さっぽろ地下鉄のなかでマルクスを呼吸する、世界を呼吸する

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情報化と労働

ワインを勉強中の人から「神の雫(モ-ニングKC)」 (オキモトシュウ/亜樹直、講談社)が役立つと言われました。ワシにはワインはまだまだ分からないのだが、読んでみっかな。


情報化と労働

「この社会的労働の発展の現代的局面がまさに《情報化》であり、《知識資本主義》にほかなりません」とさっき書いたことに補足。

「脱工業化社会である情報化社会の夢とて、マルクスが見た工業化社会の夢とほとんど変わらない」

と佐藤卓己が書いています(『メディア社会』岩波新書、2006年、18頁)。

社会システムの原理として、工業化と情報化との間には断絶はなく、情報化は工業化を徹した姿です。工業化は知識を資本のインフラとすることですし、孤立した労働を、社会的に交通する諸個人の労働に変えていくことですから。

情報化を工業化との断絶において捉えるのが正しいのではなく、資本主義的工業化が、資本主義の前提である孤立した労働を否定するという否定性において、情報化も捉えていくことが正しい。資本主義は世界化することによって脱資本主義を内包する。情報化は完成した脱資本主義でもなければ、資本主義の段階でもなく、独占資本の支配の道具一般でもない。

「知識社会は資本主義的形態での労働の社会化のおそらくは最終段階である」(山口正之『社会主義の崩壊と資本主義のゆくえ』大月書店、1996年、353頁)。

資本主義の自己否定的自己実現において「知識社会」は着目すべき現象というべきでしょう。それは直接的生産過程における直接的な労働からの諸個人の解放を含むとともに、その実現の姿は、資本の生産力として、新たな労働災害(「メンタル」崩壊系)の増大という形で現れています。産業革命が労働災害をもたらし、社会による制御を発展させてきた歴史が、資本主義の最高度の発展においても再現します。
by kamiyam_y | 2006-08-26 00:01 | 資本主義System(資本論) | Trackback | Comments(0)

資本主義は地球を被って未来を招く

きのう道庁に1万人集まったんですね、駒大苫小牧の報告会。

非正規雇用の若者と話をしていたら、自分は生涯かかってもドラフトの契約金も稼げない、老後のための貯金も無理だ、と言ってました。労働力というモノの貯水池に落とされるという経済の実態が、人を孤立させてます。

関係ないですけど、だれか風邪を一瞬で治す薬くれないかな。


資本主義は地球を被って未来を招く

今週会社を素材にして書いたときに(会社法)、グローバル資本主義の展開を変動要因としてあげました。資本の国際展開は、大企業による小企業の吸収や、大企業の分身の創出を迅速にすることを要求します。

東レが中国に「高機能ポリプロピレン長繊維不織布(PPスパンボンド)およびその高次加工品の生産・販売を行う新会社を設立」すると発表しました。"TORAY"のプレリリースから。

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TORAY | 中国での高機能ポリプロピレン長繊維不織布新会社の設立について

2006年8月23日

中国での高機能ポリプロピレン長繊維不織布新会社の設立について

 東レ(株)はこの度、中国において、高機能ポリプロピレン長繊維不織布(PPスパンボンド)およびその高次加工品の生産・販売を行う新会社を設立することを決定しました。新会社名は「東麗高新聚化(南通)有限公司」(略称 TPN)(仮称)です。中国江蘇省南通市の経済技術開発区内で2006年10月に設立し、2008年2月から操業を開始する予定です。

 東レグループのPPスパンボンド事業は、現在、韓国の子会社である東レセハン(Toray Saehan Inc.(略称TSI))で展開しています。年産49,000t規模の設備を有し、韓国国内はもちろん、日本、中国、ASEANなどアジア各国へ向けて幅広く販売していますが、今後の中国での急速な需要拡大を見込み、この度、中国での生産・販売を開始することとしました。本計画は、東レグループが事業基盤を確立している中国南通地区に生産拠点を持つことによって効率的な投資が可能となり、また輸入品対比で物流コストを削減できることから十分に競争力を発揮できると考えています。

導入する設備は、豊富な実績を持つドイツの不織布設備メーカーの最新鋭マシン(能力:年産18,000t)で、スパンボンドとメルトブローを組み合わせた多層不織布を生産します。〔以下略〕
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韓国と日本と中国をまたがる企業連合が成立するわけです。しかもマシンはドイツ製。面白れえなあ。中国での販売拡張を予想して、生産点も低コストの利点を生かすべく中国につくる。

こんなふうに、国境を越える生産過程のつながりが日々成長しています。

「二重革命」によって近代社会が始まったといいますけれど、資本主義は市民革命と産業革命によって生まれたのではなく、それを日々遂行するシステムです。

市民革命を日々実行するのは現代では賃労働者です。権利の追求と実現の主体は、現代では、労働する諸個人です。市民革命は労働者の権利として地味に日々追求されています。

産業革命は労働過程の不断の変革です。科学を媒介とした計画的な協働が日々追求されています。この社会的労働の発展の現代的局面がまさに《情報化》であり、《知識資本主義》にほかなりません。

資本主義はこの両面から日々革命ですから、この不断の革命によって未来を引き寄せていくといえます。よりていねいにいえば、社会的労働はすべて直接には資本の力として実現しますから、この力との対立によって、権利の実現を鍛え上げていくのが資本主義ともいえます。

プルードン派社会主義は「ブルジョア社会の実在的な姿態と観念的姿態とのあいだの必然的な区別を概念的に把握しない」(Gr.,S.172)。「貨幣システムは事実、平等と自由のシステムなのであるが、このシステムがさらに発展するなかで自由と平等の前に妨害的に立ちはだかるものは、このシステムに内在する妨害要因なのであり、……交換価値が資本に発展しないようにとか、交換価値を生産する労働が賃労働に発展しないようになどというのは、かなわぬ願いであり、ばかげた願いでもある」(Gr.,S.172)。


平等と自由のシステムは、資本という生産関係を屈折して表出する形態として、存在します。ということは、この「観念的姿態」の完結したありようを、資本は、みずから突破する形で、存在します。自由と平等の人権的システムは、その実現のために、自立化した社会的労働の力と対立していく。労働する諸個人が自由と人権を実現する主体となるわけです。

資生堂やトヨタといった巨大資本も、需要喚起・販路獲得に必死です。『フジサンケイ ビジネスアイ(日本工業新聞社)』から。

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FujiSankei Business i. 中国/資生堂、トヨタなど、中国メディアを相次ぎ招待(2006/8/24)

中国が日本企業にとって大きなビジネス市場となる中、中国メディアを招き、自社や日本への理解を深めてもらおうとする日本企業の戦略が本格化してきた。資生堂は今月6~10日、新華社通信や女性ファッション誌などの記者14人を日本に招待。靖国神社参拝問題などで日中関係は政治的に冷え込んでいるが、日本企業はイメージアップに躍起だ。

資生堂は中国全土に約1300店に上る専売店(チェーンストアに相当)を抱え、10月にはこれら店舗に置く中国人女性向けの新ブランドを発売する。今回のメディアツアーは新ブランド広報活動の一環で、記者は東京・銀座の本社や静岡県掛川市の企業資料館などを取材した。〔以下略〕

トヨタ自動車も以前から中国メディアを日本に招待してきた。7月末には人民日報などの記者2人が同社の日本での環境事業を取材した。毎年中国人記者を日本の各都市に招いている全日空北京支店は、同社の航空ネットワークや安全性、サービスを実感してもらい、日本に旅行する中国人観光客をつかむ戦略だ。〔以下略〕(北京=時事)

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化粧品メーカーが1000を超えるチェーンストアを経営しているんですね。おしゃれ産業で世界の人を楽しませてほしい。車も日本は飽和してますから、省エネ・環境対策技術や安全対策、内装、快適さなど追求すると同時に海外展開も至上命題でしょう。観光も日本にとって重要なところだし。

享受の多様化は資本主義の歴史的存在権であり、資本の文明化作用の発現です。

貨幣が狭隘な民族的偏見を超えていくさまを感じます。貨幣は、自立化した交換価値、過去の労働の普遍的な代表、労働の共同体ですから、民族的偏見のような狭隘な衣装を脱ぎ捨てていくわけです。

剰余価値に規定された生産は、空間的時間的制限を縮減するよう作用します。資本のグローバルな展開は資本の本性にあったものです。

「剰余労働の立場からすれば……資本にもとづく生産あるいは資本に照応する生産様式を普及させようとする傾向をもつのである。世界市場をつくりだそうとする傾向は、直接に、資本そのものの概念のうちに与えられている」(Gr.,S.320)。「資本は……交換のあらゆる場所的制限を取り払って、地球全体を自己の市場として獲得しようと努めないではおられず、……時間によって空間を絶滅しようと努め……ここに資本の普遍的傾向が現れる」(Gr.,S.438)。「世界市場。ブルジョア社会が国家をのりこえて押しひろがること」(Gr.,S.187)。


企業は競争の圧力(それは資本の局限された本性が外的な法則となったものだが)に動かされていくわけですが、その意図せざる結果として、孤立していた個々の生産を国境を越えて連結し、生産と消費の循環を地球的な連関においてつくりだします。資本の前提は、私的所有と私的労働という狭い前提ですが、資本の展開は、意図せざる結果として、この前提をくつがえす社会的生産過程を鍛えあげていきます。

「世界市場……の自立化についてこのさいいわせてもらえば、それは貨幣諸関係(交換価値)の発展とともに増大し……世界市場では、すべての人々との個人の連関が、他方では同時にまた諸個人それ自身からのこの連関の独立性が、この連関の形成が同時にそれ自身からの移行の条件をもすでに含んでいるほどの高さにまで発展を遂げている」(Gr.,S.93-94)。


資本の発展は地球的な規模で実現していくことによって、自然と人間との相互交流の発展、分散した過程の社会的過程への発展、人々の相互依存の発展をもたらしていきます。

この巨大な社会的過程は、諸個人から独立した物象的な関係の力として実現します。自然の変革も労働の社会化も、労働する諸個人から分離した力として実現します。

「労働者は……労働価格に対する権利だけを受けとるのであって、この労働の生産物に対する権利も、この労働の生産物につけくわえた価値に対する権利も受けとらない……世界市場の創出……は、労働者を富ませないで、資本を富ませ、従ってただ労働を支配する力を増大させるだけであり、ただ資本の生産力を増大させる」(Gr.,S.227)。


賃労働者は人格化された労働力であり、彼は自分の普遍的な環境である生産諸条件から引き離されています。資本の世界的関係は直接には、諸個人から独立した物象的な関係であり、統御されざる法則です。

あらゆる問題が地球規模での制御を要求する現代は、この力を、諸個人による民主的で協同的な統御によって運転するものに変えていくことを課題としています。労働問題も格差も解決のために国際的な合意が生みだされている時代です。

図式化してしまうとこれに対して、前世紀は国益主義に諸個人が従属させられていた時代。中ソ超大国が、社会の発展を大国の覇権拡大という地政学的問題にすりかえた(山口正之『社会主義の崩壊と資本主義のゆくえ』大月書店、1996年、序章参照)のも、資本主義の発展が辿るなかで現れた歴史的諸条件がとった姿にちがいありません。国益主義という前世紀のマイナスの贈り物を清算していくことも新世紀の課題です。
by kamiyam_y | 2006-08-25 19:24 | 現代グローバリゼーション | Trackback | Comments(0)

会社法

寿司屋でテレビを見ると早実の投手が好きな食べ物だとか、どうでもいいこと放送してました。板さんが「やっぱり全国放送は早実中心だねえ」と笑ってました。

テレビでは早実の監督がインタビューに答えて、スター扱いしないでほしい、という趣旨のことを語ってましたが、そのとおり。ふつうの高校生なのですから、騒ぎ立てるのは、選手としても人間としても成長を妨げることこそあれ、促すことはないはずです。私もこれからハンカチで汗拭こうかな。


会社法

「会社法」という新しい法律が5月から施行されている(会社法)。

99年以降改正を重ねてきた商法から会社の部分を取りだして、他の関連している法律と統合している。企業システムの法形態の変革は、日本だけではなく世界的な流れである。資本市場の国際化と大競争を背景にしているとすれば、会社法もグローバル資本主義のとる1つの顔といってよい。

解説として神田秀樹『会社法入門』(岩波書店、2006年)を読んでみたが、基本的に、この法律の役割として、2つ確認できそうである。1つは、大規模会社の「所有と経営」の分離を進め、監査役や会計監査人をおいて経営に対するチェックを機能させること(62頁)、もう1つは、企業の法的分割・吸収を促進すること、である。

同書は商法改正の歴史をまとめるさいに「ファイナンス」「ガバナンス」「リオーガニゼーション」という3つの分野を示している。『資本論』の言葉から位置づけなおすと、「ファイナンス」はmonied capitalの問題、「ガバナンス」は個別資本の形態としての所有と機能の分離、「リオーガニゼーション」は資本の集中の問題となろうか。

面白いのは同書が「ガバナンス分野は『難解』と言いたい」(26頁)と述べていることだ。同書はこの分野が規制の強化や緩和という言葉ではつかみれず、「不祥事防止」「コンプライアンス」の議論と競争力の議論が混在しているという。

「ファイナンス」と「リオーガニゼーション」が株主や債権者の関係、会社どうしの関係だとすれば、「コーポレート・ガバナンス」は個別資本の「統治形態」である。《経営者権力》として現れる関係をどう制御するのかという古くて新しい問題を、資本としての現代社会はこの場面で提起し続けている。

「所有と経営の分離」は、所有者を社会的生産過程からますます遠ざけることを意味する。あらゆる労働は労働であるかぎり、すべて労働者が行いうる。株式会社はこの所有と労働の分離を制度化している。今回の新法で「機関設計」に監査役設置会社などいくつかのパターンが認められたが、株主総会と取締役は基本の骨組みになっている(同書第2章参照)。多くの株主が存在しつつ、一定の会議体・自然人の意思や行為を、会社の意思や行為として社会的に妥当させるために「機関」を設置する(51頁)。ここでの自然人は生産手段の持主である必要はない(雇われ社長)。

所有は現実の会社では経営を規制できない。経営は社会的労働の生産力を体現した力であり、しかも物象的で制御されない力を体現している。経営の暴走は私的所有者から独立した生産の社会的関係の運動である。ガバナンス問題は資本家から資本が独立した力になっていることを意味している。労働力の私的所有者(労働者)に対して資本が企業として対立しているだけではなく、貨幣の所有者たちと資本が対立している。

サラリーマンにとっては会社といえば「労働法」で、「会社法」はなじみがない(同書1頁参照)。それはそうなのだ。賃金労働者は、労働力の売り手であり、会社は買い手だ。買い手の側がどんな組織をつくろうと労働者にとっては、それは貨幣の所有者の側の話である。サラリーマンの社会的労働の産物が「他人の富」であることにはかわりない。

しかし、この「他人の富」が企業不祥事として現象するなら、それはサラリーマンをも不労所得者をもふくんだ社会の個人全体に対して、社会的生産過程が対立的なものとして現れているのだ。会社は社会的労働の産物なのに私的所有として立てられるという矛盾が会社法の改正を招く。

佐藤卓己『メディア社会』(岩波書店、2006年)」で、メディアの世論製造による公共圏の没落という文脈で「再封建化」という言葉が用いられており(191頁)、私は、マルクスが人格的支配関係を脱した物象的依存関係の時代(資本主義)は、自由な法的人格の関係をたてるだけではなく、再びそれを支配関係に転換すると述べたのを思い出した。

株式会社は自由な人々がつくるけれども、その展開は、生産内部の「再封建化」といってもいい。会社法の改正はこの再封建化の内部までは届かない。
by kamiyam_y | 2006-08-22 23:34 | 現代グローバリゼーション | Trackback | Comments(0)

格差信仰は現代の王権神授説か?

相変わらず暑いです。だれか風邪を一瞬で治す魔法かけてください。

旭屋書店で人だかり。高校野球です。ちょっとみてしまいました。



格差信仰は現代の王権神授説か?

「戦争反対なんてそっだらむずかしいこと言ってねえで、勉強しねえと、おめえ、フリーターになっちまうだぞ」

なんて子供を叱る親がいるともあまり思えないが、書いてみた。何弁かは分からない。

親には愛情はあるが、子供の労働力を、将来の鋳貨として想定している。子供をモノとして扱っている。しかも物売り競争で負けるなという、格差を前提にした言い方だ。

こういう言い方は、〈物神崇拝〉の振舞である。物神崇拝とは、社会の力をモノの属性として拝むこと。人と人との関係がモノの関係に転換するのが、資本主義の土壌だ。

愛情ではなく嫌がらせになると例えば、

「早く真っ当な道に戻れやコラ。お前、社会的地位とか金とか欲しゅうないんか。うまいもん食いたないんか?」(斉藤貴男『ルポ 改憲潮流』岩波新書、2006年、25頁)


これは公安刑事の言葉。「反戦」の意思を表した若者を取り締る場面でこんなことを言うやつがいるらしい。思想統制はもちろん憲法違反なので、別の容疑を持ちだす。ビラ配り逮捕のように。微罪逮捕も憲法の蹂躙だが。

このおっさん、たかだか美味いものくらいで義を捨てよと説く。美味いものなんかただの生活手段だ。それ以上の富を労働者が得るのは、

「関係そのものの規程のうちにあることではない……例外」(「経済学批判要綱」『資本論草稿集1』大月書店、MEGA,Ⅱ/1.1,S.208)


にすぎない。

嫌がらせでも愛情でもいいが、この親子を封建制の時代に移してみよう。

「王政反対、人権を認めろなんて、そんなこと言って、おめえ、王様に申訳ねえこというもんでね。だまって仕事してないとつかまるぞ」

今までのどんな社会でも体制の矛盾を隠すイデオロギーがある。秩序を神秘化しありがたがる人がいないと支配は成り立たない。封建制なら王に逆らうな、王は神だ、みたいな考え。王の権威は神様が与えたもうたのだぞよ。王権神授説はここでは厳密に取りあげず、ただ封建社会の支配イデオロギー、共同体的説明原理くらいの意。

この親は、封建制が終るなんてまったく考えることもなく生きている素朴で愚鈍な大衆である。しかし封建制も末期になると、王政批判の声が大衆の声になる。

資本主義ではどうか。資本主義でも資本主義を歴史の完成とみなす弁護論はあるが、資本主義は、はじめから資本主義批判をふくんで成立する。この点こそ、資本主義の特質を示している。封建制を倒した近代社会は、批判する主体を解放してしまっている。だから、近代社会が資本主義に発展することは、即座に矛盾の露呈となるのである。

資本家たちが実際に「禁欲した」かのような幻想は……-そもそもそれは、資本が封建的等の諸関係のなかから形成されてくる前期的時代の内部でのみ意味のあった要請であり観念である-まともな頭脳をもった近代経済学者によって放棄されている。(S.207-208)


新興ブルジョアジーは自己労働にもとづく所有を古い体制に対して主張した。しかし、19世紀の資本主義は、この「資本家が勤勉の結果富を築いた」という正統化を廃棄した。資本家の富は非自己である労働者の労働によってなりたつ。労働者の勤勉が資本家の富をつくる。労働運動の高まりは、資本主義の成立が資本主義の批判であることを意味する。労働者の自己労働は、富の非所有に帰結する。

昔々勤労して貯め込んで資本家となり、今は贅沢して暮してます。あるいは、資本家は勤労して節約して偉いです。こういう無智な正統化は、19世紀以前のもの。

勤労する資本家として資本家を正統化するのはじつは、資本家を生産過程一般の労働者として描いているので、資本家を、労働から分離した所有としての資本家としては、正統化していない。

共同労働における指揮労働を資本家の正当性根拠にするのは、じつは労働者としての規定性において正統化しているようなもの。だから、この資本家の行為として妥当する労働は、実際にも賃金労働者が担うことになる。労働力市場で調達した労働力が、かつての資本家の労働のすべてを行う。

20世紀の資本主義は株式会社によって、私的所有と労働との完全な分割(所有と経営の分離)をなしとげ、資本家の排除を資本を展開する法的制度としても定着させた。資本は資本家を生産過程から排除する。持主のいなくなった会社は、生産過程がすべて労働者の労働により成り立っていることを示す。

21世紀の資本主義は会社を超えて世界市場を公共的なものとして提示している。会社を売買する時代は、会社を超えた市場そのものを公共的基盤としてあらわにしている。資本主義は、諸個人に対して矛盾を隠すことができない。資本主義のあらゆる進歩が、社会的生産過程を労働する個人の公共領域として提示し続けている。

現代の王権信仰があるとしたら、それは市場信仰だろう。勝ち組信仰や拝金主義はそれに付随する観念。

「企業権力に対して、働く者の権利だなんて、そんなこと言って、おめえ、企業さんに対して申訳ねえこというもんでね。就活失敗すっぞ」

封建制に暮す人が封建制を超えてものを考えないのと同じように、やっぱり資本主義でも、資本主義を超えてものを考えることができない人がいっぱいいるのであった。

とはいえ、労働者の権利は権利として企業を規制する。封建制下の農奴は王権と形式上も対等ではない。現代の労働者は形式上社会の主体として権利をもった個人だ。

そういえば、耳を澄まさなくたって、聞えてくるわい。日本は賃金コストが高すぎる、それは君たちのためによくない、成果給賃金こそ君たちのためだ、自己責任で老後の積み立てしろ、給料がいいときに貯めておけ、自分で運用しろ、等々。

今日の社会においても、勤勉、とくにまた節約、禁欲の要求が……労働者に対して、しかもとくに資本家の方から発せられるのである。現在の社会は、致富を交換の対象とする者ではなく、生活手段を交換の対象とする者が禁欲すべきだという、まさに理屈にあわない要求を発している。(S.207)

最大限の勤労・労働と最小限の消費……とは、結局のところ、彼が最大限の労働と引換えに最低限の賃金を受けとる以外にない、ということになる……。……だれもかれもが節欲するならば、賃金の一般的低下が生じて、彼らは元の木阿弥となるであろう。(S.208)


労働者が手にする硬貨は、彼が消費するラーメン、化粧、シーツ等々の生活手段を意味するにすぎない。貨幣とはあらゆる富の代表だが、それは、増殖することによってリアルに自立する。労働者の手にあるカネは富ではなく、一時的なもので、労働力を維持するファンドにすぎない。富は企業の手に蓄積する。

労働者が、労働力と交換するのは、労働力を再生産するための生活手段である。労働者がみな「節欲」しだしたら、賃金は低下する。賃金が高いときには貯金し、低いときにはそれを食いつぶす。賃金が低いから「節欲」する。「節欲」するから賃金が低い。

彼が……勤勉であることができるのは、ただ他の労働者が……怠惰であるからにすぎない。……彼がその節約によって平均的になしとげることができるのは、せいぜいのところ諸価格の調整作用に……いっそうよく耐えることができることであり……。(S.209)


最大の勤勉がもたらすのは、不況や老後に労働者が対応することでしかない。あー、なんて、ちっぽけな。為政者がよろこぶだけか。勤労大衆を代表するより自分の利益を永続化したい政治屋がよろこぶだけか、金融賭博師とともに。

好況期に労働者がマネーゲームにカネを使うのも、具体的な消費をあきらめてカネを資本のために使い、不況になったら、それを失う、ということでしかない。

個別資本の欲求は、利潤増大のため、自分の労働者の消費を最小にし、他の労働者の消費を最大にすることだ。分裂している。だから、企業が節欲をすすめるのは、自分の労働者に対してだけだ。他の労働者は企業にとって、購買者なのだ。

資本は労働者の消費の拡大をすすめる。

ありとあらゆる手段を求めて、労働者を消費へと駆り立て、新たな魅力を彼の商品にあたえ、言葉たくみに新たな欲求を労働者に押しつけようとする。資本と労働と関係のこの側面こそが、文明の本質的な一契機なのであって、……資本の歴史的存在権限も、このことを基礎としている。(S.210)


封建制は、具体物目的の生産だから、拡大せず、支配関係を再生産する。資本主義は、カネという抽象物の増殖が目的だから、生産の拡大と消費の拡大とが螺旋を描いてすすむ。ここに文明化と生産発展という資本の役割もある。

「貯金なんて、社会性のない利己的なやつがすること。カネは使ってこそ経済が活性化する。将来のために投資してどんどん消費しなさい」

こんな道徳をたまに口にしてみても何かが変るわけではない。
by kamiyam_y | 2006-08-20 22:39 | 資本主義System(資本論) | Trackback | Comments(0)

労働する個人の権利が靖国を批判する

小泉は「歴史に名を残した」と言ったらしいが、憲法違反のこんな間違ったことして名を残すのは私は嫌ですね。そもそも名を残したいともあまり思わないですけど。

インリンの『週刊金曜日』(8/11・18合併号)読みました。「世界に誇れる憲法を守って」というタイトルで文章を書いてます。憲法20条を守るべきだと述べているのはさすがです。本質をついてます。買って読んでみてください。

『週刊金曜日』のこの号は「靖国」特集で、高橋哲哉の対談もあります(「『靖国問題』の本質」)。彼は、「日経のスクープ」が「天皇の言葉を錦の御旗」にしてしまっていること、「A級戦犯を外せば、首相や天皇が参拝してもかまわない」という考えを補強してしまうことを批判しています。この考えは、自民党の憲法草案、「儀礼」と称して、政教分離を否定する草案と同じですからね。

もちろん政教分離の否定は、国家が祭祀の主催者となる前近代に、祭祀権力として国家権力が存在する前近代に向っています。「市民的解放」からの逆行です。靖国が、祀られない権利すら認めないのは、その全体主義的本質をあらわしているというべきでしょう。

インリンが「世界に誇れる憲法」と言っている日本国憲法の素晴しさは、生きた人間を社会の主体として承認していることです。憲法の強さは、国家からの個人の解放を定式化していることにあります。この解放は、宗教からの国家の解放でもあり、政教分離は憲法の重要な原則なのです。

憲法が靖国と靖国参拝を批判している。憲法の人権は、労働する個人の社会関係ですから、いいかえると、労働する個人の権利が靖国を批判している。平和主義も労働する個人の権利として考えることが重要です。
by kamiyam_y | 2006-08-15 23:14 | 自由な個人の権利と国家 | Trackback | Comments(2)

いまになって報道

他の公約は破っても参拝の時だけ「公約」をもちだすのは、心の中の問題として私的に参拝しているという小泉自身のいいわけを否定しています。

安倍の方も「内閣官房長官」と肩書きつきで記帳したというではないですか。森田実がこれに怒りを表明してます(コメント)。私も森田同様、安倍ファシズムは平和の敵と考えます。

で、インリンはやっぱりえらい。ブログでは「8月に言いたい事は変らない」と書いてますし(8月ね)。『週刊金曜日』ってあまり買わないから読んでいないんだけど。
by kamiyam_y | 2006-08-13 22:05 | 民主主義と日本社会 | Trackback | Comments(0)

「再チャレンジ」のいかがわしさ

昨晩ススキノで、平日なのに人出てるな、家族連れも多いし、と思ったら、お盆休みなのですね、世間は。それで、遇った学生が「今から帰省します」といってたわけだ。

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昨日は「再チャレンジふれあいトーク」という安っぽい言葉に赤面しましたが、「再チャレンジ」という言葉だけでも、欺瞞に満ちています。

要するに、この言葉は、「負け組」という烙印を押された者にも、もう一度チャレンジさせる、といっているに等しい。

「勝ち組」「負け組」という二分法をあらかじめ動かぬ前提としているわけです。この二分法自体が、社会問題を個人の問題にすり替えて隠してしまう装置なのですから、「再チャレンジ」論はほんとうにいかがわしい。

確かに「格差社会」を課題として認知している点では認めうる前進はあります。「負け組」を放置するのが資本主義の正しい姿だ、という野蛮な思想は現代では通用しません。

とはいえ、「再チャレンジ」の安倍的発想は、理念なき弥縫策と呼ぶのがふさわしいと考えます。

「再チャレンジ」をカネの言葉に翻訳すれば、安く使い捨てた労働力を、リサイクルしてまた安く使う、ということでしょう。資本主義は資本蓄積(成長)のためには、使われていない労働力の貯水池を必要とし、この貯水池は、蓄積がすすむ時期には労働力を企業に提供し、蓄積が減退する時期には、企業から労働力を吸収します。資本蓄積はみずから調整装置をつくりだすのであって、この資本主義の運動様式が、いわば自然発生的に、「再チャレンジ」という言葉に現れる思考を生みだすのだといえます。

「再チャレンジ」論は、この運動様式を隠す役割も果しています。この思考方法は、格差が発生する社会の問題を見えなくするように、イデオロギー的な塗装を施します。「負け組」の発生を前提したうえで、競争経済の歯車になることが社会のためだ、という虚偽意識に人々を統合しようとしているのですから。

「負け組」を社会のお荷物であるかのように印象づけたうえで、それを救ってやるとみせるマッチポンプともいえるかもしれません。

現在のもっとも先進的な社会であれば、個人の労働の権利を実現する問題として、政策の理念をたてるはずです。少なくとも今必要なのは、「再チャレンジ」という曖昧な標語ではなく、「スキルスタンダード法」や「労働力投資法」のような具体策でしょう。
by kamiyam_y | 2006-08-11 18:40 | 民主主義と日本社会 | Trackback | Comments(0)

「格差」のグローバリゼーション

Excite エキサイト : 政治ニュース
<自民総裁選>ポスト小泉が政策論戦 東京ブロック大会で [ 07月28日 22時07分 ]
 ……パネルディスカッションには安倍晋三官房長官、谷垣禎一財務相、与謝野馨金融・経済財政担当相が参加し、マレーシアを訪問中の麻生太郎外相もビデオで出演。安倍氏は憲法改正を主張、谷垣氏は格差是正を唱え、麻生氏は高齢者層との共生を訴えるなど、「ポスト小泉」候補が政策論議を展開した。……【宮下正己】


安倍の支持率が高いといってもそれは、政策的主張に対しての支持ではなく、メディアへの露出度と露出の仕方によって規定されている部分が大きいんじゃなかろうか。占領下で押しつけられた憲法と教基法を変えよという安倍の主張は政策ではなく、イデオロギーないし信心にすぎませんから、それを支持する人がたくさんいるとは、日本社会の成熟を考慮すれば、にわかには信じがたい。もしかすると、穏やかな顔して心の中はタカ派という人が増えているのかもしれませんけど。

支持率も、例えば、政策だけ示して、名前抜きで調査したり、顔写真を入れかえたり、いろいろ実験したら面白い結果が出るんじゃないでしょうか。

主張だけ見れば、どうみても、格差是正と不参拝という谷垣の方がまともです。派閥のため、閣僚に残るためといった個別利害は無視して、また、今までいっていたことや、小泉政権へ反省はないのかといった点も無視しての話ですけど。

総裁選という目先の話から離れて、「格差」について、興味深いデータを見たので若干。Amartya Sen, DEVELOPMENT AS FREEDOM(Mew York:Anchor Books,2000,p.22)に男性の生存率のグラフがあるんですが、中国やインドの平均よりも、合衆国の低所得者層(アフリカ系)の方が、年齢別の生存者の割合が低いんですよ。単純に所得で平均化すればもちろん合衆国は中国よりはるかに豊かなのですが、指標を変えてみると異なる現実が見えてきます。

以下はまったくセンとは関係ない話です。センを解説してる人はたくさんいますし、私はざっと目を通す以外に読んだことはありません。

グローバリゼーションは複合的な出来事です。グローバリゼーションとは、マネーの地球規模での転送、企業の超国籍的な展開、アメリカ的ルールや競争主義(「勝ち組」賛美主義!)のグローバリゼーションであるとともに、国際労働基準の制定であったり、人権のグローバリゼーションであったりもします。あるいは、一国福祉国家に対して解体的な作用を及ぼすとともに、「民営化」の過程には、私的交換経済であった領域に公共的なものを移転し、私企業に公共的責任を移転するという面もあります。公共的なものの私的簒奪ももちろんそれとからんでいるわけですが。

当然グローバリゼーションは、資本主義の対立的な作用のグローバリゼーションでもあり、そのなかには、環境破壊が含まれるだけではなく、地域や共同的なものの解体、諸個人の孤立、いってみれば、「格差」のグローバリゼーションも含まれています。

すでに南南問題がいわれて久しく、北対南という図式が有効である範囲も狭まっています。北の内部に南が入り込み、南に北が入り込んでいます。

先進国内部の資本主義の問題と、国際的な問題とがますます同じ視点でつかむことが現実に可能となっている時代です。

医療に対するアクセスや健康の維持をはじめとして、先進国内部に格差があり、途上国と先進国との間にも格差があります。途上国内部でも、多国籍企業の展開の恩恵に浴する人々がいると同時に、そこから排除され、学校教育からも医療からも排除された貧困層が膨大に存在します。「貧困の蓄積」も「難民」も、途上国が独自に解決すべき途上国の問題なのではありません。

なにしろカトリーナの犠牲者は1000人超えているんですからね。
asahi.com: ハリケーン「カトリーナ」、死者1000人超す-米ハリケーン被害
合衆国の内部がグローバルな格差を体現しているというべきしょう。

人間の等しい権利が、社会の断片化を、格差を照らし出しますが、これは単なる分配や規範の問題ではありません。分配は分配として独立して解決できるものではなく、生産性の配当という主題は、生産に属する問題であり、生産過程の自覚的運営の問題です。

人間の権利のためには「持続可能」な社会を創造し継承していかねばならず、「成長のための成長」を放置しつづけるわけにはいきません。人間の発展(開発development)を支える持続可能性とは、発展の基軸を、前世紀的な成長主義から、生産の自覚的なモメントに転換することです。国際社会のこの合意において、穏健であることがもっとも革命的であるような地平を、単純な反資本主義論も、市場原理主義も、理性への不信も乗り越えているような社会形成の地平を、垣間見ることができます。人間の断片化によって進む発展から、自覚的な発展に転回することが「持続可能性」の意味です。

蛇足。米国追随路線に付随している復古的な言説は、グローバリゼーションがひきおこす共同幻想にすぎません。新世紀は、国益よりも人権が普遍的であり、地域的共同体(国家)に対して人権がグローバルな基準となる時代です。それは、国益を地球規模での生産関係が規制している時代であり、グローバルな依存関係が本格的に形成される時代です。だからこそ、排外主義や、民族主義、歴史修正主義、復古主義といった襤褸を纏った言説や、それによって大衆の貧困を掻き集めるファシズム的な統合/イデオロギー的な収奪がいたる地域で出てくるのだ、と考えられますけれど・・・地球的な社会への陶冶のプロセスがまだ始まったばかりだとしたら、この先、こんな憎しみへの統合がまだまだ噴出してくるのでしょうか。
by kamiyam_y | 2006-08-02 17:41 | 現代グローバリゼーション | Trackback | Comments(0)