さっぽろ地下鉄のなかでマルクスを呼吸する、世界を呼吸する

カテゴリ:現代グローバリゼーション( 32 )

女性の自由(補)

初期雇用契約(CPE)撤回ですね。要するにこの雇用政策って、雇用を増やすという名目で、26歳未満の従業員を理由を告げることなく解雇可能にするわけで、若者使い捨ての制度でしょう。若者の権利を損なうし、フランス労働者が勝ち取った権利を崩すことにつながりますから、大反対は当然。シラク仏大統領が新雇用策の撤回を発表、労組は勝利宣言 | Excite エキサイト : ニュース

さて、先日書いた 女性の自由に補足しておきます。イスラム国家の女性差別をどう見るかという点で、人権の普遍的な意味について言及しました。

《個人》や《人権》や《女性差別反対》や《自由》を「西洋的な価値観であり、私たちにはふさわしくない」と言って女性抑圧を隠蔽しようとするのは、途上国の保守主義者や民族主義者、伝統回帰の共同体主義者です。それだけではなく、市場主義に対して「文化」的深層や構造や制度を対置する論者の中にも、《人権》への疑念がみられます。しかし、個人がかけがえのない1回限りの生を生きる主体であることは、人間の普遍的本性に即してグローバルであって、地域限定の理念ではないのです。マーサC.ヌスバウムの『女性と人間開発』(池本幸生・田口さつき・坪井ひろみ訳、岩波書店)をめくってみて思いました。ヌスバウムは国連の人間開発human developmenの背景にあるcapability approachを推し進める理論家で、アマルティア・センよりもマルクスを前面に出しています。普遍的な《規範》を探る手法は、批評しにくいんですが、おもしろさと物足りなさともに感じます。

《人権》はグローバルゆえに、先進国、途上国を問わず、諸個人にとって武器となります。イスラム国家の女性差別は、先進的現代国家のなかに隠されて残っています。女性差別解消反対論者は途上国だけではなく先進国にこそ新保守主義という形をとって生息しているのですから。

もちろん資本主義の発展が《自由》の発展の条件を創り、女性解放を促すことは、前回指摘しておきました。私は資本主義とは別に家父長制の支配があるとか、男性が支配する構造があるとか考えませんし、資本主義が進むほど女性が差別されるとも捉えません。専業主婦を遅れた存在とみなすのも道徳にすぎないと思います。

さきほど、個人が主体として、人間の普遍的本性に即してグローバルであると述べました。補足すれば、これは人間の本質的活動としての《労働》に立脚してそうなのです。《労働》に即してつかむことによって、市場原理主義の前提となっているような幻想的な「個人」を、イデオロギー(意識の姿をとった特定の社会関係)として批判できます。

資本主義批判が労働論に根拠づけられない場合、《個人》を主体とすること自体が、資本主義の前提する競争主義的個人をもちあげることと混同されてしまいます。「自己責任論」が想定するような競争主義的な個人は、人間の社会的存在性を見失った非学問的な人間観です。市場主義が前提する原子論的個人はじつは市場が生みだした関係性にすぎず、社会の起点などではありません。競争主義的な個人を拒否することは正当ですが、だからといって個人を主体とすること自体が、西洋や近代や資本や市場を美化することにはならないのです。ちょっと書ききれないんですが、労働によって基礎づけられる人間の普遍的な主体性こそ、グローバルな批判の立脚点であり、それを人権主体としての個人と呼ぶなら、個人も人権も廃棄すべき概念などではないのです。
by kamiyam_y | 2006-04-11 00:15 | 現代グローバリゼーション | Trackback | Comments(0)

女性の自由

こちら札幌は、まだ桜が満開になるまで1月ちかくありますけど、雪も解けて、自転車が気持ちのいい季節ですよ。

って自転車もってませんが(笑)。

ジンギスカンの肉って、やっぱり野菜といっしょに焼かないと美味しくないです。ただの焼肉です。機会があったら、試してみてください。

▽ 最近のニュースを少し。

<フランス>300万人デモで600人逮捕 一部暴徒化し | Excite エキサイト : ニュース

アメリカでも数十万人規模のデモが起きているし、すげえなと。フランス社会って、グローバル化の矛盾の先端なんじゃないでしょうか。

矛盾のグローバル化も避けられないなら、人権のグローバル化も不可避で、普遍的な意味をもつ。そう私は思ってるんですが、ちょっと関連するというか、こんな記事がありました。

差別に耐えかねて性転換する女性たち サウジアラビア | Excite エキサイト : ニュース

グローバル化の中で、それぞれの地域の文化を尊重しあうことはもちろん大切です。

しかし、【女性差別も伝統文化として尊重されるべき】と主張するなら、やっぱりヘンでしょう。

この記事にあるように女性が抑圧を自覚していくことは、おそらく不可避だと考えられます。

性差による分業のありかた、就業形態のちがいなどは、例は挙げませんけれど、本質的に生産のありかたに依存します。いってみれば、経済の発展によって規定されています。女性を犠牲にする関係を必要とするような経済的関係が消滅すれば、そうした女性差別的関係は、時間はかかっても解消するのです。

誤解を恐れずいえば、資本主義化、市場化がすすむことは、女性を解放する。大工業や知識労働の発展は、女性を労働現場に引きずり込み、労働現場を女性に開放します。

女性が抑圧を自覚することは、抑圧を抑圧として意識するような権利関係(社会的承認)が育っていることを意味しており、そうした意識をもたらすような生産の関係が発展しているわけです。

こう考えてみると、女性差別を近代的なものと見ることはできず、政教分離していないイスラム国家を、厳密な意味での近代的なものとみるもできません。

だとしたら、多元的な文化を尊重しつつも、人権や民主主義を実現する道がとられるべきではないか。「アンシャン・レジーム」的な前近代的なもの、人権や民主主義にそぐわない文化は組み替えられるべきなのではないか。

これは日本でも同じ。ジェンダー・フリー反対論という名の前近代(=古い共同体的関係)への回帰は、人権によって国家(=社会的生産)を制御する《近代》社会(=現代の核心)から後退した道徳国家への感傷でしょう。そうした感傷は、資本主義的な発展がもたらす諸々の犠牲や敵対関係を覆い隠す働きをします。なぜなら、そうした感傷は、諸個人の《自由》や《権利》を犯人に仕立てあげる短絡によって、また、道徳によって社会が変ると考える逆立ちによって、問題の本質を見えなくさせるからです。
by kamiyam_y | 2006-04-05 23:08 | 現代グローバリゼーション | Trackback(1) | Comments(0)