて社会をつくっています。社会づくりは《窮乏》であり、蓄積は、絶対的な分断という《窮乏》を再生産することである、とでもいえましょうか。客体的諸条件と労働能力の分離が、労働者を資本に吸収される部分と、資本の外に排出される部分とに分けている、といってみたいわけです。《「剰余労働の発展には、剰余人口の発展が対応する》のです。(終り)
by kamiyam_y | 2007-09-06 02:34 | 資本主義System(資本論) | Trackback | Comments(4)

剰余人口Surpluspopulation(4)

(続き)

第2の大地

この排除がまだ社会的力をつくりだし、この排除が社会的力を労働者に敵対させることで、労働者による社会的力の奪還を求める。なんていう解体的運動でしょう。

「[資本が前提する(引用者)]この集積は、一方では客体的形態での集積……。また他方では、主体的な形態での集積であって、労働力〔Arbeitskräfte〕の集積、そして一つの点への、資本の指揮下への、労働力の集積である。」(S.477)


そもそも、資本の大前提は、労働能力から切り離された形で、生産手段や生産物が集積することです。生産の客体的諸条件が労働者から分離することが大前提です。

人が大地に直接埋もれ、大地の恵みを享受していた状態は、労働者が人格的隷属の形で社会的労働を実現する状態です。労働者と大地とが切り離されることであり、労働者が労働能力の自由な売り手になること。これによって、資本は、孤立した労働能力を利用できるわけです。

資本はしかし、この孤立を否定する形で、労働能力を社会的労働組織に編成します。社会的労働組織の力が、私的所有の力に無媒介に転じていることが資本をなりたたせる。

ここで大地に直接依存した生産ではなく、大地の全体を対象とするような、科学を適用した生産が発展します。この資本にふさわしい生産によって、労働する諸個人は自らの社会的な土台を、第2の大地をつくりだしていきます。

賃銀労働者は、労働において、自分たちの労働そのものに対して疎遠であり、自分たちの対象に対して疎遠であり、自分たちの社会関係に対して疎遠であり、自分たちの人間的な本性に対して外面的にふるまっています。

この矛盾したふるまいを通じて、労働する諸個人は社会の土台を、第2の大地をつくりだし、自らに敵対させている。この敵対によって、労働者は自らの社会的集合力を取り戻すことを強制されつづけます。(続く)
by kamiyam_y | 2007-09-06 02:15 | 資本主義System(資本論) | Trackback | Comments(0)

剰余人口Surpluspopulation(3)

宮沢章夫『東京大学[ノイズ文化論]』白夜書房・2007年7月)を読んでいたら、「3人デモ」という動画が講義の素材としてとりあげられていました(313頁)。

You Tubeで確認したら、えれえ面白い作品。若者3人が届け出てデモをするんですけど、公安に監視されちゃってる。YouTube - WE ARE THE THREE (ONLY!)

映画としても発表されるようです。
イルコモンズのふた。 : ▼映画「素人の乱」公式上映会

「3人デモ」を扱った評論をみつけましたが、ちょっとむずかしい。
I Get Around The Media 楠見清のメディア回游 - YouTube as a Guerrila Television

---------------

(続き)

集積された生産へ

交換が集合するだけでも生きたシステムにはなりません。交換が引っぱってくるのは、労働能力です。

資本は、買い集めた労働能力を、労働者の人格から切り離して、集積します。労働者にとって他人の力として、労働能力の集合体が作用します。

「ここではもはや、一つの資本が彼らに対立して、交換の行為における社会的集合力として現れ、その結果この資本において多くの交換が一体化されている、というだけでなく、一つの資本が労働者たちを、一つの場所で自己の指揮のもとに、つまり一つのマニュファクチュアに集めるのである。」(S.478)


交換は自己労働にもとづく私有を前提していますが、交換の実現は、等価交換を止揚し、剰余価値の無償の取得を交換の土台にすることでした。この労働収奪は個々の労働者にとどまらず、組織された集合的な労働者からの収奪です。

交換は、社会が孤立しあう諸個人に分解することを前提しています。この前提に敵対して、諸個人は集合的労働力の一分肢として活動します。社会的分業は孤立しあう労働者の分業ではなく、資本の分業です。この意味でも市場は市場の前提を解体することでしか市場でありえない。もちろん、集合力は収奪として実現するから、この意味でも自由な市場は解体。

協業を立てることで、資本は集合的労働力の産物を無償で取得します。諸個人の孤立は生産のなかで強制的に止揚され、1つの指揮のもとに計画的に協働します。

資本が内部に社会をもった存在として、自分のなかに、労働者を結合する生産様式をつくりだします。労働能力の結合がもたらす働きを無償で資本はわがものにします。

「すなわち、資本はもはや、その眼前に見いだされる生産様式のなかに労働者を置いたままで、この基礎のうえに自己の力〔Macht〕をうちたてるのではなく、自己にふさわしい生産様式を、土台として自分のためにつくりだすのである。資本は、生産における労働者の一体化をつくりだすが、この一体化とは、さしあたりはただ、共通の場所で監督者たちのもとで〔生じる〕、一元的支配、規律の強化、〔労働の〕恒常性、生産そのもののなかで措定された資本への従属、にすぎないであろう。」(Gr.,S.478.補足〔〕は訳文のもの)
「労働者の協同〔Association〕-労働の生産性の基礎的条件としての協業および分業-は、いっさいの労働生産力がそうであるように、……資本の生産力として現われる。だからこそ、労働の集合力〔Collectivkraft〕が、労働の社会的労働としての性格が、資本の集合力なのである」(S.476)。
「労働諸力の結合(規則正しい労働様式をもっての)と科学力〔wissenchaftliche Power〕の適用が優勢であり、ここでは、労働の結合およびいわば労働の共同的な精神が機械等々のなかに移されている」(S.477)。


労働の相互のつながり、労働の社会的紐帯が、労働者に対して、直接他者の力として向かっています。機械システムを中心とする協業の全体が、労働者にとって他人の領域として、他人の私有物の力として、他人と富として、対立しています。労働者自身の一体性が、労働者によって社会的に制御されることなく、労働者の外部の威力として、つくりだされています。

労働する諸個人にとって、およそ労働の生み出す連関のすべてが、自分自身のなかに根拠をもたないような、彼自身の統一性・有機的諸条件ではないような、外からやってくる威力です。

市場は、労働者を社会を失った解体された個人として想定しつつ、労働者自身の社会的集合力をつくらざるをえない。社会的集合力は、労働によってつくられながらも労働者を排除する社会的力です。社会的力が労働者を排除。(続く)
by kamiyam_y | 2007-09-06 01:50 | 資本主義System(資本論) | Trackback | Comments(0)

剰余人口Surpluspopulation(2)

(続き)

孤立的交換から集積された交換へ

資本というのは集積された交換です。連続した交換だし、交換を一身に集めたものです。個人のバラバラな交換じゃないです。

交換を孤立してとりあげるとたしかに同じ価値物の交換だし、同じ過去の労働の交換です。

しかし、交換価値は、持続することで交換価値として私たちの眼前にみえている。

持続するにはそれは、貨幣という目に見える交換価値から、生産手段(原料・機械)と労働能力に、そして商品に形を変えて、再び貨幣に戻らねばならない。

起点と終点はどちらも貨幣です。同じ物だから、量でしか区別されません。つまり、交換価値は、より多くの交換価値を目指す運動として生きています。

これが資本ですが、資本は労働能力との交換という独自の交換を経なければなりません。

「資本家が交換で手に入れるのは労働能力であって、これは彼が支払いをする交換価値である。生きた労働は、資本家にとってこの交換価値がもっている使用価値であり、そしてこの使用価値から剰余価値が生じ、また交換一般の止揚が生じるのである。」(『マルクス 資本論草稿集②』S.456)


一方の側は貨幣。他方は労働能力。2種の物象が登場し、私的所有者は、この所有物の内容によって、一方は資本家(会社)、他方は労働者です。

この交換では、対象化された労働(過去の労働の集積)である資本に対して、労働能力が交換されるべきものとして現れます。

この労働能力は、時間決めで買われます。奴隷じゃないので丸ごとじゃなく。

この労働能力の有益な働き、独自の使用価値が生きた労働です。生きた労働がこの労働能力がはたす働きであり、それは、交換価値を生み出すという働きです。

より多くの生きた労働からより多くの剰余価値を資本が獲得する。労働能力が買われるのも、この運動に役だつかぎりでのこと。

労働者は、労働能力を買われなければ、生活できず、剰余価値を生産しなければ、生活できない。資本主義システムにおいて労働者の生活はそのまま、労働能力を売れる状態にキープするという意味を帯びる。

このキープは、生活必需品を消費することによってなりたちます。労働能力に対して交換される紙や金属は、生活必需品の代表であり、労働能力の維持費です。

労働者は自分たちが生み出した生活必需品を、この代表と交換して、自分たちがつくった物を、資本家(会社)によって売りつけられないと、取り戻せないわけです。

労働者は、この自分たちが消費する必需品を越えて、剰余価値を体現した生産物を生み出しています。この剰余価値を生むかぎりで、労働能力を売ることができます。

労働者に対して交換に登場する貨幣(資本)は、社会的労働の集積です。労働者は孤立した売り手であるのに対して、買い手は社会的な力です。

「彼らは多くの人々と交換するかわりに、一人の資本家と交換する。だからそれは、資本による交換の集積である。資本は個別者として交換するのではなく、多くの人々の消費と必要を代表するものとして交換する。資本はもはや個別的な交換者として交換するのではなく、交換行為において社会を代表するのである。」(S.478)


資本が交換に現れるや、それは孤立した交換主体一般ではない。自由平等な個人の交換ではなく、資本において登場するのは社会です。(続く)
by kamiyam_y | 2007-09-06 01:48 | 資本主義System(資本論) | Trackback | Comments(0)

剰余人口Surpluspopulation(1)

▽農相を辞任させた補助金不正受給って、人の名前を勝手に使ったんですよね。加入者105戸分の水増し請求というのは、文書偽造によってしたのですよね。

▽年金も、官僚・支配的政治家たちが、国民から取れるだけ取って返すことは考えていなかった、ということが、ますます明らかとなってきてるようです。

-------------------------------

剰余人口Surpluspopulation

孤立的交換の平等主義


「ネットカフェ難民」という言葉が一人歩きしてしまうことは、たしかにマンガ喫茶・ネットカフェにとっては、ありがたくはない。

《私ども複合カフェにとっては皆さん大事なお客様なのです。私たちはそのようなお客様を決して「難民」とは考えておりませんし、絶対呼びません。》


JCCA-日本複合カフェ協会《 いわゆる「ネットカフェ難民」について》(7月17日)

若い女性も、終電をのがして「マンキツ」に入ることもあります。それ自体は、安全で快適な空間を提供してるビジネスです。

ここで注目したいのは、「皆さん大事なお客様」という表現。どの客に対しても差別しないという宣言です。

この宣言にみることができるのは、貨幣の平等主義、交換の平等主義ともいうべき関係です。ネットカフェ難民ではなく、交換の平等にまず注目してみます。

交換においては、個人の性格や、帰属する共同体、共同体における政治的配列(身分)ではなく、交換価値がものをいいます。あたしの1000円もあなたの1000円も、無差別に1000円。

交換とは物が主体という転倒なので、こうもいえましょう。あたしもあなたも、1000円の化身としては無差別なのだ、と。

物は物を呼びよせて巨大化しますから、できるうかぎり多くの1000円を。誰からでもいいから1000円を。こうなると資本(企業のカネ)の、交換を介した平等主義でしょうか。

ところがです。

個々の交換は等価どうしの交換です。1000円を内部に隠している物(商品)を、1000円と書いてある商品価値の代表と交換するだけ、みたいに。

にもかかわらず、交換は、資本として集積され、資本として集積された交換は、等価なしに労働から価値を吸い上げます。

個々の交換にふくまれている転倒は、多くの交換をまとめている資本において、資本が生きた労働を等価なしにわがものとするという転倒として実現します。交換は、等価交換を解体することによって発生している。

ネットカフェ難民ではなく、資本主義システム一般をテーマとして、「経済学批判要綱」の文章をちょこっと紹介してみます。以前のエントリーと重複してますけど。交換から、資本主義という生産が生み出す過剰人口まで簡単にみてみます。(続く)
by kamiyam_y | 2007-09-06 01:46 | 資本主義System(資本論) | Trackback | Comments(0)