さっぽろ地下鉄のなかでマルクスを呼吸する、世界を呼吸する

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反動 名張毒ぶどう酒事件 再審開始決定取消し

後退です。

検察の意義申立てを認めて、再審開始決定を取り消す決定を、名古屋高裁刑事2部が行ったと。

asahi.com:再審開始決定取消す 名張毒ブドウ酒事件で名古屋高裁-社会 2006年12月26日10時58分

アサヒ・コムはすぐリンク切れになりますし、まとめて読まないとわかりにくいので、最小限転載しておきます。

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(前略)
 異議審は、再審開始の理由とされた、凶器の農薬は奥西死刑囚が自白した「ニッカリンT」ではない▽物証の王冠(四つ足替栓)は事件のブドウ酒瓶の王冠ではない▽2度開栓により奥西死刑囚以外の犯行が可能――などとする弁護団の三つの新証拠や、奥西死刑囚の自白の信用性などを検討。

 三つの証拠については「新規性を認めたことは是認できるが明白性はない」、自白については「当初から詳細で具体性に富み、信用性が高い」と判断。「無罪を言い渡すべき明らかな新証拠があるとして再審を開始し、刑の執行を停止した決定は失当」として再審開始決定を取り消した。

 最大の争点は、事件の農薬が、奥西死刑囚が自白し、確定判決が凶器と認定したニッカリンTだったかどうか。ブドウ酒の飲み残りからニッカリンTに必ず含まれる成分が検出されなかった理由などが争われた。異議審は今年9月、この問題で弁護団の鑑定をした2教授を証人尋問。そして「ニッカリンTが混入されてもこの成分が検出されないことはあり得る」などとして、検察側の主張を認めた。

 昨年4月の再審開始決定は、弁護団の新証拠を「無罪を言い渡すべき明らかな証拠」としたうえで、「(奥西死刑囚の)自白の信用性には重大な疑問がある」と認定していた。
(以下略)
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この記事だけでは判断できませんが、「ニッカリンTが混入されてもこの成分が検出されないことはあり得る」って変ですね。成分が検出されたかどうかという物証は関係ないって話でしょうか。自白偏重主義が問題になっている現代日本で、まさかとはおもいますが、まさかが現実に横行するのが現実なので。

「この成分が検出されないことはあり得る」ということは、「ニッカリンT」混入の可能性が残っていることだけではなく、【検出されていないのだから混入していない】という判断を排除するものではないでしょ。

規約第40条に基づき日本から提出された報告の検討 人権委員会の最終見解(市民的及び政治的権利に関する国際規約(B規約)人権委員会第64回会期・1998年11月19日配布:外務省仮訳)に

26.委員会は、刑事法の下で、検察には、公判において提出する予定であるものを除き捜査の過程で収集した証拠を開示する義務はなく、弁護側には手続の如何なる段階においても資料の開示を求める一般的な権利を有しないことに懸念を有する。委員会は、規約第14条3に規定された保障に従い、締約国が、防禦権を阻害しないために弁護側がすべての関係資料にアクセスすることができるよう、その法律と実務を確保することを勧告する。


とありますように、検察が集めた証拠はオープンでない。新証拠は弁護側に対するこの壁を越えるべく集められた智慧なのに無念。

この事件を扱ったドキュメンタリー番組よかったので(ここ)、もっと見られたらと思います。

川人博編著『テキストブック 現代の人権 第3版』(日本評論社、2004年)に、岡慎一という人がこう書いてます。

刑罰は,国家による生命・身体・財産の制約ないし剥奪である。犯罪が実際に行われた場合には,刑罰は犯罪への応報あるいは抑止という観点から合理化される。しかし,誤った裁判が行われたときには,国家による重大な人権侵害が「合法的に」行われることになる。
(「刑事手続と人権」、93頁)


まさか、誰でもいいから犯人を挙げ処刑しないと秩序が保たれない、なんて超全体主義的な観念が巣くっているわけでもないでしょうが。「国家による生命の剥奪」が「誤った裁判」にもとづき実行されたなら、それは、最大の人権侵害でしょう。国家権力は私たちを殺傷する力をもつがゆえに、人権を侵害しうるがゆえに、これを私たち一人一人を起点として根拠づけ制御する近代的憲法体制のしくみがつくられてきたのですが。
by kamiyam_y | 2006-12-26 16:59 | 自由な個人の権利と国家 | Trackback

キシ・ジョンイル(アベ・ジョンイル)の腐った郷愁

前回のエントリーの「追記」に補足2点。『SHIGT』の特集に触れるだけですけど。

1 「自由主義」って。

吉本隆明が自民党の改憲案の「自由主義」という言葉に対して嫌悪を表明してます。《露骨に国家的党派性が出てる》と(18頁)。

《「自由」だったら、万国どこにでも通用する》、この「自由」と「自由主義」は正反対だ、というわけです。普遍的な「自由」が労働する諸個人の自由を包み込んでいるのに対して、「自由主義」は資本の自由を中身としている、と私は読みました。

資本の自由とは、資本間の競争の自由であって、労働者を利潤の道具にする自由です。労働者の労働が、彼等自身を、労働の果実から絶えず排除するという労働の自己矛盾によって、資本主義は生きています。「自由」はこの矛盾のなかでは、労働を資本が吸収する過程として作用しています。『資本論』にいう〈資本主義的取得法則〉、他人の労働の無償の取得に、「自由」がひっくり返っています。この取得法則を〈自由主義〉の本体として考えると面白い。

2  懐かしくなくもないが。

小熊英二が愛国ノスタルジー「75年体制」説を出してます。日本の高度成長モデルが完成したのが、75年。古い日本がまだ残存していたちょうどそのころを、安倍ような連中は懐かしんでいるんだ、と。

この古い日本は戦前的なものの残りかすでしょうから、やはり戦前回帰的といってもいいかと思います。高度成長期の終焉期回帰的でもいいですけど。どちらにせよ、こうした連中の過去への回帰なんて反動・復古の郷愁にすぎません。

日本の高成長が、企業一家主義に端的なように、人治というか、共同体的な古いものを再利用していたのは周知の通り。この成長が完成したこと、成長の終焉は、日本では個人を起点とする現代的なものが本格的に浸透することを意味します。ですから、教育基本法が改悪されたからといって文字通りの戦前が復活することはありえません。

成長に利用した共同体的なものを廃棄するこの現代化のプロセスは、安倍においては軍拡と新自由主義継承という方向と、後ろ向きの郷愁に彩られた人権抑圧的方向として現れています。こういう郷愁は、高成長の共同体的体制を廃棄する資本の展開が触発した反応の1つであって、郷愁に現実を変える力はありません。

《家族や公共心の復権については効果ゼロでしょう》(80頁)。

成長経済も終焉、日本的の古いものも終焉。昔あったらしい道徳的なるもの、国家愛のようなものに教育を改善する効力などまったくない。過去と名づけられた空想に対する郷愁だからです。

《たいていの国旗は建国の理念を図案化したものです》(82頁)。

日本の旗には《建国の理念》はなーもないですから、《保守派に建国の理念を憲法素案屋教育基本法案に書いてみろと言っても材料が何もない》(同上)。もちろん歌だって、民衆による闘いの記憶も、国づくりの原点もかけらすらない。建国記念日が神話ですからね。

歌といえば、入学式で校歌を歌わない学生がいたところで、入学取消しにする大学なんてありません。歌いたいから歌うのが本筋なわけですから。

歌いたいかどうかという気持ちの問題は、法律とは、社会関係としての位置がちがいます。法律は、個人の内面はどうであっても行為だけは従わなければならないという規範です。内面の積極性が社会的行為になるような関係ではないんです。これはこれで自由を確保するのに重宝する。それどころか、そもそも内面を問わないから、法的な自由が成立するのでした。

国の歌を歌わないからといって現場労働者を処分する役人がいるとしたら、それは道徳と法律とを混同しているのであり、郷愁に固執した精神が過剰反応しているというほかはありません。こんな過剰反応を浄化できないほど、日本における基本的人権の定着は弱いものでしょうか。

そう、弱いものなのです。

と切って捨てる必要はないしょう。

人権を空洞化する全体主義の圧力こそが、かえって人々に個人のグローバルな性格を気づかせる役割を果すのですから。成長崇拝と日本的なもの崇拝に、社会をつくりだす力はなく、そんなもの、いずれ消滅すべき、ただの一時の継ぎ接ぎでしょう。

もしかしたら、安倍が「成長」とうるさく言うのも郷愁かも。
by kamiyam_y | 2006-12-24 22:33 | 民主主義と日本社会 | Trackback | Comments(0)

アベ・ジョンイル、どちらに転んでも

キム将軍も安倍将軍も、似たり寄ったり持ちつ持たれつの間柄。安倍の対外強硬姿勢という売りは、相手の愚行に依存しているからです。安倍氏がもしもキム・イルソンの息子として生まれていたなら、きっとキム・ジョンイルになっていたことでしょう。

北朝鮮の専制は私たちの世界のちっぽけな影の1つにすぎません。私たちの会社のなかを見てみれば、どこもかしこも労働者国家による労働者支配・専制支配ではないですか。

あなたの会社には、社長のありがたいお言葉が飾られていたり、創業者のありがたい偶像がおいてあったりしませんか。創業者が裸一貫から刻苦勉励して大富豪になったなんてつまらん話が伝えられていたりしませんか。

キム王朝にはキム王朝の独自のおとぎ話(伝説)があってそれが王朝を正当化する。それと同じように、資本主義企業でも独裁政権の頭にペンキで後光を描くおとぎ話があるわけです。

むかしむかしあるところに貧しい人がいました、刻苦勉励努力の末、すばらしい会社の持主となって皆さんを雇ってくれてます、云々。もちろんこんなミニ神話は、労働者を1つの組織にまとめていくさいの空想にすぎません。

会社が日々リアルに存在しつづけているのは、日々リアルに労働者の労働が会社の資本をつくりつづけているからです。むかしむかし、は現在をつくりだしていない、空想なのです。

資本を生みだした自己労働という神話に対して、日々リアルな現実は、労働者の労働の産物が労働者の労働を吸収する条件になっているという繰り返し(『資本論』にいう「取得法則の転回」論)。搾取がつぎの搾取の前提になっていく螺旋状の運動です。

資本ではないただの貨幣は貯めるしか増やす方法がないので、最初の資本を思い出そうとすると、勤労と節約によって貯めたんだとする過去の物語が仮定され、これが現在を説明します。ところが、現在のリアルな資本は労働を吸い込んで増えているのであって、自由平等は、労働を搾取する資本の自由や、資本家の平等という、自由でも平等でもない自由平等として実現されている。創業者の勤労という伝説からは断ち切られて、自由が自由ならざる搾取する自由になってます。

「自由社会」「自由主義」だの「自由主義経済」だのうるさくいう人は、想定した外敵における専制政治は批判するくせに、社会的生産における労働者の自由だけは絶対に主張しません。一見摩訶不思議というべきですが、これもこの「転回」です。資本主義企業における専制も、大企業の権力も批判せず、王政を批判した商売人の自由が、資本の自由を解放し、労働者の自由を抑圧するために持ち出されるというわけです。

なお、資本に即して資本の前提は労働者が生産手段から遊離している状態ですから、資本に即した資本の前史は、この遊離の過程にほかなりません(「本源的蓄積」論)。

自由はいたるところで北朝鮮のミニチュア版に転回しつづけているのだぞ。最近の日本の中のミニ北朝鮮の最大のものは、やはり先日の「教育基本法」改悪でしょう。

教育基本法「改正」の本質は、時代に合わせて教育制度を変えるなどという無内容なスローガンにではなく、個人と国家との関係にあります。個人を主体とする人権による国家権力の規制と正統化の原理に対して、異質な全体主義を持ち込むのが「改正」の本質です。人権から遊離した公共原理の主張です。

国を愛せよと法律に明記し、教育統制を強化する改悪は、封建国家の再来ともいうべきじゃないですか。国家による国民の心の指導なんて、まるで「文革」みたいです。前衛による野蛮な大衆の道徳的組織かいな。やっぱり安倍氏は北朝鮮に生まれたら将軍です。

教育基本法改悪は私たちに考え行動する材料を与えたし、改悪された教育基本法は、以前の教育基本法の文面も残して矛盾したものですから、運用で無効にしようとする途によって、この改悪の本質は明らかになるはず。改悪の悪影響が大きいほどに明らかになります。

どっちに転んだって、民衆は鍛えられ、私たちの航海はまともな方向にむかうだろうってことです。

教育基本法改悪は安倍にとって改憲の下地づくりであって、繰り返しますが、問題の本質は憲法(国家の構成原理)にあるのです。

与党の戦前回帰的な復古主義的な蛆の群れは、現代の大きな変動のなかで湧いています。その変動とは、世界規模での資本の集中と、世界規模での軍事力の集中という現代の傾向です。復古主義や戦前の復活にみえるものに対して批判するのは重要ですが、そこだけ見てしまうとかえってそこに依存するようなものではないでしょうか。現代の傾向には公共的なものをどう制御すべきかという問題が貫かれています。民族主義に対して対置すべきは、国際的な公共性を形成する別の途でなければならないと考えます。

* 教育基本法の問題点はさしあたり
あんころブログ
教育基本法「改正」情報センター

追記1 さいきん魚住昭氏が「日刊ゲンダイ」をはじめとする媒体に連載してきた時評を文庫本にまとめました(『国家とメディア』ちくま文庫)。そのなかに「おぞましく、あさましく、残忍なナショナリストたちよ」という短文があります。北朝鮮の子どもたちが餓死してもかまわないという気持ちの悪いナショナリズムを取りあげているのですが、こんな一文が。

《国家と民衆の区別もつかないほど「地方議員」のレベルは低くなってしまったのか》

まさしくこの低レベルに位置するのが安倍だということはいうまでもありません。

追記2 『SIGHT』30号の特集「君は読んだか!自民・憲法改正案の本音」は、吉本隆明、藤原帰一、小熊英二などがそれぞれ思うところを述べていて、なかなか面白いです。
by kamiyam_y | 2006-12-21 23:02 | 自由な個人の権利と国家 | Trackback | Comments(13)

「われら」と「我々日本・・・」

▽ 悪い意味でちょっとした驚きです。「どこどこ日記」からですが、国会の委員会審議の映像ライブラリーに対して文化庁が著作権法違反と断じているのだと(著作権法違反の厳罰化とネット監視社会への危惧)。法律の悪用というか、個人の権利を実現すべき法が、本来オープンにすべきものを閉ざすのに用いられている。参政権の発展を止める動きじゃないのか。国会の中こそはもっとも公共的でオープンな場であるはずだし、その内部の議論は内部で完結するものではなく、共有されるべきインフラのようなもの。市民が簡単にアクセスできるようにしなければならないのに。

▽ 大新聞は、教育基本法「改正案」が8日に通る予定と報道していましたが、こんどは14日か。こういう報道自体が中立を装って改悪を既定路線化するのを助けてるべ。

法案の問題点はdate060428.pdf (application/pdf オブジェクト)。週刊金曜日編『教育基本法「改正」のここが問題』には民主党案も含めた対照表があります。他にもたくさんあります。

最初の1行目から与党案は、国家先にありきです。

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現行前文

 われらは、さきに、日本国憲法を確定し、民主的で文化的な国家を建設して、世界の平和と人類の福祉に貢献しようとする決意を示した。この理想の実現は、根本において教育の力にまつべきものである。
 われらは、個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間の育成を期するとともに、普遍的にしてしかも個性豊かな文化の創造を目指す教育を普及徹底しなければならない。
 ここに、日本国憲法の精神に則り、教育の目的を明示して、新しい日本の教育の基本を確立するため、この法律を制定する。

与党案

我々日本国民は、たゆまぬ努力によって築いてきた民主的で文化的な国家を更に発展させるとともに、世界の平和と人類の福祉の向上に貢献することを願うものである。我々は、この理想を実現するため、個人の尊厳を重んじ、真理と正義を希求し、公共の精神を尊び、豊かな人間性と創造性を備えた人間の育成を期するとともに、伝統を継承し、新しい文化の創造を目指す教育を推進する。ここに、我々は、日本国憲法の精神にのっとり、我が国の未来を切り拓く教育の基本を確立し、その振興を図るため、この法律を制定する。

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いきなり「日本国民」です。

これに対して、憲法の原理は主権在民。つまり個人が主体として相互承認によって国家を形成する。国家は個人がつくりだすものです。近代社会が否定したのは、封建的な秩序であり、この秩序では、労働は、自然発生的な局地的共同体の支配の中で実現し、個人が土地の一部分であるという仕方で、社会が再生産されてました。

こういう共同体埋没状態を解体するのが近代ですから、個人に先行する全体を無批判に承認することは近代の原理に反します。しかし、個人と社会がうまく調和されるしくみがないために、現代では、全体の支配の優位がいろんな場面で出現します。出現するからこそ、個人を主体とする出発点は重要なのです。

現行全文は、国家をつくりだす「われら」を想定し、そこから国家を正当化しています。この手続きとは正反対の「改正」案は、個人の普遍性とそこから導かれる国際主義を示す言葉を残していますが、定義されざる「伝統」を持ちだし、国家への服従という相容れない論理を混入させてます。

高橋哲哉・三宅晶子「これは『国民精神改造運動』だ」(辻井喬・福田英典・喜多明人編『なぜ変える?教育基本法』63頁)で知ったのですが、この服従に関して、「心のノート」って7億3000万もの予算をつかって小中学校に送られ、「強制」されてるんですね。実物見たことないですけど、高橋・三宅の対談を読むとひどい代物です。

ついでに高橋の別のものも読んだので紹介。高橋哲哉・田中伸尚「『靖国』という問題」(金曜日)。参拝批判をするにしても、「富田メモ」を権威をすることは危険。天皇免罪という論点も無視して天皇の言葉を権威にするわけですから。軸を徹底して憲法の「政教分離原則」に求めている点説得的です。
by kamiyam_y | 2006-12-10 16:28 | 民主主義と日本社会 | Trackback | Comments(0)

裁判官の良心と検察の歪んだプライド

裁判官がまともらしくよかったです。
 
痴漢容疑で現行犯逮捕された高校生に、家裁が不処分の決定という記事です。

asahi.com:痴漢容疑で逮捕の高3「無罪」 東京家裁支部が不処分-社会 2006年12月04日から。

「久保田優奈裁判官は『供述調書は内容が一貫しておらず、捜査当局がでっち上げた可能性がある』と指摘した」

「少年は警視庁成城署で、『認めなければ10日間、勾留(こうりゅう)され、学校には行けない』と言われたという。『10日も学校を休めば、痴漢で逮捕されたことも明らかになり、卒業できない。認めれば、釈放され、裁判所で処分を受けても学校には分からないだろう』。言われるまま、供述調書の作成に応じた」

「久保田裁判官は『調書は事実を記載したものではなく、捜査側が考案した内容である可能性が払拭(ふっしょく)できず、信用できない』と指摘。少年の供述の変遷についても、『卒業できないと言われて認めたが、その後、無罪を主張したという経緯は合理的で信用できる』として少年を不処分とした」

「成城署の仲村鶴美副署長は『裁判所の決定文をまだ見ていないのでコメントは控えたい。適正に捜査したと考えている』と話した」

ナイスです、久保田優奈裁判官。それに対して警察のコメントは反省なし。何で司法を尊重しないんでしょうね。

無知な高校生を脅して、点数稼ぎか知りませんが、けしからんです。冤罪を生みだす土壌は厳然としてあります。

森秀樹『主権者はきみだ』(岩波ジュニア新書)をめくったら、「裁判官の中には『自白は証拠の王』という戦前以来の考えかたをもっている人が少なくない」とありました(「罪つくりの罪」)。これが本当なら、警察による誘導尋問、自白強要に対して、裁判所も人権を守るどころか、人権侵害に加担する危険があることになります。

憲法 第38条 何人も、自己に不利益な供述を強要されない。
2 強制、拷問若しくは脅迫による自白又は不当に長く抑留若しくは拘禁された後の自白は、これを証拠とすることができない。
3 何人も、自己に不利益な唯一の証拠が本人の自白である場合には、有罪とされ、又は刑罰を科せられない。
by kamiyam_y | 2006-12-04 22:03 | 民主主義と日本社会 | Trackback(1) | Comments(0)