さっぽろ地下鉄のなかでマルクスを呼吸する、世界を呼吸する

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卒業祝賀会

立食形式の飲み会で、卒業生は着飾って、学生生活最後の時を惜しむように教師を交えて記念撮影してました。人生も、今日という日も一度限りであることを自覚するがゆえに、人は人との結びあいを自分の核心にしていくのだし、写真も撮る。いいことですね。

人は社会に出ることで、陶冶されていきます。たぶん、学生時代というのはいろんな濃密な経験をしますがまだ、自分の根拠から浮いていて、自分のなすべきことを限定していない抽象的な存在です。

学生時代に学んだことの意味は卒業してから初めて了解できるようになります。社会の問題を自分の問題として意識し、自分の問題を地球の反対側に住む人々や未来の人々に連続させて考えることがリアルにできるようになるのも、卒業してからのことでしょう。

それは、自分の個別的な職業のなかで社会と対話することが、学生時代に学んだことを引き出していくはずであるから、というだけではありません。学問を学ぶことが、目先の経験から離れて普遍的な視野を獲得する解放である、ということを、日々自分を仕事ですり減らすなかで実感として分ってくるようになるからです。いったん仕事から解放されて勉強することの意味を、卒業したあとになって知るために、私たちは学業の門をくぐったんですね。
by kamiyam_y | 2007-03-23 18:03 | 学問一般 | Trackback | Comments(2)

国民投票法案の狡猾さ(階級的性格とも、反憲法的性格ともいう)

憲法は古い、改憲手続を、という話では全くないのです。「国民投票法案」は単に純粋に技術的に手続を決める法を装っていますが、その本質はきわめて反憲法的です。近代の理念を空洞化するような全体主義なものへの揺れは、安倍政権がこの法案を使って行おうとしている憲法改悪だけではなく、この一見技術的な法案にも現れています。

〈近代〉の憲法は、主権在民を実現し、基本的人権を守るために、国の力に縛りをかける体制を意味します。個人の自由な表現、公開された権力批判は、憲法の原点です。この原点に立ち返ってみると、「国民投票法案」の狡猾な性格を露わになります。

何といっても、この法案の反憲法的といえる性格は、公開された自由な議論を封じ込めようとする志向にあるのではないでしょうか。なぜ憲法改正にだけは、公務員・教育者等の「地位利用」禁止と違反者に対する行政処分などというものが設けられるのか。ねらいは、改憲案に反対する研究者やジャーナリストから表現の自由を奪うことにあるのでしょう。もちろん、改憲案に対する憲法学者の見解に対して市民がアクセスする知る権利も制限されます。

「地位利用」が公務員の中立性という理窟によって、批判的な個人の表現の自由への制限をねらっていることは、他方で、政治家や企業といった権力による表現の自由に対して野放しであることをみるとハッキリします。改憲案には「広報協議会」という形で、マスコミを使った自由な宣伝活動が保障されるようじゃないですか。与党改憲派の意見をメディアが宣伝しても、メディアという「地位利用」、与党という「地位利用」にはならず、憲法の解説を授業でしたら行政処分される可能性もあるという不思議なアンバランス。「地位利用」は、教育基本法改悪が、教育を国民に対して直接を責任を負うものから、国家によって介入されるものへと方向を変えたことに照応してます。

研究者が憲法について発言したら、「弁士中止!」という声が飛んでくることはないでしょうが、処分対象となるのかもしれません。ま、気に入らない人を冤罪に陥れるのも可能です。

単純化すると、学術と教育の場における批判的な知識を封じ、政治権力や貨幣の権力を自分のものにしたと思っている者が行う世論誘導は推奨される。憲法の原点と正反対です。企業や富裕層がいわば金に物をいわせて自分たちに都合のよい改憲を実現させても「民間」だからと許されることになります(何と抽象的な「民間」だ!)。

改憲をカネで買うための法案だということ、人民に公開的な議論をさせないということがこの法案の隠れた目的。これは、発議からたったの60日で投票、という強行スケジュールの押しつけにも明らか。

最低投票率の規定すらありません。日弁連 - 与党と民主党が国会に提出した憲法改正国民投票法案に意義あり!!Vol.2に書かれているように、有権者の二割の賛成で改憲という危険性もあるのです。

今生活する者の多くが望んでいることは、人間らしい豊かな老後の実現であり、働きすぎの解消であり、格差の解消でしょう。そうした問題よりも、自分のきてれつなイデオロギーに忠実になろうとしている総理の感覚は唾棄されるべきものです。

参照:
情報流通促進計画 by ヤメ記者弁護士 陸、陽菜、君たちは憲法制定権力を手放すのか~憲法改正国民投票法案阻止へ立ち上がれ!
情報流通促進計画 by ヤメ記者弁護士 憲法改正国民投票法案アップ【重要な追記あり】
by kamiyam_y | 2007-03-22 20:26 | 民主主義と日本社会 | Trackback

サラリーマンへのしわよせ-改正高年齢者雇用安定法の問題点-

勤労大衆から富と時間を掠め取る試みは、「ホワイトカラーエグゼンプション」による長時間労働の強化だけじゃなかったのです。

今回注目したいのは、「高年齢者雇用安定法」という法律。

年金支給開始年齢が60歳から65歳に引上げられたことによって、この法律、2004年6月に改正され、「高年齢者雇用確保措置」に関わる部分が2006年4月から施行されていて、細かい技術的な話は私もよく分りませんので、こちら(厚生労働省:高年齢者雇用安定法の改正のお知らせ))をごらんになっていただくとして、ここではまず大枠だけ確認しましょう。

「高年齢者等の雇用の安定等に関する法律を改正する法律」(平成一六年法律一〇三号)第二条にもとづき、改正されたのはこの法律の九条の部分。

高年齢者等の雇用の安定等に関する法律

高年齢者等の雇用の安定等に関する法律
(昭和四十六年五月二十五日法律第六十八号)

(高年齢者雇用確保措置)
第九条  定年(六十五歳未満のものに限る。以下この条において同じ。)の定めをしている事業主は、その雇用する高年齢者の六十五歳までの安定した雇用を確保するため、次の各号に掲げる措置(以下「高年齢者雇用確保措置」という。)のいずれかを講じなければならない。
一  当該定年の引上げ
二  継続雇用制度(現に雇用している高年齢者が希望するときは、当該高年齢者をその定年後も引き続いて雇用する制度をいう。以下同じ。)の導入
三  当該定年の定めの廃止
2  事業主は、当該事業所に、労働者の過半数で組織する労働組合がある場合においてはその労働組合、労働者の過半数で組織する労働組合がない場合においては労働者の過半数を代表する者との書面による協定により、継続雇用制度の対象となる高年齢者に係る基準を定め、当該基準に基づく制度を導入したときは、前項第二号に掲げる措置を講じたものとみなす。


要するに、65歳までの雇用を確保するために企業は、
 ①定年引上げ、
 ②継続雇用制度、
 ③定年廃止、
のいずれかの措置をとらねばならないということですね。

ちなみにこの改正の前は次のとおり。

 (定年の引上げ、継続雇用制度の導入などの措置)
第九条 定年(六十歳未満のものに限る。以下この条において同じ。)の定めをしている事業主は、当該定年の引上げ、継続雇用制度(現に雇用している高年齢者が希望するときは、当該高年齢者をその定年後も引き続いて雇用する制度をいう。以下同じ。)の導入又は改善その他の当該高年齢者の六十五歳までの安定した雇用の確保を図るために必要な措置(以下「高年齢者雇用確保措置」という。)を講ずるように努めなければならない。


もともとは定年を60歳に延ばすことをめざした法律で、年金支給年齢も60歳で整合していたのでしょう。それが、年金財政の破綻によって支給年齢を65歳に引上げてしまった厚労省が、60歳から65歳の間は企業に雇用を求めるという継ぎ足しをしなければならなくなった。こういうことなんでしょうね。

この改正は、企業による雇用確保を「努めなければならない」目標から「講じなければならない」という義務に昇格させたわけです。

しかし、この法律の理念は、高年齢者の雇用安定ですから、法定定年を65歳に引き上げればすっきりします。

(定年を定める場合の年齢)
第八条  事業主がその雇用する労働者の定年(以下単に「定年」という。)の定めをする場合には、当該定年は、六十歳を下回ることができない。ただし、当該事業主が雇用する労働者のうち、高年齢者が従事することが困難であると認められる業務として厚生労働省令で定める業務に従事している労働者については、この限りでない。


この条文の60歳を65歳にかえるのが、この法律の精神に則った対応なのではないか。

年金支給年齢とは、日本の労働者がそれまで元気に働ける年齢、引退して第二の人生に入る年齢を公的に宣言しているという意味もあるのですから、これと整合しないのはおかしい。

考えてみたいのは、厚労省が3つの選択肢を示している意図と、あるいは、この選択肢がどう作用するかです。端的にいえば、年金制度の混乱の責任を回避して、企業に負担を押しつけながら、なおかつ、企業の意向を汲んでいるのでしょう。

「高年齢者雇用確保措置」はどの選択肢をとっても、賃金カット、人件費カットに利用されるにきまっています。この法律には賃金についてなーんも書いてないですから。

罰則規定がないのも、企業への配慮でしょうね、きっと。

一律定年引上げなら日本国内ではすべての企業に同じ条件が強制される。これはたぶん中小企業には厳しく、大企業には有利です。しかし、グローバルな賃下げ競争の土俵から降りられない以上、企業の総意は、定年引き上げという形での人件費の固定費用化は避けたい。とすれば、賃金について何も規定していないこの②継続雇用制度を法律が選択肢として示したら、ほとんどの企業がこの②を採用するのは目に見えてるんじゃないだろうか。

継続雇用制導入が増加(徳島新聞) 
改正高齢法に基づく高年齢者雇用確保措置の導入状況について(愛知労働局)

さらに第九条の二項では、継続雇用制度を導入したらその対象者を選別する基準を労使協定を結べばつくれるみたいなことが書いてあるんですね。

それだけではなく、労使の合意が容易には成りたたないことを見越して、一定の期間にかぎっては労使協定ではなく就業規則によって継続雇用対象者を選別できるとまでしてます(高年齢者雇用安定法付則第五条)。

この法改正の隠れた意図は、田中幾太郎『本日より「時間外・退職金」なし』(光文社、2007年)の次の一文が言い表わしてます。

《法改正を契機turning pointに、少しでも人件費が減らせれば、企業は一息つける。法改正をした厚生労働省と国は、年金財政の破綻breakup of pension financeを先延ばしできる。結局、そのとばっちりをもの言えぬ日本のサラリーマンたちが受けているということになる。》(163頁)。


この法改正に期待されることは、企業による人件費削減と、役人の体面維持とを、サラリーマンの犠牲のうえに実現すること、これにつきる。こういうことでしょう。

①定年引上げ、②継続雇用制度、③定年廃止、という雇用確保の選択肢について同書が報告している実例がとても参考になります。

③の例としては、日本マクドナルド。このばあいの定年制廃止は、サラリーマンの雇用を保障するためではありません。逆です。サラリーマンの選別と使い捨てを進め、退職金も廃止し人件費を削減していくために定年制廃止を選んだのだ、と(138-141頁)。

①としては、川崎重工。しかしこれも60歳からの賃金引き下げとセットであり、《熟練社員》を安く使えるという企業側の事情から出発している(166-169頁)。

で、②としては、再雇用されても退職金をカットされた東映の例(10頁、140頁)、《再雇用されても年収150万円の日本航空》(161-163頁)、《継続雇用で人件費を徹底的に減らした日本IBM》(163-166頁)などがレポートされてます。

東映の裁判は次のサイトを参照してください。
ゲンダイネット
全東映労連 blog 退職金カット裁判
「東映退職金カット裁判」にご支援を!

「ホワイトカラーエグゼンプション」もたいへんですけど、それだけじゃない分配の大きな変更(企業福祉と国家福祉の解体的再編)です。
by kamiyam_y | 2007-03-18 18:49 | 企業の力と労働する諸個人 | Trackback | Comments(0)

理想の賃金体系なんてない

「ホワイトカラーエグゼンプション」ですけど、田中幾太郎『本日より「時間外・退職金」なし 日本マクドナルドに見るサラリーマン社会の崩壊』(光文社、2007年)を読んでいたら、未払残業代の支払を求めて起こされた裁判で、日本マクドナルドが引き延ばし戦術に出ているのはホワイトカラーエグゼンプション導入を待っているからではないか、という趣旨のことが述べられてました(120-123頁)。

同書によれば、ホワイトカラーエグゼンプションはアメリカで産業界のロビイストの暗躍によって成立し、対日要求をまとめた『年次改革要望書』にも盛り込まれているとか。賃金不払いを永久化し、この先も労働力を安く長く使うための制度だと労働者大衆から見抜かれてますから、安倍政権は参院選前に引っ込めたわけですが、選挙後に過半数行っちゃえばまたしつこく出してくることは間違いなしですね。

この本読み終わったらまた言及するとして、今回は、賃金について原理的に若干。

内田樹『下流志向』(講談社、2007年)にいい表現がありました。

この本自体は、「自己決定」イデオロギーが「日本型ニート」誕生の背景にあり、政府主導の「国策」によって賞賛されているこのイデオロギーが「自立した人間」ではなく「孤立した人間」を育て、若者の一部が自己決定として「下降」し弱者になっていくことを論じています。なかなか面白いんですが、その議論の本筋とは関係なく気に入った表現があったので引用してみます。教育すらも、この孤立した人間がとる消費行動、等価交換を予定する行動として了解され、労働は等価交換ではないから、「労働からの逃走」が生じるとする文脈で出された文章です。

《労働に対して賃金が安いというのは原理的には当り前》《136頁》

《労働というのは本質的にオーバーアチーブなのです〔原文の強調省略〕。/言い換えると、人間はつねに自分が必要とするより多くのものを作り出してしまう。その余計に作り出した部分は、いわば個人から共同体への「贈り物」なのです。/動物は自分の生存に必要以上のものを環境から取りだすということはしません。〔以下略〕》(137頁)


ねっ、わかりやすいでしょ?

労働において人間は自分が消費するよりも多くのものを自然から取りだします。共同体の備蓄やら、共同体全体の生産を引き上げるための用具やらなにやらは、この剰余がなければありえず、この剰余こそは人間社会発展の基盤にほかなりません。

これが封建社会なら領主の城やら年貢米の形を取ったりもするわけですが、現在では資本です。労働者の外側で富が蓄積することは、剰余のうえに剰余が積み上げられていくこと、剰余がさらに労働から剰余を吸い込むこと、です。

だから、賃金という境界線は、労働者が自分のものにする部分と、他人に贈与する部分との境界を劃しているんです。他人に贈与する部分を利潤といいます。つまり、賃金を下げることは利潤を増大することです。

より丁寧にいいますと、労働者は、時間決めで一定の生産に用いられる労働能力を売る→代金である賃金と呼ばれる価値の印を受けとる→これと引き換えに生活手段(個人が消費する労働生産物)を手に入れる→消費する→=労働能力を再生する→また売る、という循環があります。この労働能力と生活手段の循環の1局面に賃金とよばれる価値証書が一瞬入ってきます。

労働能力に支払う側では、資本として準備した価値の印で特定の労働能力を使えるようにする→実際に労働させる→=労働能力を消尽する→放出した価値額より多くの労働生産物を得る→売る→投下資本の回収分を超える貨幣(価値額)を得る→この剰余価値をさらに資本として投下する、ということになります。

労働の強度と生産力とが与えられていれば、労働がすべての労働能力ある社会成員のあいだに均等に配分されていればいるほど、すなわち、社会の一つの層が労働の自然必然性を自分からはずして別の層に転嫁することができなければできないほど、社会的労働日のうちの物質的生産に必要な部分はますます短くなり、したがって、個人の自由な精神的・社会的活動のために獲得された時間部分はますます大きくなる。(中略)資本主義社会では、ある一つの階級のための自由な時間が、大衆のすべての生活時間が労働時間に転化されることによって、つくりだされるのである。(『資本論』第1部「絶対的および相対的剰余価値の生産」S.686-687. 第3部第48章における有名な「自由の国」と「自然必然性の国」の記述も参照。)


「労働の自然必然性」が「大衆」に押しつけられ、「大衆」が「生活時間」を「労働時間」に転化している状態を極限にもっていき完成するのが資本主義であり、賃労働(賃金制度)なのだとでもいえましょうか。

「成果」に応じた、「労働」に応じた、云々は、すべて賃金を上げ下げする口実にすぎず、賃金の上げ下げは利潤の上げ下げに連動します。

よりよい賃金体系はありえましょうけれど、理想を実現する賃金体系はありえず、賃金制度(賃労働)自体が人間の自己疎外の形態であって、歴史的に限界のあるものなのです。労働者が自分の労働を社会的労働として自覚し、個人の成長が他の個人の成長と条件づけあっているような状態において、資本主義的賃金体系というものは存在しません(だからといって劣悪な賃金体系でよいといっているのではありません。為念)。資本主義じゃないからですから、同義反復ですけどね。

競争的賃金は労働者の自主性を引き出す面もありますが、それは、同時に、労働者間での生活手段の奪い合いであり、労働者の自主的行動が労働強化と労働条件劣化をもたらし、資本の支配を強化します。

だから、賃金体系の完成ではなく、賃金体系の破綻こそが真実を露出するのです。

評価制度構築の負担やら、足の引っ張り合いやら、労働者間の不信や意欲減退やら、数値化できないことが切捨てられ労働の質が低下することやら、安心して仕事ができないことやら、「成果主義」の失敗はすでに常識化しつつあります。

もともと資本とは剰余によって成りたつ生産共同体でした。生産共同体を損傷することは資本全体としてみると困ることでもあるのは最初から明らかです。労働者を孤立的な人間として競争させることが労働を強化し蓄積増大の要因になるだけではなく、労働者を共同体に束ねることが生産力増大の基本なのでした。

とはいえ「自己責任」イデオロギーは労働法制のハードルを下げるための資本の弁護論として力をもつでしょうから、こんなふうにいっておくことは有意義でしょう。すなわち、「努力した者が報われる」賃金を!というお上の言葉がほんとうに実現したい内容は、労働者の生みだしたものからより多くを利潤として企業が吸収することにほかならないのだ、と。労働者間の奪い合いは労働者から資本への贈与の増大なのだ、と。

多くの成果に対して多くのカネをというありふれた文句は、ここでは、賃金を不安定なものにすることによって利潤を安定したものにせよ、という資本の要求なのであり、労働者に競争の美徳とすばらしさを教え込むことは、じつは企業の側での剰余の確保が目的なのです。労働者を孤立させる裏側では、企業の熱い友情、利潤の反競争・反自己責任、利潤の共同確保、企業共産主義がすすんでいきます。

《…〔略〕…リスク社会に〔強調省略〕…〔略〕…いるのは、自己決定・自己責任の原理に忠実な弱者だけなのです。》(内田前掲書108頁)

by kamiyam_y | 2007-03-13 21:18 | 資本主義System(資本論) | Trackback | Comments(0)

警察問題シンポ

元道警の原田さんが代表をしている市民のフォーラム北海道が警察の犯罪をめぐってシンポを札幌で開催するそうです。

ちらし

共催は「道民の会」


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この前触れた鹿児島の冤罪、テレ朝がずっと取材してたんですね。
テレビ朝日|ザ・スクープ
長野智子blog
by kamiyam_y | 2007-03-08 21:54 | 民主主義と日本社会 | Trackback | Comments(0)

「はい」の強要

○『週刊現代』に、歯周病予防に乳酸菌が効くという今井龍弥という医師の説が紹介されてました(3月10日号:口は災いの元!?本当はとっても怖い!「歯周病」194頁)。

腹の調子が悪いときに乳酸菌は効きます。口腔内も腸と連続してますから、お口にも乳酸菌はよい働きをしてくれるにちがいあるまい、と私は思っていたら、やっぱり同じことを考えている人がいるんですね。ってちょっと違う気もしますが。

次の私の予想は乳酸菌入の化粧品です。もうありそうですけど。

○ 2年も服役したあと冤罪と判明。朝日が取材。若干引用します。

asahi.com/national/update/0304/TKY200703040205.html

「『はい』以外言うな」 富山の冤罪男性に取調官
2007年03月05日06時03分

(略)
逮捕後、思い直して、検察官と裁判官に対し一度は否認した。その後、県警の取調官から「なんでそんなこと言うんだ、バカヤロー」と怒鳴られた。翌日、当番弁護士にも否認した。すると、取調官から白紙の紙を渡され、「今後言ったことをひっくり返すことは一切いたしません」などと書かされ署名、指印させられた。「『はい』か『うん』以外は言うな」と言われ、質問には「はい」や「うん」と応じ続けたという。(略)

 県警や富山地検はそれぞれ「故意または重過失ではない」「職務上の義務に反したわけではない」と、当時の捜査関係者を処分しない方針を示している。(略)


真実を知らせられずに入院中の父を失ったのがかわいそすぎます。人の人生の大切な部分を破壊しといて、「重過失ではない」とか「義務に反したわけではない」という言いぐさがいえるあたり県警は立派な人物揃いですね。取調官のつくったストーリーを「事実」に変えるために暴力をつかうだけのことはあります。

鹿児島の冤罪事件(志布志事件)も、密室の強圧的な取調べを大きな要因とする日本的冤罪そのもの。

信濃毎日新聞 社説
中国新聞 社説

昨晩放送されたドキュメント番組「続・嘘ひいごろ鹿児島選挙違反 えん罪事件」(制作鹿児島読売テレビ、NNN ドキュメント’07)によると、現場の警察官のなかには、これは冤罪だ、申訳ない、と被告らに謝る人もいて、上からの強引な命令があったのですね。

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追記3/6

乳酸菌入の歯磨き粉はすでにありました(アバンビーズ:日本ゼトック製造・わかもと製薬販売)。
by kamiyam_y | 2007-03-05 20:07 | 民主主義と日本社会 | Trackback | Comments(0)

観念的生産物の製造責任

《メディア・リテラシーが欠けていたのは、視聴者よりもむしろ制作者の側ではなかったか》

と、関テレの事件を素材に日垣隆が問うていました(「あるある大事典」だけが悪いのか:どこへ行くのかニッポン、日刊ゲンダイ2/23号)。下請けのつくったものを評価する力なかったんですから。そりゃそうですわ。

リテラシーの態度として重要なのは、他者の外化としての表現を疑うこと。

だけじゃなくて、さらに、疑う自分自身の外化である「自分の言葉」を疑うこと。この外にあるものは自分の内面をしっかり規定してきます。

この点、内田樹がこう語っています。

《人間は他人の言うことはそんなに軽々には信じないくせに、「自分がいったん口にした話」はどれほど不合理でも信じようと努力する不思議な生き物だからです》(『狼少年のパラドクス』81頁)。

《「自分がいま発信しつつある情報」に対して適切な評価が下せるかどうか》(80頁)

こそがリテラシーにおいて大事なことなんだというのです。

言うまでもなく、ペン(今ではパソコン?)が民衆にとっての強力な武器ならば、それは民衆を圧殺する威力にだってなります。

貨幣もペンをもつ。権力もペンを持つ。ウソ偽りでっち上げもペンによって拡大する。テレビ局が存在しない事実を創りあげれば、警察権力も存在しない事実を創りあげる。

だから、

ペンの生産物を消費するときは、批判的知性を立ち上げよ。

さらに、私たちは消費者としてだけではなく生産者のなかで労働する人間でもあります。

ペンの生産物を生産するときには、その倫理と手続をできるだけ明らかにしておけ。

と私たちは自分に命じておかなきゃなりません。

福田ますみ『でっちあげ 福岡「殺人教師」事件の真相』(新潮社、2007年1月)は、2003年にマスコミが教師によるいじめとして大々的に報道した事件が、じつは想像された事実にほかならなかったことを論じています。

著者は、教師によるいじめを伝える最初の報道を受けて、現場に入り聴きとりをしてみるのですが、報道されたイメージと現場の雰囲気とがあまりにかけはなれていたために、自分の足によって事件の真相を確かめていきます。

いじめがあったとする保護者の言い分が、正確に検証されることなくマスコミによって拡げられていった過程、それによって、善良でおとなしい教師が凶悪な差別主義者に仕立てあげられていった過程を読むと、ほんとこわいですよ。

とはいえ、ちゃんと救いはあって、社会の理性が働きます。マスコミも原告保護者の主張に対して懐疑的となっていきますし、裁判でも、カルテの開示によって、教師のいじめによって児童がPTSD(心的外傷後ストレス障害)になったという原告の主張が覆されたりしていきます。

教員の「労働時間は1日11時間、休憩時間はわずか9分」(『週刊東洋経済』1/27号、41頁)。保護者との関係が、最近の教師の精神疾患の原因にある(40頁)。

真面目な教員ほど過重労働に苛まされているのが現状でしょう。教師を叩けばよいとするかのような論調の背景にはなんらかの政治的意図がないとは断言できません。

被害者の内面なるものが無媒介に何にも勝る客観的な事実であるかのように思いこむ病気にメディアも感染しているようです。
by kamiyam_y | 2007-03-03 16:46 | メディア資本と情報化 | Trackback | Comments(0)