さっぽろ地下鉄のなかでマルクスを呼吸する、世界を呼吸する

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「労働する諸個人」と「労働の客体的諸条件」との分離

「労働者と生産手段との分離」は、資本主義のしくみを考えるうえでのキーワードです。
(といってもこれは私の理解で、たいはんのマルクス経済学者がそういっている、というわけではありません)。

むかしむかし、いまの金持ちのご先祖さまが、自分で働いてとっても真面目に、節約したおかげで、いまのような大きな会社がいっぱいいっぱいできあがりました。

こういう神話をそのまま信じる人はいないでしょう。

現代社会は、大衆がサラリーマンとなって、工場や土地を、カネを、もっていないから現代社会です。
大衆が生産の道具を自分でもっていたら、およそ「経済成長」なんてありません。自給自足です。

「働けど、働けど我が暮らし楽にならざり」
こんな実感からすれば、節約が会社の富をうんだなんていうようなウソ話、よほどものを考えない人でなければ信じられませんね。
富はすべて働く人がつくったものです。
会社の富とは、働く人がつくりながら、働く人から引き離されるかれらの本質です。

そもそも富が働く人のものではないってどういうことでしょうか?

これは、働く人々が生産手段(土地・機械・原料など)をもっていないということです。働く人々は、この生産手段のもちぬしに労働力を売ってくらすのです。
これが、資本主義社会の大前提です。

働く人々が生産手段から引き離されることは、一面では、とってもすばらしいことです。
というのは、工場や土地を個人個人がもっていないことによって、生産が個人の手を離れて大きくなり、地球をおおう網までなっていくのですから。
また、個人個人が、封建農民のように、土地から移動もできないとか、封建社会の職人のように、一生道具とワンセットとかいうことがなくなるのも、個人個人が生産手段から分離するからです。

この点では、資本主義は、封建社会に対する輝かしい進歩としてあらわれます。
個人個人が職業を変える自由は、かれらが土地を失うことによって、また実質的には、大工業が、かれらから生産をかれらから切りはなして社会化することによって、もたらされたのです。

同時に他面では、生産を諸個人がコントロールできないということは、諸個人を犠牲にするきわめて悲惨な事態です。
働く人々は、自分たちの歴史が刻印された生産手段から、自分の血と汗と、苦しみと喜びのしみこんだ生産手段から、切り離されています。
社会的生産の発展は、働く人々にとって制御できない威力としてあらわれます。

長時間労働、過酷な労働、競争至上主義や利益第一主義のもたらす諸問題、機械や会社への労働者の従属、恐慌のような経済関係に翻弄されること、地球環境破壊などは、社会的生産の発展の対立的な姿であり、発展が破壊的な威力として人々を犠牲にするプロセスです。

この威力にたいして民主主義が深化していきます。
問題としてあらわれた威力にたいして、民主的な制御が要請されるからです。
この制御自体が、こうした威力を支えていく条件に変換されていき、またこの威力が威力としてあらわれる、というダイナミックな運動が現代です。

資本主義社会は、生産手段や貨幣の持主と、労働力の自由な売り手とに、商品所有者が別れている社会です。

「自由な労働者というのは、奴隷や農奴などのように彼ら自身が直接に生産手段の一部分であるのでもなければ、自営農民などの場合のように生産手段が彼らのものであるのでもなく、彼らはむしろ生産手段から自由であり離れており免れているという二重の意味で、そうなのである。」(『資本論』第1部第24章)

働く人々の手から、生産手段が剥奪されることが、資本主義社会を準備します。
純貨幣経済的に誰かさんがカネを貯めたという話だけではなくて、ありとあらゆる経済外的な暴力が、資本主義以前から資本主義への生産の発展にとって条件となっているのです。

まさに「略奪」こそが資本主義社会を生みだすといえます。

「〔働く人々は〕すべての生産手段が奪い取られ、古い封建的な諸制度によって与えられていた彼らの生存の保証がことごとく奪い取られてしまってから、はじめて自分自身の売り手になる。そして、このような彼らの収奪の歴史は、血に染まり火と燃える文字で人類の年代記に書きこまれている」(同上)

こうした生産手段の過酷な収奪は、さまざまの形をとりました。16世紀にはじまる「共同地の収奪」は資本主義発生のいわば土台です。
イギリスの「土地囲い込み」では、羊毛価格の値上がりをみこんで領主が、農民から土地を取りあげるプロセスがすすみました。これにより都市に無産のプロレタリアが流入したことは周知の通りです。このプロセスを中心に、商人や金貸しが輸出点の近くで生産を経営するようになったり、武力による海外の略奪や奴隷貿易が資本主義に連なる歴史として展開されたわけです。

では現代はどうなのでしょうか。このプロセスは資本主義ではない地域を資本主義化する際に再現されます。
同時に、資本主義が存立するとは、生産手段をたえず大衆から切りはなすことでもあります。生産手段は働く大衆から奪われるだけではなく、個人資本家から株式会社の手に、小資本から大資本に集積していきます。
この集積によって生産の社会化がすすみ、未来の社会の条件が発酵していきます。といっても大衆の犠牲をともなって。

生産手段を絶えず集める運動は、無慈悲なかたちで資本主義社会を拡大させていく条件なのです。

そういう生産手段のうち基軸といってもいいのが現代では「石油」です。石油に対する軍事を介した取り上げは例えば、マイケル・T・クレア『血と油』柴田裕之訳、NHK出版、2004年、など参照。
by kamiyam_y | 2005-04-30 18:15 | 資本主義System(資本論) | Trackback(1) | Comments(0)

個人の成熟という課題 自己責任論1年

雪に閉ざされた4ヶ月乗っていなかったの車に乗った。乾いた路面を走るのは気持ちよかった。この気持ちよさは、車がなければ絶対に自分の体だけでは出せないスピードのせいでしょう。運転の爽快感は、身体を拡大する感じです。車では、機械が、体の拡大であることが、直接、感覚的にわかります。

じつは、感覚的にわからなくても、人間がつくった道具・機械(生産手段)はすべて、人間の拡大です。人間がつくりだす物は、自然が形を変えて、人間の「非有機的な身体」となったものだからです。

人間はこうした共同の制作物をつくりだし、それを土台として共有して、一人一人の生物的・物理的な限界を超えていきます。一人一人は、この土台を共有することで、自分の力を拡大しているわけです。

ここで人間は、一人一人がグローバルな(普遍的な)存在だといっていいでしょう。
また、こうした土台を社会的にどう分けあうかをめぐって、社会制度というしくみがうまれます。

ところが、人間一人一人の豊かさとか、成長をささえるこういうしくみは、まだまだ不完全です。

だから、一人一人のグローバルな本性よりも、企業や国家が、あるいはマネーが、ほんとうは人間のつくったものなのに、みずからをグローバルだと僭称するさかだちがあるわけです。

 ◇◇◇

昨年のイラク人質事件から一年たちました。

政府の責任を議論したり、救出を願うよりも、むしろ、犯罪被害者とその家族をバッシングしたメディアがありました。また、意図的に流された「自作自演説」や、「自業自得論」に乗せられた人たちもいました。そうした人たちの存在も、おそらく、人間がグローバルな本性をもっているのに、じっさいにはそうなりきれず、グローバルになりきれない、ということだとおもいます。人間が本当は豊かで人を思う本性をもっているのにそうなっていないといってもいいかもしれません。

首相が被害者家族を励ますのではなく、その反対の態度をとったことに何の疑問をもたない人たちがいたことも、ひとびとがまだいろいろな制限にとらわれていることを意味しています。
昨年の騒動も、グローバルな事態がすすんでいるのに、それにひとびとが対応できず、悲惨な摩擦が生じてしまう、という現代的な文脈のなかでおきたことといえます。

ふとこんなことを思ったのも、
『北海道新聞』4月11日号第2社会面に掲載されていた

「イラク人質事件から1年 ある男性の変化 『自己責任』憤り消えた 『命懸け』に今は敬意」(黒田理)

という記事を読んだからです。

この記事では、高遠さんらにたいするバッシングに共鳴していた男性が、【自分たちには手をさしのべてくれる人がいないのに、かれらを英雄にしてはたまるもんか】という気持ちであったと当時を振り返っています。この男性も、今では「責められるのは三人ではない」と気持ちが変ったと記事では、紹介されていました。

この記事に斉藤貴男のコメントが附けられており、それは、【バッシングした人たちには三人にたいする嫉妬心もあり、女性や未成年者を「見下したい」という気持ちもあった】という趣旨でした。

たしかに当時、一生懸命三人にけちをつけて、三人を見下すことで自分を保とうとする、とても寂しい人たちがいたことを思いだしました。

個人がグローバルってことは、まず第一に、封建社会とは違って、個人が、王の支配(国家)から解放され自由になっているということです。
国家の正当性が、一人一人の国民の参政権にもとめられること(主権在民)、国家(政府)の義務と、個人の自由な行動とのあいだに線が引がれていることが、近代の基本枠組です。
また人の生命は、処分可能な、だれかの持ち物ではありません。人の命は平等です。ですから、どの命も、すべて平等に政府による救出義務の対象になります。
この政府の救出義務が、個人の思想信条(たとえば派兵反対かどうかなど)によって左右されることは絶対にあってはならないことです(柏村武昭自民党議員による「反日分子」発言をおもいだしてほしい)。法にもとづく統治は、国民に平等であって、恣意的な支配ではありません。

当時の政府首脳による被害者家族批判は、近代政府の原則を崩していますし、矛先を弱い人間に向けた異常な事態でした。ファルージャ市民の殺戮は伝えず、被害者を支援するより、自己責任論を垂れ流したジャーナリズムを忘れてはならないとおもいます。

「『四人』に対する報復が『600人』では、命の価値があまりに均衡を欠いている。……政府が仕掛けた『自己責任』の世論に乗る形のジャーナリスト、支援活動家排除は、国民自身が目と耳をふさぐ行為である……」(『北海道新聞』2004年、4月19日4頁「急速だった治安悪化」)。

個人のグローバルさは、たとえば、国連「人権の10年」といわれるような、国を超えた人権の発展といったかたちにもなっています。いまは、地球規模で、人権や環境が問題となる時代です。一人一人がいわば、国を超えて普遍化する時代なのです。

また、社会が成熟するということは、お上ではなく、一人一人がいわば社会を代表するということでもあります。
一人一人を政府から批判され監督される存在におとしめるような集団主義は、きっと、どこの国にだって(今の人類では)あるのでしょう。
しかし、一人一人が自由に行動し、それも社会的な意味があるというふうに納得されるような社会のほうが、成熟した市民社会、懐の深い社会、といえるはずです。
とすれば、人質とその家族にたいするバッシングのおきた日本は、どうなのでしょうか。

このことを劇的にハッキリさせ、私たちに気づかせたのが、【人質をバッシングするなんて信じられない、ありえない】とする欧米市民社会の反応でした。パウエル国務長官が金平茂紀によるインタビューで「危険を承知でみずから行動する人がいなかったら、われわれはけっして進歩しないでしょう。日本のみなさんは彼らのような市民を誇りに思うべきです。たとえ彼らが危険を冒したために人質となったにせよ、『危険なところにいったあなたたちが悪い』などと言うべきではありません。われわれには、彼らが安全に解放されるようにあらゆる手立てを尽くす義務があり、彼らを深く心配し配慮をする義務があるのです。彼らはわれわれの友人であり、われわれの隣人であり、われわれの仲間の市民なのですから」といった趣旨の発言をしたことが思い出されますね。

人質に対して軍隊の邪魔をした非国民という扱いをする社会と、社会の進歩をになう個人として扱う社会と、どちらが成熟した社会か、懐の深い成熟した市民社会かは、あきらかです。自由な生き方を尊重し、一人一人を社会の進歩をになう主人公として扱う社会こと豊かな社会でしょう(ちなみに、国連NGOの多くが本部を欧州においていることなどにも、日本の市民社会の特質があらわれているようにも思えます)。

参照 エキブロから 高遠さんのブログ( ::minor⇔major::)


--------  追記 4月12日 ---------------------------------

道警裏金に触れたエントリーを補足する記事を1つ紹介しておきます。

高田昌幸・佐藤一・中原洋之輔「『北海道新聞と』警察との長き闘い」(『週刊金曜日』2004年7月23日号)

道警元最高幹部、外国人記者を前に語る|高田さんのブログ「札幌から ニュースの現場で考えること」もご覧ください。

 ◇◇◇

昨年の今頃、一部のメディアは、外務省職員の自己責任は問わなかったのに、3人に対しては自己責任というあいまいな言葉を投げつけて、おかしな雰囲気をつくりだしました。人質バッシングに荷担したメディアも、かつて普賢岳取材で亡くなったカメラマンにたいしては、最大限に褒め称え英雄扱いしていたのに、です(この点は江川昭子ジャーナル「いわゆる自己責任について」)。
犯罪被害者を糾弾するというセカンドレイプ的な論説も、政府首脳の対応も、絶対忘れるべきではないと思います。

政府首脳による世論操作について証言の1つ。政治記者が、自民党の一年生議員に「自作自演説」の出所を尋ねたら、外務省と公安だったという証言です。政治記者が1年生議員に狂言説の出所をたずねたら、「二人は外務省からで一人は公安。お喋りな1年生議員に流して報道関係にリークさせ、それがネットの2ちゃんねるなどに瞬く間に流れた」(木村元彦「イラク人質事件に対する政府、メディアの卑劣な対応を許すな!」『ミュージックマガジン』6月号)。

もちろんこの証言によらずとも、当時の政府首脳の発言が、メディアをもちいた世論誘導であったことにかわりはありません。

海外メディアが、自己責任論を奇怪な現象としてとりあげだしてから、こういう法治国家以前的な雰囲気がかげをひそめていったわけですが、当時フランスにいた人がこう書いています。

「『いったい、これはどういうこと、たとえフランス人が人質になっても、こんな事態は考えられないわ』とあるフランス人が言った。『自己責任だって?その理論でゆくと、失業は能力不足の自己責任。不景気中の会社破産も経営者の自己責任。軍人が戦死したら、軍隊に志願したのも自己責任になるのよ』という友人もいた。……自分たちができないことをしてくれる彼らに、『迷惑をかけるな』と言う発想はフランス人にみられない」(美帆シボ「フランスから見たイラク人質事件」佐藤・伊藤編『イラク「人質」事件と自己責任論』大月書店)。

フランス社会の自由度の高さや、とらわれのなさを感じます。友愛という言葉もおもいだします。なお、自己責任などという法律用語はなく、退避勧告にも法的拘束力はなく、事故の際の国に対する損害賠償請求却下にかかわるだけだそうです(同上書、佐藤真紀・伊藤和子鼎談、179頁)。もちろん「迷惑」とやらも共同体的な曖昧な観念です。

(ちなみに、自己責任論を引き延ばすとばかげた結論になります。たとえば、この引用にありますように、不景気による破産も自己責任となったら、社会理論も、社会的協同も、政府も何もいりません。純粋な個などどこにも存在せず、黒字の会社だって、ほかの会社に依存していて、倒産したりするのですから。)

1年前に共感した発言を最後に引用しておきます。自己責任を問う声は、共感力や連帯の心に欠けていると思います。なぜ弱いものに対して見下ろして否定しようとするのでしょうか。 「この状況下において、解放された3人とその家族に『自己責任』を問う輩は、想像力が徹底的に欠如した『人でなし』だ。/老若男女問わず、「自己責任」狂いの愚を撃て!/それがニッポンという「イジメ大国」を、「共生の大国」へと変える第一歩であり、橋頭堡であると信じる」(竹山 徹朗【 Publicity 】904 :陰惨な「イジメ大国」ニッポンの本性を撃て!:2004年4月17日:申込先http://www.emaga.com/info/7777.html:blog)。

--------  追記 4月14日 ---------------------------------

記事をいつでも修正できるのがいいのか悪いのか分からないが、
当時の自己責任論にたいする怒りが蘇ってきたので追加します。

自己責任論という奇怪な議論によって、政策も、世界認識も、政府の救出義務も無視されて、被害者とその家族へのバッシングに話がすりかえられたのが昨年の事態です。思い出すと本当に異常な事態で、日本の民主主義の空洞を見たような暗澹たる気持ちになります。
当時「自演自作論」にのった論説を垂れ流した人はその後何か反省をしたのでしょうか。
一年たってほおかむりでしょうか。
「自己責任」論という単純なキャッチフレーズを流して、個人の行動計画の問題も、国家の責任も一緒くたの不毛なバッシングを導いたメディアを、安田純平はつぎのように批判しています。

「自己責任」論として三人への批判を展開し、政策の議論を避けようとしたのが小泉政権なのだが、この政治家の発言にのって「自己責任論」なる用語をつくったのは大手メディアだった。……「本人は悪いか悪くないか」という単純な二者択一的論ばかりが流れた。

安田純平「プロパガンダに騙されるな――マスコミは問題を単純化して真実を隠す」(文藝春秋編『日本の論点2005』)

シバレイのblog 新イラク取材日記 The Not so Beautiful People (4/13)   にとても面白いことが書いてあります。

ハリバートンがイラクで営業するのは、資本主義を生みだした「土地囲い込み」や帝国主義戦争と同じで、地域の人々から生産手段(この場合は石油)を取りあげるプロセスでしょう。「イラク解放」というタテマエそのものも、ナポレオン戦争と同じ革命の輸出に似ています。しかしです。そうだとしてもそれは殺戮であることにかわりありません。人一人の命が地球より重いという言葉がどんなに嘘くさく思えようとも、これこそが人間社会の出発点であり、命の尊厳を徹底することこそが、次世代に、個人の尊厳という人間社会の人間社会らしさを残すのだと信じたいです。

高遠さんのブログほんとうに何度でも見てほしいとおもいます。
by kamiyam_y | 2005-04-11 23:56 | 民主主義と日本社会 | Trackback(1) | Comments(4)

仕事のなかで成長する権利を

人間社会の全体像を自然の発展プロセスに連続的にトータルにつかんだ理論は、やはりマルクスの『資本論』をおいてないように思う。資本主義の歴史経験のなかでのマルクス派的なものの資本主義批判の水脈が果たした役割とはべつに、現代理論に与えたマルクスの影響の大きさは考察されねばならず、その大きさはやはり、その理論のトータルさにもよることはまちがいない。

『資本論』は「近代」をどう定義するのだろうか。

ここでは、それを「職業選択の自由」をもつ社会といってみる。

『資本論』は、資本主義社会の大前提として「二重の意味で自由な労働者」の存在をあげている。

これこそは、資本主義(社会)が資本主義としてつづいていくための、もっともベーシックな環境、これがないと資本主義にはならないという環境だ。

「二重の意味で自由」というのは、こういうことだ。
労働者は、封建制のもとでとは異なり、土地に縛られておらず、身分に拘束されてもいない。労働者は、法的に自由だ。
労働者は、土地をもたない。土地は商品として取引されている。労働者は生産の用具ももたない。労働者は労働力を商品として売り、労働力をキープするための消費物品をすべて商品として買ってくる。
労働者は生産手段(労働対象と労働手段)から自由であり、生産手段から排除されている。

商品生産が生産のすべてを覆い、私有財産制が完璧にできあがっている社会は、労働者が二重の意味で自由になっている社会、つまり資本主義社会としてできあがった。

封建的な生産が壊れていくなかで、「二重の意味で自由な労働者」というこの環境ができてくるけど、この環境自身、じつは資本(という生産)が再生産の過程によって、絶えず存続させられている。資本はこういう循環的なものだから、生きたシステム、生産有機体である。対象をこういう生きたシステムとしてつかむことが、ここで機能する唯物論だ。この点は第7編の蓄積をみられたい。

「職業選択の自由」は、もちろん人格的自由という法的関係だが、資本主義という生産においては、それを成り立たせる労働力の自由売買という意味をもつ。これを通じて、どんな社会にも必要な社会的労働の各種生産への振り分け(社会的分業)が、「事後的」に成立している。

さて次に、『資本論』は、今続いている巨大な変動をどう定義するのだろうか。この変動はたしから『資本論』を書いたマルクスが確かめることはなかったものだ。しかし、この変動の本体は、マルクスの分析が対象のなかに見いだした未来を指示する方程式の展開にほかならない。この変動は単純に定義しうる。
ここでは、それを「私有財産制が解体する過程」といっておこう。

あるいは、この「二重の意味」が対立的になることによって、つまり、自由な人々と、他人の生産手段の力とが対立的になること(地球的労働問題)によって、資本主義が進歩し、資本主義ではない人類の社会の真相に近づく、とでもいおうか。

私有財産制によって労働者は法的人格として自由だ。

しかし、生産という中身はかれのものではない。生産は私有財産の自由な使用だ。
またしかし、私有財産(工場)のなかで、生産は社会的なものになっていく。この社会的な生産がまた私有財産である資本の力になる。他人のものとなった生産手段において生産が発展する。実態として労働者の社会的生産になっていながら、私有財産として現れ、労働者に対立している。しかも、私有財産制度そのものを否定する形で、社会的な生産がだれのものともいえずにあらわになっている。ライブドアの話もこの文脈でおきている。

生産の発展によって、まず、法的自由がじつは、生産の力によって制限されていることが露呈する。また、生産のなかに、労働者の社会的結合がうみだされてくる。私有財産制も、私有財産のもちぬしの私的労働も、資本主義の枠のなかでだけれど、超えられてしまうのだ。

さて、「職業選択の自由」から日本社会の課題をかんがえてみよう。

やはり、この自由が実現されるのを妨げる力をおさえることが重要である。資本主義は「職業選択の自由」を大前提とすると同時に、「職業選択の自由」を制限してしまう。

自由な個人の力を拡充すること、つまり権利主体としての個人を軸にすること。

労働力供給という共同利害を進展させることが、資本主義のなかでの個人の発展でなければならない。
個人が職業において発達する権利を保障するためにルールや制度を試行することだ。具体的にいえば、学び続ける権利の保障であり、「労働市場」の管理の発展などであるといってよい。大胆に単純化すれ、社会的分業の枝としての個々の会社が廃棄されても、労働者が別の枝に移動できること、これが、公共的にも、労働者の私的生活にも重要である。個人の職業の自由の発展はまた、「大工業」の要請でもある

こんな人類史的な意味のなかで、私たちは日々職業を探し、職業を選び、職業のなかで自分を成長させる。これを「個人の権利」として要求する権利と使命が私たちにはあるのだ。

せっかく大学で学んだら、就職も大いなる展望をもって挑んでほしい。労働者は、どんなに犠牲になったとしても、歴史の主人公だし、未来をつくりだしていく。社会は進歩するし、発展する。おそれることなく、自由に、自分の人生を切り開いていく権利を私たちはもっている。
by kamiyam_y | 2005-04-08 21:44 | 資本主義System(資本論) | Trackback | Comments(0)

「国民投票運動」って?

憲法改正国民投票法案をよむと、政府の意図に反するような批判的な議論をメディアにさせないメディア規制が目的のようにおもえます。憲法に関して議論をしないで改正しようというところまでねらっているのでしょうか。

憲法改正国民投票法案の白紙撤回を求める日本ペンクラブ声明

法案では、「国民投票運動」という言葉をつかって、これを押さえる条文がならんでいます。ペンクラブ声明は、「実際の運用では、自己の見解の発表や、世論調査・予測報道や意見広告の規制など、曖昧な文言によって過度に広汎な規制が及ぶ危険性を否定できない」とのべ、端的に「露骨な批判封じ込め策」と呼んでいます。

憲法を議論するのに、「表現の自由」を最大限規制するなんて正反対でしょう。そもそも表現の自由という憲法の最大の理念が、さまざまに抑圧されているじゃないですか。そう言う抑圧って、たとえば青少年保護や、家族を守れ、街を清潔にしてスカウトマンや浮浪者を追い出せ、という主張の裏で警察の戦略として身近に浸透しているのです。そうおもうことないですか。個人が社会の主体であり、権力の正当性は個人にのみ由来する、個人に先行する共同体=権力を認めない、というのが近代の大理念。これを理解しない憲法改正論が出されてますが、この法案もこれにパラレルなもんでしょう。

日弁連意見書Subject: 05-02-18憲法改正国民投票法案に関する意見書

情報促進流通計画に法案アップされています。

姜尚中「時代錯誤の憲法改定『自民案』を解読する」(『月刊現代』5月号)も言っているが、憲法前文を、日本の文化・伝統を盛り込んだものに全面改定しようとするのは、「立憲主義を無視した議論」である。文化や伝統といった「道徳」から、国家権力を切り離したのが、近代の大原則。社会のシンプルな説明原理が、個人を原点とする主権在民であって、これは「虚構」であるがゆえに正統性根拠はこれ以外ないという絶対的な契約なのだ。

人権擁護法案の再提出に反対する声明(日本ジャーナリスト会議2005年3月12日)
by kamiyam_y | 2005-04-03 00:21 | 自由な個人の権利と国家 | Trackback(1) | Comments(2)

携帯長持ちシールとフジテレビ

TBS系列のニュースを一昨日だったか(?)見ていたら、携帯電話に貼るとバッテリーが長持ちするシールという商品、大学で実験したら、効果なしだったという取材が放送されてた。そんなうさんくさいもの売ってたのか。第3セクターが支援して売ったという。ニュースで笑えたのは、取材に対する会社の対応。記者の追求に、営業担当部長が効果がないことを認め、「お守り」だから売れるのだと逆ギレしたシーン。

憤懣本舗「携帯電話・長持ちシールに疑問!」
 
pblog携帯電話の電池長持ちシールはお守り?


情報がちゃんと対照的だったらいいんですよ、売り手と買い手、ウソなしで情報公開されていれば。

この会社側の対応は、結局、買う人が馬鹿だから、買う人がいるから、だまして売ったところでいいんだ、といっているのとほぼ等しい。

こういう「気がする」商品って、大手の家電メーカーだってつくってますよね。

しかも、こういうインチキなものも、説明のためにグラフを使うんですよ。ニュースでもやってました。データの取り方も実験方法も説明なし。結局、販売者は、取材につっこまれて、効果なんてない、消費者がそういう気分で買えば、だましていても、感覚商品として売れるんだ、と本音を吐いていたわけですが。

ちなみに、「お守り」っていうのは効果がないから「お守り」です。車にお守りぶら下げてて交通事故にあったって、お守りを売った神社を訴えたとかいう話はききませんし、神社が損害賠償を支払ったという話はありません。お守りは効果がないってことです。神秘的な力なんて存在していないと理解しているのが私たち人類の到達点です。お守りは効果がないというのが社会の共通の知識です。お守りしてるから自信たっぷりという心理的効果あるかも知れませんが、その逆もありえます。お守りしてるから事故に遭わないという根拠のない確信。

それからこの会社側の対応で思い出したのは、フジテレビ。血液型番組が問題視された昨秋、ウチの優秀な学生が、 フジテレビに取材をした(クレームや過剰反応じゃないですよ)。番組制作者は血液型性格判断が真実だと思って放送しているのか、それとも視聴者が喜ぶなら真実でないものをあたかも真実であるかのように放送してもいいのか、公共の電波をそのように使ってもいいのか、疑似科学やオカルトを流布しないという放送の公共的倫理を規定した民放連放送基準108条を守っていないのではないかと、番組担当者に尋ねたところ、「バラエティなんだよ、バラエティ」と横柄でふてくされた対応だったそうだ。

放送の公共性と消費者の知る権利(フジテレビの公共性)


携帯電話の充電補助シールはすでに不当表示で公正取引委員会の警告を受けている事例が2003年にあります。google

 ◇◇◇

近くのダイエーにおいてある牛乳は、花畑、町村、倉島牧場、さわやか、べっかいの牛乳屋さんなどいろいろ。

ローテションくんで飲んでいるが(うそ)、きょうはじめて「農業生産法人(有)牧家」の「だて牛乳」というのをみつけた。新商品かとおもったらそうではない。
ここをみると、カラフルなパックに詰まったいろんな製造者の牛乳が各地で売られているよう。北海道は牛乳いろいろ飲めて楽しい。とおもってたんだけど。
by kamiyam_y | 2005-04-01 22:34 | 消費者の権利と社会的労働 | Trackback | Comments(0)

株主カメラ

今回の株式争奪をめぐり、日経新聞では「会社とは何か」という連載が始っています。その「第1部 大買収時代を生きる」の1「社員はヒトかモノか」という記事(3月25日)が、こんなふうに言ってました。ちょっとおもしろいです。

「『会社』が揺れている。ライブドアとニッポン放送の攻防劇がきっかけだ。株主のために利潤を追求する装置、社員に生活の糧を提供する共同体、そして社会の公器。」

「『資本市場では社員は単なるモノなのか……』」

「自らを社員といい、会社の一部と信じていたのは幻想だった……。今回の買収劇で多くのサラリーマンが単純な事実に気づいた。」

ここで私の秘密兵器、社会関係カメラをとりだしましょう。これは、複雑な現実から、特定の社会関係だけをみえるようにするカメラです。このカメラのレンズは、「私有財産のもちぬしの視線」「自然に働きかけモノをつくる労働のまなざし」「カネの視線」というような種類があります。それを装着すると、みえなかった流れがくっきりとみえてきます。

たとえば、「日本的会社」というフィルターをこのカメラにつけてながめてみます。そうすると、会社は、「社員に生活の糧を提供する共同体」としてくっきりみえます。

このカメラが見逃さないのは、日本の会社の古いしきたりです。「ウチの娘を御社で躾けてください」「はい、大切に預からせていただきます」なんて会話もとらえてしまいます(そんな会話ほんとにあるか知りませんけど)。娘の就職は、大名どうしの政略結婚みたいなもの。

ところがこのフィルターではよく写らなかった波が会社をおそいます。
マネーゲームという波です。別のフィルター「資本市場」で見てみましょう。それを通して見ると、会社はただのモノです。働くヒトの共同体なんてみえません。原料や道具に混じって、労働力もモノでしかなく、ただのコストです。
ニッポン放送の従業員は、自分たちを、フジ・サンケイグループの「社員」だと思っていたら、そうじゃなかった。ニッポン放送がフジテレビからソフトバンクの系列の手に渡っても、ニッポン放送従業員は蚊帳の外。

フィルターを替えるのは面倒です。万能の自動モードないんでしょうか。あります。「労働」に即するカメラです。現実の分裂を生み出しているものをとらえるカメラです。

ここでは、株主のカメラにこの分裂が写ってくるという話をしてみます。半分以上冗談ですからテキトーに読んでください。

株主マナザシのカメラからすると、株主があつまって経営者を選ぶ。利益は株主の配当になる。経営者の独自の意思も、会社の独自の行動もありません。主人公は私たちだけ。こうなります。サラリーマンはただの交換相手です。お金を渡す代わりに労働をもらう約束相手にすぎません。

つぎに、このマナザシで、実際に商品をつくり売る流れをみます。そうするとまさに、会社は株主のモノで、労働者のモノではない、こういう約束事しか、ここではみえません。

しかも、もっと絞ってみると、会社は、自分たちのカネで、労働力を、ほかのモノと同じように買ってきて、自分たちの意思のもとに使います。できたものは、私たち会社のつくったもの。

当然、サラリーマンの意思はこの過程の外です。かれらは、会社でつくりだしたものが自分たちの血と涙の結晶であることをわかっていても、それを自分たちで協同で管理することができません。会社は株主のものなのだから。

できた商品は、かけた費用を超える剰余価値(労働の産物)を含んでいます。そうじゃなきゃ企業も経済も成長しません。でも、剰余価値は労働者のものではなく、ぜんぶ会社のものです。

ところがです。株主を見てみましょう。株主の集団である会社と、労働者とは対等のはずでした。しかし、株主はなんにも頭も体も動かさないのに、配当を得ています。えっ、たんす預金もできたはずのものをわざわざ危険にさらしたんだから、分け前よこせって?でも、分け前をよこせというこの理屈からは、剰余価値である配当そのものは生まれません。株主はサラリーマンに払った以上のものを得ています。株主カメラでも剰余価値がみえちゃうんでした。

さらにところがです。株主は会社の肥大のなかでじゃまになってきます。配当よこせという株主の声もかき消されます。それどころじゃないですよ、他社も設備投資どんどん増やしてるんだから、待ってくださいよ。経営者は会社の内部留保に精を出し、利益も追加投資に回され、株主の意見もあってもなくてもいいのものになっていきます。ここでは株主カメラから見ると、会社は自分たちのものなのに、自分たちが閉め出されている、株主でもない経営陣のもとにある生産・流通からは、自分たちは完全に切り離されている。株主は自分たちの疎外を知ります。

しかし、経営者を見ても、彼は会社のもちぬしではありません。

ということは、会社は誰にも帰属しない、モノではない市民たち(株主も市民)の社会の要素なんだ、ということになります。会社経済の公共性をみとめざるをえません。

公共的なものには公共的なルール作りが必要です。
先の連載第3回(3月27日)では、証券市場のルール整備の遅れが、犯罪性資金に活躍の場を与える危険性が指摘されています。「外資系企業が制度のすきをつくくらいならばまだいい」と。
規制はいけない、市場に任せよ、というとんちんかんな話ではないのです。
by kamiyam_y | 2005-04-01 19:14 | 資本主義System(資本論) | Trackback | Comments(0)

はじめに

「地下鉄」という限られた時空においてでもマルクスを学びたいという気持ちからタイトルを適当につけました。じっさいは地下鉄では寝てるか、人を観察してるか、スマホ見てるかなにかしてますけど。やや理屈をつけくわえると【理論は現実の外の机上にある非現実的なものではなく、それ自体、人間的生命が発現する生きた総体の生きた要素にほかならない】という理論観をも一応こめたつもり(「世界の中心で愛をさけぶ」にひっかけたみたいなタイトルになってしまいましたが、「愛」という言葉が示すのは人間的本質の実現、相互承認であり、人格的協働であって、学問とはその点からすればまさに愛の理論的実現ですから似ているのもしかたない。いやそんなことないか)。

研究・休息・仕事・遊びをじゃましないかぎりで気がむいたら投稿・更新させていただきます。やる気無くてすみません。覚書・雑感・素材など。

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by kamiyam_y | 2005-04-01 00:00 | このブログについて