さっぽろ地下鉄のなかでマルクスを呼吸する、世界を呼吸する

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「美しい国」という空虚な観念

「ロビ地下」と言っても通じない学生がいるのですが、ススキノにあるロビンソン百貨店は飲みに行くときの集合場所としてよく使われます。

この百貨店がヨーカドー系列なのは知ってましたが、スピッツの「ロビンソン」がタイのロビンソン百貨店に由来するというのは知らなかったです(Wikipedia、ロビンソン百貨店ロビンソン (シングル))。だからといって、知ってもべつだん利口になる情報ではありませんけど。


「美しい国」という空虚な観念

安倍晋三の所信表明演説。

読んでみる?安倍首相・所信表明演説の「全文」-政治もニュース:イザ!

人当たりがよさそうというムードに騙されちゃいけません(笑)。戦前回帰オタクは「美しい国」が好き。国家という抽象物への愛情を冒頭から語っています。

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 私が目指すこの国のかたちは、活力とチャンスと優しさに満ちあふれ、自律の精神を大事にする、世界に開かれた、「美しい国、日本」であります。この「美しい国」の姿を、私は次のように考えます。

 一つ目は、文化、伝統、自然、歴史を大切にする国であります。

 二つ目は、自由な社会を基本とし、規律を知る、凛(りん)とした国であります。

 三つ目は、未来へ向かって成長するエネルギーを持ち続ける国であります。

 四つ目は、世界に信頼され、尊敬され、愛される、リーダーシップのある国であります。

 この「美しい国」の実現のため、私は、自由民主党および公明党による連立政権の安定した基盤に立って、「美しい国創り内閣」を組織しました。……

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人間ではなくいきなり「伝統」です。「美しい国」が定義されないがらくたであるとと同様に、「伝統」も人それぞれ。「革命の伝統も伝統」とか、「茶髪こそ真の日本的伝統」という主張も安倍のあこがれる「伝統」と等価のはずですが、彼が意図しているのは異なります。「美しい国」というなら利権がらみの乱開発を止めることこそ「美しい」だろうという考えもあるにもかかわらず、彼の「美しい」の中身は「伝統」。しかも「伝統」の中身は、個人を共同体の手足と見るような観念。

「歴史」を大切にだって、《歴史を修正する》という戦前美化の教えですし。

「凛とした国」ってのも、凛々しさを愛する軍国主義を思わせます。この手のすがすがしさを好むのはいかにもファシストの感性。

「美しい国創り内閣」というキャッチフレーズは、後ろに出てくる「子育てフレンドリーな社会」とともに恥ずかしいセンスですし。

「筋肉質の政府」というのも出てきます。これは虚弱体質や高脂血症に対する当てつけですかね。体が弱い人は経済効率が悪いのかな。

「未来へ向かって成長する」というのは、政治主体が資本主義にとどまろうとしながら語らざるを得ない資本主義超克の宣言ですね。安倍自身の思想と矛盾する、社会の発展の本筋としての《持続可能性》です。

「世界に信頼され、尊敬され」も、憲法と教基法の国際主義的な人権宣言を実現することですから、この言葉で安倍が示したい妄念とは正反対の理念です。

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 最近、エレベーターの事故や、ガス瞬間湯沸かし器による一酸化炭素中毒といった、規律の緩みを思わせる事故が相次いでいます。事故リスク情報の公開や安全規制の強化など、再発防止に向けて取り組んでまいります。

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企業犯罪にも、「規律」という言葉をことさら使いたいようです。企業犯罪が教育基本法のせいだと言わんばかりというか。

企業の社会的責任(CSR)は、しかし、「規律の緩み」という精神論的なニュアンスで片づけるべきではありません。企業の社会的責任がなぜ問われ、また、企業に対する規制がなぜ有効に働かないのか、という点が社会科学的に詰められねばなりません。

企業と人権との対立という問題は、社会統合を無秩序な成長主義経済に委ねることが必然的に含む矛盾です。企業犯罪は、小手先の強化策のレベルで終る問題ではありません。

企業の社会的責任は、多国籍企業に対する社会的制御の意識であり、それは、地球規模で問題となっています。企業の社会的責任が問題となってくるのも、企業の形で発展した社会的労働は、誰のものであり、誰のためのものであるのか、社会的に問われているからです。発展した社会的生産を、個人を押しつぶす経済法則や市場や企業の暴走としてではなく、個人の生を豊かに実現するためのものに転換しなければならない。そのためには、この社会的生産に対して社会的な制御が必要である。このことが、一種の合意となっているから、企業の社会的責任が問題となっているのです。

地球規模での人権の実現の試みに、企業の社会的責任論は包摂されるといえましょう。

ですから、企業犯罪に対して、「美しい」国家主義という、反人権主義的な「規律」強化によって対処しようとするのなら、あまりに浅薄といわねばなりません。

ここでは、単に企業犯罪を取りあげてみただけでしょう。背後の社会関係を見ることのないただの所信表明、ただの付け足しです。「再発防止に向けて取り組んでまいります」と官僚的な作文で終ってます。

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 私が目指す「美しい国、日本」を実現するためには、次代を背負って立つ子どもや若者の育成が不可欠です。ところが、近年、子どものモラルや学ぶ意欲が低下しており、子どもを取り巻く家庭や地域の教育力の低下も指摘されています。

 教育の目的は、志ある国民を育て、品格ある国家、社会をつくることです。……
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ここは、安倍がその国家主義的妄想をあらわにしてる箇所です。

ここは安倍の倒錯ぶりがよく表れてますから、ここを批判しているブログもかなりあります( ONO-Masa Home Page (はてな出張所) - 教育基本法「改正」反対―所信表明演説・危険。、など)。

「私が目指す『美しい国』」のために教育改革を行うのでしょうか。そうだとしたら、転倒です。

学ぶ意欲が低下するって何でしょうか。そんなことあるんですか。ついこないだまで、そんなみんな学ぶ意欲にあふれてたんですか。

仮に低下したとしても、それは、家父長制的家族を復活させたい宗教右翼的熱意や、共謀罪や国民投票法、改憲や教育基本法改悪などによって、国家権力による教育支配、メディア介入、表現の弾圧、自由な思想の弾圧によって、子供の意欲が向上するのですかねえ。

しかも何のために学ぶのかというと、「品格ある国家」のため。おいおい。

結局、何のための「学ぶ意欲」かといったら、国家のために奉仕する人柱。あれ、ここは北朝鮮か。まあ、つきつめてしまえば、すすんで企業や軍隊の歯車になろうとする人間、批判的思考を失った人間を生産したいだけ。

ちなみに最近「小学校で校内暴力増加」というニュースが流されましたが、教育基本法改悪のための下地づくりのにおいがします。

カルトvsオタクのハルマゲドン/カマヤンの虚業日記

で指摘されているように、特定の県だけに集中してます。小学生で校内暴力もへったくれもないでしょうが。

現代日本の変革に必要なのは、教基法と憲法の理念を実現することであって、それらが古くなったとか、個人が権利を主張しすぎるから国家が大事だ、といった議論は根本的に逆さまです。こうした逆立ちに潜む全体主義への回帰願望は、企業の私利による社会退廃とじつは補い合っている空虚で仮想的な関係であって、なんらの進歩をもたらすものでもなく、個人に対する抑圧を強化する道です。

安倍は、憲法と教基法を全体主義的に変えることにあこがれているだけあって、この演説には「権利」も「人権」も「民主主義」も出てきません。

「自由な社会」という言葉も出てきますが、これは、個人の権利と民主主義(憲法の「基本的人権」「主権在民」)から切り離されていますから、生きた個人という主体(内容)を欠いた、飾りにすぎないというべきでしょう。

あるいは、新自由主義の弁護イデオロギーとして機能するしかないような抽象的な観念としての自由であり、生きた個人の自由、労働する大衆の自由ではなく、拝金主義エリートや巨大資本の自由をまず拡大する「自由」でしょう。「レッドパージ」的なイデオローグのいう「自由」といってもいいかもしれません。【生きた個人の自由な発展を徹底する自由】ではありません。中途半端で抑圧的に機能する「自由」です。例えば、大企業の自由を守るために思想統制をするのが本音の自由は、自由を抑圧する自由ですから、こういう反民主主義的な自由は、社会的実体のない、自由に矛盾する自由ともいえます。


なお、教育基本法をめぐる最近の論考として、以下のものがあります。
竹内常一『いまなぜ教育基本法か』桜井書店。
大内裕和・高橋哲哉『愛国心・格差社会・憲法』白澤社。
美馬孝人「国民の教育権の後退と教育基本法の『改正』」(北海学園大学『経済論集』第54巻第1号、2006年6月)。
by kamiyam_y | 2006-09-30 20:36 | 民主主義と日本社会 | Trackback | Comments(3)

宗教としての貨幣

先日友人が「教会に行くのが当り前の社会と違って、日本は何が宗教なんだろうと考えると、日本ではお金が宗教なんじゃないか」と語ってました。

資本主義は、お金の増大が社会をまとめあげる法則だから、どんな資本主義でもお金は神とは気づかない神、という意味をもっている。

ところがビジネス界での相互食いつぶし競争と、教会で礼拝する相互友愛とが補完しあっている社会とは違って、日本は宗教的統一が他の形をとっている。もし日本でとくにお金が宗教として機能するのなら、そういう背景があるかもしれない。

マルクスは、貨幣をポケットに入る人間の紐帯であると見抜いた。人間の社会的本性が前資本主義では神の支配に転倒して現れ、資本主義では労働そのもののが非労働として人間を支配する力に転倒して実現する。

シェークスピアは『アテネのタイモン』のなかでいう、
「黄金か。・・・・・・
こいつがこのくらいあれば黒も白に、醜も美に、
悪も善に、老も若に、臆病も勇敢に、卑賤も高貴にかえる』・・・・・・

シェークスピアは貨幣についてとくに二つの属性をうきぼりにしている。
(1) 貨幣は目に見える神であり、一切の人間的なまたは自然的な諸属性をその反対のものへと変ずるものであり、諸事物の全般的な倒錯と転倒とである。・・・・・・
(『経済学・哲学草稿』城塚登・田中吉六訳、岩波文庫、180-182頁)


単なる野蛮な人物も貨幣をもつと社会的英雄に転ずる。こういえば、みなかつてのヒルズ族を思うでしょう。

拝金主義や競争主義、エリート賛美が、惨めな人間の自我を一時拡大する麻薬として働くこともありそうです。人間が惨めなほど、彼は自分以外の金持ちをむしろ崇拝する、とか。

人間に対する不信が貨幣に対する信と補いあっている。これは私たちの矛盾した存在様式でしょう。貨幣を頭のなかで否定しても、資本主義的関係を前提として生きるかぎり、私たちは貨幣を崇拝する行動から誰もが抜け出すことができません。だとしたら、拝金主義者に対する個人攻撃的批判は、結局自分自身の矛盾から目を背けることであり、社会関係をつかむことなく、道徳的鬱憤を晴らすことにおわるはず。もちろん私も拝金主義者は嫌いですけど。嫌っている対象と同じ空気を吸っているのも、ある意味きわめて人間的であって、人間の社会的本性を表しています。

貨幣が貨幣として存在するリアルなありようは、労働が価値増殖という独自の経済関係的使用価値として現れることに根ざす。この労働の発展が貨幣による個人の分解と結合を超える地平を指ししめしています。貨幣は労働の社会化をもたらすのですから。

貨幣は存在するためには、企業、社会的労働組織という形をとります。貨幣がたどる過程の局面として企業が存在します。

で、「日本の宗教は企業じゃないか」と私が言うと、友人は日本的雇用慣行の解体でもそれは妥当するのか、疑問を呈してました。たしかにその通りかなと思いました。
by kamiyam_y | 2006-09-28 22:46 | 資本主義System(資本論) | Trackback | Comments(0)

自由な言論への敵対

東京新聞が安倍の強権的なメディア対応を「検証」してます。

ここ

この記事を見るだけでも、安倍って、こんなに異様にねちねちした小心者なのか、と呆れます。自分の意に沿わないと何百も文書を送りつけたり。統一協会に祝電を送ったくせして、「霊感商法対策弁護士連絡会」の公開質問状は無視。

テロとの戦いとかいって右翼のテロは野放し。「教育基本法」改悪と憲法改悪、「共謀罪」というトンデモイデオロギーに憑かれちゃってます。

この東京新聞の記事で注目したいのは、喜田村洋一弁護士の話。アメリカでは、「メディアが記事内容が虚偽であることを知っているか、真実性に関心を持たずに報じた場合を除けば、政治家のような公人はメディアに賠償を求められない」とのだそうです。個人情報保護にせよ、名誉毀損にせよ、政治家が権力防衛に利用することを制御して、政治や権力を市民に対して《開いていくこと》が民主主義の発展には重要。

保坂展人のどこどこ日記9月13日によると、「共謀罪」、フランスのばあい「国際組織犯罪条約の批准後」に設けられたのはたったの1つ。アメリカは条約5条留保。無限定な619ってなんなんじゃい。
by kamiyam_y | 2006-09-23 17:36 | 民主主義と日本社会 | Trackback | Comments(0)

言論抑圧のための提訴は人権の精神に反する

「名誉毀損」訴訟を、自由な言論、権力批判的な言論を抑えるために起こすことは、違法。武富士に対しては東京地裁が示した判断は真っ当。
Excite エキサイト : 社会ニュース

政治家や警察も分かってるんでしょうかね。

東京地裁もう一ついい判決出してますね。国歌強制は憲法違反。
東京新聞
by kamiyam_y | 2006-09-22 23:48 | 民主主義と日本社会 | Trackback | Comments(0)

国際主義の存在権利 -「現代」から「要綱」の「基本的矛盾」へ- 5

▽ 多忙のため「国際主義の存在権」は1で終了になるかもしれません。

▽ 今回はなぜ今こそマルクスなのか、ちょっと書いてみました。

手元にないんですが、2006年8月1日朝日新聞で京大の橘木俊詔が、確かこんなことを書いてました(「マル経と近経」)。旧帝大でエリートがマル経を学んだため、日本の成長には平等主義的なよさがあった。「社会主義国」崩壊以降発言力を増した「近経」は、市場原理主義を重視し、格差拡大、環境問題の悪化等の問題をもたらしている。だからこれからはマル経にかわって、近経の反主流派ががんばらなくてはならない。確かこんな趣旨。

マルクスは分配を理論の中心においているわけではなく、単なる経済学者でもなく、デカルト以降の近代知のジレンマを解いた西欧の正統的な知の延長上に位置するのであって、学問的なもの。その政治的影響は歴史的諸条件によって生じたものであり、学問内容とは区別されます。

経済学者で「世界ふしぎ発見!」でとりあげられたのはマルクスだけだし、人類の知の巨匠ベストテンに入るし(livedoor ニュース - 「最も偉大な哲学者」/マルクスが1位/英BBCラジオの視聴者投票)。もちろん政党が独り占めすべきものでもありません。で、マル経といってもいろいろあるし、崩壊したわけでもないんですが^^;・・・。

それはいいとして、さしあたりの私の政治戦略は、アンチ市場原理主義はマル経・近経を問わず、政党を問わず、連帯したらいい、ですのでちょっと面白かった。

社会主義国家の崩壊は、資本主義の内部矛盾を公開した、というのが新世紀に確認できることです。人類の将来展望を語ることは、社会主義を自称した(している)地域の比較研究や実証研究も役立つとはいえ、基本は資本主義をどう見るかということです。

で、強そうな権威の側に付いて自己保身に走る人はいるものですねえ。左から右に旋回する人(笑)。別に新自由主義者に転向した人だけではない。実証研究をしているマル経(?)の研究者でも、マルクスを読もうとする大学院生に対して、「そんな難しいことして意味ない」などと嫌みを言うような人がいるらしい。困ったものです。古典を学んで得るところは大きいのに。もちろん、私の周りで原論以外のマル経済学者は、理論の重要さをよく分かっている人ばかりですけどね。

国際主義の存在権利 -「現代」から「要綱」の「基本的矛盾」へ- 5

1.4  20世紀社会主義「国家」と《自由な個人の諸アソシエーション》

東欧革命からロシア革命へ

資本主義は、労働する諸個人を「二重の意味で自由」な存在にした。労働する諸個人は、法的に人格的に自由であり、共同体的な隷属から自由であるといういわば表の自由と、それを可能した生産手段からの切り離されるという意味での裏の自由とを得た。

商品生産は人を自由な私的所有者にするとともに、生産の関係を物象化している。この状態は資本主義として実現する。資本主義は、労働する諸個人を自由な人格にするとともに、彼等の生産を他人の所有として現れる物象的な生産としてつくりだす。物象的な、制御されない生産である資本は、20世紀を通じて、「成長主義」「経済至上主義」がもたらす不調和として現れてきている。

新世紀を開始して私たちは、発展した労働をどのように、人々の幸福のために用いるのかを問われている。本当に豊かな社会をつくっていくために私たちは、社会的労働をどのように管理するのかを求められている。地球を破壊するまでに成長した労働の社会的生産力をどのように制御するのか、といいかえてもよい。

企業、労働、人権と民主主義、保健衛生などの政策など、現代的な問題はすべて、この自由な人格の陶冶という課題に収斂する。現代の問題系は、経済至上主義と人権、企業中心主義と働く者の豊かさ、地球環境と成長主義・競争主義・国益主義との対立といった系列に整理できる。「人権」や「持続可能性」といった標語も、どのようにして労働の社会的生産力を民主的に管理するのかを問題にしている。

20世紀は、大量生産・大量消費のシステムが先進的地域を捉え、帝国主義が展開し、国益主義を通じて資本主義が地球的に拡がった。20世紀は大量殺戮の世紀であると同時に、人権の世紀としても位置づけられる展開であった。

イギリスによる「植民地」支配として現れた「パクス・ブリタニカ」、植民地分割戦争、国際的管理システムの設立を伴った「パクス・アメリカーナ」の形成、1980年代の「民営化」「自由化」路線、1985年のアメリカ合衆国の債務国への転落、南北問題、南南問題、地球規模での格差、途上国の工業化、EU統合など、発展を象徴する出来事は、すべて、資本主義が歴史的に成熟していくなかでとったその姿であった。

なかでも、20世紀後半の大事件として89年のベルリンの壁崩壊と91年のソ連邦崩壊はグローバル資本主義の展開を示す大事件であった。ここから20世紀前半の大事件であった17年のロシア革命とその後の社会を振り返っておくことは、現代の資本主義を語るうえで欠かせないだろう。

ロシアの無名の労働者大衆は、人間的な社会をつくりだす人類の歴史において、先進的な一歩を踏み出した。しかしこの足跡は、資本主義が展開していくなかでの偶然的で歴史的な諸条件の絡み合いのなかで可能になったものであった。社会の基礎に対して古くなった専制は倒されねばならず、帝国主義列強との対立のなかでロシアの大衆は新しい社会を建設しなければならなかったのである。

その後のこの社会の経験はどんな意味でも、マルクスが捉えた資本主義以降の社会に属するものではないことは明らかである。マルクスが資本主義のなかからつかみとった人間的要因を発展させた社会ではなかった。歴史は飛び越えることはできなかったのである。資本主義の発達していない地域が資本主義を超える地域を生みだすことはありえなかった。

新生ソ連でまずレーニンが遂行すべきと考えたのは、産業的基盤を創出することであり、国家資本主義を自覚的に推進することであった。

プロレタリアートの権力(と自称する権力)は社会的生産の基盤をこれから創出すべきであった。にもかかわらず、「社会主義」社会に入ったという宣伝を、スターリン体制の確立は、支配イデオロギーとして振りまいた。

この国家はナチズムを阻止し、大衆の教育向上で成果を上げ、あるいは先進資本主義国の内部の「社会主義」(社会民主主義・福祉国家・ケインズ主義国家)を成長させる契機となり、歴史的に存在した意味をもった。

けれども、大衆に逆立ちする国家権力は死滅するどころか強大であり、官僚の腐敗と無計画な政治、軍国化、密告と粛清、個人崇拝などにより大衆を犠牲にし収奪した。人格的な支配意識と隷従する側の農奴的卑屈さは残存した。

自由な個人と労働の社会化に依拠しない権力的支配による経済成長というのが、20世紀社会主義のとった途であった。この実験の意味は、資本主義が地球規模で展開していくなかで明らかとなった。資本主義の発展がもたらす自由な個人と労働の社会化を前提としないで、歴史を飛び越えることはできなかったのだ。

この支配体制を崩壊させたのは、資本主義の地球的な発展であったといってよく、資本主義は「社会主義」を自分に先行する諸形態として解体した。前資本主義的な社会を資本主義が吸収した。

ソ連東欧は政治解放が先行して資本主義に社会的諸条件を解放したが、貧困化している。対照的に、中国は天安門によっても政治支配を崩すことはなかったが、外資導入という資本主義的関係の推進によって政治解放の前に経済開放をした。この経済成長がもたらす発展は、人権後進国的政治風土と衝突せざるをえないと思われる。

社会科学におけるマルクス

「マルクス・レーニン主義」などと称された教典のセットは、ソ連の社会主義宣言を補強する体制イデオロギーであったといってよい。いわゆる「史的唯物論」も「弁証法」も、「経済学教科書」も、皮肉なことに「社会主義」内部でその果す機能は、体制の補完であった。

社会総体を把握する唯一の方法的態度としてマルクスは、社会科学そのものの領域性をなしており、社会科学を語ることはマルクスを語ることに等しい。逆に、分析派、構造主義、ポストモダン等々、社会科学の諸潮流は好きなようにマルクスの断片を再構成できるものだ。

マルクス主義やマルクス経済学といった言葉が、マルクスの理論構造を確定することはありえないのである。多くのマルクス主義が多くのルーツをもっているし、マルクス経済学は「経済学教科書」の呪縛を忘れ去りながら、そこから完全に自由になったわけではない現状にある。

方法的個人主義と構造主義との馴れ合いという社会科学の隘路はそのままマルクス的なものの隘路である。マルクスを不透明にするのはマルクス主義であり、マルクスの理論はマルクス主義を批判する。マルクス主義の自浄能力や自己革新が問われている。

端的にマルクスが批判するのは、社会契約説や古典派経済学のアトミズム(「ロビンソン物語」的個人、スミスの個人)だけではない。マルクスが批判するのは、マルクス没後に批判されざる常識となってしまった「生産手段の所有関係=生産関係の基礎」説である。これは、スターリン体制の護教イデオロギーであり、「経済学教科書」に明示されている。この態度は、資本家の所有を社会の起点におき、この所有にもとづく支配を問われざるメタ的前提にしてしまう。

この「所有基礎」説は階級意思論を導き、一国国有化社会主義を正統化する性格をもつ。資本主義を捉える場合は、所有者支配高度化論である。現代を捉える場合は労働による発展を見ない絶望的な「物象化」の昂進論になる。主観的な反資本主義論が解放主体を求めて彷徨うのも、こうした枠組では、社会的労働の発展において自由な人格性の発展を見ることがないからである。

ソ連崩壊以降

資本主義の勝利と見えたものは即座に、【矛盾は資本主義の矛盾である】という対立構造の露出に、矛盾に転回した。自称社会主義を飲み込んだ資本主義にもとづく自由は、資本主義そのものを批判する自由に転回する。資本主義の外に向けられていた視線が資本主義の内部に向けられることになる。資本主義は自己完結せず、自己批判的である。

「歴史の終り」論は、利潤追求に伴う生産革命を日々遂行する経営労働者にも、権利の実現という革命を日々遂行する一般労働者にも、何の指針ももたらさない。問題を実践的に解決し、矛盾を解決する営みは、冷戦崩壊によってますます重要になったのである。

資本主義の諸矛盾を現実的に分析する意義は消えるどころかますます明快となったのである。

冷戦はそれ自体資本主義の未熟さを意味したともいえる。社会主義国家の存在を資本主義は必要としたといってもよい。自称社会主義の体制が存在することは、資本主義自体にとっての安全装置だった。自由がない、財産は没収される、配給制だ、こわいだろう、そんな社会にしようとする勢力は敵だ。こういう宣伝文句は、外部の敵を想定する統合イデオロギーであり、内部の批判者を封殺するのにも用いられるイデオロギーであった。

社会主義「国家」の側でも、自国を解放の中心として特権化して、自国中心の体制とアメリカ中心の体制との対立を現代の最高の矛盾だと宣伝した。国益主義的資本主義は国益主義的自称社会主義とつりあっていた。資本主義内部の支配イデオロギーと、「社会主義」の統治階級の弁護論とは、その地政学的な愚かさにおいて補完しあっていたというべきだろう。ついでにいえば、マルクス経済学者のうち「社会主義」国の存在そのものを議論の疑えない根拠や証明としている者が、この存在の消滅によって、理論を捨て実証研究に閉じこもったり、自己革新もなく転向したりしたのも「法則」的であろう。

両者の宣伝文句にいう市場経済対計画経済との対立などというものは、そもそも存在したことはない。資本主義は内部に協業を包摂した瞬間に計画性を自己の環境にしていく。社会システムの編成の原理に即して資本主義を特徴づけるなら、資本主義とは物象的な生産のシステムであり、単なる自由な市場一般ではない。それを超えるのが国家官僚による指令であるわけもない。

自由な人間社会の計画性は自由な諸個人の諸アソシエーションの有機的な統一性をさすのであって、国家官僚による分配の計算という貧しい戦時経済的なイメージをさすのではない。「一国一工場」という企業内再封建化の一国への広がりでもない。

社会主義という「考え」にもとづいて資本主義を分析するのでもないし、市場主義という考え方が資本主義をつくるのでもない。こういう発想は根本的に転倒している。考えなるものが所与の前提となり、それが社会をつくりだすというのは非現実的な見方である。考えなるものがどこから湧いたのか。現実の社会関係の媒介項が観念的な行為なのであり、理想がどこからか湧いてきて資本主義を批判しているのではない。

マルクスの新社会論は、現在の社会システムが矛盾において即自的に産出する人間社会完成の諸条件を自覚した像であり、対象が提示する方程式から自動的に導かれる関連であって、資本主義の概念的分析がいわば自動的に映し出す画像なのである。脱資本主義とは、資本主義に内在する人間的な関係を顕在化すること、資本主義の脱資本主義的(自己否定的)展開を完了することなのである。


註 この節の内容は本格的には以下の文献を参照されたい。①有井行夫『株式会社の正当性と所有理論』青木書店、1991年、②大谷禎之介「社会主義とはどのような社会か」『経済志林』(法政大学)第63巻第3号、1995年、③山口正之『社会主義の崩壊と資本主義のゆくえ』大月書店、1996年。①は所有基礎説の法学的幻想に対する根底的な批判であり、現代マルクス経済学の重要な到達点。②は、マルクスのテキストの正確な分析により社会主義をめぐる俗説を批判。③も、マルクスの核を継承しながら20世紀を総括する。
by kamiyam_y | 2006-09-13 23:31 | 資本主義System(資本論) | Trackback | Comments(6)

疑似科学(pseudosciense)への異議申立 2

疑似科学(pseudosciense)への異議申立 -学術組織の社会的責任- 2

(続き)例えばオカルトにすがる社会病理は、病理の根源が廃絶されなければ再生産されますから、これは自然科学者だけではなく、社会科学、人文科学が総合的に取り組むべき課題。

合理的に考える態度の重要性を訴え、疑似科学に市民が欺されないように正確な知識を発信することは、学術組織の社会的役割の1つになっていると思います。正しい知識を獲得する術(すべ)を遍くひろめていくリテラシー教育がますます重要になっていますね。

『科学』9月号の特集

『科学』9月号(岩波書店)「特集 疑似科学の真相/深層をよむ-なぜ信じてしまうのか」(科学2006 VOL.76 NO.9)が、疑似科学をテーマとして取りあげ、科学の専門家が論じていて、なかなか劃期なことと思われます。

まずびっくりしました。「水からの伝言」なんて流行ってたのですね。物理学者菊池誠が検討しています(「疑似科学の現在」)。

言葉が水の「樹枝状結晶」に影響するという珍説が小学校の教材にまでなっているというのですから、ほんとうにとびっくりです。人が「ありがとう」みたいないいお言葉を紙に書いてビーカーに貼り、その水をスポイトでシャーレに落とすと、きれいな結晶ができるという話です。

なんてアニミズムでしょう。学校は、迷信が含む教訓を利用する場所だったのか。

言葉だけで現実がつくれるなら苦労しませんよね。真面目に応えてしまいました。紙に「愛」って書いたら、ボールペンが生産できる、みたいな話ですよ、引き伸ばすと。

「社長すてき」と書いた紙を、機器に貼っておくと製品のバグが減るぞ、みたいな話です。そんな会社ないですけど。

血液型が自己意識を物の作用として捉えるのとはちょっと違って、こちらは、心が物をつくりだすといっているよう。思うことがそのまま物理的作用だといっているともいえます。

こちらもまた、人間と対象との同一性を前提している点で、きわめて人間的な振舞だといえましょう。疑似科学も人間どうしの共生、自然と人間の相互承認を前提しています。現代社会が巨大な不調和のシステムとして個人を飲み込んでいる事態に対する反撥として、直接的な調和を願望するのは人間的といえなくもない。

意識は人間が対象を対象として立てる労働の媒介性です。しかしこちらはその同一がまったく無媒介です。道徳という社会的意識と樹枝状結晶とが同じ平面で直接に作用しあうことになってます。現実の連関が全部飛ばされて、無関係なものが人間の意識によって勝手に関係づけられています。意識がそれ自体で独立的に無媒介に対象変革行為にされています。

よい言葉→結晶、というように、現実には関係のない2つの項目を、人間が頭のなかで結びつけ、それを現実に押しつけています。きれいな結晶というアイコンをよい心というフォルダに入れちゃってるわけです。現実の連関ではなく、人間の空想のなかでのショートカット。

科学、学問でも、このような《素っ飛ばし》はおきますが、オカルト(隠された思いこみ)とは異なり、公開された協同の知であり、訂正手続きも公開され承認されていますから、自己訂正機能が働きます。

人間はその実践的本質からして間違うことを行動に含んでいて、学問はその間違え方を研究してそれを克服する手続きをメタな知的方略として組みこんでいます。近代/現代知は徹底した懐疑主義を土俵としています。

同菊池誠論文は、「マイナスイオン」「ゲーム脳」「百匹目の猿」も扱っています。

家電メーカーが利用した「マイナスイオン」は企業の社会的責任として問題だし、「ゲーム脳」はテクノロジーの資本主義的発展に対する不安を背景にした「道徳」でしょう。斎藤環氏に聞く ゲーム脳の恐怖1[www.tv-game.com]

認知心理学からは菊池聡(Wikipedia)が議論に参加しています(「疑似科学を信じる心のシステム」)。疑似科学を成立させる人間の情報処理のありかたはを論じてます。「確証のバイアス」はなかなか便利な概念。仮説に都合のよいサンプルだけを無自覚に選択して記憶することです。血液××型は○○だという思いこみも、その信念に「合致する、もしくは合致すると解釈できる」(912頁)情報が選択的に蓄積され、確信が強められてしまう、というわけです。

「疑似科学を信じる心」は「差別や偏見の発生と強化」に共通する「認知の歪み」がある、と指摘されており、これも重要な点です。

合理的思考、「批判的思考」を訓練することが民主主義の発展には重要。

植木不等式「トンデモ科学の功罪」、池内了「信じることと考えること」も面白も読めるが、時間の関係上省略。

なお、記事タイトルの「異議申立」は池内から(「非合理な社会的事象について異議申し立てをすることだ。それは……懐疑的(批判的)精神を広めることに寄与するだろう」931頁)。
by kamiyam_y | 2006-09-11 23:31 | メディア資本と情報化 | Trackback | Comments(0)

疑似科学(pseudosciense)への異議申立 1

ELLEGARDENの新曲、いまいちという声もききましたが、私としてはなんか私と波長が合ってるというか、好きですねえ。


疑似科学(pseudosciense)への異議申立 -学術組織の社会的責任- 1

血液型分類学は「観察」という形式を装う

やくみつるいいこと言ってるんですね。

「『プロサッカーという旅から卒業し、新たな自分探しの旅に出たい……。これ、29歳の男が言うこと? やっぱりサッカー小僧ということですね』とやってスタジオをシーンとさせている」(この人物のオモテとウラ やくみつる - Infoseek ニュース

「自分探し」ってなつかしい言葉ですな。いい大人が自分のことしか関心がなかったり、本当の自分をさがすとか言ってるのは恥ずかしいことです。

「本当の自分」がどこかにあると考えるのは、フィクション。たぶんそれと連続してるんでしょうが、人間関係にフィクションにすぎない分類をもちこむことも褒められたことではありませんよね。コミュニケーションのありかたが不全であったりすると、人は、自分と他人の違いや接し方を簡単に教えてくれる「分類」や「法則」「ものさし」をほしがる気持ちが強くなるのかもしれません。

自分の特徴を点検しつつ行動すること自体は、人間の社会的本性からして自然ですし、「法則」を獲得したがるのも人間の知的本性、労働の対象承認的性格に根源があります。

動物は対象(自然存在)の一部ですが、人間は同時に対象に対して自覚的に向う。人間に対しては対象が対象としてある。対象を知的にわがものとすること、探求することは、それ自体労働の一契機をなしています。「分類」するのが楽しいのも人間の知的本性からして当然。

おかしな理由づけであってもとりあえずの安定を得られればよいとする行動様式自体、人間が他者である対象を自己に関係づける、という労働の矛盾した振舞に根ざしているといえそうですね。

「多くの国では人に血液型を尋ねるという風習がないので、血液型を尋ねると『あなたは医者か?』、『献血でもするのか?』といった反応が返ってくる」(血液型 - Wikipedia2006年9月11日取得

AだのOだの、飲食の席で血液の分類の1つを話題にする場面に遭遇することは、海面に突き出たこの弓状の土地に住んでいると、子供ならずともあることでしょう。冗談であることを共通の認識として「外れてる」ことを面白がったり。

ところが、そんな分類を真実だと取り違えて、それにもとづいて、自分の人間関係のありようをつくろうとしてしまうようなときに、「それは、健全な理性からドロップアウトしてるよ」と教えてくれる知識や思考方法が普及していない。

血液型性格判断の方が一部の若年層の都市的噂話を脱して常識化してしまい、「二重盲験法で実験したの?個人そのものをみないで分類でみるなんて自信ないの?」とつっこみを入れる側の方に常識をひっくりかえす楽しさがあるみたいになっているよう。「4つくらいに分類できれば何でもいいのでサル型遺伝子とか、犬型遺伝子とかそんなんでもいいんだよな、信じたい欲求にとっては、あほらしく感じなければいいだけ」と自分で考えていても、飲屋の席だと場の空気で参加する人が多いのかも。

バイトの面接で血液型を聞かれた、とか学校の先生が血液型判断を信じていた、とかいう話を耳にすると、疑似科学が人の心を捉える現代社会の閉塞状況に対して、もうすこし学術組織はきちんと働きかけるべきではないか、と反省してみたい気分にもなります。

松岡圭祐『ブラッドタイプ』(徳間書店・2006年6月)が、血液型性格分類という集団的な信念を素材にしているときき、買ってみました(「ブラッドタイプ」松岡圭祐著)。臨床心理士の資格もってるんですね(松岡圭祐とは - はてなダイアリー)。

幼児をつかった「バライエティ」番組の「実験」や、「小泉チルドレン」などディテールの小道具が最近のものなので読みたい人ははやく読んだ方がいいかも。こういう具体性って、何十年かしたら研究者が注釈をつけないとリアル感がなくなりますからね(ってなんでそんな未来のこと心配してんだか)。

笑いのネタとして、うそとわかってメタ化して遊ぶのならまあいいとして、企業の採用人事で血液型を参考にするなどということがもしもあるとしたら、これは個人の話ではなく、社会的弊害です。個人情報保護上問題であるだけではなく、日本国憲法の法の下の平等にも反しています。

テレビのバラエティ番組が、人間を血で分類するインチキな実験をすることは、ヒトゲノムと人権に関する世界宣言(日本ユネスコ国内委員会genome.pdf )の精神に抵触していますが、これも非理性的な競争主義のなせる業。

血液型性格判断は、自己意識とは赤血球であるという命題に帰着します。

じつはこの命題は、科学の土俵を引き延ばして荒唐無稽なものに転化してしまっている点で教えてくれるところが大きい。この命題が宣言しているのは、人間が人間を観察して人間とは物質である、物質から区別されている人間は物質そのものだ、という確信です。

この命題は、科学と同一の土俵に乗っているんですね。

実証科学の態度は、人間に疎遠な対象を人間と同一のものとして確証していくことですが、この態度を突き詰めてそれを無意味な戯画にしてしまうのが、この手の分類学でしょう。

疑似科学という集団的信念が学術的知を装うということは、独立しあう個人が共有知をつくりあげる手続きとしての学問の形式を承認していることでもあります。

前近代社会の自然発生的共同体的神話とは異なり、都市迷信は科学を装うことが流通する条件になっているともいえます。

こうした信念は正当化のための理由づけを必要としているから、「本当の」血液型性格判断があるのだ、という論法や、血液型が性格の中心を決めるが表側はその他の要因によるとか、サブの分類があるとかいう弁明、学校の知識には限界があるのだ、だからこれを信じるのは正しい、という秘密結社風のレトリックをつかったりします。科学の用語を真似た高級そうな言葉をつかったりします。

「来た。似非科学は奇妙な専門用語をでっちあげる」(『ブラッドタイプ』)

学校は人類知の圧縮した体系を継承する場ですから、この体系と疑似科学とを対照すれば、疑似科学の疑似性がつかめる、少なくとも疑ってかかるくらいのことはできそうなのに、そうなっているとはいえない。学校で学んだ確実な学知との整合を問えば、疑似科学に対して覚めた眼差しで接することができるはずなのにそうなっていない人が見られる。知識が生活世界に連結する力になっていない。学校で教えてくれないことの方が夢がある、といった子供じみた空想が疑われていなかったりするんですね。

既存の体系を批判することは科学のなかに組みこまれていますが、それと似た批判の心が共有されているともみえなくもない。でも、だったら疑似科学の疑似性を解き明かすほうがはるかに楽しい娯楽なのになあ。

科学は、個人に安易な救いを与えないけれども、個人が人権主体として自立した社会的個人として活躍できるようにする社会的力です。物事を合理的にみること、日常知を批判的に問い直すことは、民主的で理性的な社会をつくるのに欠かせない。戦争や自殺という暗いニュースであふれる社会の非合理性が、個人の対応も非合理にしている現代においてこそ学問と教育は重要。

前近代的共同体では個人は生き方の選択も人との接し方も幅が狭かった。これに対して、この共同体が崩壊した現代で、個人は自由になる反面、孤立します。いろんな信念を貨幣で購入する自由(血液型の本を買うとか)というのも、封建制からの人間解放の表現。

みんな孤立しますから、なんらかの指針を求めることは当り前でしょう。法などの直接に実践的な意識とは異なり、科学は直接社会的共同性をつくる知ではありませんから、個人の社会的行動の指針を直接には示してくれなかったりもします。

個人が自由に自分の生き方を決めることは、身分にしたがって1つの生き方を社会が与える前近代とは違います。生き方の指針がほしいとは、個人と社会との調和をめざすこと。個人の有限性を超える多様な選択肢として疑似科学的なものが発生するのは、個人の自立をある意味補っている。

病んでいる主張は魅力的であったりしますから、きまじめな人ほど引きこまれやすいかもしれません。馬鹿げた迷信でも人の心を安定させることだってあります。

けれども、科学のふりをしてお手軽なものさしを与えてくれる疑似科学的幻想は、個人の孤立に対する一時の解決にはなっても、病理を根源的に解決するものではない。病んでいる主張は、人間が自分で幻想をつくりだし、その幻想を自分の真実と取り違えてそれに跪くという仮初めの自己完結。自分で自分を欺すことであって、人間的本質が非人間的に実現している。

似非科学は、個人を救うどころか、個人の中身を薄っぺらにしたり、真実を見えなくしたり、人を欺して金儲けをする連中の道具となったり、諸個人を分断したり、現実の健康破壊をもたらしたり、差別をもたらしたり、社会的に解決すべき問題を「自己責任」に転換したり、します。個人の孤立化を助長します。正しい情報を知る消費者の権利を阻害します。

これに対して学問は個人を社会的個人へと成長させます。まあ学校が資本が使う労働力を形成するという物象的な意味に浸ることによって、いわば疎外された教育が個人をますます孤立化するという面もありますけど。

ほとんどの人が字を読めるようになったことを思うとけっこう進歩しているので、次は情報に対する自覚的な態度を普及することですね。(続く)
by kamiyam_y | 2006-09-11 23:20 | メディア資本と情報化 | Trackback | Comments(0)

国際主義の存在権利 -「現代」から「要綱」の「基本的矛盾」へ- 4

国際主義の存在権利 -「現代」から「要綱」の「基本的矛盾」へ- 4

(続き)

疎外は人間の普遍的環境を潜在的につくりだし、それと人間を対峙させることによって人間を陶冶し、環境を陶冶する。解決を要する問題をもたらすことによって資本が問題化し、このことが、諸個人による制御を求める。対立性が自由な諸個人による民主的協同管理の土俵をつくるのである。

資本主義以前の被支配諸階級諸階層の共同性とは異なり、資本主義は、諸個人を共同性に自覚的に参加する個人として立てることを前提としている(「政治的解放」)。資本主義はまた以前の生産とは異なり、生産のための生産を追求することによって(価値目的の生産)諸個人の共同性を一挙につくりだしていく(社会的生産の発展)。この共同性の自立化が資本である(社会的生産の対立的実現)。資本は問題として現象することによって、諸個人による自覚的管理の土俵をつくる。

「疎外」とは疎外されない理想を前提する非科学的な議論だ、という主張があって一見すると説得力があるようにみえるけれども、こうした主張は、資本の支配と人間の解放根拠とをまったく別の世界とみなす二元論を自分で前提しておきながら、それと同じ分裂的図式を初期マルクスに投影して批判している。この主張はそのまま自分の分裂的態度を検討すべきであり、この分裂こそ、初期マルクスが超えた当の問題ではなかったか。

資本主義が人間社会を成長させるのはいわば二層の運動においでである。1つは、労働を社会的労働として実現し、労働の世界性を開花するという運動。科学の発展、欲求の開花、人間の社会性をこれはもたらす。しかしこうした社会的労働自体が敵対的である。

もう1つの運動は、このつくりだした社会的労働と、諸個人が向き合い、これを制御していく運動である。労働はその実現の敵対的な姿によって、社会的なものの管理を前進させる。資本は、自然総体を対象として労働のつながりを拡げ、労働の社会的生産力を発展させるという傾向からみて進歩的であるが、このことは、諸個人による管理を高度化する傾向をふくむ。資本は、諸個人を孤立させると同時に、彼等の社会的結合の力を彼等に対立させることによって、彼等に社会的個人としての陶冶を要求する。資本は無自覚に生産を発展させるだけではなく、この物象的生産の破壊的作用によって、生産の発展を、諸個人が自覚的に管理する姿に転換していくことを求める。

新世紀において私たちは、発展を自覚的な姿に転換するこの方向性において歴史に大きな転換点を記さねばならない。資本は発展を諸個人の自覚的・協同的管理を含んだものに変えていく点でも自己矛盾的なのである。資本は諸個人を孤立化し、彼等とその環境を解体するだけではなく、対立的な形で普遍的な環境をつくりだし、この対立性によって、諸個人に対して、この環境をわがものとするための高次の自覚された結びあいを求める。対立性がそれを乗り越えるための途を拓く、という反転の契機をみなければならない。

「生産はそれ自体としては目的ではないと主張しようとするとすれば、その人は、生産のための生産が、人間の生産力の発展、つまり自己目的としての人間自然の富の発展以外にはなにも意味しないことを忘れているのである。……その人たちは、こうした人間という類の能力の発展が、たとえ最初は多数の人間諸個人や人間階級全体さえも犠牲にしてなされるにしても、結局はこの敵対関係を切り抜けて個々の個人の発展と一致すること……個体性のより高い発展は個人が犠牲にされる歴史的過程を通じてのみ達せられること、を理解していないのである」(「1861‐1863年草稿」MEGA,Ⅱ/3.3,S.768)。

資本主義とは人間の生産力の発展、人間の普遍的諸力の実在化の過程である。人間の手から離れた人間の諸力の発展なのである。それは人間の諸力でありながら、人間の諸力ではないという形をとって、やがて、人間の諸力に吸収される。

資本主義は、生産力発展という進歩を、環境破壊のような対立のうちに実現していく。現代の人類は、「自分で呼出した地下の悪霊をもはや制御できなくなった、あの魔法使い」(『共産党宣言』『全集』第4巻、S.467)である。この悪霊を統御することが資本主義の発展が要求することである。

「資本主義的生産は……物質代謝の単に自然発生的に生じた状態を破壊することによって、再びそれを、社会的生産の規制的法則として、また人間の十分な発展に適合する形態で、体系的に確立することを強制する」(D.K.Ⅰ,S.528)。「社会的生産過程の……諸姿態は、それが自由に社会化された人間の所産として彼等の意識的計画的な制御のもとにおかれたとき初めてその神秘のヴェールを脱ぎ捨てる」(D. K.Ⅰ,MEW.Bd.23,S.94)。

破壊がシステム的な調和を指示するのである。破壊を見ないことにする弁護論的イデオロギーでもなければ、破壊に絶望する悲観主義でもない穏健なラディカリズム、ラディカルな穏健主義、現実的な批判主義、批判的な現実主義が矛盾論的把握の実践的な有効性である。

マルクスもエンゲルスも、「自由貿易という宗教」(「自由貿易問題についての演説」S.448)、自由貿易論という資本家的イデオロギーを批判するとともに、いうまでもなく、感傷的な自由貿易反対論者でもなかった。新自由主義でもロマン派でもなかった。

「自由貿易の長所について言われてきたことを、われわれはすべて承認する。生産力は増大するだろう。……商品がもっと安い価格で売られるだろう。……われわれは、自由貿易に賛成である。なぜなら、自由貿易によっていっさいの経済法則は、もっとも驚くべき矛盾をともなって、より大規模に……地球全体の地域にわたって、作用するだろうからである(エンゲルス「ブリュッセルの自由貿易会議」『全集』第4巻、S.324)

「イギリスの労働者は、自由貿易論者にたいして、自分たちが彼らの幻想やいつわりのことばにだまされるものではないことをさとらせた。そして、それにもかかわらず労働者が自由貿易論者と結んで地主に対抗したのは、封建制度の最後の遺物を破壊し、もって相手とする敵をもはやただ一つしかないようにするためであった」(「自由貿易問題についての演説」S.449)。

「グローバル化」は、生産力形成という革命性を孕んでいる。「グローバル化」は同時に、、資本の内面的な対立性を地球規模で展開し、労働する諸個人を同一の敵対関係におくことによって、労働する諸個人の国際主義を必然化する、という点でも革命的である。

この対立的進歩性をとらえる透徹した思考は、資本主義弁護論を批判する諸派において共有されてはいない。その要因を指摘してこの項をむすんでおく。

第1には、意思支配論。「独占」資本や「アメリカ」の支配的意思の想定。労働論なき意思論は、意思の衝突を理論枠組にするから、結局、大資本に直接的に利害対立しているとみえる諸階層、小経営や、中小企業や、「地域」、「発展途上国」に倫理的に依拠してしまう。これは、自由な人格性とは別に、どこかにある変革主体を探すという堂々巡りに陥る。

資本を、労働する諸個人の自己矛盾(自己疎外)的な産出運動として捉えずに、単なる非人間的な力として抽象的に労働から切り離して受けとれば、強い資本の外部・「周辺」が聖域化される。これは当然のなりゆきである。この倫理的資本主義批判は、現実の諸階層(中小企業等)の利害を表出するという点では、それ自体資本主義が生み出す関係性として、存在する理由もある。

資本の世界市場的姿態の帝国主義的起動は、隠れた意思の陣取り合戦ではない。世界市場の敵対的編成は、世界市場の公共性を問題化するのであって、地政学的な対立に問題を回収するのは展望を一国主義によって制約することに等しいだろう。

第2には、理論の枠組における反国際主義。スターリン主義は一国社会主義建設論を支配イデオロギーとして流布した。一国福祉国家の美化も、「グローバル化」を歴史の後退とみなすことになる。

第3には、意識の拘束論とそれを補完する「共同体」主義。資本主義の発展を物神性の完成と見る見方からすれば、「グローバル化」は、反対すべき、資本による支配の高度化である。「グローバル化」に対して、「民族」「文化」「共同体」や「地域」「生活」を、無媒介に、反資本として対置する直接的な「反グローバル化」に陥る。

いずれにせよ、単純な反グローバル化的思考は、資本という他者性のうちに、労働する諸個人の自己の普遍性が対象化されていることを見失っている。資本の直接的否定論は、資本に実在する労働の普遍性を否定し、解放された意識(共同体)を、拘束された意識(資本・労働者)に対置する反大衆主義である。

反グローバル化論・反システム論は、「グローバル化」へのビジネス談義風な賛美や、「市場主義」的予定調和よりも、批判的すなわち創造的で現実的であるから、高級な論議であるけれども、世界市場に展開される労働の普遍性から、「グローバル化」の抑圧的性格を、切断して理解している。二元論なのである。二元論だから福祉国家主義者が突如市場主義に寝返ったりもするわけである。

見落としてはならないのは、「グローバル化」において、労働する諸個人の陶冶と社会的なものの形成とがすすんでいる点である。

「現代」は、疎外と物象化を完成する。この完成において、資本主義システムは、自由な個人の形態を立て、急速に対立的に、社会的生産を発展させる。現代は、人類史の総まとめである。階級闘争史観や単なる五段階発展説ではなく、労働する諸個人の社会形成としての人類史の把握によって、この資本主義時代の特別な地位も理解できるのである。資本がその「歴史的使命」を遂行し、社会形成過程の完了を展望させる時代が現代なのである。

「一般的には、今日では保護貿易制度は保守的である。これにたいして自由貿易制度は破壊的である。それはふるい民族性を解消し、ブルジョアジーとプロレタリアートのあいだの敵対関係を極端にまでおしすすめる。一言でいえば、通商自由の制度は社会革命を促進する。この革命的意義においてのみ、諸君、私は自由貿易に賛成するのである」(「自由貿易問題についての演説」S.458)。

この敵対関係とは資本に内在する矛盾。人格相互の階級対立ではなく、労働の矛盾である。諸々の対立を単純な対立に。先進国の労働者も後進国の労働者も同一の矛盾に晒される、一国の矛盾は一国で解決できない、現代的問題群は地球的な連帯を要する、という現代グローバリゼーションそのものではないか。
by kamiyam_y | 2006-09-10 20:20 | 資本主義System(資本論) | Trackback | Comments(0)

国際主義の存在権利 -「現代」から「要綱」の「基本的矛盾」へ- 3

MONGOL800と10-FEETをiPodに落としたので聴くと、すぐに電池切れ。何時間も充電してるのに。

阿波踊りとエイサーを見ました。エイサーは女性の手踊りの柔らかな線が優美。琉球でソーキソバ食べながら休養したいです。

「黒い太陽」観たら酒井若菜がかわいそすぎて眠れませんでした(笑)。


国際主義の存在権利 -「現代」から「要綱」の「基本的矛盾」へ- 3

国際主義の存在権利-「現代」から「要綱」の「基本的矛盾」へ-
1 「自由な人間社会」の形成は、資本の生きた運動の地球的規模での展開を前提する
  1.1 グローバリゼーションが定義する人間解放
  1.2 矛盾としての世界的労働が定義する人間解放
  1.3 資本による世界的労働の創出とその破壊的現実性
  1.4  20世紀社会主義「国家」と《自由な個人の諸アソシエーション》

1.3 資本による世界的労働の創出とその破壊的現実性

諸個人の国際主義は労働による世界産出によって根拠づけられている。存在の外の規範ではなく、存在する運動として国際主義は存在世界の自覚的な姿である。資本の世界的展開の破壊的現実性と、この破壊性そのものに内在する創造的な意味を確認しておくことが、新世紀を展望する座標軸を形成する。

資本の世界的展開は、市場経済なるものが世界的に拡がった調和的な関連ではない。あくまでも世界的展開は資本の世界的な姿であり、資本が自己の運動を貫く自己形態である。だからそこには資本に内在する不調和が、展開された姿で現出する。地球環境問題、地球労働問題、民主主義と企業世界、など世界の最先端の矛盾は資本の矛盾の噴出なのであり、現代の矛盾は資本の矛盾である。

d「自由貿易が一国の内部に発生させるいっさいの破壊的現象は、もっと巨大な規模で全世界の市場に再現する」(「自由貿易問題についての演説」MEW.Bd.4,S.456)。

e「労働者は……労働価格に対する権利だけを受けとるのであって、この労働の生産物に対する権利も、この労働の生産物につけくわえた価値に対する権利も受けとらない……世界市場の創出……は、労働者を富ませないで、資本を富ませ、従ってただ労働を支配する力を増大させるだけであり、ただ資本の生産力を増大させる」(Gr.,S.227)。

dにいう自由貿易の破壊は、市場原理主義がもたらす自然・社会・人間に対する破壊的現象である。新自由主義的思考の市場信仰は、資本主義の表層として存在する。「自由貿易」にいう「自由」とは、個人の封建社会からの解放という素朴な意味を喪失して、諸資本が外的規制を解体して競争することである。競争とは資本の内面的な法則である剰余価値生産を資本が相互に押しつけあって外的な法則としていること。「自由」が「格差社会」をつくる自由に転換することも当然この転換には含まれている。

eは世界市場が資本の生産力という転倒の展開であることを述べている。この転倒が敵対性の根源にある。労働者は労働力の再生産費用だけを受けとる。労働の産物自体は他者のものであり、自己の対象も、活動も、関係もすべて、他者のものとして独立化している。この独立化は、労働が、自己の対象世界から分離した労働として振舞うことによってたえず現実的である。

労働者と資本家の「自由」で対等な契約が現実の生産として実現するとその帰結は、資本の側での富の増殖と、反対の極での、労働の絶対的貧困、自己の本質的対象から分離しているという絶対的な貧困である。自由は搾取の自由と脱所有の自由とに分裂している。

労働の社会的生産力は非労働の生産力として実現している。世界市場はこの資本の生産力という転倒を維持する条件である。世界市場において資本の内面的な不調和が発現する。

では資本の内面的な矛盾、運動する矛盾とは何であろうか。「普遍的なものを孤立的なものとしていってみれば暴力的に展開する矛盾の運動である」と前回書いたが、よりていねいには、こういえよう。まず資本を成り立たせている賃労働者の労働。

「資本の制限とは……生産諸力、一般的富等々、知識等々をつくりだすが、労働する個人自身が自分を外在化させるという形で、すなわち彼が自分のなかからつくりだした〔こうした普遍的対象〕に対して……他人の富の諸条件に対する様態で関わるという形で現れる、ということなのである」(Gr.,S.439-440)。

自己の労働を他者の労働として実現し、労働の外在化として、対象世界が形成される。労働は疎外において対象を形成する。つくりだした普遍的対象は他人の富の諸条件である。労働は脱所有に帰結する。労働は、自己の客体的諸条件から自己自身が遊離しているという関係を再生産する自己対立的な労働である。これが現代というシステムの中心にある矛盾である。

この矛盾によって現実化している物象の支配は、それ自体矛盾である。

「物象的依存関係は、仮象的には独立した諸個人に自立的に対立する社会的な諸関連にほかならない、すなわち、諸個人自身に対立して自立化した相互的な生産諸関連にほかならない」(Gr.,S.96)。「交換価値においては、人格と人格との社会的関連は物象と物象との1つの社会的関係行為に転化しており……」(Gr.,S.90)。

物象は人格の客体であるが、人格を脱して自立化しているという矛盾を含んでいる。この矛盾は、諸個人の人権と、それに対する正統化されざる力(自立化した経済、自立化した企業世界)との対立こそが、現代をして物象による支配を廃棄するところまですすませる。物象的支配の止揚として解消される矛盾である。

物象の展開は私的労働が社会的労働であるという矛盾によってすすめられると表現できる。商品から資本へ、資本の諸姿態へという価値・使用価値の展開は「交換価値に照応する社会の生産様式にふくまれている基本的矛盾」(Gr.,S.162)である。

資本とは交換価値が自己再生産的に交換価値として現実にあること。現実的な貨幣、他の形を介して過程として存立する貨幣、過程する貨幣である。私たちが賃金として手にする貨幣は、それ自体去っていく物体であって、単なる未来の生活手段(消費するための有用物)にすぎず、過程する貨幣ではなく、私たちの労働力の分割された姿にすぎない。自立的なものとして現れた交換価値は、自身を止揚するところまですすむ矛盾である。

商品生産としての資本主義は、社会的労働が直接には孤立しあう私的諸労働である、という矛盾を含む。この矛盾が資本を展開する。この矛盾からすれば、社会主義(資本主義が生みだす自由な人類社会)は、この矛盾が解消して、個人の労働が社会的媒介によって社会的労働として理性的に(調和的に)実現することである。

私的諸労働は商品が依拠する前提であるが、これは協業を含んで直接に社会的労働を実現する。資本の展開はすべてこの社会的で私的な労働という矛盾に貫かれている。

労働する個人は、自己を支えるべき普遍的な環境をつくりだしていくが、これは他人の所有総体にあるものとしてなのである。この矛盾がシステムの存在の仕方である。この資本の運動において、諸個人は労働の疎外として、人格の疎外として、資本の疎外として、自己の発展を支えるべき普遍的な土台をつくりだしている。このつくりだした土台を自己の土台として諸個人が包摂することが、この疎外の廃棄である。

ここから資本主義時代の「成果」をマルクスが強調する意味が理解できる。

「歴史のブルジョア時代は、新世界の物質的基礎をつくりださなければならない。一方では、人類の相互依存にもとづく世界的交通とこの交通の手段……。……偉大な社会革命が、このブルジョア時代の成果である世界市場と近代的生産力とをわがものとし……」(「イギリスのインド支配の将来の結果」MEW,Bd.9,S.226)。
f「資本主義的生産の主要事実。生産手段の集積……。社会的労働としての労働そのものの組織……。この両面から、資本主義的生産様式は私的所有および私的労働を、なお対立的諸形態においてであるとはいえ、止揚する。世界市場の形成」(D.K.Ⅲ,MEGA,Ⅱ/4・2,S.339)。
「社会的労働の生産力の発展が、資本の歴史的な使命であり、存在権利(Berechtigung正当性・存在理由)である」(D.K,Ⅲ,MEGA,Ⅱ/4.2,S.333)。「資本は……生産諸力の普遍的な発展につとめ……新生産様式の前提となる」(Gr.,S.438)。
「生産諸力が土台として、この形態の傾向と可能性から見て、一般的に発展すること、同じくまた、土台としての交通の普遍性、それゆえ世界市場」(Gr.,S.440)。

これらの引用はすべて、資本の否定的な運動が生みだす肯定的な産物が、労働の社会的諸力の形成であり、世界的な交通にあることを述べている。「新世界の物質的基礎」は資本主義時代が産出する。資本は、私的労働と私的所有という自己の前提を、直接に社会的労働において実現する矛盾した運動である(f)。矛盾の展開が矛盾の成果をつくりだす。

この「資本の使命=労働の社会的生産力の発展」論は、物象的依存関係=世界市場を通じた科学の発展、欲求の開発、人間の社会的発展、偏見の解体、文明化作用、といった議論としても理解できる。

「諸物の新たな有用的属性を発見するための全自然の探究……地球の全面的な探究、したがって自然科学の最高度までの発展。……社会的人間のあらゆる属性の開発と、可能なかぎり豊富な属性・連関をもつがゆえに可能なかぎり豊富な欲求をもつものとしての、社会的人間の生産……これも同様に、資本にもとづく生産の条件なのである」(Gr.,S.321-322)。

「資本がはじめて……社会の成員による自然および社会的関連それ自体の普遍的取得を、つくりだすのである。ここから資本の偉大な文明化作用が生じ……資本は、このような自己の傾向に従って、……もろもろの民族的な制限および偏見を乗り越え、既存の諸欲求の、一定の限界内に自足的に閉じこめられていた、伝来の充足と、古い生活様式の再生産とを乗り越えて突き進む。資本は、これらいっさいに対して破壊的であり、たえず革命をもたらすものであり、生産諸力の発展、諸欲求の拡大、生産の多様性、自然諸力と精神諸力の開発利用ならびに交換を妨げるような、いっさいの制限を取り払っていくものである」(Gr.,S.322)。「個人の普遍的発展」(Gr.,S.440)。

まさにマルクスがここで生き生きと描いているこの資本のつくりだす普遍的な関連こそが、物象的依存関係の時代を超えて、より高い人格的な諸関係による生産の包摂が実現していくための大前提なのである。

マルクスの自由な諸個人のアソシエーション(社会主義)は、諸個人と彼等の普遍的諸力とが社会的に媒介された調和的システムであって、資本主義が潜在的に生みだすものを顕在化することにほかならない。けっして、資本主義の外側に存在するとか、理論の前提としてあるユートピアとして構想される、といったものではないのである。(続く)
by kamiyam_y | 2006-09-09 23:22 | 資本主義System(資本論) | Trackback | Comments(0)

原始的共同体をのせた政治

知人数人と話していて。

「安倍はどんな終り方をするのか、ひどいことになりそうだね」

「はやく終らせるのも手だし」

「国会に耐えられずに引きこもるとか、お腹下しまくってドクターストップとか」

「怖いのは、アメリカがちゃんと指導してくれないと、パニクって何するか分からないことだ」

アメリカの指導通りならますます米軍のポチに、でも指導がなければもっと悲惨なことになるかもしれないってこと。どっちに転んでもいいことないのか。

「安倍はスキャンダルいくらでもあるから、これまたどんな終り方するか楽しみかも」

「おじいさんを尊敬してるなんてアタマ悪そうだし、やっぱりなにするかわからん」

「メディアには介入するし」

「民主主義が分かってない・・・」

安倍の祖父は治安維持法の復活といわれた警職法改正案を出したり、統一協会(Wikipedia)に賛同したり、安保の時は自衛隊出動を要請したりした人(岸信介 - Wikipedia)。なぜか国連平和賞(Wikipedia)なんてもらってます(笑)。

共謀罪も祖父の真似か。

「防衛省」と「共謀罪」法案 安倍氏、成立目指す:東京新聞9月4日

「あれが総理候補とはなさけない。他のメンツも、大久保利通と吉田茂の子孫とか。血縁共同体のなかを政治権力が循環してる」

安倍の怖いところは、歪んだ情熱らしいものをもって科学と民主主義と平和を否定するところです。

臨時国会、教育基本法改正を最優先・安倍氏:NIKKEI NET

興銀最後の頭取 故西村正雄氏の直言2006年8月22日 掲載:ゲンダイネット


安倍の反民主主義本性については、『月刊現代』10月号で、立花隆が岸=安倍の権力主義に対して、南原茂の民主主義を対置したり(「安倍晋三に告ぐ」)、辺見庸が安倍を「異様なほど好戦的」「“陰熱”の国家主義者」と論じてます(「無恥と忘却の国に生きるということ」)ので、読みたい人は読んでみたらと思います。

安倍の頭の悪さについては、カルトvsオタクのハルマゲドン/カマヤンの虚業日記

ちなみに統一協会、最近新聞社を襲撃したそう。薫のハムニダ日記 : 統一協会が“ツボのタブー”破りにムキーッ!
by kamiyam_y | 2006-09-04 21:58 | 民主主義と日本社会 | Trackback | Comments(0)