さっぽろ地下鉄のなかでマルクスを呼吸する、世界を呼吸する

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広告塔の保釈

『きっこの日記』も怒ってました(「2006/04/27 (木) 平和のミサイル1」)が、ホリエモンの保釈報道は共謀罪から大衆の目をそらすものですね。

教育基本法改悪のために会期延長かよ、って話です。7月末までの会期延長浮上 教育基本法案めぐり自民 | Excite エキサイト : ニュース
by kamiyam_y | 2006-04-30 22:46 | メディア資本と情報化 | Trackback(2) | Comments(0)

自民連敗

千葉7区補選、岩国市長選、東広島市長選、沖縄市長選と自民の敗北が続きました。安倍氏を送ったり、チルドレンさんを国会の最中なのに送り込んだりしても選挙の結果は自民敗北です。9.11の結果に対する冷静な見方が拡がっているのでしょう。

とくに千葉7区は、武部幹事長が「小泉改革の総決算」と位置づけたことにしたがえば、小泉政治に拒否の意思が示されたことになります。

民主党の太田和美さん(26)に対する怪文書は逆効果になりましたね。「元キャバ嬢」をネタにしたネガティブ・キャンペーンは品性下劣ですから当然です。公の場で職業差別を語っているようなものですから。東大・ハーバード大出身のエリートよりも、高卒でキャバクラ勤め経験ありの女性を、格差社会でがんばっている働き盛りのサラリーマンが応援したくなるのは当然でしょう。つけくわえれば、いうまでもなく、「最初はグー、さいとうけん」は大衆を舐めてます。

ともかく、「格差社会」と「アジア外交」で対決姿勢を出した小沢民主党代表に対する期待の現われでしょう。

共謀罪でもがんばってもらわないと(情報流通促進計画 by ヤメ記者弁護士:共謀罪で対決姿勢~小沢民主党)。
by kamiyam_y | 2006-04-25 23:50 | 民主主義と日本社会 | Trackback(1) | Comments(0)

共謀罪審議再開

情報流通促進計画 by ヤメ記者弁護士:共謀罪,審議入り→今月末にも衆院強行採決~怒れ,1000万人ブロガーで知りました。

保坂展人のどこどこ日記:共謀罪、不意打ちの審議再開に抗議する

とにかくご覧ください。
by kamiyam_y | 2006-04-18 23:30 | 自由な個人の権利と国家 | Trackback | Comments(0)

環境問題と労働問題をつなぐ筋

朝1講から夜2講まで長い1日でしたが、新学期を実感します。新しい受講生を前にして気分一新。持ち上がりのゼミ生も何か大人になった気がする。

論じきる自信も時間もないですけど、授業で話しながら少し考えたこと。

地球環境問題と、日本社会の「過重労働」問題との同一性です。環境問題は、いわば経済と自然環境との衝突であり、成長主義システムと、人間にとって根源的な環境とが衝突している事態です。

企業社会もじつは同じ問題をその中心に含んでいます。個々の企業における長時間労働は、労働現場という環境と、競争主義経済との衝突です。労働時間を制御する社会的ルールがあるにもかかわらず、それが及ばない実体として社会的労働が存在している。

こうした21世紀的社会問題が、じつは労働の発展です。社会的しくみによって制御できないまでに社会的労働が巨大なものとして、個人や環境を拘束するものとして現れているという点で労働の発展。

さらに、この社会問題が個人の社会的自覚を促す点でも発展。一人一人が主体であることに実質的な重みを与えていくとでも言いましょうか。

21世紀的問題系は、20世紀の負の蓄積を解消するということだと思うんですが。 
by kamiyam_y | 2006-04-18 23:00 | 成長主義と環境 | Trackback | Comments(0)

気持ちの悪い話

愛媛県警のウィニーによる情報の散布、『週プレ』の記事を紹介しましたが、『週刊朝日』の方にも記事がありました。GPSを使った発信器を被疑者の車に設置しているとか、けっこう気持ちの悪い話が。週刊朝日 - ウィニーで情報公開、警察はここまでやっている!? | Excite エキサイト : ニュース

でも、ネットの議論の方が速くて、本質をつく文章があります。いつも読ませていただいている踊る新聞屋-。さんの、winnyに暴かれたNシステムの一端とかめっちゃ面白いですよ。

情報流通促進計画 by ヤメ記者弁護士さんの愛媛県警作成の手引書入手~「自供させるまで取調室出るな」もご一読を。

ところでPUBLICITY1352号で知ったのですが(【マスメディアが民衆を裏切る、12の方法】 | 「mamaのつぶやき」)、野口英昭さんの「自殺」を問う

mamaのつぶやき

がんばってますね。このブログを応援している大津留公彦のブログも参考になります。植物片はヒノキ(野口怪死事件に新展開)など。

それから、共謀罪阻止しなければやばいです。共謀罪ブログ(暫定版)
by kamiyam_y | 2006-04-16 23:45 | 自由な個人の権利と国家 | Trackback(1) | Comments(2)

今週のニュース雑感

たった2つです。ほんのメモ程度です。

◇ アイフル。高利貸しは資本主義社会が登場するはるか以前からありました。日本の消費者金融も外見は近代化したようですが、アイフルでは「法令遵守」の担当者が法令を破っていたようです。金融庁の意図を推測する気力が湧いてこないので、【安田美沙子ちゃんにはアイフルのCM辞めてほしいですね】とだけ言っておきます^^;

アイフル被害対策全国会議

◇ 昔々あるところに、おっきな家があったとさ。

家長は家を愛するという私的立法をつくりました。ところが家長はどうやら会社で政治献金に手を染めているようす。大人になった次男は、それを知り許せないと、家を捨てました。

「愛は心の問題で法律によって強制すべきものではない、心の自由を奪うのか、家よりも広い社会を私は愛する」と次男は主張しましたが、家長は「誰のおかげで生きていられるのだ、俺を批判するのか、家を愛する法律に背くのか、この家の伝統を守らないのか」と次男を説教したあげく、座敷牢に閉じこめて殺してしまいました。おしまい。

文化人ら基本法改正反対 「寄せ木細工」許されない | Excite エキサイト : ニュース 教育基本法の改悪をとめよう!全国連絡会「あんころ」

愛国心を強要することは憲法の原理に合致していませんから、「憲法の精神に則り」とはいえません。
by kamiyam_y | 2006-04-15 23:20 | 民主主義と日本社会 | Comments(0)

女性の自由(補)

初期雇用契約(CPE)撤回ですね。要するにこの雇用政策って、雇用を増やすという名目で、26歳未満の従業員を理由を告げることなく解雇可能にするわけで、若者使い捨ての制度でしょう。若者の権利を損なうし、フランス労働者が勝ち取った権利を崩すことにつながりますから、大反対は当然。シラク仏大統領が新雇用策の撤回を発表、労組は勝利宣言 | Excite エキサイト : ニュース

さて、先日書いた 女性の自由に補足しておきます。イスラム国家の女性差別をどう見るかという点で、人権の普遍的な意味について言及しました。

《個人》や《人権》や《女性差別反対》や《自由》を「西洋的な価値観であり、私たちにはふさわしくない」と言って女性抑圧を隠蔽しようとするのは、途上国の保守主義者や民族主義者、伝統回帰の共同体主義者です。それだけではなく、市場主義に対して「文化」的深層や構造や制度を対置する論者の中にも、《人権》への疑念がみられます。しかし、個人がかけがえのない1回限りの生を生きる主体であることは、人間の普遍的本性に即してグローバルであって、地域限定の理念ではないのです。マーサC.ヌスバウムの『女性と人間開発』(池本幸生・田口さつき・坪井ひろみ訳、岩波書店)をめくってみて思いました。ヌスバウムは国連の人間開発human developmenの背景にあるcapability approachを推し進める理論家で、アマルティア・センよりもマルクスを前面に出しています。普遍的な《規範》を探る手法は、批評しにくいんですが、おもしろさと物足りなさともに感じます。

《人権》はグローバルゆえに、先進国、途上国を問わず、諸個人にとって武器となります。イスラム国家の女性差別は、先進的現代国家のなかに隠されて残っています。女性差別解消反対論者は途上国だけではなく先進国にこそ新保守主義という形をとって生息しているのですから。

もちろん資本主義の発展が《自由》の発展の条件を創り、女性解放を促すことは、前回指摘しておきました。私は資本主義とは別に家父長制の支配があるとか、男性が支配する構造があるとか考えませんし、資本主義が進むほど女性が差別されるとも捉えません。専業主婦を遅れた存在とみなすのも道徳にすぎないと思います。

さきほど、個人が主体として、人間の普遍的本性に即してグローバルであると述べました。補足すれば、これは人間の本質的活動としての《労働》に立脚してそうなのです。《労働》に即してつかむことによって、市場原理主義の前提となっているような幻想的な「個人」を、イデオロギー(意識の姿をとった特定の社会関係)として批判できます。

資本主義批判が労働論に根拠づけられない場合、《個人》を主体とすること自体が、資本主義の前提する競争主義的個人をもちあげることと混同されてしまいます。「自己責任論」が想定するような競争主義的な個人は、人間の社会的存在性を見失った非学問的な人間観です。市場主義が前提する原子論的個人はじつは市場が生みだした関係性にすぎず、社会の起点などではありません。競争主義的な個人を拒否することは正当ですが、だからといって個人を主体とすること自体が、西洋や近代や資本や市場を美化することにはならないのです。ちょっと書ききれないんですが、労働によって基礎づけられる人間の普遍的な主体性こそ、グローバルな批判の立脚点であり、それを人権主体としての個人と呼ぶなら、個人も人権も廃棄すべき概念などではないのです。
by kamiyam_y | 2006-04-11 00:15 | 現代グローバリゼーション | Trackback | Comments(0)

権力による批判の封鎖-法の「国策的」運用

▽△ 先月16日に愛媛県警の警部のパソコンから情報の流出がありましたよね。Winnyを入れた私用パソコンからの流出ですが、その情報のなかにはNシステムによるデータが含まれていました。Nシステムは、自動車のナンバーを自動的に読取るシステムで、監視社会の進行を象徴する装置です。

この事件は、生データを丸ごと現場捜査員が私用パソコンに落してる、という警察のずさんな実態を示しています。これを『週刊プレイボーイ』最新号が取材していて、面白い。

「想像以上にヤバいぞ、Nシステム!」(『週刊プレイボーイ』第41巻第14号:2006年4月18号:38-41頁:取材・文・写真/小林洋之、撮影/井坂英樹)

宮崎学氏や寺澤有氏のコメントも掲載されており、短いけれど有益な記事です。

▽△ 共謀罪反対 THE INCIDENTS (Alternative Version): 「北海道警が北海道新聞を脅した証拠文書」に新証言(2)で知ったのですが、原田宏二氏の寄稿が『週刊現代』4月1日号にあったそうですね。買っていなくて読んでいないのですけれども。INCIDENTSの大内顕氏のこの投稿には道警の「狡猾」な取引が暴露されているので、道警「裏金」問題に関心のある方はぜひ目を通されるとよいと思います。

△▽ もう1つ、今日読んだ記事でちょっとかたい雑誌から。竹山徹朗 PUBLICITY【マスメディアが民衆を裏切る、12の方法】)No.1344、2006/03/28(火)が強く薦めているので、『世界』4月号を買ってきました(定期購読してないの?という声も聞えてきそうですが)。

この4月号のなかで私として紹介しておきたいのは、憲法学者奥平康弘氏の論考。

「『住居侵入罪』と『表現の自由』に関する若干の考察」(『世界』751号:2006年4月:36-48頁)

氏は、「住居侵入罪」が戦前「国策的」(38頁)に運用された事例から始めて、最近の立川ビラ配布事件の高裁判決について考察しています。

権力の意思は、住居侵入にではなく、イラク戦争反対・政府批判というビラの《表現》に向けられています。権力をコントロールする規範である《憲法》に反した事態です。憲法の理念を覆す大問題です。
by kamiyam_y | 2006-04-10 23:12 | 民主主義と日本社会 | Trackback(1) | Comments(0)

非宗教を偽装する国家宗教

読んだ本のメモです。高橋哲哉『靖国問題』なんですが、とても痛快な読み物です。江藤淳の「文化」的靖国擁護がどのように論理に破綻をきたしているかを論じている箇所など、面白かったです。

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高橋哲哉『靖国問題』(ちくま新書)は、「靖国」の問題圏を単なる《歴史》としてではなく、《論理》によって明晰な形にして読み解いている。《歴史》でも《政治》でもなく、《哲学》として論じることだけが現実的である。哲学として総括されない歴史は非現実的なものである。一時の局面の流れ去る事実は非現実的であり、それに囚われた理解は浅薄な偶然的なものにすぎない。全体主義的妄想をはじめとする諸々の幻想は現実からの疎外(抽象)にすぎない。

哲学研究者による社会的な発言として本書は高く評価されるべきである。《研究》労働の社会的責任は、もちろん専門領域の論文制作が主軸となるが、学術的なコミュニティは大衆に対して、社会に対して、啓蒙的な情報を発信しなければならない。

本書による問題圏の解析から、3点ほど重要な論点を記しておく。

第1に、靖国が太平洋戦争において機能しただけではなく、「台湾出兵」を始めとする日本の軍事侵略のすべてを靖国が聖戦として美化してきた点。靖国は「植民地獲得と抵抗運動弾圧のための日本軍の戦争」(84頁)において戦死した日本兵士を英霊化する巨大な装置であったのである。著者はこの分析によって、「A級戦犯合祀」問題への政治的矮小化を否定する。

「日本近代」の軍事的膨張の文脈にこのイデオロギー装置を据え直すこと。日本近代の《帝国主義》的展開のなかに、靖国というイデオロギー的統合装置の形成をつかむ視点自体はオーソドックスといいうるかもしれないが、この歴史認識は靖国を見る見方において出発点ともいうべき重要な前提をなす。

第2に、「神道非宗教」というレトリックがキリスト教や仏教を戦争体制に統合するのに大きな役割を果した点。宗教を超えた「血」や「道」であるとする倫理的粉飾によって、キリスト教は「無惨」にも戦争推進者に転向した。神社神道はまさに「祭教分離」という仕掛けによってこそ、キリスト教と仏教のうえに立つ国家宗教として支配イデオロギーとなりえた。法制上宗教ではない装いをとるという詐術を使って、国家宗教になったのである(129頁)。靖国はそもそも「無宗教」の「追悼施設」を偽装した「宗教的な国立戦没者顕彰施設」であった(146頁)。

宗教であるためには宗教を否定しなければならず、しかし宗教を否定してしまえば自己解体である。靖国は非宗教化は望まず、しかし非宗教化を望む。非宗教的追悼施設の宗教的本質。靖国の現在に対する決定的な批評は、この点の確認なしにはありえない。

第3に、「靖国」の本質的機能が《追悼》にあるのではなく、《顕彰》にあり、この《顕彰》装置が単に日本的特殊性に解消されるものではなく、およそ戦争を行いうる国家であるかぎり、つまり平和の実現がないかぎり、「追悼」が「顕彰」に反転してしまう点。

この第3の点に関して、以下、国家の社会システム論的理解に引き寄せて、若干の考察を試みる。

《顕彰》は、共同体(国家)の器官として戦場で王・国家に対して命を捧げた成員に対して、国家が、祭祀をすることによって、国家に奉仕した者という位置づけを与えることによって、その遺族や親しい人々の悲しみを共同体の肯定に置き換える。兵士も共同体による顕彰を予定して軍事力の手足となる。この共同体(国家)は排他的であり、顕彰は、他の共同体に対する支配を正統化するイデオロギー的活動である。この活動は、国家宗教の幻想のなかで、個人の犠牲を共同体に溶けこませる。共同体による「征服」(!)に貢献した個体は聖なる者として承認を与えられ、この「征服」に抵抗した個人は排除されて、「征服」が正統化される。

私が征服された側であったかもしれないという想像力は排除される。人間は1つの同一の人間ではなく、局限された畜群に分割されている。人間の普遍性を共同体の局限性が否定しようとする働きとして、顕彰という幻想は理解できる。だからこそ偏狭な共同体主義は人間の普遍性によって止揚されねばならない。

個人の哀しみが国家により収奪され、個人の命を奪った国家(共同性)が再び個人を取り込む。顕彰というこの取り込みによって、個人が国家に抑圧される転倒がなくなるわけではなく、それは強化されるというべきである。共同体内の個人の抑圧は隠蔽され、共同体による共同体の抑圧も隠蔽される。

「顕彰」を本書は「感情の錬金術」と名づけている。顕彰とは、戦死に対する「遺族」(個人)の哀しみを、共同体の中の喜びに逆転する《とりちがえ》にほかならないからだ。「お天子さま」のために命を捧げた者として、戦死者は「神」として祀られ、死が「ありがたいこと」に転化する。「悲しみから喜びへ。不幸から幸福へ」(43頁)。

「お天子さまのために」大量発生した《死》を社会的に意味づけることによって、共同体(国家)がその成員を掌握し、他の共同体に対する支配を拡大する契機にするのである。

国家による祭祀は、国家に従属する者にだけ向けられ、国家に逆らう者、体制を批判する者は容赦なく祭祀から外される。国家による埋葬権の収奪は、国家による支配を増幅する運動である。

戊辰戦争における会津藩側の死者は、天皇の軍隊に逆らった者として埋葬を禁じられた。この史実に対して、著者はギリシャ悲劇『アンティゴネー』を想起する(170-171頁)。的確というべきである。国家のために死んだ者は祀られる。国家を変えようとして、あるいは国家に反逆して死んだ者は、野ざらしにされる。ちなみに、『アンティゴネー』は、共同体が主人公で個人がその手足となっているような、個人が共同体が与える役割を無自覚に演じるような前近代の世界を表象した芸術としてマルクスが引用する作品である。

「……戦争や武力行使の可能性を予想する国家であるかぎり、そこにはつねに『尊い犠牲』、『感謝と敬意』のレトリックが作動し、『追悼』は『顕彰』になっていかざるをえないのである」(205頁)。

著者の「顕彰」論は、疎外態としての《国家》そのものを射程に収めている。《戦争》は、人間の分裂状況そのものである。人間がその普遍的性格を実現せずに、奪い合うことによって共同の生産を創り、人類社会の前提条件を創っている段階においては、諸個人の共同性が戦争をしうる国家として実存する。国家のために死んだ者を国家が追悼することは「感情の錬金術」を作動するだろう。

個人の自由な個性の発現が社会的なものに集約され、この社会的なものが個人の自由な成長の土台となっていく、そのような新たな社会状態が確立しないうちは、いいかえれば真にグローバルな人間本性が実現しないうちは、共同体が個人を抑圧する権力として存在する。1つの人類社会が形成されないうちは、人間が敵対しあう共同体に分裂した畜群的な状態におかれている。社会的生産が敵対的に編成され戦争する国家という形をとっている。このような未成熟な通過点に人間が止まるかぎりは、幻想的な共同体による「感情の錬金術」が発生する条件が存在している。

追記(4/9)

恐縮ですが、常識以前の確認を。靖国については何度も言及しました(たとえばここここここ)が、講和条約を否定する性格をもつ首相による参拝があって、世界の批判があるので、その逆ではありません。参拝を首相が公約したり、メディアに公開しても政教分離に反し、とうぜん厚生省による靖国のための名簿作成もいけません。首相参拝が憲法に反することも、平和の祈念にならないことも、言うまでもないことです。
参照:靖国神社問題 関連資料
by kamiyam_y | 2006-04-07 23:27 | 自由な個人の権利と国家 | Trackback | Comments(0)

女性の自由

こちら札幌は、まだ桜が満開になるまで1月ちかくありますけど、雪も解けて、自転車が気持ちのいい季節ですよ。

って自転車もってませんが(笑)。

ジンギスカンの肉って、やっぱり野菜といっしょに焼かないと美味しくないです。ただの焼肉です。機会があったら、試してみてください。

▽ 最近のニュースを少し。

<フランス>300万人デモで600人逮捕 一部暴徒化し | Excite エキサイト : ニュース

アメリカでも数十万人規模のデモが起きているし、すげえなと。フランス社会って、グローバル化の矛盾の先端なんじゃないでしょうか。

矛盾のグローバル化も避けられないなら、人権のグローバル化も不可避で、普遍的な意味をもつ。そう私は思ってるんですが、ちょっと関連するというか、こんな記事がありました。

差別に耐えかねて性転換する女性たち サウジアラビア | Excite エキサイト : ニュース

グローバル化の中で、それぞれの地域の文化を尊重しあうことはもちろん大切です。

しかし、【女性差別も伝統文化として尊重されるべき】と主張するなら、やっぱりヘンでしょう。

この記事にあるように女性が抑圧を自覚していくことは、おそらく不可避だと考えられます。

性差による分業のありかた、就業形態のちがいなどは、例は挙げませんけれど、本質的に生産のありかたに依存します。いってみれば、経済の発展によって規定されています。女性を犠牲にする関係を必要とするような経済的関係が消滅すれば、そうした女性差別的関係は、時間はかかっても解消するのです。

誤解を恐れずいえば、資本主義化、市場化がすすむことは、女性を解放する。大工業や知識労働の発展は、女性を労働現場に引きずり込み、労働現場を女性に開放します。

女性が抑圧を自覚することは、抑圧を抑圧として意識するような権利関係(社会的承認)が育っていることを意味しており、そうした意識をもたらすような生産の関係が発展しているわけです。

こう考えてみると、女性差別を近代的なものと見ることはできず、政教分離していないイスラム国家を、厳密な意味での近代的なものとみるもできません。

だとしたら、多元的な文化を尊重しつつも、人権や民主主義を実現する道がとられるべきではないか。「アンシャン・レジーム」的な前近代的なもの、人権や民主主義にそぐわない文化は組み替えられるべきなのではないか。

これは日本でも同じ。ジェンダー・フリー反対論という名の前近代(=古い共同体的関係)への回帰は、人権によって国家(=社会的生産)を制御する《近代》社会(=現代の核心)から後退した道徳国家への感傷でしょう。そうした感傷は、資本主義的な発展がもたらす諸々の犠牲や敵対関係を覆い隠す働きをします。なぜなら、そうした感傷は、諸個人の《自由》や《権利》を犯人に仕立てあげる短絡によって、また、道徳によって社会が変ると考える逆立ちによって、問題の本質を見えなくさせるからです。
by kamiyam_y | 2006-04-05 23:08 | 現代グローバリゼーション | Trackback(1) | Comments(0)