さっぽろ地下鉄のなかでマルクスを呼吸する、世界を呼吸する

カテゴリ:学問一般( 11 )

Ausbildung in Universität

スプレー缶を捨てる際に穴を開けなくてもよくなるらしい。
http://dd.hokkaido-np.co.jp/news/society/society/1-0169415.html

たしかに危険ですね。私も缶詰を開けたものを焜炉の近くにおいていたりするので。

安倍の戦後レジームからの脱却という主張が、ヒトラーの宣伝とまったく同じ精神であることが、次の本を読むとよく分かります。『ヒトラーとナチ・ドイツ』(石田勇治):講談社現代新書|講談社BOOK倶楽部

13日の道新の内田樹のインタビュー(第14版第5面)を読み、これを買いました。「明治の日本では真の国民的統合は果たされなかった」という1点において賛成するので、確認作業としてです。戦前て、陸軍が勝手に動いたり、統一的システムの呈をなしていないですから。諸藩に分散していた封建的体制がそう簡単に転換できるわけないです。1868年から1945年て、わずか72年にすぎません。Kindleに落としたところ、文語体でしたが、読みにくくはないです。なかなかすごい自伝です。薩長に侵略されたときのくだりや、極寒のむつでの飢えをしのぐさまなど、胸に迫ります。

日文や史学の学生さんて、きっと文語体のものをいつも読んでるんでしょうね。偉いと思います。

これに対して、文系学部を無くせという文科省は野蛮の極みですな。ひどすぎる。これは日経による批判記事。

ジョン・ステュアート・ミル John Stuwart Mill は、スコットランドのセント・アンドルーズ大学の名誉学長就任演説において、大学とは職業教育ではなく、一般教育general educationに任ずる組織であることを訴えています。
J.S.ミル『大学教育について』竹内一誠訳、岩波文庫、2011年

あくまでも《普遍的に》学ばねば意味がないのであって、無知と権力の融合ほど恐ろしいものはありません。



by kamiyam_y | 2015-08-22 04:10 | 学問一般 | Trackback | Comments(0)

チョムスキーという権威

極めて悪質な煽動。こういうデマを拡散する連中は、関東大震災のときには虐殺に荷担したにちがいない。
広島土砂災害:空き巣で外国人犯罪の情報ない 広島県警 - 毎日新聞

これは二度観ました。アマゾンで昔ながらに暮す民ピダハンの言葉を習得した米国の言語学者のドキュメンタリー。彼は宣教のためにピダハンのなかに入るのですが、信仰なしにすでに幸福である人々と接するなかで自分の活動の意味を疑うようになり、信仰を捨て言語学者として活躍するようになります。
地球ドラマチック「ピダハン 謎の言語を操るアマゾンの民」 - NHK
ピダハン:みすず書房
ピダハンは現在を幸せに生きるがゆえにその文法に時制がない。数える必要がないので、数字もない。言語がいかに社会的総体性の分肢であるかが分ります。

ピダハンは接続詞をもたないため、文章を無限に伸ばしてくリカージョンをしない。この事実は、すべての言語にはリカージョンがあるとするチョムスキーの普遍文法論を覆すものであり、彼の発表した論文が言語学のパラダイムにかかわる論争を引きおこす。

驚いたのは、チョムスキーが人類には普遍的な文法が遺伝子レベルで存在すると主張していることでした。いろんな研究分野から批判されるべきでしょう。言語が生得的だの、本能だのって。チョムスキーってちゃんと読んだことはなく、あくまでもこの番組が伝えようとしていた内容を私が理解しまとめてるかぎりで批評してるだけですけど。

単にばかげた説というのではなく、ポストモダン的現代思想の欠陥がこのチョムスキーを貫いているように思えます。多様な人間性の発生根拠を言語に求めるのか、労働に求めるのかという分水嶺がここで浮かび上がります。労働する個人こそが、社会的総体性を自己の連関に包摂し、社会的総体性を前提して意識の実在性である言語という契機が存立する。これが解答。遺伝子に文法をスライドさせるのはほとんど血液型性格判断でしょう。
by kamiyam_y | 2014-08-26 22:38 | 学問一般

televisionのglobalな一有用性

新年数時間すぎました。おめでとうございます。

最近居酒屋のカウンターに座ってのこと。

食事を終えて帰ろうとする若いカップルが、調理中少し手の空いた料理人に、カメラを向けてます。板さんがにっこりすると「かわいい」。

東京から来た若者の旅行かと思っていたんですが、あとでこの板さんが教えてくれたところでは、「台湾からのお客さん」だったとのこと。

「日本語はテレビを見ておぼえたそうですよ。すごいですね」

好きこそものの上手なれ、か。

労働は犠牲なりとするスミスや、負効用とする需給論は、歴史的に規定された資本主義的労働の形態を労働の永遠不滅の本質と取り違えており、労働を生きた総体から切り離された一領域として見るだけで、労働から社会を介して多様に展開する人間性の本質をとらえることができない。労働は人間の人間的生命発現であり、それ自体歓びをもたらす欲求実現であって、学ぶという活動ももちろん同様。

労働が剰余価値の生産・蓄積の手段に転じ、非労働時間も豊かさの尺度ではなく蓄積の外で蓄積に従属する一分肢におとしめられている現在、人間の生命欲求としての学びも労働力売買・剰余価値生産の手段となって疎外されますが、同時に学びはそれ自体、現在の社会を狭隘な制約とみなす普遍的個人の形成であり、社会変革の要因であって、労働における人間的解放に先行して、矛盾する労働する個人における自覚的・主体的モメントをなすのであります。

自己の生命欲求の実現として生き生きと、社会的自由を実現する主体として、普遍的世界人として、積極的にともに学ばんと思います。
by kamiyam_y | 2013-01-01 01:48 | 学問一般

菌を生かす労働過程の変革

労働過程の3要素は、生きた労働、労働対象、労働手段。労働対象と労働手段をあわせて生産手段とよびます。本源的な生産手段は大地。人間が森に働きかければ、木の実という素材を自然は提供し、さらに、大地は木の実をつぶして粉にするための石も与えてくれる、というように。

発展した生産手段は、労働の積み重ねであることがすぐにわかる。ある朝目覚めたら、背中に携帯電話が生えていたとか、道ばたにケーブルが生育しているとかいうことはありません。天然にみえる動植物も品種改良が加えられている。人類の歴史は労働手段のなかにある。

以上は以下の話のための復習。

『日経産業新聞』にサントリー酒類山崎蒸留所を素材にした記事がありました(「変革の起点」6月25日)。87年から2年かけて改良した工程の、最初の生産物が出荷されたという話でした。加工のプロセスを見直し、労働対象、労働手段の改良を行って、生産方法を変革したんですね。

新しい方法の成果が出るまで20年かかったってことなのかな。生産を始めたときに生まれた赤ん坊も大学生になってます。子育てよりも長い時間をかけて労働生産物を生産する。人間っておもしれ~な。

待つこと10年以上ととなれば、口を切る瞬間も厳かさを感じるのでしょうね。ともあれ、10年単位での労働です。

生産の時間には、人間が労働を加えずに、このように労働対象自身の熟成を待つ時間があります。酒づくりでは、人間が果実を踏みつぶすというような、人間の身体により直接対象を変化させる時間だけではなく、酵母が働く時間のような、労働対象の自然変化にゆだねているこの時間がとても長い。生産時間が建築物より長くなったりするわけです。

山崎の改良は、ステンレスの発酵槽を木製にして、菌類の働きを活かして香りを複雑にするというのがメインだったそうです。

つまり、ミクロフローラ、微生物たちの活躍が労働過程変革のポイントだったのでした。

さて、『もやしもん』8巻(石川雅之、講談社)が先々月に出ましたが、まだ買ってません。3巻までは読んだのですが。

ご存知ない方のために書きますと、菌と仲良しの大学生を主人公にしたマンガ。農業大学のとても自由な、あたかも企業社会から独立した学問都市みたいな空間に、ちょっと日常からかけはなれた教授に出会った学生たちがおりなす物語。

内田樹が大学と学問を語るなかでこの『もやしもん』をとりあげていて(『街場の教育論』ミシマ社、2008年、51ページ以下)、とくに論じませんけど、なかなか参考になりました。

ちなみに『ビッグ・イシュー』120号にも作者石川氏へのインタビューが載ってました。

おもったんですが、お肌をきれいにしたい人は、お肌がきれいな人から皮膚の菌を分けてもらうといいかも。方法はお好きに。

最後は軽いエロでまとめてみました。
by kamiyam_y | 2009-09-06 21:21 | 学問一般 | Trackback | Comments(0)

新春を迎えて


新春を迎え、ご覧いただいている皆さん、あけましておめでとうございます。昨年もいろいろとありがとうございました。本年も気長におつきあいくだされば、幸いです。

新たな年を迎えて、皆さんいかがおすごしでしょうか。

私は、年末年始は研究以外の時間に拘束されてます。このときしかできないこともありますし。おせちはたっぷり食いました。体重増えてるはずです。

元日は、チラシをみてホームセンターに安売りのSDカード1G、1000円を買いに行きました。どこかが元日も営業すれば、競争企業も右にならえです。時間はカネのため。とにかく売りつけろです。私も時間がつぶせます。ホームセンターを歩きながら、シリカゲルとか、真空にできる保存容器とか、あとで買いたいリストを頭のなかでつくったりしてました。


語調を変えて、社会科学を学ぶ意味について雑感です。

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人間が発生以来その歩みを着実に進めていると無邪気に思いこんでいる人はあまりいないだろう。地球環境の破壊、地球規模での格差、戦争、金の支配する政治といった問題群は解決に向かうどころかますます混迷と拡散、収拾不能な領域に入り込んでいるように思える。

人間は、自然であり、自然でありながらも自然と向きあい、それを変革する。変革された自然を受けついで、それにもとづいて自然との交流を深めていく。この交流を前提にして、個々の人間を自由な自己意識、自由な個性として鍛錬していく。労働する個人が社会の根本で生きている。

むろんこの自由は規則を破ることや、協調性がないことではない。他の個人との協調、社会との媒介によって、人間は、世界を拡大する。個性も自由も個人が承認しあうことを介してありうる。

こうした発展の概念に対しては、発展のせいで人間は解決不可能な問題を抱えたのだ、だから発展反対、という悲観論もあるが、発展を疑う意識自体発展の産物である。発展の目的である人間と、発展の無秩序な実際とが全く正反対になっているのだから、これは発展からの疎外のない無邪気な状態をくつがえしている。

産業による地球環境破壊の予測は、いやがおうにも人間に地球環境保全が緊急事態であることを訴える。予測もまた大工業の産物である。問題群の拡大は、人間に対して発展の目的を自覚させる契機である。悲観は冷静な対応に転化する契機を秘める。

人間とその環境を破壊するような発展は、人間の協同的な対応という自覚的な発展をもたらす契機をもたらす。人間の集合力が《他人の富を生産する力》としてのみつくりだされる制限されたありようが問題を制約する壁となっている。

非人間的・非社会的な無計画で《物象的な》関係がまねく発展の暴走に対して、協同の網をかけていくこと、智慧を集結することが求められている。

学問はここでどのような意味をもつのであろうか。人の絆を裂く発展は、前近代的な共同体に人が埋没している状態を破壊する発展であったし、現在でも、その側面はある。しかし、今や発展が要求しているものは、人々の協同的な制御にほかならない。

この制御は、共同体社会への逆行ではない。大工業が鍛える個人の多様性、個人の普遍性を前提して、自由な個人を社会的に自覚した存在として存在させるような社会的しくみである、といってよい。

私たち、個人に対して、問題は開かれている。資本が生みだす《物神崇拝》的な関係は、人間を社会から切り離し、社会を物の形で個人の手段にしている。社会が社会でない状態はしかし、経済法則が制御されずに環境に対立し、人間に対立する地点にまで到達している。この到達点において、自らの集合力を自らどう制御するのか、個人は問われつづけ、《物神崇拝》はその制限された性格を露呈している。学問は、個人に潜む社会的個人としての積極的な意識と連帯する。学問は人間の普遍的な知であり、個人の問題意識と共鳴する。

「心配になるのは、いつでも性急に結論に到達しようとし、一般的な原則と自分が熱中している直接の問題との関連を知りたがるフランスの読者が、どんどん先に進むことができないからといって、読みつづけるのがいやになりはしないかということです。……真理を求める読者に覚悟をさせておくよりほかには、私にはどうしようもありません」(『資本論』フランス語版序文および後書」大月書店全集版、S.31.)


共鳴はそうたやすいものではない。真理は一夜にして身につくモノではない。学問はモノではない。それだからこそ、個人に対して学問は自覚的に働きかけるのである。

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焦らず継続していくことがもっとも大切なことの一つだとおもい、勉強していきましょう。

ということで、新春の挨拶でした。舌足らずで説明不足なため誤解を招く部分もあるかもしれませんが、挨拶文ということで、ご寛容ください。

では、挨拶の繰りかえしになりますが、新年が楽しくご多幸に満ちた日々になりますようご祈念いたします。本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。
by kamiyam_y | 2008-01-02 12:01 | 学問一般 | Trackback | Comments(4)

学問の炎はあらゆる人のなかにある

20世紀は人類が経済成長を目的とした特異な一時代であり、後半は特にグローバルに人々が結びついていく時代でした。

グローバリゼーションも、経済成長も何のためにあるべきなのか、と問うならば、それは、人間一人一人の自由で豊かな成長が実現する社会を、一人一人が人間として大切にされ、自由に自分の成長をできる社会を実現するための土台づくりのためにある、と主張できます。

じっさいのグローバリゼーションは反対に地球規模で問題をもたらしています。環境問題、地球規模での格差社会化。

現代社会は、国境を越えて貨幣の増殖がすすむ時代です。貿易が拡大し、カネの移動がますます国を超えるようになり、企業の利益追求主義の相互強制もいっそうひどくなります。やさしくいえば、企業は、より大きな利益を求め、安く生産するために、労働力の安いところに生産点を移します。その結果、国内での雇用が減って失業が増えたりします。海外の安い製品と競争するために、労働者の給料を下げようとしたりします。

正規雇用者と非正規雇用者とでは、非正規雇用者の方が、企業は金をかけないですみます。給料を安くできるだけではなく、雇用保険などの企業負担を減らすこともできます。さらに、いつでも雇い止めをできる人を増やすことで、正規雇用者の賃銀も抑えることも効果としてあります。

超国籍的な資本の蓄積は、こうして、いままでつくられてきた福祉のしくみを弱めるように働くわけです。

現代社会は人間の自由平等の実現を目標として立てていますから、それに沿って格差を是正する知恵を集めて、実行してきました。低所得者層の税負担を軽減する累進課税。失業保険や、失業対策も、だれもが豊かに働ける権利を実現していくための格差是正装置です。これがまた企業の利潤追求のハードルとして作用していたわけです。

学校教育、奨学金、産業保護、補助金、なども格差是正の装置です。

企業のグローバル化はしかし、政府に、福祉よりも企業を支援するために税金を使ったり、企業にかかる税金を安くするように圧力を加えます。企業が人件費を安く抑えられるように労働立法を空洞化しようとします。その結果、働く人々の家庭では、負担が増大していきます。

地球規模でみても、貧困削減のためにも、経済のグローバル化が有効に働いているとはいえません。

豊かな人間の成長をもたらすはずの経済成長が、その逆に作用しています。

貧困は、人々の文化や社会に対する関心を消し去り、利己主義は、社会的な連帯の絆を断ち切ります。

貧しい階層が増え、学校に行きたいのにいけない子供がたくさんいる。情報の格差があって、支配する人々が出てくる。治安が悪化する。医療を受けられない人々がたくさん出てくる。教育の機会が生まれた家庭で固定され、社会的地位が同じ家庭でうけつがれる。お金のある人々が教育機会を得る。所得、地域、企業、雇用形態などによって、教育の機会や、豊かな老後を過ごす可能性が制限される。少子化が進む。

政治参加度の格差も生じる。

文化や社会に対する関心が薄れてしまう。利己主義がはびこり、社会的な連帯の絆が弱くなってしまい、民主主義が崩壊する危険が出てくる。総じて豊かな人間の成長が阻止される。

このように誰かが犠牲になる。

誰かが犠牲になる社会は、誰もが犠牲になりうる社会です。人間としての尊厳を否定される人が出てくることは、その社会は人間の尊厳を否定していることであり、人間の本質を実現した人間的な社会とはいえません。

人は生まれてくる地域を選んで生まれてるわけではありません。どの地域で生まれても、どの家庭で生まれても、どの活動(しごと)についても、豊かに生きることができる社会が豊かな、人間らしい社会です。人間らしさを否定した社会から人間らしい社会へ。

格差というと貧富の差の問題だと思われているが、そうではなく、人間が人間らしく生きる社会をつくる問題です。

人間が人間らしく生きる社会をつくることが21世紀に問われている大問題です。

人間一人一人が、豊かに成長し、人間として尊重される人間らしい社会を、目標としたのが、現代の人権宣言です。

世界人権宣言
前文「人類社会のすべての構成員の固有の尊厳と平等で譲ることのできない権利とを承認することは、世界における自由、正義及び平和の基礎である……」
第1条「すべての人間は、生れながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利とについて平等である。人間は、理性と良心とを授けられており、互いに同胞の精神をもって行動しなければならない。」(外務省仮訳)


こういう宣言を人類がすること自体、現代社会の必然の1つです。

資本増大一辺倒の企業社会という経済の貧しい現実や、それを強化する、環境や生活を顧みない経済成長に偏った政策があるからこそ、人類は、抽象的な自由平等にとどまることなく、人間の権利をこうして再定義しているのです。搾取があるからこそ尊厳と自由平等を目標にし、戦争があるからこそ、平和を目標にするのです。

註 「憲法は現実を追認するものではなく、めざすべき目標なのだ」(町山智浩「改憲したら僕と一緒に兵隊になろう。」内田樹・小田嶋隆・平川克美・町山智浩『9条どうでしょう』毎日新聞社、2006年、84頁)

問題の解決がもたらされるのも、このように問題が発生するがゆえです。いまでは、地球規模で社会づくりのための目標がたてられています。国連が国際社会の目標として、貧困の撲滅を掲げたり、国際労働機関ILOが「ディーセントワーク」といって、人間らしい仕事を世界中の人間が与えられるようにしようと宣言をしているように。

21世紀は人類の歴史の転換期であり、企業中心の現実がもたらした20世紀の歪みをいかにしてなくしていき、人間らしい社会をつくっていくか、という方向転換の時代です。

経済学は、こうした人類の課題を解決するために、社会のしくみをそのおおもとから捉えるという学問です。経済学とは、いかにして人を欺してお金を儲けるかをかんがえるような安っぽい話でありません。他人を蹴落とすためのちっぽけな話ではなく、そういう安っぽい話を粉砕するものです。

学問は、人類の英知を集めたものです。時代の方向転換をささえる真理です。社会的関心を失った人々に、社会的関心を復活させるように働きかける社会の知恵であり、人々がもっている友愛と同胞の精神をよみがえらせるのが学問です。

特別な才能なんていりません。人間である以上誰もがもっている情熱に、学問は働きかけます。

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よかったら大学にきてください(笑)。受験生が多いほど私にとっていいので。

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私も、物神崇拝的な競争のなかで神経をすり減らすこと、いいかえると、学問を自分の給料を確保するための手段におとす行動様式を強制されているのでした。

しかし、疎外を乗り越える条件も疎外のなかにしかありません。学問を普及するのは人類的な仕事です。

自分の個人的創意を社会の利益に、社会の関心を自分の生活に、転換するのが経済であるなら、学問を支えるのも経済。なんて予定調和にはなっていないのです。学問も人類解放のための闘いです。
by kamiyam_y | 2007-09-27 23:33 | 学問一般

錯覚する感覚と愛

一川誠・池上彰『大人になると、なぜ1年が短くなるのか?』(宝島社)という本を買って喫茶店で読んでいたら、錯覚実験を紹介しているページにちょっと夢中になってしまいました。

感覚って、いろんな錯覚を含んではじめて感覚なんですね。

帰宅してから錯視で検索したらこんなサイトを。ご覧下さい。

錯視のカタログ

すごいですね。モニター上の点が動いていないのに動いてみえたりしてます。紙の上のインクのじっさいの形とは、別の形を異なったてみえる。

対象の感覚的なありかたを、感覚は、あえて素直に受け取らないことによって対象を捉えている。そうだとしたら、錯覚は、感覚の独自の補正作用なのかもしれない。錯覚は積極的な意味で感覚そのものといえるかもしれない。

とはいえ、やっぱり錯覚は感覚の失敗でもある。だとしたら、感覚とは錯覚を含むことで成り立つのだから、つね失敗するものである。

対象の正確な像でない錯覚こそが、感覚そのものである、ということもできます。嫌いは好きの裏返しでしょ。美しい誤解を愛とよぶのでしょ。誤解がポジティブに働き補正されるなら、それは愛。誤解だけ独走すると。。。

話がそれました。

対象の感覚的なありかたは対象そのものではない。思考レベルでこそ人はだまされますし、このだまされるという限界を越えていくことに社会科学の存在意義もあるわけですが、そもそも、感覚という対象の素朴なつかみかたにおいても、対象はそのまま現れたりはしないのです。見るという行為1つとっても有機的な過程で、そもそも選択的に対象を見ています。

感覚は鏡ではありません。感覚は、運動です。関係のしかたです。言葉による思考と対照的に受動的ではありますが、それ自体対象に関わる運動であって、単純に鏡のように対象を反映するのでありません。鏡だってほんとは反映した対象とは区別されるし、対象と鏡とが1つの現実なのですが。鏡自体が対象から派生した対象だなんていってもいい。人間も自然であるがゆえに、能動的な自然であるがゆえに、対象という自然を感覚するのですね。

人の感覚は、思考が自覚的に制御することができないプロセスを含んでいます。心身は人間自身にとって未知です。それに加えて、人間の感覚は、労働の歴史が刻まれています。労働が感覚を開発してます。社会のなかでの個人の個性も感覚をつくりだします。人間の歴史もまた人間にとって未知です。生命としての能力、感覚のハードの部分も、精神的なソフトの部分も未知。

感覚をいろいろ実験して錯覚を発見するのって、科学の楽しさですね。未知だった自分を発見する。自分のなかの未知と出会う。楽しいなっと。人間の心身という自然を研究する。感覚という無自覚につくりだされたものを研究し、自分を知る。相手のなかに自分を発見し、自分のなかに相手を発見する。やっぱり愛だよな。そこかよ、結局。
by kamiyam_y | 2007-08-27 23:57 | 学問一般 | Trackback | Comments(0)

卒業祝賀会

立食形式の飲み会で、卒業生は着飾って、学生生活最後の時を惜しむように教師を交えて記念撮影してました。人生も、今日という日も一度限りであることを自覚するがゆえに、人は人との結びあいを自分の核心にしていくのだし、写真も撮る。いいことですね。

人は社会に出ることで、陶冶されていきます。たぶん、学生時代というのはいろんな濃密な経験をしますがまだ、自分の根拠から浮いていて、自分のなすべきことを限定していない抽象的な存在です。

学生時代に学んだことの意味は卒業してから初めて了解できるようになります。社会の問題を自分の問題として意識し、自分の問題を地球の反対側に住む人々や未来の人々に連続させて考えることがリアルにできるようになるのも、卒業してからのことでしょう。

それは、自分の個別的な職業のなかで社会と対話することが、学生時代に学んだことを引き出していくはずであるから、というだけではありません。学問を学ぶことが、目先の経験から離れて普遍的な視野を獲得する解放である、ということを、日々自分を仕事ですり減らすなかで実感として分ってくるようになるからです。いったん仕事から解放されて勉強することの意味を、卒業したあとになって知るために、私たちは学業の門をくぐったんですね。
by kamiyam_y | 2007-03-23 18:03 | 学問一般 | Trackback | Comments(2)

幸福は凡庸なる日常にあり:《人間の同等性》(勢古浩爾)によせて

久々の氷点下の札幌です。
先週の木曜(3/9)の朝に人生について考えてしまいました。そのときのメモです。

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明け方に見た夢です。



実家の居間に、私は、幼少の頃の甥っ子と二人でいる。幼稚園か小学校入りたてくらいだろうか。

甥っ子は鼻をずるずるしてるし、元気がない。どうしたのだろう。

「熱あるの?」ときくと、

「うん」とあどけなく、うなづく。

「そっかあ・・・毛布もってこようか?そこで寝てる?」とたずねると、また、

「うん」とこっくり。

ソファに横にして毛布を掛けてやると、すぐさま眠ってしまう。

すやすやとねむっているその横で私は本を読んでいる。寝顔をときおりみながら本を読んでいる。



それだけの場面なのに、平凡な幸せの感じがあまりにリアルで、私は夢から覚めると、泣いていました。

というのはウソで、泣きたいような気分だったのでした、というのが正確です。GOING STEADYの"BABY BABY”の一節に、「目が醒めて僕は泣いた」(アルバム「さくらの唄」Libra Records, Distribution UK Project、または、銀杏BOYZ「君と僕の第三次世界大戦的恋愛革命」初恋妄℃学園SKOOL,Distribution UKP)というのがあり、それを思い出してしまいました。

夢から覚めると、私の頭の中を、寝る前に読んでいた本の内容がぼんやりと反復されています。

その本は勢古浩爾『生きていくのに大切な言葉 吉本隆明74語』(二見書房)で、吉本隆明からの引用に独自の解説をつけたものです。

そのなかの吉本の言葉のいくつかに、打ちのめされるくらいに力を感じて、勢古氏の解説にも、そうだよなあ、と共感してました。よくわからないものも多かったですけど。私の寝付きを悪くした言葉は、たとえば、「市井の片隅に生まれ、そだち、生活し、老いて死ぬといった生涯をくりかえした無数の人物は、千年に一度しかこの世にあらわれない人物の価値とまったくおなじである」といったもの。

マルクスと私の価値は同じである。就職して勤めて、まわりの人と心を通わせ、ちょっと吉本ふうにいうと、子育てし、子供に去られ、自分もくたばる、といった平凡な人生を送ることができれば、これはどんな歴史上の偉大な人物よりも、価値があるんだ、というわけです。

生きることのリアリティーって、日常そのものにある。早い話が、社会に対する影響力を持とうが、有名になろうが、生きる幸せのリアリティーはそんなところにはない。日常から離れた世界に真実があるのではない。勢古氏はこうした原点を《人間の同等性》と名づけて、吉本思想の核心として定式化しています。結構わかった気になるんではないか。


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以上が、3/9に書いたもの。吉本思想はオリジナルすぎてちょっとわからない。噛み合わせるのは難しい。そこで、以下では、資本主義システムの把握に強引に話をもっていきます。

人間がその人権において平等だということは、誰の人生の価値も同じものとして承認され、誰もが絶対的な世界であることが社会において原点になっていることを、おそらく意味しています。それがなければこの絶対的個性である自分自身がなくなるような絶対的な世界として自分自身が存立していることが、平等という原理の背景にあるように思います。絶対的な世界としてどの個人も絶対的に平等です。

だとしたら、当り前ですが、同じ商品を1日10個つくる労働者が、15個つくる労働者よりも、人間としての価値、人生の価値が優れているということはない。使用価値の生産量によって、人間の「価値」が変わるわけではない。

人間の「価値」の前に、経済的価値の話をまず片付けておきます。

有用物(使用価値)の生産力によって、労働力価値といういわば人間の経済的価値が変わるわけではない。《賃金体系》という労働力の値段の格差が、使用価値の生産効率を理由づけにされる、としても、じつは労働力の経済的価値(標準的な生活手段価値)は、平均であって人によって違いはない。

近代的平等の背景にあるのは、より一般的には商品生産です。商品生産システムは、人間労働を、相互に計算可能な同一の労働に置き換え、商品の経済的価値に置き換えることで、労働を社会的な労働に転換しています。

しかも、企業や、企業内のチームの中で、一人一人の労働力の差は相殺されて、誰もが平均的な労働力として作用します。

商品の売買では、誰もが商品売買の当事者として自由で、売買は、商品と、その商品と同じ経済的価値を表す象徴(お金)との交換で、これも同等なものの交換です。人間はここでは同等なもの(経済的価値=同等な労働)の仮面です。

しかし、人間が「経済的価値」になるのは、人間が「物」として作用すること、自己疎外です。人権の観念的平等は現実において疎外です。

経済的平等において人間は疎外されている。人間の絶対的な平等は経済的価値に還元されない。

そこで人間の「価値」ですが、これもやっぱり、同じ商品を1日10個つくるか、15個つくるかは、人間としての価値とはかかわりがないわけです。

そうした能力はバラツキがあります。誰がどれくらいこの能力を担うかは、彼の価値とは関係ない。知識や、あることへの才能やなにやらは社会に不均等に配分されている。誰がどれくらいもらっているかは偶然です。それらは全体として補完しあっています。この不均等は、人間の絶対的な価値とは次元が異なります。

この個人の物づくりの効率(使用価値生産力)を、学歴や、顔や、賃金といった属性と入れ替えても同じことです。

ついでにいえば、よい顔をもっている人は悩みなんかないに違いないと考える人は、属性を愛する人です。顔が特別よくなくても、大学名や、服装や、職業や、声や、地位や、境遇や、権力や金が、その人を立派に見せる舞台になることもあります。どんな属性に惹かれるかは人それぞれ。話が思いっきりそれてますが、そうした属性は、人間社会全体にとっては偶然的に散布されているものといってよく、人間の本質や価値を左右するものではありません。

それから、人間が1つのことをできるのは、一人の人間がもともと多くのことを潜在的にできるがゆえであり、人間全体として多くのことがなされ、個人個人が補完しあっています。またそれゆえに、個人が1つのことだけに囚われているうちは、人間もまだ豊かではない。

1年生のゼミで優れた発言によってゼミをリードした学生が、2年生のゼミでメンバーが替わったら突然、ゼミ時間中は発言せず、飲み会での歌担当にかわってしまうなんてことがたまにあります。このばあい、彼は2年ゼミでは役割を変えたんですね。

人間全体でもって、いろんな属性や、役割がそろっており、個人個人へのそれらの分配は、いってみれば、偶然です。人間に与えられる役割も能力も、努力する傾向も、怠け者の素質も、偶然です。《人間の同等性》はそうした事柄には絶対的に無関係であり、そんなものに左右されない。

一人の友人もいないが、総理という役割をする人と、飲んでばかりだが、友人のたくさんいる人は、後者の方が幸せです。有名になるとは所詮その程度の意味しかないのです。学問の発展だって、歴史に残る名前は偶然です。結局誰かがやることでしかありません。

使用価値生産力の競争はきりがなく、一番頂点の1人でさえ、追い越される不安を持ちますから、この意味でもこの生産力は人生の価値とは関わりない。

同じ商品を1日10個つくるか、15個つくるかを、人間としての価値に結びつけるのは、ホロ・コーストの思想、ナチスの優生学です。
by kamiyam_y | 2006-03-13 20:30 | 学問一般 | Trackback | Comments(0)

3月6日(月) あなたは世界の代表だ

▽ 明日の会議で提案するための資料に目を通してました。

細かい数字を見るのはとても楽しい。

んなことはないです。

▽ ウンベルト・エコ『論文作法―調査・研究・執筆の技術と手順―』(谷口勇訳・而立書房・1991年)を開いて、つぎのようなフレーズ(222頁)が気に入りました。論文を書くからには誇りと自信を持て、という文脈にあった文章です。

君はその特定のテーマについて共同体の名において語る人類の役人なのだ。

…[前略]…そのテーマについて語られたすべてのことを要約しただけで、何ら斬新なことを付け加えていない、編纂的な論文を選んだとしても、君は…[中略]…一権威者なのだ。


論文を書くということはすごくいいことなんだ、と言ってます。キュリー夫人や湯川博士でなくても、学問の歴史に名を残すことはなくても、書くことは大切なことなんだ、と。

エコ先生の言葉を私なりにもうすこし拡げてみますと、

論文を書くことは、ある事柄について平凡な人間が人類を代表する権威になるということです。論文を書くことは、国籍も関係ないグローバルな労働であり、目先の利害に囚われない普遍的な労働です。

このことはさらにもうすこし敷衍できそう。

ある人間が共同体の代表になることができるのは、彼が潜在的にそういう資格を持っているからだ。共同体が人間の集合体であると同時に、人間が共同体を自分の内面にもっている。内に埋め込まれているものを、実際の集合体の制度によって実現していくことができる。

間接民主主義についても言えそうです。一人一人の市民が潜在的に社会を代表しているがゆえに、「代議制」も可能である。代議制が可能なのは、誰もが代表を送る権利を有しているからであり、誰もが当該社会構成員としての資格をもつからであり、誰もが代表になる資格をもつからである。

市民が社会の代表であるがゆえに、社会は政府を組織できる。しかしこの政府が現実に市民の代表になりうるためには、市民による現実的な努力が必要だ。

イラク人質事件で捉えられた日本人に対して、彼等を押しつぶそうとするのか、彼等を心配するのか。これも社会を代表するのが国家や政府ではなく、市民なのだということを感じ取れるかどうかが、態度の分かれ目になっているような気がします。

論文以外の仕事についても同じことは言えると思います。

ある仕事に熟知していくこと、毎日ある仕事をおこなって専門性を身につけていくことは、その熟知や専門性によって人類の歴史の到達点を生きているということを意味するといっていいでしょう。

社会は諸々の仕事が有機的に結びつき、その中で私たちは生きています。これらの仕事の中から特定の仕事を担うことは、社会の代表としてその仕事をしている、ということです。

以上述べたような、個人と社会との関係は、社会科学の基本的なテーマです。『資本論』の「個々の商品は、その商品種類の平均見本とみなされる」という一節を念頭において書いてみました。「普遍的な労働」も『資本論』の言葉。
by kamiyam_y | 2006-03-06 22:48 | 学問一般 | Trackback | Comments(5)