さっぽろ地下鉄のなかでマルクスを呼吸する、世界を呼吸する

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天皇の戦争神社詣で

天皇の靖国参拝実現を=外相、環境整備必要か [ 01月28日 21時20分 ]
共同通信Excite エキサイト : 主要ニュース

平気で一線を越える発言をするものだと、今朝道新の一面を見て呆れました。

天皇の靖国神社参拝を 外相、公私区別が問題  2006/01/28 23:07(北海道新聞)

麻生外相、天皇に参拝しろと要求しているわけだが、こんな人物を外相におく点に、政権与党の歴史認識と世界認識の水準が知られるというものだ。

靖国は天皇のために天皇陛下万歳と叫んで死んでいった兵士を神と讃える団体なのだから、天皇こそ参拝せよ、というロジックは、もちろん、戦前復古批判とは逆の意図にしたがって、参拝正当化の契機として出されているけれど、靖国とは天皇のためのものだった、天皇は靖国を拝め、というのは妙な告白ではある。日本の一体性の象徴が靖国に平伏すことは、日本が近代社会を放棄しないかぎり、ありえない。

近代社会のしくみも、主権在民も政教分離の意義も、戦後国際社会の秩序形成の到達点も、理解できず、なぜ天皇が参拝しないのかも、まったく理解できないこの程度の知性の持主が日本という世界の超経済大国の外相を務めているとは、世界経済の発展にとってマイナスではないのでしょうか(計測できませんが)。日本の国際的責任(労働の世界的発展)に照らして水準が低すぎるというべきです。
by kamiyam_y | 2006-01-29 14:44 | 民主主義と日本社会 | Trackback(1) | Comments(0)

10-FEETとELLEGARDEN、観てきました!

TOYOTA BIG AIRのLIVE ACTに行ってきました。

昼過ぎに「真駒内オープンスタジアム」に入ると、ジャンプ台からスノボーのライダーが飛んでます。滑走路傾斜45度くらいありそう。ホントに飛んでます。すげーっ。しかし私はジャンプ台の横のステージに直行。3時半からの10-FEETと6時からのELLEGARDENのLIVEが目的です。

青空がのぞくこともありましたが、ずっと雪が舞い降りつづけ、ステージ前は踏み固められアイスバーン状態でしたので、「ジャンプOK、ダイブ禁止」とのお達し。飛びたくてみんなうずうずしているよう。

10-FEETのTAKUMA、この氷点下タンクトップで現れ、“Vibes by Vibes”から始まるパフォーマンスはパワフル。

エルレは日が落ちてからなのでいっそうエモーショナルな気分。細美さん、すごく純粋で、私がこういうのも何ですが、かわいいかんじです。MCで「幸せ」について語ったのが面白かった。“Red Hot”や、12月にでた“Space Sonic”などやっぱり昂揚します。

厳寒のなかを汗かいて気分すっきりです。

定期試験で行かれなかった人のための報告も兼ねた感想でした。

付記 エルレのライブ途中で具合悪くなった人がいたんですが、細美さんのDiaryに大丈夫だったとあり、安心。
by kamiyam_y | 2006-01-28 23:58 | Trackback | Comments(0)

SESCとSEC

《SECって? ライブドア・ショックにからめて》

ライブドア疑惑は、海外の報道では、日本のシステムの後進性、不透明性の問題として取り上げられており(「ホリエモン帝国の崩壊」『週刊現代』2月4日号、41-42頁)、「日本版SEC」をという掛け声もこの文脈で市場の規制強化を要求しているわけです。グローバルに資本がうごく時代に透明性を欠いた市場としてみられることがあったら、それはいいことではない。

で、そもそも日本の証券取引等監視委員会とはどういう組織なのでしょう。

証券取引等監視委員会は、91年の証券不祥事を契機として設立されて、省庁改編によってその位置も何度関わりながら現在金融庁のもとにあって、証券市場の監視をしています。

その活動の概要を公式サイトから拾ってみますと、16年度には、

一般からの情報受付が4669件(インターネットが3251件)で、その内訳は相場操縦の疑いが3339件、風説の流布の疑いが1435件、有価証券報告書等の虚偽記載等166件、など。

証券会社の検査が1217件、

銘柄の急騰・急落やネットの掲示板などに着目して行われる市場監視(取引審査)が674件、

首相および金融庁長官に対する行政処分の勧告、17件、

犯則事件の調査などにもとづく検察官に対する告発は11件、
そのうち、虚偽記載が2件、風説の流布・偽計が1件、相場操縦2件、インサイダー取引6件、


です。

どんな印象を持たれますか?権限はこれでいいのか。市場の動向に対応できているのか。

マネー市場自体群集心理を介して運動しているものですから、風説の流布を証明するのは本質的な困難を含んでいるはずですし、インサイダー取引にしても、一般投資家が知らない事情を業界関係者が知っているのは当然であって、均質に情報公開された空間などというものは頭の中にしか存在しない。

一般からの情報には、損をした腹癒せも含まれているでしょう。

しかし、インサイダー取引の告発がたったの6件ということは、めでたいことなのでしょうか。

SECの活動実績を比較すればいいのですが、時間の関係上、人員だけ比べてみます。

米国の証券取引委員会(SEC:US Securities and Exchange Commission)は、市場の公正性・透明性を妨害するインサイダー取引insider trading、市場操作 manipulating the market prices of securitiesなど違法行為を捜査し法執行を行う組織ですが、スタッフは3100人(http://www.sec.gov/about/whatwedo.shtml)。

対する日本は、H.18年度は318名の予定(http://www.fsa.go.jp/sesc/aboutsesc/aboutsesc.htm)。

ちなみに、日米の株式市場の資本調達額(年度末の国内上場企業の時価総額)をみてみます(合衆国商務省センサス局編『現代アメリカデータ総覧2002』監訳・鳥居泰彦、東洋書林、854頁「各国の株式市場」)。

合衆国 13兆9839億ドル
日本   3兆9100億ドル
イギリス 2兆1495億ドル

市場の規制は市場の矛盾を取り除きません。しかし矛盾の、より文明化された運動形態の一環を形成します。規制によって、個人投資家から専門的賭博師や賭博組織に所得が移転することを止められないことはいうまでもありません。同時にまた、社会的労働からの収奪だからといって、賭場の開帳者がいかさまで巻き上げていいということにもならないでしょう。

SECの権限等には触れませんでしたが、検察主導の今回の逮捕劇はどんなものか、ってことです。


《小泉=阿倍と耐震強度偽装》

やっぱりです。多分ネットではもう出ている情報でしょうが、「ホリエモン帝国の崩壊」(『週刊現代』2月4日号)によると、小泉首相はライブドア強制捜査の着手日を小嶋社長の証人喚問当日の17日にぶつける意向だったのだと。16日に急遽変更したのはNHKのフライングのためだと。真偽は確かめられませんけど、もはや誰がみても、って話ですね。

魚住昭氏による小嶋社長へのインタビューも、国土交通省への働きかけを素直に語らせており面白い(「ヒューザー社長小嶋進『私と阿倍晋三』&創価学会・公明党 全告白」『週刊現代』同上)。小嶋氏は阿倍後援会の会員なのに、なぜ阿倍氏は否定するのか。「建築確認」の民営化の目的を小嶋氏が語っているのも、問題を考えるうえで興味深い。



おまけ。アイボいなくなっちゃうんか。興味ないですけど、発売当時独身の教員がほしいといってたのを思い出しました。

「アイボ」の生産を中止 ソニー、ロボット事業撤退 [ 01月27日 01時19分 ]
共同通信 Excite エキサイト : 経済ニュース
by kamiyam_y | 2006-01-27 20:00 | 企業の力と労働する諸個人 | Trackback | Comments(0)

自己責任論は寄生虫による搾取を正当化するイデオロギー

ホリエモン捜査を検察が耐震偽装問題と無関係に以前から準備していようとも、その演出の効果が、安倍晋三を始めとする政界とヒューザーとの癒着疑惑を消し去ろうとする方向を秘めていたことはもはや言うまでもないというべきだし、検察のための劇場を準備したマスコミの権力指向もハッキリしている。

このライブドア・スキャンダルは証券市場自体を管理する社会の能力、危機管理システムを鍛える要因の1つにはなりうるでしょう。証券取引等監視委員会が何を監視していたんだか、疑問ですが、なにがしかの学習や、システムの改善はなされるとみておきましょう。

しかも、ライブドアの経済的規模など所詮泡のようなものです。

そうだとすればです。誰がどう見たって、私たちの生命と、政治とに直結して重大な問題は、やっぱり、耐震偽装の方です。

といっておきながら、今回は、小泉的イデオロギーの欺瞞性を暴露する事態としてライブドア問題を取り上げてみたい気分なのです。

単なる一過性の不祥事としてではなく、「改革」に内在する反福利、反人権的な要因をさらけだす事態として、取り上げるわけですが、この場合本当は、「改革」ではなく、「改革」という資本主義の姿が問題であり、欺瞞性は資本主義システムに内在する欺瞞性の小泉的形態というべきなのではないか。

そうも考えるのですが、ここでは深入りせず、

「『努力したものが報われる社会を』と叫び続けた怪しげな政治スローガンの真意が、実は一攫千金の成金や富裕層優遇を正当化するレトリックに過ぎなかった」

と内橋克人が書いている(「錬金術を政治が後押し」『朝日新聞』1/21朝13頁)のに「インスパイア」され、真似してみました。

「『努力したものが報われる社会を』と日本が怠け者天国であるかのように叫ぶスローガンが、金融賭博師を優遇するためのレトリックに過ぎなかった」

「『努力したものが報われる社会を』と成果給賃金を推し進めた企業の真意が、実は人件費削減を推し進めるためのレトリックに過ぎなかった」

「『民でできることは民で』という単純で幼稚な合言葉の真意が、実は天下り官僚の勢力拡大と民業圧迫を推し進めるレトリックに過ぎなかった」

とか、

「『自己責任だから本人が悪い』というレトリックが、政治の責任を覆いかくして個人を攻撃する材料となり、政治批判を封殺する野蛮な集団主義に用いられるだけではなく、長時間労働も、通勤地獄も、自殺大国化も、社会的貧困もすべて個人のせいにし、社会問題の解決を阻止するためのレトリックに過ぎなかった」

「『政府に頼らず自己責任で』という大人を幼児扱いするスローガンの真意が、貧困を個人の責任にして、不労所得(他人の剰余労働の収奪)も個人の努力の結果として美化するレトリックに過ぎなかった」

とか、いくらでも思いつきます。

人間の社会的つながりを無視した「個人」の想定は、他方で個人を抑圧する粗野な「集団」主義にたやすく転換します。というより、自己責任論という無内容な個人主義は、全体主義(ファシズム)の顔なのではないか。

この点考える余裕はないので結論。

寄生虫の腹がふくれるのは寄生虫の努力のおかげだ。寄生虫でない勤労大衆が貧しいのは、彼が寄生虫としての努力と才能がないからだ。自己責任論が語るのはこうした馬鹿げた話です。

ホリエモンの富が、架空のものを動かすことで引き出した他人の労働であること。架空の資本によって貯め込んだ、社会的労働の剰余にすぎないこと。ホリエモンがただの賭け事で、働かずして金を手にしていること。このことに誰もが気づいた。偶然的一事件が、成長し拡張する資本主義の強さとその肯定的契機(労働発展)に内在する欺瞞性を白日の下に晒したといっていい。資本主義の闇雲な成長が、他人の労働の吸収であり、資本主義の原理が資本主義の本質的な限界だということを、私たちはこのスキャンダルの中にかいま見ることができるわけです。私たち自身の社会的労働をどう制御するのか。ここに問題は集約されます。
by kamiyam_y | 2006-01-26 03:43 | 民主主義と日本社会 | Trackback(2) | Comments(0)

ライブドア機関誌など

「恩恵にあずかった。古い既得権益層の利益に新興企業が食い込めるんですよ」


割と取り上げられていますが、ホリエモンと自民党武部幹事長の対談。ホリエモンが小泉内閣の規制緩和・構造改革のおかげで儲かった趣旨を述べている箇所。ライブドアの機関誌『ライブドア』2005年冬号。

堀江ヨイショ豹変・武部に逆刺客|ZAKZAK 2006/01/19

当初からホリエモンを批判していたデイブ・スペクターも溜飲下げ気分爽快でしょうね。なんてことよりも、企業の「コンプライアンス」とか「企業倫理」、「企業の社会的責任」って、国の法律にとどまらずに、企業社会がその正当性を担保するために、企業経済の共同的性格、公共性をどのように維持・実現していくかという課題に切実に答えなければならなくなったという時代的水準を示しています。

メールマガジン「PUBLICITY」(竹山徹朗・No.1293 2006/01/24火・申込先http://www.emaga.com/info/7777.html・ブログhttp://takeyama.jugem.cc/)が、自らのホリエモン論の変遷を辿って考察している(「本誌のホリエモン評価の変遷」)のも、この1年の総括となっていて、有益なサイトも紹介されており、一読の価値があります。

▼ 法務省のHPに、共謀罪について教えてくださるお知らせがあった(「組織的な犯罪の共謀罪」についてお知りになりたい方は,こちらへ(2006/1/20))。日本独自のお裁きらしい。

▼ ここに補足。日刊サッポロ「ライブドア潰しに協力した外資系金融」(1/24号・23発売)によると、「M&Aでしっかり稼ぎたい投資銀行にとって、1人で市場を引っかき回すホリエモンは、ほとほと困った存在だった」。企業売買ビジネスの展開にとって、ホリエモンが消去すべき攪乱要因、切除すべき病変部分であったことを伺わせます。

▼ 昨日の夜1時間雪の中を歩いて帰ってからテレビをつけたら、真鍋かをりと爆笑問題のトーク番組で、桜沢エリカが「出産」「子育て」をテーマに面白いことをいってました。子供を産むと女性ホルモンがバーッと出て、立て直しになるらしい。子供生んだらダイエットしなくても体がしまってくるし、みたいなことを楽しそうに語ってらっしゃいました。バブリーな印象だった桜沢さん、今までとは違う自分を楽しんでいる様子。

彼女、自分の家で看取られたいから、生むときも同じく自宅で、と考えを述べてました。病院だと20分の時間短縮のために鋏で切開されるのだと。

子供生んでダイエット、子供生んだ女性は美しい、若い女性はダサイ、というイメージ戦略で少子化からの脱却できないでしょうか。その前に暇と金が必要か。いや愛か。

真鍋かをり、風呂組てもなんか調子下降気味そうでした。
by kamiyam_y | 2006-01-24 12:31 | 自由な個人の権利と国家 | Trackback(1) | Comments(0)

後進性の象徴としての小泉氏的熱病

▼さっき逮捕されちゃいましたね(毎日)。

 氷点を超えることのない日が続いています。帽子やフード、マスクがあれば完璧ですが、マフラーと手袋だけでもとりあえずかなり暖かいです。マフラーも2枚重ねたりするとかなり違います。

そういえば一昨日のセンター入試のリスニング試験、予備校ではICプレーヤー操作の練習をしたらしいですね。こりゃ金のある家庭に有利でしょう。しかも聞きづらいと受験生が訴えたら本当かどうか確認しなかったり(南日本新聞)、逆にプレーヤーの不具合があっても再試験をうけていない受験生もいるようだし(朝日)。リスクをかけて実施する意味があるのでしょうかね。出荷された機械に不良品が混じっていないと想定するのもどんなもんか。

米産牛肉をめぐる日米の「摩擦」は、国際社会を鍛え上げていく上でとてもいいことです。今回の「特定危険部位混入」問題では、野党は徹底して小泉政権の米国追随を批判し、その失政の責任を追及してほしいもんです。

▼さて、憲法の意義は、内向きかつ後ろ向きの政治スローガンを正当化する点にあるのではなく、グローバルに展開する現代社会において立脚すべき批判と構築の《原理》である点にあります。小泉氏の政治も近代の憲法的原則に照らして徹底的に批評されなければならないと考えます。社会のすすむべき選択肢を発見しそれを定式化する営みにおいても、小泉政治について考えておくことは不可欠です。小泉劇場については9.11総選挙前後に考えたこと、感じたことのいくつかを記しましたが、またちょっと書きたい気分になったので、少しだけ記しておきます。

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市民の学習過程としての変人熱望

靖国、イラク派兵に端的なように小泉氏の答弁は対話の否定である。対話を拒否する変人を熱望する人々が大衆の一部分にいるのならば、それはそうした未熟な要因こそが民主主義的環境から突出して力をもつ権力を生みだすといっておこう。対話の反対を暴力という。権力の濫用と肥大を、暴力を必要とする社会はそれだけ未熟で非人間的である。

収奪される人が、彼らの収奪を進める政治を支持し、強者の論理を弱者が支持するという局面を、小泉氏が、大衆への語りかけによって被い、農村から都市へその支持基盤的弱者を変更したともし借りにいいうるのであれば、また、それを転換と呼びたいのであれば、彼は自民党政治を転換したといいたい人はいえばよい。まったく彼は自民党を壊すといいながら、そのなかの足の引っ張り合いを全体として否定したわけではなかった。

しかしこうした小泉氏の劇場なるものも、大衆の発展の過程が辿る瞬間的な局面にすぎない。形の上で合法的であっても内容的に暴力である要因によって歴史が進展してきたことはいつも通りかもしれず、小泉政権とは米政府の「年次改革要望書」のことなのだから、日本社会の変化がつねに「外圧」から来ているという歴史が、また繰り返されているだけかもしれない。

とはいえ、時代の進展が常に敵対や破壊や暴力を伴うからといって黙っていられるほど、私たちは無知ではなく、歴史のなかに私たちの民主主義の深化の努力が浸透していくことを私たちは知っていもいるし、そのことを絶えず学び続けてもいる。

グローバル政治における後進性の象徴

小泉氏の米国追随とアジア外交毀損にも、小泉政治が日本社会の後進性を象徴していることが見いだされる。

大量破壊兵器の情報が誤りだったことをブッシュが認め、大義の揺らいだ戦争だったことがハッキリしたにもかかわらず、派兵によってブッシュに応じた姿勢を反省したことは一度もない小泉氏であるが、米国に追随して日本の憲法を真摯に実現しようとしない欺瞞的な態度は、国内民主主義に対する侮蔑であろう。国際的安全保障の創出という地球的な公共性の実現のために武力管理の国際的ありかたについて智慧を出していかねばならない時代に、米軍の一部として戦争に荷担していくことが、国際化の真のありかたにとって、またそこで果たす日本の役割と日本の憲法の先進性にとって、どういう意味があるのか、議論をすることが日本の民主主義を発展させるはずである。

米産牛肉輸入再開と特定危険部位混入による輸入停止という局面に見いだされる問題にも、国際化の真のあるべき方向からは遅れているありかたが露呈している。

日本という共同体が国際社会より水準の高く、国際的にも妥当させるべきルールを持っているのならそれを主張し、国際的ルールの不十分な現状においては、米国に対しても、日本の政治が日本の独自の共同性を守る政治的使命があることを主張しなければならない。

小泉氏の米国べったりの姿勢は国際化の進展に歪みをもたらすものだが、アジア外交も同様である。ここで顔を出す古さは、戦前的な史観を信奉するような社会病理だけではなく、排外的憎悪の吸収というグローバル化のもたらす摩擦を含んでいるように思われる。共同体の畜群的水準を示すにすぎない排外主義的言説という無媒介な意識、想像力欠如を取り上げる必要はない。ここでは小泉氏の外交の著しいアンバランスだけ指摘しておけばよいだろう。

小泉氏の態度が、米国向けの貌とアジア向けの貌との対照をなすのは、おそらく、偶然的な彼の思想や彼の選挙利害や彼の個性的態度が絡んでいるために、米国中心の経済的諸関係に依存している日本経済の位置を反映しながらも、アジアを含んだグローバル経済の諸関係や、アジア経済における日本企業の利益を反映してはいないからである。もちろん参拝(註1)はアジアのみならず、講和条約の秩序を裏切るという性格を帯びて、ドイツや、アメリカ、シンガポールを始めとする各国からの批判に晒される。


小泉路線は、新たな権力の増大を意味している

小泉氏による古さとの対決姿勢は、それが新たな権力をさらに解放することによって、逆に小泉政治を古くしてしまう要因を含んでいるのだろうか。というのは、小泉政治は利益政治の終焉などでは全くなく、利益政治の形態転化上のものではないからだ。その転化がもしも、産業の地域的分裂を前提にした地域ボスの存在、古い共同体的秩序に載っていた古い自民党体質から、全国的でグローバルな企業の利益を公然と主張するものへの転化であるならば、それは私たちにとっていわば民主主義をすすめる闘いの相手、対象を特定してくれる役割を果たす。残忍な政治はだから進歩的だ。

小泉政権は「小さな政府」などではなく、巨大な専制の支配を解放する。それは小泉専制政治という意味だけではなく、企業社会という巨大な権力を解放するという意味でだ。橋本派ヤミ献金疑惑のように、金権政治は続いている。小泉氏が企業献金廃止を論じたことはない。企業による政治献金は、最高裁で合法化されようとも、憲法の原理に反する非正統な行為であって、この点からいえば、小泉改革とは企業権力の解放である。

小泉氏の支配とは改革ではなく改革の収奪である

議論の大前提として踏まえておくべきは、近年の日本的システムの分解や再生とみえるものが、高度成長期に日本で資本蓄積がすすんでいく際の有効な環境であった共同体的なものが、社会的労働の発展にそぐわない外皮に転化したということである。あらゆる分野ですすむ改変は、古い秩序が変形されて高度成長の軌道を準備した時代が本格的に終焉したことを意味しており、小泉氏の登場も、日本社会の抱える問題の多くのベースを形作っている、「共同体崩壊」という局面に乗った歴史の1つの姿にすぎない。

だからこそいわねばならない。小泉氏の政治とは、変革ではなく変革の簒奪であると。簒奪される内容には肯定的契機もむろん含まれていよう。郵貯事業や政府系金融機関の改変・統廃合など本当はもはや古い問題というべきだろう。日本が築いてきたシステムを、グローバルな諸関係の発展に対応して組み替えていくという課題を遂行することがファシズムであってはならない。民主主義と憲法を蹂躙してはならない。

郵政民営化「法案」反対者を郵政民営化反対者にしたてあげ、それを、地域ボスの利権政治・派閥政治の蜜を吸う者と一括りにし、それを「世間」「改革」に反対する者として悪玉にして排除し、自らを全体利害の代表者にみせかけ、本来解散権濫用を批判されるべきなのに憲法よりも自分こそが民意であると自称して、参議院を反社会的集団に落とし立法府の原理的な至上性を踏みにじり、権力の執行部隊を民意に格上げし、自分に賛同しない者を「抵抗勢力」(=「反革命分子」)として血祭りにあげる。テレビは最大のプロパガンダの手段だ。

郵政民営化反対論が負けるべくして負ける議論という要素を含んでいるためにレッテル張りは有効で、テレビ・ファシズムともいうべき大メディアは、小泉氏のワンフレーズの政治に飛びつきそれを安物のショーに仕立てて、輿論を誘導し、小泉氏による政治局面の創出に大きな力となった(註2)。景気回復が小泉改革の成果だなどとする主張もおべんちゃらにすぎず、小泉政権下で名目GDPは回復しておらず、景気回復基調は外需の貢献であると高杉良が述べている(『月刊現代2月号』)のがおそらく真実に近い部分を言い当てている。小泉政権下で赤字国債は250兆円発行され、高失業社会の本格化していることすら大メディアは正確に伝えていない。

《反-個人》主義つまり全体主義としての小泉政治

小泉氏の言動は日本の市民社会の懐の浅さをよく象徴している。最も端的なのは、イラク人質事件における「自己責任」バッシングを扇動したことだ。およそ彼の思想には個人の尊厳という近代の原理が決定的に欠如している。個人を原点にしないがゆえに小泉路線は、資本という疎外された共同性を暴力的に押し出す。「新自由主義」は個人の自由の社会的実現ではなく、個人から切り離された個人の共同性の独立化にほかならない。


註1 最近ナベツネが「市場原理主義」と「靖国参拝」を批判している(『月刊 現代』1月号)。また、経済団体がアジア外交行き詰まりに懸念を表明している(首相のアジア外交「変えてほしい」奥田経団連会長2006年01月05日19時30分http://www.asahi.com/politics/update/0105/005.html)ことは、小泉外交がアジアにおいて経済的利害の平均を捉えていないことを意味している。。

註2 宮沢喜一元首相「熱狂の上に民主主義は成り立たない」(『世界』2月号・聞き手国正武重)「これだけ大きな国で選挙をやるわけですから、財政もあれば、社会保障もあれば、外交もある。テーマが1つだけなんてことはありえません。……テーマが正しく知らされなければいけないと思います」「衆院解散は一種の劇場的な出来事ですから、瞬間的にそれに飲み込まれてしまう。『良い、悪い』という議論がなかなか出てこないのが常ですね。それでも誰かが議論するかと思ったら、そういう議論が出てこなくて不思議でした」。 
by kamiyam_y | 2006-01-23 21:51 | 民主主義と日本社会 | Trackback | Comments(0)

「資本市場」の公共性

ライブドア報道に託けて書いたこと(→ここ)に補足です。

やっぱり「日経」に「日本版SEC」を!という社説が発表されました(1/22朝「今こそ本物の『日本版SEC』をつくれ」)。予想した通りです。現代の経済的諸関係が生みだす意識の1つとして妥当なものと思いました。

アメリカのSEC(米証券取引委員会)は、政府からの独立性が強く、準司法的な権限を与えられた「市場」の監視人であり、「マネー市場」の公共性を担保する組織です。

これに対して、強大な準司法的権限をもつがあったって「エンロン事件」は起きたではないか。所詮は資本主義は犯罪を呼び起こす、公共的関与など本質を隠す幻想にすぎない。こういうひねくれた考えというか、敗北を愛好する趣味もあるでしょう。逆にこれこそ今のシステムの安定性の証明だと資本主義をそのまま代弁しているだけの意識もあれば、これこそ現在は資本主義から脱却した新社会になった証しだとする幸せな空想もあるかもしれません。

詐欺は商品交換がもたらす《法》において最も許されざる犯罪であろうから、これを野放しにしては《市場の正統性》を担保できません。だから資本主義は詐欺に対して本来容赦ないです。ルールを守って競争しなきゃ不公平です。不公平には資本は敏感です。国の関与を積極的に求めていきます。これ自体すでに矛盾です。

しかし、現代はそこにとどまっていません。現代は「詐欺」1つとってみても、資本の姿として意味をもち、新たな形を与えられています。現代では、資本主義とは関わりない商品売買につきもののの詐欺が存続するだけではなく、詐欺が現代の資本の形態として意味をもって、新たな形態を与えられて発生しています。

巨大資本が孤立した消費者に対して、情報を隠す。科学を独占した資本が、消費者や労働者に対して権力として現れる。詐欺だって現代的です。

現代的な詐欺に対しては牧歌的で古典的な取締ではなく、現代的な組織が必要です。

食の安全の検査組織もそうですし、SECもそうです。

こうして詐欺に対する対処が資本主義の正統性を修復するとともに、絶えず発生する詐欺へのシステム的な圧力が、この対処によって明確になってきます。しかも、自由な市場を守るためには、組織による管理が必要になっています。資本主義は資本主義の私的経済としての諸前提を分解するような作用によって存続しています。

ですから、システム自身の浄化機能が高度化していくことを、資本主義の強さの1つと考えれば、その強さこそが、《正統性》の亀裂を拡大しているのです。資本の発展が資本の矛盾の噴出です。

「エンロン事件」も企業改革法を始めとするシステムの健全化機能の活発な発動を招きました。この強さこそがいってみれば「新自由主義」の弱さの1つです。

公正な市場という市場的理念は、公共的関与を排除する私的利益への信奉と市場の自動調節への信奉をくつがえすことによって存立してます。

そもそも「神のみえざる手」とは、労働の関係が共同体の意思から脱落して物の運動として(=「経済法則」)疎外されている《生産関係の物象化》を、地上に天国を見る調和的な幻想において表現された姿です。それは生産関係の物象化であり、交換による社会的生産の事後的成立であり、社会的総資本の再生産と流通を本体としており、また何といっても、それは資本の競争場面として実現されることによって、それがじつは「ありえないこと」を露出します。労働の社会的発展を諸個人が自ら制御していなかったことは社会問題としてあらゆる局面に吹き出てくるわけです。

民間企業的世界の公共的コードの網の深化は、いうまでもなく単純な「自由市場」イデオロギーの復古的実現ではありません。資本の「自由な」展開、つまり偶然的な利害の衝突、私的利益(価値増殖)の解放は、私的利益追求に調和の原理を見いだす「自由市場」イデオロギーとは別の公共的水準を要求しています。

「新自由主義」は、自分を分解していく諸条件に必然的に依存しているのです。それは自立した完結したシステムではありえず、過渡的な通過局面にすぎません。資本主義がそもそもそうなのですが、「新自由主義」という資本主義の現代的姿は、あくまでも巨大ではあれ1つの姿にすぎず、相反するような姿を必ず引き寄せ、それを拡大するのです。

資本主義の発展はどこを取ってみても《文明化作用》の強制だと書きましたけど、いったんこういう超マクロな映像を通過してから、証券市場の日々の事実を観察してみるとまた違ってみえてくるはずです。
by kamiyam_y | 2006-01-23 13:29 | 資本主義System(資本論) | Trackback(1) | Comments(0)

「資本市場」という共同体。「市場」の健全性もしくは金融資本の公共性-ライブドア報道に寄せて

鳥取人権条例、「片山善博知事は『弁護士の協力が得られない現状では、条例を見直さない限り事態は動かない』と説明」したとのこと(「県人権救済条例『修正不可避』強まる」朝日新聞2006年01月13日)。こういう条例が通る後進性を嘆いても始まらない。反対の声による効果がここまで来たわけだ。

センター入試で厳戒態勢。明日も仕事じゃ。昨日今日と吹雪からは解放されていますが、寒さ厳しい札幌です。受験生とともに大雪の降らぬことを祈るばかり。

講義の感想に「サラリーマンをバカにして、傲慢で大嫌い」というホリエモン論があったのを思い出し、メモを記しておきたくなりました。

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耐震強度偽装問題で今最も強烈な情報源「きっこの日記http://www3.diary.ne.jp/user/338790/」 がライブドア家宅捜査、事前に情報が流されていたことを述べている(2006/01/18 (水) オジャマモンとホリエモン)。これでもってもちろんこの検察の演出の意図と効果を論じることはできないし、偽装問題でのあまりに素早い公的資金投入とこのこととの連関を断定することはできないとは言え、この連関についての自由な仮説は成立するだろう。

偽装問題については、その原因究明・責任追及に先だつ公的支援策が政治家・官僚・天下り役人の癒着した部分、真の責任者に対する追求を遮断するためだろうということはすでに論じられている(例えば、上杉隆「偽装 本当の黒幕は?」朝日新聞1/21朝b2、等)ので、ここでは「ホリエモン」捜査のおかしさをまず指摘だけしておきたい。ネット上には冷静な見解がすでに提出されており、格別付け加えることもないのだが、指摘しておく。

一昨日の『朝日』の夕刊では「メールを追え」という見出しのもと、検察がライブドアのメールを収集するお話が載っており、「○○警察24時!」のようなテレビ番組を連想させられた。「疑惑」とやらだけで好奇心という劣情を煽る後進的な大メディアは、権力を大衆が制御するために必要な近代社会の大原則である「推定無罪」を否定するにとどまらず、広汎な影響力をもつ事実を扇情的な情報によって市民から遠ざける。

市場の混乱はライブドアではなく「容疑段階」での「マスコミ」の報道にあり、「テレビのコメンテーターたちが『倒産もありうる』などと平気で口にしているのは、それことまさに『風説の流布』」であって、「窃盗罪(懲役10年以下)より量刑も軽い証券取引法158条違反(懲役5年以下など)で、あのような検察のPR的突入は異様である」と日垣隆が書いている(『日刊サッポロ』1/20号・19日発行)。しかも日垣によれば、「ライブドアに対する家宅捜査がなされたその日にも『1株を20分割』した大企業も」あるという。まったく「家宅捜査や逮捕されただけで、推定無罪を忘れて当局の言うなりを盲信してしまう人々に、栄光あれ」といいたくなる。

マスメディアによる人権侵害
無罪を推定されている被疑者に対する犯人視報道、実名報道など一般市民に対するプライバシー侵害……。
(「人権」Wikipedhia、20050120取得
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%BA%E6%A8%A9


推定無罪 http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/daiyookangoku.html
http://www.nichibenren.or.jp/ja/humanrights_library/treaty/liberty_report-4th_jfba.html

ホリエモンのような人物を小泉、竹中が盟友とみなしていたことを追求するのはよい。また、ホリエモンの登場と今回の不祥事(?)を、アメリカの要求による、あるいはアメリカ風の会社法改正や、証券市場の規制改革の結果であり、アメリカ流の儲け主義路線、短期的株価至上主義、貧富の差を拡大する大企業の自由を保障する政策、マネーゲーム階級という寄生虫を英雄視する風潮の帰結であると捉えることもよい。「新自由主義」批判の一環としてライブドア問題を啓蒙材料に使うのも許容範囲内だろう。

ただし、である。社会的関心と批判的な意識をもった高品質の主張であっても、検察のショータイムに対して何の疑問も持たないように見える議論があるのはどうかと思うだけだ。大メディアのバッシングへの大合唱へ転換くらいは批判したらどうだろうと思う(『日刊ゲンダイ』はかなり扇情的で面白おかしく書いてはいるが、この点の批判は提出している)。弱肉強食を放置する抽象的な自由主義を批判する「リベラル」や、オルタナティブを探る意欲的な運動、諸個人の民主主義と人権を徹底する運動なら、メディアを用いた情報操作、プロパガンダ、人権侵害に対して敏感であるべきだ。

組織犯罪に対する生命防衛という共同利害を建前として権力が個人の人権という近代的原則を浸食していく。先進国に進むこうした9.11以降的な「監視社会」化をこの国の後進性は加速する要因なのだろうか。

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ライブドア報道から離れて、せっかく検察が「資本市場の病理」を想起させてくれたのだから、「新自由主義」に対する理論的対置という大問題に関していささか教科書的に、なおかつただの思いつきも混ぜて、一般的な覚書を記しておく。

問題圏としての新自由主義

もしも、不正経理、粉飾決算、虚偽情報による市場操作といった金融系犯罪が発生する原因を、庶民の賃金破壊と低金利、金融市場の国際化、アメリカ的な株価至上主義的金融システムによる浸蝕、ネットを利用する個人投資家の増大、そうした変動に求め、金融犯罪を「新自由主義」と「小泉構造改革」の欠陥!と主張するのならば、それは、与党に対するレッテル張りとしては明快だといってよいかとおもわれる。こうした批判は必要不可欠でもあるだろうし、もっとも収奪される層が収奪する路線を拡大する政治家を支持する、そんな流れを変えるためには、批判的運動の側もキャッチしやすいフレーズは必要であろうが、問題はフレーズの中身である。

ライブドア問題は儲けのためにはなんでもありとする新自由主義の誤りであり、小泉政権の失敗の証だ。

小泉批判のために何でも利用するのはいいのだが、これだけなら最初から敗北宣言をしているような印象を受ける短絡的な批判である。

資本主義の現代的姿態としての「新自由主義的」変貌を、こんなチンケな不祥事ごときで批判できると捉えることができる人がいるとすれば、その人は人間の歴史をよほど薄っぺらなものと考えているにちがいない。あるいは、こんな人には、資本主義って、労働の到達点なんですから、もうちょっと奥行きのあるもんでしょう、と教えてやらねばなるまい。
資本主義の新自由主義的展開の中に何も肯定的なものも、進歩的なものもないとしたら、そもそもそんなもの批判する意味もない。

株価つり上げ、金儲けのためにはどんな手でも使う新自由主義的行動が不祥事の原因であると割り切ることは短期的局面で用いられる政治的ロジックとしては有効でも、射程を拡げてじっくり考えるとかなり複雑な問題を孕む。

さしあたり分るのは、金儲けという原理は、新自由主義ではなく資本主義そのものであることだ。資本主義というシステムの原理という意味を貨幣はその増殖競争においてもっている。

しかも、貨幣の自己増殖という原理がそれを批判する諸要因を生みだす。資本主義は一方で福祉国家的分配管理の正当性を解体し、資本の自由を最大限拡大しようとするとはいえ、その資本全体の利益として、資本の行動を社会的認知に照合させる正当化装置や、市場の規制・制御のツールを日々つくりだし、鍛えている。ルールは資本の資源である。

そしてなおかつ、そうしたルールを含んだ総体を貨幣の自己増殖が貫く。民主主義やルールが浸透できない壁として、あるいは、それらの実効性の限界として貨幣の自己増殖が現れ、自らを批判対象、制御の対象とする。

環境が生命という化学反応の循環運動を生みだすのと同じように、利害の衝突は、資本としての「経済」という高次の能動性を生みだす。この能動性の運動が連関を編成し、人権として理解されるような人間的な世界と対立して現れ、その制御対象となりながら制御できない運動として不断にリアルである。

単に一時的で偶然的なルールからの逸脱は、資本主義システムの存立から切りはなしてそれ自体としてみれば病理にすぎない。個別的な病理によって、消え去る1事件によって、資本主義を、新自由主義を批判をするのは、かえって一時的な要因に拘束されることを意味するのではないか。問題はその背景であり、背景の中に潜むシステム的な矛盾(例えば民主主義と資本主義との衝突として理解されるような企業主義や環境破壊の定着)である。

より危惧すべきことは、資本主義という人間の力を、社会的労働の力を、あたかも悪意の存在か何かのように捉えるカリカチャーが結局疎外だということ。理性的で力強い批判こそ相手を包摂できるが、恐怖感メインの批判は相手を存立させてしまう。

私の思いつきだけ述べれば、解体運動としての新自由主義という資本主義の強靱さそのものが資本主義の終焉を絶えず告知しているといえる。資本主義のもっとも強い部分にこそもっとも強い批判が潜んでいる。資本主義の強さこそが解体的なのだ。金融不祥事のような噴出する病理はそれ自体批判しやすい弱い部分である。

新自由主義という場合その定義をあまり曖昧にせずに、小泉ファシスト劇場、政策としての新自由主義、様々の新自由主義思想、アメリカの覇権、資本の世界市場展開、国家の変容、資本主義の現段階、といった要因は区別しておく必要があるだろう。

少なくとも、貨幣の威力の病理的露出としてのエンロン事件のようなスキャンダルと、非人間的な生産を原理とする資本主義システムとを区別した上で議論しておかないとまずいと思う。さしあたりいっておけば、そうしないと【病変した部分をルールによって切除すれば、やっぱり政策はいつも正当、社会の現段階も永久不滅】とする理屈と同じになるからであり、詐欺行為によっては規制緩和論・構造改革への批判にならないとする理屈をとりあえず許容することになるだろうからだ。

非人間的システム原理と制御の進展

「不祥事やスキャンダルは日常茶飯事の出来事である。エンロンやワールドコムは異常な事件ではないのである。不祥事が起ころうとも、システムは健全なまま維持されてきた」(レスター・C・サロー『知識資本主義』三上義一訳、ダイヤモンド社、2004年、71頁)。

「不祥事は資本主義特有のものだが、それに対応する方法は二つある。まずは正しい答えであるのだが、小口投資家たちに、市場は操作されていて、大口投資家や内部関係者とフェアに競争しているのではないと警告することである。資本主義とは『ポジティブサム』、つまり参加者がみな何らかの分け前にあずかることができるカジノであり……」(73頁)。


資本(現代社会)というシステムの最も強靭な存在理由におけるシステム自身の批判の声を聴き取ること。そうだとすれば、病的現象がシステムを批判するのではなく、それを浄化するシステムの清浄化装置、システムの健全化能力・抵抗力・免疫力そのもの、文明化作用の蓄積が、逆にシステム自身を批判する契機として現れる。「健全」なシステムこそが非人間的なものを原理とし、非人間的なシステムが非人間的システムにとどまらない人間的原理を、理性的な制御を要求する。

資本主義(新自由主義)ではルールは無駄、それみたことか、とか、清浄化をたえず要する非合法的要因が生まれるからけしからん、では飲み屋の無駄話である。資本による文明化作用の最高点において、到達点と限界とが現れている。

システムとしてみるならば、市場主義的局面は市場主義に反する契機なしには存立しえない。市場は一種の公共物として認知され、規制や管理の蓄積と発展は不可欠になっている。この最先端の事態こそ、システムに内在する矛盾である。「市場主義」はそれが反対する議論と裏で手を結んでいる。市場主義は一本立ちできないイデオロギーにすぎない。市場管理の有効性や権力の行使の民主性という問題が生じるとしても、それも発展の一過程と見るべきでろあう。

法を守ればすべて個人の利益追求が全体の最高の福利をもたらすとする「神の見えざる手」的な前提を、システムの自浄作用は否定している。それは、法律の整備に限らず、市場をうまく走らせるためのある種の設計を実行しようとしているのだからだ。

「民営化」だから歴史の逆行なのだ、ではなく、それは問題にならなかったものを問題にまで高める契機であり、問題化することが社会の到達水準を示しており、民主主義を深めていくための非民主主義的対象を明らかにしたと考えるべきである。

企業売買の先進性

マネー(利子生み資本の諸形態)についてさらに付け加えておきたい。

我慢して満員電車で通勤している人を、ぼくはまったく理解できません、といった発言に見られる堀江氏の無知、真面目に汗を流すサラリーマンを小馬鹿にする傲慢な態度に憤慨するとしても、こうした無知はわれわれの、共に呼吸する空気に含まれる成分の一部が結晶したものにすぎない。他人のカネでカネを引き寄せる暴力に熱を上げるこの手の自慢屋は、金の奴隷であることに気づかない分だけサラリーマンより愚かであり、不労所得の捻出行為に囚われている、社会の老廃物にすぎない。サラリーマンが自分の労働によって他人の具体的な欲求を満たす有用物を創造し、社会的分業の実体的な一分肢を形成しているのとは対照的である。彼等のビジネスとは、貨幣の《利子生み資本》としての社会的集中と社会的配給という機能に付随する賭博行為にすぎない。「きっこ」が「寄生虫」と呼ぶ(006/01/18 (水) オジャマモンとホリエモン 2)とおりだ。【自分の労働が正しい所有のもと】とする近代の起点が保持されているならば、当然金融賭博師の存在は、その違法行為や非倫理的行為以前に不労所得を意味している。

株式会社における私的所有そのものがシステム的に不労所得の公開であって、賭博師によるゼロサムゲームの奪い合いはそれを前提にして存在を許容されている。

「金融サービス業」においては「自己勘定取引」が「主たる業務の1つとなった途端に取引ではなくギャンブルとなる」(P.F.ドラッカー『ネクスト・ソサエティ』(上田惇生訳・ダイヤモンド社・2002年・191頁)。

「この30年間、金融サービス業で行なわれたイノベーションは、科学的と称するまがいもののデリバティブだけである。しかも、それは顧客へのサービスのためのものではない。……モンテカルロやラスベガスでの確率無視の必勝法以上の代物ではありえなかった」(194-195頁)。


ライブドアの奇策がどんなものであれ、その本質は19世紀の西欧に生息していた金融詐欺師、金融貴族の類と変らない。ドラッカーが事実上主張している内容は、先進資本主義国における利潤率の傾向的低下の歴史的意味にスライドできそうな気もするが、ともかくいえるのは、複雑な科学的な装いを持っても、金融ギャンブルは生産的ではないことである。

ヒルズ族といっても所詮は泡に生息する昆虫だ。この昆虫の餌は、労働者の労働。労働者が暮していく上で必要な消費財の価値を超えるような余剰の生産物(剰余価値)、それを請求する権利を売買し蓄積するのがこの虫たちの役目だ。

《架空の資本》の増殖がこの虫たちの棲む地帯である。泡は所詮泡である。

有価証券の市場で流通しているのは、生産過程の現実資本の外側に排除されている私的所有権だ。それは、労働者を社会的生産過程から排除するとともに、そこに結合する命令権であり、労働収奪権である。といってもそんな権利が一義的に存在しているわけではなく、発展した現実の諸関係において法的関係がそうした非正統な関係を認知する様式として作動しているということだが。最も発達した資本主義において労働の疎外という原理が露出している。

この労働は私的所有をすでに資本主義が実質的に不要としているほどに生産を社会的なものとして創り出した。社会的なものを基盤にして労働疎外の産物である経済的な余剰が、金融賭博師という昆虫によって吸われているわけだ。

私的所有にもとづく会社運営という理念は、資本主義の表層において妥当するだけであって、それが現実の発展した諸関係において妥当したことはない。経営陣による「株券」の自在な刷り増しは、個人株主を増大したとしても、株主が会社民主主義の主体であるという法的正統化理念は空洞化を避けられない。「株式分割」において、私有による自治という近代の約束事は完全に忘れ去られている。株式は私的所有者がつくるコミュニティーへの参加権だが、株主総会の形骸化は誰もが認める事実であり、自由な私的所有者のコミュニティーは存在していない。

グローバル資本主義の成長はこの傾向を促進する。会社と会社の結びつきの様式の変化は、私的所有権を接着剤にしていはいるが、私的所有者による制御も支配も廃棄していく。資本の包摂運動は地球的であって、それが会社形態も組織運営も、変革していく。

企業の「統廃合」を容易にする商法改正は、民間企業の民営化であって、それは株主民主主義の空想性の暴露をグローバル経済が推しすすめることであり、ちょうどこれは、グローバル経済がナショナルなレベルの民主主義的成果を空洞化するのと似ている。あるいは、企業の連結の姿の改編は、個々の支配的意志による覇権を経済の連関が突破することであり、これは経済の連関が、高度成長をささえたムラ的覇権(土着的な政治)を分解していくのと似ている。私的所有という社会的承認を分解し、顔の見える資本家を廃棄物のドラム缶につっこんでいく資本の社会的生産体系の発展は、土着的な支配者の正統性を奪い、地域ボスを通じた成長を不合理なものとし、局地的専制を炎で焼き尽くしていく。資本の発展はどの部分をとっても、それは《文明化の作用》である。それが悲惨な形であっても。あるいは悲惨に抵抗するという契機を含むという意味でも。地球規模での不調和は一個の産業資本の内部の敵対関係の再現である。

論じる余裕はないが、市場的諸理念(交換的正義等々)が資本主義の現実的諸関係のなかを妥当しないというシステム的な矛盾が現代を定義している。権利と権利否定する社会的力、社会的管理と管理否定的利害衝突(物象化・無計画性)といった反撥しあう領域を反転する運動において資本は呼吸をしている。矛盾の発現はもちろん多様だ。

いまや、生産体の、生産体の外での連結がビジネスとなるまでに、生産過程が社会的生産過程として成長している。企業売買ビジネスは管理労働の社会化を表現する活動である。豊かな生産力の発展が実現しているが、それは不安定で、本質的に制御不能なものとして発現している。

賭博師の存在は生産体の自由な廃棄、分裂、集中を不可欠の契機とする資本の社会的生産の発展を意味しているだけだ。彼等が手にするのは社会的労働の剰余だ。彼等の存在は、社会的労働を労働する諸個人が制御できない非正当な形で社会的労働が発展していることを前提にしている。この制御できないというシステム的原理こそ現代自身が不断に立てている実践的課題の対象ではないか。

何が問題なのだろうか。株主民主主義の解体は、経済そのものを、民主主義の対象として私たちの眼差しの捉える空間に浮上させている。福祉国家の空洞化は、グローバル経済を「われわれ」の対象として民主的対話の空間に晒しだしている。「人間の安全保障」「人間開発」「持続可能性」といった国連的理念は、「人権」「民主主義」「平和」といった理念を実質とする現代社会の綱領であって、それが含んでいるリアルな意味合いは、システムの矛盾の先端が形態化する民主主義の深化の運動にある。「万国のプロレタリア」という福祉国家以前的なスローガンが、20世紀をはさんで、形を変えてリアルに復権しているというべきである。

民主主義の主体は人権的主体である。人権という関係が指すものは人類史において過渡的だろうが、働く人々の人権として社会システムを開発していく道は消滅したりはしない。

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ライブドアから壮大なスコラ論議、というより焼酎でも飲みながらするハッタリとデマカセみたいになってしまいましたが、結構まじめです(笑)。
by kamiyam_y | 2006-01-21 21:44 | 企業の力と労働する諸個人 | Trackback(1) | Comments(2)

北海道新聞と北海道警察 日本民主主義の試金石としての裏金問題

▼ ホリエモン騒動ですが、冬ですから少し頭冷やしましょうよ。おかしいですよ、今回のライブドア報道。次の記事をお読み下さい。

捜索前なのに「ライブドアを強制捜査」NHKは誤報と認めず(ガ島通信)

ライブドアの強制捜査(5号館のつぶやき)

▼ 日本の代用監獄制度は国連でも問題とされる、人権侵害の温床なのに。

警察の代用監獄、存続へ 有識者会議、容認が大勢 [ 01月13日 20時36分 ] 共同通信 Excite エキサイト : 社会ニュース

代用監獄の弊害事例1~同房者を利用した違法捜査(情報流通促進計画byヤメ記者弁護士)

日弁連、代用監獄で十分な議論を法務省などに申し入れ(日経)

▼ 前々回前回への補足です。

「警察」と「軍隊」は民主主義の基本課題であり、民主主義を鍛える対象です。強大な殺傷力をもった物理的装置を動かせる社会的威力を、市民は国家(政府)に預けています。市民はこの強大なGewalt(威力・権力)を自分たちの民主的合議によって運営しなければなりません。そのためにも、それが市民の権利を侵害していないかチェックすることは市民の権利であり義務というべきでしょう。

そのチェックのためには専門家が必要です。この専門家が市民ではなく警察の側を向いていては民主主義は死に体になってしまいます。

資本主義であるがゆえに報道メディアも金に規制され、売るために警察の顔色を伺い、その社会的責任を実現しにくくなります。しかし、だからこそそこに、権力による不正・犯罪を追求するメディアの陶冶、民主主義の陶冶もあるのではないでしょうか。警察の裏金づくりは、組織犯罪です。「手打ち」にすることは日本の民主主義の発展にストップをかけることでしょう。

前々回紹介した北海道新聞取材班による文庫本2冊はぜひ買ってほしいと思いますが、『追求・北海道警「裏金」疑惑』(講談社文庫・2004年)の「序章 すべてがウラになる」に載っているWikipedhia「裏金」をさしあたって見てください。ついでに警察不祥事なんかも。それから市民オンブズマン警察裏金・不正支出問題など。

道警による道新に対する圧力は、言うまでもなく今回の「おわび記事」にはじまることではありません。道新記者の佐藤一氏の論考「警察といかに向き合うか 裏金報道から得た体験的ジャーナリズム論」(『世界』3月号・第737号:p.143-148)が生々しい実情の一端を伝えています。

「私は連日のように、記事の説明を……道警広報課から求められ、……『事件情報がとれなくなり、社会面が干上がるぞ』……『おまえらのあら探しをしている。公安を尾行させるから気をつけろ』……などと言われた時は、さすがに根負けしそうになった」(p.146)。

「一方、道警内部では『道新にスクープさせたら、その部署は裏金情報も教えていると認定する』との引き締め指示が飛び、……記者個人を標的にした誹謗中傷は数え切れない」


すごいですね。警察労働者の社会的自覚のなさ、無教養ぶりには呆れます。

道警は道新による裏金追求をつぶすためのあら探しをきっとしつこくしていて、それが今回のおわび記事につながったのでしょう。

警察の巨大な権力は誰がチェックするのか。警察は誰のものか。いうまでもなく主体は市民です。日本国憲法前文の「われわれ」です。しかし、「警察はいまや『国家警察』の様相を深め、……巨大な権力を持ちながら、取り締まる者がいない。本来、警察をチェックすべき検察と公安委員会は無力に近い。だからこそ、ジャーナリズムが期待されるのだ」(p.148)。公安委員会は誰もが知っているとおりお飾りです(cf.元国家公安委員長の体験談)。

この論考ではさらに、高知新聞幹部が警察報道について語った言葉が出てきます。なかなかいい言葉ですので興味のある方は実物をご覧ください。

半年前に発表された、津田浩司「北海道新聞にかけられた北海道警の露骨な『圧力』」(『創』8月号・第35巻第8号・2005年7月:p.36-43 )も、道警が道新による追求をつぶそうとする様子を伝えています。道新記者を囲み取材から閉め出したり、広報対応で道新にはメモしか渡さず、お気に入りの記者には特別な情報を流したりするといったメディア操作、道警から事件事故情報を流してもらっている(朝日などの)「おもらいさん」の存在、今回の「おわび」につながる訴訟検討、昨年7月時点の人事異動など、警察によるメディア支配と、それを受容するメディアという構図を浮び上がらせています。

この記事で市川守弘弁護士が、こうした道警による道新外しを「知る権利」の侵害だと述べているのは、まさにそのとおり。市川氏の「最近の新聞記者を見ていると、他社より先に警察から情報をもらってくることばかり考えているようです」という批判に新聞各社はどう答えるのでしょうか。
by kamiyam_y | 2006-01-19 01:00 | 自由な個人の権利と国家 | Trackback(1) | Comments(2)

北海道新聞の明日は民主主義の明日

今朝(17日)の朝日新聞に「道新おわび 道警『法的措置も』記事削除応じぬ場合」というタイトルで、道警による謝罪要求がまだ続いていることが報じられていました(道内・16頁)。弱みを握られていったん屈服した道新側に対して、道警による恫喝がエスカレートしてきたようです。

「おわびと社内調査をまとめた同社の14日の記事について、道警は16日『納得のいくものではない』として問題の昨年の記事の削除と、社会調査記事の説明を求める文書を出した」


今回道警が不満とした道新14日朝刊のお詫び記事こそ、一読して不愉快きわまりない代物でした。私はこんなもののために道新を購読しているのではありません。権力の行使をモニタリングする、市民のための「情報の流通」を期待しているのに、何ということだろうか、と唖然とさせられました。(ついでに、道新がお詫び記事を掲載したことを報じる全国紙の伝え方にも、警察の権力に擦り寄ってる感じと、同業者叩きのようなニュアンスが感じられ、これまた不快感が高まりましたが、問わないでおきます)。

裏金問題を、警察による嫌がらせにも恫喝にも屈服することなく精力的に追及してきた道新。そうであればこそ、ここで「手打ち」はないでしょう。

「手打ち」の危機を、ヤメ蚊さんのエントリーを受けて前回のエントリーで取り上げた翌日に、これを証明するかのような「お詫び」でした。

この件を論じる下記のブロガー諸氏の主張や見解に本質的に加える情報や論点はありません。意見は多様ですが基本線は同じだと思いますので、ごらんになって下さい。私としては怒りだけ表明しておきたいと思います。

道新が記者を守れば、道民が道新を守ります(5号館のつぶやき)
道新謝罪記事掲載~(情報流通促進計画 by ヤメ記者弁護士)
道新が「自殺」した経緯~労働組合の報告から(同)
道警が攻勢に出てきた~道新謝罪問題で(同)
で、道新どうすんの?:「泳がせ捜査」記事でおわび(猫手企画@新聞屋)
北海道新聞、道警と手打ちか?問われるジャーナリズム(ガ島通信)
北海道新聞の危機(ハコフグマン)
≪真実の鐘≫は、誰がために鳴るのか?(訂正版w)(北海道どっと来夢)
続・監視されている気分(笑)(同)
今度は削除要請のようで…(同)
北海道新聞、道警に「不適切」と謝罪(情報紙「ストレイ・ドッグ」(山岡俊介取材メモ))
北海道新聞と北海道警察(Grip Blog ~私がみた事実)

おわび記事(道新1/14朝34頁)は、覚醒剤取締法違反で服役中の稲葉圭昭元道警警部が「上申書」で「泳がせ捜査失敗」を暴露し、その暴露について信憑性を認める書き方をしています。だからこそ何で謝罪なのかと怒りも湧いてくるわけですが、道警はこれでは「違法捜査の可能性を否定しておらず」(前掲朝日記事)としてさらに強硬姿勢に出ています。

「複数の捜査関係者などの取材をしたところ、稲葉元警部が暴露した話と矛盾しない証言が得られました」「『泳がせ捜査』がなかったという確証も得られませんでした」(おわび記事)


関連する知識がまったくなくても、読解力のある人なら、「警察という強大な権力に脅されたのか」「なぜ謝罪するのか」という疑問をもつはず。「疑い」であることを明記した記事に対して、道警からの謝罪要求があって、そのうえ、裏付け取材が不十分でしたと謝罪してしまう、なんていかにも不自然です。最大限に正常な記事だと想定して読んでもやっぱり異常です。

道新幹部に良心が残っているのようにも受け取れますが、現場記者のぎりぎりの闘いが反映していると読めます。ひとたび道警の恫喝に屈服してしまったことによって、この先道警による脅しや揺さぶりがエスカレートしていくのではという危惧を抱かざるを得ません。

「泳がせ捜査があったという印象を与える」


とこのおわび記事はしていますが、道警こそ、道新の取材に悪印象を持たせる世論操作を狙っているではないか。「今年11月に入り、道警は北海道新聞の一連の報道のなかに『ねつ造された記事がある』と指摘。それに対し、なぜか、北海道新聞側がそれを受けて内部調査を開始」(道警が、裏金問題報道を逆恨みし、北海道新聞社長逮捕を臭わせ恫喝!? 情報紙「ストレイ・ドッグ」(山岡俊介取材メモ))ということを考慮すれば、「裏金」問題そのものに今後「捏造」があったことを認めろという方向で道警は猛烈な圧力をかけてくるに違いありません。

道新よ、記者を守れ。「道新が記者を守れば、道民が道新を守ります」(5番館のつぶやき)というとおりです。「表現の自由を傷つけるナイフが私たち市民の喉元に突きつけられている」(「道新が『自殺』した経緯~労働組合の報告」(情報流通促進計画)。

そもそも道警に要求に従い、設置された内部調査委員会だって、道警に通じているようです(道警による北海道新聞社長逮捕説のその後「ストレイ・ドッグ」l)。魔女狩りか。パージか。そう思わざるを得ません。

道新の幹部のなかに入り込んでいた道警の腐敗した部分が増殖してきたのか、というのが第一の感想ですが、記者を守れないとは、民主主義の魂を売り渡すようなもの。道新幹部の対応は、道警裏金問題を追及してきた現場の記者の方々の努力を、取材に協力した方々の良心を、権力をチェックする報道に期待する市民の熱意を裏切る行為です。利潤追求とジャーナリズムとの矛盾といった一般論で納得すべきではなく、ブロック紙の真価が問われているのではと思います。

一連の攻撃も道警の膿を出すなかで出てきた新たな膿にすぎず、古い腐敗した権力の体質にメスを入れる過程が進行している証拠にすぎないことを祈ります。この悲喜劇も、権力の透明性、公開性を高めていく上での一時的な抵抗であり、メディアの公共性を陶冶し、市民・民衆の主人公性が発展していくうえで突破すべき障害物にすぎないはずです。この国が真に自由で民主的な社会へと成長していくための通過点の1つ、民主主義を深めていく闘いがたどる局面の1つだと理解しています。

記者の勇気と努力こそ道民の誇りでしょう。道警問題の追求を不徹底に終らせることは、主権者として、納税者として許せないことです。徹底追求こそ市民の権利です。記者の「ペン」(キーボード?)による闘いを敗北させてはならないと思います。一時的な後退を余儀なくされたとしても、記者や内部告発者、取材協力者の方々の勇気と良心、努力と挑戦が敗北することはないと信じていますが。。。。
by kamiyam_y | 2006-01-17 13:33 | 自由な個人の権利と国家 | Trackback(3) | Comments(0)