さっぽろ地下鉄のなかでマルクスを呼吸する、世界を呼吸する

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剰余価値率問題

資本論の剰余価値率あたりの頭の整理に使えたらどうぞ、ということで。
何事も反復と継続です。

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想定(場面の確認)。
以下では、1個の産業資本という資本主義の事実上の主体を、その一般的な(どんな資本主義にも共通する)運動において、対象全体から、労働の在り方に従って選択している。1個の産業資本が剰余価値を生みだすという関係、賃労働が、労働力価値よりも多くの価値を生みだすという剰余価値の在り方だけをみる。この在り方こそ、「価値増殖」が転倒的に支配的な過程となる現代の大きな枠組みをもたらしている。
ここでは対象により、1個の産業資本がすべての産業資本の代表見本である。1人の個人資本家が社会全体の会社や資本家の代表見本である。産業資本の諸々の姿態として意味をもつ商人資本も利子生み資本も把握の範囲外である。
競争(産業資本どうしの関係)の作用による価値と価格との乖離は想定せず、また、慾求と使用価値との関係(需給)による価格変動、同一商品の偶然的な価格の差なども個々での対象ではない。
要するに価格はここでは単純に価値(対象化された労働)の金量による表示にすぎない。数値も単なる例にすぎない。


1 ある社会の標準的水準において、労働者が生涯を通じて労働力を販売する日数が12000日である。彼が必要とする必須生活手段の価値(労働者の生活費、家族費、修行教育費)が、6000万円であるとする。このばあい、労働力の日価値は?


2 1労働日が8時間。労働力価値を生産する必須労働時間が4時間、剰余価値を生産する剰余労働時間が4時間であるとすると、剰余価値率は?


3 続けて。労働日が2時間長くなったが、労働力価値が変らなければ、剰余価値率は?


4 1労働日8時間。労働力の価値は6000円。抽象的労働1時間が加える新価値の分量が2000円であるとする。剰余価値の量と率は?


5 同じく、1労働日8時間、抽象的労働1時間の対象化が2000円の新価値として妥当する場合において、生産力が上がり、労働力再生産に要する必須生活手段価値が6000円から4000円にまで下がった。剰余価値の量と率は?


6 1時間の抽象的労働が新価値1400円をもたらすとする。労働力の日価値を4000円とする。労働日が10時間とすると、労働者1人当りに附き1労働日に生産される剰余価値は?また剰余価値率は?


7 労働日が10時間、そのうち必須労働時間が4時間、剰余労働時間が6時間である場合、剰余価値率は?
 また、必須労働時間が変化せず、労働日が延長され12時間にした場合、剰余価値率は?


8 一労働時間が、£20(ポンド)の価値を生む。労働手段価値(固定資本)の廻転は捨象する。£200,000貨幣は、抽象的労働    時間の対象化である。この過去の労働の代表である貨幣を資本として投下する。

この貨幣の所持者(資本家)は、£180,000で、鉄鉱石10トンを買い入れる(不変資本c)。

同時に、この分量の鉄鉱石を製鉄に変える生産過程に、充用する労働力を買ってくる(可変資本v)。労働力の日価値は£40。この労働力を一日に10人の労働者から買う。買い入れは、50日間を毎日。とすれば、この可変資本vは、£20,000。

剰余価値率y%で剰余価値が附加されながら、鉄鉱石すべてが消費され生産が終了した。その生産終了時点で、商品製鉄がふくむ総価値(生産物価値)は、£260,000であった。
さて、この£260,000のうち、抽象的労働がつくりだした価値生産物(新価値)は、v+mである。
このうち剰余価値mはいくらで、剰余価値率yは何%か?


9 一回の生産期間に生産手段をすべて消費しきってしまうとする(固定資本の廻転の捨象)。貨幣資本1000万円を、不変資本として800万円投下し生産手段に変え、200万円を可変資本として投下し労働力に変える。剰余価値率が160%であるとする。生産期間を経て、生産された総生産物(商品資本)の生産物価値(総価値)は、不変資本c+価値生産物(v+m)である。この総生産物価値の成分は、(   )c+(   )v+(   )mである(単位万円)。


10 固定資本は捨象する。4000ドルの資本を、3000c+1000v の割合で投下する。剰余価値率は150%である。この資本が生みだす剰余価値はいくらか。


11 400c+100vという構成の資本がある。剰余価値率を200%とすると、この資本が毎期生みだす剰余価値はいくらか?固定資本は省略。


12 ある資本家が1労働日に、p量のa商品を生産しているとしよう。
 この1日の生産に消費される原材料・燃料(労働対象)は、r量のb商品、s量のc商品、t量のd商品、合計200ドルである。
またこの生産に使用される機械・容器等(労働手段・固定資本)は、機械eだけであり、これは60000ドルで、耐久期間(使用日数)は3000日。
生産手段Pm はこれだけとする。

労働力の日価値は2ドル。1日に雇う労働者は、20人。

この生産手段と労働力を消費して1日に生産されたp量のa商品の総価値(生産物価値)は、300ドルであった。

この場合、労働力の消費によって生まれた新価値(価値生産物)は何ドルで、そのうち剰余価値は何ドルか?剰余価値率は何%か?生産物価値の成分を記号を用いて表せ。


13 ある資本主義社会で、労働力商品の日価値が、2万円であるとする。資本家Aが、一日に生産するのに要する生産手段の価値が50万円(固定資本は省略)であるとする。この資本家が一日に雇う労働者は、5人。剰余価値率が、200%である。この労働者5人が一日に生みだす剰余価値はいくらか。この資本家が一日に生産する生産物価値(商品資本の価値)はいくらか。


14 7000c+2000vの構成で資本を投下し、回収された生産物価値が、12000であったとする。固定資本の回転は捨象する。剰余価値率は何%か?

解答はこちら
by kamiyam_y | 2005-07-22 21:19 | 資本主義System(資本論) | Trackback | Comments(0)

アンシャンレジーム(市民革命以前的旧体制)は現代国家の隠された秘密である:鹿砦社

さっきまで新札幌で飲んでました。道内の大学教員数名(歴史学者)と痛飲。楽しかったあ。
話したこと。北海道の農民が本州の農民とはちがい、農業を一種投機の対象としてかんがえていること(今年はこれが儲かるぞ、みたいな)、とかちょっと地域文化論として面白そうな論点など。アメリカ合衆国と北海道との差異と同一、なんて私は考えてました。
イギリスの高校教育の話も面白く、歴史の授業で一年間、ギリシャだけとか、ビクトリア朝だけとか、ロシア革命だけとか、各教員が専門家よろしく教え込むらしい。私も高校の地理では一年間「産業革命」だった(そのおかげで立派な経済学者も生まれたわけだ、とはいえないけど)。
あとですね、マンガ。今日の飲み会は私は一番年下で、団塊の世代がメインでしたが、彼らの代からマンガなんですね。「娘が、僕のもってたカムイ外伝やあしたのジョーらなにやら全部読んじゃって……」とうれしそうに語るパパ。しかも、息子の歴史ゲーム(三国志とか、信長の何とかとか)にはまっている話なんかもほほえましかった。
それから。女の人って次の日の仕事のこと不安になる人って多いのでしょうか。

タクシーの運転手に「下野幌」のテクノパークの話を聞いた。富士通やIBMといった会社も、4、5年前なら午前4、5時まで働いてタクシーで帰る人がたくさんいたけど、いまでは、11時から待っていても朝まで人が出てこないこともあるそう。つまり、残業したら泊まりだと。不況でまず削られるのがタクシー代ですからね。

昨日も飲んでました。お店の人に「今日のお薦めは?」と尋ねるところから始まる無内容な会話が楽しく、夜の街は働き疲れた労働者階級を吸引するのでした。

きのう食べた古平(ふるびら)直送のウニほんとうまかった。まずいもの食って長生きするよりうまいもの食ったほうがいい。伝えるべきことを伝えれば、この自分の心は消えても、精神は伝えられる。というか、そう、古平は、札幌からすると小樽の先、積丹です。

絶対積丹ドライブしてやる!!と心に誓った夕べでした。

◇◇◇

現実にあわせていいぬける答弁が理論なのではない。現実が理論を変えるのではない。現実を理論が変える。なぜなら、理論とは、現実のなかの深い現実であって、理論とは現実自身の自己批判だからだ。

そうであるとすれば、Weなる私を主体とする主権在民という憲法の理論は、生きた社会関係であり、現実自身の自己批判がとる武器である。

昨日(7/18)の北海道新聞と日経新聞の社説は、根拠となる理論的尺度において対照的であった。北海道新聞は共謀罪新設の不要性ないし問題点として、摘発条件の曖昧さ、団体活動の定義の曖昧さ、対象が国際組織犯罪に限定されていない点などをあげ、自由と人権という近代の原則に即して、基準は明快である。これに対して、日経の憲法改正論は、「国の原理」「国の目標」を掲げる自民党要綱案の前文改正方針のもつ基準の分裂に対して無自覚である。

「アンシャンレジームは現代国家の隠れた欠陥である」(マルクス「ヘーゲル法哲学批判序説」)

「世の中の主で彼〔俗物:引用者〕があるのはただ、彼が世の中を、ちょうど蛆どもが屍をそうするように、彼の仲間でもってうずめているからにすぎません。これらの主どもの仲間は、それゆえに、一定数の奴隷ども以上を必要とはしません……。 (マルクス:ルーゲ宛書簡1843年5月『ヘーゲル法哲学批判序論その他』国民文庫所収)


個人を共同体が飲み込んでいる前近代から、個人が共同体を包摂する主体として解放された近代は、その発展した諸関係へとすすむことによって、再び共同的なものが独立した力として諸個人を支配する事態が現れる。アンシャンレジュームを否定した近代がその内部の真のアンシャンレジュームを現して諸個人に解放の課題を突きつけているのが現代である。

神社の中の剣を拝む意識も、もろもろのファッショ的幻想も、反動的郷愁、憲兵的自由抑圧、国家主義的な仮象も、この社会が辿る一時の病理、斑模様の社会病理にすぎない。抑圧も、抑圧賛美という個人の空疎化も、反動も、働く大衆が社会をつくりだす途上に吹き出す膿汁にすぎず、労働する諸個人がつくりだした社会的実体がとる姿の影絵なのであって、これもまた、いっとき力をもつように見えても、諸個人を社会化された自由な諸個人として陶冶する一助として経過的、瞬過的なものにちがいない。

心配するな。焚き火が消えたら、寒くなっていやでも目は覚める。
           (村上春樹「アイロンのある風景」)

もしかりのこの喜劇〔専制主義-引用者〕が長いあいだその正体を見破られなかったとしても、それでもそれはすでに1つの革命であるに違いありません。国家というものは茶番劇にされるには厳粛すぎるものなのです。おそらく愚人どもの船を相当長い間、風にのって進むがままにまかせておくことはできもしましょうが、それでも船はその宿命へむかっておし進んでいくことでしょう。愚人どもがそのことを信じないからこそそうなるのです。(マルクス:ルーゲ宛書簡1843年3月)


税金の公正な支出を否定する最大の横領集団が組織犯罪を取り締まるというのが茶番でなくてなんであろう。試されているのは警察の自浄能力ではなく、デモクラシーの自浄能力である。近代の人間解放の原点がどのように自覚され貫かれているか。その徹底によってのみ私たちは、現代のアンシャンレジュームとしての巨大組織による支配を超出できる。痛みを覚えれば諸個人は連帯する。「愚人どもの船」はすすむべき世界に進む。専制は諸個人に覚醒を強制する。

◇◇◇

パチスロメーカー告発本を出している出版社社長が、名誉毀損で「逮捕」された。
本という証拠があって、証拠隠滅のおそれもなければ、恐喝や暴行があるわけでもない。元警察庁キャリアが社長を務めるパチスロメーカーだけに、この見せしめというか、嫌がらせ的な逮捕も、警察の利権がらみと推測される。私は警察ににらまれないから平気、あいつはにらまれているから当然、という法治国家以前的な、民主主義以前的な感性こそ隠れたアンシャンレジームの活動場面である。厳格かつ客観的な基準こそ法治国家の大原則。メディア潰しはこの活動場面を舞台にする。
メール・マガジン「PUBLICTY」(申込先)1184、1185号参照。

遅まきながら、鹿砦社にエールを!
『紙の爆弾』発行の鹿砦社・松岡利康社長、名誉毀損容疑で逮捕される

『創』8月号の警察特集まだ全部目を通していないのですが、津田浩司「北海道新聞警察裏金報道への圧力」で市川弁護士が朝日新聞を道警の幕引きを助けるひどい報道と批判している。戦前の大本営発表垂流しの反省はどこに行ったのか。警察による情報操作の一端をメディアが担うようなものだとおもう。

高遠さんによるイラクの報告、良識ある多くの人に、心静かに読んでほしい。戦争をなくす努力こそ、私たちのつぎにくる諸世代に対する私たちの時代の責任である。
by kamiyam_y | 2005-07-20 01:45 | 自由な個人の権利と国家 | Trackback | Comments(0)

資本主義的生産過程の概念図

産業資本による剰余価値の生産を図にしました。

見にくければクリックし下さい。

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① 潜在的資本(貨幣資本)

貨幣所持者は資本家Kが、貨幣G・100万円を、資本として投下するとしよう。

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② 資本の投下

まず「買う」。貨幣100万円が、商品W(生産のために消費する)に、姿を変える。

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③ 生産資本へ

詳しく見ると、Kは、生産諸手段Pm(原材料など)と、労働力Aとを、商品として市場でみつけて、「買う」。

この際貨幣と商品との「交換」は「等価交換」。
100万円という価値の姿をとった過去の労働(対象化された労働)を代表する貨幣は、等しい価値の商品と交換される。(価値は流通で生まれたり、増えたりするのではないのでしたね)。

100万円の商品(80万円の生産手段と20万円の労働力)と、100万円の貨幣が、過程の前に存在しており、交換(流通)を通じて、持ち手変換がなされ、貨幣と商品とが姿を入れ替える。

Kは、100万円の貨幣を、標準的な技術をふまえて、80万円を原料に、20万円を労働力にふりむける(たとえば、労働力価値が1万円だとしてそれを延20本)。

80万円は不変資本c、20万円は可変資本vという。

原料はたとえば、生産物「糸」をつくるための「棉花」などをイメージすればいい。

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労働力は、生産に要する労働能力、生産物をつくるために「運動させる、肉体的・精神的諸能力の総体」(資本論:以下出典省略)のことである。

労働力商品の価値も、それをこれから何時間使うかとはかかわりなく、与えられている。「労働力の価値は、他のどの商品の価値とも同じように、それが流通に入る前に規定されていた」。

生産諸手段Pmとは、原材料など労働対象と、機械など労働手段からなる。労働手段のばあいは、摩滅に応じて価値が生産物にうつる。ここでは、生産物の生産においてぜんぶまるごと消費されてしまう原材料だけをかんがえよう。

生産諸手段Pmと、労働力Aも、資本家Aが消費するために買った。資本家Aは、生産諸手段Pmと、労働力Aとを、生産物(といっても自分が「売る」ための商品)をつくるためにこれから消費する。

《補足1 労働力商品の価値》

労働力の価値は流通に入る前に与えられている。ちょうど、洗濯機の価値が、洗濯の時間とは関わりなく、生産費によって与えられているように。労働力商品の価値も、【商品価値の大きさは生産に要する社会的必要労働時間によって規定される】という商品価値量一般の定義が妥当する。労働力商品の生産とは、必須生活手段の消費だから、必須生活手段の価値が労働力商品の価値を規定する。賃金がどう変動したって、労働者とその次世代を「標準的な」水準再生産することができなきゃならない。労働力商品の価値も、やはり商品の価値一般に等しく、私的生産というかたちをとった社会的コスト、社会的労働の社会的配分のありかたにほかならない。

《補足2 二重の意味で自由な労働者》

「商品交換は、それ自体、商品交換自身の性質から生じる依存関係以外には、いかなる依存関係も含んではいない」。


つまり、前近代の共同体(封建制)や身分的支配を想定していない。

「労働力の所有者が労働力を商品として売るためには、彼は、労働力を自由に処分することができなければならず、……自由な所有者でなければならない」。「もし彼が労働力をひとまとめにして全部一度に売り払うならば、彼は自分自身を売るのであって、自由人から奴隷に、商品所有者から商品に、転化する。人格としての彼は、自分の労働力を、いつも自分の所有物、したがってまた自分自身の商品として取りあつかわなければならない。そして、彼がそうすることができるのは、ただ、彼がいつでも一時的にだけ、一定の期間だけに限って、自分の労働力を買い手の処分にまかせ、したがって労働力を譲渡してもそれに対する自分の所有権は放棄しないという限りでのことである」。


労働力を時間決めでレンタルできるのも、労働者が自由な人格という社会的能力を獲得しているからである。

その反面彼は、生産手段からも「自由」だ(=生産手段から切りはなされている)。
もし生産手段をもっているなら、労働者は自分のつくった生産物を売ればよい。しかし、生産手段をもたないがゆえに、労働者は「自分の生きた肉体のうちにのみ存在する自分の労働力そのものを商品として売りに出さなければならない」。


④ 生産!→商品資本へ(その価値成分はc+v+m)

いよいよ生産に入る。生産Pは、資本家によるモノの消費過程。……は流通の中断を示す。

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原材料など生産手段Pm(不変資本cの姿)が、労働によって変化させられ、生産物W'に変わる。労働はこの場合、特定の目的にしたがって自然物に働きかけ、それを使用されうる形態に変化させる「具体的労働」である。

労働力商品の使用価値は、この生産過程のなかで発揮される。それは、「価値」を生みだすという特別な役立ちだ。

抽象的労働は、新「価値」を生みだす。それは2つの部分に分かれる。

1つは、生産物形態における可変資本v。

資本家は、貨幣20万円を、20万円の価値がある労働力と交換した。
しかし資本家は、この労働力を返さなくてはならない。

資本家は、使わないで返すこともできるかもしれない。その場合でも、労働者の側は、もらった20万円を生活諸手段(衣食住に必要なモノ)に変え、それを消費すれば、労働力を再生産できる。

他方、これなら資本家は、まるまる20万円損をするだけだ。もちろん、80万円の生産手段も使われず、損する。

つまり、資本家はこの労働力を使う。使わなきゃ、価値が生まれない。借りてきたDVDを見ないで返すとのはちがう。

資本家は、労働力を使って、価値を、生産物に付けくわえる。労働は具体的労働であると同時に、労働力の支出一般として、抽象的労働であって、これが新価値のもとになる。

ある一定の時点で、この労働力使用(価値創造)は、20万円に達する。資本家が、労働力と交換した・労働者に払った価値と、同じ大きさの価値が附加された。これは、労働力を借りている資本家のものだ。私有財産の法則がそういう線引きをしている。

労働力を買うのに使われた20万円を再び、労働が生みだしたのだ。資本家は、20万円を労働者に渡したが、労働者はここで、同じ額の価値を、資本家に引き渡した、といってもいいだろう。

さて、資本家は、この時点をこえてさらに労働力を使うことができる。労働力を借りている資本家は、まだ労働力を使う。なにせ、まだ資本家は用意した20万円を回収しただけだ。

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たとえば、この時点が延20人の労働者の全労働時間の半分だとしよう。生産手段をすべて生産物に変えるための時間の半分だとしよう。
労働力の使用は、まだ半分しか終っていない。

資本家による労働力の使用は、20万円をとりもどすだけではなく、それをこえる「剰余価値」をもたらす。
剰余価値20万円mが加わった生産物を、資本家は自分の生産物としてもっている。これまた私有財産の法則に従ってこれは資本家のもの。あとは売れれば、貨幣に変わるだけだ。

しかし、労働者が行った労働は、資本家に20万円を引き渡した、だけではない。それを超える20万円を、対価なしに引き渡している。与えるだけ受け取り、受け取るだけ与えるタテマエはくつがえされている。20万円は不払労働である。これが生産の結果だ。

流通に戻るとしかし、20万円の労働力を資本家は正しい値段で買っている。買ったものをどう消費するかは買った人の権利だ。(もちろん、正常に使わせる権利が貸す側にあるのも確かだ)。

この例では、労働者が、新しい価値のうち、20万円が、可変資本v(労働力を買うのに使われた部分)を補填し、残り20万円が剰余価値である。m’剰余価値率=m/v。
剰余価値率は、100%である。

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⑤ 貨幣資本への復帰

再び資本は貨幣の形。

⑥ 労働ファンド

なお、労働者のほうは、G20(20万の貨幣)を、資本家が商品として売る生活諸手段Kmと変えて、それを消費すること(K)によって、労働力を再生産する。

結局貨幣は資本家の手に戻る。

労働者は自分たちが補填した可変資本によって雇われる。自分の産物によって雇われる。逆立ち。

以前、面白いことをいう学生がいて、「会社がサラリーマンを雇っているとおもっていたが、この図をよく見ると、サラリーマンが会社を雇っているようなもんですね」と感想を述べたことがある。たしかに。

《補足3 賃金》

法的な契約では、労働力に対してではなく、労働時間全部に対して「賃金」が払われることになっている。この「賃金」形態が、経済の本質を隠している。法と経済が分離しているのだ。同時に、労働者の法的自由にとっては、この経済の本質が現象してくれば、それは批判の対象となる。このことは、必須労働と剰余労働とが掟やら決まり事の形をとって目で見える封建制と比べれて考えると面白い。労働者の法的解放という進歩は、剰余労働を経済法則によって不可視化することによってもたらされたが、この解放は同時に、剰余価値の生産という生産の中身にまですすまざるをえない(政治的解放から人間的解放へ)。

《資本と、資本の人格化である資本家》

「貨殖術が追求する富にもまた限界はない。すなわち、ただ目的のための手段を追求するだけの術は、目的そのものが手段に限界をもうけるので、限界がないということはないが、これに対して、その目標が手段としてではなく最終の究極目的として意義をもつ術はすべて、その目標にたえずますます近づこうとするがゆえに、その追求には限界がない。それと同様に、この貨殖術にとってもその目標に限界はないのであって、その目標は絶対的な致富である。家政術は、貨殖術と異なり、ある限界をもっている。・・・・前者は貨幣そのものとは異なるものを目的とするが、後者は貨幣の増殖を目的とする」(資本論におけるアリストテレスからの引用)。


「この運動の意識的な担い手として、貨幣所有者は資本家になる。彼の人格、またはむしろ彼のポケットは、貨幣の出発点であり帰着点である。資本の流通G-W-G'……価値の増殖……は、彼の主観的目的である。そして、ただ抽象的富をますます多く取得することが彼の操作の唯一の推進的動機である限り、彼は資本家として、または人格化された資本、意志と意識とを与えられた資本として、機能する」(資本論、手を入れた)。


価値増殖という資本の本性が資本主義として社会をまとめる。資本家は、資本の姿である。資本家という人格が社会システムの起点に位置するわけではない。資本家の支配が問題なのではない。むしろ資本が資本家と衝突する。

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by kamiyam_y | 2005-07-17 19:29 | 資本主義System(資本論) | Trackback | Comments(0)

知床と温暖化


▽ 夏至をすぎて、8時になってもまだ空に明るさが残っているのがうれしい!
夕刻の空のスクリーン色の変化、日が落ちたあとのビルの影を見ていると、ほんとに生きていてよかったと思う。おおげさでなく。

仕事を終えたあとしばらく外が明るいのはとってもすてきなことだ。
といっても、私は、サマータイム導入は反対です。早起きするのじゃ意味がない。
今の日本では、サービス残業廃絶こそ正しい目標でしょう。

時短の強制は働く現場に対する制御ですが、知床の世界遺産認定は、天然の自然を保護するための総合的な制御の道具としてみることができます。ただのお国自慢ではなく。


▽ アスベスト被害者に労災認定がまったく追いついていないのは、現場で働く人々の無知のせいではない。惨事を招いたのは、国の安全対策の遅れである。今朝の日経3面によれば、83 年にはアスベスト全面使用禁止をしている国もあり、アスベストの危険性は70年代にILOによって指摘されていたという。

<アスベスト>厚労省が各労働局に通達「労災認定徹底を」 [ 07月07日 15時00分 ]
毎日新聞社(Excite エキサイト : 社会ニュース)


 アスベスト(石綿)が原因で起こる胸や腹部などのがんの中皮腫の死者数に対し、労災認定数が極端に少ないため、厚生労働省が全国の労働局に、医療機関などへ周知徹底を図るよう、異例の通達を出していたことが分かった。発症まで20~50年かかる中皮腫は最近になって死者が急増し、年間900人近くに達しているが、労災認定は約10分の1にとどまっている。患者支援団体は「通達自体は評価できるが、労働基準監督署の現場に浸透していないところもある」と指摘している。

 人口動態統計によると、中皮腫による死者は95年に500人だったが、02年は810人、03年には95年の約1.8倍の878人に達した。

 中皮腫の多くは、仕事中に石綿を吸い込んだことが原因で発症する。厚労省は03年、専門家らによる検討の結果、危険性の認識がより深まったとして、勤務歴などに関して労災認定基準を緩和した。

 しかし、中皮腫の労災認定数は02年度の55件から、03年度は85件に増えただけだった。このため厚労省は今年2月、都道府県労働局長に、認定基準を的確に運用するよう通達した。それによると、「認定数は増加傾向にあるものの、死亡者数は認定件数を大きく上回る水準で、中皮腫が労災認定の対象であることの社会的認知の不足に起因するものと考えられる」とし、その上で「的確な補償に努め、医療機関や関係団体などへの周知徹底を図ること」としている。【大島秀利】


年間900人の中皮腫による死者数のうち、労災認定数がその1割とはどういういうことなのだろうか。

▽ 『資本論』の「機械と大工業」章に、19世紀イギリスの工場の安全衛生を素材とした記述がある。やや長くなるが引用しておく。

保健条項は、その用語法が資本家のためにその回避を容易にしていることは別としても、まったく貧弱なもので、実際には、壁を白くすることやその他いくつかの清潔維持法や換気や危険な機械にたいする保護などに関する規定に限られている。われわれは第三部で、工場主たちが彼らの「職工」の手足を保護するためのわずかな支出を彼らに課する条項にたいして熱狂的に反抗したということに、立ち帰るであろう。ここでもまた、利害の対立する社会では各人はその私利を追求することによって公益を推進する、という自由貿易の信条が輝かしく示される。

人の知るように、アイルランドでは最近の20年間に亜麻工業が大いに発達し、それにつれてカッチング・ミル(亜麻を打って皮をはぐ工場)が非常にふえてきた。そこには1864年にはこの工場が約1800あった。周期的に秋と冬にはおもに少年と女、つまり近隣の小作人の息子や娘や妻で機械にはまったくなじみのない人々ばかりが、畑仕事から連れ去られて、スカッチング・ミルの圧延機に亜麻を食わせる。その災害は、数から見ても程度から見ても機械の歴史にまったく例がない。

キルディナン(コークのそば)のたった一つのスカッチング・ミルだけでも、1852年から1856年までに6件の死亡と60件の不具になる重傷とがあったが、これらはどれもわずか数シリングのごく簡単な設備で防止できるものだった。ダウンパトリックの諸工場の証明医ドクター・W・ホワイトは、1865年12月16日のある公式報告書のなかで次のように明言している。

「……この国での工場の増加は、もちろん、このような身の毛のよだつ結果を広げるであろう。私は、スカッチング・ミルにたいしては、適切な国家の監督によって、身体生命の大きな犠牲が避けられることを確信する。」

資本主義的生産様式にたいしては最も簡単な清潔保健設備でさえも国家の側から強制法によって押しつけられなければならないということ、これほどよくこの生産様式を特徴づけうるものがあろうか?

「1864年の工場法は、製糖業で200以上の作業場を白くぬらせ清潔にさせたが、それまで20年間も、または完全に、いっさいのこの種の処置が節制されたのであり」(これが資本の「節欲」なのだ)「しかもこれらの作業場では27,878もの労働者が働いているのであって、彼らは、これまでは、過度の昼夜作業のあいだ、またしばしば夜間作業のあいだも、有毒な空気を吸い込んでいて、それが他の点では比較的無害なこの仕事に病気と死とをはらませていたのである。この法律は換気装置を非常に増加させた。」

それと同時に、工場法のこの部分は、資本主義的生産様式はその本質上ある一定の点を越えてはどんな合理的改良をも許さないものだということを、的確に示している。繰り返し述べたように、イギリスの医師たちは、一様に、継続的な作業の場合には一人当たり500立方フィートの空間がどうにか不足のない最小限だといっている。そこで!工場法がそのあらゆる強制手段によって比較的ちいさい作業場の工場への転化を間接に推進し、したがって間接に小資本家の所有権を侵害して大資本家に独占を保証するものだとすれば、作業場でどの労働者にも必要な空間を法律で強制するということは、数千の小資本家を一挙に直接に収奪するものであろう! それは、資本主義的生産様式の根源を、すなわち資本の大小を問わず労働力の「自由な」購入と消費とによる資本の自己増殖を、脅かすものであろう。

それゆえ、この500立方フィートの空気ということになると、工場立法も息切れがしてくるのである。

保険関係当局も、もろもろの産業調査委員会も、工場監督官たちも、500立方フィートの必要を、そしてそれを資本に強要することの不可能を、いくたびとなく繰り返す。こうして、彼らは、実際には、労働者の肺結核やその他の肺病が資本の一つの生活条件であることを宣言しているのである。

工場立法、この、社会がその生産過程の自然発生的な姿に加えた最初の意識的な計画的な反作用、それは、すでに見たように、綿糸や自動機や電信と同様に、大工業の一つの必然的な産物なのである。……

(大月書店版資本論第1部第13章第9節「工場立法(保健・教育条項)」訳文には多少手を入れ、改行したり、段落の順序を入れかえたりしている)


もじっていえば、犠牲者の多さに、労災認定も「息切れがしてくるのである」。
健康に働く権利よりも、産業の目の前の要請が優先したのである。

もちろん今は「スカッチング・ミル」ではない。問題は現在のより高度な技術を前提におきている。しかしこの現在の水準において、噴出している問題性は、19世紀の安全衛生問題にあらわれたシステムの運動様式として同一である。

国家による強制こそが安全にはぜったい必要だ、という事実。この事実が資本主義を特徴づけると、引用文では言われている。しかも、資本主義がこの強制の実現を、この安全の実現を不可能にすることを不断に繰り返す局面において、資本主義システムの亀裂がみえると述べられている。この不断の繰り返しにおいて、【犠牲が資本主義の存立条件だ】ということを、資本主義がみずから告知している。

私利追求という資本主義の前提は、調和的には貫徹しないのであり、私利追求が自動的に安全をもたらすのではなく、逆にそれは対立によって、社会による意識的制御を起動するということだ。

この点をふまえて、念のため確認しておきたいのは、資本主義が調和でないことはいうまでもないが、だからといって「資本主義だから所詮無駄」というあほらしい議論に陥る必要はないということだ。

資本主義は制御を立てざるを得ず、同時に制御をくつがえさざるを得ないのである。資本主義は制御を立てることによって生き、制御を不可能にすることによって生きる、といってもいい。
資本というシステムは、まさに私的放埒による私利の相互衝突と、社会的共同性の要請との間の振動を生きる。制御不可能と、制御との間を呼吸するのが資本であり、この絶え間ない否定運動がもたらす「人間」の陶冶こそが、資本のリアリティだ。リアルとは分裂であり、分裂による形成運動だ。

資本は、自分の姿態である制御に対して、この制御の不可能において、自分を限界として露出する。制御を要請しながら、制御を制約することによって自らの対立性をあらわにする。制御が、資本主義の本質を照射するといえる。

「知床」に見るべきは、漁業権や林業権という私的権利と、環境という共同性との衝突だけではない。そこに見るべきは、「持続可能性」という国際合意の流れだろう。

この合意の意味するところは、資本主義的成長は持続不可能だということ、つまり、持続可能な発展とは資本主義的成長におさまらない社会システムの陶冶をすすめるということである。
工場立法による生産の制御は、いま地球環境問題においてその最前線に推移している。
by kamiyam_y | 2005-07-14 21:44 | 成長主義と環境 | Trackback | Comments(0)

共謀罪への疑問

本学の出席カード(講義時に出席をとるために配布・回収)には、コメント欄がついていて、これがっこう面白く、読みながら出席簿に転記していると(400人分くらい)、一日くらいすぐあっといまに経ってしまいます。

このブログにこういう題材で書いてくれというリクエストもあります。先週は、「イギリスのテロ」とか「人権擁護法案」「共謀罪」「靖国」など。
間違ってもいいから書こう、とおもうことたくさんあるのですが、テロについてはちょっと材料がないです。

「人権擁護法案」は軍国主義への道ですよね、と書いてある出席カードを発見。この法案への反対には、人権や外国人が嫌いだが、それを表立っていえないので良識派と同じような批判をしている右翼もいたわけで、ネットをみるときは注意しないといけない。でも今はなんといっても、
やばいのは共謀罪です。近代法治国家の原則、近代刑法原則の空洞化です。

「あなた見られています 『共謀罪』要件どう限定?」(北海道新聞7月12日(火)朝刊35面)では、国際組織犯罪防止条約からずれている大きな問題点を、①国際性要件の欠如、②摘発対象が組織でなく、2人以上の共謀、③共謀後の具体的準備行為を摘発条件としていない点、をあげています。

実行でも準備でもなく、相談しただけで罪になるなんて「とんでもない」(「魚住昭の『魚眼複眼』 『共謀罪』のとんでもない狙い」(『日刊ゲンダイ』7月12日(11日発行))。

つぎのページをぜひ参照下さい。

共謀罪、このまま通してよいのか?!(情報流通促進計画 by ヤメ記者弁護士)
八百長郵政より共謀罪だろ(踊る新聞屋-)
共謀罪のトラックバックセンターつくってみました(同上)
祭りの裏でヤバげな法案審議入り:共謀罪 (猫手企画@新聞屋)
7月4日発売の『週刊大衆』が「共謀罪」痛烈批判記事掲(載情報紙「ストレイ・ドッグ」(山岡俊介取材メモ) )
共謀罪、法務省がひた隠す黒塗り部分の公式注釈(同上)

▽ 権力の独立化をいかにして制御するか。現代とは、自由の社会的実現を試みる不断の当為にほかならない。内心の自由をはじめとする市民的自由を侵害する法案が出てくるのも、この当為の一契機というべきであろう。

▽ 21世紀は、国際的な理性の形成の世紀であってほしい。貧困撲滅は国連の重大な課題だが、解決にあと何世代かかるのだろうか。

南アフリカのHIV感染が以前考えられていたよりも悲惨なこと。
BBC 

中国のHIV感染。特に女性。90年代に血液売買による感染。
BBC 

Many women also became infected from selling blood in the 1990s.

Health Minister Gao Qiang blamed the increasing numbers on a lack of knowledge about the disease, especially among women in poor rural areas.

China estimates that 840,000 of its citizens are infected with HIV, including 80,000 with Aids.

But international groups believe the real figure is much higher.
by kamiyam_y | 2005-07-12 23:21 | 自由な個人の権利と国家 | Trackback | Comments(0)

剰余価値率

働く人々が、会社のカネにつけくわえていく剰余価値って何でしょう。その率ってどんな意味があるんでしょう?

というと、それは、働く人々の生け贄(いけにえ)度です。

全文を読む
by kamiyam_y | 2005-07-07 21:20 | 資本主義System(資本論) | Trackback | Comments(2)

せっかくの京都議定書なのに・・・

米大統領、サミットで京都議定書以降の時代へのシフト呼び掛けへ [ 07月06日 21時54分 ]Excite エキサイト : 国際ニュース

[コペンハーゲン 6日 ロイター] ブッシュ米大統領は、主要国首脳会議(グレンイーグルズ・サミット)に先立ち、 人類が地球規模の気候変動に寄与したことは認めるものの、京都議定書に反対する姿勢は引き続き崩さないと述べた。
……[中略]……
 気候変動はG8サミットの重要な議題の一つ。二酸化炭素排出量世界第一位の米国は、サミットに参加する8カ国の中で唯一、京都議定書を批准していない。
 ブッシュ大統領は、「米国は国家安全保障と経済保障のために、燃料源を化石燃料から多角化する必要がある。われわれはそれを実行するための戦略を打ち出した。G8サミットで他国と分かち合うのが待ちきれない」と語った。


まったくねえ。
ブッシュが京都議定書よりももっといい案を提示してくれるんだろうか。

日本も省エネしてるんだから、同盟国もやってくださいよ。

二酸化炭素の排出量は人口に比例させ世界で平等に。
になんてなったら(ならないけど)、アメリカは根本的にシステムの転換が必要ですよ。

より詳しく
by kamiyam_y | 2005-07-07 00:05 | 成長主義と環境 | Trackback | Comments(0)

言論封殺の暴力を許すな

ジャーナリストの山岡俊介が、7月3日の午前4時すぎに、自宅放火にあう事件が起きた。

自由な言論を封殺するための暴力は、人権と民主主義に対する最大の破壊行為だ。武富士取材も、カルト的団体の取材も、私たち一人一人にとって重要な公益性をもつ。自由な言論を死の恐怖によって封殺する試みは断じて許されない。生命を守ることは政府の義務である。言論を殺そうとする暴力がのさばることは、民主主義の根本的な破壊である。自由な個人の人権によって成り立ち、それを発展させる民主主義にとって、直接的な暴力による言論圧殺、暴力による卑劣な攻撃は絶対に許されてはならない。

ジャーナリズムの公益性を自覚して、社会のために取材し発表している山岡氏が、武富士取材では盗聴され、今回は放火である。映画鑑賞中という偶然がなければ、「暗殺」ではないか。


本紙・山岡自宅、早朝放火される。これは、言論に対する明らかな挑戦だ(from情報紙「ストレイ・ドッグ」(山岡俊介取材メモ))l
山岡さん方が放火!-山岡さんを勝手に応援します!!(情報流通促進計画 by ヤメ記者弁護士)
遅ればせながら、山岡さんを支援します(さしかえ)(from踊る新聞屋-。)
ジャーナリスト・山岡俊介氏宅放火(fromガ島通信)
スゴい人だー:山岡俊介氏リアル炎上(from猫手企画@新聞屋)
言論に対する暴力を止めるのは国家の責任だ(from5号館のつぶやき)
言論弾圧のテロリズム(from天河夢想)

「情報流通促進計画 by ヤメ記者弁護士」さんからのTBで事件の重大さ気づきました。

「踊る新聞屋-。」さんのリンク集とても役立ちました。

'あのジャーナリスト・山岡氏の自宅が放火される!' (from angle JAPAN)

参照したブログ、トラックバックさせていただきました。ご容赦のほどを。
by kamiyam_y | 2005-07-05 02:04 | 自由な個人の権利と国家 | Trackback(4) | Comments(0)

商品交換にもとづく私的所有一般と、私的所有内部の剰余価値生産

商品交換にもとづく私的所有一般と、私的所有内部の剰余価値生産

近代社会は、社会の自覚的主体として個人を解放し、そのことによって、人類史の課題を社会的生産の形成とそれをこの自覚的主体のものに転換することに、限定します。

「商品生産の所有法則」についてメモです。

More
by kamiyam_y | 2005-07-05 00:20 | 資本主義System(資本論) | Trackback | Comments(0)

労働における人権問題:警察の組織犯罪・JR列車事故 ・マイケルなど


▽ 使途不明金
「OB、現職警官に計9億円もの裏金の返還を求められた北海道警察の不正については北海道新聞の孤独な闘いだった。警察官個人の犯罪は血祭りにあげ、その裏で組織の不正は隠し通す。新聞、とりわけ全国紙はそのことに手を貸してはいないか」(大谷明宏「警察が"発表する"警官個人の不祥事は報じても組織的な裏金問題は追及しない全国紙の怠慢・各紙『警察官不祥事』報道・日本の新聞を読む」『週刊ポスト』7月8日号)。

昨日(7月2日)の北海道新聞朝刊には目をひく記事がいくつもありました。
「道警裏金 百条委員会 6度目否決」(1頁)、「(社説)知事と議会の姿勢問う」(2頁)、「道議会百条委員会否決 幕引きムードまん延」(裏金問題取材班、3頁)、「百条委員会6度否決」(35頁)です。

山口二郎のコメントに、宮城県知事とくらべ、高橋知事は「『臭いものにふたをした』という印象だ」とあります(35頁)。

「確認監査」では使途不明金が3億9000万円と報告されています(「2億4000万円損害認定 道警裏金で確認監査報告」(北海道新聞5月28日・朝刊。この号に、この監査の問題点を明らかにする関連記事多数。6月4日の社説も参照)。

『週刊プレイボーイ』第24号(7月5日号)の記事「全国24万人の現場警察官よ、怒れ!第3弾 ケーサツ裏金問題 『内部告発つぶし』が始まった!」も、北海道新聞記者や市川弁護士による解説もあり、大変いい姿勢です。

組織の不正とは、人権が単に抽象的な政治的権利から、実際の社会生活の公共場面にまで発展しようとする際に、人権が、その社会的なものと衝突するということです。

安全が1つの人権とされながら、信書の秘密の侵害が、公然と日程に上る。「出版の無制限な自由」が人権の帰結、個人的自由の帰結として保障されながら、出版の自由が完全に蹂躙される。けだし「出版の自由は公共の自由を危うくするばあいには許されるべからず」だから。
(マルクス「ユダヤ人問題のために」)

……交換価値の制度は、そしてそれ以上に貨幣制度は、実際には自由と平等の制度である。そしてより深く展開してゆくにつれて現われてくる諸矛盾は、この所有、自由および平等そのものに内在している諸矛盾、葛藤である。というのは、所有、自由および平等そのものが折あるごとにそれらの反対物に転回するからである。
(「経済学批判.原初稿」S.61.)。

人間はそれゆえに宗教から解放されず、宗教の自由を得た。彼は所有から解放されず所有の自由を得た。彼は生業のエゴイズムから解放されず、生業の自由を得た(「ユダヤ人問題のために」)。


▽ セラフィールド

セラフィールドの事故も、資本の運動が、労働の国際化をすすめるが、敵対的にすすめる、という「グローバリゼーション」を背景にしている。アレン・カックレイン/キャシー・ペイン「グローバル化する社会」(デヴィッド・ヘルド編『グローバル化とは何か』(中谷義和監訳、法律文化社)を読んでいたら、つぎのような一節をみつけました(25頁)。

イギリスのセラフィールドがイギリスと日本の核廃棄物の再処理工場の役割を務め、イギリスとアメリカの核産業のためにプルトニウムを生産し、さらには、他国へ核汚染物質を再輸出するという役割を果たしている。こうしたことから、グローバルな核産業を軸に複合的な相互作用過程が進行していることがわかる。


▽ 列車事故と働く現場の人権

『世界』と『月刊現代』、7月号はどちらも力作がそろっています。

野田正彰「『惨事』はなぜ起こったのか」(『世界』)によると、昨年4月に、兵庫弁護士会が「日勤教育」を「人権侵害」として改善を求める勧告をJR西日本に出していたという。「国鉄の民営化は、働いていた労働者の解雇と人権抑圧を伴った」。野田は、安全を確保するためには、「権威主義的人間関係ではなく、気づきを共有できる人間関係」が重視されねばならない、という。

警察による不正もそうだが、現場の腐敗は、人権が守られていないことから生じる。

▽ マイケル

まっとうな判決だし、陪審員制度の重要さをおもった。

北アメリカはとりわけ篤信の国である(マルクス「ユダヤ人問題のために」)。

宗教原理主義や、性を否定する風潮が、裁判の背景にあるとおもっていたが、それだけではないようだ。

マイケル・ジャクソン裁判の深層(及川健二のパリ修行日記)によると、欧米の文化では、たとえ小さな子どもでも子どもと同じ布団では寝ないため、子どもと寝るという行為に対する嫌悪感が、マイケル犯罪視につながったようだ。

▽ 排外主義

佐藤優『国家の罠』は、宗男逮捕の文脈に排他的なナショナリズムをみている。

一人一人が人類社会の一員となっていく時代に、排外主義や差別主義、偏狭な民族主義など、他民族を攻撃してコンプレックスを満足させる意識の存在、極右的思想の存在は、国際化のなかで一時的に分泌される社会の膿汁である。排他的・差別的ナショナリズムは、労働する諸個人が1つの人類社会を形成していくなかで、社会が吐き出す汚物にすぎない。対立とは関わることであり、関係性の構築である。人間という主語から、民族という1つの述語を独立化させる意識も、社会の狭隘さの1つのあらわれにすぎない。

人間の自己感情としての自由、……この感情だけが改めて人間たちの最高目的をめざす共同体、民主主義国家にすることができるのです。
これに反して、みずからを人間と感じない人間どもは飼育された奴隷か馬のたぐいのように、成長して彼らの主たちのものになっていきます。……彼らはこの世の中をその実態どおりに、またこの世の中が自覚しているとおりに解します。……
……考えるところの悩める人間たちの存在と、抑圧されるところの考える人間たちの存在は考えなしにただ享受しているだけの受動的な俗物性の動物界にとって享受しがたく消化しがたいものに嫌応なしになっていくにちがいありません。
マルクスのルーゲ宛書簡(1843年5月:真下真一訳『ヘーゲル法哲学批判序論他』所収・国民文庫)

……羞恥はすでに1つの革命です。実際にそれは、1813年にフランス革命をやっつけたところのドイツの愛国心にたいする、その当のフランス革命の勝利なのです。羞恥は一種の怒り、己が内へ向けての怒りであります。そしてもしも一国民の全部が実際に恥じたとするならば、それは跳ばんがために身を引きしめる獅子でありましょう。(同3月)

われわれは、世俗的諸制限を取り払うために宗教的狭さを捨て去れとは主張しない。われわれが主張するのは、世俗的制限を取り払うやいなや、宗教的狭さは捨て去られる、ということだ。
歴史は長い間迷信に解消されていたが、われわれは今、迷信を歴史に解消する。
(マルクス「ユダヤ人問題のために」)


▽ 大塚愛の元気な関西弁、いいですね。ここ 
by kamiyam_y | 2005-07-04 00:20 | 自由な個人の権利と国家 | Trackback | Comments(2)