さっぽろ地下鉄のなかでマルクスを呼吸する、世界を呼吸する

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Gewalt装置

やっぱのどいてぇー。4日前からまた悪化してます。でもテンションは上がってきてるんでもっと無理しますので、お構いなく。それより皆さんは消えた年金5000万件を追求してください。

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海上自衛隊の辺野古派遣に対して大学教員が抗議声明を出したそうです。昨日の日刊ゲンダイで斉藤貴男が紹介してました(5月29日号「二極化・格差社会の真相 軍艦派遣で言論封じの強権政治は許されない」)。

派遣の法的根拠はどこにあるのでしょうか。

久間防衛相が「掃海母船は機雷を除去する船で」云々と発言したことに対し斉藤が「辺野古の海のどこに機雷が浮いているのか」と述べているように、無意味な派遣です。

無意味な派遣どころか、法の拡大解釈です。法的根拠としてはなにかこじつけるのでしょうが、この不要な派遣の意図が、もしも、沖縄辺野古の自然と生活を犠牲にして基地建設に着工し在日米軍再編計画をすすめるために威嚇をしたという米軍向けのポーズをとることにあるとしたら、あるいは、米軍の海上基地建設に反対するじいさんばあさんの座り込みに対する威嚇にあるとしたら、そこに、軍事力を民衆抑圧に用いる国家の暴走を見ることはけっして大袈裟なことではありません。

シビリアン・コントロールを単なるタテマエにしてしまう暴挙というべきでしょう。

声明は
http://saron-kinyoubi.cocolog-nifty.com/blog/2007/05/post_963e.html

琉球新報の記事
http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-24047-storytopic-1.html

琉球朝日放送のページ
http://www.qab.co.jp/01nw/07-05-18/index4.html

このページによると、久間防衛相は「自衛隊はあらゆることに対応して、国民のためになる場合に法に基づいて可能なことはやれる」と言っているようですが、なにを言ってるんだか、ですね。法に基づくということは脅しでもなんでもできるということじゃないでしょ。この派遣の不当な意味あいが分っていないのでしょうか。イラク戦争は間違っていたとか、この人ときどき面白い発言してくれるんですけどね。

琉球大学法科大学院高良鉄美院長が言うように、「(法律の)趣旨から外れ」てます。

その他参照:
http://miyagi.no-blog.jp/nago/2007/05/post_4443.html
by kamiyam_y | 2007-05-29 20:11 | 民主主義と日本社会 | Trackback(1) | Comments(0)

脱格差ってなんじゃい?

農林大臣が自殺し、ザードのボーカルの人も亡くなったんですね。授業の時雑談してて学生から聞いたので、確かめてみました。

松岡農相の死亡を確認 遺書があり自殺と断定 | エキサイトニュース

緑資源談合に捜査が入ったからでしょうか。擁護せずにさっさと切ってればこんなことにならなかったでしょうに。

<松岡農相自殺>首相の擁護裏目 参院選に影響必至 | エキサイトニュース


<ZARD>坂井泉水さん死去 病院のスロープから転落 | エキサイトニュース

私自身はDVDもっているんですが、観たことがない。にもかかわらず、40歳という年齢に人ごとじゃない感じを受けてしまいます。若い人もカラオケで歌う人いるし、ひろく人に楽しみを提供するのはすばらしいことです。ご冥福を祈ります。

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雇用・労働はどこへ向かうのか - 慢性疲労、ふらふら日記 - Yahoo!ブログで知りました。

規制改革会議
>脱格差と活力をもたらす労働市場へ~労働法制の抜本的見直しを~(PDF)

労働者の賃金を下げないと、雇用が減るぞ、判決などただの一時的なものだ、労働者の権利を守ることは労働者の利益にならないぞ、とか、脅し文句に読めます。賃金不払い残業の合法化のためにひねられた苦しい論法として書かれたのか、本当にそう思って書かれたのか、ということはどうでもよく、背後の利害関係が大事です。難しい表現や立派な言い回しに欺されないで、背後の社会関係、社会の動きを考えながら読むことが大切だと思われます。
by kamiyam_y | 2007-05-28 22:44 | 民主主義と日本社会 | Trackback

隔離ゆえに

不潔な時代に育ったおじさんたちに痲疹(ハシカ)は関係ない。

<はしか>若者に感染拡大 予防接種敬遠の世代 | エキサイトニュース

私ののどが痛かったのも活ボタンエビを食べて暴飲しただけのことです。気持ち悪い話が苦手な人と、論点の錯綜につきあえない人は、この先読まない方がいいですけど、ボタンエビ、

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by kamiyam_y | 2007-05-24 23:40 | 資本主義System(資本論) | Trackback | Comments(0)

購買者の義務

「あのときもやばかった。生クリームとかも平気で消費期限切れの使ってた。もちろん開けてはなかったけど」

不二家でバイトしたことのある人の話。今回のことがあったから、「あのときもそういえば」と記憶が選ばれ強化される、ということもありましょうし、消費期限を守っている工場や店舗もあったでしょうし、不二家以外のケーキ屋でもありそうなことですから、とくに一般的な教訓を出す気はないんですけど、思い出したので。

原材料の衛生状態を規制するのも社会の役目でしょうが、労働力の衛生状態を規制するのも同じです。不二家はたぶん死者は出してませんが、過重な労働は死者を出します。賃金不払労働だって立派な労働力の不当消費。憲法第99条を首相が無視してもたいして批判されない社会ですから、それでも、皆さん平気なのかな。

というのは冗談で、労働力を会社に貸している私たちは、労働力を、正常な状態で使わせる権利があります。

逆の立場でもしも私が経営者だったら、労働者の温情に甘えて違法状態を抱えたままにはしておくのはいやです。むしろ、自分の会社はサービス残業一切なしの状態にして、サービス残業野放しのライバル企業をどんどん告発してやります。時短という社会の進歩を自分の排他的利益に転換する素晴らしい経営者です。

ちょっと難解なメモをつけときますと、社会の利益を利己主義に吸収し、利己主義を社会の利益に結びつける。生産において社会が立てられていない分解状態(でありながら結合しなくてはならない状態)が市場ですから、市場を通じた発展はこのような転換としてしかありえない。

「今日の支配階級は、労働者階級の発達を妨げる障害のうちで法律によって処理できるいっさいのものを除去することを、まさに彼ら自身の利害関係によって命ぜられているのである」(資本論第1部S.15 )

法律で処理できる障害はすべて除去せよ、という社会的命令こそ、支配する者に自身の首を絞めさせる利害関係(経済法則)の矛盾した要求であり、そこに実在する大衆の共同性の発展です。しかも、資本というシステムの維持のためにはこうした障害を除去しなければならないが、除去することは資本というシステムの除去できない壁を維持することによって、かえってそれを露出してしまうでしょう。「資本の矛盾」に強引に話を流してみました。

おまけ
by kamiyam_y | 2007-05-13 20:23 | 資本主義System(資本論) | Trackback | Comments(0)

抽象物としての「市場経済」(2)

子供の日って、「自由と平和」を記念するためにあったのですね。休むのならこのことを知って休みましょう。

国民の祝日に関する法律

第一条  自由と平和を求めてやまない日本国民は、美しい風習を育てつつ、よりよき社会、より豊かな生活を築きあげるために、ここに国民こぞつて祝い、感謝し、又は記念する日を定め、これを「国民の祝日」と名づける。


「美しい風習」って謎ですが、祝日で祝われる人の区分を見ると、俺たちのためにも休みをって声が聞えてきそうです。「成人の日」は大人を祝う日ではなく、大人になったことを祝う。あとは労働者と引退者と死者と国の象徴です。

第二条の祝日の説明がヘンですね。民主社会の法らしからぬ臭いがします。祝日をお上に決めてもらえないと休めないわれわれも考えなおす必要はないでしょうか。こんな理由で強制的に仕事を休みにされるのは御免被りたい、という日もありますし。

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(続き)

一回限りのものとして見ると、資本は、自分の結果によって自分を立てる交換価値という自分の意味を見せてくれません。単に消えていく交換価値です。資本は、他人の労働を無償で取得し(いわゆる「搾取」といってもよい)、そのことによって過去の労働を《交換価値》として蓄積していく運動。こうやって他人の領域にプレゼントすることで労働者は自分たちの巨大な力をつくりだしていきます。資本は、他人の労働を剰余価値として得て、それでまた他人の労働を得るという、制御されない拡大競争です。

資本は突如始まった一回限りのものとしてつかむと、自己労働による所有という商品交換一般の結果として始まったことになります。それ以外の想定は、資本の外の想定です。搾取をいきなり説明の方法にもってくるのは近代民主社会でみとめてないことです。ちゃんと出発点を共有しながら、議論は進められねばなりません。

資本は一回限りのものだと交換の産物であり、自由平等な交換こそが社会だ、という商品交換の御伽噺を資本は利用します。しかし、交換が社会だというのはウソで、交換は自分自身で運動するようなシステムではないんです。

なぜか。単なる交換とは、特定の具体的欲求を充たす消費のために、生産物を他人同士が交換しあうことです。交換の形式的な尺度として交換価値が立てられるとはいえ、この交換価値は消えてゆく契機にすぎません。はやい話、交換価値といっても、ただの交換では、出発点と終着点が一致しないで、発散してしまう運動でしかないってことです。

ですから、商品流通は商品流通にとどまっているかぎりは、自己を再生産するシステム総体にはなりえないんです。「自己更新の原理」をもたないわけです。

では、交換価値が交換価値としてたえず現れてくるための基礎は何でしょうか。それは、交換価値が、自分を起点にして自分を結果にし、自分を結果にしてそれを起点にする、という運動を行うことです。こんなおかしな交換価値を資本ていうんです。

奇妙キテレツだって?それは人間の労働がそういう逆立ちを運動原理にしているという現実です。交換価値というとわかりにくかったら、貨幣でもいいです。貨幣が自分をたえず増大させることが、商品交換がシステムとなる基礎にあったのです。私たちのポケットにある貨幣はこういう貨幣じゃありません。明日のラーメンや今日の衣服に消えていく生活諸手段の姿であり、消費によって労働力になっていくもの。貨幣を目的とする生産が、一方で資本を増大させるなら、その裏側で労働者は貨幣を得ては失い、すっかんぴんの労働力として再生産されてます。

交換価値が交換価値を生む。このことは、自分を増大させる力である力である生きた労働を、交換価値が自分に固有の、自分に対立するものとして、つまり使用価値として包摂することによって成りたちます。生きた労働を自分の対立物として立てることではじめて存立する交換価値、それが、資本です。交換価値において出発点と終着点が一致するような交換価値の循環運動とでもいえましょうか。

《このような交換の体制は、それの基礎としての資本にもとづいているのであって、それが資本から切り離されて、表面上そう見えているように、自立的な体制とみなされたとしても、これは全くの外観にすぎない。しかしこれは必然的な外観なのである。》(『マルクス資本論草稿集②』資本論草稿集翻訳委員会訳、大月書店、1993年、S.412.訳文の《体制》には《システム》とルビが降られている。生きた社会的生産有機体、自己再生産する総体のこと。)


単なる商品流通は、資本を基礎とするともに、そこから切り離されて、《表面上そう見えているように、自立的なシステム》として、現れます。いってみれば、この見えたままのシステムは、無批判につかまれた資本です。資本は、こういう《ブルジョア社会の観念的姿態》(『草稿集①』S.172)を、理念的表象的なシステムを産みだしているんです。

生産のありかたはそれにふさわしいイデオロギーを生みだすってことですね。

《全くの外観にすぎない》とはいっても、このシステムは、単なる偶然的思考の産物なんてものではなく(それだったら対象にする意味がない)、このシステムの背後にあってそれを産みだしている資本が自分のカタチとして存立させているのです。

【流通の全体が真に総体的なものにみえるのは外観にすぎないが、それは資本にもとづいており、必然的な外観なのだ】ということですね。商品交換は、資本主義社会の仮の総体として現れるんです。資本主義社会は背後の生産の媒介から切り離されて、交換が自立的なシステムになっているような外観として現れるわけです。

商品はそれ自体では自立しえないけれども、それが自立することは資本である。資本というシステムは、商品を自分の絶対的なカタチにしています。このカタチに即して、生産関係の物象化という資本主義社会の特質がちゃんと分析できます。

交換に即して、資本主義システムはここでは物象的な社会的生産のシステムです。交換が支配する社会的生産体系として、物象によって媒介される労働の社会的配分として、現れます。商品に即して生産関係の物象化の構造が規定されています。ここで資本というシステムは、自分に先立つ自然生的な共同体による生産とするどい対比をなしています。

さて、商品は資本が生みだした商品であるにもかかわらず、この商品大量からそれだけを取りだすと、資本という規定を剥ぎ取られた単なる商品、商品一般です。この商品一般がリアルに存在し続けることは何にもとづくのかたどってみると、それは資本という根っこを引きずりだすことになる。いいかえると、商品は商品大量をつくる細胞であり、この細胞がそれ自身で自己再生産するようになる発展を確実にたどっていけば、商品交換の総体がリアルに総体であるための隠れた基礎であった生産の運動が現れ、資本という生産過程のありようにもとづくものとして総体が現れる。『資本論』の課題、全体の流れも、決して議論の外から与えられた目的などではないんですね。

交換価値に対して対立する生きた労働は、具体的にいえば、賃金労働者の賃労働です。この対立関係は、土地や機械や原材料など労働の客体的諸条件のすべてがこの自立する交換価値のカタチとなること、他方で労働する諸個人が自分の客体的諸条件のすべてから排除されることです。資本の剰余資本としての現実の蓄積は、この関係そのものを再生産することです。ですから、資本に先だつ過去の生産は、労働する諸個人が自己の客体的諸条件に対して自己の客体として関わることにほかなりません。

《…[略]…、一群の個人を、労働の客体的諸条件にたいして彼らが行なっていたそれまでの…[略]…肯定的な連関から隔離し、これらの連関を否定し、またそうすることによってこれらの個人を自由な労働者に転化させた過程、その同じ過程が、こうした労働の客体的諸条件-すなわち土地、原料、生活手段、労働用具、貨幣、またはこれらのいっさい-を、いまではそれらから解き放たれている諸個人へのそれまでの結びつきから、可能的に解放したのだ、ということである。労働の客体的諸条件は依然として現存しているが、別の形態で、すわなち、すべての古い政治的等々の諸関係がぬぐい去れている自由なファンドとして現存しているのであって、それらはもはや、ただ諸価値の形態、自己に固執する諸価値の形態でのみ、かの引き離された無所有の諸個人に相対している。》(S.405-406)

「先行する諸形態」は、生産の客体的諸条件に対して労働者が自分たちのものとして関わる本源的な状態にもとづいています。生産を始めたばかりの人間は、まだ大地に発生した群生動物ですから、眼前の大地を前提して、共同体の縛りのなかで生産します。生産の産物が生産の前提になるのではなく、まだ前提は天然の自然です。

ですから、群生するサルから一歩踏み出した人類の労働は、土地の共同所有を原点にしているといっていい。これを原点として、諸個人が都市共同体員の一員として公有地から区別される私有地を得ているローマのような状態や、家族が個別に土地をもっている状態、村落で土地を共有するありかた、農奴制、同職組合のように用具を労働者の労働が包摂しているありかた、またそれの身分的姿態、農奴制を解体した独立自営農民、などが共同所有を基礎としつつそれを解体しつつあるものとして現れてくるのでした。重要な点はどの形態も、生産手段に労働力が癒着している点です。

生産手段(労働対象・労働手段)と、生活手段(生産物のうち個人的に消費され労働力再生産に用いられる部分)、そしてそれらの交換手段である貨幣、などあらゆる客体的諸条件に附着している状態から、諸個人が離脱すること、客体的諸条件から切り離されること(自由になること)を、資本主義を生みだす労働は前提しています。この関係を自ら再生産するようになって、資本は自らの足で立つわけです。

生産手段・生活手段・貨幣はすべて特定の個人から切り離され、交換を待つ姿となっています。交換価値=資本は、《自由なファンド》です。他方で労働力は自分の存在の根拠から切り離され(=抽象化され)、無所有の自由な労働者の生存の手段になっています。労働する個人は自己の労働力を疎外してます。

生産手段・生活手段・貨幣・労働力といった生産のあらゆる要素が商品として交換を介して連結しうる状態は、まさに資本の大前提であって、資本主義は商品大量という総体として現れる。商品大量、商品一般として現れる資本は、労働力も商品一般に包摂し、貨幣も包摂し、存立する。労働力を商品として前提する資本は、なによりもまず生産物の商品一般としてのありかたを自分の直接の姿としています。

《ところで、資本主義的社会では生産者ははじめから、自分の必要のためにではなく、他人の必要のために、市場のために生産するのであり、彼の生産物ははじめから、商品の役割を果たすべきもの、したがって彼自身にとっては交換手段としてのみ役立つべきものなのであるが、このような資本主義的社会が存在できるのは、ただ、生産がすでに、互いに並んで自立的に営まれる有用的な労働種類のひとつの多岐的な体制にまで、つまり広範に分岐した社会的分業にまで発展したときだけである。》(ヨハン・モスト原著、カール・マルクス改訂、大谷禎之介訳『資本論入門 テキスト版』岩波書店、1987年、7頁。訳文中の振仮名、傍点は省略)
 《個々の商品は、ここでは一般に、その商品種類の平均見本とみなされる。それゆえ、等しい大きさの労働量が含まれている。》(『資本論』)


それ自体としては資本という規定を含んでいない商品一般、大量生産商品から《平均見本》として抽出された1商品から、資本主義システムの現実的=概念的な把握が始まる、ということも、こうして『要綱』の記述をもとにして考えてみると、理解が深まる気がしますね。

そこだけ読んでもなぜ商品の分析が起点なのかさっぱりわからない『資本論』冒頭の有名な一文のあまりの不親切さこそ、唐突さこそ、読み継がれるテキストに不可欠の不親切さなのかもしれませんけど。商品論が、説明に借りのある暫定的な架空のモデルであるというような理解がもしあるなら、あるいは、資本主義社会に先行して商業社会という生産様式が存在したかのような想定がされるなら、それはちょっと違うんじゃないか、と疑問をもつに充分な種明しが『要綱』には隠されているのではないか、と思えます。

《剰余資本においては、…[略]…いっさいの実在する現在の資本が、そのあらゆる要素が、一様に、対象化され、かつ資本によって取得された他人の労働として、交換なしに、等価物と引き替えられることなしに取得されているのである。》(S.407)


資本は《剰余資本》において、生産手段も労働力も、労働する諸個人から無償で取得した労働が形を変えたものだということが明白です。《剰余資本》への転化(蓄積)において資本は資本としての自分の由来を告げている。この《剰余資本》は自らの産物がまた《剰余資本》に転化することによって剰余資本として証されます。

資本の累進的な増大、蓄積のための蓄積こそが現代を現代として規定している生産です。この転倒を通じて諸個人は自らの普遍的な発展の土台をつくりだしています。

《…[略]…労働が…[略]…資本の賃労働にたいする関係として現われている、疎外の極度の形態は、一つの必然的な通過点であるということ、だからまたそれは、即自的には、まだ転倒した逆立ちさせられた形態においてにすぎないが、すでに生産のいっさいの局限された諸前提の解体を含んでいるということ、それどころかそれは、生産の無制約的な諸前提を生み、つくりだし、したがって個人の生産諸力が総体的、普遍的に発展するための十分な物質的諸条件を生み、つくりだすということ、…[略]…》(S.417、傍点は省略)。


資本は人類史のあらゆる局限性の総括だ。こういえそうです。資本に先だつ局限された生産を解体するだけではなく、自分自身をも局限された生産として示してしまいます。このダイナミックな歴史過程こそ、資本の現実的な蓄積に潜む本体であり、これによって人類は、諸個人が普遍的に発展するための土台を、労働によって形成しています。

《…[略]…労働がふたたび、自己の客体的諸条件にたいして、自己の所有物にたいする様態で関わるためには、…[略]…対象化された労働と労働能力との交換、従ってまた交換なしでの生きた労働の取得を措定する私的交換の体制に代わって、それとは別の一体制が登場しなければならないのである。》(S.412)


資本は直接的には交換の総体、私的交換のシステムとして現れるが、このシステムの真相は、生きた労働を無償で取得する私的交換のシステムです。搾取とは開発です。交換価値の自己目的化は、剰余労働の飽くなき追求です。この大衆の犠牲が人間の普遍的な力を敵対的な形ではあれ準備します。

私的交換のシステムを「市場」とすれば、それは現在、世界市場を端的にイメージできます。現在資本は、世界市場というシステムとして登場しています。現システム自身に潜む方向性、いいかえると、現実自身による変革運動、それは、物象化された生産関係の不安定で、本質的に《持続可能性》に欠ける性格を超え出る自己止揚運動ですが、この運動は、世界市場に対する人間の制御能力の形成・発展として、また同時にこの能力が受けとる限界として、つまり制御を課題としつつ制御できないという矛盾として、実在しているといってよいと思えます。グローバルに現れる資本の矛盾(環境破壊、労働問題、企業による民主主義の簒奪など)が要求しているのは、世界市場の、といっても物象的で無政府的な、資本の姿としての世界市場の、中身を変えていく智慧を出しあえ、という私たち自身の声にほかならない、と思えます。

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話のついでに告知だけしておきます。

桜井書店
e-hon 本
セブンアンドワイ - 本
Amazon

手に取った感じがよかったので奥付の装丁者の名前を検索したら、これしか出てこないのでたぶんこの人と思われます。
IRIS(イリス)最高のデザインが見つかるサイト
文章表現をネットで配布したり売買することができる時代に本という器ごと売るのですから、器に作品性が求められ、中身の文章それ自体にはないメッセージを付けて人に渡すのが望ましく、感覚的な(フェティッシュな)欲求を満たす有用性が大事。

中身についてはとりあえず、次のように宣伝めかして言っておくにとどめておきます。すなわち、この今の現代ほどに、諸々の矛盾が噴出し資本主義の運動の分裂的性格が鮮やかに乱れ咲く時代はなく、資本論という書物の世界が生き生きと実感できる時はなく、この現代ほどに、類としての人間が自分たちのつくりだした協働の世界を自分たちのものとして了解していく過程であるというというこの書の意味が告知される時代はなく、また、この現代ほどに、学ぶことが、脳天気な支配的言説をくつがえし、孤立した諸個人を社会的な諸個人として勇気づける時代はない。現代をこのような生きた変革の時代として理論的営為においても実感してこれは書かれているのだ、と。

* ちょっと専門的ですが、お読みにならなくてけっこうですから、もしお買い求め下されば、幸いです。今回は友人や後輩諸氏には今のところ献本なしです。私と面識のないブログ読者で関心のおありの方にプレゼントしようかとも思ってましたが、とりあえず、宣伝だけさせていただきます。
by kamiyam_y | 2007-05-06 19:08 | 資本主義System(資本論) | Trackback | Comments(0)

抽象物としての「市場経済」(1)



都知事選も道知事選もケーサツ官僚の願い通りになったようですけど(都知事選に関する『週刊プレイボーイ』の記事、参照)、選挙といえば、フランス。

フランスは、その徹底した政治革命により近代的な人間解放を牽引し、ナチに対するレジスタンスにより欧州解放を達成し、欧州石炭鉄鋼共同体形成において欧州の恒久平和の意思をリードしてきた社会ですから、今後の欧州の進む方向を考えるうえで目が離せない気がして、及川健二『沸騰するフランス』(花伝社)で大統領選の予習をして待ってました。

及川氏のブログ(及川健二のパリ修行日記http://www.pot.co.jp/oikenparis)によると、サルコジは、「自由競争を尊重する米英流の競争原理をフランス経済に導入すると公約」し、「強硬な治安対策」(同上)で人気を取り、対するロワイヤルは「充実した社会保障」「手厚い子育て支援」を主張しているらしい(4/26《サルコジをロワイヤルが追う展開》)。

図式化すれば、写真の顔が誰かに似ているサルコジは、移民や犯罪に対する強硬姿勢が売りで、それは、幻想上の共同利害を表しています。こういう排他的な保守的言説が、英米的グローバル資本の自由を自由一般と取り違えているのは、ご多分に漏れず、というべきでしょう。他方、社会党の女性政治家ロワイヤルは、この方向のグローバリゼーションに対して、生活と福祉を防衛するという現実的利害に立脚し、理念的には、やはり社会的な連帯という欧州的なものを代表しています。こんなふうに単純化できそうです。

資本主義の現実の蓄積は、決して1つのアメリカという形を取っているわけではなく、総体において多様というべきであり、フランス社会の先進性は知っておきたいと思います。及川氏の本は、極右「国民戦線」のルペンへのインタビューや個性的な諸政党の紹介もあったりして面白いですよ。私がフランスにいたら「快楽党」を支援する・・・かどうかは分りませんけど(笑)。


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資本のグローバルな展開は、労働法制の空洞化、社会福祉の削減、労組への統制、金融資本への統制解体といった協同的なものの解体として進んでいるようにみえます。社会的理性への不信と「市場」への信仰として進んでいるようにみえます。しかしこの解体性は、資本の分裂的な運動が通過する局面のいわば片方にすぎません。解体を通じてつくりだすことが資本という生産なのですから。

以下では、この点には触れず、関連して、このように信仰対象となる「市場」について、資本の展開の姿態として捉え直してみます。といっても、『経済学批判要綱』のなかにあって、よく「資本に先行する諸形態(フォルメン)」とよばれる部分があるのですが、今朝10分くらいそれを読んで思ったことをメモしとくだけなのですけど。

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市場経済なるものの現在のリアルな存立は、労働する諸個人が自己の対象を全面的に喪失しながら、自己の対象世界を産出しているという一過性の運動にある。

いきなり命題ふうに言ってみました。

市場経済とよばれるものが自立してそれ自体で存在していると考えるなら没概念的といわねばなりません。あくまでも市場は資本の競争の姿態としてリアルなのであって、資本とは、形を変えながら蓄積する交換価値(過去の労働)、過程を進んで自己増殖する貨幣であり、この競争が現代を編成する運動をなしています。市場といった場合、単なる自由経済というようなあいまいな没概念的なイメージではなく、超国籍的な企業という形で増大する貨幣に牽引されている経済法則の世界をイメージするべきかと思われます。

労働の矛盾、すなわち、労働する諸個人にとっての客体的なもの(生産手段、生産物)が彼等のものではなく、彼等の労働が彼等の労働ではないという矛盾によって、資本は、労働者が産み出しながら労働者を支配する転倒的な活動体として存立しています。

この転倒こそが、それを通じて労働する諸個人が自らの普遍的な諸力と世界を産出していくのであり、これは避けて通ることができないとともに、この転倒性、敵対性によって諸個人は社会的な活動性を鍛錬され、自らの産出した世界を奪還することになります。このプロセスにおいて、資本の現在の運動が、社会的労働の普遍的諸力を形成するための《局限された生産》としてその限界を証し、資本自身を、通過点として規定していくのです。

市場は自由平等な売買の場として現れますが、それは単なる形式、表象されたものにすぎません。生きた総体において、その現実のありかたにおいて、市場は、資本の姿態として意味をもっています。

労働する諸個人の自己矛盾的な世界産出行為はしたがって、この市場においてするどく現れてきます。ついでにいえば、労働の矛盾と書きましたが、これは資本自身が、自己の産物によって乗り越えられる、という意味で、資本自身の矛盾でもあります。

「現代」はよく、協同性を解体していく新自由主義の支配とそれへの抵抗とか、姿を現しつつあるグローバルな「帝国」とか特徴づけられますよね。

しかし、強調しておきたいのは、どのような特徴づけをしようとも、現在の生産が発酵する諸条件以外に、現在の生産を廃棄する諸条件を育てる世界がないということ、このことが全く自明というべきだということです。現在の生産自身の矛盾にとってそれが関わらないどこかの外部から変革がやってくるということは、空想の世界を除いては、ありえません。どのような変革であれそれは労働の発展の姿態としてのみリアルなのですから。現在を産み出すもののなかに現在を超え出るものが産み出される、という当り前の事実を理論は遮断してならないと思います。

存在する世界は生きた自己運動であり総体であって、存在を再生産することが、その内面的な限界を自ら弁証法的に突破することでしか実現しない、という自己を超え出る運動です。資本という生産自身の産出するもの以外には、「現代」の「最新の」資本主義的生産様式の展開の内部以外には、それを止揚する諸条件を熟成する世界は存在しません。

さて、このように資本は社会総体を編成する力であって、資本は、資本という社会総体にまで自己を形成します。

とすれば、資本という生産様式あるいは資本という社会的生産有機体が、現在する生産様式になるには、自分に先行する諸々の形態を呑みこんで解体していく歴史的過程を通過しなければなりません。先行する生産諸様式から資本という生産様式への変革です。

いわゆる「先行諸形態(フォルメン)」の断片は、過ぎ去った歴史を並べる記述ではなく、資本の再生産によって立てられたものとしての流通を論じる途上で書かれたものです。

資本が資本の産物を前提にして現れる現在の進行は、生産の客体的諸条件と労働力とが癒着している共同体的な生産を否定した歴史状態を過去に想定しています。これに対して、資本のこの現在の進行を捉えない抽象的な見方では、資本は単なる自由な等価交換一般に解消されて現れ、過去の自己労働の産物として描かれてしまいます。このような構図が理解の前提として読み取られるべきでしょう。

この構図のなかで本源的状態の解体過程が記述されているので、いわゆる歴史の段階を人間がわかりやすくパターン化しようという話では全くありません。

『資本論』では蓄積、取得法則の転回、いわゆる本源的蓄積、資本の流通といった論点に分かれていく記述が『要綱』においては一体となっていて、それも1つの魅力でもあるんですが、それはさておき、資本による剰余資本の措定の記述のなかにあることを踏まえて読むことが、「先行諸形態(フォルメン)」の理解を分ける1つのポイントなのでした。

では、資本が今現在生きて運動して社会の基礎になっている、とは、どういうことなのでしょうか。単純にいえば、これは、資本が自分の成果である剰余価値によって生きた労働を再び吸収して自分を立てていく、つまり自分を前提にして自分を立てていくということが、不断に実現していることだ、といっていいかと思います。

資本は、貨幣で商品(生産手段と労働力)を買い、両者を結合して商品を生産し、労働者が消費する生活手段より多くの生産物を生産して、販売し、貨幣を回収する運動ですが、これを一回限りのものとしてみるかぎり、資本としては現れてこないのです。剰余労働による剰余価値を生むだけじゃダメなようなんです(笑)。

『要綱』の表現を真似れば、資本は、《剰余資本》の措定によって、賃金労働者の剰余労働の産物である剰余価値の再資本化によって、はじめて自己を、資本として、自己を再生産する《交換価値》として証すのであって、一回限りの資本は、生産を包含した交換価値ではないのです。

資本を一回限りのものとしてみたばあい、資本は資本に先行するなんらかの《貯め込み》、個人が節約して貯めたお金を、善意で労働者に提供している、という御伽噺が導き出されます。資本を一回限りのものとしてみた場合、資本のリアルな《資本の現在の歴史》は現れず、資本に先行した歴史状態として自己労働による所有が想定されるのです。

これこそ資本を社会的に許容されたものに転換する装置にほかなりません。資本という生産様式が自ずと生みだすイデオロギーであり、資本の弁護論議の基本です。現在する大企業が仮に働く創業者がかつて貯め込んだことを、消え去った歴史上の起点としていると仮定しても、それは本質的に空想であり、現在リアルに存立するということは、生きた労働を不断に《交換価値》が吸収しているからです。

(続く)
by kamiyam_y | 2007-05-04 18:06 | 資本主義System(資本論) | Comments(2)