さっぽろ地下鉄のなかでマルクスを呼吸する、世界を呼吸する

カテゴリ:現代グローバリゼーション( 31 )

国家と市場。ケインズ主義的・国家独占資本主義的国家と新自由主義的国家

金曜デモの拡がりはめざましい。札幌の参加者にも様子を聞きました。北海学園関係者では本田さんがマイクを持ったそう。

政党でも旅行代理店でも何でも、各地の金曜デモに参加するツアーを組んだら面白いのに。

本題。エコロジカルフットプリントという考えがあります。

ウィキ

廃棄物の浄化と資源再生に要する面積が、すでに実際の地球の面積を超えているという話。

何が興味深いのかっていうと、資本のシステムが環境と両立しない点をイメージできること。

地球という私たちの根源的生存条件を維持するためには価値増殖のための価値増殖に進歩を委ねた疎外と孤立のシステムを止揚せい、ということを感覚的に示す一つの表示です。

環境維持の責任はとりあえず資本主義的国民国家にあったわけですが、この力はすでに資本の前にボロボロです。

20世紀の資本の国家を大恐慌に対して一般化した経済介入国家のように表象してみましょう。

と、これの中心って、私的資本の利潤低下に対して国家が経済活動によって肩代りして恐慌を先送りする方策ですね。 相対的過剰人口(不安定雇用・半失業・失業)という労働力価格押さえ込みと労働者の反抗を押さえる資本の生存条件を維持し、労働力再生産・供給という資本の生活条件を確保する、という福祉国家の裏の意味もありますけど。

先進資本主義システムが戦後高度成長を果すなかでのこの国家に対して、私的資本(民間企業総体)の振舞は、労働者を搾取しながら、かつ自分の利益を促進する国家にも価値を振り向ける、というものかな。成長、利潤蓄積によって税収が増えれば、国家による肩代りという方策が機能します。ビルトインスタビライザーの中身はこういうことでしょうね。

しかしながら、高成長によって大工業が普及して社会の実体的な土台が形成されれば、利潤率は低下するほかありません。

安価な労働力を求める海外直接投資の展開がすすむわけですが、これまた産業空洞化をすすめてしまう。

かくして私的資本の振舞は、国家に依存しない実体・公共物を自認して、自信ありげにあるいは余裕なく、税を納めず労働者を搾取するという精神に劇的に転換。この経済的内容の転換こそが国家の新自由主義的編成替えにほかならない、ようにおもえます。

ところが、資本主義的グローバリゼーション・新自由主義は、社会保障等を危機に陥れるがゆえに、一本立ちできる正当性根拠をもつことができません。持続可能ではないことがあらわです。

同時に、一国ケインズ主義は資本の矛盾を解消できず、新自由主義に転換しまた陰でそれを支えた自分自身を批判することに。ケインズ主義の破綻はそのまま新自由主義の破綻ですし、その逆もまたそう。

社会保障という人権と対立して、人々の幸福を支えずして、何のための経済なのか。おふざけでないよ。経済のための人間でなく、人間のための経済じゃないか。口先だけ、建前だけでなく、真に人間個人個人のための社会経済へ。あらためてわれわれは覚醒せざるを得ない。

地球環境問題は、個々の産業やどこかの企業の問題ではなく、地球資本主義を全面的に制御することを求めています。労働問題もまた、資本のシステムの根源を批判しつづける問題。グローバリゼーションの展開は、局限された共同体的なものとの摩擦によって、あるいは大工業・科学を用いた戦争等々によって、逆説的に人権の発展を国際的に課題とします。資本の経済国家・一国ケインズ主義の破綻、および、世界市場の資本・新自由主義の破綻は、資本主義という現在自己を解体しつつあるシステムの表現としてこのシステムの限界を露呈し、国際主義的/地域的/人権主義的な解決をこれらの破綻を乗り越えるものとしてますます必然化していくにちがいありません。
by kamiyam_y | 2012-07-23 04:03 | 現代グローバリゼーション

原発利権の解体を(補足)

環境というのは単なる天然物だけではなく社会的な環境ともいうべきであって、「自然災害」を押さえるのも拡大するのも社会的な構造として現れる労働の発展の問題に帰着します。環境とは社会に無縁な天然の自然ではなく社会的労働を通じて対象となっている、いってみれば社会的に存在する環境にほかならず、「自然災害」の被害のありようは社会的な構造に依存するというべきでしょう(自然の威力がいかに人災に転化するかをこのうえなく悲惨な形でいま私たちが経験しているのはいうまでもない)。

『日刊ゲンダイ』4月1日号(31日発売)で水門と防波堤によって津波をくいとめた岩手県普代村に関する記事がありました(5面)。

確かに地震の被害からは逃れられず漁港も壊滅してしまっている(東日本大震災:原形とどめていた「番屋」 岩手・普代村 - 毎日jp(毎日新聞))のですが、あわせて335メートルの防潮堤と水門がその内側を津波による破壊から救ったというのです。

普代村の広報586号が歴史的経緯にも触れていて参考になります。

普代村役場HP広報ふだい>No586・23年3月号

高さ15.5メートル、総延長130メートルの太田名部防潮堤と高さ15.5メートル、総延長205メートルの譜代水門が機能した(「住民守った防潮堤、水門」6頁)というんですね。

社会的労働を必要な場所に投入した、住民の命を守るための社会的コストを削減しなかった結果といえましょう。

災害としておそってくる自然の猛威に対して、人々の安全を守るために自然法則を味方にして自然を変革する。この変革が出来るように、この変革にもとづいて猛威に対処できるように社会的な人間同士のつながりのしくみをつくる。

環境というのは人間諸個人にとって彼等自身から区別されながらも彼等自身の延長であり、諸個人は、猛威として現れる自然を、社会をつくりながら、諸個人に親しい、彼等を支える自然へと変革する実践を行ってきました。環境づくりの実践は労働する諸個人がその相互関係を自身の延長として結びあうなかで行う共同的で社会的な活動にほかなりません。

人間労働のこの社会的自覚的性格を「災害対策」「安全管理」に最大限に発揮していかねばなりません。諸個人の労働を人間にとって必要な環境づくりに理性的に配分する社会状態の成立は人類史的課題であり、この課題が「災害対策」問題を貫いています。現代の問題はすべてその解決のために社会的労働過程に対する統一的で有機的な協同的管理を求めています。強調されねばならないのは、諸個人による環境づくりそのものを自然発生的な状態に委ねられたものから理性的で社会的、自覚的なものへと変えていくことが諸個人の命の安全という根源的欲求を実現するためにいまこそ必要不可欠であるということです。

災害対策にとどまらず自然環境保全のためにも計画的な人口集中、街の物理的・社会的構造の変革は必須の基本的条件といわねばならないのであり、ノーマライゼーションの実現のためにも、社会保障の高度化のためにも計画的空間編成が基礎になることはいうまでもないでしょう。居住環境づくりは総合的社会化・計画化の一環としてなされねばならず、この総合的計画化は、諸個人が社会的生産を統一的で有機的な計画性において管理していくことを意味します。諸個人が社会的労働の生産力を民主的、自覚的に支出することがまさに現実的な課題として浮上しているんです。

maps.google.co.jp岩手県下閉伊郡普代村

政官財学の利権共同体による原発推進にはGE(ゼネラルエレクトリック社)という巨大資本も加わっていますし、核兵器管理も米国の核戦略も絡んできます。むろん、現在の民主党連立政権にも責任がありましょう。原発批判の旗は貨幣の権力によって降ろされたままなのですから。政権離脱した社民党が管に脱原発の申し入れをした(福島みずほのどきどき日記 脱原子力と自然エネルギーへの政策転換を求めて菅総理に)のももっともというべきです。


昨年5月26日の衆議院経済産業委員会
で吉井英勝(日本共産党)の質問に対して直嶋正行経済産業大臣が「輸出する相手方の国で事故が起こった際の影響については、経済産業省としてそういったアセスメントは行ってません」なんて答えているんですよ。

売っておしまいでは社会的責任を果すことにはならない。傘下の私的生産諸資本が製造物製造責任をはじめとして安全なものを売る責任を担い地球的生産過程において生産の社会性を曲がりなりにも自覚的に遂行しつつある現在、国家機関であれば生産の社会的責任が免除される、なんてことはもちろんあるわけない。販売のための販売という無政府的成長を力強く代弁するこの人物の姿は、国家の本体とは、販売としての販売をその過程に含む資本の蓄積のための蓄積だったという真実を示しています。

吉井氏は経済産業大臣のこの発言を原発事故が起きた場合の「放射性物質が日本へ飛んでくる影響」に触れながら批判してます。

日本共産党 吉井英勝オフィシャルホームページ

社会的生産過程が国境を越え有機化し、社会的原動機構の管理もまた諸個人の世界史的課題となっています。原発輸出先の諸個人にとっても、輸出元の諸個人にとっても安全な生活を保障される権利は同じであり、共通の社会的問題です。原発事故は国境を越えて人体に直接影響を及すだけではなく社会経済に打撃をももたらす。安全対策は国際的責任でもあります。生産・生活の基盤を原発利権に吸収されてきた諸関係を変え私たち自身のもとに社会的労働の諸力を奪還し、安全の確保を国際的に、地球の人民として協同的に実現していかねばなりません。

寺坂信昭原子力安全・保安院長はこの衆議院経済産業委員会で「日本の原子力発電所におきましては〔略〕多重防護の考えに基づいた設計がなされまして、それによって安全性を確保しているというところでございます」と安全性を断言して舌の根も乾かぬうちに「外部電源が全部喪失されて冷却機能が失われるということになりますと〔略〕長時間にわたりますと炉心溶解とかそういったことにつながるというのは、論理的には考え得る、そういうものでございます」としれっと答えている。この人物もまた「我亡き後に洪水は来たれ」という資本の精神をよく体現しているというべきか。

『日刊ゲンダイ』4月1日号「原子力安全・保安院のトップも姿見せず」(4面)は、吉井氏のサイトを紹介し、寺坂原子力安全・保安院長について炉心融解の可能性を認識しておきながら「その後何もしなかった。欧米だったら、大問題になって辞任である」と書いてました。

「日本政府とIAEAの合同対策本部を立ち上げるべきではないか」って河野太郎が述べてます(河野太郎公式サイト | フランスの意気込み)。この案の内容上の当否は別としても、自分たちだけで出来ないことをやろうとし同心円の避難エリアに固執する菅政権が、今からでも科学と国際社会の理性の声に従って行動することを願うばかりです。
by kamiyam_y | 2011-04-02 12:21 | 現代グローバリゼーション

金融グローバリゼーションと「サブプライム」危機(3)

スタンフォードの博士課程を出てるので当然とはいえ、鳩山の英語の演説もなかなかでしたが。

第64回国連総会でオバマ大統領が演説しました。

<米大統領>地球規模の課題は責任分担を 国連総会で初演説 (毎日新聞社) | エキサイトニュース

オバマの演説は、昨晩NHK衛星第一の中継で観たんですが、見事というほかないかんじ。

内容も、「チェンジ」を世界レベルで訴え、国連中心の世界づくりを強調してました。国連の理念的な力と合衆国の実際的力とが結びつくなら、まさに人類社会づくりにとって大きな推進力になろうかと。

「人民の、人民による、人民のための」という言葉も用いられ、私たちが読み取るべきは、民主主義と人権を原理とする姿勢でしょう。「未来への責任」をともに果たしていこうという地球レベルのメッセージとして私は受け取りました。年末にコペンハーゲンで開催される国連COP15(気候変動枠組条約締約国会議)にも言及しており、民主党の25%削減の宣言とともに期待したいところです。国際的合意は社会的生産様式を鍛えあげる規制の役割を果しうるものですから。

オバマは国連ミレニアム開発目標(Millennium Development Goals : MDGs)にも触れていて、世界が人権の実現を課題としているという現在の中心点を理解していると思われました。MDGsとは、2015年までに189の国連全加盟国(2000年当時)が合意した目標。企業中心主義・国益中心主義の幻想性が暴露され、世界は新たな変革の時代に入っています。生きた人間を原理とする世界的変革の世紀に入っていることを国連の人権諸目標は示しているといえます。

ミレニアム開発目標(国連広報センター)

目標1:極度の貧困と飢餓の撲滅
目標2:普遍的な初等教育の達成
目標3:ジェンダーの平等の推進と女性の地位向上
目標4:幼児死亡率の引き下げ
目標5:妊産婦の健康状態の改善
目標6:HIV/エイズ、マラリア、その他の疾病の蔓延防止
目標7:環境の持続可能性の確保
目標8:開発のためのグローバル・パートナーシップの構築

人権と民主主義を単なる道徳や思考と捉えるべきではありません。資本主義システムが客観的につくりだしているその推進の条件でもあり、否定の条件でもある社会関係であって、いってみれば現実のなかの関係であり、現実(存在)から切断された頭のなかの「べき」(当為)ではなく、現実の矛盾を形づくる関係です。

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90年代以降急速に展開しているグローバリゼーションにおいて金融化が大きな推進力の1つであったことはいうまでもありません。

これを投機資金のグローバリゼーションとよぶならば、これは、グローバルな形で貨幣が《利子生み資本》として運用され、《架空資本》の蓄積がグローバルに行われることです。

「信用制度は生産力の物質的発展と世界市場の形成とを促進する」(『マルクス・エンゲルス全集25a』大月書店、S.457.)。

資本とは《貨幣→増大した貨幣》という、それ自体を目的にしてしまった貨幣であり、アリストテレスのいう「貨殖術」における貨幣です。貨幣という交換の道具が逆立ちして主人となり、すべてをその増殖の手段にしてしまいます。

この増殖は人々の労働における協同が否定されているがゆえになりたっていますから、これを、利己的な「投機」とよんでもいいかもしれません。ただし、生産的な投資こそが資本主義社会の基礎をなす産業資本の本質であるとすれば、「投機」とよぶのは産業資本ではなく、利子生み資本・架空資本における退廃的現象に限定したほうがいいのですが。産業資本という資本は、生産手段と労働力を買って消費することで価値増殖します。

産業資本の再生産過程が全体として前提されれば、貨幣はいつでも資本になれるもの、潜在的な資本です。資本であるという、価値増殖するものということが、独自の使用価値となった商品が、商品としての資本です。貨幣が独自の商品として価格がつけられ、売買されます。売買は貸付という形をとり、価格は利子となります。利子は資金の需給で変動しますが、もちろんこの価格は、価値なき価格であって、資本という商品は、抽象的労働を実体とする労働生産物である商品とはちがいます。

株式や請求書のように一定の収入を規則的に引きよせる権限は、そこに資本があるものと想像されます。この架空の資本として、これらの紙切れも売買されるようになります。マネーの膨張とは架空資本の蓄積です。

「われわれがこれまで貨幣資本および貨幣財産一般の蓄積の特有な形態を考察しできたかぎりでは、この形態は、結局は労働にたいする所有の請求権の蓄積ということになった。国債という資本の蓄積が意味するものは、すでに明らかにしたように、租税額のうちからある金額を先取りする権利を与えられた国家の債権者という一階級の増大以外のなにものでもない。このような、債務の蓄積でさえも資本の蓄積として現われることがありうるという事実には、信用制度のもとで起きる歪曲の完成が現われている」(『全集25b』S.493-494.)。
「価値表現から見ればその可除部分のそれぞれが一定の元来の名目価値をもっているこの想像的な富は、すでに前述のような理由からも、資本主義的生産の発展の歩みのなかで膨張して行くのである」(同上、S.494-495.)。

他人の労働を請求する所有の権限が蓄積する、債務が蓄積することが資本蓄積として現れるまでに、資本主義的生産は発展。

産業資本に対する貸付は、個別産業資本がその私的所有の狭隘さを超えていくための手段です。貸付を、貨幣の保管をしていたような資本が専門的に行うようになれば銀行業です。銀行は、社会の遊休貨幣をくまなく集めて、潜在的な資本としてその手に集中し、これを産業諸資本に貸し付けて運用するのであり、諸資本のなかの資本です。諸資本とならんで、貨幣―増大した貨幣という運動が形をとっています。

諸資本にとって共通の社会的資本が成立しています。ここにみるべきは、私的所有発展のためには私的所有を廃棄しなければならない、という私的資本の自己矛盾的な姿でしょう。

「信用および銀行制度はこのようにして資本の私的性格を止揚し、資本そのものの止揚をこうして即自的に、しかし即自的にのみ、含んでいる」(MEGA.Ⅱ/4.2, S.661-662.)。

株式とは、基本単位に細分化された株主の地位であり、まあ所有権です。この所有権の売買も、架空のものの蓄積をなしていきます。銀行は株式を集めて財産にします。

「この所有権の価格変動による損得も、鉄道王などの手へのその集中も、事柄の性質上ますます投機の結果になってくるのであって、この投機が労働に代わって資本所有の本来の獲得方法として現われ、また直接的暴力にもとって代わるのである。この種の想像的な貨幣財産が個人の貨幣財産の非常に大きな一部分をなしているだけではなく、また銀行業者資本の大きな部分をもなしているということは、すでに述べたとおりである」(『全集25b』S.495.)。

資本所有の源泉が労働から投機、ギャンブル、マネーゲームに移ってしまうことは、労働の産物(貨幣)が生きた労働を食い物にする逆立ち、疎外された労働が批判の対象として、ごまかしようがないほどにあらわとなることであり、労働にもとづく所有という、蓄積を説明するさいの正当化を近代的産業ブルジョアジーがますます失うことであります。

「いっさいの尺度は、資本主義的生産様式のなかではまだ多かれ少なかれ是認されるいっさいの弁明理由は、ここではなくなってしまう。投機をやる卸売商人が賭けるものは、社会的所有であって、自分の所有ではない。資本の起源は節約だという文句も、同様にばかげたものになる。なぜならば、彼が要求するのは、まさに他人が彼のために節約するべきだということでしかないからである」(『全集25a』S.455.)。

自分の労働を財産として蓄えた資本家が、欲望を抑えてそれを生産のために使った、この立派な節欲に対する報酬が利潤だ、という弁解も消え失せるわけです。投機は社会的資本を賭ける。

「……社会的資本の大きな部分がその所有者ではない人々によって充用されるからである。すなわち、これらの人々は、所有者自身が機能するかぎり自分の私的資本の限界を小心に考えながらやるのとはまったく違ったやり方で仕事に熱中するからである。」(『全集25a』S.457.)。
「成功も失敗も、ここではその結果は同時に諸資本の集中になり、したがってまた最大の規模での収奪になる。収奪はここでは直接生産者から小中の資本家そのものにまで及ぶ。この収奪は資本主義的生産様式の出発点である。この収奪の実行はこの生産様式の目標であり、しかも結局はすべての個人からの生産手段の収奪である。……この収奪は、資本主義体制そのものりなかでは、反対の姿をとって、少数者による社会的所有の取得として現われる。そして、信用はこれらの少数者にますます純粋な山師の性格を与える。所有はここでは株式の形で存在するのだから、その運動や移転はまったくただ取引所投機の結果になるのであって、そこでは小魚は鮫に呑みこまれ、羊は取引所狼に呑みこまれてしまりのである」(『全集25a』S.455-456.)。

資本の役割があらゆる個人から生産手段を取りあげ社会化することにあるとすれば、信用は、山師による社会的資本の収奪としてこの過程を進める。

ぺてんと詐欺が資本の源泉になるということは、生産していない資本による収奪が資本蓄積として現れるということです。

サブプライム危機においてあらためて発見されたのは、世界規模での金融的収奪でした。ブローカー、金融機関が非倫理的な過剰な貸付を行い、元の債権にたどりつけないような組成された証券化商品を売買し、この不透明性を補うべき民間の格付け機関もまた不透明であったという相互無責任の体制でした(高巌「金融危機で問われる企業倫理(経済教室)」『日本経済新聞』2008年11月21日朝刊、29面、参照)。米国の貧しい労働者に対して世界中の不生産的資本が高利貸しとして収奪し、相互に奪い合っているというのがゲームの中身であったといってよい。生きた個人の普遍的な尊厳のために社会的生産を用いることとは正反対の社会的生産の利用法です。

「信用制度が過剰生産や商業での過度な投機の主要な槓杆として現われるとすれば、それは、ただ、その性質上弾力的な再生産過程がここでは極限まで強行されるからである。そして、これが強行されるのは、社会的資本の大きな部分がその所有者ではない人々によって充用されるからである。……信用制度は生産力の物質的発展と世界市場の形成とを促進するのであるが、これらのものを新たな生産形態の物質的基礎としてある程度の高さに達するまでつくり上げるということは、資本主義的生産様式の歴史的任務なのである。それと同時に、信用は、この矛盾の暴力的爆発、恐慌を促進し、したがってまた古い生産様式の解体の諸要素を促進するのである」(『全集25a』S.457.)。

信用制度の発展は、社会的労働力と社会的生産手段、世界市場を資本主義がつくりだすことを促進します。再生産過程の弾力的な性質を媒介しますから。同時に信用制度は過剰生産の梃子となり、恐慌を促進します。

グローバリゼーションがつくりだしているのは社会的な基盤であり、この基盤を制御されない収奪に委ねたままでは持続可能的ではありません。米国の貧しい人々と世界中の金融機関とが不透明なマネーの連鎖によって結びついていることには、グローバルな連鎖が客観的につくられているという進歩性があります。しかし、このグローバルな連鎖がまさに人権に対立して市民社会を犠牲にしているという事実が明るみに出されたのです。

連鎖の暴走は、国際社会に対して協調することを強制しました。足並みの乱れは当然として、国際社会の対応の速さも注目に値します。金融世界市場は放任されるべき自動調整体なのではなく、迅速に国際協調の網を被せて規制して使うべきものだということが、国際社会の対応のなかに宣言されています。米国発の負の連鎖として地球規模での依存関係が貫かれたことが、反作用的に、国際主義的経験の前進を招かざるをえなかったというわけです。

社会的生産を真に社会的なものに、つまり生きた人間の普遍性(人権)に即した形で制御すること。問われていることは、自然成長的で人権に対立的で持続可能でないマネー膨張を抑えるために、資金の流れに対して、その公共性に即して制御するシステムをいかにして手厚く重ねていけるかということでしょう。大きな転換の時代です。人間のためのものではない持続不可能なグローバリゼーションを、人権主体のための持続可能なグローバリゼーションへと、グローバリゼーションの中身を変えていく転換がますますはっきりしてきているのではないでしょうか。「100年に1度」などというおとぎ話のような恐怖感とはまったく正反対の健全な前進が求められていることです。

冒頭に取りあげた失業について一点付け加えます。恐慌ではなくても、資本主義は労働者階級を現役労働者と相対的過剰人口(半失業・失業)とに分断します。産業循環はこの現役人口と過剰人口との割合を変えるだけで、つねに過剰人口がプールされています。この過剰はもちろん資本蓄積にとってという意味。中位の活況から繁栄の局面では、労働力が産業予備軍の貯水池から吸い上げられ、恐慌ではその逆となりますが、資本がみずから過剰人口をという手段をつくりだすことが重要です。

「せいぜいのところ、イギリスの貧困は、自由貿易か保護貿易かにはかかわりなく、沈滞期と好況期との交替につれて増減するということだ。それどころか、自由貿易の1852年でさえ、保護貿易時代の1837年よりも貧民救済費支出額は320,122ポンドもふえている。しかもこの年にはアイルランドの飢饉があり、オーストラリアの金鉱発見があり、また移民がたえず流出しつづけたにもかかわらず、である」(「貧困と自由貿易」『全集8』S.368.)。
「貧民労役所がからになったのは、自由貿易のおかげであり、もし自由貿易がなんの妨げもなしに完全に展開されれば、おそらく貧民労役所などはイギリスの土地からまったく姿を消してしまうだろう、と。ところが残念ながら、『エコノミスト』の統計によると、その証明しようとすることは証明できないのである」(「貧困と自由貿易」『全集8』S.367.)。

19世紀の「自由貿易」論は、今でいう新自由主義みたいなもの。市場原理主義です。新自由主義が不徹底だから失業が生まれるのだ、という立派な説は19世紀にも繰り返されていたのでした。(終り)
by kamiyam_y | 2009-09-24 18:14 | 現代グローバリゼーション | Trackback | Comments(0)

金融グローバリゼーションと「サブプライム」危機(1)

現在の世界同時不況、ケインズが大恐慌時代に語ったことを思い出さずにはいられません(私は生まれてないですけど)。

「世界中を覆っている不況、世界中に充足されない欲望が溢れているのに失業が存在しているという最悪の異常事態」(『ケインズ全集9』宮崎義一訳・東洋経済新報社、388頁)。


充足されない欲望がありながら生産がなされないという不合理。

現代の大量失業においても、人々が、自由に労働することによって社会参加するという権利を実態において喪失していることにかわりはありません。人権主体である個人が経済の実態においては、関係に支配される個人になっており、この分裂にもとづいて、関係を制御する努力を諸個人が強制されるのが資本主義時代。実態において、失業という強制的な遊休は、資本のもとでの強制的な過重労働の裏面です。不況はこの対立的なありようを拡大して見せているだけともいえましょう。

2004年には、0.83、2006年に、1.06あったのが、2008年には0.77、2009年1月に、0.67、2月に0.61、3月には0.54、7月には0.41にまで急下降。

有効求人倍率です。
厚生労働省「一般職業紹介状況」2009年7月分

いわゆる不況が悪化するとは資本が利潤を回復するために生産能力をみずから破壊するプロセスです。飢えた人がいても資本が増えなければ生産物が廃棄されます。資本による労働力の購買が減少し、失業が増えます。産業循環を構成する起点は個人の自由な意思ではなく、資本蓄積です。資本の生活過程が産業循環です。

ワーキングプアの世界的な激増も予想されていること。
ILO 1/28

若年層の失業は世界共通の問題。先進諸国の25歳未満の若年失業率を、ILOは16.0~18.7%とみています。
ILO駐日事務所メールマガジン・トピック解説(2009年6月30日付第85号)

アメリカ合衆国発の金融危機が引き金となったこの現在の世界的な大量失業・雇用破壊ですが、すこし振り返ってみましょう。「貧困あるところ金融あり」ってわけで(そんな諺ありませんが)、貧しい労働者にマイホームを、という政策が、返済できそうもない大衆への過剰融資を行う環境づくりに転換し、労働者が労働力の代金を生活手段に変えること、家という生活手段を獲得しようとすることが、マネーの膨張のための道具になっていったところに、「サブプライム」危機の発端を見いだせます。労働で搾取され、消費でも搾取される。「サブプライム」層とは、貸付ける側からすると、返済が滞る危険度が高い層を指します。

最初の2年は金利を低く据えおく形で、サブプライム労働者にローンを組ませて家を買わせ、金利が上がるときに売却させる商売方法(ビジネスモデル)は、住宅価格の上昇を見込んでます。住宅価格上昇が続くということが、大衆から奪い、金融内部で奪い合うゲームが依拠する想定です。日本のバブルのころの土地神話みたいなもん。この想定が崩れるや、金融奪い合いは、損失の押し付け合いに化ける(これも奪い合いですけど)。

膨張を進める道具になった「証券化」という手法では、請求権が細かく分割され再合成されて価格を付けられ、世界中の金融機関に売られ、この証券化商品のなかにサブプライム関連も含まれていたわけです。ローカルな関係を壊して、商品の製造過程も成分も不明することで、商品となった請求権が世界中に分散するという仕掛けですね。

危機の要因はもう1つ、CDS(クレジットデフォルトスワップ)という金融派生商品(デリバティブ)。保険みたいなものです。クレジットデフォルトは債務不履行、スワップは交換。CDSとは、保険料みたいなものを払っておき、債務不履行にあったばあいに、カネをもらう契約です。焦げ付きのリスクをネタにした取引。たとえば、会社イに貸し付けているロは、ハと契約を結び、保険料を払います。会社イが債務不履行に陥ったばあいに、ハが代ってロに保険金を払う、というようなかんじです。CDSを売る者がまたCDSを買います。CDSの連鎖が拡がります。実際に用意されてあるお金以上に売買が膨らんでいきます。AIGの業績悪化の要因がこのCDSでした。

端折りますが、そもそもマネーゲームはその架空性ゆえ膨張できると同時に、破壊的な収縮を運命づけられているもの。

2007年8月にはパリバショック、2008年9月にリーマンショックときて、アメリカの投資銀行(証券会社)が消滅する事態となり、10月にはG7が行動計画を立て、11月にはG20金融サミットが創設されます。

くわしく知りたい人は、私とは立場が異なるものもありますが、以下の文章など。

「独白 金融危機編 サブプライム。実は誰も分かってない」『東京新聞』2009年3月17日朝刊、1面(http://www.tokyo-np.co.jp/article/economics/economic_confe/list/CK2009031702000043.html)。
「(大磯小磯) 債務担保証券のワナ」『日本経済新聞』2008年10月23日朝刊、17面。
「広がる倒産保険CDS市場(上)強まる株価との連動性」『日本経済新聞』2008年6月27日朝刊、16面。
「米コロンビア大教授ジョセフ・スティグリッツ氏に聞く―外貨準備制度見直し必要」『日本経済新聞』2008年10月30日朝刊、8面。
「自由競争主義に欠陥あった グリーンスパンFRB前議長」『朝日新聞』2008年10月25日朝刊、15面。
大橋和彦「CDS、金融危機深めた「落とし穴」(経済教室)」『日本経済新聞』2008年11月14日朝刊、25面。
高巌「金融危機で問われる企業倫理(経済教室)」『日本経済新聞』2008年11月21日朝刊、29面。
「第2特集:基礎からわかる 米国発・世界金融危機」『週刊東洋経済』2008年11月8日号。
宮台真司『日本の難点』幻冬舎、2009年、194-206頁。
日本経済新聞社編『実録 世界金融危機』2009年。
岩橋昭廣「世界金融危機とマルクス経済学」(『経済』2009年5月号)。
春山昇華『サブプライム問題とは何か アメリカ帝国の終焉』宝島社新書、2007年。
浜矩子『グローバル恐慌―金融暴走時代の果てに』岩波新書、2009年。
水野和夫『金融大崩壊―「アメリカ金融帝国」の終焉 』生活人新書、日本放送出版協会、2008年。
林敏彦『大恐慌のアメリカ』岩波新書、1988年。

4月にロンドンで開かれた金融サミットでは、金融安定理事会創設、ヘッジファンドの登録制、タックスヘイブン(租税回避地)の規制強化、などを盛り込んだ共同声明が発表されました。

破壊的な金融グローバリゼーションに対していまや人々の抗議の意思表明もグローバルです。サミットとは、反サミット運動において存立し、グローバリゼーションは反グローバリゼーションにおいて自らを形成する。こんな風にもいえるかと。反グローバリゼーションは敗北しないために、物象のグローバリゼーションに対する、協同する人間のグローバリゼーションに転化せざるをえない。

デモのときの警察による横暴・人権侵害も世界中に公開されてましたね。歩いていたイアン・トムリンソンさんが、警察官による暴行を受けたシーン。

http://www.asahi.com/international/update/0421/TKY200904210083.html
http://www.youtube.com/watch?v=HECMVdl-9SQ
http://www.guardian.co.uk/uk/g20-police-assault-ian-tomlinson

法に反する暴力の行使ですから、警察官も処分されてるようです。ネットの力も処分を促したにちがいありません。
by kamiyam_y | 2009-09-21 20:18 | 現代グローバリゼーション | Trackback | Comments(0)

資本の悶える自己共有化

▽ 先々週の雨宮処凛のトークですけど、貧困に喘ぐ現在の若者たちの「生きさせろ」という声を集めて連帯の運動をつくっていこうとする元気のよさがいいなと思いました。貧しさの現場を明るみに出す事例としては『信号機の壊れた「格差社会」』(佐高信/森岡孝二/雨宮処凛・岩波ブックレット・2008年)で紹介されてた話に加えて、さらにちょっと驚きの実態も暴露されてました。沖縄にあったコールセンターを中国に移し、そこに日本から派遣する、とか。身分と住み処によって仕事が決まっているわけではなく自分で決めるという形式を通す近代の自由を、貧困のなかに諸個人がつっこまれ、つれもどされる実態へと転換する資本の運動。

湯浅誠のいう貧困ビジネスって、搾取を解除するのではなく搾取に依拠したビジネスです。貧しさを資源にしながら貧しさを拡大再生産するビジネスが横行する貧しさ。

7号館D20番という設備のよい教室を会場としたおかげで、途中で流されたビデオも見やすかったんですが、宣伝の時間が短かったせいか、座席いっぱい満員立ち見にまではならず。とはいえ、教室は全体的にはうまってました。会場で私はビッグイシュー最新号を買いました。

▽ それにしてもすごいなって思うのは、金融商品の時価会計適用の一部凍結の動きです。企業を売買するグローバリゼーションのなかで推進された時価会計であったのが、今回の金融危機の波から企業を守るためには一部凍結という逆方向に即座に転換するのですから。

それよりも全体的で面白いのは、G7の行動計画を受けて、国有化に走る資本主義の反転ぶりです。巨大な投機的資本を消滅させ、生保を国有化させ、今度は銀行を国有化させる資本主義の荒々しい自己維持。資本に潜む社会的実態の力は、アメリカ合衆国政府をして金融機関への資本注入に突入させたってわけです。

注入ってなんかアヤシイですね。税金を金融資本システムにお注射します。

JPモルガンなど大手銀行が発行する議決権なしの優先株をアメリカ政府が円になおして25兆円も買いあげる施策ですが、市場原理主義的場面から突如その否定に飛びつく暴力的な回転の激しさにこそ資本というシステムの身悶えが示されてます。

剰余価値を吸収し、剰余価値を資本にし、資本を吸収し、剰余価値の請求権を蓄積し、請求権でギャンブルをし、蓄積のための蓄積をめざして社会による管理を否定する市場原理主義的ありようは、バラバラになった諸要素を暴力的に統一しようとする反作用によって引っ繰り返される。資本は溜まったバブルを資本の淘汰によって吹き飛ばそうとするが、架空な資本の踊りの沈静化は進みすぎてはならず、恐慌という統一が破壊力を発揮しすぎることは避けられねばならない。恐慌を抑えるためには「自由放任の終焉」的ありように、社会による管理という統一性に資本は手を伸ばす。

税金投入、国有化、国際協調は、実態としてつくられた経済についてだれのものか公共性をますます明らかに示すことになります。まさに資本は自由放任の否定にすがりつくことで延命するという現代的な展開じゃないでしょうか。
by kamiyam_y | 2008-10-19 20:18 | 現代グローバリゼーション

戦争へのベルトコンベア

暑いったらありゃしない、やる気を起してもすぐにめげる1日でした。夜になって降りはじめた雨のみがほんとに救い。

まったく暑さのせいで、豊平川の橋を渡るときに、蛾がたくさん発生しているではありませんか。まちがっても、せわしく舞う蛾が顔面に当ったりしないよう、にと祈るようにして、ライトに照らされる蛾をよけるようにして歩きながら、渡り終えるまではプチ・ホラー、恐怖の数分間でした。


戦争へのベルトコンベア

『週刊東洋経済』5月17日特大号特集「子供格差」にはなかなか面白いレポートがありまして、とくに関心をもてたのが、堤未果「削られる米国の子供医療 落ちこぼれ生徒はイラクへ」。

記事によると、アメリカ合衆国では、ブッシュ政権下の「全国一斉学力テスト」で「生徒がわるい点数を出せば教師はクビにされ、国からの予算はカットされ」るようになったんだそうです。

テストの点数という脅しによって縛ればそれに適応した教師と学校が選別されて、効率のわるい教育労働力が排除される、競争にまかせることが資源の適正配分を果すのだから公共的なのだ、という話ですね。こういうおとぎ話にもちろんあくどい裏があるのは資本主義社会の自然法則。

おとぎ話は言います。この競争によって「落ちこぼれ」はなくなり、みんなハッピーだぜ。

この制度をもたらした法律は通称「おちこぼれゼロ法」。

ところがですね。記事は伝えます。「予算カットのあおりをもろに受ける貧困地域の学校はそのまま廃校になるケースが少なくない」。「貧困地域の学校ほど教師たちは追い詰められ、その結果、競争からこぼれ落ちる生徒は増えていく」。点数のわるい生徒は教師からかまってもらえなくなりますからね。学校が閉鎖されたら次の瞬間にはよりよい別の学校に通っている、なんてあるわけないですからね。

でもって教師も生徒も地域も疲弊していく。

落ちこぼれゼロどころかそれを増やす法だったのです。

数字のみが人間の行いを判定し、それに従うことが行いを公共的にするという迷信が教育を汚染するとどうなるか、アメリカって徹底してやっちゃうわけです。アメリカって人工国家ですから資本主義の迷信を何でも実験してみないと気が済まない。ある意味、めちゃくちゃ進歩的。進歩的ってのはそれ自体幸せってことではなく逆にそれ自体は悲惨さを極めるってことです。

市場を崇める物神崇拝が公教育を支配するようになると、学修のためのテストが、テストのためのテストに逆立ちし、所得格差、地域格差をさらに教育格差に増幅するだけではありません。

この教育「改革」の裏の意味を、資本が産み出すおとぎ話の裏の意味を、堤は語っています。

何かというと、軍への労働力の供給です。労働力を正規雇用と非正規雇用、失業者の貯水池に選別して運ぶ水路の役割を、学校教育は資本主義システムにおいて担わされます。教育を労働力の選別機構とする、教育の資本主義的利用は、ここでは、軍への労働力の流入としてその大衆疎外的な性格を拡大された形で現しています。

「落ちこぼれ生徒」は軍へ。非正規雇用予備軍たる大学生も、軍による教育ローンの肩代りといった誘因によって軍へ。生徒の情報が軍に提供されるというのが落ちこぼれ創出政策のおいしい目玉だったのだ。軍は入手した情報にしたがって落ちこぼれ生徒を「勧誘」し「イラク」に供給し、米国の超国籍的資本(矛盾ですね)の利益に学校教育は奉仕するという流れなのでした。

堤は、岩波新書『ルポ 貧困大国アメリカ』ですでにこの問題を論じています。そこでは、この法律を端的に「裏口徴兵政策」と呼んでます。言い得てますね。

市場は自由な連帯、自由な創意として美化されるがそんなものではなく、連帯の否定であって、《万人の万人による闘争》(ホッブス)によってのみ社会的につながりうる孤立した点的存在となった排他的・利己的な諸個人の社会的紐帯・共同性です。対する教育は、公民を育てる公共的なものというタテマエのもとにあります。資本は教育というこの公共的なものを自分の手段にしますが、この新自由主義的姿態では、市場を通じた資本の集中にならって、弱小学校も淘汰せよ、という実験がなされます。



《万人の万人による闘争》を公共性の尺度とする実験の過酷さの一例として、この記事を読みました。
by kamiyam_y | 2008-06-11 01:12 | 現代グローバリゼーション | Comments(0)

サブプライム

佐伯啓思先生が、北海道新聞にサブプライムローンを題材に書いていたものをそのうち紹介しようと思っていたんですが、こっちでいいや。

【正論】京都大学教授・佐伯啓思 サブプライム問題の意味とは - MSN産経ニュース

「資本主義の将来に対しても決して好ましいとは思われない」というか、将来があるのかと思いますが、グローバル資本主義において金融的詐術が成長を意味するという転倒を扱ってて考える参考資料にはなるかなと。

先進資本主義の「成熟」を前提に、途上国の低賃金生産との競争で利潤を確保できなくなって、「『金融経済』にシフト」というあたり、すこし面白い。人間にとって生産が過剰であるわけではないにもかかわらず、貨幣資本が生産的に使用されずに世界を回る。

論じる時間がないので紹介だけ。
by kamiyam_y | 2008-04-10 23:32 | 現代グローバリゼーション | Comments(0)

人類の疎外

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globeにひかれたちっぽけな境界線。
by kamiyam_y | 2007-10-13 23:44 | 現代グローバリゼーション | Trackback | Comments(1)

資本を売買する資本4 襲来するファンドと、国内産業資本との対立か

増配要求業や乗っ取り業も、皮相な見解では経営者支配に対する株主原理からの闘争のように描かれましょうが、ちがいます。外資という会社が主体となっているのであって、株主と経営陣の闘争ではなく、国境をまたがっての資本内部の収奪競争です。主体は外資ですらなく、グローバルに展開する資本です。個々の投機的当事者の背後では、マネーという形の資本が活性化することで資本市場のグローバルな形成運動がすすんでいます。

日本の産業資本にとって、海外のマネー資本が自分以上の不作法者にみえるために、それを追い出す必要に駆られて、相互持ち合いを復活させ、安定株主化工作に走ることもありましょう。

まっとうな産業労働を外資の投機のおもちゃにしてはならない、という発言を、産業資本の利害として宣伝することもあるかもしれません。「外資は短期的株価しか指標にしないから激しい賃下をねらう、外資は解雇も厭わない、日本の優れた雇用慣行が破壊される。大変だぞ」というぐあいに。

日本の産業資本の利潤追求とそのおこぼれに群がる人たちが、労働者のための会社防衛を主張することもありえましょう。自分たちもバブル期に投機に血道をあげていた過去を忘れ、いつもは自分の労働者の搾取強化に邁進していることも忘れて、ですね。

産業資本は、遊休貨幣の配分に参加しなければならない、しかし、投機屋たちに翻弄されるのはまっぴらごめんというわけです。葛藤するのであるよ、資本は。

この悩める産業資本が皮相でない思考に対して告知するのは2点です。

第1に、投機マネーによる産業資本からの収奪において、労働からの収奪が透けてしまう点。

《…資本主義的生産様式のなかではまだ多少なりとも正当なものとされている弁明の根拠が、ここでは消滅してしまう》(『資本論』第3部MEGA.Ⅱ/4.2,S.503)


資本がもしも、投機において、産業労働の産物を取得する自己の存在説明を失っている、のだとしたら、それは資本一般においても、産業的生産を行う資本においても、弁明の根拠を失っていることを意味します。他人の労働を、労働によらずして取得するのですから。

そこで労働者は気づくのです。投機的金融資本が産業資本による収奪を促進すること。諸資本が国境を越えて労働法制の弱体化をすすめること。貨幣資本が外から流入してくること自体が1つの必然的な流れであること。そして、日本の産業資本が市場開放の利益を望んでいること。

第2に、投機による不安定さが公共的利益に反すると認知されれば、それに対する規制を資本自らが求めざるを得ない点。翻弄される産業資本は、翻弄を避けるべく、公共的な規制を要求するはずです。
by kamiyam_y | 2007-08-09 22:38 | 現代グローバリゼーション | Trackback | Comments(0)

新国家資本主義

女性は「産む機械」と言ってしまう柳沢厚生労働大臣は、もっとも厚生労働省にふさわしくない人ですから、女性蔑視発現を忘れないためにもずっといすわってもらいましょう。

ここであえて拡げれば、「人材」という言葉も似たり寄ったりですね。

実態として労働力は材料といっしょにモノとして買われ、生産においてモノとして作用してます。労働力は資本の源泉であり、企業にとってのカネの源泉です。労働者にとって、労働力は生活手段を得るためのモノであり、生活手段もまた労働力をつくるためのモノです。

しかし、人が主人公という近代社会の合意をモニターにしてみると、人はモノ=材料ではないので、「人材」という表現は、転倒した表現であり、実態の追認です。

会社の利益に貢献したかどうかで賃金を決められる制度は、労働者を利益(剰余価値)を「産む機械」としてみてますから、もっとみんな怒ったほうがいいのではないかな。

▽▽△ ▽▽△

日経新聞が「国家資本主義」という言葉をつかったのにはびっくり。

日本経済新聞1月18日(木)朝刊一面に掲載された「新国家資本主義の波-ロシア・中国の台頭-下」です。

記事は、中国共産党政権が外資をも自分の統制下において《監視》を《高度化》していることや、国家の強力な後押しで《中国版メジャー》のような巨大資本がグローバル経済のなかで成長していること、《民主化や人権》を押しつけない中国が《アフリカの指導者たちをひきつけている》ことなど伝えています。この中国のモデルが、地球化する資本主義がこれまで成長させてきたルールに縛られずに「国家」を前面に押し出すことで、不安定化の要因をもたらしうる、ということにも記事は触れています。

とりわけ注目すべきは、この記事が、ロシアと中国に対して、「新国家資本主義」という言葉を用いている点です。しかも記事はこの「新国家資本主義」を「成長モデル」として捉えています。

資本に発展しない市場を希うのは愚かなことだ、「社会主義市場経済」なるものはおよそ存在しないのない観念だ、その実態は「国家資本主義」にほかならない、という理解が日経新聞に使われるくらい常識になったのでしょうか。

もちろん、この記事は、「国家資本主義」概念によって、20世紀の「社会主義」をどう把握するかという理論的実践的問題を論じているわけではありません。20世紀社会主義は、マルクスの述べた資本主義の後の「自由な人間社会」ではなかった、自称社会主義は、マルクスが資本主義の分析のなかでつかんだ未来社会の萌芽が資本主義の衣を突破して展開した姿ではなかった、という理論的な話をしているわけではありません。

あるいは、働くことによって人々を支える人々が主人公となる社会をつくる、という革命の理念、社会のタテマエが、働く人々が搾取され、専制的に支配されている、という実態に転回する、という「社会主義的所有」の矛盾(ブルジョア的所有の変種)を論じているわけでもありません。

しかし、この記事は、「国家資本主義」という言葉を用いて、資本蓄積の国家主義的な姿態を論じている。この構えが面白いわけです。中国を資本主義と呼ぶわけですから、現存社会主義はマルクスの社会主義とは似ても似つかぬものだ、と事実上新聞社の常識が主張している。

中国の「成長」の実態は、専制的な共同体(国家)という重たい鎧をかぶって、世界市場における資本の相互実現に参入している資本の運動(資本主義的な生産)でしょう。あるいは資本の世界的連関が生みだしている「成長経済」。

では、「新国家資本主義」のどこが古い「国家資本主義」とくらべて新しいのでしょうか。それは、記事から離れて、一言でいえば、まさしく古い国家資本主義そのものの死を経たという点、すなわち、ソ連・東欧崩壊後だという点であり、旧社会主義崩壊後の大競争における、グローバル資本主義における国家資本主義であるという点でしょう。強力な国家統制モデルをふくんで世界規模で成熟する「最新の資本主義」が、資本主義を分解する諸成分をどのように生みだしていくのか。とりあえず、この国家主義モデルが世界資本に対して与える衝撃は、このモデル自体に跳ね返って解体的に作用する可能性があるとだけ言っておきます。
by kamiyam_y | 2007-02-04 00:59 | 現代グローバリゼーション | Trackback | Comments(0)