さっぽろ地下鉄のなかでマルクスを呼吸する、世界を呼吸する

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郵政法案は「廃案」です

きのうの日刊ゲンダイ(日刊サッポロ8が月26日号)で日垣隆がちょっといいこと言ってました(「どこへ行くのかニッポン 『郵政民営化反対』と『民営化法案反対』を混同するな!」)。

かつて小泉が海部改革に対して「ご乱心」とよんだわけですが、このご乱心をこんどは小泉が自分でとっていることを日垣は指摘しています。

紹介すべきポイントは2点です。

第一に、法案が「正式に廃案」になったこと。

廃案となった法案に今さら賛成も反対もくそもない。


法案の参院否決に対して、憲法59条にしたがえば、「衆院返付」と「両院協議会」という選択肢があった。それをとらず、「正式」廃案になったわけです。あたりまえのことなんですがね。

第二に、「民営化反対」と「法案反対」を区別すること。

民営化をまじめに考えながらも、この法案、

米国流外資だけを儲けさせかねない、


この法案にはぜったい反対という人物もいる。日垣は小林興起をあげています。

法案反対者全員に改革反対者のレッテルを貼るのは、小泉の反対しているとされる派閥政治とどこがちがうんでしょうかね。
by kamiyam_y | 2005-08-26 23:56 | 経済成長と生活 | Comments(1)

ホワイトカラー労働の生産性と「監視」

小林雅一『プライバシー・ゼロ 社員監視時代』(光文社、2005年6月)に、「SEER INNER」という社員監視ソフトが紹介されています(28頁以下)。

管理者が社員の名前をクリックすると、その社員が操作しているパソコン画面が社員の顔写真とともに表示されます。

もちろんソフトの使用記録、アクセスしたサイトの記録を集めることも簡単。

産業革命における機械の登場は、労働者を監督する労働を駆逐したともいえる。機械が労働者を統制するのだからである。

しかし、ホワイトカラー労働者の職場にパソコンが入り込むと、ふたたび、労働者個人の「パーソナル」な空間が出現した。職場空間はパーティションがきられ、労働者はちょっとした息抜きを自分のパソコンですることができる。

もちろんだれもがゲームばかりしては生産性が下がる。

しかし、職場の規律を、生産性向上をこうしたソフトで行なうことは、同時に、指揮者や現場監督でもなく、ベルトコンベアでもないあらたな「奴隷の鞭」の登場でもある。

情報公開と企業秘密、プライバシー保護とプライバシーゼロとのいたちごっこが指し示しているのは、個人と企業の不一致、私企業と社会の不一致という人間社会の根源的な問題である。

いたちごっこが指し示しているのは、人間が自分たちの力を自覚して活かしあう社会、1人の発展がみんなの発展にうまく媒介されるしくみができあがっていないということではないか。

こうした監視は規律を向上させ生産性を高めるかもしれないが、パソコンを使う労働のすべてが単純な機械的な労働ではない。

社員のモチベーションや、やる気を育てるような、労働の現場での成長こそ、新しい世紀に求められていることではないだろうか。

労働省は、使用者が労働者に対して、カメラやコンピュータでモニタリングを行なう際には、事前通知をし、個人情報の保護に関する権利を侵害しないようにしなければならない、という指針をだしているという(165頁)。

この指針guidelineが厳密に守られているかは、はなはだ疑問だ。

by kamiyam_y | 2005-08-26 23:43 | 企業の力と労働する諸個人 | Trackback | Comments(2)

2005衆院解散。ネットから

gooブログで「緊急ブログアンケート!!」という特設企画がはじまっています。

世間知らずさんの「解散と選挙に関してのブログ」をご覧下さい。
世間知らずさんは、「blogは何かを変える原動力になるのでしょうか??せめて投票率を上げるのには貢献できるかしら??」と問うています。私も、ブログが、コミュニケーションの場として、大きな共同作業、民衆の歴史の力として、また共同の記憶、共有財産として発展することを願ってます。(私のエントリーまでみつけてくださり、感謝です)。

5号館のつぶやきさんが、選挙の争点を論じており、「平和を争点のひとつに」というエントリーでは、「この選挙は決して郵政民営化の是非を問う国民投票などではありません」と主張しています。また5号館のつぶやきさんは、「公私混同選挙」でわかりやすい言葉で、つぎのような大変重要な指摘をしています。

 それは、今回の解散は自民党の党内抗争を解決する手段として国政選挙を使ったという、とんでもない歴史に残る公私混同解散・総選挙なのではないかということです。

 おまけに、この選挙のために我々が納めた税金が500億円とか750億円とかも使われてしまうのは、どう考えてももったいないです。


虎視牛歩さんは、その労作エントリー「恐怖政治でいいのか? 自爆テロ解散の分析」で、「今回の解散も、法律上、違憲とまでは言えないものの、小泉が行政を私物化する解散であったことは明らかだ」と喝破しています。虎視牛歩は小泉による「民営化」政策が、出発したときから、与党内の合意を経ていない私物化によって推進されてきたことを確認しています。

あんなこと、こんなこと。どんなこと?さんは、「賛成、反対、敵、味方。小泉さんて、デジタル人間?」で

キャッチコピーは所詮キャッチコピー。具体的な中身とは違う。

黒か、白か、賛成か、反対か、敵か、味方か。分かりやすい。アピールしやすい。しかしそんなに簡単に分けていいものなのか?


と単純な敵味方論に対して冷静な見方を提示しています。「male chauvinist的なところは以前から鼻についていたが、ここまでとは」と呆れています。
また、あんなこと、こんなこと。どんなこと?さんは、「郵政民営化は誰のため?」で、「国民の福利」に対する責任という単純かつ本質的な一点を確認しています。「民間に任せる部分と公共部門を分け」るというあたりまえのことを落ち着いて思い起こすことが必要です。

詳しく触れる余裕がないのですが、次のかたがたのブログ・エントリーも参照されたし、です。

ニュースの現場で考えること:「郵政」、、、しか無いの?
情報流通促進計画 by ヤメ記者弁護士:ブッシュはこうやって勝利した…小泉は?

社長のホンネ日記:マスコミと内閣支持率世論調査に思う
小泉総理の謀略!? 強引な郵政解散 


選挙関連の発言で気になったものをいくつか。(もちろんネットには膨大な発言があるのでたまたま私が目にしたもののうちからです)

劇場総選挙の裏でなにが動いているのか
(天木直人のホームページ)


天木直人のホームページには、次のようにあります( このまま小泉首相を居直らせてよいのか)

自分が命をかけて通したかった法案の採決の時に欠席した。これだけでも許しがたい不誠実さである…〔引用者による中略〕…

敗北を逆手にとって世間の同情を一身に集める秘策を考えたのだ。記者会見では自分こそが改革者だと言い続けた。靖国参拝などをどう考えるのかという記者からの質問には一切答えず、総選挙の争点を、「郵政民営化に賛成か反対か」の一点に絞る戦法に徹した。

参議院で法案が否決された。今回は廃案というのが議会制民主主義のあたりまえの姿でしょう。ところが、小泉は、それを「逆手にとって」前代未聞の解散劇を演出した。敗北を逆に自己正当化のシナリオに組み込んだ。否決した側が悪で自分は正義の改革者である、と。


独立系メディア:今日のコラム」では、青山貞一氏が「末期的症状を呈する自民~自民党の広報と化す大メディア~」は  において、郵政民営化について、それ以前に問題とすべき課題を摘出しています。

 言うまでもないことだが、それら大マスメディアがそもそも郵政民営化法案の内容をどこまで分かって、理解しているかが問題だが、報道内容を見るとテレビ、新聞とも、法案内容を掘り下げて報道しているものは皆無だ。

道路公団民営化、国立機関の独立行政法人化で分かったように、民営化問題は単なる看板の掛け替えであったり、逆に官僚支配が進んだり、民営化問題の本質は小泉首相が言うほど簡単ではない。

 政権与党として自民党が過去、郵貯、簡保はじめ各種年金などを原資とし、政治家と官僚が結託し、巨大な借金(国債、起債、財政投融資)を行い、後先見ないはこもの、公共事業を津々浦々で行ってきたこと、それにからみ利権を得てきた現実をまずもって明らかにすることが先決である。

 このシリーズで課題を述べてきたように、郵政民営化ももちろんそうだ。そもそも、米国の郵便事業は未だ民営化されていない現実がある。複雑怪奇な郵貯、簡保と国債、起債、財政投融資との関係を白日のもとにさらすことが先決だ。独立行政法人化のように単に看板の掛け替えで公務員数が何十万人減った、官から民へ、小さな政府と言ったところで、意味がない。


また、つぎのも。

増田俊男「時事直言」:国民無視の郵政民営化解散
森田実「時代を斬る」2005年森田実政治日誌[254]


本ブログでの私の関連エントリーは、
恫喝解散は憲法典の欠缺の利用か(8月11日)
 小泉政権とは何であったか(8月20日)

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追記(8月24日)

補足


5号館のつぶやきさんによる争点の洗い出しでは、争点その2:税金詐欺の追放として、「『勝った』人間が税金を私物化」する税金無駄遣いを追放すること、争点その3:我々の生活として、年金・子育て・雇用不安をあげています。

何度でも言いますが、真の争点は郵政民営化賛成・反対ではありません。
隠された論点を出しあいましょう。

私としては、さしあたりですが、争点は、平和・自由・生活・人権であり、それらのための公共性のありかただと整理したいところです。

①平和。地球規模での貧困撲滅や戦争阻止が求められている時代です。憎しみと流血の連鎖を止めること。

②生活。豊かに生きる権利は侵害されてはいないか?どのように次世代に持続可能な生活の基盤をつくれるだろうか。この点からすると、小泉政権下で成立した「介護保険」法や、住宅関連法、サラリーマン増税路線をどう捉えるのか、重要です。

年金、医療保険、税金、雇用といった生活に直結する部分こそ、争点とすべきだと思います。

③自由。なんといっても、共謀罪、国民投票法は、近代市民社会の基本的な人権、表現の自由を弾圧するはず。

④人権。上記3点の核心は、「人権」にあるといえます。
警察による人権侵害に対してどのような対応を各政党はしているのでしょうか。
税金の無駄遣いでもある警察の裏金問題を追求しているのかどうか。

⑤金権政治。金権政治を当たり前とする風土から脱却すべきではないでしょうか。
カネの力に任せた政治は、結局、「個人」の平等な参政権を空洞化するものであり、人権侵害といってもいいものです。

郵政と国債

郵政民営化問題であるかのようにいわれていることの本体は、税金の支出をどのように真に国民本位なものにしていくのか、国民資産をどうのように管理するか、といったテーマでしょう。

ただの当たり前の確認を1つしておきます。

郵政はたしかに国債の引受先ではありますが、郵政が財政悪化を招いている、と単純化するのはあまりに粗雑な犯人捜し・悪玉論でしょう。

郵政は、あくまで、民間金融機関とともに、国債の引受先の1つにすぎません。問題は、国債を発行する側にあります。

国債引受先を自国民から海外に移せば、債権国としての地位はそのぶんどうなるのでしょうか。
国債の引受先が減れば、国債価格はどうなるのでしょうか。そして国のバランスシートはどうなるのでしょうか。

貯金が社会の役に立つように運用されるにはどうすべきか、ということがほんとうに大切なテーマです。

当初、小泉首相は30兆円の新規国債発行枠を公約としてぶち上げたが、あっさり反古。公約を破っても「大した問題ではない」と開き直った。おかげで、いまや国の借金だけで約800兆円。

もはや公務員の削減やサラリーマン増税などで穴埋めできる数字じゃない。

なのに、メディアは「この機を逃すと、郵政民営化はできない」などと煽る。

しかし、郵政をここまでひどくしたのも小泉首相だ。首相は郵政公社に大量の国債・財投債を引き受けさせてきた。もし、郵政公社が(特殊法人のための)財投債の引き受けをやめたら、国債や財投債の価格が暴落して自ら首を絞めてしまう。郵政を株式会社にしたって、国債や財投債が暴落すれば大赤字に陥ることに変わりはない。

(金子勝「天下の逆襲 小泉政権4年間 逆に郵政改革が困難になった皮肉」日刊ゲンダイ8月24日号)
 

あんなこと、こんなこと。どんなこと?さんが紹介されているだんなの屋根裏部屋さんの郵政論も面白いです。「郵政民営化私論(1)」では米国の規制改革要望書の文面がアップされています。必見です。アメリカ陰謀論ではありません。官邸の主張とそっくりだという事実です。

無駄な公共事業や天下り用の特殊法人についても、郵政が財投債の引受先であるのは事実。しかし今民営化することがこれの解決なのでしょうか。

余談

その1。週刊朝日で森喜朗が、ビール缶つぶしはお芝居だったと暴露しちゃってます。

その2。刺客。
いいかえると「暗殺部隊」です。
こんな物騒なものを送りこむのも、要するに、法案を通すため、数を確保するため(といっても参議院には直接には関係ないのだが)。真面目な政策論議などどうでもよいということです。

佐藤ゆかりなんて、日刊ゲンダイによれば、小泉の郵政民営化案に「国債消化優先」と落第点をつけていたそう(8月23日号)。
同じく、ホリエモンも、選挙には行ったことがないとか、首相は郵政に拘泥しすぎ、とか発言しているとか(同上)。

その3。今回の解散。合法的なら何をしてもいいのではない。今回の解散劇が合法的であろうとなかろうと、数ある選択肢のうちから、解散を舞台とするシナリオをとったことの当否が問題です。
最も民主的といわれた憲法からファシズムは登場したのですから。

その4。日刊ゲンダイ25日号。憲法学の佐藤司はマニフェストは民主党の方が優れているとのべている(2ページ)。

その判断はさておくとしても、テレビは視聴率稼ぎのため刺客の話ばかり。テレビとは異なる個人個人の観点は、やはり、ネットですね。テレビのオウム返しも多いですけど(笑)。

同号で田中康夫が、小泉政権下で発行された「赤字国債」(!)が170兆円、という点を指摘しています(「奇っ怪ニッポン」)。

「アメリカでは何故か、郵便事業は国営の儘です」


日刊ゲンダイ3ページ「『自民大勝』でも郵政法案はパー」では、衆議院選挙で自公が過半数とれば法案が通過しても参議院ではまた否決される。そうなったら再び解散するのか?と問うています。

1回750億円かかる総選挙。

やっぱり解散はおかしい。

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追記2 8/25

あんなこと、こんなこと。どんなこと?さんのエントリーで知りました。
→ 総選挙はてな
各政党の仮想株式取引という遊びで政党評価のアンケートをしています。

森永卓郎さんが衆院解散について論評をブログで公開しています。
一週間遅れですが、経済・社会問題コメント掲載開始

全国津々浦々に浸透している郵便局のネットワークはどうなるのか。過疎地は不公平な扱いでいいのでしょうか。

過疎地域の7220の郵便局は維持されることになっていますが、そこで郵便貯金や簡易保険のサービスが提供される保証はありません。


そして、郵貯会社と郵便保険会社の株式をどうするのか。大きな問題です。もし外資になれば、運用は米国国債などに向けられ、国民の資産がドルとともに暴落、という可能性もあることを森永さんは指摘しています。

つまり、今回の自民党の紛争は、郵政民営化の是非を争うのではなく、郵便貯金や簡易保険のサービスを大都市部に限るかどうか、あるいは郵便貯金や簡易保険を外資に売り渡すかどうかという紛争なのです。

ドルは暴落の瀬戸際にあります。もし、ドルが暴落すれば、国民の大切な金融資産が半額以下になることも十分あり得るのです。

by kamiyam_y | 2005-08-22 22:44 | 民主主義と日本社会 | Trackback(8) | Comments(3)

「願い」

▽ 仕事しながら、“ケツノポリス4“きいていたのですが、

13曲目で手が止まってしまいました。

まじめに聴いてみたら、作り手の意図が見え見えなのに、やっぱり

涙がこぼれてしまいました。

戦争をしないでみんなが豊かに生きることのできる道を探ること。

これ以外に経済学の目的なんてあるのだろうか?

進歩よりも人命でしょうが。幼い命を救うことでしょうが。

考え込んだというほどではないのですけど・・・

▽ 帰り道、豊平の町内会の祭で、大学のよさこいチームと平岸天神が演舞しているのに遭遇。

やっぱりビール飲んでしまいました。

頭が働かないのでお休みなさい。 
by kamiyam_y | 2005-08-21 22:13 | Trackback | Comments(0)

小泉政権とは何であったか

「小泉的なるもの」の本質についてかんたんな覚書です。曖昧さや謬見もあろうかと思いますが、いろいろな考え方や立場のなかでの1つの主張として、参考のためにアップしておきます。

このたびの解散と選挙においても、既存のマスコミは、小泉政権の「劇場」型政治をささえる舞台装置として働いています。

個人の社会的陶冶において新世紀の展望が開かれてくるものだとすれば、無内容なスローガンを弄ぶ小泉の全体主義的手法は個人の無関心を助長するだけであり、こうした手法からの脱却こそ、専門家が自覚的に主張すべきことでしょう。もちろん、専門家が、政権の実質についての冷静な分析と評価を、議論の素材として提供すべきだということはいうまでもありません。

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by kamiyam_y | 2005-08-20 18:09 | 民主主義と日本社会 | Trackback

8月15日


アジアで2000万人、日本で310万人以上の命を奪った戦争が集結して60年。

国家や政治的党派の一部は、歴史を偽造し、集団的被害妄想を煽って自己保存をはかろうとする。こうした欺瞞が、「世界の平和と人類の福祉」(教育基本法前文)にとって、何も新たなものを生みだすことはないことはあきらかだ。

歴史捏造を私利追求の手段とする国益主義と、排他主義という粗野な集団幻想は、「平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと務めている 国際社会において、名誉ある地位を占め」(憲法前文)ようとする普遍的課題にとっては、何の新たなものも生みださない。

それは、まさに乗り越えるべき「偏狭」そのものにほかならない。

隣人の国民性を決めつけたりする想像力の欠如や、歴史を外交カードに矮小化するような国家主義は、永遠に除去すべき「専制と隷従」そのものではないか。
by kamiyam_y | 2005-08-15 15:27 | 民主主義と日本社会 | Trackback | Comments(0)

恫喝解散は、憲法典の欠缺の利用か

▽ テレビはあまり見ないなんてこのまえ書きましたが、NHKでいま放映されている自然スペシャル、ついみてしまいます。

雨期にジャングルに拡がったアマゾンの川面を、ナマケモノがゆったり泳ぐ姿など、めずらしい映像がいっぱいでおもしろいです。

アマゾンのカワウソが、ピラニアをむしゃむしゃ音を立ててむさぼり食う様子なんて、とっても癒されますよ。
自分の卑しい姿が大写しにされているようで、魂の救済を感じます。んなわけないか。

撮影スタッフのみなさん、ご苦労様。よくぞとったという映像が多く感心です。
政治家に弱いNHKも、情報の集積点としては公共性がありますな。

▽ お盆休みですね。

世間に合わせて、私も昼間からビールなんぞ飲んでみました。

幸せな気分ざんす。

最近の数日は、気分を盛り上げたいときは、湘南乃風のRockin'Wild~10-FEET REMIX~。

今日3回くらい聴いたな。

おなじCDに入っている「2005年4月6日、大日本警告JPNへの意義主張」って曲、すべて賛同するわけじゃないんですが、「アメリカが作るのか日本の政治は」とか「×××の幹事長の名前すらもわからねぇ」というフレーズ笑えます。

で、あっしの頭の中でこれをきいた妖精さんが、ささやいてきました、「政権のこと、あんたも、考えなかといけなか、酔い覚ましにどうかいな」。

▽ 今回の衆議院解散について、「郵政解散」というネーミングを定着させようとする小泉に対して、日刊ゲンダイは

「自爆解散」

なんて言ってます。私は「粛清解散」「恫喝解散」とでもよぶことにします。郵政法案反対議員に対する脅しの実行だからです。議員にとっての「落選」の恐怖にしても、それを脅しに使う取引にしても、政策や理念よりも貨幣の権力がものを言う顛倒があらわになっている、システムの亀裂にすぎません。

衆議院が内閣不信任決議をしたわけでもなく、ましてや衆議院では法案は通っている。

たかが郵政法案です。

衆議院解散という速報をきいてまずおもったのは、これって憲法に則っているのか、憲法のグレーゾーンの利用ではないのか、ということです。

衆議院解散には、内閣不信任決議に対する69条解散と、天皇の国事行為7条3号による解散とがある、というかんたんな説明だけではよくわかりません。手元にある憲法のテキストをみてみます。

辻村みよ子『憲法 第2版』(日本評論社2004年・初版2000年)から。

国会の召集権についてまず。

召集の決定権の所在については、……一種の憲法規範の欠缺であり、助言・承認権をもつ内閣に実質的決定権限があると考えるのがやむをえない帰結といえよう。

助言・承認が国事行為の実質的決定権を含まないという立場にたつと召集決定権者を確定することが困難となるからである。この点、学説では、国事行為には本来実質的決定権が含まれないとすると、7条以外に根拠を求めることが必要となるため、憲法53条が臨時会の召集について「内閣は、国会の臨時会の召集を決定することができる」と定めることから、すべての召集権が内閣にあると類推するものが多い。

しかし、常会(52条)や特別会(54条)については召集権の主体は明示されておらず、比較憲法的にみても国会の自律集会制度もありうる以上、類推によることは立憲主義に反することになる。そこで、7条2号を国会召集の原則的根拠規定と解さざるをえないとする見解(杉原・憲法Ⅱ500頁)も主張されるが、他方、天皇が実質的決定権を有すると考えることは象徴天皇制の構造自体から問題があり、……。(89頁。読みやすくするため行替えを入れた)


ふうん。天皇の国事行為として7条2号は、国会の召集をあげています。象徴天皇制であるから、天皇の国事行為には「実質的決定権限」は認められない。とすると、召集決定権は「助言・承認権」をもつ内閣にあるということになる。しかし7条以外に根拠を求めると、類推となり立憲主義に反する。そこで7条2項を国会召集の根拠規定とすることになるが、そうすると、天皇に実質的権限を認めることになってしまう。

いずれの見解も一貫しないというわけですが、この点を論評する必要はありません。興味深いのは、天皇の国事行為の「実質的決定権」が憲法規範に明記されていないことが、「憲法規範の欠缺(けんけつ)」とよばれている点です。

当然、7条3号による国事行為による衆議院解散にも、同様の憲法学上の論争があることになります。

解散は、議院に属する議員全員に対して、その任期満了前に議員としての地位を喪失させる行為である。議会解散権は、君主主権から国民主権への展開、近代の「純粋代表制」から「半代表制」への展開のなかで重要な機能を果たしてきた。(475頁)

現代の議会政治や議院内閣制においては、任期満了前の解散・総選挙によって民意を的確に反映させる機能や、内閣と議会との協調関係の破綻に対処して内閣を安定させる機能などがある。(同上)


解散が果たすこの役割そのものには異論はないとしておきましょう。
そうだとしても、学説状況は単純ではないのです。

憲法学説というのは、念のためいえば、現代社会の自身の自己認識であって、純スコラ的であっても、単なる机上の空論ではなく、システムの正統性という現実的な要因をなす現実的な力です。社会的な運動や対立が自覚的な姿をとる1つの頂点が、国家権力をめぐる憲法論にある、といってもいいでしょう。

そこで学説は、(I)衆議院自身が解散決定できるとする自律的解散説(①)と、(Ⅱ)内閣に実質的解散権があるとする他律的解散説に分かれ、その根拠をめぐって、後者(Ⅱ)はさらに、7条説(②)、65条説(③)、議院内閣制等の制度全体を根拠とする制度説(④)に分かれる。また、解散は69条の場合に限定されるとする69条限定説(A説)と、69条以外の場合にも解散を認める69条非限定説(B説)に分かれ、前者(A説)では解散権の根拠として69条をあげることになる(69条説⑤)。これに対して、後者(B説)では69条以外に根拠を求めることが必要となるため、学説状況は錯綜していた……。(同上)

これらのうち、解散の根拠を7条に求める②の7条説は、厳密には、天皇の解散は形式的・儀礼的な表示行為に限定されるため、実質的決定権は「助言と承認」を通して内閣にあるとする7条説(a)と、7条三号の解散は本来政治的なものであるとしても天皇は拒否権をもたないため結局内閣の「助言と承認」に拘束されると解する7条説(b)(杉原・憲法Ⅱ290頁)に区別される。……とくに7条説(a)については、内閣の「助言と承認」は天皇の形式的・儀礼的解散宣示行為についての「助言と承認」となるためそこから実質的権限は導かれないとする批判が提示される(杉原・憲法Ⅱ291頁、樋口・憲法I315頁参照)。(475-476頁。)



実質的解散権をどこに求めるかで、

Ⅰ ①衆議院による自律解散説
Ⅱ 内閣による他律的解散説

があり、後者は、その根拠によって、

 ②7条説
 ③65条説
 ④制度説

に別れる。7条説に対しては、「内閣の「助言と承認」は天皇の形式的・儀礼的解散宣示行為についての「助言と承認」となるためそこから実質的権限は導かれないとする批判が提示される」(476頁)。

解散も、

A説 ⑤69条限定説 69条の場合に限定されるとする
B説 69条非限定説 69条以外の場合にも解散を認める

とがある。

実際の運用では、憲法施行当初は野党が69条限定説をとって非限定説をとる政府と鋭く対立したが、結局、69条による解散は、1948年12月23日(第二次吉田内閣)、1953年三月14日(第4次吉田内閣)、1980年五月19日(第二次大平内閣)で実施されたのみで、それ以外の解散はすべて7条三号に基づいて実施され、69条非限定説(B説)が定着している。……

……憲法の明文上の限界や、主権者の意思を常時反映させるための解散の民主的な機能を重視する必要があることからすれば、解散の現代的機能を前提とした現代的な制度説(④')を構築することも意味があろう。……

……ただし、内閣による解散権の濫用や恣意的な運用を制約する意味では、69条限定説が重要な意味をもつことも否定できず、この立場を再考することも今後の課題といえる。(476-477頁。行替え引用者)


7条解散の既成事実化を追認する形で学説も、69条非限定説が定着したということでしょうか。明文上の規定との矛盾を回避するために、解散を民意の問い直しとして説明する見方も出てきたのでしょう。

しかし何をもって民意とみなすのか。内閣による解散権乱用は制限されねばならないし、ましてや、首相に解散権があるかのようにみなすのも、どういうもんなんじゃ?

隣国や現場公務員を悪玉にして、動員される思考停止、また終戦記念日に動員され、選挙にも動員されるのか。その程度の成熟なのか、この社会は。
スローガンは空疎であるほど社会的錯覚を増長する。オウム返ししやすい台詞ほど世論操作に効果を発する。改革の「信念」とかさ。保守メディアがこんなクーデター的喜劇を讃えるのも皮肉なものだ。

もっとも、無知の大河が歴史の振子を大きく揺らすのであれば、こうした喜劇も、雑多な政治団体を、新自由主義、保守主義、社会民主主義、第三の道等に振り分ける作用を果す可能性がないともいいきれないけど。

樋口陽一・大須賀明編『日本国憲法資料集 第4版』(三省堂)みてみましょう。

解散権濫用を戒める保利前衆議院議長の遺稿「解散権について」(1973・7・11)
〔1979年2月に死去した保利茂前衆議院議長が、在任中の前年7月に大平首相(当時)周辺から流された衆院の解散説に反発、解散権のありかたについて見解をまとめていたことが、死後明らかになった。以下その要旨〕

……内閣に衆議院の解散権があるといっても、内閣の都合や判断で一方的に衆議院を解散できると考えるのは現行憲法の精神を理解していないもので、適当ではない。

……現行憲法下で内閲が勝手に助言と承認をすることによって、7条解散を行うことには問題がある。それは憲法の精神を歪(わい)曲するものだからである。

……“7条解散”は憲法上容認されるべきであるが、ただその発動は内閣の恣意によるものではなく、あくまで国会が混乱し、国政に重大な支障を与えるような場合に、立法府と行政府の関係を正常化するためのものでなければならない。“7条解散”の濫用(らんよう)は許されるべきではない。……(1979・3・21朝日新聞)(156-157頁)


7条は解散権の根拠としては曖昧すぎ、厳格に運用すれば69条が根拠になるはずだが、さしあたり、7条解散説を仮に認めるとしても、郵政法案の参院での否決が、解散を要する異常事態を、「国政に重大な支障を与えるような場合」を意味するのでしょうかね。あるいは、立法府による内閣不信任を意味するのでしょうかね。否決した参院は元のままでっせ。

郵政の陰に隠されたサラリーマンの負担増(定率減税廃止、所得税控除縮小等々)、分配の変更なのだから、重大な国民的議題ではないですか。共謀罪だって終ったわけではなく監視が必要。重要法案ほかにもいろいろあるし。

冷静になって考えてみましょうよ。ワンフレーズポリティックスの支配から脱却できるよう、単純な敵味方論で煽られないよう。

国家機関における最高の権威は理念的には立法権にあります。

行政は、立法としての国民の意思を執行する機関です。執行権力を抑制するための理念的枠組みが、立法権の至上性にあるとすれば、仮に立法権が国民から大きく独立化しずれてしまったばあい、この立法権の再構成をする権限はどこにあるのかといえば、国民にあるはずです。首相の権限は、そうだとするとどこに由来するのでしょうか。

執行権力が世論を僭称することは、専制の正統性を主張しないかぎりは、いや、そういう主張をしてさえ、正常な民主政体においては筋の通らない話でしょう。議会解散権の実質的な決定権が首相のものとして無制限に承認されているわけではありません。また、多数派である自民党自体がもともと郵政をめぐっては分裂していたわけです。

立法権の空洞化も、憲法の空洞化も、現実の巨大な進展を背景にしている現象でしょう。とすれば、こうした空洞化も、現実的な基盤があり、それをどう変えていくのかが問われます。こうした空洞化も、いわばその反作用として民主主義を深め、内容を充填していくのであり、民主主義の発展という新たな現実性に道を開く歴史の契機です。

民意の反映、解散権の意味と国際比較、など考えたいことたくさんあるのですが、とりあえず、感じたのは、今回の解散を「粛清解散」と規定するとすれば、これは、あたかも、株主から選出された経営者が株主総会の意向はけしからん!と株主をクビにするようなものではないか、ということです。


衆議院解散とは、憲法上の根拠をめぐっては、こんなふうに論争のある大問題!だということでした。

▽ また酔いに行きます。じゃあ。

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追記 8月12日午前2時

帰宅してから読み直したら、文章が少し酔っている。根本的に直すのは無理なので、ちょっと加筆・修正しました。

追記2 11時48分

「単純な敵味方論で煽られないよう」と上に書きましたが、けさ朝日などの大新聞の社説をみると、おおかた小泉支持的で、敵味方をハッキリさせるのが小泉の手法なのだと、大衆の思考停止を利用するスタイルに無批判でした。大衆の無知を扇動するスタイルに無批判でした。

古い自民党を解体するというイデオロギーにとっては手法は何でも許されるのでしょうか。イデオロギーの勢いの前には、冷静さもふきとばされて当然なのでしょうか。

(このイデオロギーの背景には、じっさいに自民党が分裂的だということがある。理念的にも市場主義と国家主義が手を組んだりケンカしてみたり。地域的利害や産業的利害を代弁する集金組織の集合体、雑多な利害を集中する装置、共同体的利害組織としても、分裂的です。高度成長に役立った同じ要因が、重荷に転化している現状は、他の分野と同じです)

これに比べると、今日の「日刊ゲンダイ」は「『否決されたら解散する』と脅していたのは野党ではなく自民党内の……身内だ」「後任される前議員だって『法案には反対だが、いま解散されるのは困るから賛成した』というヤカラがゾロゾロいた」と論じていました(2面)。

いくつかおもしろいコメントも掲載していたのでちょっと引用しておきます。(日刊ゲンダイは、個人のエッセーはたまに???というのが載るんですけどね)。

「自民党から反対票が出たことは総裁としての指導力のなさの結果で、……党議拘束を破ったというなら、自民党規約にのっとって党紀委員会にかけて処分すればいいことです。なのに参院で否決されると『国民に信を問う』と問題をすり替えた」(政治評論家・本澤二郎)。

「ハナから小泉首相は『法案修正には応じない』と突っぱね、必要な作業を一切放棄してきた。……首相は立法権を侵害し、議会政治を否定していることを自覚すべきです」(明大教授・山田朗)。


5面の高橋乗宣「日本経済一歩先の真相」も

「郵政をめぐる国民投票」という理屈は「冷静に判断すればムチャクチャな論理」で「解散」ではなく「内閣総辞職の場面」

だと述べ、

7面の黒木亮「国際金融裏読み&深読み」も、候補者が選挙費用を制限されている英国とは異なり、

「日本では選挙に莫大な金がかかる。それゆえ使った金を取り戻そうと政治が腐敗するのだ」と論じる。黒木はまた、英国における官僚と政治家の接触禁止をあげ、「日本のように政治家が役人を呼びつけてさまざまな要求をし、選挙民も、公共事業や補助金を地元にもってきてくれる政治家がよい政治家と思っている国とは格段の違いがある」

としています。

ケインズ主義などとイメージされる資本の国家は、日本において妥当するさいには、日本的・共同体的(一種アジア的)な土壌において育ってきました。

貨幣の権力は皮肉なことに、法治国家というよりもこうした共同体的な人治国家においてむしろ、あからさまかつ野蛮です。

偉い議員さんといえば、地域や産業から金を引き出し、役人を「呼びつけ」中央から見返りをもってくる政治家とみなされるような風土において、天下の回りものである貨幣がもつ公共性は、奇妙に特殊利害として渦を巻き無秩序に妥当するのでした。

そんな諸利害のごった煮が、自民党であったわけです。


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追記3 8月22日

▽ 他の国の憲法を調べてみましたが、首相の解散権を憲法で定めているのは、ドイツ連邦共和国基本法。やっぱり天皇の国事行為による解散はあいまいです。

第68条 (1) 自己に信任を表明すべきことを求める連邦総理大臣の動議が、連邦議会議員の過半数の同意を得られないときは、連邦大統領は、連邦総理大臣の提案に基づいて、21日以内に連邦議会を解散することができる。

ちなみに戦前のワイマール憲法では「ライヒ大統領は、ライヒ議会を解散することができる」と無限定的だったようです。 (樋口陽一・吉田善明編『解説 世界憲法集』三省堂・第4版2001年)。

▽ 付けくわえる点はないのですが、いくつかのブログを拝見して確認をひとつ。今回の解散劇はここに書いたように形式的にも問題のあるものであり、それを利用した小泉の行動は、形式上違法ではないとしても、少なくとも、内容的には、「国政に重大な支障を与えるような場合」ではないような出来事を、解散権行使の対象にすり替えたものです。形式的合法性だけではなく、内容上のすり替えこそ、内容上の正当性破綻こそ、冷静に見つめる必要があるかと。ファシスト的資質は合法的に貫徹されるのですから。
by kamiyam_y | 2005-08-11 19:40 | 民主主義と日本社会 | Trackback(5) | Comments(0)

成熟する資本のシステムと脱資本主義性

21世紀理論研究会編『資本主義はどこまできたか 脱資本主義性と国際公共性』日本経済評論社

という共著を出しました。「成熟する資本のシステムと脱資本主義性」というタイトルで序章を書いてます。

「存在する矛盾」を社会システム総体の運動原理として承認する点に、マルクスの「現実的=批判的」な現代認識の決定的な特質がある。これを承認することが、社会科学の基礎づけにおける困難を解きほぐす選択肢を発見することになる。この点を序章では論じています。

主張には、いくつかの柱があります。

第1に、アンチ・グローバリゼーション論のもつ正当な批判の意図を汲みつつ、グローバリゼーションをはじめとする資本主義の最前線の成果のうちに創出されている資本主義の到達点を確認することです。資本主義の発展の頂点が、資本主義自身に内在する資本主義の自己超出をもたらすことといったら哲学的にきこえましょうが、極めてリアルなつかみかたです。資本主義のなかに生まれている自由な人間社会を顕在化することだけが、高次の安定への移行であり、いってみればまあ「革命」の意味です。

第2に、一見精緻な構造分析よりも資本主義の過渡期性を論じることです。資本主義のダイナミズムそのものを、資本主義の歴史的役割の遂行として認めることが展望を与えます。

単なる市場主義が、資本主義の対立面をまったく覆い隠す役割を果たすとしたら、市場お任せ主義を批判する議論はより高度の議論です。しかし、独占資本による支配という図式を理論の前提におくとすれば、労働者は中小企業とともに絶えず支配の客体にとどまり出口がありません。資本は他者であり、労働者はつねに被害者という議論は、資本のなかに蓄積する労働する諸個人の普遍性(自己)を見失い、資本主義における民主主義的制御の発展を過小評価します(あるいは永遠の改良を説く悲観主義に陥ります)。

物象化されたシステムによる管理の高度化を説く社会的警鐘も、資本主義を人格的対立やら階級対立に解消する議論よりはましですが、資本主義の到達点を理論のうちに統一しません。

資本に対する文化の多元性を対置する議論も、アメリカン・グローバリゼーションに対する根底的な批判にはなりえず、現実的な対置はできないはずです。資本の展開に対して、批判的実践が、大企業化や国際化を避けるべきものとしてとらえるならば、地球規模での制御という課題に本気で取り組むことができないでしょう。

第3に、現代の最前線を資本主義の自己否定性の最前線ととらえることにおいて、19世紀のマルクスは21世紀に連続しているととらえることです。資本主義の生命性が媒介されるありようを、労働する諸個人に即してつかむ資本論の理論的尺度は、現在においてこそ生きています。

「自由な人間社会」の諸条件を資本主義の矛盾論的展開のうちに冷静に分析することが、マルクスの方法的態度がもたらすすぐれた学問的寄与である。そうだとしますと、現代の諸現象のうち、どこに着目すればいいのか、という対象選択をする基準は、資本主義の理論的理解のうちに存在します。現代の諸事実をすべて集めてから分析したら理論になったり、方向性が見えてきたりするわけではありません。資本論の矛盾論的把握が対象を批判的に選択します。ここに理論の批判的機能の重要な意義があります。

矛盾論的把握は、労働する諸個人の自由な社会形成(「人権」)と、資本に力として疎外されて形成される社会的生産(諸個人の客体の自立化である「資本」)とが対抗する点に「現代」の「現代」たるゆえん、過去からの不断の発展をみます。

この対抗軸の展開として、すぐれて「現代」である現象は、わたしたちにとって「常識」的にも重要な現代的課題であり、この現象において理論は実践に接続しています。

こうした「現代」として、現代所有現象、信用と利子生み資本の現代的展開、現代消費社会、情報化、グローバリゼーションなどの諸現象のうちに、生きた矛盾を把握することが、現実的かつ批判的、革命的かつ現状維持的な、マルクスの経済学批判といっていいでしょう。

こうした「現代」を総括する決定的な場面としてつかまなければならないのが、「持続可能性」という合い言葉に表される問題群です。

社会的生産の姿として発展した世界市場は、高度な産業を連結し、私たちの「第2の自然」です。この第2の自然に対する国際主義的な、総合的制御の試みのうちに資本主義の頂点の問題が剥き出しとなっています。社会的生産過程を制御できるかという点に、資本主義が資本主義にとどまりえない資本主義の限界問題が露出しているのです。

人権・労働・環境という問題群は、資本が、私たちの社会的生産・共同環境の自立化が、それ自身の諸前提・諸条件と衝突し、制御すべき社会的生産として露出しています。民主主義・経済・自然という問題場面において成長主義の負の遺産を解消する要求として、社会的生産を真の社会的生産にすべき要求として、資本主義の自己否定性が現象しています。

「国際公共性」とはまさにこの「限界問題」を自覚させる対決点をさしています。

3点ほど、私の章の主張を整理してみました。
本書は全体として、現代を乗り越えようとする実践的かつ学問的な選択肢を提出し、資本主義の21世紀の到達点のうちに、真の対決点を見いだす構えで書かれています。
私の章はかなり難解な叙述と受け取られるかもしれませんが、他の章は、労働、金融、国際化、地域などより個別的な展開に絞って書かれています。
by kamiyam_y | 2005-08-08 19:56 | 資本主義System(資本論) | Trackback | Comments(0)

格差拡大という進歩

▽ グローバリゼーションに対してそのさまざまな弊害や犠牲を指摘し、それを解決していく努力は重要である。そうした犠牲を覆いかくす市場お任せイデオロギーは不要である。しかし、グローバリゼーションそのものに反対するならば、それは資本主義のもたらす進歩について無自覚な論議にすぎない。古い資本主義に依拠するのではなく、新しい最新の資本主義の産物に依拠することが進歩的だ。これは情報化、消費化、個人化、民主化、国際化、など資本主義のもたらす諸現象について一般的にいいうることだ。民族自決もいまや右翼のスローガンである。グローバリゼーションは先進国内部の格差を拡大し、国際的な富の配分の問題を提起することによって進歩的である。
もちろんグローバリゼーションは労働力の移動までふくみ、いずれ、日本にいながらアフリカ的感性と出会い、オセアニアのふるさとの話を聞き、といった楽しみが味わえるようになる。

▽ 橘木俊詔「深刻さ増す日本の貧困」(朝日新聞2005/8/1夕刊4頁)はOECDによる貧困率の比較調査を紹介し、貧困が深刻な経済問題となっており、撲滅を図る政策が重要となっていると、自身の貧困研究からする見解を述べている。OECDの調査によれば、日本の貧困率は第5位で、アメリカとたいした差はない。不況、労働条件劣悪化、高齢者間の貧富の格差拡大、離婚率上昇にともなう母子家庭の所得の低さなど、橘木は理由のいくつかをあげている。

一つだけ、離婚率上昇について思うところを述べておきたい。離婚率低下をめざすのが一見すると解決策のようにみえるが、それは問題の所在をはじめから理解していないことからくる思考停止であるか、家庭を美化する共同体主義的・保守的幻想にすぎない。母子家庭の不利益が歯止めにならないのだから、離婚するなという説教は非現実的であり、個人の権利と選択肢の拡大として、離婚による女性の不利益を解消することが、基本的方向である。親が離婚した子どもはとっても立派に育つ。
by kamiyam_y | 2005-08-02 22:06 | 経済成長と生活 | Trackback