さっぽろ地下鉄のなかでマルクスを呼吸する、世界を呼吸する

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大企業の大ということ

寒いんで、マフラーと手袋をすることにしました。午前の授業が増え、就寝起床時刻の曜日変動の幅が小さくなってしまい、ブログを更新する時間も減りぎみです。皆さんはいかがおすごしでしょうか。


大企業の大ということ

よく大企業という言葉を使いますけど、どれくらい大きいのでしょうか。ひまつぶしに「フォーチュン」誌が発表している世界の大企業のリストのうちから、ほんのわずかチェックしてみます。

現代の基軸をなす生産手段である石油の精製。

FORTUNE 500 2006: Exxon Mobil

1位はExxon Mobilで、売上高は、3399億3800万ドル。百万以下切り捨てで、Chevronは1894億ドル。

天然の生産手段が、ますます個人や、それがたまたまその地下にある人間の手から容赦なく取り上げられているのは、敵対的ですけど、公共的です。すごい富の集中ですね。

次に20世紀の大量生産・大量消費・長時間労働(フォード主義)の典型、自動車産業。

FORTUNE Global 500 2006: Toyota Motor Corporation

そのまま百万ドル表示で、

1 General Motors 192,604
2 DaimlerChrysler 186,106
3 Toyota Motor 185,805
4 Ford Motor 177,210

国の国内総生産順リスト - Wikipediaで各国のGDPと比べても、30位あたりの国々を超える経済規模です。

こういう比較は例えば、西川潤『世界経済入門』(第三版、岩波書店、2004年)が行っていて(46-47頁)、面白いので真似てみました。

企業の国際主義は国民経済を凌駕してます。

雇用者数を矢野恒太記念会『世界国勢図会2005/06』でみますと、GMは32万4千人(2004年)、トヨタは26万5800人(333頁)。

北海道では第2の都市旭川が35万人台です( 旭川市 - Wikipedia)。

社会的な生産手段と社会的な労働組織が、私企業という看板のもとに集中してるのが、イメージできますね。富の国際的規模での集中です。

私企業と書きましたが、もともと企業は私的資本の形態であって、競争しあう私的・排他的・利己的主体です。

しかしその競争が、競争を否定する要因である社会的労働組織を必要としているという矛盾こそ、現代を動かすもの。なにしろ、ちっぽけな自称社会主義国家なんてものをはるかに超える巨大な規模の計画経済が私企業のなかに出現してるんですから。

生産計画を立てることも、労働力を配分することも、競争を介した資本の命令によって、労働者自身がすべて自分たちで行ってます。

といっても労働者が自己のものとして管理しているわけではなく、この社会的労働の連関全体が、個々の人間に対して、外的で疎遠で、抑圧的な威力として実現しています。計画が個人を抑圧し(長時間労働等)、全体の無計画がまた環境への無配慮を招く(環境破壊)のも、この矛盾した実現を背景としています。

個人も企業も、他者を出し抜き否定して自分だけの利益を求めるわけですが、人間は社会的動物ですから、それに反する利己主義(非社会的な社会的行為)を諸主体がとることは、彼等の連続性を、彼等の社会関係を、彼等が制御できないような力として独立化させてしまうことを意味します。

企業による民主政治の空洞化(献金・賄賂等)に端的なように、関係が独自の主体として振舞い、個人は社会づくりの原点としての資格を奪われてしまう。奪われることによって逆にまた、関係を自らのものとして奪還することが、個人が社会の真の実体として実現することが、現実的な課題となります。

要するに、人間は自分たちの連続性と調和しながら、そのなかで自分たちの発展を相互的に実現するようなシステムをまだつくりだしていないので、連続性を人間ではないものとして形成してきた。そうした非人格的なものを持つ者、それを人格的に代表する人間に社会的な富や力が集中するというしかたで、人間は発展してきた。

天然の自然が前提である歴史の端緒では、土地が人間を支配し、土地を持つ者が、社会の富を手中に収めて発展させた。今では、労働によって変革された自然を実体とする資本を代表する者が、社会的な力をもつ。

諸個人、諸主体の利己的振舞が、自分自身の自己収奪を強化する結果になり、それがまた生産力の意図せざる発展をもたらしていきます。経済成長第一主義は、利己的主体が相互に否定しあうことによって自己搾取しながら歴史の土台である生産を発展させざるをえない、という人類の現在の限界といってよいでしょう。

個人にとって企業の力が、企業にとって全体の連関が、個人にとって地球の連関が独自の能動的な形をとっているのが、価値増殖を目的とする生産です。自然環境も社会的健康も民主主義も破壊しながらなお成長を求めて止まない悪循環こそが、現代の発展であり、それが現代の発展であることが現代の限界です。

地球環境1つをとってみても、これまでの成長主義的発展がもはや不可能であることは疑いようがありません。途上国の発展が本格化している現在、新たな生産様式と生活様式を創出することが求められています。ローマクラブのレポートが出たのが1972年。30数年を経てますます明白になっているのは、次の点ではないでしょうか。

すなわち、悪循環的開発を持続可能な開発に転換することが、土地や貨幣が支配する自然発生的なありかたから、人間を原理とする社会システムへと現実を転換することを意味している点です。このことの認識は、決して後退することなく定着していくと考えられます。
by kamiyam_y | 2006-10-29 17:20 | 企業の力と労働する諸個人 | Trackback | Comments(0)

教育基本法改正案は廃案を

社会的無関心へと孤立化させられた人は、何でもかんでも教育基本法が悪いとする安倍の粗雑きわまりない煽りに疑問をもたないでしょうが、そもそも教育基本法は憲法の原則の再確認なのですから、そんな軽々しく変えていいものではないのです。

教育基本法改正案は端的に憲法の原理を否定する性格を持っており、その国家観・社会観は国家先にありきの全体主義的イデオロギーです。戦前の国家による教育統制を否定し、近代民主主義社会としての基本理念を確認したのが教育基本法であって、安倍の主張とは逆に、この理念を実現していないことこそ現状の限界だ、と判断するのが正しい。

安倍は、日本はますます悪化した、それは憲法のせいだ、とはさすがに言えないので、露払いをしたいわけです。

人間を国家に埋没させるこの幻想は、人権を排他的な私利と混同し、他方では巨大資本の私利私欲を解放する新自由主義的幻想と混ざっています。なんてまあ反動的に進歩的な(笑)。

安倍は、バランスをとっているようにもみえますが、格差をはじめとする大衆の生活の課題を二の次にして、自分のイデオロギーの実現を政治の第1の課題にし、民主主義の原則を否定しようとしているのですから、根本的に逆立ちしてます。

日本教育学会歴代会長が「教育基本法改正継続審議に向けての見解と要望」という批判を出しています(教育基本法「改正」情報センター のなかのここ)。


その社会観を憲法から復古的社会観に転換する改正案。まともな学者なら、これがどのような政治的抑圧機能を果すのであろうかは分かりますから、異議を申し立てるのは当然。


参照

教育基本法の改悪をとめよう! 全国連絡会「あんころ」

ほかに、さしあたり。

政治・教育基本法改定案の問題点と審議の行方
教育基本法改定案の問題点はここだ(レイバーネット)

asahi.com:日教組、教育基本法改正阻止へ「非常事態宣言」-暮らし
教基法成立阻止で一致 野党、対決姿勢強める | エキサイトニュース
by kamiyam_y | 2006-10-28 23:42 | 民主主義と日本社会 | Trackback(1) | Comments(0)

教育基本法「改悪」審議入り

共謀罪は「死んだふり」(保坂展人のどこどこ日記)らしいですけど、教育基本法「改正」案は実質審議入りの方向
北海道新聞 政治)。民主党も教育基本法では期待できません。

「美しい国」内閣なんてほんと、気持ち悪いったらありゃしないですけど、その気持ち悪い本質をよく表しているのが、教育基本法が現実にあわなくなって、そのせいで教育が悪くなり、犯罪がふえた、とかいう類の劣悪粗雑な妄想。いじめ自殺までこういう妄想の題材とされてしまう後進性。

この改悪が通れば、学問の自由や自由な教育をはじめとする人権に対して、権力が恣意的に取締ることがさらに強化されます。この改悪は、単独で起きている事態ではなくて、道徳を法律で取り締ろうとする国家主義的傾向の1つ。いまだにこういう妄想が歴史の汚物処理場へと廃棄されないということは、まだまだこんな妄想がこれからも吹き出してくるってことでしょうか。
by kamiyam_y | 2006-10-25 22:17 | Trackback(2) | Comments(0)

道人事委員会裁決

9月21日の東京地裁判決は、君が代強制の人権侵害的性格をみとめたまともな判決でした。特定の教育委員会による教職員に対する強圧的な処分(参照12東京新聞)は、人権という憲法・教育基本法の基本精神に即して不当です。
教育基本法
第2条 教育の目的は、あらゆる機会に、あらゆる場所において実現されなければならない。この目的を達成するためには、学問の自由を尊重し、実際生活に即し、自発的精神を養い、自他の敬愛と協力によって、文化の創造と発展に貢献するように努めなければならない。

自由な文化、教育の発展にとって、思想・信条の自由、表現の自由、学問の自由こそが人権にのっとって公共性を担保するのであって、権力による介入は、人権を抑圧する公共性にほかなりません。

今回、北海道倶知安町(Wikipedia)でも、これまた良識を示す裁決が行われました。全国的にも大きな意味があることなので、紹介します。

懲戒戒告処分を道教委から受けた教諭が求めた審査請求で、道人事委員会が、処分取り消しの裁決を出し、その裁決のなかで、君が代強制は「思想、良心の不当な侵害と解される」という判断を示したのだそうです。さらに、指導要領の条項の法的拘束力も否定する見方を提示。

あんころブログ: 北海道で「日の丸・君が代」処分取り消しの勝利裁決!

北海道新聞 社会
北海道新聞 社説

子どもの権利条約にも触れているようで、教育の民主的運営という点からしても処分乱発は後進的。

ちなみに、「裁定」という言葉は、こんなふうに使います。→ 過去のニュース - 明るい警察を実現する全国ネットワーク→[06/6/7]。
by kamiyam_y | 2006-10-24 21:11 | 民主主義と日本社会 | Trackback | Comments(0)

強行採決の動き 共謀罪不要論の正当性

まともに理論的に勝負したら勝目がないため、与党は、抜打ち審議から強行採決へ、という、数に頼った戦術に出るのではないか、危惧されてます。

日弁連:日弁連は共謀罪に反対します

「政治・共謀罪は10月24日、衆院法務委員会法案審議冒頭に強行採決か!?」JANJAN

asahi.com

共謀罪なしで条約批准という日弁連の主張は、個人を主体とする民主主義の原理に即して正当であり、支持されるべきです。法務省・外務省がわざわざ反論すること自体、三権分立の理念を突破してしまっている執行権力の独立肥大化を思わせますが、ともかくその反論ぶりにはいよう案焦りが感じられます。

煽られた不安は、思考力の弱い人の頭から、国家権力による人権侵害の危機を忘れさせます。体感治安については、冷静な議論が必要↓
沖縄タイムス社説 2006.10.14
by kamiyam_y | 2006-10-23 21:44 | 民主主義と日本社会 | Trackback | Comments(0)

貨幣の権力をめぐる2つの方向

日本の多重債務問題と、今回のノーベル平和賞とは鮮やかな対照をなしていますね。

MSN毎日インタラクティブ「広がる多重債務」(ここここ)。
平和賞は、東京新聞北海道新聞 バックナンバーasahi.com:ノーベル平和賞のユヌス氏、出発点は74年の大飢饉

多重債務による自殺は、追いつめられた果ての悲劇であり、社会関係の束が人の自由と権利を奪っていく人間疎外の局限です。

サラ金が債務者に生命保険をかけていることが問題となりましたが、人の命よりもカネ、という経済法則の無慈悲な実態が、露出してます。サラ金で働く者が他人の死を自分たちの利益だと感じるのも、貨幣の力による人間性の転倒そのものです。

現代社会は、共同体を破壊し、個人の孤立を招きますが、それは、社会が利己的諸利害に分解することです。この諸利害の相互反撥が共同的な絆を外的な権力として形成します。現代社会は、個人の形式的自由の裏側で、社会関係を貨幣の権力として凝集しています。

表では、人間が物を支配するが、裏では、貨幣として表象される物が人間を支配しています。共同的な紐帯が物の形をとって社会的な力として効力を持っています。これが現代社会の分裂したありかたです。物とは過去の労働の産物ですから、過去の労働が貨幣の権力として人々を支配している、ともいえます。

人々の意思が社会をまとめる効力を有するのではなく、社会をまとめる力は、労働の関連です。この労働の連関が貨幣として作用します。貨幣とは流通するだけではなく、流通の外で労働を吸収して増殖することによって、存在します。貨幣とは、過程において維持される独立化した過去の労働、つまり資本ですから、資本主義とは表では人間が自由だが、裏では資本が支配している矛盾した社会です。

ノーベル平和賞のユヌスさんは、経済学の机上の論理に疑問をもって、貧困の現実と闘うべく虐げられ権利を奪われた人々のために「グラミン(農民)」銀行を設立します。私は詳しくはないので、自信をもって言えませんけど、「人間開発」(国連)のための智慧の1つとして面白いかも。

こちらはその意図としては、貨幣の権力に支配されるのではなく、市場的な装置を貧困削減という公共的な目的に利用することです。貨幣(市場)を前提しながらも、その支配を転倒することを潜在的に含んでいるのかもしれません。貨幣をその制御されざる作用(大衆を犠牲にした成長)として実現する現代の限界に対して、市場を制御し市場の公共的機能を追求するという契機を含むことで、異議申立を行っている、と言っていいように思います。これで解決というわけではないけれど、「成長主義」を超える社会意識の形成がすすんでいる証拠でしょう。

まあとりあえず、日本の消費者金融の金利を下げるとよくないぞ、という脅し文句に対しては、低金利少額融資のグラミン銀行の手法が実地に反論しているか、と(笑)。
by kamiyam_y | 2006-10-18 22:09 | Trackback | Comments(0)

宮崎・大谷が道警元幹部を提訴

宮崎学と大谷昭宏が、裁判に補助参加を申し立てた()だけではなく、道警元幹部の佐々木友善を逆に提訴するそうです。

この道警元総務部長は、共著者の宮崎と大谷を外し、道新記者と道新を名誉毀損で提訴し、「焚書」(大谷)を要求した。大谷によると、しかも道新経営陣が道警に恥をかかさぬよう「お手打ち」しようとする動きがあり、それに歯止めをかけておくために、提訴したとのこと。

道警側が墓穴を掘ることになるのが、人間社会の理性というものでしょう。

原田宏二も交えて大谷・宮崎らのパネルディスカッションが「かでるホール」で10月29日18時からあるとのこと。自由な報道を介して、主権者による権力のチェックをすすめていく近代社会は、こういう障害物をみずから生みだしながら、自己陶冶していきます。関心のある方はぜひ参加を。

詳細は以下のサイト。

宮崎学 miyazakimanabu.com: 「北海道警裏金問題本」訴訟に補助参加申し立て(8/13写真等追加)
宮崎学 miyazakimanabu.com: 10月29日、札幌での『道政・道警・裏金報道』を考える集いに出る。
大谷昭宏事務所/Webコラム/「補助参加」にエールの嵐を!
大谷昭宏事務所/Webコラム/10月29日は「北海道を考える集い」
情報流通促進計画 by ヤメ記者弁護士:大谷氏ら逆提訴~&~北海道はこれでいいのか!『道政・道警・裏金報道』を考える集い
OhmyNews:被告と原告の“手打ち”を許さない
青い空緑の森青い海 - 道警裏金本訴訟
by kamiyam_y | 2006-10-15 23:30 | 民主主義と日本社会 | Trackback(1) | Comments(2)

教育基本法「改正」反対署名

道内の研究者が教育基本法改悪反対の声明を出してるんですね。署名の期日が近づいているので、賛同される方はお早めに。

全国国公私立大学の事件情報: 教育基本法「改正」に反対する北海道研究者、声明と賛同署名のお願い
by kamiyam_y | 2006-10-12 10:06 | Trackback(1) | Comments(0)

自己の時間の他人の時間化(4) 「サービス残業」が露出するもの

「サービス残業」は、たまたまの法律違反ではなくて実態として完全に定着しています。賃金不払が定着しているということは、賃金の本質や、賃金を超える剰余労働のしくみがいわば目に見える形で現れているということです。

「サービス残業」をもたらす圧力をつかんで非サービス残業の内部に剰余時間を発見することは、「サービス残業」として現れた事柄のなかに非サービス残業の真理を見いだすことです。今回は「サービス残業」を眼前に据えて、それが告知するものを明らかにしてみたいと思います。

「サービス残業」は、私たちが気づいていながらも見て見ぬふりをしている事柄を私たちに突きつけています。これを認めたら資本主義の正当性が崩壊してしまい、明るい未来が見えるだけではなく、考えることが増えてしまうので見ないようにしている事実ですけど、それを「サービス残業」はハッキリと見させてしまいます。

「サービス残業」の定着という事実は、ちょっと考えてみると、賃金として支払われている価値額と、実際の労働時間とがまったく別のものだということを示していることが分かります。労働時間が延長されても、賃金は変らないことが定着しているのですから、賃金には固定された上限があるけれども、賃金として支払ったカネで買った労働力を企業が使い込む時間は、延長可能なのだ、ということになります。

賃金は少なく、労働時間は長く、というのはこのことにもとづいて、資本が強制する傾向です。

たとえば、200時間の労働でしたら、労働者5人で40時間ずつすればいいはずですが、企業としては、労働者4人に、各自10時間ずつ「サービス残業」をさせれば、人件費1人分削減になります。賃金を減らして、利潤を増やすことができます。これは賃金の中身と、労働やそれが生む利潤とが別の変数だから可能なわけです。

賃金は労働力商品の代金であって、労働自体は労働力を消費することであって、「労働の値段」なんて経済的実態においては存在せず、それは単なる法的お約束としてあるだけです。

「サービス残業」は、資本主義社会において、法的自由平等と経済の実態とが衝突することをも示しています。法的には企業と労働者は対等で、労働に対して支払われることになっています。

しかし、「サービス残業」は、賃金が時間給という合意があっても現実には時間に対応しないことを意味しており、賃金が労働に対して支払われているのではないことを明かしてしまっています。企業は労働時間に比例する賃金を約束しながら、労働時間に対して支払わない。このことは、貨幣が労働そのものに対して支払われているのではないこと、企業は賃金の大きさに左右されずに、労働時間を延長する力をもつこと、法的な対等は実際には諸個人に制御されない企業の力に転回することを、示しているといえます。

企業が労働力に少なく払い、労働を多くさせるといういわば資本蓄積の法則も、失業・半失業という強制された怠惰を蓄積するのであって、大衆が働くなかで承認しあう自由・権利・能力を疎外しています。資本主義を形づくる奥底の矛盾は、単なる経済の問題にとどまってはいません。

「サービス残業」の定着は、企業の諸力のおりなす関係が、国家による法律的制御を破りつづけていることです。社会的労働の過程が諸個人を強制的に社会的生産に結びつけるけれども、諸個人が主体となる社会的過程とはなっていないことを告知しています。

日本型ホワイトカラー・エグゼンプションと称するものを企業は強引に導入しようとしています。

賃金制度は、個人の自発性を促す契機もありますけれど、労働時間や労働の密度を増大する梃子にもなります。例えば出来高賃金で、以前8時間でおこなっていた仕事を7時間で仕上げ、8時間の生産量を増やすことができるようになっても、それがこんどは賃金の新たな基準になりますから、実質賃下げ、労働強化です。目先の利益のために競争に埋没するほど、自分の首が締められていくしかけなわけです。
by kamiyam_y | 2006-10-07 00:59 | 資本主義System(資本論) | Trackback | Comments(0)

自己の時間の他人の時間化(3) イノベーション

▽ けさ衆議院予算委員会で質問にたった自民党の中川昭一議員が「イノベーション」に関して「シュンペーター教授」と何度もくりかえしてました。

シュンペーターといえば、アマゾンの『資本主義・社会主義・民主主義』(中山伊知郎・東畑精一訳、東洋経済新報社)の「商品の説明」に

「資本主義文明は、その驚くべき発展ゆえに内部に敵対的雰囲気を生み出し、他の体制に席を譲らざるをえない、という逆説。碩学シュムペーターの遺した壮大な文明論的展望」

とある通り(Amazon.co.jp: 資本主義・社会主義・民主主義 上巻 (1))、資本主義は発展ゆえに没落するという趣旨のテーゼが有名です。

この著作は、20世紀前半のウィーンの世界文化・社会主義運動の香りがします。ここでのシュンペーターはほとんどオーストリア・マルクス主義です。

「資本主義的企業は、ほかならぬ自らの業績によって進歩を自動化せしめる傾きをもつから、それは自分自身を余計なものたらしめる……傾向をもつとわれわれは結論する。完全に官庁化された巨大な産業単位は中小企業を追い出し、その所有者を『収奪』するのみならず、階級としてのブルジョアジーをも収奪するにいたる」(同上訳書、第2部第12章)。

ここで思い浮かべるべきは『資本論』第1部第24章第7節における資本主義の歴史的傾向、個人的所有の否定の否定の記述です。

資本蓄積は労働する諸個人から社会的生産を分離するにとどまらず、資本の「内在的諸法則」「集中」によって資本家から社会的生産を剥奪していきますが、この展開は、マルクスにおいては株式会社における「所有と機能の分離」論・「資本家の不要化」論として第3部で再論議されます。

シュンペーターの「企業者職能の無能化」は、例えばケインズの「自由放任の終焉」(『ケインズ説得評論集』救仁郷繁訳、ぺりかん社や『全集』)における「共同出資会社」における「管理経営者」と「株主」の分離の議論などとともに、マルクスの《資本家の疎外》《あらゆる諸個人の生産手段からの疎外》という把握に包摂されるはずです。

中川が社会主義者「シュンペーター教授」の名前を権威として何度ももちだすたびに、安倍が頷いていたのが、笑える図式でした。現代はほんと面白い。

なお、シュンペーターがマルクスをどう評価していたか、はこんなかんじ。↓
1/8 Today シュンペーター没 (1950)

▽ ついでに安倍といえば、『月刊現代』11月号が本屋で随分売れてました。保坂正康「『安倍史観』の無恥と傲慢」でしょうね、きっと。
by kamiyam_y | 2006-10-05 17:02 | 資本主義System(資本論) | Trackback | Comments(0)