さっぽろ地下鉄のなかでマルクスを呼吸する、世界を呼吸する

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道警元幹部が道新・講談社・旬報社を提訴とは

Excite エキサイト : 社会ニュース

市民の公僕(だった人)が、「名誉毀損」で訴えるという手を使って、公僕による犯罪を追求したジャーナリズムに対する意趣晴らしをしようとしています。っつーか、せこいやつです。とりあえず、自浄能力なんて言葉は、警察権力というこの公僕の村の内部には存在しないのだと改めて確認。

この意趣返しに潜む意志は、権力による犯罪を追求した書物を抹殺しようとしており、まあ恫喝であるとともに、ジャーナリズムの自由な報道を封じようとする統括の意志であって、それは市民による監視という現代的な理念に敵対しています。これに対抗して、まだ入手していない方は、道新記者と講談社を励ますためにもどんどん買いましょう。
 北海道新聞取材班編『日本警察と裏金 底なしの腐敗』
 原田宏二『警察内部告発者 Whistle Blower』
 北海道新聞取材班『追及・北海道警「裏金」疑惑』

さっそくヤメ蚊さんが「1億人の怒りを北海道へ!」と呼びかけています。民主主義を防衛するための一番の力は、やはり市民の声。

情報流通促進計画 by ヤメ記者弁護士:道新よ,立ち上がれ~裏金疑惑関連で警察側が名誉毀損で提訴!
by kamiyam_y | 2006-05-31 01:04 | 民主主義と日本社会 | Trackback(2) | Comments(0)

共謀罪の裏側で

共謀罪も、東京新聞などをのぞきメディアがきちんと伝えているとは言えないわけですが、それ以外にも、医療制度改革関連法案をはじめとして、市民生活に重大な影響をもたらす法案が委員会で強行採決されているんですね。

国民に知られずに法律を増やすのはやめてほしいもんです。官僚の縄張り、利権の拡張や、政治家の業績づくりのためかと思ってしまいます。現状に対する新たな対応にみえることとワンセットで、権力の恣意を拡張するような文面をいれた法案が通るのは、やはり民主主義にとって逆行かと。こうした動きを制御するためには、個人個人では法案をチェックしきれないので、やはり個人の力を連結してより大きな力にすることが大事で、ネットもこのような批判の力をつくりだす武器です。

探偵業法案も、文面を見ると、個人の取材活動は「探偵業」から「除外」されているとはいえ、問題がありそうです。

探偵業法案に危惧 日本雑誌協会が声明 (朝日新聞) - goo ニュース
情報流通促進計画 by ヤメ記者弁護士:探偵業の業務の適正化に関する法律案,ようやく,衆院HPに掲載~フリーは本当に適用除外か?
週刊金曜日: 金曜アンテナ「探偵業法案に批判の声明(臺宏士・毎日新聞記者)」
みやっちBlog:雑誌社やフリージャーナリスト規制? 探偵業法案衆院通過
雑木帖:2006年5月3日
日本雑誌協会が探偵業法案に危惧し声明を発表 : 低気温のエクスタシーbyはなゆー -北国tv
by kamiyam_y | 2006-05-28 23:32 | 民主主義と日本社会 | Trackback | Comments(0)

市場主義による市場主義の批判

地方に生きる人々の福利増大と活性化のためには、公共的な制御こそが必要、とおととい書きましたが、それに関して少し笑える記事を発見。

「(経済気象台)無意識の計画経済思想」(薫風・朝日新聞5/24(水)12版12頁)という小さなコラムで、ありふれた代物なんですけれど、ちょいとひまつぶしに。

「……名目的成長率を達成すべきノルマのように議論した閣僚らの言動をみていると、計画経済健在の思いを強くする。/このほかにも、為替相場や長期金利について行き過ぎをを懸念する大臣の発言をはじめ、計画経済を想起させる例は枚挙に暇がない」

このコラムは、言ってみりゃあ、政府による景気報告や、改革展望、成長率目標設定などを批判しています。それも、「計画経済」だとしてです。「自由主義経済を信奉していると思っている」人が「無意識の計画経済思想」に侵されているのはどういうことか、けしからん、というわけです。

中川も竹中も裏切り者ってことでしょう。市場信仰からすると、国が経済や生活に実質的に関わることは、誇張して言えば、すべて民主派の策謀になります。天下り禁止も邪悪な計画だから放っておけ、とでもなるはずです(笑)。計画のない人間なんているのかな。政治的支配階級の支配した無計画で前資本主義的な社会を「計画」として非難する前に、日本の企業世界の内部が計画経済に浸蝕されているのを憂うがよろしい。

こういうイデオロギー的主張はその漫画的な徹底性のゆえに、協同的制御(総合的で自覚的な管理)の進展を裏返した形で証明するようなものです。

資本主義は、工場立法を制定した瞬間から、管理通貨制度を導入した瞬間から、生存権を支えるための社会システムを起動した瞬間から、格差是正のための公共的な政策を選択に入れた瞬間から、自分の前提を超える自覚的制御に依存してます。排除しあう原子に社会が解体した暴力的競争の世界とは正反対の公共的世界を形成します。

昨日触れた加藤典洋風に言えば、「公共性」と「私利私欲」との「対立する磁場」(『日本の無思想』221頁)こそ資本主義の破壊的で創造的な運動様式でしょう。私利私欲が計画性を増殖し、計画性は私利私欲に侵される。人々の公共的な世界が復権する。「弁証法だぜ、人生は」(橋本治のパクリ)。弁証法とは徹すること。対象の最も強い部分によって対象を変革するという労働の特徴であって、資本主義の強さが資本主義の解体性だし、議論も相手の重みによって相手を解体すること(かなあ?)。
by kamiyam_y | 2006-05-24 18:09 | 経済成長と生活 | Trackback | Comments(0)

公害輸出の正当化

◇ このまえ都留重人(書籍検索|Excite エキサイト ブックス (文学・本・読書))にわずかに触れましたので、彼の本から1つ面白い話を紹介します(『体制変革の展望』新日本出版社・2003年・193頁以下)。サムエルソン(サムエルソン 経済学〈下〉|Excite エキサイト ブックス (文学・本・読書))に宛てて書簡を送る話です。

米財務副長官を務めたサマーズが世界銀行副総裁時代に書いたメモについて、おかしいのではと、手紙を出すのですが(サマーズはサムエルソンの甥)、そのサマーズの主張が笑えるのです。私なりに略しますと、

環境汚染は貧乏人の住む場所に移せば社会的な費用が下がる、

という内容の主張。

最低賃金国に有害廃棄物を投棄するのが、人の値段が一番安いから、経済的に合理的、とか、綺麗なところに住んでいる金持ちにとっての方が、汚染の費用が高い、とかいうことらしい。

こういう言説が力を持ったら笑えないので、あえて笑えると書きましたが、まあ、経済学のイデオロギー的機能と呼びたくなりますわな。どんな政策でも理屈づけ正当化しようとする現代の呪術師みたいです。

とはいえ、もちろんサマーズメモには抗議が殺到(196頁)。ほころびは明快です。

◇ 感想を書く気力はないのですが、ちょっと気になった本。

橋本治『乱世を生きる 市場原理は嘘かもしれない』(集英社新書2005年)。利潤が低下しても拡張していくスーパーマーケットに「限界を超えた」資本主義の膨張的本質を見いだしているのかなあと。飽くなき貨幣追求は、地球や人の容量を超えた、のか。「弁証法だぜ人生は」(194頁)はもちろん「とめてくれるな、おっかさん」を思い出させます。

加藤典洋『日本の無思想』(平凡社新書・1999年)。第3部でマルクスの「ユダヤ人問題によせて」を私利と公共性の対立という文脈から、最も精緻な議論として論じていて、けっこう面白かった。他の箇所はよく読んでいないですけど。加藤が、公共性から私利を否定するのがマルクスではなく、「所有の自由」を否定するのは「凡庸なマルクス主義者」にすぎない、と述べるのは正しい。

言ってみれば、お金を持つってことが市民的自由を掘り下げてたどりつく基底であって、お金は、社会的支配力。つまり、お金を持つってことは、ポケットのなかに王様を持つことです。各人が王様を持つわけですから、本物の王様は必要ない。お金目当てで行動すると生産は何とか成り立つ。王の支配は無意味となります。封建社会では庶民がお金を持つことを禁じられたりもするのは庶民が王になってしまうから。お金こそがフランス革命を導き、庶民を解放するのです。これは話の端緒にすぎないですけどね。

社会的力を貨幣としてつくり、個人が個人として解放されることがすでに1つの矛盾でしょう。私利と社会性との緊張こそ『資本論』の展開場面です。

宮崎義一『現代の資本主義』(岩波新書1967年)。ここで述べられている「前向きのインターナショナリズム」を現在どう評価すべきだろうか。なんて、ちゃんと読んではないんですが、これまた(笑)。
by kamiyam_y | 2006-05-23 22:36 | 成長主義と環境 | Trackback | Comments(5)

地方を資本にする運動

ガムデンタルリンスを買おうとプライスマート平岸店に入ると法学部の先生がおり、よつば牛乳を買おうとダイエーに入ると2部の学生がいました。狭い世界ですが、これこそ地方都市のコンパクトな空間を実感する醍醐味。

ところで、地域間格差の悪化に対して無関心な小泉=竹中路線的な考え方の1つに、「地方に競争させる」というような合言葉がありましたよね。

いきなりですが、それって、人間の社会的本質の自己疎外的な表現です。

こういう合言葉が述べている本体は、結局、地方とか、自治体、地方公共団体も、民間資本になれ、ということですよね。

だとしたら、市場を賛美することが、民間資本の公共性を認めているわけです。市場主義は、「民」こそが公共的だということを認め、つまり、民のなかに人間の社会的な共同性があることを認めることになっています。

ところが同時に、この承認を、競争が理想状態をもたらすという信仰へと疎外して了解しているのが、イデオロギー的な限界です。民の公共性が私利の敵対的な運動としてもたらされているという現実の1つの顔でしかないのです、竹中なんて。彼は疎外の人格化でしかないのです。公共性の承認は市場主義が自己解体せざるを得ないことを示しています。

彼が理想化する市場とは、企業の集合体です。この企業のなかは、市場とは逆に徹頭徹尾「計画性」の世界であろうとします。「民」に見習え!というのなら、この点、まさにこの計画性を徹せよ、という要求こそ民の真理というべきでしょう。

自治体間競争という考え方自体、憲法の平等な人権という理念と整合性があるのか疑わしいですけれど、ともかく、「地方の時代」というなら、地方に住む人々の幸せに必要なのは、徹底した計画性のはずです。

計画性という言葉に引っかかる方は、きっと、計画性を官僚制と勘違いしています。一部の特権的な人々が支配することと計画性とを混同しているのです。あるいは計画性を、官僚が計算して分配するといった歪んだイメージでつかんでいるのです。

社会的生産の自覚的な制御とは、遊びや偶然を豊かに含むものですし、総合的なもの。

市場を利用するという現実の命令は、市場を制御せよという命令に転化しています。市場の活用と言った瞬間に、じつは私たちは市場を自覚的制御の対象にしています。

人が都市に集中して暮すことは合理的だと思いますが、それは、競争によって効率の悪いところからよいところに人が移動し理想の状態ができるとする単純な話でもなければ、競争させるという名目のもと、地方を切り捨てるという話でもありません。

多少の与太話。2000万人が1カ所に暮すのと、200万人の都市がほどよく分散しているのはどちらが人間的でしょうか。札幌に暮している実感からすると、後者です。

これが人口10万人が広大な土地に分散しているのと、1カ所に集中して暮すのとでは、逆になります。少ない人口でも集中して住めば、飲み屋街だってできるはず。

札幌の狭さという話から、坊ちゃん団子ネタには行かず、地方都市の豊かさを殺さない政策を、という話につなげてみました。
by kamiyam_y | 2006-05-22 22:31 | 経済成長と生活 | Trackback | Comments(0)

共謀罪 強行採決は阻止

きょうの委員会での強行採決は回避。委員会で野党が少数でも、抗議する世論の力が、数の暴力を阻止できましたね。

保坂展人のどこどこ日記:河野議長要請で与党「強行採決」断念
19日の採決見送り=共謀罪で与党、強行回避 | Excite エキサイト : ニュース
by kamiyam_y | 2006-05-19 22:40 | 民主主義と日本社会 | Trackback(1) | Comments(0)

労働の人間化へ 道具にとっての道具となる転倒を超えて

内橋克人氏が北海道新聞の書評欄で都留重人氏の本を取りあげ、「『成長』ではなく『労働の人間化』を」という都留氏の主張を紹介しています(北海道新聞 The Hokkaido Shimbun Press>ほん>2006/05/14 『市場には心がない』都留重人著 岩波書店 1785円)。

「労働の人間化」なんて資本主義では無理だよとか、逆に、資本主義の中でそれができると考えるのは何とか主義の誤りだよとか思う方もいるでしょうけれど、このスローガン、私が(多少強引に)読み込んでみると、とても根源的です。

「成長」という資本主義の存在理由が事実上消滅して《成長の理性的な制御》こそが現代の課題であると述べているのですから。人間は「労働の人間化」をしてから「経済成長」を遂げるのではありません。「成長」は暴力的なものです。人間は労働を《非人間化》することによって、自己ならざる力として自己の力を無自覚につくる以外にありません。「成長」とはそういうものです。

しかし、地球環境に明らかなように、いまや協同的な制御がないということが限界線に到達しているのが現代です。「持続可能性」も「労働の人間化」も「人間の安全保障」も「人間開発」も「潜在能力アプローチ」も、地球規模でのスローガンはすべてこの限界線上に開花しています。

では、労働が非人間化されていたのは、労働のどのような本質に根ざしているのでしょうか。

今回は「道具」をキーワードにしてごく手短に考えてみたいと思います。

人間は道具を自分の対象としてもっています。道具は道具の働きかける対象と連続していますから、道具を通じて、人間は対象世界をいわば二重化し、対象世界を自分の対象として拡げていきます。

道具は人間の延長であるとともに、対象の延長です。対象は人間の統一運動によって人間の要素となっています。同時に、人間が対象の要素となってもいます。

道具が身体の延長だということはすぐに分かりますよね。スコップは手の延長、車は足の延長。それだけではなく、じつは、身体が道具の延長でもあります。道具によって人間は自分を規定し直します。人間が対象を道具へと変形することは、人間自身を対象によって変革することです。

こういう対象との相互発展の関係をつくりだす生物が人間です。

対象と相互に承認しあうこの能力は、人間が社会をつくることの根拠でもあります。

この能力ゆえに、人間は相互に延長にしあうのです。自分の恋人が失明したら、あなたなら「君の目になってあげる」と言うでしょう?人間は人間どうしの連続体としてリアルです。

自己の延長である道具によって自分を変える人間は、道具にとっての道具に自分を位置づけることによって、巨大な生産を可能にします。資本主義における機械制大工業では、人間は機械の付属物として自分を規定しています。

高校生のころ『春琴抄』は意味不明の小説でしたが、あれは自分を奴の位置におく人間の複雑な能力を表現しているのです。違う気もしますが。

脱線はいいとして、要するに、道具の道具という位置に自分をおくことのできる能力があるがゆえに、人間は自己を疎外し、他者を疎外し、対象を疎外することができ、それを強制される。成長とは強制ですから、成長の時代は当然人間疎外の時代です。労働を非人間化する時代です。

ちなみに、権力者とは、大衆の自己疎外の結節点におかれた仮面にすぎません。

人間は資本主義において機械の付属物であり、組織の歯車です。道具という対象に対して自己規定する人間は、人間どうしの社会関係によって自己規定し、自分を自分の集団の運動に自ら委ねることができます。

成長の時代は、人間が組織の道具として振舞う時代であり、組織の道具になりたがらない人間を抑圧しようとする大衆の分裂の時代だともいえます。奴隷が奴隷を収奪するシステムは、社会的生産の意図せざる発展において大きな動因です。

封建制を自明の空気としていた人間は封建的権力を解体しようとは思わない。それと同じで、成長が自明のものであった時代には、成長は何を犠牲にしても正当であったかもしれない。しかしいまやです。

生産発展を自らのものとして自覚し、社会を自分たちの豊かな生の土台とする条件が形成されつつあるのではないか。「労働の人間化」とは、企業中心主義・成長主義・競争主義を超えることです。「労働の人間化」とは、人権主体である生きた個人が、自己疎外した対象の力による支配に対して、制御の網をかけることです。21世紀の課題は「成長」から「労働の人間化」に現実に推移しているのではないでしょうか。
by kamiyam_y | 2006-05-18 23:40 | 労働論(メタ資本論) | Trackback | Comments(0)

ユートピアも、ディストピアも

7月なみの暑さと、ノルベサのせいで、札幌市内はどこもがらがらだ。

というのはうそですが、ノルベサとは、3日に薄野の近くにオープンした観覧車(プラス、ゲーセンとか)(nORBESA)で、薄野で働く人以外もたぶん乗るんだろうと思うんですが、夜空を見上げたときに、パチンコ屋のネオン花火みたいなチープなイルミネーションが鬱陶しい。ほかにも鬱陶しいネオンはたくさんあるのですけどね。やっぱりからかってみたくなります。

さて、さきほどたまたまですが、トマス・モアの『ユートピア』(平井正穂訳、岩波文庫、原著1516年)を手にとってみたところ、妙に現代的で面白く感じた部分がありました。労働時間の話(オンライン書店ビーケーワン:ユートピア「労働と自由の問題は重要な提起だ」、参照)です。

ユートピアの島にすむユートピア人たちの労働時間、何時間だと思います?

「6時間」労働なんですよ。妙に具体的じゃないですか。変な感じしませんか。

というのは、6時間というのは、現代だったら、可能な時間でしょう。モアのいうユートピアを私たちは実現できるんですよ。

といっても、もちろん、潜在的にですけど。発展した生産力がもたらす可能性としてですけれども。

6時間労働で人々が生きていく上で必要なものが生産できるの?という疑問はもちろんモアも承知していて、それに答えるべく、モアは、他の国では「聖職者」「貴族」など遊んでる連中ばかりだと記しています。不労所得階級に貢いでいる分がなければ、大丈夫だといっています。

ところで、このユートピアの島の人たちは、7年もつ服を着て、酒場もなく、娯楽は健康的なものをする以外ないそうです。

これはモアの6時間労働の中身と、私たちの実現すべき6時間労働との中身の違いにかかわります。向う方向性の違いといってもいいでしょう。

モアのユートピアは、坊主くさい。説教じみたにおいがします。後ろ向きです。道徳的な小宇宙です。

これとは対照的に、マルクスの自由時間論は搾取からの解放に止まらず、必然性の王国からの解放という人間の自由の実現を見据えていて、それは、資本主義における生産力の発展をベースとしてそれを働く人々自らが協働で制御することを前提としています。

人権の発達や、個人の自由で多面的な欲求や能力の開発、それらを支える大工業と世界市場の発展といった資本主義の発展がもたらした成果を土台にした自由時間論といってよいでしょう。

労働時間の短縮という主張のなかには、じつはもあの説教くさい後ろ向きの理想が混入してはいないでしょうか。モアのユートピアの描くこうした坊主くさい小宇宙は、そのままでは現代社会のすすむべき途ではありません。労働時間の短縮という正当な要求は、資本主義自身がその成果にもとづいて可能としているものです。

もちろん、モアは資本主義以前の人ですから、その主張が当時ラディカルな支配権力批判だったことはいうまでもありません。

長時間労働とは、すなわち、短時間労働が可能なほどの生産力をどう管理するかという問題提起なのであって、じつはそこには発展した生産力のすばらしさや、人類の展望が隠されています。

共謀罪だって、その背後には、経済成長のおかげで犯罪が減ったという進歩があるのですよ。だから、警察官僚の権力維持欲求と、社会の現実的進歩とが衝突しているのが警察国家化のなかみではないか、権力の諸分肢と、国家権力の仕事の配分をかえよという現実の要求とが衝突しているのではないか、と思うわけです。

長時間労働や監視社会をディストピアとよべば、ディストピアこそは、ユートピアへ向う現実の運動がとる摩擦です。

モアの閉鎖的な共同体も、今の私たちの平均的な感性からすれば、遊びを許さない超管理社会だといってよいかと思われます(ユートピア - Wikipedia、参照)。

ユートピアにしても、スーパー銭湯として存在しているだけではなく(すいません)、現実の一側面を反映しているし、ディストピアも資本主義の生みだす空想でしょう。

つまりディストピアは資本主義の現実のなかにある。えっ?健康増進法や共謀罪がディストピアだとか、無駄を許さない会社の規律がユートピア国と同じだとか、そんなありふれたこと、私は言ってませんよぉ(笑)。

以下はついでです。

トマス・モアは『資本論』で何箇所が言及されていますが、とくに「いわゆる本源的蓄積」のなかでイギリスの農民がその黄金期から転落して、土地を奪われていく悲惨さを記録した記述として、引用されています。

「本源的蓄積」とは、最初の資本がどこからきたのかという話です。資本主義の前提条件は、労働者が自分だけで生産できないこと、労働力を売ること、つまり自分たちの労働の対象(土地や工場)が自分たちのものではないことですけれど、この条件自体、資本主義が自分の結果としてもたらすもの。モノの生産とは関係性の再生産です。

終わりが始まりに戻るこういうループだからこそ、カネのライフサイクルである資本が躍動するわけですが、この無限ループにはまってしまうと、始まりがわかりません。そこで神話が自然発生します。

むかしむかしあるところに、節約じいさんがいてお金を貯めました。

こういう努力家が資本を蓄え金持ちになり、怠け者だった人たちは、みんなサラリーマンになりました、とさ。ジャンジャン。

格差を一般的に容認する小泉改革の信奉者でも、こんな神話を信じないでしょう。おとぎ話もここまで単純化すると誰も信じないってわけですが、本源的蓄積の探求があきらかにするのは、システムにさきだつ蓄積とは、働く人々を生産手段(土地など)から引き剥がす過程だということです。そんな予定調和じゃないよ、ということです。
by kamiyam_y | 2006-05-17 22:47 | 資本主義System(資本論) | Trackback(1) | Comments(0)

小沢氏が共謀罪に言及

いまNHKのニュースで、小沢民主党代表の会見映像が流されてました。

共謀罪について「司直の裁量の余地が多すぎる」「テロに限定するなら分かるが」と述べていました。正当な批判です。

                         01:09

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日本ジャーナリスト会議のサイトに共謀罪関連の記事:メディア・トピックス(JCJ WEB PAGE)

Excite エキサイト : 政治ニュース

教育基本法与党案に対して民主党が提出する予定の対案、なんと「日本を愛する心を涵養」と「宗教的感性の涵養」を盛りこんでいるそうです。

政局を揺さぶるための戦術なのでしょうが、理念的に全然評価できません。ダメです。

参照:日本がアブナイ! : 民主党の教育基本法改正の対案(前文)にガッカリ

                        11:22

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格差社会批判は、共謀罪批判とともになされるだけではなく、教育基本法改悪批判や憲法改悪批判と同じ原理でなされるのが望ましいと思われます。自由平等という市民の理念は、自由と平等とが別々になっているわけではありません。人は無差別に権利の主体であり、その自由において平等であるべきです。格差批判は国の責任を追求するわけですが、それは市民による権力の規制という自由の単純な起点と連結しています。教育基本法与党案における国による道徳の強要はこの起点に合致しておらず、与党案が国政による教育への不当な介入を許容する可能性を批判すべきです。「宗教的感性」も(当然政教分離といった憲法の原則と一致しませんし)、靖国参拝の支えになるのですからアジア外交批判という点からも批判すべきでしょう。公明党から自民党の一部を切り離す戦術を優先する利点がどれだけあるのでしょうか、疑問です。

すごく単純化していえば、復古的な国家主義への回帰より、グローバルな市場と企業を優先し、大企業より、働く大衆を中心とする市民によるグローバルな民主的参加を優先して考えてみますと、地域社会の防衛という生活者にとっての切実な要求は、格差社会批判だけではなく、市民の自由を侵害する共謀罪に反対することともつながっています。共謀罪反対では民主党にもがんばってほしい。反対の声が連結していけばいいと思います。

23:15


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5/18

全国国公私立大学の事件情報からです。
日本ジャーナリスト会議、「共謀罪の廃案」を求める緊急声明
全大教、改憲への道につながる教育基本法改悪に反対し、国会での廃案を求める
民主党案は「国」ではなく「日本」とし、条文ではなく前文に「愛する心」を入れて調整したつもりらしいが、教育基本法の基本理念に蓋を閉めてしまうような改悪そのものについて議論すべきでしょう。『北海道新聞』の昨日の社説も民主党案を批判していました。可能であればご覧になって下さい。
by kamiyam_y | 2006-05-16 01:09 | 自由な個人の権利と国家 | Trackback | Comments(0)

「弁当の日」というバッシング/六ヶ所村

「弁当の日」決議案議員にみる想像力のなさ

朝日新聞5/14(日)に埼玉県鷲宮町のトンデモ決議「弁当の日」が紹介されていました(平山亜理「弁当で家庭の『格差』見える?」)。

鷲宮町の子育てを守る会 - 埼玉県北葛飾…によれば、この案、何のリサーチもなく、議員の個人的な見解からなされただけじゃないですか。つまりただの思いつき、もしくは思いこみです。案に賛成したのも、「平成会」という与党の議員だけだそう。

朝日の記事は、「提出した栗原昭文議員(74)は『昔は母親が朝4時に起き、かまどで御飯をたいた。給食がなければ母親も弁当を作らざるをえなくなり、子供も親のありがたみが分かるようになる』と話す」と伝えています。

自分の個人的な過去の体験を美化して一般化して、人に押しつけようとするのだからめっちゃ始末が悪いです。母親が怠けている、それが社会を悪くした、とでも言いたげな押しつけがましい説教です。独善的です。もちろん自慢や他人への攻撃をふくんだ偽善でもあります。社会問題を母親の自己責任に解消する愚かな信念の見本みたいでもあります。

こういう決議に賛同するご立派な母親は、働く母親がノイローゼになって家庭崩壊してもそれは「自己責任」で弱い親とでもいうんでしょうかね。若い母親を道徳的に批判することに自分のアイデンティティを見いだす人なんでしょうね、きっと。

母親のいない子供、母親が病気の子供、いろいろいるんだぜ。この議員は、貧しい家庭の子供には友達がおかずをあげればいいとまで言っています。どういう社会に生きている人なんでしょうか、この議員。想像力なさすぎです。

「食育」というならそれこそ学校教育の現場でどの子供にも食べさせるほうがよく、給食の文化的・栄養学的なレベルアップこそ必要です。子供は社会の宝ですから、食事につかう税金くらいあるでしょうって。

六ヶ所村

15日のこれまた朝日ですが、六ヶ所村の分裂を扱った記事で、ほんのわずかに六カ所再処理工場の事故に触れられていました(「提訴16年、反対派先細り」)。
by kamiyam_y | 2006-05-15 23:44 | 民主主義と日本社会 | Trackback | Comments(4)