さっぽろ地下鉄のなかでマルクスを呼吸する、世界を呼吸する

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20世紀の証言 ドラッカー

先週書いたドラッカー理論における自由の追求への補足です。

日経新聞の「私の履歴書」として、2月にドラッカーによる連載が27回あり、面白かったのですが、全部は読んでいませんでした。8月に日本経済新聞社からそれが『ドラッカー 20世紀を生きて』(牧野洋訳・解説)としてまとめられていたことを、さっき本屋で知り、買ってきました。

ポランニー、シュンペーター、ケインズら20世紀の知的巨匠も登場しますし、ナチス突撃隊が自宅にやってきたエピソードなど考えさせられる証言もあり、いい読み物だとおもいます。ドラッカーの背景を知るにはよいのではと思います。
by kamiyam_y | 2005-11-28 19:10 | 資本主義System(資本論) | Trackback | Comments(0)

働く個人の権利としての「食の安全」を:「自己責任」という幻想を超えて

△ 19日のエントリー「『成形肉』ということば」にTBを頂きましたMarikoさんのBSE&食と感染症 つぶやきブログ 食品安全委員会などの傍聴&企業・学者・メディア他、の観察と危機管理を考えるブログ、まだ一部しか拝見していないのですが、「食の安全」をめぐって奮闘していらっしゃるようです。
どうやって「個人の選択」?豪州産に別産地の牛脂を針で注入 によると、赤身肉に牛脂を注入して成形してできた人工「霜降り肉」が、昨年2000万食販売されたというではないですか。ちょっといろんな意味でびっくりですね。

△ 一般的に「食の安全」問題をトータルに考えてみます。特定の加工法や、特定の健康破壊のリスク、政策上の合理的なプライオリティーの問題や、リスク評価と予防原則の体制づくりなど個別的かつ具体的な問題には立ち入りません。

社会的な紐帯を壊しては創り出す激動の時代が現代です。

商品生産によって個人の労働を社会的労働に変換し、世界中の人間の労働を結び合わせながら、資本主義システムは、社会的労働の力を、私的利潤追求が織りなす競争の力に変換し、競争において資本の蓄積運動が生き生きと作動していることによって、生きて存立しています。分断された生産過程と私的利潤追求による私企業の蓄積が、競争の全体という制御されない流れを不断に生みだしています。

商品生産を介して作動する資本主義システムは、共同体的紐帯を不断に破壊し、代って社会的なものをつくりながらこれを壊しています。

この破壊的創造を通じて、生産過程を真に社会的な協同の土台として人々が自分たちのものにしていかなければならないいわば「必然」が現れています。解決が解決不能を呼び、さらなる解決を要請する。生産を自分たちのものにしなければ解決しないという限界が資本主義の最先端に露呈しています。

「耐震性偽装」であれ、「環境」であれ、「働きすぎ」であれ、問題を探ることは同一の普遍的な問題場面を切り開いていきます。この社会的生産過程を自分たちのものにすべき現実的な「べき」(矛盾)も、企業と政治、企業と環境といった21世紀的な問題系において露わです。

「食の安全」もこの「必然」を現している問題だと思います。

複雑になった生産過程、しかも私的生産過程として非公開でありながら、巨大な科学技術を独占している生産過程から、「消費者」は排除されているのですから、「個人の選択」はそのかぎりで言ってみれば絵空事です。個人の自由は、この生産過程に対する公共的な制御のしくみがなければ不可能です。個人の自由は、社会的生産過程を公共的な土台にして成り立ちます。このことが社会の基本的な方向として自覚されることが社会を大きく前進させると考えられます。

多様で自由な消費のためには、生産過程に対する合理的な制御が前提となります。

巨大な生産体系、科学技術の体系に対して、諸個人の協同的な管理が浸透することによって、諸個人は自由で豊かな消費も可能となります。生産過程は諸個人が健康で文化的に生きていくことにとって、協同で関与すべき公共的な基盤です。

協同の管理において、さまざまの分野の専門家、公共的組織、素人の代表などが有機的に結びあっていかないことには、食の安全は確保できないでしょう。専門的知識もなく、生産に関与もできず、孤立しあう消費者が「個人の選択」を実現しようとしても、大きな限界があります。多様で自由な選択のためには生産過程の公開と規制が必要です。選択していないのに、健康に生きる権利を侵害する有害物質を吸収させられ、自由な選択のように見えながら、健康に生きる権利と相容れない不健康な生活様式を見えない関係上で強制されているのです。食の安全問題が私たちに対して目に見えるようにしているのは、こうした不可視の関係です。そうした関係を変えていくために、公共的な基盤を真に公共的、協同的なものに変えていくことの必要を、食の安全問題は提起しています

健康に文化的に生きる権利を実現していくために、食の工業化の現状を私たちは知る権利があり、実効性のある公共的な関与をめざしていかないといけないと思います。

食が工業化しているのに、消費者の側はそうした工業化の現場からは排除されています。科学を使って工業的に食を加工しているその当の現場から排除されているにもかかわらず、あたかも個人が完全情報をもっているかのように「個人の選択」を消費者に強要するのは、結局そうした現場の「社会的」責任と、社会的生産を管理する法や政治、公共的政策の責任を不明確にするだけです。

△ 以下さらに一般的に「自己責任」というコトバの抑圧的な使い方について考えてみました。

資本主義システムの運動法則(近代の構図の転換)と「自己責任」

「自己責任」という言葉は単純に分った気になってはいけない言葉です。この言葉がタテマエとして主張するのは個人の自立のようにみえますが、この言葉が覆い隠している実態は、個人の孤立です。個人の孤立とは、個人から共同体(Gemeinwesen共同本質・共同存在)が分裂することであって、分裂した共同体が個人を抑圧することです。

この言葉はまた「合理的判断」をも意味するばあいがありますが、自由で多様で合理的な個人の意思決定には、共同的なものが個人の能力や判断の増幅器として確立していることが必要でしょう。「自己責任」は、合理性とも自由とも自己決定とも異なるある特殊な文脈で使われているように思います。

「自己責任」がタテマエとする個人の自立は、憲法の基本理念としては「国家権力からの自由」です。しかしこの「国家権力からの自由」も、国家権力の外の現実的・社会的・経済的な世界において、個人を抑圧して形成される共同体を、共同体の、個人を抑圧しての形成を、共同体による個人の抑圧を、覆い隠す働きをするかもしれません。

「自己責任」という言葉ではなく、個人の自立を「自由」と言い換えてみましょう。近代社会の原理としての個人の自立は「自由平等」です。近代社会はこの「自由」を認められた個人が唯一の共同体の原理として承認される社会です。ですから政治的共同体である国家は、憲法において、人権宣言において、「主権在民」によって正統化されています。正統化のない共同体は個人を抑圧する威力です。

「自己責任」ではなくそれがタテマエとする「自由」は、歴史上は封建的国家からの個人の解放を意味します。封建的国家とは、人々を土地に付着させた社会的分業ですから、「自由」とは、社会的生産の共同体の威力からの個人の解放です。

しかし、資本主義システムは、この社会的生産の共同体の威力を私企業の世界において形成します。科学とそれを適用した生産方式が、計画的な協働が、社会的生産手段が、政治的共同体から脱落した私的生産の原野において共同体を、利潤追求の力として、人々から分離した抑圧的な力として形成します。自己増殖する貨幣が共同体です。この事実上の非正統な共同体が、個人の「自由」の障害として現れます。

「自己責任」という言葉は、この障害と闘うための言葉としてではなく、積極的に、個人から分離した共同体による威力を弁護する言葉として機能しています。現代の日本の「自己責任」論は、個人の自由を社会的に実現していくために必要な、共同体の権力に対する規制ではなく、個人を抑圧する集団幻想として機能しています。

社会的承認における自由は、社会的な関係行為能力である「権利」として定着しますから、「自己責任」がタテマエとするはずの「自由」は「個人の権利」であり、これを実現するための政府の責任を要求します。ところが一人歩きする「自己責任」は、逆に「政治の責任」を不透明なベールで覆い、個人に責任転嫁する騙しのツールです。

個人の自立と、個人の尊厳を尊重するように見えながら、実態は逆に、分裂した共同体が生きた人間を犠牲にして成長していくのを助けるのがこの「自己責任」という言葉です。

「消費者の自由な選択」「消費者の権利」という美辞麗句が、企業の責任と国家の責任を忘れさせ、個人の責任に個人の犠牲の原因をすりかえていくことはしかし、社会システムの正統性を破綻させていると言ってよいでしょう。

「個人の権利」を実現するために、個人の集合体である共同体が、非政治の領域に関与し、社会的生産過程を部分的にではあれ、共同で制御していくしくみを発展させながら資本主義システムは延命しているのですし、常識においても「個人の権利」こそが近代社会の最大限の合意なのですから。

「自己責任」論は要するに、ひどい目にあっても自分が悪いのだ、という論理を不当に拡げたものです。この論理を批判すること自体は決して、個人を弱者におとしめることによって逆に個人の自立を奪うことでもありません。個人を社会的な主体として強化するには、社会的な関係の流れを、個人の主体性を発揮できるように構成することが必要であり、社会的なルールづくりこそ、権利主体としての個人の自由を実現するために必要なのです。

詐欺にあっても、有害食品で間接的な殺害にあっても個人の自由、ではありません。世の中は危険がいっぱいだから、政府が治安維持をしても意味がないから止めろとは誰もいいません。

消費者の側にだけ「自己責任」が押しつけられるのも変なものです。生産者の側の「自己責任」はないのでしょうか。有害なものを売っても売れなくいから結局市場に任せれば生産者の責任も貫かれる、とする議論は、個人の孤立と、分裂した共同体による個人の抑圧を覆い隠すイデオロギー(虚偽意識)でしょう。合理的経済人を想定する方法的個人主義は、諸主体の孤立の反映にすぎないと思われます。イデオロギー訴訟リスクを合理的に考慮して生産者が合理的に動くと想定するのも、消費者の事後的行動を想定しているだけであり、現代的な「予防原則」に則った公共政策を否定するイデオロギーでしかないでしょう。

ちょっと変ったことを考えてみましょう。消費者が仮に生産者の売った商品によって殺害されたとしても、生産者の側でこれに相当する刑罰を受ける者はいないようにも見えてしまうのはなぜでしょうか。生産者が個人ではなく組織だからです。組織の力のなかで、組織の関係の流れのなかで生産する個人が動いているからだといってもよいかもしれません。

要するに、消費者と生産者とは、私的主体という形式においては全く対等であるとしても、消費者は生きた個人が契約者そのものであるのに対して、生産する企業は一私人として契約しますが、その実態は社会的組織だということです。しかも、実態が社会的でありながら、私的所有の排除の壁のなかで隠されている社会的組織です。

生産者の側は、私的主体という形式はあっても、その中身は、科学と、科学を適用した社会的生産手段と、社会的労働組織を集積したものです。消費者と生産者とは実態において対等ではなく、生産者とは、実は消費者にとっての公共的な基盤、共同的な組織を意味しています。人々にとっての共同的な生産組織でありながら、人々が消費者という形でその共同的組織から排除されています。

そこで、私的所有の境界線の外から人々がその共同性を認知して、社会的ルールを浸透させていくことがいわば必然的な発展としてすすんでいくことになります。生産過程の共同的なものに、計画的で自覚的な社会的制御を取らせていくことが、社会的生産にもとづく現実の社会を形成していきます。

人々は消費者としてのみこの社会的組織に関与するわけではありません。「食の安全」1つをとっても、それは、「労働する個人」が「健康に生きる権利」を実現していくうえでの課題であり、生産組織のなかでの人々の権利でもあります。

「食の安全」とは、社会的生産組織において、自らの社会的貢献を自覚し、労働において社会的であることの権利ともいいうるような、そうした労働のなかでの諸個人の教育・開発・陶冶の権利でもあります。

また「食の安全」の公共政策は国際的な社会的生産過程に対する一定の制御という意味をもちます。働く者の権利はグローバルです。

「食の安全」問題は、大工業による生態系の破壊の現れであり、社会的な制御を要求する問題です。「食」はさらに「教育」や文化継承の問題でもあります。

△  イラク日本人人質事件における「自己責任」

イラク人質事件における被害者攻撃という転倒も、周知の通り、「自己責任」という言葉を、与党幹部が流しメディアが増幅させることによって拡がり、この被害者バッシングが、自分の意見を表明する個人を排除しようとする動物的な欲求を集めて、政府の責任転嫁を支えたわけです。軍隊を出したのだから迷惑かけるな、という戦前の「非国民」同様な奇怪な観念が跋扈しました。

この場合の「自己責任」論は、隣人感覚の喪失であり、日本社会の未熟さと分裂を示したように思います。個人を社会の代表として認めず、自由に行動する個人を「友人」「隣人」として認めない社会は分裂的で非人間的です。当時国務長官パウエルが「危険を承知で行動する人がいてこそ進歩するし、彼らに誇りを持つべきであって、彼らを心配し、解放されるように手だてを尽くす義務がある」という内容のことを語りました。危険を承知で行動する個人を肯定できず、個人の自由を尊重できず、個人の自由を応援しあえず、友愛と連帯を示せない社会は貧しい社会です。一人一人が尊重される、懐の深い豊かな市民社会を日本ではまだまだ形成できていないと思います。

イラクから帰国された5人をサポートする会編『今問いなおす「自己責任論」』(新曜社2005年10月)が出版されました。高遠さんや、中東政治論の酒井啓子、経済学者の八木紀一郎(京大)などが執筆しています。まだ読んでいないのですが、いい本だと思います。

△ お知らせ
フリージャーナリスト志葉玲氏がブログで紹介しているイラクのアーティスト(画家)ハニ・デラ・アリさんが、北海学園大学で講演をします。北海学園大学経済学部特別講演会(12月2日:金:12時40分~32教室)。経済学部事務室011-841-1161(内線2221)まで。
by kamiyam_y | 2005-11-24 00:07 | 消費者の権利と社会的労働 | Trackback | Comments(0)

ドラッカー理論における自由の追求

P.F.ドラッカー(Peter F. Drucker )先生が、11月11日(現地時間午前7時20分)カリフォルニア州クレアモントの自宅で96歳の誕生日を前にして逝去されたそうです。氏の思想的格闘に敬意を表し、謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

次のニュースをごらんください。
NIKKEI NET国際ニュース:米経営学者ピーター・ドラッカー氏が死去

ドラッカーに関する簡潔な解説は、ダイヤモンド社のホーム・ページがとりあえず便利です。
diamond.co.jp > 書籍 > P.F.ドラッカー

ドラッカー理論は企業経営に関心のある人々に受け入れられてきましたが、その真骨頂はじつは「自由」の社会哲学的考察にあるように思います。

ドラッカーの資本主義終焉論

1909年ウィーンに生れフランクフルト大学を卒業したドラッカーは、ナチスから逃れるために英国にうつり、その後渡米して、39年に『経済人の終り』を刊行します。以降多くの論考を発表し、『断絶の時代』などの著作が多くのビジネスマンや経営者に影響を与えてきました。

ちなみに「経営学の父」「経営学の神様」などと呼ばれているそうです。ちょっとださいですね。巨匠くらいでいいのに。

ドラッカーの神髄は、文明論的な思索を背景にしてビジネス社会の進むべき方向性を考察しつつ、経営管理論の具体的な指針を提起していく運動にあるのかもしれません。おそらく多くのドラッカーファンはそうした側面から読むのでしょう。

ドラッカーの影響力はもちろんビジネスの現場にとどまらず、経営学の学会レベルでもドラッカーは論じられてきました。

ドラッカーについてさまざまの自由な理解があるなかで、私は、ドラッカーの「社長訓辞」的部分に先行して初期の理論的問題設定を摘出した山口正之の理解と、資本のシステムの正当性モメントの崩壊現象においてドラッカーを位置づける有井行夫による評価を継承します。私もまた彼ら同様、ドラッカーが知的格闘をしている対象は【資本主義システムの過渡期性】であると考えます。彼の本質は社会理論家にあるとして評価します。

「ドラッカー理論には、文明論と経営理論の二つの系譜がある、というふうにいわれることが、よくある。だが、正確には、かれの経営管理論が、かれの文明論の結語なのである。『産業社会を、いかにして自由な社会としてきずくことができるか』というかれの主題への回答が、労働者を『管理』する政策の研究なのである」(山口正之『マルクス主義と産業社会論』新日本出版社、1969年、203頁)。

山口が言うとおり、彼の著作を貫く問題設定は、彼の理論的出発点となった初期の著作において明快であり、以降の著作はその具体化でしょう。ドラッカーは初期の著作において、ファシズムを、資本主義が陥る社会的統合の崩壊に対する1つの対応としてつかみ、産業社会を、ファシズムを招いた同一の危機からは自由ではないことを鋭くつかんでいます。

ドラッカーは最初の2つの著作において、政治上の形式的な自由平等ではなく、産業社会における現実的な自由平等をいかにして実現するのかという課題を自覚します。産業社会は、個人の自由がシステムの原理になっておらず、その中心的な社会力である経営権力も非正当なものとしても現れており、彼は、実質的な疎外を解決すべき大問題として提起します。彼が「会社」「産業」に対して強度の関心を持ち続けたのも、「自由平等」の現実化を、この経済の平凡な世界の課題として見いだすからです。

ちょうどこれはマルクスが、1843年に「ユダヤ人問題によせて」を執筆し、「政治的解放」から「人間的解放へ」という有名なシェーマを立て、それを1867年の『資本論』第1部において具体化しているのと似ています。ちなみに初期マルクスをマルクスの成熟から「断絶」する一連の理解がありますが、私はそうした「断絶」を恣意的な分析として拒否する立場です。

「ユダヤ人問題によせて」にいう「政治的解放」とは、成熟したマルクスの言葉をもって理解すればそれは、諸個人が「二重の意味で自由な労働者」になる「世界史的」転換であり、「近代ブルジョア社会」の形成です。封建制社会においては、人々は、移動の自由も仕事を選ぶ自由もなく、人々が土地の付属物でした。「政治的解放」とは、人々を人格的に自由な個人として解放することです。「職業選択の自由」を人々がもつことです。

人々が、その人格的な、法的な自由を得たことは、その反面では、あらゆる生活手段(個人的消費に向けられる労働生産物)が商品化するほどに商品生産が一般化したことを意味してます。それは、労働する諸個人が、生産手段からも「自由」となり、つまり生産手段から遊離し、生産手段を持たず、自己の必須生活手段を獲得するためにはそれを貨幣の形で、労働力の対価として得なければならなくなること、労働力を商品として販売する地位に落とされることを意味します。生産手段も生きた個人の手から離れて商品として売買され、資本の形態として集中していくことになります。

資本として集中することによって社会的生産過程が事実上の公共領域として形成されながら、法的な政治的な自由(「政治的解放」の領域)から分離し、自由を実現するための現実的な解放の課題の領域として露出していることが、現代の現代たるゆえんを劃している矛盾です。

社会的生産過程は、剰余価値を吸収して増殖する貨幣により編成されることとなります。人権主体としての個人の成立、共同体的生産の姿態である国家権力からの自由として表象される法的人格の自由は、いわば、封建社会の中に埋もれていた物象的な権力を、貨幣の権力として解放し、諸個人が現実的生活においてそれに従属することと引き替えに成立したのです。

貨幣は、過去の労働の蓄積であり、他人の労働の支配権となり、労働の共同体を支配します。貨幣は分裂した共同体であり、貨幣が共同体の現実であることによって、政治的解放という形で諸個人は幻想上の共同体において自由となるわけです。

「政治的解放」とは、こうして封建的共同体から諸個人を解放し、自由な個人の政治的共同体を解放するとともに、貨幣による社会的生産を政治的共同体から解放することです。政治的国家と市民社会との分離が近代の大きな枠組みです。「政治的解放」とは、国家が社会的生産から解放され、国家が共同体的な宗教から解放されることであり、諸個人の現実の共同体は貨幣に吸収され、市民の共同体が政治的共同体として成立します。

現実の共同体が労働において形成されておらず、この政治的共同体は、表象された共同体であり、想像上の共同体です。そこでの自由平等、万人の所有と人権は、労働における諸個人の孤立が観念的関係において転化したものです。個人が共同体をつくるという「主権在民」、それを原理とする「民主主義政治」とは、人類の解放ではあるが、解放の終りではなく、想像上の共同体における自由の実現です。

問題はもはや政治という表象上の共同性ではなく、総体を編成する労働における自由な個人の共同体の形成です。労働から分離した自由に対して、労働は貨幣が共同体であり、諸個人は対象からも、他の個人からも、自己の労働からも疎外されています。法的自由の反面は、対象世界の全面喪失です。問題は、この対象世界における共同体の形成です。共同体は資本の力として成立しており、これを諸個人が諸個人の共同体として奪還することが、見え隠れする課題です。この課題を「ユダヤ人問題によせて」は「人間的解放」と呼んだわけです。資本がつくりだす共同体を真の共同体へ、諸個人を、共同体を包摂した自由な個人へ。これが合い言葉でしょう。完成した人間社会は、ちっとも国有化とか一国社会主義なんぞではありません。

人間の解放と自由は、かつては宗教に、そして政治において局限された形で、実現してきたが、「歴史の真のカマド」である市民社会、社会的生産過程の姿である経済、諸個人の現実的労働の世界が、いまや自由と解放の課題となる地平まで人類は到達したわけです。政治的国家における解放と自由にとどまることなく、市民社会における解放と自由の実現にむけて、近代から現代への人類史の経験が深まっていくのです。

ドラッカーもこの現実自身の運動の一部として理解できます。「人間的解放」は、労働において現実の共同体をつくることであり、労働の社会的なつながりが諸個人の人格的自由を制限する独立した力ではなくなること、人々が社会的生産を協同で制御することにもとづいて、自由に発展しあえる自由な諸個人の社会状態をつくりだすことです。

「政治的解放」が示す「天賦人権の楽園」は、資本主義社会の理念的姿態であり、「自由平等」は商品交換における諸個人の社会関係として発生しています。資本主義社会の現実的姿態は、諸個人を飲みこむ資本の競争連関であり、ここには自由も解放も実現していません。

ドラッカーが注視するのはこの現実的領域である「職場」であり「会社」であり、産業社会です。「自由平等」が実現せず、社会的に諸個人の力を凝集し配分する権力が正当化されていない、個人が社会的承認において自由に活動をしていない状態をどう解決するのかという問題こそ、ドラッカーが終生追求した課題です。

ドラッカーが「自由」の未完成を「会社」の領域において見いだし研究を進めたことは、マルクスが哲学批判から経済学批判へ、市民社会の解剖学へ、経験的諸個人の生きた労働の問題へ議論を展開するのと同じといってもよいでしょう。

ドラッカーの本質を最もよく著している著作を1冊あげるとすれば、『ポスト資本主義社会 21世紀の組織と人間はどう変わるか』(上田惇生・佐々木実智男・田代正美訳、ダイヤモンド社、1993年。P. F. Drucker, Post-Capitalist Society,New York, 1993)です。『新しい現実』などもいいですが、やはりこれはその書名からしてラディカルです。資本主義の終焉と新社会への移行を説いているのですから。人類史的な射程でものを考えています。

「知識社会」とは、資本主義のあとの社会を社会主義と呼ぶのならば「社会主義」であり、企業の知識労働者、管理労働者に対して世界革命を鼓舞しているのです。第2部のグローバリゼーションを扱った文章も、大工業と世界市場によって諸個人を世界史的諸個人に変えていく資本主義時代の偉大さを生き生きと描いたマルクスの記述を彷彿とさせます。

このようなドラッカーが特に日本の経営労働者・管理労働者に受容されてきた歴史は興味深いと言ってもよいかもしれません。ドラッカーが日本の企業社会に注目し続けてきたことも考察に値する問題かもしれません。

以下ドラッカーの初期の2つの著作をもとにして、彼の問題設定を確認しておきます。

自由で機能する社会へ

『経済人の終り』ではドラッカーは、「自由平等」が宗教において実現されるのは宗教が社会の本質的な領域ではなくなることによってであり、「政治」上の「自由平等」の実現は、政治ではなく「経済」が社会を構成する本質領域になってからのことである、と理論的枠組を提出している(P. F. Drucker.The End of Economic Man, New York,1939,p.240.岩根忠訳『経済人の終り』東洋経済新報社、1963年、230頁[『ドラッカー全集1』産業社会編、ダイヤモンド社、1972年、収録])。

ドラッカーにとっては「経済」からの脱却が、自由の実現という意味を帯びているのである。脱却しつつも新たな社会統合のシステム(自由の現実化)の関係が成立していない。これが産業社会の正当性問題としてドラッカーが想定している思索の対象である。ドラッカーによる「知識」の発見も、まさにこの自由の実現として資本主義を超えることとして意味を与えられている。

ドラッカーの企業経営論は実は、社会科学の基本テーマである個人と社会との統一を中心課題としている。ドラッカーの把握は社会システム論であり、彼が追求するのは、個人が社会を介して自由であり、社会が自由な社会として個人を支えている状態であると言ってもよいだろう。個人が社会との統一において自らの社会性と個性の一致を自覚し、社会的承認のなかで生き生きと活動すること、社会が個人との統一において個人をまとめる権力の正当性を有し、安定した状態で個人の自由を実現すること、これがドラッカーのめざす社会状態であると理解できる。

『産業人の未来』(P.F.Drucker,The Future of Industrial Man: A Conservative Approach,London/Tront, 1943.田代義範訳『産業人の未来』未来社、1965年。岩根忠訳『産業にたずさわる人の未来』東洋経済新報社、1964年[前掲『全集1』収録]。邦訳頁は未来社版を掲げる。なお、引用に際しては訳文・訳語は必ずしも邦訳書どおりではない)においてドラッカーは、「自由で機能する社会」が実現していない危機状態として現代を捉えている。

同書によれば、「機能する社会(functioning society)」の形式的な条件は、

(a)諸個人に社会的な「地位と機能(status and function)」が与えられていること、
(b)「社会的に決定的な権力(decisive social power)」が「正当な権力(legitimate  power)」であること、

であり、「自由な社会」の条件は、

(c) 社会の本質的領域が自由であること、責任ある選択が行われる自治のあること、
(d) 政治の領域における自由な統治と社会の本質的領域が分離していること、

であるとされる。個人が社会的な役割を自覚し、社会の本質的領域において権力が正当であり、「自己統治(self-go vernment=自治)」が実現し、社会生活を組織する原理としての「自由」が生きている状態が「自由で機能する」社会状態である。

ドラッカーはこの基準によって問題を提起する。

第一次世界大戦の前の150年の「商業社会」は「機能する自由な社会」であった。社会は、前産業的であり、「営利的だがいまだに田園的な性格」をもっていた。社会的人間像は、イギリスでは「紳士」であり、フランスでは「自作農」、アメリカ合衆国では「市民としての自営農民」であった(The Future of Industrial Man, p.50. 65頁)。

これに対して、現在はどの条件も満たされてはいない。産業社会は危機にある。
(a)大量生産工場では、諸個人は機能と地位を失っており、(b)株式会社では、経営層の権力が私的所有権という正当性の基礎から分離しており、(c)社会的に本質的な領域で自治が行われておらず、(d)中央集権的な官僚政治によって社会的支配が吸収されている、というように。

従業員社会において働く人々は目的と役割を喪失し、自覚的な社会関係が形成されていない。株式会社は、私的所有にもとづく正当性を失っている。

「政治的解放」は商品交換にもとづく自由な私的所有者としての相互承認を普遍化する。この相互承認において、株式会社は、自由な私的所有者の団体として、自由を組織原理とする社会的妥当形式を与えられている。

「株式会社のような集団的実在が、なんら政治的承認を必要とせずに、個人的財産保有者の自由契約によって創りだされる、ということは、財産を本源的かつ至高の権利として承認したのである。……/株式会社の政治的目的は、その株主の個人的財産権の本源的な権力にもとづいて、正当な社会的統治体をつくりあげることにある」「……株式会社は、歴史的なフィクションの分野、倫理的正当化の分野から、政治的活動の分野に移された契約理論にほかならない」(The Future of Industrial Man, p.52. 67-68頁)。

しかしこの「政治的解放」を突破して「人間的解放」の課題が露出している。株式会社が株主のものという虚構は破綻している。

「現代の会社経営層は-アメリカのように名目的に株主の下僕であろうと、カルテルや中央統制機関の管理者のように法律上株主とまったく無関係であろうと-株式会社の形で社会的に結合した、原子的な個人の財産の業務執行上の代理人ではない。それは財産から委託された権力ではない」(The Future of Industrial Man, p.59. 74-75頁)。

「経営上の権力は今日非正当な権力である。それは権力の正当な基盤として、社会に承認された基本的な原則にもとづいていない」(The Future of Industrial Man, p.66. 82頁)。

「階級社会という資本主義の現実は、資本主義の理念と一致しない」(The End of Economic Man, New York,1939,p.44-45.42頁)。

資本主義の理念とは、「政治的解放」の圏域であり、「商業社会」的な「自由平等」、法的自由、政治的自由を指すとすれば、資本主義の現実的な姿態は自由な諸人格の関係ではなく、物象的な関係によって編成される非社会的な状態、自由を原理としない社会編成のありようである。

この現実的な姿態を織りなす企業と企業の世界、そこの現れる社会的生産過程はしかし、諸個人の社会的な力をその姿態として生みだしている。生産過程こそ人々の共同体が現実に存在する「公共的なもの」である。私的所有にもとづく自由な社会関係によって経営者権力が正当化されておらず、従業員の社会において経営者権力が独立した権力となってしまっている疎外状態において、公共的なものが露出している。

「マネジメントの権力」「企業の」マネジメントは正当性承認を欠いており、正当性のない権力は収奪である、という議論は、後期の著作『マネジメント』などにも貫かれている。

「企業内の問題と思われるものが、かなり公共的な利害問題となってくる」( P. F. Drucker,New Society: Anatomy of Industrial Order, New York,1950,p.46.村上恒夫訳「新しい社会と新しい経営」『ドラッカー全集2』産業文明編、ダイヤモンド社、1972年、54頁)。

社会の本質的領域である企業社会の実体はすでに「公共的」であるが、それによって個人が社会との調和において生命発現する媒介のしくみが存在していない。ドラッカーの苦闘はこの矛盾に由来する。

ドラッカーが企業社会を論じ、企業社会を変貌させる情報化を語り、トランスナショナルな関連の形成を視野に入れて、資本主義の終焉を期待し、ビジネスマンの解放を追求するのもマルクスが論じた矛盾のいわば1つの優れた表出なのである。

もちろんこの表出は学問という形を取った現実の自己開示というよりは、現実の無自覚な表現というべきである。この表現は、労働者の自己矛盾的振舞を生産関係の資本主義的編成の原理として堅持するマルクスの把握が包摂する対象にすぎない。現存の社会システムの労働による資本主義的規定性を捉えることができない点はしかし、ドラッカーに固有の欠点ではない。彼に固有の美点こそマルクス的な現代認識に包摂すべき営為なのである。


文献

○ 有井行夫『株式会社の正当性と所有理論』青木書店、1991年。マルクスの経済学批判を株式会社の正当性問題として復権している。138頁で、ドラッカーの正当性論が評価されている。上記の論考における評価もこれを踏まえている。
○ 山口正之『マルクス主義と産業社会論』新日本出版社、1969年、第3章。山口の議論の最大の長所は、非マルクス的な議論の成熟のうちに資本主義の自己否定性をつかみとる点にある。「『所有と経営の分離』が確定的となった瞬間から、経営者とテクノストラクチュアの権力が確立されたと主張しはじめる瞬間から、資本家としての生産手段の私的所有の『適法性』の根拠が、崩壊することを、ドラッカーは、俊敏にも感知した。……20世紀の新しい産業的現実は、資本主義から、その存在の適法な根拠を奪い、資本家を、無用な腐朽した寄生物にかえた。……それは、死滅しつつある資本主義なのである」(178頁)。
○ 村田稔『経営者支配論』東洋経済新報社、1972年、第2部第7章。
○ 岩尾裕純「制度学派の新しい展開-ドラッカー、P. F.- 」同編『制度学派の経営学』講座経営管理論I、中央経済社、1972年。
○ 藻和重隆『ドラッカー経営学説の研究』森山書店、1959年。
○ 松本正徳『経営学の理論』中央大学出服部、1980年、第3部3章。
○ 白杉庄一郎『独占理論の研究』ミネルヴァ書房、1961年、第4章第4節。
○ T. Tarrant、Drucker : The Man Who Invented the Corporate Society,Boston,1976. 風間禎三郎訳『ドラッカー一企業社会を発明した思想家-』ダイヤモンド社、1977年。
○ 田代義範『産業社会の構図-ドラッカーの管理思想-』有斐閣、1986年。
○ 岡本康雄「ドラッカーの産業社会論」高宮晋編『現代経営学の系譜』日本経営出版会、1969年。
○ 麻生幸『ドラッカーの経営学-企業と管理者の正当性-』文眞堂、1992年。
○ 河野大機『ドラッカー経営論の体系〈増補改訂版〉』三嶺書房、1990年。
○ 泉卓二「アメリカ労務管理史論」ミネルヴァ書房、1978年「資本主義経済社会の矛盾の発展……は、〈予定調和〉の世界を崩壊させ、この現象に対応して〈社会と個人〉の問題が、いわばブルジョアジーの危機意識の表現として提起され、〈有機体的社会観〉を成立させたといってよい」(303頁)。
by kamiyam_y | 2005-11-21 21:44 | 資本主義System(資本論) | Trackback | Comments(0)

「成形肉」ということば

今回の「フォルクス」で知られるようになりましたね。

「成型肉」とは、内臓の肉などを繋ぎあわせてつくる肉のこと。ダイエー傘下のステーキ・チェーン「フォルクス」が、この「成形肉」を使っていることを表示しないで「ステーキ」を販売したとして、15日、公正取引委員会が、景品表示法違反(優良誤認)で排除命令を出しました。

「優良誤認」とは、不当景品類及び不当表示防止法(昭和37年5月15日法律第134号)にいう「商品又は役務の品質、規格その他の内容について、一般消費者に対し、実際のものよりも著しく優良であると示」す不当な表示のことらしいです。

(不当な表示の禁止)
第4条 事業者は、自己の供給する商品又は役務の取引について、次の各号に掲げる表示をしてはならない。
一 商品又は役務の品質、規格その他の内容について、一般消費者に対し、実際のものよりも著しく優良であると示し、又は事実に相違して当該事業者と競争関係にある他の事業者に係るものよりも著しく優良であると示すことにより、不当に顧客を誘引し、公正な競争を阻害するおそれがあると認められる表示


公正取引委員会景品表示法トップページ株式会社フォルクスに対する排除命令について.pdfをみますと、4条1項1号(優良誤認)規定に違反する事実が認められたので、排除命令を出したとあります。フォルクスのメニューが別添としてつけられているのがちょっと笑えます。

フォルクスのHPにはお詫びが発表されているだけではなく、成形ステーキの説明もあります。それをみると、BSE問題が背景にあって、豪州産のハラミを加工したものを売る選択肢を取ったことが、説明されています。みなさんはどう思います?食を巡る規制と企業の側の情報公開のありかたとしてちょっと考えさせられるところがあります。

フォルクスのサラダバーけっこう充実してて好きなんですけどね。北海道には店舗がないみたい。

参照;
「成型肉」をステーキと表示、「フォルクス」に排除命令・公取(日経新聞11/15)

誰もが食べているもどき食品(日刊ゲンダイ11/16)
“偽ステーキ”を販売し、公取委から排除命令を受けたステーキ店大手のフォルクス。牛の内臓肉とあぶら身をつなぎ合わせた「成型肉」を「ステーキ」として売っていたからビックリだが、これで驚いてはいけない。他にも、本物と見分けがつきにくい“もどき食品”は山ほどある。

by kamiyam_y | 2005-11-19 20:43 | 消費者の権利と社会的労働 | Trackback(1) | Comments(0)

Japanese-Filipino Children

グローバル資本主義の時代です。私もあなたもいつどこの国の生まれの人と恋をしたりいっしょに暮らしたりするかもしれません。

日本にも多くの海外からきた労働者がいます。フィリピンの女性も80年代からたくさんいるわけで、日本の男性と幸せに暮らす人も多いと思います。

ところが中には、日本の父親から養育拒否にあってしまった子どもたちがいます。子どもたちにはなんの責任ももちろんありません。フィリピンで厳しい境遇を強いられている子供もいます。

個人の人権を実現していくためには、国を超えた連帯が必要です。Japanese-Filipino Children(JFC)の人権をまもるための非営利・非政府組織が「JFCを支えるネットワーク」です。

この「JFCを支えるネットワーク」が発行している「MALIGAYA季刊マリガヤ」第43号(2005年6月1日)の編集後記で「比では今、人権侵害が深刻化しています。今年の1-3月の間に32人の活動家や指導者が暗殺されました」とあります。判断は若干保留しておきたい部分があるのですが、「反テロ政策」を名目とした政府批判の封殺なのでしょう。

このネットワークの通販が、たぶん南の国の利益になる「フェアトレード」といっていいのかわかりませんが、イチジク、プルーンとかお肌に良さそうなものが。

欧州では生協が欧州規模で成立していて「フェアトレード」に参加しています(日本生協連ユーロコープ、フェアトレード宣言を発表)。
「フェアトレード」で有名なのは身近なところではボディショップです。買い物するとき注意してみると面白いですよ。
by kamiyam_y | 2005-11-14 23:29 | 自由な個人の権利と国家 | Trackback | Comments(0)

「のまネコ」問題(続)

メール監視と「のまネコ」問題:私有財産の自由から人間の自由へで私は、「のまネコ」に触れつつ、「情報資本主義」の理論的中心点についてすこしだけ考えてみました。

「私的所有」は、封建的共同所有を破壊し、封建的生産秩序を破壊し、近代の民主主義をもたらした根拠であり、商品生産を普遍化する契機として、近代の資本主義の大前提です。資本主義は、しかし、新たな社会的な紐帯やつくりだし、自分の前提を否定します。私的所有という近代の中心的行為様式が維持されつつも、それを解体する新たな公共的なものが生成しつつあるのが現代であり、この現代の人類史的な問題を論じてみようかなと思いつつも、いつも考察が不徹底に終っているのですけどね。

「私的所有」は資本の利潤追求運動の外皮であり、資本の競争の総体が、現代の編成運動です。

「私的所有」はもともと自己労働の対象化に対する社会的承認です。私的所有において正当な所有は、自己労働の産物であるか、それを交換して得た物です。そのどちらでもない「物」を勝手に持つことを「窃盗」といいます。

「物」は移動したら元の場所からなくなります。困ったことに「情報」は違います。観念的複製が無限に可能であり、観念的複製を脳内に伝搬することをコミュニケーションというわけですから、ネットの協同体の形成と、そこにおける協同の産物の形成は、「私的所有」と「利潤追求」という近代の約束事を潜在的に超えています。

そもそも近代社会は、封建的な、土地による人間支配を本体とする職業と土地の固定を破壊することから生まれており、封建的関係というコミュニケーションを否定しています。これが可能になったのは、商品交換がそもそもコミュニケーションの否定を本質とするからです。つまり、使用価値と価値という情報に社会的生産の意思的調整を閉じこめて最小化することによって、社会的生産を人間のコミュニケーションから排除し、その反面で、コミュニケーションをいわば市民的協同体として成立させたのが、商品生産としての資本主義なのですから。

ネットは、価値の追求(飽くなき利潤追求)が経済を編成する世界が前提している条件を否定しているのです。近代の経済法則の世界をネットは潜在的に超越しています。

このことは、「私的所有」の論理において、ネット協同体の産物が法律観念に馴染みにくかったりする(著作権フリー扱いにされる等)要因になるわけですが、同時に、「私的所有」の論理を超える人間の協同が形成されているのであって、この協同からすれば「私的所有」と「利潤追求」こそが制限になります。現代世界が前提する私的所有に相容れないがゆえに「倫理」という形でルールが定着することにもなります。

おそらくこの問題は、『資本論』第3部の「利潤率の傾向的低下」の人類史的意味と重なるはずなのです。資本の競争総体という現代をつくりだす運動のなかで、利潤率が意味をもたない世界が潜在的にではあれ登場することをマルクスはいわば必然的な進行として捉えていて、「情報化」も、企業の自己肥大化競争に吸収される産業労働という資本主義の本質がその存在理由を喪失していることを暗示しています。

こんなことを考えている以前のエントリーを本質的に超える論点を提出するつもりがあるわけではないのですが、今日、札幌駅から駅前通を南下する途中で、「大変なんです。『のまネコ』問題をご存じですか?」というA4版のビラをもらいました。配っていたのがふつうの女の子だったのでつい受け取ってしまい、歩きながら読んでおもしろさに気づき、インタビューしなかったことを後悔しました。

「のまネコ」問題はまだ終っていません。

私が哲学的な射程で論じてみたいことと、「のまネコ」問題の実際的具体的な展開は美味く結びつかない点もあるかもしれませんし、私的所有の人類史的変貌という大論点を論じても、のまネコ問題で実際に人々が解きたがっている問題からきっとずれているでしょう。以下はその後の「のまネコ」問題をすこしフォローし自分用にメモしてみただけです。それだけですので、以下で紹介しているサイトに実際にあたって考えられることを希望します。

さて、受け取ったビラによると、わた氏のフラッシュアニメをavexが買収した時点までまではネットユーザーも黙っていたが、avexは、その後強引に、モナーの口元だけ変更して「のまネコ」と称しオリジナルキャラクターとして商品化したとのことです。ビラは、この大問題が他のキャラクターにも起きるかもしれないことを、と訴えていました。

このビラでも紹介されているエイベックスのまネコ問題 は、よく整理されている感じがします。ここにリンクされているのまネコ問題を様々な視点から捉えるサイト(仮象)は、なかなかためになります。

ここでの寄稿で面白いと思ったのは、例えば、サイト:モナーを救え!~のまネコ問題~管理人:AMによる「問われる企業倫理と知的財産の保護 2005年9月24日」です。ネットの倫理と企業の善意で成り立っていた世界を、暴力的に簒奪する行為としてavexのモラル欠如を捉え、クリエイティターとしての危機感を表明しています。

…[前略]…そのコミュニティーを外れて「モナー」を使用してきた企業は少なくありませんが、いずれも「モナー」を「モナー」として認めて使用し、そのコミュニティーに対して何らかの敬意を払ってきました。ネットユーザや企業の善意に支えられて「モナー」は存在し続けることができました。こうしてインターネット独自の良い倫理観が形成されていき、後にモナーを使用する企業もこの倫理に従ってきました。

avexが今回とった行動は、こうした倫理を破り捨て、今までネットユーザと他の企業が築きあげてきたものをぶち壊す行為であるといえるでしょう。…[中略]…一連のavexの対応はお世辞にも誠意あるものとは言えず、消費者やネットユーザを冒涜するものでした。こうした企業としての問題への対応や態度を見ても企業モラルを疑わざるを得ません。また、「のまネコ」にしろ他の盗作疑惑にしろ、 avexは音楽や映像といった著作権に深く関わる企業であるのにもかかわらず著作権周辺の配慮やモラルにも欠けています。同社の「真似ても盗むな。」というポリシーを見ても企業倫理以前に、クリエイティブな集団を自称すること自体疑わしいものがあります。…[後略]…

松浦社長の発言ですが、 エイベックスのまネコ問題 >> 10/6 松浦氏mixiでの発言など見て判断してください。 「アスキーアートにそれほどの文化と皆様の支持があることは2ちゃんねるを見ない私にはまったくわかりませんでした」というコトバだけ取りだすと、少なくともネット文化を尊重しているようには思えません。

日経デジタルアリーナ ブログで自滅する人々(第1回)の記事も興味深いが、ネットに対する恐怖心を煽る基調には疑問です。

松浦氏発言に対するコメントとして、JANJANモナー盗作問題 松浦氏mixiでの発言に対して(三浦益矢) あとがき 記事の説明と独り言

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公共性のあたらな形は、ネットにかぎりません。
「健康」という個人に属する問題が、まさに個人の問題であるがゆえに、生産の公共性を照らし出す。「健康」破壊は、個人の権利を実現するものとしての公共性の領域を形づくる課題です。

asahi.com肥満者の比率上昇 1.86億人に血中脂肪の問題
  2005年11月13日

 衛生部・疾病控制司の孔霊芝氏は・・・・中国で肥満者の比率が急速に上昇していることを明らかにした。・・・

 孔氏によれば、中国では標準体重を超過した人は約2億人に達し、うち肥満者は約6千万人に上る。1992年との比較では、体重超過者は39%、肥満者は97%も増加した。・・・
                                  ・・・は引用者による省略


いよいよ、中国も資本主義的生産による生活様式の変貌と、それによる健康破壊が問題になりつつあるということでしょうか。健康は個人で解決できる問題にとどまらず、社会的な生産方法の問題であり、それを社会的に制御する社会的理性の課題です。

グローバル資本主義は、アメリカも中国も同一の対立性におきます。先進国の健康破壊も、途上国の健康破壊も形は異なるとはいえ、諸個人の権利に対する障害として同一の問題であり、人々に解決を命じています。

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追記20060204

今読み返すと、2ちゃん側も、純粋な共同体を守ろうとする素朴な正義感を根拠にして、煽っている部分があります。

2ちゃん側は、自分たちの共同性を悪用する私的利害としてエイベックスを捉えているのに対し、エイベックスが出している論理は、エイベックスが社会的なのであり、そのエイベックスが認めてひろめるのだから、よろこんでほしい、著作権の私的狭さを超えるのだ、だから共同戦線を、という理屈です。これに対して、2ちゃん側は、エイベックスこそ、著作権の壁を越えると称して単なる営利に共有物を利用している、私的狭さだと主張しているわけです。モナー自体私有物ではないからエイベックスは使い、法律的手続きをとっても、それが、モナーを共有してきた個人に対して「囲い込み」の圧力のように作用するとでもいいましょうか。私有の上では、オープンとタダ取りは紙一重です。

いずれにしても私的所有とは矛盾でねじれていて、分裂したものです。
by kamiyam_y | 2005-11-13 23:37 | メディア資本と情報化 | Trackback | Comments(0)

差異の哲学にあらず

やはり北海道の大学生協の食堂の目玉メニューといえば、牛トロ丼ですが、これ、札幌市内近郊の大学でどうも味がちがうんですよ。

正確に言うと、凍らせた牛挽肉の量と溶けぐあいが微妙に違うんです。

しかし、どの牛トロ丼もやはり、牛トロ丼として妥当しますのは何故でしょう。違うと言うことは、同時に同じであることを前提していて、同じであることは違うと言うことを通じて妥当しています。変化と同一とが同一なのですね。

まあこれはただの食い物で、人間が、米上に牛の肉をのせたものを自己の生活手段として意味づけ、特定の欲求を満たす有用物、すなわち使用価値として消費しているわけで、この意味づけにおいて同一の範囲にとどまるから同一なだけなんですけど。牛トロ丼の範疇を超えてしまうとはどういうことか、空想したい方はどうぞ。

私だって、昨日会議の後廊下を歩いているときと、今こうして書いているときと、この後飯を食うときと微妙に違います。人と人との関係だってそうです。昨日の石川君との会話楽しかったが、今日はなんかぎこちなかった、とかあるでしょ。

もっとすごい同一性が生命です。物質を交換しながら化学反応が循環するわけですから。

でもって何が言いたいかというとじつは、うちの学食もう少しおしゃれにならないものだろうか、という疑問でした。哲学的に展開しようとして内輪ネタに落ちてしまいました。仕事で疲れた今日の脳みそのぐあいを象徴してますね (^_^;)
by kamiyam_y | 2005-11-10 21:00 | Trackback | Comments(4)

日本は、労働時間に関するILOの条約を批准するべき

国連の専門機関である ILO(International Labour Oraganization国際労働機関)は、労働における諸権利を国際的に実現していくための組織です。

何ともなさけないことに日本は、労働時間に関するILO条約46本を1つも締結していません。

厚労省が確かに賃金未払残業に対する是正勧告を増やしているとはいえ、それはまだ日本社会において残業が野放しにされていることの裏返しにすぎません。

労働時間を社会的に規制することは、豊かな成熟社会をつくりだすうえで不可欠なのですから、ILO条約未締結という野蛮状態から早く脱すべきです。

ILO駐日事務所  ILO第1号条約 

森岡孝二『働きすぎの時代』岩波新書、2005年8月、154頁、参照。
by kamiyam_y | 2005-11-07 21:42 | 企業の力と労働する諸個人 | Trackback | Comments(0)

日本の伝統と憲法

「国や社会を愛情と責任感と気概をもって自ら支え守る」(自民党新憲法草案前文)

なんじゃこりゃ。憲法に愛国心を書き込むのはそれ自体自由の抑圧ちゃうか。教育・勤労・納税の義務は契約関係ですが、愛国心は内面の問題でっせ。内面の自由、表現の自由、国家を批判する自由を、制限したいのでしょう。憲法は国民の契約であり、国家権力に対する命令です。「国家を愛せ」は全くの倒錯です。社会も国家も私たちがつくりだすものです。私たちに先行する集団性であれ、巨大な権力であれ、すべて【個人】を唯一の起点として承認されるのです。

ちなみに、私は人類社会を愛してますが、小泉首相のことは別に愛してません。

「国家を愛せ」は、オカルトでしょう。個人なしには実在性のないような抽象物を愛せといっているわけですから。【人間とは全体である】。この命題を、【全体が個人を抑圧してもいいから】信奉せよ、と押しつけるのは、政教分離以前的というべきでしょう。

宗教といえば、いうまでもなく靖国はオカルト信奉集団ですね。自民党を支持する新興宗教の1つみたいなもんでしょう。

兵隊が死んで神様になるというお約束は、日本の遅れた資本主義化の中で戦争社会としての側面において、作られたオカルトです。

靖国なんてぜーんぜん、日本の伝統じゃないですよ。日本の伝統は、朝鮮や中国の人がともに都市に住んでいた古代のグローバルな精神でしょう。つーか、日本と朝鮮なんてちょっと遡れば、同じだべさ。
日本の伝統は、労働者の権利のための闘いでしょう。
日本の伝統は誰もが認めるとおり、パンクとクラブミュージックでしょう。

首相が首相として参拝すれば憲法違反なのは当然。首相としての参拝を合法化してしまったら、思想信条信教の自由に反します。私は、靖国のオカルトを信じない自由があります。靖国が美化しているのは、思想の自由もなく、戦争を批判すると憲兵に捕まり投獄殺害される戦争国家です。ちょっと懐かしい言葉で言えば「反動勢力」かな。

「英霊顕彰」のようなオカルトは、歴史にいっとき湧いた蛆虫として消えるでしょう。「自民党」が大企業とアメリカの政党として純化されれば、切り捨てられる部分です。大企業にとって靖国は邪魔です。資本の国際移動を妨げます。この点、ホリエモンが天皇制もフジサンケイグループの極右オピニオンもばかにするのに、小泉から仲間にされたのは象徴的です。アメリカの世界戦略(革命の輸出と世界警察の自称)にとって必要な日本の軍隊は、戦前の軍国主義のそのままの復活ではありえず、アジアを再び軍事侵略する皇軍ではありえません。

「自民党」のめざす小さな政府(大きな競争と格差・小さな福祉)と大きな軍隊という路線にとって「靖国」は役に立つうちは使われるでしょう。「自民党」が大企業とアメリカの政党として自己規定していくならば、靖国のようなオカルトは、存在の余地が減るはずです。

「自民党」の「自由民主」は、前近代の亡霊とは相容れません。しかし、「自由民主」が大企業の「自由民主」にとどまる限り、それは個人の権利を実現できず、ファシズムと手を切れません。これからもファシズム(人権を抑圧する全体主義)は発生しますが、その中心は、靖国のようなオカルトではなく、高度資本主義に一般的な「監視社会」化なのではと思ったりします。

真の「自由民主」は働く人々の自由民主です。これが平和主義にもつながります。世界で最も先進的な憲法をもし私が改正するなら、自民党案とは主権在民の徹底という意味で正反対に、三原則(人権、主権在民、平和)の徹底だけで、いきます。社会的生産過程の制御をすすめるよう、社会の現実の中での働く者の権利の実現に徹することが、他の自由、権利をも実現し、平和主義の進展につながるはずです。もちろん、天皇は精神的統一としての意味が実態としてなければ、象徴である必要もありません。

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追記(11月4日)

国家権力が国民を制限するのではなく、国民が国家権力を制御するのが近代的な憲法でしょう。
封建社会から「近代」憲法への移行は、人間が人間らしい社会をつくる上で必要な通過点です。

人類史においては、社会的生産が諸個人を飲みこむ全体として形成されます。

「封建制」は、人々の職業・居住地が固定されていますが、これが社会的生産の姿でした。人々は「土地」の付属物として社会的生産に参加していたわけです。社会的生産とは個別的生産を社会的に媒介することです。

「近代」という人間の解放は、社会的生産を流通(交換)が担うことにより、人々が土地から切り離されて法的に自由な存在になることです。

これは、国家権力という形での共同性をいったん社会的生産から切り離して、人々が制御することを意味するといってよい。「国家からの自由」とは社会的生産からの自由であったといってもよいでしょう。

この意味での「近代」とは、「現代」という全体のいわば表層ともいえます。表層としての「近代」では、自由と全体、自由な諸人格の諸関係と社会的生産の諸関係とが調和しているという仮象が支配します。

自由な人格の諸関係、近代ブルジョア社会の理念的姿態が、その真相である社会的生産の諸関係とが矛盾して現象する点に「現代」の「現代」たるゆえんがあります。「現代」は端的に、社会的生産の力が純粋に物象的な力として、資本の自己増殖の力として露わになっている時代です。資本を制御することが課題となっているシステムを現代としてイメージすることもできます。

国家権力が愛国心を国民に要求するのは転倒にすぎません。自由が抽象的な自由、人を排除し、社会的生産を制御しない自由にとどまる限り、他方でこの現代というシステムは、【個人の自由を制限し、個人を全体に服属させよ】とする集団主義の圧力を生みだしつづけるでしょう。それがこの国ではいまだにとても復古的なイデオロギーの衣をまとって出てくるということなのだろうと思います。


追記2 11月14日

「愛国心」の強要にせよ、「政教分離」の否定にせよ、一人一人の人間の自由が制限されることであり、国家権力による個人の自由の制限を拡大する契機になります。

イラク人質事件での異様な被害者いじめにみられるような、「自由社会」の未成熟な状況では、政治を批判したら非国民・国賊扱いされ、軍部の独裁を押えられなかったかつての日本に通じるファシズムを拡大する危険があることは言うまでもありません。
by kamiyam_y | 2005-11-03 20:41 | 民主主義と日本社会 | Trackback(4) | Comments(0)

自民党新憲法草案と靖国参拝

中曽根反動復古節が薄れたとはいえ、天皇制は維持だし(あたりまえか-笑)、前文も地球環境以外は後退だし。12条も、もともと人権抑圧の論理として機能する「公共の福祉」が問題であったのにそこを拡張しましたな。

また昨日の続きですが、20条です。

現行  

第20条 信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。
2 何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。
3 国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。



第21条 信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。
2 何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。
3 国及び公共団体は、社会的儀礼又は習俗的行為の範囲を超える宗教教育その他の宗教活動であって宗教的意義を有し、特定の宗教に対する援助、助長若しくは促進又は圧迫若しくは干渉となるようなものを行なってはならない。

3項ですが、これでも参拝を否定できそうな気もしますけど、違憲の参拝を合憲化するための余計な装飾ですね。

ついでに。改造内閣、外交やる気ないんですね。参拝賛成組の麻生ですから。
by kamiyam_y | 2005-11-01 12:22 | 民主主義と日本社会 | Trackback | Comments(0)