さっぽろ地下鉄のなかでマルクスを呼吸する、世界を呼吸する

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自己責任(吉本隆明)など


◇ イギリスのセラフィードの核廃棄物の再処理施設の事故ですけど、青山貞一「独立系メディア 今日のコラム」のコラム、1000以上のブログやホームページで転載されているそうです。私はフジテレビが明日無くなっても困らないが、ネットが無くなると困ります。

青山氏の記事を知ったのは、
メルマガ「PUBLICITY」(竹山徹朗)(http://www.emaga.com/info/7777.html)(No.1156、05-26以降)によります。ここでほかに紹介されているのは、

[原発]英国セラフィールドの核処理施設で重大事故発生!! 遠くまで。

セラフィールドの件,続報――溶液漏れは3ヶ月放置されていた todays_news_from_uk

セラフィールド続報 またも報道は地方紙のみか? owner's log

これらからたどったりして、さらにいくつか探してみました。

イギリスでの高レベル放射性廃液漏洩事件   5号館のつぶやき

セラフィールド漏洩事故についての報道状況:英国あ~んど日本 情報流通促進計画 by ヤメ記者弁護士

セラフィールド…重大性を隠匿しようとしたBBCニュース 情報流通促進計画 by ヤメ記者弁護士


△▽吉本隆明が面白いことを言ってました。《自己責任論》のイデオロギー性については良識ある多くの方々が論じていますが、これは小泉の責任を追求していて同感。責任転嫁してはいけないよな。 

 「自己責任なんて馬鹿なことを言う人がいるが、イラクで殺された香田さんも同じで、一般の人間に責任なんてない。香田さんは戦場に行って殺されたが、むちゃを言ってアメリカとイラクの当事者のあいだの戦場に軍隊を入れているのは小泉だから、香田さんの死の責任は小泉にあるんです」(「吉本隆明が吠えた!」『月刊サーカスCIRCUS』6月号、KKベストセラーズ、27頁)。


自己責任という言葉は便利な言葉だわい。
それを徹底して引き延ばしたら、食の安全政策だけではなくおよそ、一切の公共的組織がいらないことになる。企業が黒字倒産しても個人のせい。ジャンクフードで健康を壊しても個人の無知のせい。あるいは望んだ結果。何があっても「合理的選択」。

アメリカからの圧力に屈したというのはだれもが知っていることだが、あらためて、BSE問題、20ヶ月と21ヶ月の牛の間に質的な線などあるわけない。
青山貞一:岡本行夫氏のBSEは消費者の「自己責任」発言 

◇ 情報流通促進計画 さん、国民投票法案の問題でブックレット作成中だそうです。ここ
by kamiyam_y | 2005-05-31 17:20 | 自由な個人の権利と国家 | Trackback | Comments(2)

カネというシステムは人を自由にし、かつ人が制御できない暴走をする



カネは商品交換から生まれた

資本主義は、産業資本が中心となる社会。産業資本とは、カネが、工場や労働力、商品に形を変えながら、労働者の労働を吸収して太っていく運動。働く人が法的に自由になるとともに、生産手段をもたず、労働力を販売し、剰余労働を剰余価値として生み出すシステム。

カネとはもともと労働の固まりです。この点を理解するには、カネが、単に国が力を与えたからできたというようなおとぎ話から脱却する必要があります。

カネともともと、金(きん)であって、金はそれ自体、1つの商品でした。商品とは、値段がつく物ということではなく、全くの他人との間で交換される労働生産物のことです。


商品は間共同体的は本性をもつ 商品は共同体の間で生まれる

全くの他人とは、おなじ生産共同体のなかで依存しあっている人じゃない人です。ともに働き、ともに分かち合うような自給自足の村落のなかには、商品という関係が生まれません。社会的分業が発展しても商品経済じゃありません。社会的分業が土地に縛られ身分という形をとった封建社会もそうです。
家族だっておなじ。他人に販売するためにつくる椅子は商品ですが、日曜大工で自分の家族のためにつくる椅子は商品ではありません。

商品とは、つまり、おなじ共同体の成員として生産しているわけではない、おなじ政府(生産における共同)をもっていない関係です。

商品は、共同体と共同体との間で生まれ、それが共同体のなかに入り込んできます。紀元前十何世紀かには陸上、海上の交易の発達した地域もありました。
このばあい金貨幣が存在してなくても、交換が、特定の民族によって担われます。

商品生産は、もともと共同体を想定せず、共同体を超えてひろがるわけですから、共同体のなかでの生産方法をとりあえず問うことなくそれらを連結していきます。グローバリゼーションという社会科学の大テーマも、商品生産の姿だし、資本主義の展開です。


資本主義は商品生産が全開

資本主義より前の社会では、商品やカネは、生産のごく一部しか支配できません。カネが流通するのが、貿易をおこなう支配者や商人の間だけだったり。あるいは、自由な自給自足の農民が、余った物を自分が作れない物を手に入れるために交換するなどのかたちでしか商品は存在しませんでした。

資本も封建的生産においてはたとえば、金貸しのカネというように、ただの部分、封建的生産のなかの点にすぎませんでした。

これに対して、商品生産が社会の生産すべてを覆うのが、資本主義です。金貸しは、産業資本をささえる装置となり、近代的な銀行に姿を変えます。

大量生産されて一物一価で販売されるような商品こそ、産業資本の運動というシステムの現実の起点です。


商品交換の発達から、貨幣が生まれた

ちょっとメルヘンチックにお話ししましょう。
たとえば、Aという山の部族がいて、乾燥フルーツをたんまりもっている。この部族の一員が、平野を歩いていると、Bという部族がバーベキューしているところに遭遇する。おいしそう~~、と表情で示して、A部族は乾燥フルーツをバッグから取り出して、見せる。
交渉開始です。めでたく、フルーツ10キロと焼き肉8キロが交換されます。

このとき、AもBもお互い「他人」であって「自由な私的所有者」として相互承認します。言葉が通じなくたってちゃんと契約が成立します。

これはたまたま交換されただけですが、定期的に一定の割合で交換されるようになると、A部族とB部族との間で、商品生産という形の社会的分業が反復されるようになります。

さらにここにC部族が登場。かれらは馬で移動し、塩づくりの特別な技術をもっています。
B部族は、肉に塩をかけるとうまい、ということを発見し、C部族と交換関係をつくります。
A部族も、Cの塩と自分たちの乾燥フルーツを交換するようになります。

さて、賢い皆さんはお気づきですね。塩はもはや「貨幣」です。

フルーツ10キロ の交換価値  → 塩の棒4本
焼き肉7キロ → 塩の棒4本

交換の割合が、塩の量で表されるようになり、塩がここでは価値を示す共通のものさしという意味をもっています。フルーツ10キロは、焼き肉7キロと交換できます。

とはいっても、交換物が増えれば、一対一の交換では欲求通りの交換なんてできません。いったん「貨幣」をもってからそれをまた交換すること(売ってから買う)が必要になります。

ところが、塩は雨にあたると溶けます。実際の交換の仲立ちとしてはちょっと、です。
家畜や奴隷もそうですね。

布5メートル = 牛20分の1頭

実際の牛を切って持ち運ぶことはできません。

貴金属が「貨幣」の地位を独占するのも、採掘が大変なので少量で多くの商品と交換できること、自然な性質としての耐久性、均質性、任意分割・加工性が「貨幣」にふさわしいからです。

貨幣の登場によって商品交換はますます規則的で法則的なものになります。最初のたまたまの交換では、べつにかかった労働量が等しくなくても交換されるというように、交換比率も偶然的です。


商品の交換割合(交換可能性)は、おなじ労働の量がかかっているということ

A・スミスは、毛皮一枚と綿糸15メートルといった交換割合の尺度を、労働に求めました。「労苦と骨折り」です。
でも、綿糸15メートル=上着1着といった交換の割合は、いわば社会的な法則です。
個人の欲求とは関わりないだけでなく、実際にかかった個人の労働量も、社会的平均としてしか妥当しません。つまり、綿糸15メートルをつくるのに、平均的な条件(道具や熟練度など)よりも劣った条件でつくったら、平均よりもたくさんの労働がかかります。だからといって、この劣った条件の生産者が綿糸を高く売れるわけじゃありません。「一物一価」です。

資本主義で大量生産されている商品もおなじです。優位な生産条件で、一個あたりを安くつくっても、おなじ値段で売れますから、企業は技術革新に日々精を出す。逆に劣った生産条件の企業は生産するほどに、労働者から搾り取った剰余価値を失う、赤字を増やすことになりますから、必死。


商品交換を商品価値が規制する 社会的必要労働時間が商品価値の大きさという形に転換される   

私たちは、自分の時間を自分で割り振って生活してます。一日の計画、ありますよね。朝おきて、飯をつくるのに10分、顔洗うのに20分とか。これは経験と計画によって時間割り振りがされていることです。必要な活動の時間の割り振りです。

ロビンソン・クルーソーなら、自分の労働を全部自分で把握しています。

工場も、綿密な作業工程にもとづく計画生産です。クギ工場なら、針金づくり、切断、とがらしなど、それぞれの作業にどれだけの労働が必要かわかっています。
工場という社会で、それぞれの作業に必要な労働の量が割り振られているわけです。
この場合、作業それぞれに必要労働時間があって、各作業に従事する労働者は、一人一人能率も違いますけど、だれが担っても計画表は一定で、この労働時間は社会的にきまってます。差はすべて相殺されて平均が支配します。たぶん。
チーム作業ですと、Aさんの労働はBさんの労働を規制し、Bさんの労働はCさんの労働と依存しあい、というように、チーム全体で一つの労働力みたいになりますから、その中の一人一人の差は相殺され、一人一人平均的労働力として妥当します。

さてこれは商品生産ではない社会的分業でした。こういう「社会的に必要な労働の量」(社会的必要労働時間)を、商品生産に移して考えてみましょう。

ある市場で正常に交換されている商品があって、それが、1月1000個取引されるとします。この1000個を生産するのに、社会的に必要な労働時間が、50000時間だとしましょう。1個あたり、50時間です。

じっさいには、1個あたり、55 時間かかる生産者もいれば、45時間しかかからない平均以上の生産性をもつ生産者もいます。実際にかかった労働量はいろいろあっても、一物一価です。もちろん、平均以上の生産者はもちろん価格をその価値より下げて売りシェア拡大もできます。

ある生産者がわざとゆっくり生産しても「平均」ではないので、ゆっくりした分が、社会的必要労働として、価値の大きさを増やすわけではないのです。

商品生産は、孤立した私的生産者による生産です。社会的必要労働時間は、ここでは商品の価値という物の性格に転換しています。
商品の価値という形をとるような労働となることによって、個々の私的生産者の労働は、社会的に配分された労働に、社会的労働の部分としての意味に転換しています。

社会的な労働のつながり、社会的な労働の配分、社会的に必要な労働の配分は、人々にとって全体がみえません。

こんなふうに俯瞰すると、市場に働く「神のみえざる手」って、価値を通じた労働の社会的配分や、市場を通じた資本の絡み合いによる社会的分業の成立のことなのでしょうね、きっと。


貨幣とは

貨幣とは、第三の商品。商品のなかの商品。

貨幣とは、第一に、もろもろの商品の価値を計るものさしであって、商品の共通の価値尺度です。

上着1着 は 金1.5グラム

金0.75グラムを「一円」となづければ、上着の価値は、二円と称されます。

これは別に貨幣がその場になくてもいい働きです。交換の可能性を示すだけですので、何がほしいのかという所有者の欲望も関係なく、欲望に左右されない労働の関係です。

金の量で表した商品価値を「価格」とよびます。「価格」がつくとこれは、価値からずれますし、価値のないものも何でも「価格」がつきます。良心でも、美醜でも、地位でも何でも。

たいてい私たちは、目の前のできあがったものから類推するので、価格があるものを商品とよぶ、お金があるから物が商品になる、みたいに思います。でもこれが逆さまなことは、ここまでの説明で理解してもらえると思います。

貨幣は、第二には、所有者の欲求をみたすような、交換の媒介、流通手段です。
実際の交換では、一対一の交換では矛盾に陥ってしまいます。
酒を交換する人は、肉がほしいが、肉を交換したい人は、ナイフがほしい。これじゃ交換できません。
しかし、価値の象徴(金の代理物)をうまく挟み込むと、酒の所有者は酒をこの価値の象徴におきかえて、これでもって肉を手に入れ、肉を譲渡した人は、この象徴でもってナイフを手に入れる。ってな具合で使用価値と欲求とを、この象徴が橋渡します。

この場合の貨幣は、一時的なもんですから、形だけです。だから、実際には無価値の紙の券で足りるわけです。
本物の金をいちいち秤量して扱うよりも、コインで。コインも金の目方と、名目がずれるし、「抜き取り屋」がコインから金を抜き取るので、安い金属や、紙に置き換わるのです。

貨幣は第三には、もろもろの商品からの商品価値の独立化、社会的労働の代表です。貨幣そのものが目的となってしまうような蓄蔵貨幣の働きや、流通を終らせる支払い手段です。信用もここで発生します。

じっさいの貨幣がまさに、価値の代表として果たす役割です。
価値尺度の単位や、コインの鋳造は共同体(国家)を要しますが、この共同体をこえた購買や支払いに使われた金も、こういう意味での貨幣です。(現代の「不換銀行券」「国際信用システム」は発達した資本主義の姿)。

こういう貨幣の3つの姿は、資本主義のなかで生きてきます。

価値尺度としての貨幣は、産業資本の価値増殖の尺度。産業資本は最初貨幣で、つぎに労働力となり、それが剰余価値を含んだ商品となり、最後も貨幣。増殖の率が分かります。

流通手段としての貨幣は、資本の姿態転換を媒介し、私的諸資本の絡み合いを媒介する再生産の媒介です。

蓄蔵貨幣としての貨幣は、諸資本のなかの共同資本、つまり銀行資本です。信用ももちろん発展。貨幣はここでは利子生み資本という意味をもちます。自己目的化した貨幣とは、すぐれて「貨幣→より多くの貨幣」という利子生み資本です。


商品は人を自由にする

資本主義が人を共同体から解放するのも、商品生産の全開だからです。商品交換に由来する私的所有者の相互承認が人を自由な法的人格にするのです。もちろん当初は、単に形式的に。社会的生産を物の運動にゆだねることと引き替えに、人は自由を得るのです。

商品は人を支配する

しかし同時に、最初の一対一の交換ですら、人は商品を支配できません。交換の割合は、自分たちの意思によってきまるのではなく、天候やら何やらの生産条件の変化によって、たとえば、フルーツの価値が変わります。交換は無政府的なのです。流通が発展すれば、売買の連鎖は、人をのみこむ法則です(黒字倒産!)。すでに不況の原型がここにあります。

資本主義が発達させる商品流通の全体は、人々が制御できない自然法則となり、そのことで社会が発展するとともに、それは敵対的な法則(労働破壊・環境破壊)となることで、人々を鍛えます。

環境・労働・人権という地球規模での問題群も、こうした無政府性の現象です。生産関係の物象化こそがじつは問題の起点にあるのです。

物の運動にゆだねていた社会的生産を今や、自分たち自身の豊かさの土台として制御すること、自分たち自身の社会的生産として走らせること、が問題群の解決として私たちに問われていることの本体なのだといえます。


補足

「労働価値論」というと、古典派の残りかすだとか、「労働者の立場から搾取を説明するために思いついたものだ」とか「労働が尊いという価値観だ」とかいろいろな見方があります。
「労働価値論は古典派を科学になおした」という説明がされることもあります。

どれも違うと思います。
労働論は『資本論』のメタなシステムであって、社会科学の基礎づけ論です。
ただの労働価値論でもないです。

とりあえず『資本論』におけるもののの見方を労働価値論とよべば、それは、新古典派の原子論的予定調和(「新自由主義」のイデオロギー)を批判しています。経済学的原子論は、市場を前提した個人によって市場を説明するという認識の破綻、社会をビルトインした個人によって社会を説明する出来レースです。

しかし、労働価値論が批判する対象はそれではありません。
初期マルクスは、ヘーゲルに対して、「歴史の終わり」という別世界によって眼前の現実を調和させてしまう破綻した構造を批判し、プルードンに対して「所有」によって社会を説明する逆立ちを批判しました。とくにヘーゲルの手の内にある現代思想、たとえば、資本に対して「制度」を対置する議論や、「道具的理性」と「コミュニケーション」というハバーマスの二元論、ガダマーの「先入見の復権」、いわゆる「物象化論」は、すぐれた意味において労働価値論による批判の対象です。19世紀のマルクスが21世紀の理論の限界を批判している。あるいは、資本主義のとばくちをどう理解するかが、現代をどう理解するかという意味をもっている。


労働が自然を変え、生産物をつくる。こういう人類普遍の原則から社会を見るってことが、じつはいろんな「幻想」にだまされないでものを考えるってことにつながるんです。
社会はほんと訳の分からないいろんな幻想だらけ、逆立ちだらけですから。複雑なものに惑わされずシンプルに考える、これが労働論だし、社会科学の基軸です。

平凡な人間が、労働のつながりをつくりだしていき、それをベースにして社会のさまざまの関係(法や家族、国家などなど)が存立しています。そうした関係を前提に個人がいろんな考えやら行動やらをしている。

ところが、人間てやつは「忘れちゃう」んですな。
自分が労働によって社会をつくっているのに、それを忘れちゃう。
社会関係から労働のつながりが「消えちゃう」「みえなくなっちゃう」「不透明になっちゃう」んです。

「忘れちゃう」こと、「わかんなくなっちゃう」ことにおいて、社会は、人間たちにとって、不透明な威力だし、人々にとって外からやってくる威力、脅威です。進歩することは、脅威にさらされることです。美しい記憶は破壊され、金銭関係に置きかえられ、進歩は犠牲と抑圧をもたらす。

人間は自分でつくった社会関係を忘れて、逆に社会を「神秘化」してしまう。
宗教の威力も、貨幣の威力もそういうもんです。

忘れたつながりを「思い出すこと」、まさにこれこそが学問です。
宇宙の歴史を思い出し、生命の歴史を思い出し、人類の歴史を思い出す。

講義では、よく「人類600万年」(この数字そのものはしょっちゅう変わっているので深い意味はない)の歴史がつまっているのが大学だ、とか、宇宙の歴史「百うん十億年」の到達点が君たち、私たちだ、などと語るのですが、それは大げさに言っているとか(驚かしたいというのもありますが)、宗教的な話をしているのではなく、現在の労働のなかに潜む方程式をとりだしたにすぎません。労働が示す平凡な話にすぎません。

人類は必死で社会をつくろうとしている途中です。
必死だからこそ、つくったものを記憶しながらく、考えながら、みんなで相談しながら社会をつくっているわけではないのです。逆です。すべて忘れ、敵対しあいながらつくることが前進だという矛盾を生きているのです。
できあがった社会のなかで私たちは呼吸しているのではなく、社会を生みだしている途中なのです。
社会を必死で生みだしている過程のさなかにあるわけですから、「忘れてしまう」のです。

人間必死に成長しているときは反省できません。それと同じ。

これが「生産関係の物象化」の意味です。

しかし今や、国際的な労働問題(児童労働の劣悪な形などなど:ILOの中核的労働基準!)屋地球環境問題にあきらかなように、「成長主義」の20世紀のマイナスを、後続する諸世代のために清算していく時代。

忘れていたことを思い出し、自覚して発展を制御することが必要です。
(「持続可能な開発」とは、自覚的な制御ということ!)。
学問は、この自覚の重要な契機です。

これが「人格の陶冶」(わかりやすくいえば民主主義の発展)の意味です。

現代が1つの自由な人類社会をつくる途上だということが、『資本論』の人類史的物語のテーマなのでした。


要するに「労働する」という当たり前のことが、社会の基礎にある真に無限なものである、ということです。

「本当のこと」は、もちろん「このもの」「あのもの」といった個物そのものにあるわけでもなく、また、永久につかめないものでもなければ、数学のうちにあるのでもなく、ましてや「天井」世界にあるのでもありません。

労働という平凡なことこそが、目で見えない社会のつながりをつくっているわけです。

目で見えないつながりをつかもうとして、人間はいろいろな幻想をもつわけですが、そうした幻想は私たちの目をふさぎ、耳をふさぐものでもあります。こういう制限をこわすために、労働に立ち返って思考をコントロールしてみる。常識を疑い、考えをひろげる。ここに経済学のおもしろさの1つがあります。
by kamiyam_y | 2005-05-31 17:14 | 資本主義System(資本論) | Trackback | Comments(0)

人権と監視社会化(2)

2-2 監督労働のテクノロジーへの置き換え 従業員を盗撮する所有者の権利はあるか

いまや29年前に登場した「北島マヤ」も携帯電話を使う時代です(林真理子「マリコのここまで聞いていいのかな」『週刊朝日』5月27日号、美内すずえとの対談)。テクノロジーの社会的摩滅のサイクルはとても速い。動画撮影カメラもどんどん小型化、高性能化しています。

こんなカメラを従業員を密かに撮るのにつかう企業もあって、これは、単にテクノロジーの問題ではなく、その資本主義的利用から生じる問題であり、みすごせない人権問題です。

連載第3回(北海道新聞2005/04/22朝刊38頁)をご覧ください。

従業員を隠し撮りしている会社の例が紹介されています。

更衣室のない小さな会社で、女性の着替えも録画されていたかもしれないという話。感じ悪いですねえ。黙って撮るなんて。

「映っていた可能性はありますが、悪用しませんから」という会社側の説明ですけど、「悪用しない」という口約束など誰でもできますよね。人の様子を黙ってみる覗き見の誘惑もあれば、録画を売ることだってありえないことではないでしょう。どんな理由をつけてもこのような撮影はそれ自体としては「盗撮」なのです。女性の着替えを映しておいて何も問題ないと思っているのでしょうか。

「監視すべきものが仮にあるのだとしても、個人のプライバシーこそまず最優先して重視すべきです」と、この記事を読んだ学生が述べていました。その通りですね。

ちょっと理屈っぽくかんがえてみましょう。

雇用する側もされる側も対等な契約主体なんですから、雇う側がカメラを設置するなら、逆に、サラリーマンにも、会社が不正をしていないか、監督カメラをもちこむ権利があることになりましょう。労働力の買い手(会社)も売り手(サラリーマン)も、私有財産の持ち主として対等な権利の持主であるはずですから、会社や雇い主がかれらの財産防衛と称してカメラ設置を行うなら、サラリーマンもおなじ。自分の労働力が不当に酷使されないか、暴力や嫌がらせをうけるといった異常な使われ方をしていないか、賃金不払残業がなされていないか、監視するためのカメラをもちこむ権利があることになるでしょう。

あるいは、従業員に対する監視はいわば会社による私的警察の設置とみることもできます。会社は国家権力なわけです。だったら従業員という市民による規制が不可欠でしょう。それとも、会社の市民は株主だけで、この警察は非市民(参政権のない奴隷・市民にあらざるプロレタリア・外国人・犯罪者予備軍)を取り締まる権力なのでしょうかね。

企業においては、指揮・調整労働が発生します。共同的生産である以上、個人の労働をとりまとめる働きが必要です。ところが、資本主義では、この指揮をも含めて、労働者の集団力が、個々の労働者に対して抑圧的な威力としてあらわれます。もっといえば、労働することがいわば自己喪失であるような、労働が強制であるような社会では、この指揮に、強制のための「監督」という性質がまじってきます。監視カメラがこういう強制と抑圧の道具であるならば、このかぎりでは奴隷に対する鞭となんらかわりありません。

ただし、産業革命によって、「監督」にかわって「機械」の規律が働く人を統合するようになります。同じ機械にくっつくことによって、Aさんの労働はBさんの労働を規制し、Bさんの労働はCさんの労働を規制する、というように。
サービス産業であったとしても、働く人は、おのれの自律性を鍛えていくことが賃銀獲得につながりますから、さまざまなかたちの鞭、たとえば言葉による暴力などは、資本主義の野蛮に属します。まあ、野蛮がはびこっているから、職場のいじめも問題になるわけですが(だからこそ、豊かに働き、自分を成長させ、社会に貢献する権利を実現するために、民主的なしくみをつくることがなにより重要なのです)。

「レジのカネがいつも同じ時間帯で計算が合わなくて、どうもその時間のバイトが怪しい」とコンビニでバイトしている学生から聞いたことがあります。
店舗の監視カメラを、従業員による窃盗から財産をまもる防衛手段としてつかうことは、従業員を対等な契約者としてみていないことです。従業員を潜在的犯罪者として位置づけているのですから。この学生によれば、怪しいバイト君は国立大学の学生で、じっさい彼がやめたら、計算が合わないことがなくなったそう。モラルの低い若者を従業員として雇わなければならないという事情があるのかもしれませんが、他の普通のモラルの従業員に失礼です。そんな殺伐とした職場で働くのはいやですね。

店員がレジのカネを盗まないか見張るためのカメラを設置するコンビニは、私有財産にもとづいて権利を主張しているんでしょうか。つまり、会社のカネを見守る権利というような。

しかし、同時に、企業のなかも市民が労働者として集まる公共的な空間という意味をもっています。彼は労働力というモノとして会社にはいるとはいっても、それは直接には彼の意思によって動くのであり、彼は道具ではなく人であり、雇い主に対して対等な契約主体、つまり市民です。人格的な主体です。

「盗撮する権利もあるのだ」と主張するのなら、それは、私有財産にもとづく権利を、人権を侵害する権利に転回させてしまっています。これは資本主義の(企業の)正当性に入ったヒビです。

労使紛争において資本の代表が「監視」を導入したアメリカの実例。

「米国で産業革命がゆるやかに進行し始めると、大会社とそこで働く労働者との間に摩擦が乗じるようになった。大事業主は初期の労働運動を暴力で押さえ込むことを選び、保安要員に暴漢を雇って労働組合組織者やストライキ参加者を痛めつけ、ときには殺害した。……/こうした労使紛争のなか、経営者側は密告者を雇って初期の労働組合組織の内情を探るようになり、リーダーを特定したり、地元の保安官との協力のもと、捏造した容疑で逮捕したりした」(ジム・レッデン『監視と密告のアメリカ』田中宇監訳、成甲書房、2004年、86頁。同書は、「踊る新聞屋」さんのライフログから)。


ちなみに、アメリカはもともと「自由な植民地」で、移民は誰もが「自由な土地所有者」となってしまうために、プロレタリアにならずにすんでいたが、産業革命の進行とともにかれらは賃銀労働者になっていきます。自由な農民としての自由のための闘いの精神が労働運動においても発揮されたのかわかりませんが、アメリカでは19世紀の労働運動が文字通りの武力闘争になっていくのですね。死者100人以上を出した1877年の鉄道ストなどのように(野村達郎『大陸国家アメリカの展開』山川出版社、1996年、4頁以下、55頁以下参照)。

働く人々が、働くなかで豊かに自分たちの生命を発現するという理想を現実的にいいかえれば、それは、あらゆる権利とそれが制御する公共性を、働く人々が成長する権利に収斂していくことだといってよいとおもわれます。
働く人々の「人権」を企業が阻害することは、資本主義に入った亀裂なのであり、裏返していえば、人権による自由で豊かな社会をつくる契機でもあります。

従業員を使い捨ての要因として監視カメラの客体とするような企業が増えるなら、社会システムの統合契機にヒビが入るだけではく、おそらく結局全体の生産性も下がると思われます。働く人の権利充実こそが市場や企業に必要、というか、市場や企業をこの権利充実のための受皿として制御することが、今世紀前半くらいの課題だと思うんですけどね。

監視カメラをルールなく設置して平気でいられる会社なんて、さっさと淘汰されるべき、コンプライアンスのいい加減な会社です。個人のプライバシー保護上の問題点を理解することもできず、人権意識も低く、設置基準も規定の整理もしようとしないずぼらズボラ企業なんですから。(とはいえ人権無視職場はそう容易には淘汰されそうもありません。『週刊エコノミスト』5/31号の「娘、息子の悲惨な職場 具体集Part2」の職場のいじめの話なんて読みますと、コンプライアンスだなんだよりも、働く人々が権利を主張していくことが問題解決の力だろうと感じます)。

もちろんこれは単に企業の社会的責任にとどまらず、それを含んだ働く人々の権利の問題なのです。とくに職業的な能力を獲得する権利を、同社会的に支援していくのかという、労働市場の公共的な整備の問題を中心に含んでいると考えられます。

参照
米連邦控訴裁、「従業員トイレの隠しカメラ設置は違法」と裁定 (Declan McCullagh):HOT WIRED JAPAN

同サイト内の関連記事
監視者を監視するとどうなる? 監視カメラを逆撮影
「公衆監視カメラの普及」が実現する社会とは
クリスマスイブは監視カメラに報復しよう

2-3 街頭カメラの問題性 プライバシー保護の重要性
街頭カメラをあつかった第1回「増殖する眼 犯罪抑止効果は不明確」(2005/04/20朝刊32頁)では、カメラの犯罪抑止効果が不明確であることが論じられ、ススキノがとりあげられています。

「ススキノ『浄化』を掲げる道警」が「20台の街頭カメラを設置するよう札幌市に要請した」が「市はプライバシー保護の観点から慎重姿勢を崩さず……」とあります。

市の慎重姿勢こそまともだと評価します。

「プライバシー」をはじめとする人権を第1の基準として考えることこそ、人権に即して公共的利益をとらえるということです。


「市と違って、カメラに積極的な民間は実にありがたい」

という道警幹部の言葉って変じゃないですか。


3 監視カメラよりネオンを 「浄化」よりも猥雑賑わいを

市場崇拝と競争信仰の新自由主義の補完物である軍事大国化(註2)にせよ、「再国家化」にせよ「監視社会化」にせよ、人権から切りはなして、個人の生存の基軸に国家や公共性を据えることは、転倒であり、この転倒は、警察主導の「浄化」にもあらわれているとみるべきです。

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註2 軍事国家化は現代においてすら「民族」を拠り所にする。
 「戦争というのは、憎んでもいない他人を殺すということですから、……それをやらせようという側は、改めて手っ取りばやく血のつながりという意味での『民族』を持ち出す」(樋口陽一『国家と個人』集英社、200年、61頁)。


ついでにいえば、民営化や規制緩和の主張は徹底するなら、軍隊も皇室も解体を、となるはず。しかし、競争主義政治はかならずといってよいほど、狭隘な共同体主義や、偏狭な道徳を政策に混入させるという全体主義に転換する。
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ちょっとしつこく述べますと、商品の交換はひとを私有財産の持主として自由にします。封建制社会では商品流通が貿易や特権商人の間のように、社会のごく一部にとどまっていたのに対して、資本主義社会は、商品生産が社会の全面的な土台となっていきます。あらゆる労働生産物を商品として生産する資本主義は、人々を法的に自由な主体にします。

国家も、(生産が無政府的に商品交換としてなされるため)実際の生産の内容にかかわることなく、この法的に自由な人々の間の契約というふうに理解され、この人々の間の政治的な秩序というようにあらわれます。個人が社会の主人公としてあらわれ、国家権力はこの個人間の契約をその存在理由にすることになります。

国家の権力とは、共同利害を律するコード(規範・規制)の束ですが、近代社会において、この権力が正当性をもつのは、自由な個人がつくったものとして了解され、かれらが制御するものとしてのことです。警察も市民によって制御されてこそ正当性をもつわけです。

このような枠組を機能させずに、権力の限界が明示されずに、公共性をタテマエとして権力のいわば増大がすすむことは、権力の独立化、公共的ならざる存在による公共性の僭称、公共性の専有、権力腐敗がすすむことです。「人民の、人民による、人民のための」という原理がつらぬかれずに「公共性」が振り回されることは、権力の自己増殖を押さえようとする近代社会の智慧が空洞化するってことです。

警察が「観光客」や「青少年」をもちだして「浄化」を主導することは、権力乱用の拡大や利権の拡大をもたらすのではないか、問題を探る批判的で冷静な思考がいま求められていると思います。安易なカメラ設置ではないのです。警戒すべきは、労働市場媒介的な機能を果たすスカウト行為ではなく、人権侵害の危険性であり、警察の利権拡大、「迷惑防止」「防犯」といった名目の陰で市民に対する監視体制をつくろうとする欲望(といっても陰の支配者の一枚岩的な欲望があるという意味ではなく)、権力腐敗の法則であり、監視されることに慣れてしまう麻痺や監視されることへの欲望の増大、ではないでしょうか。「浄化」は多様な欲求を地下化し拡散し、繁華街の廃墟化をすすめるのではないでしょうか(註3)。

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註3  松沢呉一氏が次のように述べているのはまさに正鵠を得ています。「弁護士もグレーゾーンを作り出すことが問題と強調してました。法の判断ではなく、警察の恣意的な判断になると、法の効力がなくなるからです。法が行為の正当性を決定するのでなく、警察署内で決定するとことになります。となると、国民は自分の行為が違法か否かを検討することも無意味です。判断ができないのですから、法を守ることの意味がなくなってしまい、法治国家の根幹が崩れます」(松沢呉一「敗北8」メールマガジン『マッツ・ザ・ワールド』第92号・2005年4月18日)。
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公共的な空間だからこそ、プライバシーは最大限尊重されねばならなりません。公共的な空間だからプライバシーが制限されるのではない。逆なのです。公共という言葉を使えば権利が制限できると思うのは間違いです。

人権を発生源とする公共的ルールによってすら、公共的なものは独自な権力として制御できなくなっていくのですから、はじめから人権から切りはなされた公共的なもの、人権を正当化根拠として自覚しないような公共的なものは、必ず、人権主体から独立した権力となり、私物化されます。


4 実態として現れた公共的権力(経営者権力から監視カメラの体系、世界市場の物象的な対立的な形成まで)を、人権に包摂する試みへ

4-1 断片化
一般的にいえば、資本主義の発展による伝統的な共同体の崩壊は避けられないものです。個人の個人としての自由はこの崩壊によって拡大すると同時に、この崩壊による孤立化、断片化、分断、疎外も拡大します。この個人を主体とする新たな公共性じたい民主主義の不断の陶冶によって絶えずつくられていかねばならないのであって、それは容易な道ではありません。監視カメラという対応は孤立化や細分化を前提としているので問題解決の基本にはならないのです。

田島「監視社会が批判されると監視のメカニズムもうまく働かないわけだから、監視を批判する言論そのものの規制に向かうことになる」(田島泰彦・江下雅之「監視社会をいかに生き抜くか」『世界』2004年7月号、186頁)「市民社会が形成され始めた時の理念を正当に復権させることがとても大事だと思う」(187頁)。


国家権力に対する規制を忘れて、抽象的な共同利害をたてることが、国家権力による言論封殺を許容してしまうことが問題です。言論の自由に対する規制にカメラという機械によって社会関係を代用させることはもともとできないのであって、問題解決は総合的でなければなりません。人々の孤立化が監視カメラを生み、監視カメラが人々の孤立化を促進し、監視や警察のいびつな肥大化がもたらされるというべきでしょう。

河合幹雄・杉田敦・土井隆義「犯罪不安社会の実相」(同上『世界』)という座談会で、犯罪増大という印象に対して、警察による統計の統計上のトリックや、カテゴリー変更、余罪は調書も取らないという余罪処理による検挙率低下など興味深い証言がなされていますが、機械そのものではなく関係性の問題だということが触れられています。

「監視カメラに防犯効果はほとんどないこともありますが、……機械に任せるということは人間関係をさぼろうとしていること」(161頁、河合発言)。

「異質な人々を排除して安全を確保したつもりでいるけれども、その排除による関係の切断こそが犯罪を招いている」(同上、土井発言)。


4-2  権力乱用
ラブホテルの経営者が、防犯のため犯罪を防止するためにカメラを設置している、としましょう。カメラの利用規程も利用状況の開示もなく、第三者評価もなく、利用は、経営者の裁量に任されます。彼は自分が公共的権力だというわけですが、ならば、その公共性をどう担保するのか。彼は自分の趣味でこのカメラの映像を楽しむこともできます。売って儲けることもできます。
いまや警察だったら、どんな名目や微罪でも逮捕でき司法もそれをみとめてくれる状態、「誰でも逮捕」状態なんですから、監視カメラが何に使われるかわかったもんじゃありません。Winny開発者に対するこじつけ逮捕や、見せしめ逮捕、ビラ配りしただけで逮捕(註4)、警察による盗聴、証拠隠滅などなど、権力の乱用と腐敗が氾濫しているのですから、カメラ設置に対する危惧こそ正しい危惧。差別的利用だって起こりうるでしょう。「潜在右翼」発見報奨金500円(註5)のために使われるかもしれませんぜ。もちろん気分転換の覗き見にもつかわれますよ(註6)。
ラブホや銭湯の防犯カメラは誘惑に満ちてますよ。
防犯協会の岸本輝美は「反発する人はいるが、凶悪犯罪が増加する中、拒否反応は薄らいでいる」と述べています(「『カメラ社会』どこへ」)が、「薄らいでいる」とか何とかいうそういう話ではまったくありません。

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註4 三井環・黒木昭雄・真田左近・野田敬生・鈴木邦男「チラシをまいただけで逮捕!? おそるべき『公安』の実態」(『創』2005年6月号)参照されたし。「裏金」づくり、内部告発者に対する盗聴・尾行・カメラによる監視、市民弾圧など濃い証言です。
註5 鈴木邦男『公安警察の手口』筑摩書房、2004年、96頁以下。
註6 江下雅之『監視カメラ社会』講談社、2004年、140頁。
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4-3 客引きとスカウトが危険か
ついでにいえば、ススキノを歩いていて迷惑なのは、客引きではなくて、「客引きはぼったくりだから、ついて行かないように」という五月蠅いスピーカーの音です。ぼったくりなんて引っかからないからうるさいんだってば。こんな大音響を出して平気なんて、街づくりのヴィジョンなんてないのがはっきりわかりますね。もちろん警察に街づくりの権利なんてないんですよ。市民によってコントロールされるべき存在がなぜ、右翼的宗教団体みたいな抑圧的な道徳をもちだすんでしょうか。
ちなみに、先に紹介した「B規約人権委員会の最終見解」では、

「7 委員会は、人権の保障と人権の基準は世論調査によって決定されないことを強調する。規約に基づく義務に違反し得る締約国の態度を正当化するために世論の統計を繰り返し使用することは懸念される」

と懸念表明されています。警察も自分の欲望を、正当化された方策として出そうとして世論調査をよくつかってますね。

犯罪不安についてですが、「戦後日本はこんなに治安がよくなった」という内容では、視聴率の撮れる番組にならない、とかんがえてテレビ局は行動するのでしょう。「豊かになれば犯罪は減る」、凶悪犯罪がおきたら「それがニュースになるのは治安がいいからだ」、とは視聴者も考えないのでしょう。警察だって予算確保のために「予算をまわさないと治安が悪くなるに違いない」と世論操作してるんでしょう。仮に経済の大変動によって治安が悪化するとしても、それにたいする監視強化という対応は、あくまでも対応にすぎませんのに。

「1つの異様な事件が起こると雪崩のような報道合戦が繰り広げられるというのが、今日の報道のパターンである。……テレビの前に釘付けになっている視聴者の前に専門家が次々に現われ、この事件は単発的なものではなく、今後この手の犯罪(あるいはテロ)が爆発的に増えると警告する。それが犯罪にせよテロにせよ、政府は必ず新たな法律を作り、その施行を徹底するため予算を追加して、悪者を捕まえるための密告者をいっそう増やす。報道機関がこの主張に疑いをはさむことはない。その逆に、政府を常に我々を救ってくれる善玉として描くのである」(レッデン前掲書167頁)。


こうした大メディアの寒々とした状況は現代の先端の問題の1つでしょう。人権主体である個人に対して、彼等の共同物として正統化された国家が、彼等を抑圧し、大メディアがその抑圧の装置として機能しているのです。
by kamiyam_y | 2005-05-29 21:54 | 自由な個人の権利と国家 | Trackback(1) | Comments(0)

人権と監視社会化(1)

明快な基準もなく増え続ける監視カメラ。個人の映像を同意なく撮るカメラがルールもなく設置されている現状は、プライバシーや個人情報保護という権利の問題にとどまらず、私たちのつくってきた近代社会のありかたを再確認しながら、現代を考えるという大きな問題を提起しています。


1 監視機構の制御は民主主義のテーマ

監視カメラは、いまや一種の「権力」の装置といってよいでしょう。
それが私的防衛のためであろうと、公共的空間の監視であろうと、人々を管理し、人々の行動を抑制し、人々に対する公的団体の行動に利用されうるのだからです。

あらためていえば、近代社会において行為の正当性を判断する最上位のルールは、憲法です。「人権」を、社会的合意の唯一の基本原理として、権力の行為の正当性を判断する規範として承認し、人権主体である個人を権力の正当性根拠とする(主権在民)のが近代です。

監視システムが実態としてあらわれた権力のすがたであるとするならば、それはこうした原理にしたがって管理されなければなりません。
防犯の必要というあいまいな不安観念や、監視カメラ関連の売り上げが増大すること(犯罪の人類史的効果)を理由にして、近代の原理原則を捨て去るとしたら、愚行です。

私たちが成長する権利という近代社会の原則にてらして問を発することが重要です。監視テクノロジーの高度化が、既存のプライバシー保護の方式に収まらないかのようにみえるのならば、原理原則に立ちもどって検討しなければなりません。ほんとうに必要なのか、必要性と目的の明確化を議論すること、どのような基準で設置すべきか、目的外使用・乱用・誤用をチェックできるのか、など、正当性(理由や理念)と、運用・管理の智慧とルールを議論することが必要です。

「『民族』紛争の悲劇は、国家が強すぎるからではなく、社会契約の論理でとらえられたすがたでの国家――自然の所与(『大地と血』!)としての国家でなく、諸個人が契約によってとりむすんだ、人為の所産としてのものだったはずの国家――が弱すぎるから、ではないか」(樋口陽一『人権』三省堂、1996年、113頁。下線引用者)。


国家やら共同体やら会社やら何やらの実態的な力を、「社会契約」というフィクションによって規制するのが、近代の智慧です。権力とは人々を規制する社会的諸関係ですけれど、これを人々が制御するにはどうしたらいいのか。前近代だと人々は、土地やら道具やらと死ぬまで合体したままで、移動も職業も自由がなく、いわば権力のなかに埋もれたままです。近代は、個人を権力と切りはなして、「個人が権力の唯一の発生のもとだよ」という了解を普くひろめます。商品経済は人を私有財産の持主にして、自由な合意だけを人が従う権力にします。この状態をいわば民主主義の原始状態と考えると、資本主義という社会システムは、これに対して、これに収まらない経営者権力やら企業の権力、組織の力などなどをどんどんつくりだします。それが、諸個人による民主主義を「現代」民主主義という運動状態に発展させていくわけです。
警察や軍隊といった公共権力も同じです。こうした権力も、市民を根拠としてかれらの民主的管理の下にあるというタテマエをもっており、お上が「いいだろう」といって受け身の個人に(家父長的に)与えるものとして立てられているのではないにもかかわらず、実態として市民から独立し、かれらを抑圧する力としてあらわれてくるのですから。

奥平康宏は、日本では「市民的な自由との緊張関係を配慮して権力の限界を事前にきちんと明示するということがなかった」と述べています。権力の自己目的化を否定する智慧が蓄積されてこなかったといってもいいように思われます。

「奥平――……『権力』を、大目に、あいまいに残しておくことは……内務省に即して言うと、連綿と続く伝統的な手法であった。……目的がちゃんとはっきりしていて、『それはこういう目的です』と示し、かつそれに適合的な手段という、『目的達成に必要な最小限度規制手段』という原則が、今においても確立していないと思う」(奥平康宏・宮台真司『憲法対論』平凡社、2002年、90-91頁)。


権力をグレーゾーンにおいたままにすることが、予算拡大など権力の自己維持の手法なのです。権力がたとえば道徳の占有者として現われるという転倒と、自己保存がうむ腐敗。「権力の限界」を明示せず、その恣意的な運用が権力の自己増殖と腐敗を生む。自由な人民の主権(「憲法」)という正当性根拠を自覚しない権力は自己保存運動として腐敗する。

引用文に述べられているのは、日本的なものにおける権力のありようです。個人の解放を民衆による徹底した闘いの結果として共通の記憶としてはもたないためでしょうか、日本では、その市民社会の懐が浅いというか、成熟度の低いというか、公共性が無自覚な善意や、「お上」の意向としてあらわれるといえます。

くわえて、高度な資本主義社会に共通する問題ですが、テクノロジーの進展が、自由の拡大と、人権の抑圧とをないまぜにしてすすむことです。テクノロジーによる人権抑圧は、テクノロジーそのものの問題ではなく、テクノロジーの資本主義的なすがたにあります。監視システムとは資本のすがたのことです。

まさにこうした大きな問題の系列なかで「監視」問題も発生しています。


2 監視カメラ:北海道新聞特集「あなた見られてます 監視と安全のはざまで」によせて

北海道新聞(北海道新聞社ホームページ)で「あなた見られてます 監視と安全のはざまで」という特集がくまれていて、その第1部「カメラ」が4月20日から5回、まとめの記事が4月30日に掲載されていました。

参照   「監視」と「安全」:札幌から ニュースの現場で考えること

ひと月前の記事になりますが、とても面白く考えさせられるところ多しです。

以下同特集のうち「カメラ社会」、カメラによる「労務管理」、「街頭カメラ」について、覚書を記しておきます。


2-1 権力の乱用を防げるか

まず、第1部のまとめの記事(2005年4月30日土曜日、北海道新聞・朝刊8頁)から、私にとって興味深かった点のうちから5点ほどあげ、手がかりとしてみましょう。

第1に、行政の対応にばらつきがあること。「道管理のカメラに運用ルールをつくる必要はない」といいきっている道に比べ、運用要領によって、管理責任者・連絡先明記を義務づけている静岡県のほうが問題に自覚的です。

第2に、民間営利団体によるビデオ録画の警察への提供について。記事によれば、三月の名古屋高裁の判決で、コンビニでの撮影・録画は、店と関係のない事件のために警察に記録提供されたばあい「防犯目的に含まれるとみることはできず、肖像権やプライバシーの侵害が問題になる」と指摘されたとのこと。北海道のコンビニ「セイコーマート」は、記録の外部提供について、内規に従い任意要請を断ることもありうると説明しているそうです。

第3に、商店街振興組合など民間カメラの実態がまったく明らかにされていないこと。
民間のカメラ設置者が、もし公共的な利益を担っているのだと自認するのなら、きちんと憲法や法律にてらして根拠を示し、情報公開と公開的な議論に参加すべきとおもわれます。そうでないと「善意でしていることだから黙っていろ」という態度にもみえます。これでは、言葉は悪いですけど、「秘密警察」みたいですね。密かに撮影していて、それを警察に提供することもありうるのですから。

昨年度教えた学生が数人、商店街に取材に行き、監視カメラ設置についてレポートを書いてくれましたけど、それによると設置者は問題の所在がどうもわかっていないようでした。

民間による監視カメラは、それ自体は盗撮カメラと変わりません。公共的な目的のもとに設置されるのであれば、ルールづくりの議論が必要です。それを不要と見なし、「犯罪防止」というたてまえ以外しめせないようなカメラ設置こそ問題です。

第4に、対照的に、カメラ設置を秘密にしていない会社もあること。札幌市都市開発公社はモニター室の取材に応じたそうで、「数十メートル先の女性が手にした雑誌の文字まで映し出すほどの性能に驚いたが、それを『公開』する姿勢は評価すべき」と述べられています。こんな高精度だからこそ、情報公開する姿勢が重要です。

第5に、「政府に反対する人の監視に使われないか」という危惧。上智大の田島泰彦のコメントです。当然こういう監視にも使われているでしょう第4回によればNシステム(自動車ナンバー自動読取り機)が、裏金づくりを抗議していた元警部補を監視するのにつかわれたという証言も。

「監視の強化に対して、どれほど効率性の向上という目的が正当性を与えても、それ以外の欲望が同時に一役買っている。…[中略]…監視の新システムの設計やその実装において、倫理的検討や民主的参加はあるのだろうか。そのプロセスは不透明なまま、かつての秘密主義的な官僚政治的刊行がいまだに機能しているのだろうか」(デイヴィッド・ライアン『9・11以降の監視』田島泰彦監修・清水知子訳、明石書店、2004年、256頁)


防犯や効率といったあいまいな大義のうらで、市民をいわば分断し、監視する欲望が実態としてあるのであって、これをおさえる人民の権利(民主主義的な管理)こそが、監視を監視する民主主義的参加こそが、求められていることの本体でしょう。効率性という正当性の背後にある欲望も明示されず、倫理を制度化する民主主義的な智慧づくりがされているのでしょうか。

以上5点あげましたが、問題は「現代」の大きな文脈の中にあるとかんがえます。個人の人権に疎遠な、外在的な形で出現した公共性、人々の人権を無視してあらわれた公共的なもの(註1)、人権外在的な公共性の出現に対して、人々がそれを、人権内在的な公共性(市民社会の論理で制御される権力、民主主義的な管理におかれた共同性)に転換する試みを強制される。「監視」もこういう現代の流れのなかでおきている問題だと思います。人権から公共性を切りはなして、人権よりも全体利益を、という態度は、実態としてあらわれた公共的な権力(個人を抑圧する権力肥大や、市民社会と対立する企業権力・経営者権力、民間監視システムから、世界市場まで)を、民主的な手続と情報公開とルール化、管理責任の明確化、等々によって制御していく道を閉ざすでしょう。そういう全体利益とは諸個人から浮き上がった威力なんですから。

「我々がもっとも注意しなければいけないことは、利便性という隠れ蓑に潜んで広がる監視のインフラ整備であり、現実の恐怖を前にして、なしくずし的に積み重ねられる監視の既成事実である」(江下雅之『監視カメラ社会』講談社、2004年、35頁)。

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註1 特に日本では公共性が人権抑制の論理として一人歩きする点は、国連から勧告まで受けている。「市民的及び政治的権利に関する国際規約(B規約)人権委員会 第64回会期 規約第40条に基づき日本から提出された報告の検討 B規約人権委員会の最終見解 日本」に言う。

8 委員会は、「公共の福祉」に基づき規約上の権利に付し得る制限に対する懸念を再度表明する。この概念は、曖昧、無制限で、規約上可能な範囲を超えた制限を可能とし得る。前回の見解に引き続いて、委員会は、再度、締約国に対し、国内法を規約に合致させるよう強く勧告する。


なお、同22では日本の「起訴前拘留」が、同25では「刑事裁判における多数の有罪判決が自白に基づくものであるという事実」が、人権侵害的なものとして問題とされている。植草さんの事件は日本社会のいわば構造的腐敗の露出にほかならない。
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つぎに、民間企業による従業員監視と街頭カメラについてみてみます。
by kamiyam_y | 2005-05-29 21:52 | 自由な個人の権利と国家 | Trackback(1) | Comments(0)

マルチ商法警報

◇ スキンたびたび変えてすみません。印象は一定させたいんですけど、気が多いもんで。
◇ 今日ゼミでエネルギー問題を議論した。エネルギー白書について河野太郎がこんなこと言っている。
出た! デタラメ白書

◇ 経済学とはうまくもうけるためのテクニックなるものを教えるのではなく、うまい話はないことを教えてくれるものです*1*2。

ゼミ生から悪徳商法に気をつけるよう講義でも話してくださいと言われました。

札幌市内の若者の一部が悪徳商法(マルチ商法系)にひっかかって、市内で勧誘活動をしているそうなんです。

「浄水器を売る権利」を何十万円も出して買い、そのためにサラ金から借り入れた若者が街行く人に声をかけている。
入ったら、自分が借金背負うだけでなく、友人をはじめ周りに害を及ぼします。
今朝も新聞で大学での悪徳商法の進入が警告されてましたけど、学生の皆さんぜひ気をつけてください。

国民生活センター
駒澤大
立教
(有名すぎるけど)悪徳商法マニアックス

*1「経済学は経済学者に騙されないために学ぶ」とはジョーン・ロビンソンの言葉です。現実の真実のつながりをつかむなら、目の前の現実はむしろさかだちしたもの・表面的なものであって、それを語るにすぎない経済学を批判することになる。

*2 商品は労働生産物であって、貨幣はその代表。無からカネが生まれるのではないのです。経済学部の学生は、引っかかりそうな友人がいたら阻止してください。

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↑平岸のサラ金ビル

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公道(駅前通)におかれたサラ金の看板

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サラ金の人間看板(狸小路)
by kamiyam_y | 2005-05-24 01:03 | 消費者の権利と社会的労働 | Trackback(1) | Comments(2)

犯罪の人類史的効果


CDレンタルや書店の大型店舗に入ると、監視カメラに顔が写らないようとつい気になってしまいます。
でも、いまでは、天井から提げてある監視カメラがダミーで、本物カメラは、店内に張られたポスターの針穴や、ぬいぐるみのなかに隠されていたりします。発見するとちょっぴり勝った気がします。

いうまでもなく、カメラがこうして高性能になっていくことは、それが防犯目的というタテマエでつかわれるを意味するだけではなく、人権侵害や犯罪にたいしても道具を提供することを意味します。コンピューターのセキュリティーをとりあげるまでもなく、防犯テクノロジーの高度化は、それを破る犯罪テクノロジーの高度化をよびます。

いたちごっこです。このいたちごっこ(ってどんなあそびだい?)が私たちに示していることは、つまり、【問題はテクノロジーそのものではないんだよ】、ということでしょう。
とりあえず、
今日は、犯罪のもたらす生産力向上効果をとりあげてみます。以下マルクスの雑文らしきもの(MEW26Ⅰ,S.363-364)から。

犯罪者は犯罪を生産するだけでなく、刑法をも、またそれと同時に刑法を講義する教授をも、またさらに、この同じ教授が自分の講義を「商品」として一般市場に授ずるために必要な概説書をも、生産する。これによって国民的富の増加が生ずる。……犯罪者はさらに、警察および刑事裁判所、刑吏、判事、絞首刑吏、陪審員などの全部を生産する。そして、これらのいろいろな職業部門はすべて、社会的分業のそれだけの数の部類を形成しつつ、人間精神のいろいろに違った諸能力を発展させ、新たな諸欲望とそれらを満たす新たな諸方法とをつくりだす。拷問だけでも、きわめて巧妙な機械的発明のきっかけを与え、その道具の生産にたくさんの尊敬すべき職人たちを従事させた。


生産というなら犯罪も生産。犯罪は生産において、社会的分業を高度化し、人々の多面的な能力と欲求を発展させる契機になる、と述べられています。

それが私たちの求めたことで、人間の豊かな発達なのか、というと、まさにそれが矛盾なんですね。豊かなgoodsの生産かと問うなら、利潤という物差しにプラスになるとしても、犯罪とその対策はbadsの生産ですから(都留重人『経済の常識と非常識』岩波書店第1章第2章)、納得いかないと感じるのも正常でしょう。

一人の鋳貨偽造者もいなかったとすれば、銀行券の製造が現在のように進んだであろうか? ……応用化学は、尊敬すべき生産熱のおかげであるのと同じように、商品偽造とそれを摘発しようとする努力のおかげではないのか? 犯罪は、つねに新しい財産攻撃手段によって、つねに新しい防御手段を生じさせ、こうして、機械の発明にたいするストライキとまったく同様、生産的な作用をする。


それだけではありません。

犯罪者は、半ば道徳的な、半ば悲劇的な印象を生産し、こうして公衆の道徳的および審美的感情の動きに、ある「サーヴィス」を提供する。彼は、刑法概説書を生産するだけでなく、……技術、文学、物語、さらには悲劇をも生産する……。犯罪者は、ブルジョア生活の単調と日常の平安とを破る。それによって彼は、停滞を予防し、また、それなしには競争の刺激さえ鈍くなるにちがいないかの不安な緊張と可動性とを呼び起こす。こうして彼は生産諸力に刺激を与える。


すごいですね。こんな効用もあるんですね、犯罪には。道徳的な資本主義批判や資本主義弁護論を信じていた自分がほんとに恥ずかしくなります。んなわけないか。

犯罪は、過剰人口の一部を労働市場から取り去り、それとともに労働者間の競争を減少させ、それによって最低限以下への労賃の低下をある点まで阻止するのであるが、他面、犯罪にたいする闘争が同じ人口中の他の一部を吸収する。このようにして犯罪者は、正しい釣り合いを生みだして「有用な」就業部門の全体の展望を開くところの、かの自然的な「均等化」の1つとして登場するのである。


犯罪者のおかげで私たちの給料も下がりすぎず、労働力の「適正な」資源配分ができるんですね。あな、ありがたや。
失業者や半失業者が、資本主義経済に必要なのと同じく、犯罪も必要なんですね~~。

たんに皮肉やからかいではなく、これって、進歩と悲惨の同一性ってやつでしょう(いま名づけた法則ですけど)。
生産力の発展は、大衆を、古代王朝の墓づくりに生き埋めにし、機械制大工場の発展の下敷きにする。無秩序に発展する生産力から、合理的に制御された生産力へ。テクノロジーの支配とみえる現象も、そこに示されているのは、たぶんこの課題のはず。

また、私的犯罪の部面は別としても、いったい、国民的犯罪なしに世界市場は、いや諸国民でさえも、成立したであろうか?
 

人権侵害という国家による犯罪は、そのための装置産業を拡大し、世界市場を形成する支配的国家の戦略は、兵器産業を発展させる。「悪」の存在は「悪」撲滅をタテマエとする産業をじぶんに依存させる。情報隠蔽の発展は、ハッキング防止ソフトをつくるメーカーを発展させ、このメーカーはハッカーの存在に依存する。エコビジネスには環境破壊が必要であり、防犯関連産業には犯罪不安が必要である。臨床心理ビジネスは鬱病患者を生産し、交通取締ビジネスは、交通違反を生産する。うんぬん。

マンデヴィルは、その『蜜蜂物語』(1705五年)のなかで……次のように述べていたのである。
「われわれがこの世の中で悪と呼ぶものは、道徳的なものも自然的なものもともに、われわれを社交的な動物たらしめる大原理であり、例外なくすべての職業と仕事との確固たる基礎、生命および支柱であって、そこにわれわれは、すべての芸術と学問との真の起源を求めなければならない。そして、悪がなくなる瞬間に、社会はすっかり破壊されないまでも、損なわれるにちがいない」。

by kamiyam_y | 2005-05-19 20:29 | 資本主義System(資本論) | Comments(0)

必須労働/剰余労働 過度労働への欲求


 ……貨幣が、利潤を生む(あるいは利潤を生むことを約束する)事業や取引のために費やされるとき、その貨幣は資本になる。買って使用するために売ること(前資本家)と、売ってもうけるために買うこと(資本家)とはちがう。
 だが、典型的な資本家が売ってもうけるために買うものは一体何だろうか?劇場の切符だろうか?羊毛だろうか?自動車だろうか?帽子だろうか?家だろうか?……〔それは〕労働者の労働力なのだ。だが資本家が、一度買い入れた労働者の労働力を売らぬことは明かだ。彼がもうけるために売るものは、この労働者の労働が原料から完成品に変えた財貨なのだ。利潤が生ずるのは、労働者が賃銀として受けとる価値が、彼が生産したものの価値よりも少いという事実にもとづく。

(レオ・ヒューバーマン『資本主義経済の歩み』(下)小林良正・雪山慶正訳、岩波新書、2頁)

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農夫は、小麦をつくり、パン屋はパンをつくる。製鉄所は鉄をつくり、包丁職人は包丁をつくる。働く人々は、相互のつながりをつくりながら、小麦やパンや鉄や道具をつくりだす。働く人々は、自然をかえて、労働生産物をうみだす。

さてしかしです。働く人々が、自分たちが消費する物しか生産しなかったら、歴史は進歩しません。

生産の発達は、貧しい平等な社会をかえて、奴隷が奴隷所有者をも養えるくらいになります。これは進歩です。さらに、豊かになれば、生産者は一応自分たちの土地をもちながら、武力をもつ人々を養うくらいにいろいろ生産できるようになります。

といってもこれらはいわば現物経済。物の生産と消費は小さくまとまっています。
ところが、貨幣を目的とする経済になると(交換価値が支配する生産である資本主義になると)、働く人々は、自分たちの食い扶持以上の物を生産することに猛烈に駆り立てられます。

ここで、とっても単純な、比較例をだします。

ある封建社会、A国の米生産が100万石だとしましょう。
農民も米を食べていると仮定します。農村には貨幣は流通していません。
このA国は「五公五民」の割合で年貢を取りたてています。
つまり、A国の農民は自分たちのための米を50万石生産し、それを自給自足で消費し、大名とその家来のための米を50万石生産し、現物で年貢を納めていることになります。

現代のB国では、年々新たな価値が600兆円、生産物のなかにつけくわえられている、としましょう。
サラリーマンは600兆円の新たな価値を生産しているわけです。

ところが、サラリーマンが自分たちで消費するのは、このうちの200兆円分の生産物です。
400兆円はどこに行ったのでしょうか?

A国は簡単です。農民は自分のための米と、大名のための米、という形で自分たちの生産を理解しています。

これに対して現代のB国のばあいは複雑です。というのも、働く人が生産した生産物は、資本家や会社がもつ売り物というかたちをとり、それが売られて貨幣に姿を変え、この貨幣の一部が働く人の手に入り、この貨幣とひきかえに、働く人の手に、かれらがつくった消費手段がわたる、というややこしい経路が描かれるからです。

さらに、いろんなばかげた幻想がまとわりついてきます。カネというのは、無駄遣いしないで他人の労働を監督した代償だの、リスクをとったから生まれるだの、すてきなお手並みのおかげだの、個人の才能だの、何だの、狭い個人的な視点を一般化した幻想のなかを私たちは呼吸してます。剰余価値の再配分をめぐる競争しあう資本家の視点がまじるといってもまあいいです。
カネを得るさいの理由付けが、カネを生みだす源泉にひっくりかえるという幻想です。

ともあれ、確実も確実なことは、つぎのことです。

つまり、どちらの時代でも、働く人々が、自分たちの消費するよりも多くの生産物を生産している、という、まあよほどのあほでないかぎりわかる真理です。

自分たちが消費する生産物を必須生産物とよび、それを生産している労働時間を必須労働時間とよびます。他方、それを超える労働時間を剰余労働時間とよび、その産物を剰余生産物とよびます(「必須労働時間」は通常「必要労働時間」と訳されているが、大谷禎之介『社会経済学』桜井書店にしたがい「必須」ということばをつかう)。

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資本が剰余労働を発明したのではない。いつでも、社会の一部の者が生産手段の独占権を握っていれば、いつでも労働者は、自由であろうと不自由であろうと、自分自身を維持するために必要な労働時間〔必須労働時間〕に余分な労働時間をつけ加えて、生産手段の所有者のために生活手段を生産しなければならない。この所有者がアテナイの貴族であろうとエトルリアの神政敗者であろうとローマの市民であろうとノルマンの領主であろうとアメリカの奴隷所有者であろうとワラキアのボヤールであろうと現代の大地主や資本家であろうと。

〔とはいえ、資本主義以前の現物経済では、剰余労働を無制限に取り立てようとする欲望は生じない。貨幣経済(資本主義)になってはじめて、恐ろしいまでに過度労働が現われる〕

 ドナウ諸侯国で見られる剰余労働への渇望とイギリスの工場でのそれらとの比較は、特に興味のあることである。というのは、剰余労働は夫役において一つの独立な感覚的に知覚することのできる形態をもっているからである。
(『資本論』第1部第8章第2節、S.248-250)

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奴隷も農奴も賃労働者もおなじ、というわけです。
ただし、現物経済よりも貨幣追求の場合はそれは過酷だよ、ってのべられてます。

資本主義では、必須労働と剰余労働とは区別しにくく、労働者は労働時間全体にたいして給料が払われるというふうにおもってしまう。ところが、江戸時代の場合は、必須労働と剰余労働とは、感覚的にわかる形でハッキリ分かれている。だから、これを例にとって考えてみると、現代のサラリーマンの労働もよく分かりますよ、って話です。

もっとも、「賃金不払残業」では剰余労働がはっきりみえていますけれど。


「法定労働時間を超える過度労働」においては「剰余労働による剰余価値の形成は少しも秘密ではない」(『資本論』第1部、S.256-267)。

「19 委員会は、締約国が公的部門及び私的部門の両方での、過大な労働時間を容認していることに重大な懸念を表明する」

(「規約第16条及び第17条に基づく締約国により提出された報告の審査  経済的、社会的及び文化的権利に関する委員会の最終見解」2001年9月24日、外務省訳。『国際人権規約』(1966)の社会権規約に関する委員会見解。締約国とは日本)。


必須労働と剰余労働によって、歴史は区分できます。

本源的共同体では、剰余労働は共同の備蓄などに向けられ、 奴隷制では、必須生産物は奴隷のエサ、剰余生産物は主人の自家消費というかたちをとり、農奴制では、必須労働は、農民保有地の労働、剰余労働は領主直営地での賦役(労働地代)としてハッキリ分かれており、隷農制では、剰余生産物は領主に納める生産物地代・貨幣地代の形をとる。

資本主義では、労働者の労働時間のなかに、必須労働時間と剰余労働時間とがまじっている。労働力の価値(労働力を再生産するのに必要な消費手段の価値)に等しい価値をうみだす時間と、剰余価値(利潤・利子・地代に分かれる)を生み出す時間とが、それぞれ必須労働時間と剰余労働時間です。
by kamiyam_y | 2005-05-02 21:01 | 資本主義System(資本論) | Trackback | Comments(1)