さっぽろ地下鉄のなかでマルクスを呼吸する、世界を呼吸する

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危機管理能力?

広辞苑の立派でまっとうな説明とは違いますが、最近こういう用法が流行ってるようでいささか気持ちが悪いです。


【危機管理能力】(ききくわんりのうりよく)

組織による犯罪、不祥事が露呈した場合に、組織の評判が落ちるのを妨げるように、あるいは民衆の反感を拡げないように、対応する能力。不正が明らかにされたときに、組織が自己防衛する能力。

用例 「消えた年金、偽装光熱水費、官制談合をはじめとする不祥事の連続に対して我が党は、成長を実感にという誤ったスローガンとおともだち内閣に固執するなど危機管理能力の欠如が選挙の敗北につながった」

解説 この場合、市民にとっての危機ではなく、我が党にとっての危機を危機と称している点が市民の不快感を増幅する。

参照:ゲンダイネット「なぜデクノボーをいつまでも首相に担いでいるのか」
by kamiyam_y | 2007-08-28 01:47 | Trackback | Comments(0)

拳銃の規制緩和・民営化か

巡査長の事件。

asahi.com:警官の問題行動、幹部は把握できず 女性射殺事件 - 社会

「社交性が乏しい」という証言からは、コミュニケーション能力に欠陥があって、人の気持ちを読めない人だった、という印象を受けます。もちろん、社交的でなくてもコミュニケーションをちゃんとできる人もいますけど。

こういう個人の特性よりもまず社会的には《拳銃の管理》はどうなってるんだ、という話でしょう。社会的に武器を集中する公認の目的が破られてます。銃はストーカー警官がホステスを殺すためにあるのか。持たない市民に対して持つ側は、圧倒的な殺傷力を委ねられた市民の下僕のはず。殺人器具の用途を厳密に規制し管理しなければ、人民主権は成り立たないぞ。

NIKKEI NET(日経ネット):社会ニュース-内外の事件・事故や社会問題から話題のニュースまで

「市民を守るための拳銃で勤務中に女性を殺害した凶行は、警察の信頼を揺るがす」とこの記事にあるように、拳銃が市民に対して向けられたこと、市民を犯罪から守るべき警官が、勤務時間中に拳銃を持って殺害に向かったことを重く見るべきです。警官が殺人者に移行することは、警察権力に対する人民の信任が裏切られたこと、信任の実態が市民を殺傷しうる可能性を秘めた敵対的なものであることを示しているとすらいえないでしょうか。

個人の生命を尊重し守るべき共同体の下僕が、課せられた制限をたやすく破ってしまう杜撰な管理体制が問われるべき。
by kamiyam_y | 2007-08-28 00:42 | 民主主義と日本社会 | Trackback | Comments(0)

錯覚する感覚と愛

一川誠・池上彰『大人になると、なぜ1年が短くなるのか?』(宝島社)という本を買って喫茶店で読んでいたら、錯覚実験を紹介しているページにちょっと夢中になってしまいました。

感覚って、いろんな錯覚を含んではじめて感覚なんですね。

帰宅してから錯視で検索したらこんなサイトを。ご覧下さい。

錯視のカタログ

すごいですね。モニター上の点が動いていないのに動いてみえたりしてます。紙の上のインクのじっさいの形とは、別の形を異なったてみえる。

対象の感覚的なありかたを、感覚は、あえて素直に受け取らないことによって対象を捉えている。そうだとしたら、錯覚は、感覚の独自の補正作用なのかもしれない。錯覚は積極的な意味で感覚そのものといえるかもしれない。

とはいえ、やっぱり錯覚は感覚の失敗でもある。だとしたら、感覚とは錯覚を含むことで成り立つのだから、つね失敗するものである。

対象の正確な像でない錯覚こそが、感覚そのものである、ということもできます。嫌いは好きの裏返しでしょ。美しい誤解を愛とよぶのでしょ。誤解がポジティブに働き補正されるなら、それは愛。誤解だけ独走すると。。。

話がそれました。

対象の感覚的なありかたは対象そのものではない。思考レベルでこそ人はだまされますし、このだまされるという限界を越えていくことに社会科学の存在意義もあるわけですが、そもそも、感覚という対象の素朴なつかみかたにおいても、対象はそのまま現れたりはしないのです。見るという行為1つとっても有機的な過程で、そもそも選択的に対象を見ています。

感覚は鏡ではありません。感覚は、運動です。関係のしかたです。言葉による思考と対照的に受動的ではありますが、それ自体対象に関わる運動であって、単純に鏡のように対象を反映するのでありません。鏡だってほんとは反映した対象とは区別されるし、対象と鏡とが1つの現実なのですが。鏡自体が対象から派生した対象だなんていってもいい。人間も自然であるがゆえに、能動的な自然であるがゆえに、対象という自然を感覚するのですね。

人の感覚は、思考が自覚的に制御することができないプロセスを含んでいます。心身は人間自身にとって未知です。それに加えて、人間の感覚は、労働の歴史が刻まれています。労働が感覚を開発してます。社会のなかでの個人の個性も感覚をつくりだします。人間の歴史もまた人間にとって未知です。生命としての能力、感覚のハードの部分も、精神的なソフトの部分も未知。

感覚をいろいろ実験して錯覚を発見するのって、科学の楽しさですね。未知だった自分を発見する。自分のなかの未知と出会う。楽しいなっと。人間の心身という自然を研究する。感覚という無自覚につくりだされたものを研究し、自分を知る。相手のなかに自分を発見し、自分のなかに相手を発見する。やっぱり愛だよな。そこかよ、結局。
by kamiyam_y | 2007-08-27 23:57 | 学問一般 | Trackback | Comments(0)

陶酔

執行権力を掣肘する意思は議会にある。

人民主権という憲法のスケルトンに従い、この社会ではこのように約束されています。日本なら議会が内閣総理大臣を選び、他の大臣も過半数が議員から、というように。

この骨組みに反して、事実上、執行権力が国家、疎外された共同性として自立するのが現代です。

今回大臣に防衛事務次官が楯突いたのは、官僚権力の肥大というこの傾向にはとどまらない問題を含んでいます。

東京新聞(TOKYO Web)>社説>8月18日

さらに。

法を尊重しない軍国的陶酔が告白されました。法律を無視して武力行使をする意図をあたかも個人の厚い友情であるかのように語る欺瞞。軍人の自己陶酔は、法治社会に亀裂を走らせます。

北海道新聞社説(8/25)・社会

情報流通促進計画 by ヤメ記者弁護士(ヤメ蚊)シビリアンコントロール無視のヒゲ隊長発言を容認した小池防衛相の責任が問われている(赤旗) 佐藤正久「巻き込まれ」発言で、北海道新聞が市民の抗議を記事に~陸自隊員を抱える地域の不安に応える道新が社説で佐藤正久「巻き込まれ」企図を批判!~続くのはどこだ…
by kamiyam_y | 2007-08-26 17:05 | 民主主義と日本社会 | Trackback | Comments(0)

非営利による横領

官僚の天下り先に「(財)すかいらーくフードサイエンス研究所」なんてあるのを知りました。『週刊ダイヤモンド』6/23号特集「天下り全データ2万7882人」からです。この「フードサイエンス研究所」、役員が18人で、職員が1人。非営利法人の鏡です。

「緑資源機構」のチャート図(31頁)も面白い。公金横領システムの見本というべきか。

林野庁は、同機構に天下りを送り、補助金を注入します。機構は、「コンサル」業者(これまた天下り先)に事業を発注し、受注先企業300社は、「森林特定地域協議会」という団体にカネを上納します。

この団体は、「特林懇話会」と名前を変えて、松岡元農林大臣や赤城前農林大臣の懐に「政治献金」として、カネを還流させる、とまあ、こんな具合。

日本の資本蓄積は、こんな収奪システムを分泌しながらすすんできたのでした。蓄積は、大衆から取れるものは余すところなく取り、政治的諸人格への分配まで司るのか??

この分配が、じつはしかし、《労働する大衆から自立した富》という貨幣の概念をみえるようにしています。企業献金が大衆からの収奪だということを、この収奪システムはハッキリと示しています。税金が大臣直行の献金に変わるのですから。

長勢法務大臣へのカネの流入もまた非営利法人を使っているようですね。

保坂展人のどこどこ日記 長勢法相『NPO法人私物化疑惑』深まる
by kamiyam_y | 2007-08-26 16:58 | 民主主義と日本社会 | Trackback | Comments(0)

資本を売買する資本7 私的簒奪形式における社会的資本の発展

株主はもはや単なる形式にすぎず、ある資本から剰余価値を収奪し、それを別の資本に結合する通路のようなものとになっているといえます。これが重要な点の1つかと。別に株式でなくてもいいのですけど、いわゆる「マネー」を掻き集め、集めては投資してまた集め、分配し、また集め投資する。

この「マネー」はもろもろの詐欺師や山師に集られてますけれども、そもそも貨幣(潜在的資本)の市場は、実態としては、産業諸資本への貨幣資本の割り振りをします。これによって、資本の高速回転と産業間の移動、資本の分解と集中が促されます。

「マネー」とは、集められた他人の金であり、投資された他人の金です。海外のファンドだって他人の金を集めて株を買うのであり、運用するファンド労働者は人様の金で人様の株を買っています。集めたのは他人の金。借りるとは、金の値段を利子として金を買うことです。他人の資本を投資する。

動いている金は、他人の資本、社会的資本、他人の私有、社会的所有です。

そもそも1つの個別産業資本が、労働者に対して、彼等の社会的労働が、彼らの結びつきが、独立して対立的に現れたものでした。そもそも資本とは、社会的労働の集積が独立したものであり、労働者に対して、社会的労働として、社会的な貨幣として相対していたのでした。

私的所有への社会の革命的分解(封建社会の崩壊)は、労働者に対して、彼らの労働が、彼らの生産物である生産生活諸手段が、過去の労働を総括して代表する貨幣が、私的所有という形をとること。

1つの産業資本は社会的労働の独立した姿ですが、私的所有に覆われた私的生産体として存立しています。

こんどは、これらの産業諸資本に対して、社会的労働が社会的資本として、共同資本として独立して現れたものが、いってみれば、信用として展開される利子生み資本なのです。産業諸資本総体に対してその共同資本として貨幣資本の市場が形成されるのです。

産業諸資本に対して社会的資本が分配される。この分配自体がまた私的諸主体による営利として成立し、そこに剰余価値を啄むハゲタカやらハイエナやらが集まってくる。

社会的所有を生産諸主体が分け合って生産するという進歩が、社会的所有を少数者が簒奪するという転倒として実現します。社会的共同事務がピンハネとして成立。

乗っ取り屋的資本のなかにも、こうして私たちは社会的労働の発展が宣言されているのを聴き取ることができます。

《成功も失敗もここでは同時に諸資本の集中に、したがって巨大な収奪に帰結する。……この収奪の実行は……終局的にはあらゆる個人からの生産手段の収奪に終る。これらの生産手段は社会的生産の発展につれて、私的生産手段であることをも、私的産業の生産物であることをもやめるのであり、……それは協同した労働者たちの手にある生産手段、したがって彼等の社会的な所有にほかならない。この収奪は、しかし、資本主義的システムそのもののなかでは少数者による社会的所有の横領として対立的に現われ、また信用がこれらの少数者にますます純粋な山師の性格を与える。》『資本論』第3部MEGA.Ⅱ/4.2,S.503-504.)


横領という対立的現象は、資本主義の発展における資本主義の本質開示でしょう。そこには、社会的労働を横領することが、産業的な社会的労働一般から分離して、明確な形をとって現れています。産業労働内の収奪が、社会的資本からの少数者による横領に転移している、ともいえましょう。

「マネー」は労働者の外に独立した労働者の統一性、社会的労働の指揮可能性であり、社会的労働を収奪する権限に転じた私有であって、横領する少数者は社会的労働組織権を売買し、収奪権限から収奪しているのです。

「純粋な山師の性格」において、社会的労働が賭け事にまで私的形式で発展しており、ここには、社会的労働の進歩が人々に強制する不安定さが、収奪の進歩性、進歩の収奪性が、示されている、ととらえることができます。

資本蓄積に示される資本主義の歴史的傾向がまさに信用という社会的資本の成立において貫かれています。蓄積は、生産手段の集積を前提するだけではなく、あらゆる個人から生産手段を剥奪していく運動です。労働者からの生産手段の収奪は、資本家からの生産手段の収奪へ、あらゆる個人からの生産手段の収奪へと進んでいきます。

収奪によって生産手段は社会的な対象として、あらゆる個人にとっての対象として姿を現すわけです。

思惑・投機の氾濫は社会的生産の私的形式における発展の副産物であり、企業売買によって、労働収奪権の転売によって貨幣(剰余労働)を吸引する人物の存在は、資本主義的な社会的生産過程の発展がとった1つの姿にすぎません。
by kamiyam_y | 2007-08-09 22:43 | 資本主義System(資本論) | Trackback | Comments(0)

資本を売買する資本5 一般的増配の不可能性

外資による増配請求についてここで少し触れておきますと、経営者権力は、労働者を支配している。だとしたら、経営者権力に対して一定の制約を与える点では増配要求は望ましく思われましょう。

しかし、先に述べたように外資はまた外資の経営者権力です。一般株主として労働者が登場し、彼等にお裾分けがくる(といっても自分たちの労働の産物を間接的に取り戻しているだけですけど)かぎりでは、増配要求勢力も労働者と一致した利害に立つようにみえるとはいえ、外資は一般弱小株主と同じじゃありません。

産業資本にとっては、蓄積することが、競争によって命ぜられるその本性ですから、人々が自由自在に会社の持物を処分できるなら、すでに資本主義ではありません。産業資本の権力のもとには社会的労働が集約されています。

この社会的労働を支配するのは、利益を全て取得をしたい株主のご意向ではなく、剰余価値による剰余価値の生産という、脱人間化された目的です。剰余価値を獲得する競争です。

もちろんこの法則に対するノイズとして、経営者が株主になって会社の資産からも配当を求めたりすることもありえます。

個別産業資本からすれば、資金はほしいが結果を持っていかれたら意味がない。増配要求は価値増殖を制約する契機です。

とはいえ、増配によって資金が増えるのなら、これもよし。

いずれにしても、起点は自己増殖する価値であり、この価値増殖の手段となるのが、社会的に制御されない社会的生産過程であって、この過程は株主の総意を積極的に排除します。

もし仮に、全企業の全利益を株主がすべて個人的に消費してしまうなら、労働者の無償労働がうみだす剰余価値が資本に転化することはなく、社会的生産過程の発展は止まり単純再生産に陥ります。株主の個人的消費に向けた奢侈品部門の生産は拡大でしょうけど。単純再生産で成長企業がなくなれば、投資家の判断基準とやらも謎です。究極の株主モニタリング社会主義は崩壊です。株主市場社会主義自身が株主全剰余価値取得権を否定するのでした。
by kamiyam_y | 2007-08-09 22:41 | 資本主義System(資本論) | Trackback | Comments(0)

資本を売買する資本4 襲来するファンドと、国内産業資本との対立か

増配要求業や乗っ取り業も、皮相な見解では経営者支配に対する株主原理からの闘争のように描かれましょうが、ちがいます。外資という会社が主体となっているのであって、株主と経営陣の闘争ではなく、国境をまたがっての資本内部の収奪競争です。主体は外資ですらなく、グローバルに展開する資本です。個々の投機的当事者の背後では、マネーという形の資本が活性化することで資本市場のグローバルな形成運動がすすんでいます。

日本の産業資本にとって、海外のマネー資本が自分以上の不作法者にみえるために、それを追い出す必要に駆られて、相互持ち合いを復活させ、安定株主化工作に走ることもありましょう。

まっとうな産業労働を外資の投機のおもちゃにしてはならない、という発言を、産業資本の利害として宣伝することもあるかもしれません。「外資は短期的株価しか指標にしないから激しい賃下をねらう、外資は解雇も厭わない、日本の優れた雇用慣行が破壊される。大変だぞ」というぐあいに。

日本の産業資本の利潤追求とそのおこぼれに群がる人たちが、労働者のための会社防衛を主張することもありえましょう。自分たちもバブル期に投機に血道をあげていた過去を忘れ、いつもは自分の労働者の搾取強化に邁進していることも忘れて、ですね。

産業資本は、遊休貨幣の配分に参加しなければならない、しかし、投機屋たちに翻弄されるのはまっぴらごめんというわけです。葛藤するのであるよ、資本は。

この悩める産業資本が皮相でない思考に対して告知するのは2点です。

第1に、投機マネーによる産業資本からの収奪において、労働からの収奪が透けてしまう点。

《…資本主義的生産様式のなかではまだ多少なりとも正当なものとされている弁明の根拠が、ここでは消滅してしまう》(『資本論』第3部MEGA.Ⅱ/4.2,S.503)


資本がもしも、投機において、産業労働の産物を取得する自己の存在説明を失っている、のだとしたら、それは資本一般においても、産業的生産を行う資本においても、弁明の根拠を失っていることを意味します。他人の労働を、労働によらずして取得するのですから。

そこで労働者は気づくのです。投機的金融資本が産業資本による収奪を促進すること。諸資本が国境を越えて労働法制の弱体化をすすめること。貨幣資本が外から流入してくること自体が1つの必然的な流れであること。そして、日本の産業資本が市場開放の利益を望んでいること。

第2に、投機による不安定さが公共的利益に反すると認知されれば、それに対する規制を資本自らが求めざるを得ない点。翻弄される産業資本は、翻弄を避けるべく、公共的な規制を要求するはずです。
by kamiyam_y | 2007-08-09 22:38 | 現代グローバリゼーション | Trackback | Comments(0)

あまりに当然な自民党の記録的大敗(補足)

先々週くらいでしたか、バーでとなりになった社長(呼び名ではなく、月収数百万円のほんとの社長)が、酔っぱらいながら「アベはうよくだからだめだ~」と繰り返してました。グローバルに儲けていく会社の業績にとって戦前回帰的主張は困りますし、改革という言葉が雇用を増やすわけでもありません。

参議院議員の議長の座を失うことが自民党始って以来なら、これこそ戦後レジームからの祝福すべき脱却というべきでしょう。「私と小沢さん、どちらが首相にふさわしいか、国民に聞きたい」という安倍自身の発言を尺度にすれば、彼は、民意なくして首相の椅子に座り続けるのだ、ということを自ら宣言し続けていることになります。

近代的な憲法の原理から後退する共同体回帰的な、国家主義的な幻想に着色された「美しい国づくり」のための悪法が制定されない前に、こういう形で民意が表現されていればよかった、とも感じないわけではないのですが、強行採決の連続があったからこそ、民も安倍の本質に気づいたともいえるので、まああとからいっても仕方ないかと。

「美しい国」という主観的な基準を持ち出す鈍感さがすでに憲法の原理に対する無理解を物語っています。憲法に日本らしい伝統を書き込もうとすること自体、権力を制限する「立憲的意味の憲法」を理解していない。

《単数形で民族を語ることのもつ意味の破局的な効果に、私たちは敏感でなければならない》(樋口陽一『「日本国憲法」まっとうに議論するために』みすず書房、2006年、30頁)


道徳を国法に書き込むのは17条の憲法や武家諸法度の話であり、共同体的な自然発生的な観念を権力が持ちだすのは、「立憲的意味の憲法」に対する逆立ちした幻想です。

幻想のために安倍は小泉劇場の遺産を遣い込んでいるのか?

信濃毎日新聞の社説の次の一節も、今回の選挙結果のなかに、小泉劇場の贈り物を、自分の幻想(として現れるような幻想)のために用いたことに対する民衆の批判を読み取っています。

信濃毎日新聞[信毎web]|社説=自民大敗 安倍政治が拒否された

首相は教育基本法を改定し、改憲に向けた国民投票法を制定するなど、「安倍カラー」を打ち出し始めた途端に、国民から厳しい採点を突き付けられた。

衆院の与党の議席は、2年前の郵政選挙が残した“置き土産”である。安倍首相が自分の力で手にしたものではない。


小泉は、参議院で否決され廃案になった郵政民営化法案の是非を「民営化」そのものの是非として宣伝し、強引な衆議院解散総選挙を「民営化」について民意を問うとして実行しました。民営化法案の民意をつかって安倍は教育基本法改悪をしたわけです。

「カネと政治」「消えた年金」問題は、もちろん民衆諸個人の共同の産物が不当に消尽されてしまったことであって、これが安倍に対する民衆の拒絶感を増大したことはいうまでもありません。
by kamiyam_y | 2007-08-02 22:21 | 自由な個人の権利と国家 | Trackback