さっぽろ地下鉄のなかでマルクスを呼吸する、世界を呼吸する

カテゴリ:メディア資本と情報化( 12 )

観念的生産物の製造責任

《メディア・リテラシーが欠けていたのは、視聴者よりもむしろ制作者の側ではなかったか》

と、関テレの事件を素材に日垣隆が問うていました(「あるある大事典」だけが悪いのか:どこへ行くのかニッポン、日刊ゲンダイ2/23号)。下請けのつくったものを評価する力なかったんですから。そりゃそうですわ。

リテラシーの態度として重要なのは、他者の外化としての表現を疑うこと。

だけじゃなくて、さらに、疑う自分自身の外化である「自分の言葉」を疑うこと。この外にあるものは自分の内面をしっかり規定してきます。

この点、内田樹がこう語っています。

《人間は他人の言うことはそんなに軽々には信じないくせに、「自分がいったん口にした話」はどれほど不合理でも信じようと努力する不思議な生き物だからです》(『狼少年のパラドクス』81頁)。

《「自分がいま発信しつつある情報」に対して適切な評価が下せるかどうか》(80頁)

こそがリテラシーにおいて大事なことなんだというのです。

言うまでもなく、ペン(今ではパソコン?)が民衆にとっての強力な武器ならば、それは民衆を圧殺する威力にだってなります。

貨幣もペンをもつ。権力もペンを持つ。ウソ偽りでっち上げもペンによって拡大する。テレビ局が存在しない事実を創りあげれば、警察権力も存在しない事実を創りあげる。

だから、

ペンの生産物を消費するときは、批判的知性を立ち上げよ。

さらに、私たちは消費者としてだけではなく生産者のなかで労働する人間でもあります。

ペンの生産物を生産するときには、その倫理と手続をできるだけ明らかにしておけ。

と私たちは自分に命じておかなきゃなりません。

福田ますみ『でっちあげ 福岡「殺人教師」事件の真相』(新潮社、2007年1月)は、2003年にマスコミが教師によるいじめとして大々的に報道した事件が、じつは想像された事実にほかならなかったことを論じています。

著者は、教師によるいじめを伝える最初の報道を受けて、現場に入り聴きとりをしてみるのですが、報道されたイメージと現場の雰囲気とがあまりにかけはなれていたために、自分の足によって事件の真相を確かめていきます。

いじめがあったとする保護者の言い分が、正確に検証されることなくマスコミによって拡げられていった過程、それによって、善良でおとなしい教師が凶悪な差別主義者に仕立てあげられていった過程を読むと、ほんとこわいですよ。

とはいえ、ちゃんと救いはあって、社会の理性が働きます。マスコミも原告保護者の主張に対して懐疑的となっていきますし、裁判でも、カルテの開示によって、教師のいじめによって児童がPTSD(心的外傷後ストレス障害)になったという原告の主張が覆されたりしていきます。

教員の「労働時間は1日11時間、休憩時間はわずか9分」(『週刊東洋経済』1/27号、41頁)。保護者との関係が、最近の教師の精神疾患の原因にある(40頁)。

真面目な教員ほど過重労働に苛まされているのが現状でしょう。教師を叩けばよいとするかのような論調の背景にはなんらかの政治的意図がないとは断言できません。

被害者の内面なるものが無媒介に何にも勝る客観的な事実であるかのように思いこむ病気にメディアも感染しているようです。
by kamiyam_y | 2007-03-03 16:46 | メディア資本と情報化 | Trackback | Comments(0)

ネズミとお菓子工場6 週刊朝日の仕事

▽ 関西テレビの謝罪会見のいやらしさというべきでしょう。

週刊誌記者の日記: 関西テレビ asahi.way-nifty.com/asahi/2007/01/post_aad0.html

週刊朝日のスクープをつぶすために、その取材内容をあたかも自分たちの発見であるかのように装って謝罪会見したようです。謝るのも週刊朝日に報道されたからではないとしたいらしい。

それからこの記者が書いているように、新聞が週刊誌によるスクープを追いかけるときに、元ネタの雑誌名を隠すのは、どんなもんか。少なくともその行為自体は、他人の仕事に対する敬意に欠けていると評されてもしかたない。

謝罪会見を「スクープ報道潰し」と批判した日刊ゲンダイの記事は、1月23日号の《突然の社長会見の姑息》。

▽ 関連して、朝日新聞1月27日朝刊《健康情報「踊らされぬ目を」》という記事に紹介されてた小内亨医師のサイト。

健康情報の読み方 http://www.page.sannet.ne.jp/onai/

「怪しい言葉」のコーナーで「血液を浄化する」「自然治癒力」といった宣伝文句のいかがわしさを説明してます。小中学校の理科を徹底すれば欺されないはずですが、こういう一見科学的にみえ流行で使われ出す言葉には私たちは欺されやすい。懐疑精神はこういう言葉に対して発揮されねばなりません。

この朝日の記事では情報の信頼性を見抜くための鍵をいくつか示しています。検討のため引用します。

①《国立健康・栄養研究所の梅垣敬三・健康食品情報プロジェクトリーダーは、「どんな食品も、濃縮などしないかぎり、特別な効果が出るほど特定成分を摂取するのは難しい」と話す。同じ食品ばかり食べると、健康に必要な他の成分が不足する。食材をバランスよく取ることが大切だ》。

②《ある研究で効果が報告されても、「一つや二つの論文で科学的証拠として固いというのは早すぎる。多くの研究で結果が同じであっても将来覆されることさえある」(梅垣さん)という。》

引用文①は、言われてみれば当り前。特定成分は多くの成分のうちのわずかなものですから。特定成分をとるという矮小化された目的で、健康にいいという宣伝文句につられて買った食品に特化して食生活を続けると、その特定成分が与えるかもしれない未知のマイナスの影響や、他の成分によるマイナスの影響を被るリスクを高めます。もちろん成分全体のバランスが大きく崩壊します。

引用文②は、ある成分が心身に対してある効果を有する、ということを実証する研究が数年にわたって複数本学術論文で発表されたとしたって、暫定的に扱われ、断定できないこともあるんだよ、それくらい厳密な研究は厳しい、ということです。

お気楽なバラエティー番組の実験もどきの見せ物で「証明」などありえない話でしょう。

テレビを観て翌日スーパーに駆け込むこともそうですけど、サラリーマンが自己啓発本にはまって、自分を肯定しよう、自分の脳を大切にしよう、心の持ち方でカネが増えて負け組になりませんように、とかヘンな念仏を唱えることもオカルトや疑似科学の類。「自由貿易」「規制緩和」「伝統」「規範意識」とかいう呪文はもっと影響力が大きい。

懐疑精神を自覚することが重要なのは納豆食い過ぎをとめるにとどまるものではありません。国政上の詐欺師や山師たちによるメディア操作を見抜くことにこそ、リテラシーや学問的批判精神の意義もあります。

消費者がリテラシーを高めることも必要であって、そのための消費者教育・啓蒙も今以上に充実が求められているわけですが、問題は消費者としてのありかたにとどまってはおらず、社会を構成する市民としてリテラシーを鍛えることではないでしょうか。大きくまとめてみました。

もう一つ大風呂敷を拡げますと、〈食の安全〉問題という形でも、社会的生産過程の社会的な制御の重要性が露わになっています。公共的に情報を集積していく活動の発展はこの意味で捉え返すのが社会展望上大事かと。

「健康食品」の安全性・有効性情報
独立行政法人 国立健康・栄養研究所 : トップページ
by kamiyam_y | 2007-01-30 11:58 | メディア資本と情報化 | Trackback | Comments(0)

疑似科学(pseudosciense)への異議申立 2

疑似科学(pseudosciense)への異議申立 -学術組織の社会的責任- 2

(続き)例えばオカルトにすがる社会病理は、病理の根源が廃絶されなければ再生産されますから、これは自然科学者だけではなく、社会科学、人文科学が総合的に取り組むべき課題。

合理的に考える態度の重要性を訴え、疑似科学に市民が欺されないように正確な知識を発信することは、学術組織の社会的役割の1つになっていると思います。正しい知識を獲得する術(すべ)を遍くひろめていくリテラシー教育がますます重要になっていますね。

『科学』9月号の特集

『科学』9月号(岩波書店)「特集 疑似科学の真相/深層をよむ-なぜ信じてしまうのか」(科学2006 VOL.76 NO.9)が、疑似科学をテーマとして取りあげ、科学の専門家が論じていて、なかなか劃期なことと思われます。

まずびっくりしました。「水からの伝言」なんて流行ってたのですね。物理学者菊池誠が検討しています(「疑似科学の現在」)。

言葉が水の「樹枝状結晶」に影響するという珍説が小学校の教材にまでなっているというのですから、ほんとうにとびっくりです。人が「ありがとう」みたいないいお言葉を紙に書いてビーカーに貼り、その水をスポイトでシャーレに落とすと、きれいな結晶ができるという話です。

なんてアニミズムでしょう。学校は、迷信が含む教訓を利用する場所だったのか。

言葉だけで現実がつくれるなら苦労しませんよね。真面目に応えてしまいました。紙に「愛」って書いたら、ボールペンが生産できる、みたいな話ですよ、引き伸ばすと。

「社長すてき」と書いた紙を、機器に貼っておくと製品のバグが減るぞ、みたいな話です。そんな会社ないですけど。

血液型が自己意識を物の作用として捉えるのとはちょっと違って、こちらは、心が物をつくりだすといっているよう。思うことがそのまま物理的作用だといっているともいえます。

こちらもまた、人間と対象との同一性を前提している点で、きわめて人間的な振舞だといえましょう。疑似科学も人間どうしの共生、自然と人間の相互承認を前提しています。現代社会が巨大な不調和のシステムとして個人を飲み込んでいる事態に対する反撥として、直接的な調和を願望するのは人間的といえなくもない。

意識は人間が対象を対象として立てる労働の媒介性です。しかしこちらはその同一がまったく無媒介です。道徳という社会的意識と樹枝状結晶とが同じ平面で直接に作用しあうことになってます。現実の連関が全部飛ばされて、無関係なものが人間の意識によって勝手に関係づけられています。意識がそれ自体で独立的に無媒介に対象変革行為にされています。

よい言葉→結晶、というように、現実には関係のない2つの項目を、人間が頭のなかで結びつけ、それを現実に押しつけています。きれいな結晶というアイコンをよい心というフォルダに入れちゃってるわけです。現実の連関ではなく、人間の空想のなかでのショートカット。

科学、学問でも、このような《素っ飛ばし》はおきますが、オカルト(隠された思いこみ)とは異なり、公開された協同の知であり、訂正手続きも公開され承認されていますから、自己訂正機能が働きます。

人間はその実践的本質からして間違うことを行動に含んでいて、学問はその間違え方を研究してそれを克服する手続きをメタな知的方略として組みこんでいます。近代/現代知は徹底した懐疑主義を土俵としています。

同菊池誠論文は、「マイナスイオン」「ゲーム脳」「百匹目の猿」も扱っています。

家電メーカーが利用した「マイナスイオン」は企業の社会的責任として問題だし、「ゲーム脳」はテクノロジーの資本主義的発展に対する不安を背景にした「道徳」でしょう。斎藤環氏に聞く ゲーム脳の恐怖1[www.tv-game.com]

認知心理学からは菊池聡(Wikipedia)が議論に参加しています(「疑似科学を信じる心のシステム」)。疑似科学を成立させる人間の情報処理のありかたはを論じてます。「確証のバイアス」はなかなか便利な概念。仮説に都合のよいサンプルだけを無自覚に選択して記憶することです。血液××型は○○だという思いこみも、その信念に「合致する、もしくは合致すると解釈できる」(912頁)情報が選択的に蓄積され、確信が強められてしまう、というわけです。

「疑似科学を信じる心」は「差別や偏見の発生と強化」に共通する「認知の歪み」がある、と指摘されており、これも重要な点です。

合理的思考、「批判的思考」を訓練することが民主主義の発展には重要。

植木不等式「トンデモ科学の功罪」、池内了「信じることと考えること」も面白も読めるが、時間の関係上省略。

なお、記事タイトルの「異議申立」は池内から(「非合理な社会的事象について異議申し立てをすることだ。それは……懐疑的(批判的)精神を広めることに寄与するだろう」931頁)。
by kamiyam_y | 2006-09-11 23:31 | メディア資本と情報化 | Trackback | Comments(0)

疑似科学(pseudosciense)への異議申立 1

ELLEGARDENの新曲、いまいちという声もききましたが、私としてはなんか私と波長が合ってるというか、好きですねえ。


疑似科学(pseudosciense)への異議申立 -学術組織の社会的責任- 1

血液型分類学は「観察」という形式を装う

やくみつるいいこと言ってるんですね。

「『プロサッカーという旅から卒業し、新たな自分探しの旅に出たい……。これ、29歳の男が言うこと? やっぱりサッカー小僧ということですね』とやってスタジオをシーンとさせている」(この人物のオモテとウラ やくみつる - Infoseek ニュース

「自分探し」ってなつかしい言葉ですな。いい大人が自分のことしか関心がなかったり、本当の自分をさがすとか言ってるのは恥ずかしいことです。

「本当の自分」がどこかにあると考えるのは、フィクション。たぶんそれと連続してるんでしょうが、人間関係にフィクションにすぎない分類をもちこむことも褒められたことではありませんよね。コミュニケーションのありかたが不全であったりすると、人は、自分と他人の違いや接し方を簡単に教えてくれる「分類」や「法則」「ものさし」をほしがる気持ちが強くなるのかもしれません。

自分の特徴を点検しつつ行動すること自体は、人間の社会的本性からして自然ですし、「法則」を獲得したがるのも人間の知的本性、労働の対象承認的性格に根源があります。

動物は対象(自然存在)の一部ですが、人間は同時に対象に対して自覚的に向う。人間に対しては対象が対象としてある。対象を知的にわがものとすること、探求することは、それ自体労働の一契機をなしています。「分類」するのが楽しいのも人間の知的本性からして当然。

おかしな理由づけであってもとりあえずの安定を得られればよいとする行動様式自体、人間が他者である対象を自己に関係づける、という労働の矛盾した振舞に根ざしているといえそうですね。

「多くの国では人に血液型を尋ねるという風習がないので、血液型を尋ねると『あなたは医者か?』、『献血でもするのか?』といった反応が返ってくる」(血液型 - Wikipedia2006年9月11日取得

AだのOだの、飲食の席で血液の分類の1つを話題にする場面に遭遇することは、海面に突き出たこの弓状の土地に住んでいると、子供ならずともあることでしょう。冗談であることを共通の認識として「外れてる」ことを面白がったり。

ところが、そんな分類を真実だと取り違えて、それにもとづいて、自分の人間関係のありようをつくろうとしてしまうようなときに、「それは、健全な理性からドロップアウトしてるよ」と教えてくれる知識や思考方法が普及していない。

血液型性格判断の方が一部の若年層の都市的噂話を脱して常識化してしまい、「二重盲験法で実験したの?個人そのものをみないで分類でみるなんて自信ないの?」とつっこみを入れる側の方に常識をひっくりかえす楽しさがあるみたいになっているよう。「4つくらいに分類できれば何でもいいのでサル型遺伝子とか、犬型遺伝子とかそんなんでもいいんだよな、信じたい欲求にとっては、あほらしく感じなければいいだけ」と自分で考えていても、飲屋の席だと場の空気で参加する人が多いのかも。

バイトの面接で血液型を聞かれた、とか学校の先生が血液型判断を信じていた、とかいう話を耳にすると、疑似科学が人の心を捉える現代社会の閉塞状況に対して、もうすこし学術組織はきちんと働きかけるべきではないか、と反省してみたい気分にもなります。

松岡圭祐『ブラッドタイプ』(徳間書店・2006年6月)が、血液型性格分類という集団的な信念を素材にしているときき、買ってみました(「ブラッドタイプ」松岡圭祐著)。臨床心理士の資格もってるんですね(松岡圭祐とは - はてなダイアリー)。

幼児をつかった「バライエティ」番組の「実験」や、「小泉チルドレン」などディテールの小道具が最近のものなので読みたい人ははやく読んだ方がいいかも。こういう具体性って、何十年かしたら研究者が注釈をつけないとリアル感がなくなりますからね(ってなんでそんな未来のこと心配してんだか)。

笑いのネタとして、うそとわかってメタ化して遊ぶのならまあいいとして、企業の採用人事で血液型を参考にするなどということがもしもあるとしたら、これは個人の話ではなく、社会的弊害です。個人情報保護上問題であるだけではなく、日本国憲法の法の下の平等にも反しています。

テレビのバラエティ番組が、人間を血で分類するインチキな実験をすることは、ヒトゲノムと人権に関する世界宣言(日本ユネスコ国内委員会genome.pdf )の精神に抵触していますが、これも非理性的な競争主義のなせる業。

血液型性格判断は、自己意識とは赤血球であるという命題に帰着します。

じつはこの命題は、科学の土俵を引き延ばして荒唐無稽なものに転化してしまっている点で教えてくれるところが大きい。この命題が宣言しているのは、人間が人間を観察して人間とは物質である、物質から区別されている人間は物質そのものだ、という確信です。

この命題は、科学と同一の土俵に乗っているんですね。

実証科学の態度は、人間に疎遠な対象を人間と同一のものとして確証していくことですが、この態度を突き詰めてそれを無意味な戯画にしてしまうのが、この手の分類学でしょう。

疑似科学という集団的信念が学術的知を装うということは、独立しあう個人が共有知をつくりあげる手続きとしての学問の形式を承認していることでもあります。

前近代社会の自然発生的共同体的神話とは異なり、都市迷信は科学を装うことが流通する条件になっているともいえます。

こうした信念は正当化のための理由づけを必要としているから、「本当の」血液型性格判断があるのだ、という論法や、血液型が性格の中心を決めるが表側はその他の要因によるとか、サブの分類があるとかいう弁明、学校の知識には限界があるのだ、だからこれを信じるのは正しい、という秘密結社風のレトリックをつかったりします。科学の用語を真似た高級そうな言葉をつかったりします。

「来た。似非科学は奇妙な専門用語をでっちあげる」(『ブラッドタイプ』)

学校は人類知の圧縮した体系を継承する場ですから、この体系と疑似科学とを対照すれば、疑似科学の疑似性がつかめる、少なくとも疑ってかかるくらいのことはできそうなのに、そうなっているとはいえない。学校で学んだ確実な学知との整合を問えば、疑似科学に対して覚めた眼差しで接することができるはずなのにそうなっていない人が見られる。知識が生活世界に連結する力になっていない。学校で教えてくれないことの方が夢がある、といった子供じみた空想が疑われていなかったりするんですね。

既存の体系を批判することは科学のなかに組みこまれていますが、それと似た批判の心が共有されているともみえなくもない。でも、だったら疑似科学の疑似性を解き明かすほうがはるかに楽しい娯楽なのになあ。

科学は、個人に安易な救いを与えないけれども、個人が人権主体として自立した社会的個人として活躍できるようにする社会的力です。物事を合理的にみること、日常知を批判的に問い直すことは、民主的で理性的な社会をつくるのに欠かせない。戦争や自殺という暗いニュースであふれる社会の非合理性が、個人の対応も非合理にしている現代においてこそ学問と教育は重要。

前近代的共同体では個人は生き方の選択も人との接し方も幅が狭かった。これに対して、この共同体が崩壊した現代で、個人は自由になる反面、孤立します。いろんな信念を貨幣で購入する自由(血液型の本を買うとか)というのも、封建制からの人間解放の表現。

みんな孤立しますから、なんらかの指針を求めることは当り前でしょう。法などの直接に実践的な意識とは異なり、科学は直接社会的共同性をつくる知ではありませんから、個人の社会的行動の指針を直接には示してくれなかったりもします。

個人が自由に自分の生き方を決めることは、身分にしたがって1つの生き方を社会が与える前近代とは違います。生き方の指針がほしいとは、個人と社会との調和をめざすこと。個人の有限性を超える多様な選択肢として疑似科学的なものが発生するのは、個人の自立をある意味補っている。

病んでいる主張は魅力的であったりしますから、きまじめな人ほど引きこまれやすいかもしれません。馬鹿げた迷信でも人の心を安定させることだってあります。

けれども、科学のふりをしてお手軽なものさしを与えてくれる疑似科学的幻想は、個人の孤立に対する一時の解決にはなっても、病理を根源的に解決するものではない。病んでいる主張は、人間が自分で幻想をつくりだし、その幻想を自分の真実と取り違えてそれに跪くという仮初めの自己完結。自分で自分を欺すことであって、人間的本質が非人間的に実現している。

似非科学は、個人を救うどころか、個人の中身を薄っぺらにしたり、真実を見えなくしたり、人を欺して金儲けをする連中の道具となったり、諸個人を分断したり、現実の健康破壊をもたらしたり、差別をもたらしたり、社会的に解決すべき問題を「自己責任」に転換したり、します。個人の孤立化を助長します。正しい情報を知る消費者の権利を阻害します。

これに対して学問は個人を社会的個人へと成長させます。まあ学校が資本が使う労働力を形成するという物象的な意味に浸ることによって、いわば疎外された教育が個人をますます孤立化するという面もありますけど。

ほとんどの人が字を読めるようになったことを思うとけっこう進歩しているので、次は情報に対する自覚的な態度を普及することですね。(続く)
by kamiyam_y | 2006-09-11 23:20 | メディア資本と情報化 | Trackback | Comments(0)

独占的メディア資本の社会的責任

『週刊現代』(7/1)「鈴香を血迷わせた『テレビの力』-秋田・豪憲くん殺害事件に重大証言」(37頁)は、「超能力」による捜査を売り物にする番組が容疑者の異常な言動を助長したのでは、と論じています。

鈴香を血迷わせた「テレビの力」-秋田・豪憲くん殺害事件に重大証言 | Excite エキサイト : ニュース

テレビで「超能力」などの迷信を取り上げるのは、「バラエティー」番組なのだから、というのが、民放テレビ局の常套文句です。これによれば、「超能力捜査」は、バラエティーすなわちお笑い番組の扱いになります。番組のつくり自体があまりお笑いを意識させないのがおかしなところですが、一応フィクションです、くらいのテロップくらいは釈明材料として流すのでしょう。カルトを助長するようなものですから。

そうであるなら、超能力による公開捜査なるものが殺人事件をネタにするとすれば、それは人の死をお笑いのネタにしていることになります。

対照的に「トリック2」が支持されるのも、市民社会の成熟でしょう。人から聞いた話ですけど、大学の先生がトリックに騙され、手品師がトリックを見破るドラマらしい。リアリティありますね。今日見に行こうと思ったけど、なんか挫折しました。ともかく、オカルト批判は大学の先生より「と学会」か(笑)。というよりも、仲間由紀恵がいいんですよ。ほしのあきを先日褒めたあと、あの年齢なら伊東美咲や中谷美紀の方がふつうなんじゃないか、なんて人と話したことを思い出し、現時点の好感度女優の名前を出してみました。
by kamiyam_y | 2006-06-24 16:32 | メディア資本と情報化 | Trackback | Comments(0)

放射能垂流し

「情報流通促進計画by ヤメ記者弁護士」さんの 坂本龍一ブログ「六ヶ所村から海洋への放射能放出,止めようよ」~メディアは伝えずから知りましたが、坂本龍一が六ヶ所村再処理工場の現状を伝えてその問題性を訴えています。

ひっかかり:みんな、知ってるか???

なんと1日に原発「1年分の放射能」が再処理工場から放出されているのだそうです。テレビ等の大メディアは原子力ビジネスへの批判につながるような報道はしませんから、ぜひご覧になって下さい。「引っかかり」にはこの問題に関するエントリーがいくつかあります。
by kamiyam_y | 2006-05-06 21:39 | メディア資本と情報化 | Trackback(1) | Comments(0)

広告塔の保釈

『きっこの日記』も怒ってました(「2006/04/27 (木) 平和のミサイル1」)が、ホリエモンの保釈報道は共謀罪から大衆の目をそらすものですね。

教育基本法改悪のために会期延長かよ、って話です。7月末までの会期延長浮上 教育基本法案めぐり自民 | Excite エキサイト : ニュース
by kamiyam_y | 2006-04-30 22:46 | メディア資本と情報化 | Trackback(2) | Comments(0)

雑談(新聞ネタ)

▼ 昨日の朝日の夕刊「「ニセ科学」どう向き合う 物理学会、3月にシンポ」(2006年01月05日)という小さな記事が目にとまりました。日本物理学会の大会で「ニセ科学」を取り上げるのだそう。

「シンポを企画した田崎晴明・学習院大教授(統計物理学)によると、最近のニセ科学は『科学らしさ』を装っている場合が多く、オカルトや心霊現象にはだまされない人でも、『科学』として信じてしまう場合が少なくない。/……『『ニセ科学』どう向き合っていくか?』をテーマに、根拠がはっきりしない『健康にいい水』などの実例を紹介し、それらを生み出した社会的要因を考える。……(杉本潔)」(朝日新聞1/5夕6頁)。

身近にあふれてる話ですから、「ニセ科学」を解明するのは楽しい。正しい知識や考え方を楽しく学ぶ題材になるだろうし、現代社会のありかたを考察することにもなる。何よりも、「消費者」としての権利を実現していくうえで、教育は重要ですし、私たちが学習し成長する権利の問題としてニセ科学はあります。

特に健康や美容を謳う商品の広告には「××パワー」「○○エネルギー」といった文句があふれているようです。さすがに磁気を防ぐ石とかはみかけませんが、いまだに「マイナスイオン」の出る石みたいな広告を見かけます。私の実家にも風呂場に変な石ころがおいてあって日本の大衆の知的レベルにがっかりしました(笑)。マイナスイオン商法は例えばここイオンチャージ健康米とかここ。公正取引委員会も拡大が必要かな。

やっぱりテレビの社会的責任が全うされてないですよね。占いや心霊術のように迷信を肯定するものは扱わないという民放連の放送基準守られてませんし。精度の低い、実験と称するにはおこがましい実験みたいなものが「情報」番組と称して流されてますし。非科学的な番組を見て育った人が親や教師になり、その子供がまた非科学的な番組を見て育ち、悪質な商法がはびこる。日本物理学会も見過ごせなくなったんでしょう。

「ニセ科学」という形式で人々が心の安定を図ろうとすることは、それだけ「科学」が普及していることの証しです。労働が発展し、自然の秘密が開示され、産業が発展し人々も文明化していく。この流れは止まりません。信頼していいんです。

そもそも、こういうことが問題となること自体、それだけ日本社会が進歩してるってことです。すばらしいことです。私たちは一方で「ニセ科学」に引っかかり、「ニセ科学」によって商品を売りつけながらも、他方では職業生活の場面を考えれば分るように合理的に行動し、「科学」を適用した生産体系である大工業によって生産・生活しています。すばらしいことです。悲観なんてする必要ないです。情報や商品を供給する側の倫理と、専門家の社会活動も発展していくにちがいありません。

▼ 刑法犯の発生件数も減少してるんですね(110番通報、初の減少 昨年1~11月、警察庁まとめ 2006年01月05日13時28分)。

▼ 「日刊サッポロ」1月6日号(1/5発売)の日垣隆の連載「どこへ行くのかニッポン」は、「『二極分化時代』を生き抜く智慧を!」と題して面白いことを言ってました。スポーツで若い才能が伸びても、底辺が拡がっておらず、「後進国的に、フィギュアでも鉄棒でも……進学でも13歳までに××が出来なければ先は諦めたほうが良い、というふうに、どんどんなってきてしまっている」「特殊な才能を伸ばすことだけに親の関心が寄せられるのは如何にも、いびつだ」「20歳くらいまで、親は子に『いろいろなこと』を体験させるのがいちばん良い」とあり、同感でした。

大人・社会は子供に対して多くのことを学ぶ環境をつくる。その結果子供が素晴らしい大人になったら、大人はよいことをしたことになる。子供が何を選び取るかは子供の側の問題だ。多くのことを体験させたらそのあとの結果は悩むことはない。子供が凡庸であって何が悪いのか。ひねくれて育ったら子供の選択。ちょっと不十分な見解ですが。

まだ充分に歩けぬうちから体操用の体とか、フィギュア向けとか、相撲向けとか、特殊化して子供を育てるのは人間として豊かなありかたではないでしょう。

これまたちょっと違う気もしますが、例えば、ガリガリの非人間的な肉体で5回転ジャンプするより、女性的なふくよかさのある肉体で3回転ジャンプするほうがまともだし、見ていて美しいと思います(註)。

註 武道家の南郷継正が『試行』掲載の論文だったとおもいますが、コマネチについてこのことを論じていました。単行本にもあるはずです。

手元にないんですが、週刊誌(週刊現代)で安藤美姫がアメリカに行って太ったことがジャンプ成功の妨げになりうる、みたいなことが書いてあったんで。

 
by kamiyam_y | 2006-01-06 16:18 | メディア資本と情報化 | Trackback(1) | Comments(0)

「のまネコ」問題(続)

メール監視と「のまネコ」問題:私有財産の自由から人間の自由へで私は、「のまネコ」に触れつつ、「情報資本主義」の理論的中心点についてすこしだけ考えてみました。

「私的所有」は、封建的共同所有を破壊し、封建的生産秩序を破壊し、近代の民主主義をもたらした根拠であり、商品生産を普遍化する契機として、近代の資本主義の大前提です。資本主義は、しかし、新たな社会的な紐帯やつくりだし、自分の前提を否定します。私的所有という近代の中心的行為様式が維持されつつも、それを解体する新たな公共的なものが生成しつつあるのが現代であり、この現代の人類史的な問題を論じてみようかなと思いつつも、いつも考察が不徹底に終っているのですけどね。

「私的所有」は資本の利潤追求運動の外皮であり、資本の競争の総体が、現代の編成運動です。

「私的所有」はもともと自己労働の対象化に対する社会的承認です。私的所有において正当な所有は、自己労働の産物であるか、それを交換して得た物です。そのどちらでもない「物」を勝手に持つことを「窃盗」といいます。

「物」は移動したら元の場所からなくなります。困ったことに「情報」は違います。観念的複製が無限に可能であり、観念的複製を脳内に伝搬することをコミュニケーションというわけですから、ネットの協同体の形成と、そこにおける協同の産物の形成は、「私的所有」と「利潤追求」という近代の約束事を潜在的に超えています。

そもそも近代社会は、封建的な、土地による人間支配を本体とする職業と土地の固定を破壊することから生まれており、封建的関係というコミュニケーションを否定しています。これが可能になったのは、商品交換がそもそもコミュニケーションの否定を本質とするからです。つまり、使用価値と価値という情報に社会的生産の意思的調整を閉じこめて最小化することによって、社会的生産を人間のコミュニケーションから排除し、その反面で、コミュニケーションをいわば市民的協同体として成立させたのが、商品生産としての資本主義なのですから。

ネットは、価値の追求(飽くなき利潤追求)が経済を編成する世界が前提している条件を否定しているのです。近代の経済法則の世界をネットは潜在的に超越しています。

このことは、「私的所有」の論理において、ネット協同体の産物が法律観念に馴染みにくかったりする(著作権フリー扱いにされる等)要因になるわけですが、同時に、「私的所有」の論理を超える人間の協同が形成されているのであって、この協同からすれば「私的所有」と「利潤追求」こそが制限になります。現代世界が前提する私的所有に相容れないがゆえに「倫理」という形でルールが定着することにもなります。

おそらくこの問題は、『資本論』第3部の「利潤率の傾向的低下」の人類史的意味と重なるはずなのです。資本の競争総体という現代をつくりだす運動のなかで、利潤率が意味をもたない世界が潜在的にではあれ登場することをマルクスはいわば必然的な進行として捉えていて、「情報化」も、企業の自己肥大化競争に吸収される産業労働という資本主義の本質がその存在理由を喪失していることを暗示しています。

こんなことを考えている以前のエントリーを本質的に超える論点を提出するつもりがあるわけではないのですが、今日、札幌駅から駅前通を南下する途中で、「大変なんです。『のまネコ』問題をご存じですか?」というA4版のビラをもらいました。配っていたのがふつうの女の子だったのでつい受け取ってしまい、歩きながら読んでおもしろさに気づき、インタビューしなかったことを後悔しました。

「のまネコ」問題はまだ終っていません。

私が哲学的な射程で論じてみたいことと、「のまネコ」問題の実際的具体的な展開は美味く結びつかない点もあるかもしれませんし、私的所有の人類史的変貌という大論点を論じても、のまネコ問題で実際に人々が解きたがっている問題からきっとずれているでしょう。以下はその後の「のまネコ」問題をすこしフォローし自分用にメモしてみただけです。それだけですので、以下で紹介しているサイトに実際にあたって考えられることを希望します。

さて、受け取ったビラによると、わた氏のフラッシュアニメをavexが買収した時点までまではネットユーザーも黙っていたが、avexは、その後強引に、モナーの口元だけ変更して「のまネコ」と称しオリジナルキャラクターとして商品化したとのことです。ビラは、この大問題が他のキャラクターにも起きるかもしれないことを、と訴えていました。

このビラでも紹介されているエイベックスのまネコ問題 は、よく整理されている感じがします。ここにリンクされているのまネコ問題を様々な視点から捉えるサイト(仮象)は、なかなかためになります。

ここでの寄稿で面白いと思ったのは、例えば、サイト:モナーを救え!~のまネコ問題~管理人:AMによる「問われる企業倫理と知的財産の保護 2005年9月24日」です。ネットの倫理と企業の善意で成り立っていた世界を、暴力的に簒奪する行為としてavexのモラル欠如を捉え、クリエイティターとしての危機感を表明しています。

…[前略]…そのコミュニティーを外れて「モナー」を使用してきた企業は少なくありませんが、いずれも「モナー」を「モナー」として認めて使用し、そのコミュニティーに対して何らかの敬意を払ってきました。ネットユーザや企業の善意に支えられて「モナー」は存在し続けることができました。こうしてインターネット独自の良い倫理観が形成されていき、後にモナーを使用する企業もこの倫理に従ってきました。

avexが今回とった行動は、こうした倫理を破り捨て、今までネットユーザと他の企業が築きあげてきたものをぶち壊す行為であるといえるでしょう。…[中略]…一連のavexの対応はお世辞にも誠意あるものとは言えず、消費者やネットユーザを冒涜するものでした。こうした企業としての問題への対応や態度を見ても企業モラルを疑わざるを得ません。また、「のまネコ」にしろ他の盗作疑惑にしろ、 avexは音楽や映像といった著作権に深く関わる企業であるのにもかかわらず著作権周辺の配慮やモラルにも欠けています。同社の「真似ても盗むな。」というポリシーを見ても企業倫理以前に、クリエイティブな集団を自称すること自体疑わしいものがあります。…[後略]…

松浦社長の発言ですが、 エイベックスのまネコ問題 >> 10/6 松浦氏mixiでの発言など見て判断してください。 「アスキーアートにそれほどの文化と皆様の支持があることは2ちゃんねるを見ない私にはまったくわかりませんでした」というコトバだけ取りだすと、少なくともネット文化を尊重しているようには思えません。

日経デジタルアリーナ ブログで自滅する人々(第1回)の記事も興味深いが、ネットに対する恐怖心を煽る基調には疑問です。

松浦氏発言に対するコメントとして、JANJANモナー盗作問題 松浦氏mixiでの発言に対して(三浦益矢) あとがき 記事の説明と独り言

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公共性のあたらな形は、ネットにかぎりません。
「健康」という個人に属する問題が、まさに個人の問題であるがゆえに、生産の公共性を照らし出す。「健康」破壊は、個人の権利を実現するものとしての公共性の領域を形づくる課題です。

asahi.com肥満者の比率上昇 1.86億人に血中脂肪の問題
  2005年11月13日

 衛生部・疾病控制司の孔霊芝氏は・・・・中国で肥満者の比率が急速に上昇していることを明らかにした。・・・

 孔氏によれば、中国では標準体重を超過した人は約2億人に達し、うち肥満者は約6千万人に上る。1992年との比較では、体重超過者は39%、肥満者は97%も増加した。・・・
                                  ・・・は引用者による省略


いよいよ、中国も資本主義的生産による生活様式の変貌と、それによる健康破壊が問題になりつつあるということでしょうか。健康は個人で解決できる問題にとどまらず、社会的な生産方法の問題であり、それを社会的に制御する社会的理性の課題です。

グローバル資本主義は、アメリカも中国も同一の対立性におきます。先進国の健康破壊も、途上国の健康破壊も形は異なるとはいえ、諸個人の権利に対する障害として同一の問題であり、人々に解決を命じています。

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追記20060204

今読み返すと、2ちゃん側も、純粋な共同体を守ろうとする素朴な正義感を根拠にして、煽っている部分があります。

2ちゃん側は、自分たちの共同性を悪用する私的利害としてエイベックスを捉えているのに対し、エイベックスが出している論理は、エイベックスが社会的なのであり、そのエイベックスが認めてひろめるのだから、よろこんでほしい、著作権の私的狭さを超えるのだ、だから共同戦線を、という理屈です。これに対して、2ちゃん側は、エイベックスこそ、著作権の壁を越えると称して単なる営利に共有物を利用している、私的狭さだと主張しているわけです。モナー自体私有物ではないからエイベックスは使い、法律的手続きをとっても、それが、モナーを共有してきた個人に対して「囲い込み」の圧力のように作用するとでもいいましょうか。私有の上では、オープンとタダ取りは紙一重です。

いずれにしても私的所有とは矛盾でねじれていて、分裂したものです。
by kamiyam_y | 2005-11-13 23:37 | メディア資本と情報化 | Trackback | Comments(0)

メール監視と「のまネコ」問題:私有財産の自由から人間の自由へ


「私有財産の自由」が突き当たる矛盾

日経の特集記事が「のまネコ」問題を扱ってました。それに託けて、資本主義経済の「現代」を特徴づける「私有財産」と「社会的生産」との矛盾について考えてみたいと思います。

「私有財産の自由」とは、封建社会から「近代」への転換をよく示す社会関係です。「市民革命」においては、貴族や聖職者に対抗して革命を起こした「第3身分」は、「天賦の人権」を革命の拠り所としていました。この「人権」は、しかし、どこからか湧いてきた理想などではありません。「人権」が求められたのも、その背後に、自由な商売、自由な職業選択の要求というブルジョアの実際的な物質的利害があったからです。この点からいえば、「市民革命」とは、人をとりあえず都市のブルジョアとして解放することでした。

ブルジョアは「私有財産」の自由にもとづいて商売をします。売買を通じて増殖する貨幣を、さしあたり「資本」と呼べば、ブルジョアは資本を、産業資本として生産活動に使うことによって、商品を生産して利潤を手にするようになります。

しかし、ブルジョアの手に資本が集中することは、他方で、労働力を売らないと生きていけない大衆が出現することを意味します。資本の本源的蓄積は、資本家の「節欲」「貯金」「勤勉」によってもたらされるのではなく、働く諸個人が土地から「暴力的に」切り離されることによってもたらされます。

生産手段の剥奪によって創出された近代的労働者もまた、資本家とともに、封建社会から解放された自由な個人です。労働者も、「私有財産の自由」をもつ法的に自由な人格として解放されています。労働者も資本家もこの自由をもつことにおいて対等です。

労働者も資本家も、商品の売買においては等価交換しますし、労働者のもつ10円も資本家のもつ10円もまったく等しい価値として妥当します。さらには、「普通選挙」が実現するようになると、労働者も資本家も、等しく参政権を有する個人となり、「私有財産」による不平等すら、政治的共同体のなかでですが廃止されてしまいます。これはすばらしく進歩的なことです。

ところが、この自由も平等も解放も、その裏側では、いいかえれば、非政治的な実際的生活の世界では、経済の世界では、諸個人の社会的生産過程では、貫徹しません。労働者は事実上労働力を売らざるを得ない強制連関におかれ、剰余労働を搾取される存在です。

自由な個人が主人公ではなく、会社そのものが主人公となったり、カネそのものが主人公となって政治を簒奪している現状を想起すれば分かることです。あるいは、政治的自由において「私有財産」による格差が廃止されているにもかかわらず、実際の経済生活においては、「私有財産」による社会の分断が「自由競争」というタテマエによって美化される。「私有財産」の「自由」がそれ自体自由だとしても、社会的生産の進んだ諸関係においては、その自由の限界が露わとなる。「私有財産の自由」が労働者を搾取する自由として機能したりする。こうした事実を思い浮かべればよいでしょう。

とはいえ、これは歴史に潜む悪意の結果などではなく、人間が、その自由な結びあいのなかでお互いに発展しあうような自由な人間になるための必然的な通過点です。

ひとまず人間はまず部分的に解放されるしかなかったのですから。人間が自由になるためにはまず封建社会を解体し、金がものをいう社会をつくる必要があるのです。社会的生産が金によって「経済法則」の力で成り立つことによって、人間は生産から切り離された政治の世界で形式的に自由になるのです。資本によって生産過程が、諸個人の自覚的関与のできない物象的関連として編成されることによって、諸個人が、孤立し、個人の人格的・法的自由が成立したのです。

これが近代社会の出発点の構図です。この構図を運動させてみます。と、資本主義は、資本のもとで社会的生産を発展させながら、同時に私有財産制度とそれを衝突させることになります。あるいは、諸個人の形式的な自由に対して、それと対立する形で、資本の力として社会的生産の力を発展させることになります。この点も、企業権力という問題を想起すれば感覚的に納得いくはずです。

私有財産と監視

会社は「私有財産」です。「私有財産の自由」は会社においては、労働者を生産手段から排除し、彼等を生産手段の持主の意向に従って行動させるヘゲモニー(支配権)として作用します。労働者は、労働のなかでは、自己の労働の本源的条件である生産手段に対して、他人の所有物に対する様態で関わっています。労働という自己の活動において、労働者は自己の対象から排除されている。矛盾です。

資本主義は、この矛盾を運動させるシステムです。資本という、主人公化した貨幣は、しかし、私有財産という狭い自分の前提と衝突してしまいます。なぜなら、資本主義は資本を増やすということが人々に強制されますが、資本を増やすためには、資本は生産力を上げることが必要となるからであり、それは不断に生産を社会化するからです。労働者を結合して「協業」を組織し、労働者の使う道具を、社会的な道具である「機械」に変えることが、私有財産を殖やすために必要だという矛盾こそが、資本主義の「現代」を定義しています。

パソコンはいうまでもなく道具です。道具ですが、それは人々の会話の延長であったり、記憶や計算の延長であったりします。それは、会社という私有財産のなかに従業員同士の社会的つながり、コミュニケーション領域を形成してしまいます。パソコンは管理労働を社会化する道具として、資本主義のなかで発酵する資本主義を超える条件の一要素かもしれません。

対照的に、工場で組み立て加工を行う労働者が、ハンマーを自分たちのコミュニケーションの媒体にすることはありません。モールス信号に使うかもしれませんけど。

ベルトコンベアーの体系ですら、労働者が実質的に自分たちで社会的に使う以上、そこには「自分たちのもの」という潜在的な承認が生まれます。地球を覆うコンピューターネットワークも、資本にとって無料のインフラであるだけでなく、労働者にとってもコミュニケーションのインフラです。

パソコンは、さらに、全体が連結していると同時に、個人個人が使うために、より従業員との間で親密な関係になりやすい道具のように思えます。

かつて手工業の職人は自分の道具と親密な関係にあるため、資本家が職人を雇って生産しても支配しにくく、機械の登場は、労働者をコントロールするという意味でも革命的でした。パソコンは労働者と道具の親密さを回復しているとも言えます。

しかも、パソコンは心も感性もないですけど頭脳の延長ですから、ゲームの相手もしてくれますし、どこかの誰かとゲームをするインフラにもなります。

巨大なベルトコンベアーを労働者が個人的にゲームに使うことはないでしょう。ハンマーで音楽を奏でることはあるかもしれませんけど。

しかも、パソコンが生産するものが「情報」です。「情報」は、手でつくった木の椅子とは違います。手でつかめませんし、複製が無限にできます。私有財産として括れない観念的で連続した存在なのです。ですから、これは、私有財産制度に依拠した資本の支配からは、はみ出す部分が生じます。

とりあえずここまでで、いいたいことは、パソコンは「私有財産」という概念に揺らぎをもたらすということです。

北海道新聞・特集「あなた見られています 第4部 パソコン監視②」(10月22日・土・朝刊・36頁)に、職場のパソコンを私的メール交換に使ったとして「減給・降格処分」を受けた女性の例がレポートされていました。上司と対立していた社員たちが「抜き打ち検査」にあって、メールの私的交換を理由に「減給処分」を受けたといいます。

「使用者が社員を処分しようとすれば、どんなささいなことでも引っ掛けてくる。」


みなさん、取締の対象なのに取り締まられていない曖昧な状態、禁止されているのに放任されている状態は怖いですよ。ルールのグレーゾーンは、権力が恣意的な取締に使う大事な装置です。会社という私的権力だって同じ。クビにするさいの口実にパソコンの私的利用を持ち出されたら、どうするんですか。

幸いなことに、記事によれば、このケースでは、「処分は懲戒権の濫用にあたる」だとして女性らが民事訴訟を起こし、処分無効の判決を勝ち取っています。私的利用の送受信の数の少なさや、かかった時間の少なさ、職場にパソコン取扱規則がなかったこと、この上司もパソコンの私的利用をしていたこと(笑)などが判決の理由だそう。みなさん、会社にパソコン取扱規程あるか、調べておきましょう。

社会的生産関係が労働者を抑圧する関係として現れるのが資本主義だとすれば、パソコンのネットワークも会社のなかで、労働者を抑圧する手段として機能します。ネットワークを通じた「監視」もその一部でしょう。会社のプライバシーを守るために、従業員のプライバシーは守られず、顧客情報流出を防ぐために、従業員は潜在的犯罪者扱いを受ける。これは働く人々の権利の実現にとっては、あくまでも過渡的な状態にすぎません。

のまネコ問題

最初にあげた日経の特集記事は、「ネットと文明 第2部 新旧価値の衝突2 『皆のもの』信奉意識にズレ ブログ炎上」(10月22日・土・朝・1頁)ですが、これは、ネット掲示板の匿名投稿をもとにした『電車男』の二番煎じの出版が、ネット上で批判され頓挫した話に続いて、「のまネコ」問題をとりあげています。なぜか、日経の記事ではのまネコ「騒動」で、「2ちゃん」と明記されずに「掲示板」とあるのですが、それはいいとして、やっぱり面白い問題ですね。

ネットのインフラは無償の協力で支えられているのが、特徴。“共有財”を資本や企業の論理で安易に囲い込むと手痛いしっぺ返しに遭う。騒動は既存の常識では想定外の「公共のカタチ」を巡り、強弁に自衛しようとするネット界の人たちとの価値観の衝突でもある。


「ネット界」などという世界が存在するのか分かりませんが、また「強弁に自衛しようとする」とはビジネスの側から見た表現におもえますが、まあそれはいいとして、ネット・コミュニズムという妖怪が徘徊しているのも、私有財産と社会的生産という二つの顔をもった現代資本主義のねじれ現象の1つかな、と思います。私有財産増大の悪循環が、社会的生産の深化を求め、社会的生産にとって、私有財産による分断が障碍になり、つまり社会的生産を要する私有財産にとって障碍となる、という矛盾がハッキリ出ていて興味をひかれます。

資本主義の形成にあたって「土地囲い込み」が共有地を私有地に変えていったのは周知の通り。資本主義の発展において、資本が、労働者の社会関係(協業)を包摂して成長したことも、資本による資本の収奪が、多くの工場を1つの資本のもとに統合し、資本主義展開の重要なテコとなっていることも、とりあえず説明は要らないでしょう。「のまネコ問題」も、共有物を私的に収奪する点でこれらの運動と同じですが、ネットの産物という共有物を、私的に簒奪する試みが、うまくいかなかったことは、ほとんど「剰余価値生産」の終焉を暗示しているように思えます。

2ちゃんねるでは、2ちゃん管理人のひろゆきさんが「のまネコ問題への個人的見解。2005/10/13」をアップしています。

資本主義経済のしくみとの関わりで「のまネコ」を論じているcafemochahotさんの「のまネコ問題と情報の私的所有」にあとは譲るとして、松下電器の「知的財産権」戦略の一環であったジャストシステムに対する訴訟、松下の敗訴、よかった、というかあたりまえだろ、という気分です。一太郎ユーザーの「リラックス・ビュー」はなかなかいいですよ。

毎日新聞2005年10月2日東京朝刊社説「知的財産権制度 創意工夫を促す制度に戻そう」から引用しておきます。

 ワープロソフトの「一太郎」をめぐる特許侵害訴訟は、ジャストシステムの主張を認め松下電器産業敗訴の逆転判決となった。今回の訴訟は、知的財産高裁での初の大合議による判決とあって注目されていた。
……
 マウスのカーソルをヘルプボタンにあて、その後、別のボタンにカーソルを移動すると、そのボタンの持つ機能と使い方の説明文が出てくる仕組みが争点となった。

 ジャストシステムは、同じ機能はマイクロソフトのウィンドウズの中にもあるとして、ジャストシステムだけが特許侵害に問われるのはおかしいと主張した。一方、そのマイクロソフトは、パソコンメーカーとの間で、ウィンドウズによる特許侵害について訴訟を起こさないという契約が独占禁止法違反に問われ、現在係争中だ。

 巨大企業同士では特許侵害が起こらないような契約を結び、それ以外の企業が同じ機能を使おうとすると知的財産権の侵害となるということには、多くの人が違和感を感じていた。


おいおいマイクロソフト!!!
by kamiyam_y | 2005-10-23 20:58 | メディア資本と情報化 | Trackback(1) | Comments(2)