さっぽろ地下鉄のなかでマルクスを呼吸する、世界を呼吸する

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資本を売買する資本3 株主でも経営者でもなく

(続き)

弱小株主階級の革命はありえない。株主総会民主主義とは、私的所有の集積に、金力に、株主の投票力が比例する民主主義だからです。弱小株主の独自利害を守るための団結は阻止されます。個人大株主が弱小個人株主を支配する。分散した小株主は団結することなく、一部の株主が支配する。しかしこの個人大株主も会社という株主に道を譲る。巨大な私的所有が弱小私的所有を飲み込んでいくプロセスの側に反民主主義的生産増大の革命があります。

この株主階級全体に対して経営者階級は立ち上がります。株主のためだけでなく、われわれは地域にも、自治体にも、消費者にも、従業員にも配慮している。われわれは社会的なんだぞ、と。われわれは社会的だから、企業売買ビジネスとも増配ポーズとも闘う。

もっと鋭敏な経営者哲学者ならこういうかもしれません。われわれは権力をゆだねられている。われわれはとても強大な権力を持っていて、環境も労働者も破壊してしまう危険な存在だ。しかし、株主による信任だけではわれわれの権力は制御されえない。

市場がわれわれの権力をコントロールするというのなら、それは願望だ。株主資本主義は労働者に対して過酷ではないか。利益や株価でもって市場が罰してくれるなら、環境破壊なんて起きない。市場が企業経済にルールと責任を整備させる裁判官になるのだとしたら、それはすでにわれわれの社会的力を前提している。

しかしまた鋭敏な私的所有哲学者ならこう切りかえします。あなたたちの権力が社会的であるとしよう。しかしそれは独裁政治が担保する社会的利益でしかないのではないか。労働者も市民も消費者もあなたたちの権力にどんな民主主義的承認を与えたのか。株主による信任以外にどんな承認があるというのか。

いやいや、民主主義国家による法的規制をたくさん受けているのだから、社会性が認知されているのだ、と経営者哲学者。

しかし、あなたたちの権力は独裁であり、この権力はまさしく労働者主権の否定によるものであり、株主が権力を独占していることではないのか。私有財産が独裁に転じている。

私的所有哲学者はこうして自分を否定し、経営者哲学者も自己否定的なことをしゃべっているのでした。

哲学者には引っ込んでもらうとして、経営者階級の闘争には闘争相手が存在してません。株をもっているのがこれまた会社なわけですから。会社の経営者が会社を通じて会社の株をもつ。

もちろん経営者階級なんてものも存在していません。彼ら自身企業のカネの歯車です。

経営者は自分の財産を企業として使っているわけではなく、労働者です。となると、株主階級も経営者階級も会社階級もすべて崩壊し、資本主義とは、労働者階級の内部闘争ではないか。諸個人の労働における自己疎外が社会関係において実現しているだけではないか。

(続く)
by kamiyam_y | 2007-07-31 23:59 | 資本主義System(資本論) | Trackback | Comments(0)

資本を売買する資本2 会社は株主のものなのか

このまえの豊平河川敷の花火大会、魚シリーズとフルーツシリーズが気になりました。北海道の宣伝だったんでしょうか。明日も花火ですが、大学は試験中です。

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資本を売買する資本2 会社は株主のものなのか

「物申す株主総会 シャンシャン一転 ジャンジャン質疑」という朝日新聞の記事(6月14日・木・13版3頁)に、外資による増配提案が今年増えたという話がありました。《物言う株主》なんだってさ。株主総会で株式所有者に対する株式配当をたくさん寄こせ、という話。いまや東証の売買の半分を外国人が占めているらしい。

さいきんの資本は、会社は株主のものだ、という作り話が大好きですねえ。これがグローバリゼーションなんだとさ。

この作り話が資本を神化する後光になるのか知りませんが、このお約束はなくせません。労働が、その生産物・生産手段・生活手段を他人の私的所有物として自分に対立させることによって、資本は息を吹きこまれるのだからです。

生産手段は他人の私的所有物として労働者を排除しつづけなくてはなりません。労働する諸個人に対して彼等の労働の諸条件が資本という形をとることは、他人の私有物という境界が彼等を排除することです。

他人の私的所有物として、資本は株主をその権限の源として指示します。資本は、私的所有こそが起点だとする虚構を生みます。ブルジョア社会は、私的所有者の交換をその起源として空想します。この虚構は、株主を資本の起点とみなす虚構を求めます。ひらたくいえば、労働者から生産手段を取りあげるさいの権威が認められてなくていけません。

しかもです。近年はこの作り話によって、実態がたんなる投機にすぎなくても、株主の「民主主義」を装うこともできます。海外のマネーが民主主義を教えてくれるぞ。民主主義とは私有財産をもつ高貴なお方の集まりなのだ。労働者はただの人件費だ。投機のための策略も民主主義の大切なお題目だ。

他方、資本(産業資本)は、株主と称して乗っ取ろうとする連中を毛嫌いしてます。会社は経営者のものだ、とは自慢しないでしょうが、彼等には、会社経営者は社会的公共事業を任されているんだ、ケイマン諸島*あたりから飛んでくる鳥どもに国民の血と汗の結晶を持って行かれてたまるか、と立派な主張をすることが期待されます。

ケイマン諸島の経済 - Wikipedia 昨日の補足スティール・パートナーズ - Wikipedia

経営労働者もやっぱり労働者なんだぞ、と自覚してるかは知りませんが、株主神話なんて鬱陶しいかぎりだ、というわけです。わが会社は、労働者から選抜された人が役員にもなれる労働者民主主義資本なのだ。

なんていわねーか。

会社の利益は未来への投資として、私的公共事業への投資として会社自身に帰属するべきであり、株主なんぞゴミや塵になってほしい。これがわが会社の朝の社長訓話。

他方株主はささやきます。株主が増配要求することが民主主義ならそれは労働者にとっても、会社権力を規制するから、労働者と株主は仲間だ。どうだい?株主労働者民主主義同盟。

しかし、です。株主が自分の自己労働の産物を株式所有に変えたとしてもです。会社のカネを実際に用いて増大させるのはすべて労働者の汗水涙です。労働者のもたらした利潤が、分割され分配されたものが株式配当です。株式所有を理由に株主が手にする配当は、労働者の産物、剰余価値です。

他方、剰余価値を産業資本に変えることこそ資本蓄積であって、こちらの発展からすれば、つまり産業資本の発展からすれば、資金提供者による剰余価値獲得は抑えた方がよい。利子率が低いほど借りやすいのと同じです。奢侈品生産部門の資本からすれば金利生活者に安楽死してもらっちゃ困るんですが。

利潤と賃銀が対立するなら、配当増大は、賃銀抑制と結びつくでしょう。同盟崩壊。

株主の間にも階級社会が拡がります。株式の単なる転売からすれば、配当増大が株価上昇につながるならよいが、企業の業績が悪化して株価が下がるのは困る。増配支持組と反対組。それよりも個人株主階級と、企業そのものが株主になっている支配階級との対立。あるいは企業の社会的責任を追求するために株主となった運動家と、投機目的の外資との闘争。さらには、株主民主主義の徹底が外資階級を倒す弱小株主階級による革命をもたらすことがあるのだろうか。

ありえない。

(続く)
by kamiyam_y | 2007-07-26 22:24 | 資本主義System(資本論) | Trackback | Comments(2)

資本を売買する資本1 会社を売買する投機的マネービジネス

昼から蒸し暑くなりましたね。ビアガーデンもこれくらいなら寒くないでしょうが、私はバーでアジアカップをみてました。疲れるほどの暑さではないのでまあいいかなと。


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資本を売買する資本1 会社を売買する投機的マネービジネス

「乱用的」ってなんなんだい?

スティールは「乱用的買収者」 防衛策発動が乱発の恐れ | エキサイトニュース

米国のファンドは「乱用的買収者」。ブルドックソースによる買収防衛策の発動は正しい。こう東京高裁は認定したわけです。

「乱用」の基準がこの記事だけだとわかりませんが、「市場関係者」とかいう人たちがファンドの行為一般が「乱用」の範囲内になってしまうのではと不安がっているようです。質的な線引きをできるのかどうか不安になりますよね、確かに。

とりあえずこの記事だけからいいたいことをいっておきます。メーカーは買収防衛の承認をもらい、防衛策をやめろとするファンドの側の仮処分申請の抗告は棄却。

「市場関係者」とかいう人たちは面白くないでしょう。たぶん彼らが欲しているのは、《私利追求こそが公共的なのだ》というお墨付きであり、これを拡げることなのですから。

じっさいここで高裁は、交換価値の差額追求という私的排他的存在の純粋なありかたそのものに対して、私利最優先そのものの純粋な存在形態に対して、制限を加えるべきと主張してます。高裁は、今回の私利追求による転売行為を正当性に欠けるものとして、認定してます。対する会社資産防衛という私的主体の権利を支援してます。

地裁が株主民主主義の手続きを根拠に会社防衛策を支持しただけなのに対し、高裁の判断はたんなる合法性にはとどまらないところに立ち位置をすえているようにみえますね。私利追求そのものは違法ではなく、「乱用的買収者」に対する会社防衛の権利を認めているのですから。2つの権利のぶつかりあいに対して、公益を代表して高裁はこう判断したのでしょう。

あえて拡げてみると、高裁はファンドの私利追求に対して、会社資産の防衛という敵対する私利の側に社会的利益を見いだしています。「乱用的買収」は公共的利益に合致しないのだ、というわけです。

物づくりの会社の側の自己防衛の方に公共的な意義がある、と宣言してます。

とはいえ、市場や私利を否定しているのではなく、私利追求の公共性、市場の正当性を担保するためには、私利追求の純粋な現れは制御しなければならない、という資本の要請を宣言している、ともいえましょう。

高裁の判断に対してあげられている「懸念の声」、グローバル化のなかで脱落してしまう、という不安は、我こそは資本主義の必然的な発展なのだ、と無自覚に語っています。避けられないグローバル化のなかで競争しなければならないという不安。あるいは、これがもたらす私利をじゃまするなという焦り。

この競争信仰は、貨幣資本の日本への流入と、日本企業の買収とが進むことに、自分の私利の実現を見いだす立場です。国境をまたがる企業の分解と再結合に、マネーの移動に社会的利益を見いだすともいえます。この信仰は、剰余価値の再分配、貨幣の再分配、自分の私利の実現のための社会的利益の実現を、他者を収奪する社会的利益の実現を見いだす。対立的な社会的利益の実現を見いだす。

私利こそ社会的という市場主義的弁護論を与える代わりに、高裁は、「乱用的買収者」という言葉によって投資ファンドの存在そのものを脱正当化してしまいました。しかし外資によるM&Aを止めることはできません。高裁は、資本主義の発展を前提にしながら資本主義を批判してるわけです。たんなる合法性の問題を越えた社会意識としての批判といいますか。

(続く)
by kamiyam_y | 2007-07-26 00:34 | 資本主義System(資本論) | Trackback | Comments(0)

抽象物としての「市場経済」(3)

むかしなにかのシンポジウムで、「資本主義」という言葉を使うのはやめよう、いまは「市場経済」なんだ、という趣旨の自説を述べた人がいたのをふと思い出しました。たぶん自称社会主義国家の崩壊からそれほど経っていなかった頃だと思います。いまは逆ですよね。資本主義の弁護も批判も、資本主義の外部に頼ることができません。資本主義システムとその矛盾をつかむことだけが問題です。

先日唯物論研究会というところで報告をしまして、話した内容は、【生産物の交換は、資本主義以前にも部分的には存在したが、自己再生産的なシステムとしてイメージされる「市場経済」なるものは資本主義システムにほかならず、資本主義から切り離された「市場経済」なるものは、存在していないものを論じているにすぎない幻想なのだ】といったこと。これに関連して、久々の続きを少し。

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〈抽象物としての「市場経済」〉 (1)(2)では、「経済学批判要綱」として知られるマルクスの1857-58年の草稿の「資本に先行する諸形態(フォルメン)」とよばれる箇所を読んでメモをしてみました。

その内容は、《交換価値》は、労働する諸個人が自己の客体的諸条件を喪失することによってなりたつ、という点に集約されます。

以下、この点を要約的に解説してみます。

① 交換価値は使用価値を包摂して生きている。

「市場」とは、交換価値の運動によってなりたっている社会的生産のことである。交換が、個別の生産の社会的生産への収束と、社会的生産の個別の生産への発散を媒介している。この交換価値が生き生きとそこに現れているとは、どういうことか。流通する生産物である商品は、交換価値と使用価値という排除しあう性質をもつ。交換価値は、経済的諸関係として意味のある独自の使用価値として、生きた労働を自分の過程に引き込む。

流通は生産を包み込むことで実在する、といってもいい。交換価値が絶えることなくそこに在り続けるためには、交換価値が自分を生み出す独自の使用価値を包摂することによって自分の能動性を維持しなければならない。これが交換価値にもとづく生産である。「市場」は生きた労働を、過去の労働である交換価値が吸収する資本の運動としてしかリアルな社会的生産とはなりえない。交換価値は、使用価値を包摂しつつ交換価値として不断に存在する。

『資本論』では「交換価値」は価値の現象形態として具体化されるけれど、ここでは、私的生産における生産の社会性を示している。交換価値の発展が資本なのである。

交換価値は資本であり、それは生きた労働を自分の前提として必要としている。

② 交換価値の実現は、交換価値の否定である。

生きた労働は、生きた労働を提供する労働者が必要とする生活諸手段を越える剰余生産物を生みだす。労働者は、その労働の処分権、労働能力を貨幣という交換価値と交換するが、これは労働能力を再生するのに要する生活諸手段の価値に等しい。生きた労働は等価交換を越える剰余価値を資本という自己維持的な交換価値に与える。交換価値は、交換の否定によってリアルであるという自己解体的、自己分裂的な運動である。剰余価値の生産は、等価交換の否定なのだからだ。

③ 交換価値は自分のなかに目的と手段をもつ生きた運動である。

このような、消えない、生きている交換価値は、剰余価値を自分の過程の結果として自分にもたらす。

この剰余価値は、さらに交換価値の運動の出発点になる。つまり資本は、剰余価値を資本として投下することで、剰余資本の成立によって生きている。剰余資本を立てることで、流通は資本の流通である。いいかえると、流通は生産を包摂して生きており、生産は資本の流通過程として流通を立てる。全体としての生産過程の姿態として流通はリアルである。

交換価値は自己を目的として、生きた労働を手段として包摂する能動的なものとして実在する。

④ 交換価値の能動性は、労働する諸個人の自己の対象からの疎外を前提している。

交換価値の自立において、剰余価値の剰余資本への転化において、働く人々の対象ははじめからすべて、彼等の労働が等価なしに他人に取得され蓄積したものである。剰余資本は労働の疎外、不等価交換という労働のありようを示す。

《剰余資本においては、…[略]…いっさいの実在する現在の資本が、そのあらゆる要素が、一様に、対象化され、かつ資本によって取得された他人の労働として、交換なしに、等価物と引き替えられることなしに取得されているのである。》(Gr.,S.407.「要綱」は『マルクス資本論草稿集』①②、資本論草稿集翻訳委員会訳、大月書店、1993年、から。訳文中の強調、ルビ、注釈等は基本的に省略する。Gr.と略す。『資本論』は大月書店版。D.K.と略す。)


労働者は自分たちの剰余労働の産物によって雇われている。労働者自身の剰余労働によって、労働者は自分が従属する自立した交換価値を不断に生み出している。

⑤ 交換(「市場」)は、このような剰余資本が示す事実とは反対の、資本主義の弁護イデオロギーを分泌する。

剰余価値の資本化という連続性から断ち切られた直接的なものが、「市場」としてイメージされる個別の交換であり、この交換は、生産された交換価値どうしの交換であるから、等価交換である。資本は、一回限りの交換として現われる直接的な姿においては、単なる等価交換である。

しかし、生産過程の連続においては、過程の連続性を断ち切られて眼前に現われる等価交換という姿は、ウソである。孤立した交換は、資本主義システムを信仰的にカモフラージュする意識を分泌する器官にほかならない。

弁護論は、資本の剰余資本化、資本の蓄積を、現在の運動として捉えずに、単なる等価交換から説明する。それ以外に説明できない。だから、資本蓄積は「非資本家がたくさん節約して貯め込んだ結果、資本家になった」から実現した、というおとぎ話が信じられる。

⑥ 剰余資本は、この弁護イデオロギーを自ら不断に批判する。

実際において、自由平等の交換価値のシステムは、等価交換の否定によって、自由平等の否定によって成り立っている。自由平等を分泌する点は、生産過程総体の部分にすぎない交換に生まれている。交換が生み出す本質隠蔽的な、信仰は、交換の実現が自ら破綻せしめる。

⑦ 労働する諸個人の自己の客体からの疎外を、この疎外自身が自ら止揚する地点に向かって進む。

交換価値のシステムは、労働者が自己の対象、客体的諸条件(生産手段、生活手段、貨幣)のすべてから排除されることを事実上の前提としており、この前提自体を剰余資本の産出において不断に生みだしている。先行する状態から、交換価値のシステムへ移行は、労働者がその客体的諸条件から分離する過程である。私的所有の完成は労働者の非所有の完成である。

《…[略]…労働がふたたび、自己の客体的諸条件にたいして、自己の所有物にたいする様態で関わるためには、…[略]…対象化された労働と労働能力との交換、従ってまた交換なしでの生きた労働の取得を措定する私的交換の体制に代わって、それとは別の一体制が登場しなければならないのである。》(S.412)


等価交換を立てながらそれを否定する私的交換のシステムが資本主義であり、これは労働が自己の客体的諸条件に対して他人の所有物に対する様態で関わることを前提している。疎外された労働が他人の富、他人の所有物を増大させることが、流通、交換価値を立てている。

《私的交換》のシステムは、労働する諸個人の自己の客体からの疎外によって実在する。労働する諸個人が自己の客体を奪還することだけが、唯一現代の地球規模での問題群が示す課題である。環境保全と両立する「持続可能な開発」とは、労働する諸個人から独立した客体の運動を止揚すること、この独立によってなりたつ私的利害追求による破壊を止揚することを求めるのだから。

《私的交換》のシステムは、自身を止揚する地点に向かって進まざるをえない。

⑧ 資本主義システムの外部に変革の立脚点があるのではない。

交換価値の発展は交換価値にもとづく生産そのものを突破する。資本主義システムの「外部」によって資本主義システムを人為的に崩壊させるのではないし、そんな無垢で純粋な外部を想定すること自体が、資本主義をその表象によって隠そうとする弁護イデオロギーの裏返しにすぎない。外部とは表象なのだから。

労働の発展が社会を変える。資本主義システムも、それを超えるための「外部」によって変るのではない。「生活世界」が「システム」によって「植民地化」されるのでもなければ、「生活世界」によって解放が実現するのでもない。

⑨ 「市場」は、資本主義システム総体の一局面としてのみ存在している。

「市場経済」なる自立的なものを想定するのは、あいまいな表象か、常識か、ただの弁護論である。「市場」は資本の自己形態としてのみ存在している。

ざっと書いてみましたが、まず②あたりをさらに追求してみましょう。簡単にですが。

(続く)
by kamiyam_y | 2007-07-24 01:10 | 資本主義System(資本論) | Trackback | Comments(0)