さっぽろ地下鉄のなかでマルクスを呼吸する、世界を呼吸する

カテゴリ:労働論(メタ資本論)( 12 )

まっとうな社会的自由としてのデモ:技術と社会

野間易通『金曜官邸前抗議』(河出書房新社)、第6章の最後の節にある柄谷行人のせりふ、なかなかいいです。興味のある方は買いましょうということで、ここには書きませんけど。

その少し前の箇所に鎌田慧の指摘として、原発建設に対して反対し勝利したところがたくさんあるが「論理で危険だと訴えても、カネの力で推進してくるものには勝てなかった」と書かれてあります。

「カネの力」ですね。気になるので、大きな枠組みに入れ込んで「技術」への考え方を繰り返してみます。技術は合理的だから合理的に管理すれば安全、つまり安全という生活の権利は技術によって本質的に解決済み、安全の問題は技術の問題、とみるのが、私たちの思考にあって偽の安定性を求める態度でしょう。こういう態度においては、技術が人間のために利用されているか、労働者と環境破壊を破壊する非倫理的な技術を他の選択支に優先していないか、といった問を立てることができません。技術の非合理的利用・非合理的技術の普及という問題はあらかじめ排除されてます。廃棄物を処理できず壊滅的な事故に結びつく技術を、非合理的かつ非倫理的と呼ぶことにためらいは不要です。

鎌田が述べている「カネの力」の作動を媒介して考えるってことですし、「カネの力」を労働する諸個人の諸力の否定的な発現として捉えるということ。カネとして介在してくる経済的諸関係自身を私たちが管理できないというシステムのありかたを抜きにして、自然(技術)と生活(安全)が一致すると想定するのが私たちの思考の怠惰ですが、同時に、カネの力がモノに擬態して背景に溶けてしまうことを積極的にここではカネの力が自ら突破し、私たち自身の諸関係を私たちが管理することの必然が示されているともいえます。

私たちの集合力の諸関係が生活を破る威力として、制御を要するものとして出現し、私たちに問を投げかけることで、私たちが疑い、声をあげ、学び、自らの社会的開発を進めていくという必然。

ちなみに、技術そのものを社会的安定と混同するような、安全な原発という形容矛盾に固執する原発共同体的幻想の裏返しは、資本主義的利用から切り離された技術一般の未完成・根源的悪を主張するような反生産力主義ですね。

という話はあくまでも問題の一般的な枠組みです。日本における原発の拡大という個別的事情はその諸要因を歴史的に探求すればよい。ここでは細かいことは無視ってことで。

野間さんの本から逸れてしまいましたが、本書はデモする社会というあたりまえの民主主義について考えさせてくれる歴史的証言です。
by kamiyam_y | 2013-01-28 23:57 | 労働論(メタ資本論)

ヴェブレンを読み返した

突然の体の不調で、病院にお世話になってきました。いろいろやらねばならないことがあるので、はやく治したいです。不調の一因がスーパーで衝動買いしたあるものにあるにちがいないと睨んでいるので、今後気をつけることにします。確証がないし、調べる気もしないのでこれ以上書きませんが。

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ヴェブレンを読み返した

『国連人間開発報告書』の理論的支柱であるcapabilityアプローチを提起しているアマルティア・センは「貧困」を社会現象としてとらえ独自の人間発展論において課題としているし、ケインズは学生時代ムーアの反功利主義的な倫理学に影響を受けのちに「自由放任の終焉」を書いているし絵の収集家だし、ケインズと同い年のシュンペーターはウィーンで歴史や法学を学びオーストリア・マルクス主義者と交流し社会化委員となり大蔵大臣を引受け『資本主義・民主主義・社会主義』を書いたのだし、アダム・スミスのテーマはモラルフィロソフィーであり市民社会の自律的形成を課題とした、というように面白い、偉大とされる経済学者というのは、エコノミクスの範囲のなかで収まらない人物ばかりです。こうした経済学者たちは、経済学者というより社会理論の探求者です。

ソーンスタイン・ヴェブレン、1857年ノルウェーの移民の子として生れ、1884年に哲学博士となるもしばらくは職に就かず本を読んで暮らしていた奇人、ハイルブローナーの『入門経済思想史 世俗の思想家たち』(八木甫・松原隆一郎・奥井智之・浮田聡・堀岡治男訳、ちくま学芸文庫、2001年)の第8章を参考にしながら、彼の1899年の『有閑階級の理論』(髙哲男訳、ちくま学芸文庫、1998年)と1904年の『営利企業の理論』(小原敬士訳『企業の理論』勁草書房、1965年)を読み返してみると、『営利企業の理論』のよく知られた、「産業」Industryと〈営利〉Businessとの対立という構図が、前者『有閑階級の理論』の、平和愛好的で労働に敬意が払われる社会と、〈掠奪〉を軸とし非労働が有閑階級によって誇示される(「顕示的閑暇」等)ような〈野蛮〉社会との対比を踏まえていることがわかります。

勤労の世界、生産過程は、〈制作者本能〉が支配する機械的性格(技術者による調整を含んだ有機的な統一性)をもつのに対して、株式会社金融などによる〈不在所有〉が発展し、営利は機械的過程における調整の解体から生じるという捉え方において、営利は〈野蛮〉の徹底なんですね、たぶん。こういう捉え方には常識を辛辣に、あるいはからかうようにひっくり返してみせる痛快さがある。

「有閑階級という制度がその最高の発展を遂げているのは、例えば封建時代のヨーロッパや封建時代の日本のように、野蛮時代の文化が高度化した段階においてのことである」(前掲『有閑階級の理論』高訳)

たとえば、資本主義のなかにいる人間には、金儲けのための競争は人間の元来の性質なのだ、とする幻想を信じている人がいるでしょう。しかしこれは、マルクス的な言い方に近づければ土地所有が支配する封建制社会において土地所有のための殺戮、これが疑われるどころか褒め称えられるのと同じこと。すでに生産関係によって媒介されそれを前提にして存在していながら、媒介をうしない直接の起点となったブルジョア的原子、これに固執することに対して、社会的な全体によって諸主体が規定されていることを対置する批判性がヴェブレンのような議論の妙味ではあります。

「社会一般にたいして概して無益であったり有害であったりする事業……不生産的な仕事の収益は、他の仕事の総生産物から生れるものである。……産業的にみて寄生的な種類の企業の成長には限度がある。大部分の広告業や……寄生的産業の不釣り合いな成長は、軍事支出や……とともに、その社会の有効な生活力をいちじるしく低下せしめ……」(前掲『営利企業』小原訳)

これも寄生的企業への富の移転が社会的にはマイナスでありうるとする批判で、合理的経済人の主観と財という抽象からすれば無関心な問題を取りあげています。

新古典派的なものを批判する理論的制度派の思考って、「諸個人とは社会である」とか「諸個人はその基盤を社会とし、社会が進化する」とするもの。取引コスト論のようなものを新制度派とよぶこともありますが、そちらは原子論的社会観の修正版と見た方がいいでしょう。

ブルジョア的私人・交換する個人は、資本主義的システムを自己の媒介において定義するような能動的原理ではなく、その自立性はじつは非自立性なのだが、この自立性の内部にとどまるのが新古典派的発想。

制度派的捉え方もまた、その社会による諸個人の包摂は、現在の対象自身の対象を捉えるものではなく、生産関係によって捉えるわけではなく、原子論同様に定義されない前提なんですけどね。原子論の方はまず社会契約説。社会に先立つ契約主体としての個人を想定してもそれ自体すでに社会的存在であり、そうした個人の想定が社会的な約束事であることは実際的に知られているといえます。生れながらにして天賦人権を人間はもつわけではなく、人権は社会関係なのですから。「社会の実体は諸個人である」が人権論的想定といえそう。

とはいえ、人権論は、封建制社会において領主権力に従い、共同体に埋没して生きていた諸個人を解き放つ革命の思想的契機です。原生的共同体の支配から現代的個人の自立へ転換させた人権論は、今度は、個人から独立した社会的生産を批判する武器に転じます。企業や経済法則が個人を飲み込む全体である以上、人権論は王権の批判からこうした全体の批判に具体化します。批判対象の発展が人権を実在化するのだよ。

原子論は古典派経済学のなかの功利主義的想定としてもちろん弁護論的に機能します。孤立した個人を起点とする調和的市場観では、資本家も労働者もその物象的対立的諸関係を脱色されて、利己的主観的利益を計算する同権的主体へと漂白され偽りの姿で現れます。生産関係なき財と主観の関係の世界ですから、個人と一致しない社会はここでは存在しない、というか、社会ではなく個人のみが存在することになります。

諸階級は、孤立的契約において「日労働の価格」という不合理な観念において、〈労賃〉形態において、自由平等な市民として等質化されて現れます。地主も資本家も労働者も単に収入をもたらす物、源泉が違うだけで平等なのだという三位一体的幻想、三大階級の非階級化ですが、これはエコノミクスにおける調和的市場観の原型といってよい。金に社会的支配力を与えている生産の媒介が断ち切られた幻想では、自然物金に支配力の原因をみる。こうしたフェティシズムは、貨幣が利子をもたらす等々の三位一体的幻想にまで具体化しています。
by kamiyam_y | 2013-01-23 21:49 | 労働論(メタ資本論)

夏のビールと唯物論

やべえ。ビール飲みすぎてデブっちやした。太ると顔のしわが消えるのはいいんですけど、腹回りはたるむし、体重い。重いだるいは、中性脂肪値とかいろんな数値上昇もありそうですが。

夏なんでビールフェティッシュなんだな、わし。

このまえは卒業生の結婚祝いでビール。そのまたちょっと前には大通りのビアガーデン。外食時のプレモルはちょっと飽きてきてるんですが、サントリーの会場に。パラソルの下で北海教員同士で飲んでたら、ビールと枝豆をもってきたバイトさんから「先生の授業受けてました」と言われました。彼が人を幸せにするビールを一所懸命運ぶ姿に誇りを感じたよ。

蒸すんでビール煩悶症なんだな、おれっち。

いやがる自分に無理矢理ビールを飲ませる自己攻撃するMになってしまいました、ではなくて、自分を放棄して自分にあきらめてます、でもなくて、ビールを飲みすぎる尊敬できない自分に煩悶する自分を愛するという回路で煩悶するだけですけど。

と書きながらウソが混じってるなと思いました。

自分を攻撃できる私は、この能動性を外部の他者に向けることができ、この他者の受動性の喜びを想像しながら振舞うことが可能です。受苦性と加虐性の弁証法こそマルクス疎外論の神髄なんだよな。
by kamiyam_y | 2012-08-14 05:03 | 労働論(メタ資本論)

限界limit/Grenzeとしての資本主義capitalism /Kapitalismus(1)

東京新聞の社説を紹介しておきます。

東京新聞:長官銃撃時効 歴史的失態を猛省せよ:社説・コラム(TOKYO Web)

見苦しく一方的で卑怯な弁解という以上に、時効が成立し容疑者不詳の事件について、捜査機関が犯人を断定する発表をするとは、民主的法治国家の手続きを無視し、人権を蹂躙する許されない越権行為です。法治のルールを超える「公益」性の代表を武器を持った権力が自称するとはクーデターでしょうか。

東京新聞:ビラ配布無罪 言論封殺の捜査にクギ:社説・コラム(TOKYO Web)

社説がいうように「戦前の暗い風景を思い起こさせる」異常な取り締まりぶりです。「微罪」を隠れ蓑にした言論弾圧一般を批判する良心的な判決というべきでしょう。

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水族館でイワシの群を見ました。光の破片をふりまきながら群れ全体が1つの生き物のように右に、左に反転しながら泳ぎつづける様子をしばらく観察してました。

ちょっと検索。http://www.youtube.com/

イワシ@新江ノ島水族館 (sardines-at-enoshima-aquarium)

Epic journey of sardines - BBC wildlife

上の方が私の見たイメージに近いです。BBCのもきれいですけど。

人も集い、いっしょに腕を動かして、1つの生き物として動きます。腕のたくさんある巨大なムカデ、いや失礼、集合労働者になったりします。

イワシの群れがどんなに美しくても、それを美しいと批評するのは人間です。人間のばあいは、自覚して美を追究して集合労働者になることができます。パラパラとか、よさこいとか、噛むとフニャン(佐々木希のCM)とか。

ロッテ Fit's 新CM :: 佐々木希 佐藤健 噛むとフニャン♫

イワシ群も、集合労働者もどちらも自然が展開されたものですけど、人間のほうは意識的活動です。イワシが自然に埋もれているのに対して、人間においては、人間という自然と対象という自然に自然が自己分割しています。人間は対象を科学という形で知ることで、対象との同一性を観念的に獲得し、対象を生産手段へと変えることで現実的な統一をはたします。踊りのような遊びでも、イワシにはない偉大さがつらぬかれています。

そういえば人間も集団で泳ぎますね。シンクロで検索。

Synchronized Swimming(ImprovEverywhere)

タイトルはシンクロでもハイレベルな修業の成果ではないものですね。イワシよりも動きがばらばら。とはいえ、しかしイワシにはない自由さがある。といってもイワシとは比べられたくないか。

イワシらは、あつまって計画をたてることもなく、おれも参加すっか、と自由意思をもって参加することもなく、練習の成果だねと、喜びあったりすることもない。

魚群のきらめきという、環境と個別生命とのコラボレーションは、環境そのものの運動でしかない。対して、人間と環境のコラボレーションは、それ自体人間の対象です。

これが自由な自己意識としてふるまうことです。人間は目的によってコラボレーションを制御し、対象を手段・媒体にします。対象的な活動は自己意識の自由を実現する、人格性実現である、といってもよいでしょう。

1匹のイワシは、海や土を変革しません。海や土に、かれの人格性を刻印しません。また、イワシ個体は、相互に、個性的存在たることの相互承認もしません。人間の労働は個性の承認です。労働において人間は、個性を承認し、同時に、自分の労働が人類の一員としての労働であることを自覚しています(類的本質)。

しつこいですけど、イワシは、お互いの成長を讃えるなんてこともない。イワシの生きた活動がかれの自主的修業やかれら一族の学校教育制度のたまものであるなどいうこともない。

『資本論』の有名な蜜蜂の話です。ミツバチは「その密房の構造によって多くの建築士を赤面させる」(MEW.Bd.23, S.193)。

ミツバチの巣は精密です。

蜂の巣は食べると美味しいらしいです(野中健一『昆虫食先進国ニッポン』亜紀書房、2008年>Amazon)。

しかし、精密とか、美味しいとかは人間による評価です。

かれらの行動は本能的であり、そこに発展した人格性を見ることはできません。計画性もなければ、対象との対話による教養発展もない。個体差はあっても、行動の中心は、本能にインプットされたものを反復することでしょう。

ついでにいえば、プーさんはハチミツが好きですが、プーさんのモデルになった動物は、ハチを育ててミツをとるなんてしません。

イモを洗うサルが反論してきそうです。たしかに、人に近い生命なら、木の実を石でこすって皮をむくなんて芸当もできましょう。

といったところで、そういう動物文化があったとしても、それはしょせん群れで偶発的に受け継がれる孤立したものでしょう。すでに人間がいるんだから、今のサルが今から人間社会をつくることはできないです。

道具としての石は、自然物石一般からそれほどかけはなれた姿にはなっていません。対象変革の程度が低い。この道具を使う生命体の意識の水準も、この石という道具のレベルにみあったものにとどまっています。石という道具がこの生命の社会組織や、知的能力や感性、個性の水準を劃しているわけです。

労働する個人labouring individual/arbeitendes Individuumは自然総体を自己の対象とします。かれ自身が、自然の法則性を利用できる自然力として作用する自然です。かれによる対象変革の行為の連鎖には、かれと同じ他の個人も参加します。対象的自然に対する変革は、変革された自然(道具)を媒介として実現し、この対象に関わる諸個人の関係がまたこの変革を媒介します。諸個人の生産行為は、人格的自由の実現です。諸個人の人格的自由の実現は、変革された自然と、この変革をなかだちする他の人間との関係によって、劃されています。

ミツバチの生活が本能の反復のなかに固定されているのに対して、人間はその自由と個性において人間として生活しており、生産(自然と社会の生産)にもとづいて人間の生活は自由な人格性の確証にほかなりません。

自由な人格的存在という人間本質の実現を条件づける土台として生産の発展があるということです。

つけたし。この前のことですが、居酒屋で、グラスにささっている棒をストローだと思って口にしたら、吸えません。「ストローとまちがえていれたのかな」という顔をしてみたら、店員さんから「マドラーですよ、ストローじゃないですよ」と笑われました。まちがってたのはこっちでした。こちらも笑ってごまかしました。

ストローもマドラーも天然の自然には存在しません。素材はすべて自然界からとってくるわけですが(念じたって物質は生まれません)、ストローだ、マドラーだ、という道具は、それを造形した人間どうしの関係において道具として存在してます。ストローは唇の延長として、人間の自由を拡大する自然と人間とのコラボレーションの産物。中が空洞になったこの筒状の加工物は、これに対して、これがストローだとして関わる個人のふるまいにおいて、ストローです。このふるまいは諸個人に共通していて、これがストローだよという共同の理解が存在しています。この共同の知識を介して人間は自由な個性的活動を実現しています。イワシは、ストローとマドラーを区別できませんが、人間界では、その似た形状の物を取り違えると、滑稽と言われます。
by kamiyam_y | 2010-03-31 22:15 | 労働論(メタ資本論) | Trackback

類的本質の疎外態

酒やコーヒーの香りを表現するのに、ベリーとか、明るい酸味とか、柑橘系とかいろいろ自由に連想しますよね。香水の薫りと糞尿の臭いは紙一重ですから、香りに対して、ミルクを飲んですぐの赤ん坊の小便のような香りとか、冬の雨の日の、清潔感ある男性の背中の汗のような香り、といった直喩を用いることは、その人の人生経験を本人およびそこにいる人に思いおこさせ、酒や食事の席を豊かで実りあるものにします。

いつでもこういう豊かさを演出できるよう日々努力を怠らぬよう私は飲み物の香りを楽しむときに、オーク樽の香りやら、オレンジピールやバナナやらだけでなく、爽やかに闊歩する美しい乙女の微かに風が運ぶ腋臭ような、ほのかに鉛筆の芯や錆びた鉄や透明な汗を思わせる腋臭のような香り(同じ臭いの成分であったとしてもこれが滅多に風呂にも入らない無精なむさ苦しいおっさんの腋臭では快ではなく不快と感覚されよう)を、揮発成分が分子運動するグラスやカップの気流の中から探しあてようとしてますが、なかなか出会えないです。

コーヒーから立ちのぼる化学的諸成分は、自然の豊饒な素材でありながら、人間社会において美という精神的なものを喚起する素材を形づくっており、自然素材は人間的にまとめられ、人間の五感もまた人間的に作用しています。化学成分が鼻腔奥の粘膜細胞に到達するという物理的な運動はそのものとしては美たることに対して無関心でありながらも、コーヒーカップをもった人間にとって空想を喚起する調べとして働きます。

コーヒーチェリーの果実を採る、種を出す、乾かす、焦がす、挽く、などなどの動詞群は、孤立的には直接にはそれ自体としては自然力の作用にほかならず、それが人間の目的の連関にまとめられ、自然力の作用が、人間の生活・生命の過程において統一されています。

こうして連関において二重化することはそもそも生命において、自然から発生した生命においてそれが生きることそのものになっています。生命を織りなす化学的諸反応は、スタート地点がたえずあらわれてくるような連鎖であり、生命の運動は、自分からはじまりながら環境の物質を吸い込み、環境を自分の場にし、環境を自分の支えにしながら、物質を入れ替え排出してふたたび自分に戻ってきます。生命はすべて環境から素材をえていながら、素材は生命の形です。生命一般が内的な目的的運動であるがゆえに、その対自的な形態である人間の労働が区別されます(生命の直接的な合目的的性格と、それに対する労働の合目的的性格の媒介的な・対自的な性格について、有井行夫・長島隆編著『現代認識とヘーゲル=マルクス――認識主義の没落と存在主義の復興――』青木書店、1995年、有井序論他)

環境の素材たとえば木を、机に変えるときには机という目的は主体の外にありますけど、生命は外部に働きかけながらもその働きかけにおいて主体自身の内部に目的も手段も折り込んでいる運動です。たとえば呼吸において外呼吸によって酸素を内部化し血液循環を経て、細胞呼吸(解糖系・クエン酸回路・電子伝導系)にいたり二酸化炭素を排出してふたたび外呼吸にもどってくるというように、生命は手立てを取り込んだ目的であり、さらにはこの生命と環境という大環境が生命を実現する大生命となっています。

いうまでもなく、こうした生命活動は生命そのものであって、無意識なものです。計画表にのっとって酸素を取り込んでいたら死んじゃいます。

学習能力や心の原初的な姿みたいなものがありそうな高等な哺乳類は(計算すると飼い主が自称するお悧巧な動物は人間の表情や雰囲気をつかんで反応します)、もう一歩複雑な存在の仕方をします。自分という目的がさらに自分を動かしてそのままの自分から少しだけ引いた自分がずれ、環境に対して少しだけ回り道をして、環境と自分との間に環境を合成したりします。サルが葉っぱでアリを釣って食べるとき、葉は労働手段ですし、サルが森の上に葉を折り込んでそこに寝るなら、この葉で編んだものは住まい、生活手段です。

でもこれはあくまでもまったくもって偶然的で孤立的な行動というべきであって、サルはやっぱりすぐに食べたりすぐに寝たりするために環境のごく一部を加工してみるだけです。サルは人間社会が生まれて以降はそのままサルにとどまっていなければなりません。

「動物はその生命活動と直接に一つである。動物はその生命活動から自分を区別しない」「…動物もまた生産する。蜂や海狸や蟻などのように、動物は巣や住居をつくる。しかし動物は、ただ自分またはその仔のために直接必要とするものだけしか生産しない。動物は一面的に生産する」(マルクス『経済学・哲学草稿』城塚登・田中吉六訳、岩波文庫)


合衆国で1月にジャンボ機がバードストライクでエンジンが壊れ、ハドソン川に着水した事件があったのをおぼえてますか。偶然も関与しながら機長の判断と卓抜した技術によって犠牲者を一人も出さなかった事故です。たまたまこの事件を取材した番組を観る機会があったのですが(NHK「BS世界のドキュメンタリー『ハドソン川 奇跡の着水』」)、乗客のその後を追ったインタビューが感動的でした。大事故から生還した乗客は、自分は死んだかもしれないのに今こうして生きているのだと実感し、与えらえた人生をどう生きていくのか深く考え、人生を見つめなおし、あるいは深く関わっている人たちとの愛を再確認します。もちろん悲劇なのであり、ちょっと要因が異なれば、亡くなったかもしれないのですから、悲劇は避けられるべきであることはいうまでもないとはいえ。

もう1つ私が感銘したのは、着水後の救出劇でした。不時着したとたんに浸水し、気体が沈んでいくのですが、近くの客船が即座に救出に向かうのですよ。救急部員もヘリコプターが水面に近づくと溺れかけている人に危険なので高いところから飛び降ります。

私は観ていて人間であることの偉大さと誇りに涙しそうになりました。

川の近くにいた人のなかには画像を撮れば売れるぞと携帯かデジカメで動画をとりだす市民もいたわけですけど。これも人間の偉大さ・すばらしさ(「類的生活」)を単なる排他的欲求のための手段に貶めるという転倒の悲しさを感じさせましたし、この排他的私的利益を介して多くの人が映像を見て感動するなら皮肉な感じもしますが、せっかく感動してたので気を取り直し、こんな卑小な人間たちをも役立てつつみこむわれわれの文明の懐の深さこそ人間のすばらしさではないか、と理屈をこねてみたり、人間のすばらしさを個人の私利に変え、個人の私利を人間の共同のものに変える分裂の巨大さこそが人類史の現在ではないか、と考えてみたりもしました。

生死をかけた決断のときに機長が必死でマニュアルをめくっていたのも人間の偉大さを感じましたね。親方が徒弟に隠す秘技では航空機操縦は継承できない。親や親方やらに人格的に従属して一つの仕事しかできなくなる(ということは人間はなんでもできるから一つのことに特化可能なのですが)ように仕事を覚える動物的社会的分業の時代を終えて、科学的生産手段は科学的な形で公開された知をもって継承されます。生産手段とは社会の基盤であり、見えない関係性に意味づけられた自然にほかなりません。犬からすれば、石も石器も見分けがつかないでしょう。

そうです、人間である人間が、人間のすばらしさを思うこと自体が、すばらしい。土の1部である蚯蚓は自分が蚯蚓であることを知らず、海水と岩の一部であるイソギンチャクは自分が生きていることを永久に知ることはない。対して、人間は人間であることを自覚している。

「対象的世界の産出…は人間が意識している類的存在であることの確証である」


人間は、自分という目的と、自然と同じ平面で自然に対して作用する自然力(註)としての自分自身とに自分を二重化します。個々の行為直接は人間精神の外の自然の過程であって、たとえば、日本酒を造るときには昔足で洗米したそうですが(尾瀬あきら『知識ゼロからの日本酒入門』幻冬社、117頁参考)、タンパク質の塊である足が、水を張った桶に対して上下運動して、木からなる桶の底面と足という二つの物体によって米に圧力を加え、米表面から糠を分離するという過程は、それ自体自然力の作用です。米を洗うという人間の行為は、直接には自然の運動です。しかしこの運動は酒造りの迂回路のなかにおかれており、この迂回路は人間精神という形を介しての自然自身の姿態産出であり、新たな自然の編成、自然の造形です。自然の過程が人間による生産過程という意味をもってます。桶は労働手段、米は労働対象です。洗った米をもとにして発酵をさせるなら、それは微生物による生命の過程であるとともにこの生命の過程は化学反応です。数多くの行為と過程が、酒を造る生産計画として表象され、一連の流れのなかに要素として落とし込まれていきます。

註:人間は自然ではなく社会的存在だろう、と早合点して混乱しないように。生産手段と労働力は社会的なものですが変革された自然です。

人間は、目的である自分から、それ自体自然の法則に従う自然そのものとしての自分、自然力である自分を区別し、自己を意識するとともに、この自然力という自己と連関する自然を対象として意識します。自然が人間に対して普遍的に対象として立ち現われてくるのであり、対象の姿を変える目的の意識は個々の行為を統一して表象し、過去を現在に現在を未来に回転させていく時間の意識でもあります。自然は人間の外部にあってかつ人間に法則としてその中身を公開していく普遍的な存在です。対象をつかみ表現する言語が、対象とのかかわりである言語が生れます。生産を共有する言語的交通が発展します。

人間は自分もふくんだ自然を、自分の眼前だけではなく広く深く自然のあらゆる内容を対象とします。人間が自然を対象とするとは、自然の総体を対象とすることです。

「…人間は普遍的に生産する。…人間そのものは肉体的欲求から自由に生産し、しかも肉体的欲求からの自由のなかではじめて真に生産する。すなわち、動物はただ自分自身を生産するだけであるが、他方、人間は全自然を再生産する」


自然の一部と肉体的にかかわるのではなく、自然総体とかかわる人間は直接的にではなく普遍的媒介的に生産します。砂漠を裸足で歩けない人間が、砂漠の一部でありながら人間に親しい駱駝を家畜とすることによって、砂漠を自由に移動するという自由を拡大するように、人間は、自然と人間との間に変革された自然である道具を挟み込んで自分の生活を普遍的に生産します。

機械はそれ自体直接には自然の素材から成りたっていますが、物理的化学的数学的諸法則がそこには人間的に、人間的目的によって再結合され再現されて、生産手段として働くという意味を与えられており、この意味を実現するには人間の共同の関係が必要となります。生産手段とはすなわち関係性です。鉄や石そのものは生産手段ではありません。

ラフな組織であればルールを決めた文章の意味がそれを作成した当時の人がいなくなればなんだか不明になったりよくしますが、なんといっても知識は消失していくものです。人間つねに知識を捨て去って生き、忘却によって成長するもの。しかし生産手段という存在は分からなくなっては困りますから、自然を生産手段にしている知識は捨てるわけにいかず、人間個体の入れ替わり(生死)を超えて、かれら諸個人は労働において、生産手段を生産手段として用いつづけ、生産手段を生産しつづけます。

言語はローカルですが、生産手段の関係はグローバルです。掟もローカルですが、直接労働のつながりである経済はグローバルです。生産の掟がそれだけで自分のなかの理由だけでもって発展することはありませんが、生産は発展し、生産の関係として関係は不断に生れ、労働の経験は蓄積し、生産の発展の姿として生産の掟という知識は消失をのがれ、生産の発展に支えられて、言葉や学問や芸術といった知的な(高次の生産)関係もまた再生産されます。「政治、法、学問等の、芸術、宗教等の歴史は存在しない」(『新編輯版 ドイツ・イデオロギー』マルクス/エンゲルス著、廣松渉編訳、小林昌人補訳、岩波文庫、209頁)

人間は自分に対してあるがゆえに、平たくいえば自分に命令することができるがゆえに他人の命令に従うことができ(蚕や蜂は生産手段にはなれても奴隷になることはできない)、サルから別れたばかりの頃は、自分たちの自然の諸力と社会的集合力を空の上やら地面のなかやらにいる想像された存在の力におきかえて理解し、王の権力の形で形態化してそれに従うことを介して、動物的社会的分業を営み続けていました。そんな状態を打破するほどに生産の発展した現代は、人間が人間として尊厳されること、生きた人間が社会の正しい作り手であることを合意しながら、人間が人間でないグローバルなものに従属してます。そう、貨幣ですね。

労働は自然的社会的諸要素をまとめあげる運動であり、この労働を捉えた貨幣、労働の疎外体である貨幣は、自らをスタート地点にしながらかつ自らをゴールとして折り返していく貨幣です。この貨幣という見えない運動は、商品を、労働力を、貨幣を自らの生活の環に見える形で位置づけ、さらには、人間を、法律を、言語を、ありとあらゆる環境的諸要素を自分の器官にしてそれによって規制される目的となっています。この目的と手段の全体が労働の対立的姿での実現であり、現代社会です。普遍的な分裂。現代社会とは貨幣、そも資本なるものとしてリアルな姿を見せるというわけです。

原生的共同体による生産は貨幣による生産によって全面的に解体され、貨幣による生産は、人間社会による生産を実現する諸条件を急速につくりだす普遍的な分裂にほかなりません。

そもそも労働の産物によって他人の産物を手に入れることが労働を貨幣化することであり、社会的労働のとる特殊な姿が商品なのでした。また、労働力を買った資本はその消費によって貨幣増大をなしとげるのであって、人間こそが貨幣を生む貨幣存在なのでした。

貨幣とはこのように労働の関係であるにもかかわらず、労働の外の力として労働を支配するものです。しかも同時に、労働でないモノに属する力として現れて、この転倒を隠します。対立的本質を隠蔽することで転倒が完成します。

貨幣というこの転倒は、しかし、巨大産業、現代的工場やグローバルな社会的生産として自分を形成することによって、人々をこの隠蔽の密室から、生産を自らのものとして制御すべきという課題が提示された地平へと連れていきます。貨幣の帰結は貨幣の転倒性の再転倒です。

グローバル経済こそは、人間から分裂した人間の普遍的土台であり、グローバルな形で人間の分裂的自己産出は完成しつつあるというべきでしょう。強引にまとめてみました。
by kamiyam_y | 2009-05-17 21:51 | 労働論(メタ資本論) | Trackback | Comments(0)

自由と階級闘争

▽おしゃれ九州60SPという番組で、エビちゃんがふるさとの宮崎を紹介してました。「小みかん」というフルーツ食いたいと思いました。

▽1月から3月って入試や進級判定で繁忙期なのですが、授業がない分、研究の貯金をしておかねばならず、更新滞るかもしれません。ここで貯金をして論文の原型をつくっておかないと今年きつくなってしまうので。

▽ 自由な個性とか自由な個人って何なのよ、リバタリアンかよ、というご意見を前回書いたことに対して頂戴いたしました。個人が社会的な個人として存在するような社会システムの成立を求めている以上、国家《からの》自由という無内容で、抑圧的に機能することもありうる「自由」一般とは当然異なりますから、このご意見はちょっと単純すぎるかと。グローバリゼーションの開明性も肯定性もふまえて市場に対するグローバルで有機的な規制を現代の矛盾が求めていることを理論的にとらえるべきであって、市場の調和一般を説くあほらしい賛美といっしょにされたくはないです。

社会民主主義とももちろん違います。公正な賃金をという善意の要求は好きですけれど、それはいささか皮肉な味方をすれば平等な搾取を求めるものであって、福祉の整備ですら資本の競争条件に吸収されることを考慮すれば本質隠蔽的なのでは、と。

また、自由や個人や民主主義に対する悲観主義をもって「近代」を批判する左右の道徳主義や共同体主義とも違います。市場原理主義を批判する左の共同体主義とは、資本主義に対する深い批判の意識を共有する点で連帯しますが、こういう批判の道徳的制約にあっては、資本主義の敵対がもたらす敵対を超える要因の形成という歴史の必然的進歩がとらえられません。敗北する資本主義批判がうまれてくる根拠すらも理論的につかむことが重要でしょう。

労働する諸個人にもとづく社会認識は、こういう言葉を用いるとすればいわゆる「ブルジョア民主主義」に対する徹底した批判です。人権とは資本家階級の権利に転用される資本の権利であったという現代の逆説的真相をふまえて、現代の課題は、労働に即した人権の徹底(「プロレタリア民主主義」の内実であるべき労働過程の民主的管理)にあり、自分たちの社会的生産から排除された諸個人(労働者階級)が生産を自分のものとして管理することにもとづく自由な個性を発展した社会的生産にもとづいて復権することにある、といっているのですからね。
by kamiyam_y | 2008-01-06 22:58 | 労働論(メタ資本論) | Trackback | Comments(0)

キーワード 【運動】

うんどう【運動】

私は歩くのが好きです。メタボ業界に対抗したい気持ちもあってということではないのですけど。

メタボ予防が体を適度に動かすことだとすれば、これだけで解決してしまうのなら、メタボビジネスには利潤源泉がなくなりますから、これははじめから限界を設けられている予防法です。メタボは解決しなければならずこのビジネスが求められるが、このビジネスにとってはメタボは解決してはならない利潤源泉でもあります。解決しなければならず解決してはならない。

ここで現れるのが、労働において労働の産物や労働の時間が人を支配する、世界の分裂した運動のありようです。散歩に限界を劃するのが、資本という生産様式なのです。メタボがもっとも心配されるような年代の人こそが会社に拘束されているのですから。健康も環境も根は同じです。

生産様式のありかたをに抜きにした狭い視点には限界があります。ここでは生産様式も運動するという点について着目してみましょう。人は体操して身体の運動をするだけではなく、その労働行為の集合によって、生産様式を運動させ、それによって社会を運動させ、それに規制されて、自分たちの個性を運動させる。人は散歩し、生産様式も運動する。

生産様式というとややこしくなりますから、言葉を換えて、資本主義にすると、運動するのは当たり前、ってかんじがしますよね。

社会を編成する資本でもかまいません。資本は形を変えて、手段を自らの過程によってもたらしている価値の運動体です。

資本が編成する社会でもいいです。資本の再生産運動が、社会を、運動して自己再生産するものにしているからです。資本の社会にしているのだからです。資本が編成する社会は、その全体の再生産の条件をその活動自体がもたらしている社会、生産有機体として生きたまとまりをもって自己再生産している社会です。労働する個人が労働という運動をし、資本が運動し、社会が運動する。運動はつらぬく過程であり、みえない連関をなす。

散歩だってじつはみえない。人が体を動かすことは、それ自体は、物理的に落下法則に従うとか、化学反応が起きているとかいった人間以前の自然の段階そのものですが、私たちは、意志に反して物体として体が落下することを体操するとはいいません。強制労働で歩くのも、浮き浮き散歩するのも、物理法則の展開としては変わりありません。歩くのも、個別的なありかたは自然法則でありながら、それをつらぬく目的の螺旋運動がなりたっています。

会社の命令で笑顔で歩かされるのも、組合の行事で歩くのも、猿から見たら区別ありません。社会関係は超感覚的です。

体操という意味での運動も、自然である人間自身とその環境に対して、人間がみずからを二重化して制御すること、対象に対してふるまうこと、自覚してふるまうことです。

自然の運動すらも、直接感覚に与えられるものではなく、人間の知識というみえない普遍的なものでしょう。物理法則は感覚的存在ではなく、科学としてなりたつ対象の普遍的な、みえない秩序です。

運動といえば、芸術の運動もあります。運動家という言葉を思い浮かべる人もいるでしょう。アウトノミアとかやら、労働者階級の解法戦略、政治家に働きかけて社会変革を志すこと、批判的な知識をひろめていくことも運動です。この場合も、運動は目的によって直接的現実を変化させようとする営みです。労働ですね。


資本主義社会の矛盾に満ちた運動は、実際的なブルジョアには、近代産業が通過する周期的局面のなかで最も痛切に感ぜられるのであって、この局面転換の頂点こそが、一般的恐慌なのである。(マルクス『資本論』第2版後書、大月書店全集版、S.28.)


運動によって、しかも矛盾というエネルギーによって形あるものとなり、形をつくられているのが資本主義という自己再生産する社会。運動によってのみ、資本主義はいっとき存在しているものとして形をもってとどまりうる。

激しく運動するからそこにある。この運動は不安定ゆえ、より安定した形を求めています。この安定した形(1つの人類社会)へと形を変えてしまうまで、この激しい運動に人は気づかない、というものではありません。資本主義は私たち自身がつくりだしているものだからです。

人間と自然との安定した運動形態を創出したときが資本主義の消滅でしょうが、それは、自覚性のモメントをその媒介要因として資本主義自体が生み出すことを前提しています。


……これ〔価値形態-引用者〕よりずっと内容の豊富な複雑な諸形態の分析に、少なくともだいたいのところまでは、成功したのである。なぜだろうか?成育した身体は身体細胞より研究しやすいからである。そのうえ、経済的諸形態の分析では、顕微鏡も化学試験も役にはたたない。抽象力がこの代わりをしなければならない。ところが、ブルジョア社会にとっては、労働生産物の商品形態または商品の価値形態が経済的細胞形態なのである。教養のないものには、この形態の分析は、ただあれこれと細事の詮索をやっているだけのように見える。(同上、S.12.)


身体細胞という基礎の分析を終えていなくても、眼前にあらわれた、できあがった成育した身体は研究できる。

だからといって、細胞は非現実だということにはなりませんよね。

基礎的なもの、単純なものほど把握が困難なので、「教養のないものには」基礎づけの議論は机上の空論にみえるということです。

個人の体操はリアルだが社会の運動は非現実だ、ということもありません。眼前にいる道ゆく人も、ビルの上からみおろした街も、どちらも現実です。全体が非現実ということはありません。もちろん生きた個人を抜きにして、かれら諸個人の媒介である生きた社会が再生産されることもありえませんけど。

運動する全体を大づかみにした輪郭の描写が、細かい描写よりも非現実的だなどと考える人がいるとすれば、愚かしいことでしょう。

身体は現実的だが、細胞の運動は非現実だと主張する人はいません。商品の生産関係も、生産関係の物象化でありそれ自体リアルな関係です。基礎の分析は仮説にすぎないという見方もありますが、そうはちょっとどうかと。
by kamiyam_y | 2007-12-30 23:58 | 労働論(メタ資本論) | Trackback | Comments(2)

抽象物としての「市場経済」(5)-メンヘル、格差、知識労働-

抽象物としての「市場経済」(5)-メンヘル、格差、知識労働-

スティグリッツの本に献金をあつかった部分があり、面白かったので書きました。抽象物としての「市場経済」前回(4)、献金をあつかったので続きという意味もあり、このシリーズに入れます。

格差社会とメンタルヘルスにもふれました。孤立した個人の虚妄性を引き剥がし、、個人の孤立的理解の体制弁護論的本性を暴きたて、市場原理主義の幻想を批判するというこのシリーズの目的の1つにもあってるかな、と。

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偶然の威力

例えばです。労働現場で被災して解雇されてしまった人が不幸を嘆くばあい、【個人の責任に帰すべきではない偶然の犠牲になった】というニュアンスがふくまれているようにおもえます。安全に働く権利、職業につく権利を実現するためには、安全衛生対策と職場復帰プログラムが必要であることはいうまでもないですが、それが実現していないから偶然が力をもつ。

あるいは、「運悪く」会社が倒産した。このばあいの偶然というのは、社会をみわたすとかならず誰かが犠牲者のポジションにおかれているということです。会社が黒字だって連鎖倒産はあるわけです。恐慌というのは、労働の社会的労働としての統一が、会社をなぎ倒す形でつらぬかれるってことでした。

こうした不幸は「合理的個人」の「自己責任」なる幻想に帰することができず、社会的に協同して解決していくべき問題としてあらわれています。

ついでにいえば、個人の気質だの、能力だのいったものも人類の共有なものがたまたま誰かに割り当てられているだけの話であり、どこの地域のどこの階級のどの家庭に生まれ、どう育てられたか、なんて話は自己責任ではない。

倒産のような個人が背負う不幸は、人類がその形成途上で背負うさまざまな悲惨さが、さまざまの個人にいろんなしかたで強制されたものでしょう。社会の全体的な力が個人を押しつぶすように作用し、ある特定の個人が「運悪く」社会の車輪の下敷きになることは、あらゆる個人が生け贄にされる可能性があることです。社会が個人に対して対立している状態です。

格差社会のグローバリゼーション

「格差社会」現象も、社会が個人に対して対立しているから生れます。「格差社会」が社会問題化していることは、社会問題を個人の努力の問題にすりかえるような市場主義的通念がここでは越えられているということでしょう。社会問題化とは資本批判ですから、資本の弁護論は、社会問題を非社会問題化しようとします。格差社会化も雇用問題も労働災害も自己責任論にすりかえようとしますが、それはできない相談です。

とりあえず確認。問題は「差」に矮小化すべきではないので、全体の年収をみてみます。

1997年の平均年収は467.3 万円であったのに対し、2005年は436.8万円。全体として沈没してます(国税庁「平成 17 年 分民間給与実態統計調査-調査結果報告-平成18年 9月」http://www.nta.go.jp/kohyo/tokei/kokuzeicho/minkan2005/menu/pdf/00.pdf、10頁)。

やはり背景にあるのは、グローバル資本主義の展開。

資本主義システムは、一国レベルで、格差是正のための共同的な装置を、その成熟に欠かせないものとしてつくりだしてきました。社会保障、労働法制、推進課税、などなど。ひらたくいえば、「市場経済」のひずみを修正するために共同の装置をつくることで延命してきたわけです。

資本のグローバルな競争は、こうした格差是正のための福祉国家的装置を外すように働きます。労働立法があるから市場が働かない、といった、市場原理主義的な反福祉国家の逆立ちした主張もこうした圧力の代弁です。

資本の競争は、不安定雇用の拡大をもたらしてます。雇用者における正規/非正規の割合をみても、1985年は正規雇用が83.6%、非正規雇用が16.4%であったのに対して、2006年は66.8%、33.2%になっています(厚生労働省『平成19年版 労働経済の分析』http://www.mhlw.go.jp/wp/hakusyo/roudou/07/index.html、18頁)。

格差社会は地球規模で問題にすべきなので、ちょっと確認。先進資本主義国について、国連開発計画(UNDP)がこんなふうに書いてます。

OECD諸国の大半では過去20年間に所得が増大したにもかかわらず、所得不平等が拡大した。なかでも、英国と米国における所得の不平等の拡大は著しいものだった。豊かになったのは、もともと豊かな人々だけで、貧しい人々には豊かさが分配されずに取り残されている。米国の最も豊かな世帯1%の所得は、1979年には中間居世帯の所得の10倍だったが、97年には23倍になった。ところがカナダとデンマークでは不平等が抑制あるいはわずかに減少している。政治的意思があれば、所得の上昇に伴う不平等の増大は避けられるといえよう。

(国連開発計画(UNDP)東京事務所 パンフレット『人間開発ってなに?』(PDF)http://www.undp.or.jp/publications/pdf/whats_hd200702.pdf、11頁)

註 貧困に対する国際的な報告として、UNDP『人間開発報告書2005』国際協力出版会、世界銀行『世界開発報告』田村勝省訳、シュプランガーフェアラーク東京、2004年、など。

疑問もあるんですが、米国こそ格差社会の本家です。

地球規模での格差とは、国ごとの格差だけではなく、一国内に先進国と途上国が併存することです。一国内に最貧地域と先進資本主義地域とが併存する。こういう断片化をともなって資本主義は生産力を発展させます。

グローバルな資本主義の展開は、格差社会の社会問題化をグローバルにしていきます。ですから、一国福祉国家解体作用をともなう現在の資本のグローバルな展開は、反転せざるをえません。

無秩序なアメリカ中心的なグローバリゼーションに対抗するものとしてしかグローバリゼーションは展開しないということです。資本の無自覚なグローバリゼーションは、社会問題のグローバリゼーションを増幅しなければ、すすまないのです。たとえば、ILO(国際労働機関)が1999年にディーセント・ワークという理念を掲げたのも、一種の対抗グローバリゼーションというグローバリゼーションの姿の1つ、とかんがえてよいとおもわれます。

 「ILOはこうしたインフォーマル経済で働く人々の状況を「ディーセント・ワーク(人間らしい仕事)」の欠如という観点から見ています。女性や若者の多くが、残念ながら、ディーセント・ワークの欠如という状況に置かれています。すなわち、法律の保護が受けられない、非生産的で報酬の少ない仕事、職場での権利の欠如、不適切な社会保障、団結して自らの主張を行うことができないというような状況です。」

ディーセント・ワークとインフォーマル経済フォーラム-ILO東京支局http://www.ilo.org/public/japanese/region/asro/tokyo/conf/informal.htm

量的な不平等から絶対的な不平等へ

失業のような個人を襲う不幸は、社会の力が個人を犠牲にする社会の未熟さだし、犠牲にすることによって社会的な力をつくりだしている。社会と個人の対立状況が格差社会の本体といえます。

失業者が労働力を売れず生活手段から疎外されるのも、労働者一般が生産手段から疎外され労働力を売らなければ生きていけないからです。だれもが失業者になりうる可能性をもっている。

この前みましたように、資本蓄積が人口を現役労働者軍と、失業・半失業状態の産業予備軍・相対的過剰人口とに分割することは、個人の努力をこえた社会の生きた運動法則です。かならず人口の何割かが相対的過剰人口の貯水池に流されたり、現役軍に吸収されたりしているのです。誰もが相対的過剰人口に入りうるし、資本蓄積は、相対的過剰人口に依存したものとしてすすみます。収入格差の前提にはこうした生きた運動があります。

労働する大衆がみずからの社会的産物から除外され、それらを共同で理性的に用いることができない。生産手段から疎外され、労働力を販売しなければ、生活手段を得られない、これを絶対的貧困とよぶならば、資本蓄積とは絶対的貧困の再生産にほかなりません。富を措定するのが貧困である。これこそ資本主義の基本矛盾でしょう。

資本主義は生産力拡大によって必需品の価値を下げ、労働力の再生産費用を縮小し、必要労働を短くするように作用しますが、それは富と自由時間の少数者の独占という形をとります。賃金体系による格差ではなく、賃金労働者と少数者という格差が存在します。

「資本の傾向はつねに、一方では、自由に処分できる時間を創造することであるが、他方では、それを剰余労働に転化することである。」(『要綱』S.584)

「社会一般と社会のすべての構成員とにとっての必要労働時間以外の多くの自由に処分できる時間〔disposable time〕(すなわち個々人の生産諸力を、それゆえにまた社会の生産諸力を十分に発展させるための余地)の創造-こうした、非労働時間の創造は、資本の立場のうえでは、少数者にとっての非労働時間、自由時間として現われるのであって、それは以前のすべての段階の立場のうえでもそうであったのと同様である。資本が付け加えるのは、それが大衆の剰余労働時間を、技能と科学とのあらゆる手段によって増加させるということである。なぜなら、資本の富は直接に剰余労働時間の取得にあるからであり、それというのも資本の目的は直接に価値であって、使用価値ではないのだからである」。(S.583-584)


政策の大企業優遇バイアス

絶対的貧困をいいかえれば、社会的な力が人に制御されず人を犠牲にしている、という転倒です。これを絶対的な格差とよぶこともできましょう。個人に対して企業の力がおしかかってくるという絶対的な格差に、格差社会問題は気づかせてくれます。

個人と企業の力との対立は、絶対的な格差です。グローバル企業の政治支配について、スティグリッツが例をあげて批判している箇所は、とりわけここで取りあげるべき興味深い素材でしょう。

 贈収賄と汚職は、社会と個人の利益がぶつかるもうひとつの領域を代表している。多くの場合、採鉱会社や石油会社は、政府高官に賄賂を贈って利権を手にし、天然資源入手のコストを下げる。石油や他の天然資源の市場価格を支払うよりも、政府高官に多額の賄賂を贈ったほうが、ずっと安くすむからだ。・・・[略]・・・
 アメリカのように洗練された経済のもとでは、贈収賄は主として政治運動への献金という形をとり、その見返りは市価より高額での道路建設契約だけにとどまらず、その副産物が社会にはるかに大きなコストを強いる政策変更にまでおよぶ。・・・[略]・・・
 製薬会社は1998~2004四年までのあいだに、1400の議会法案を操作するために7億900万ドルを費やした。・・・[略]・・・アメリカ政府は国際貿易交渉で製薬業界の利益を最優先させたうえに、新しい医療保険制度の薬剤給付において、低価格での薬剤の入手を違法とした。それだけで数十億ドルにもなる条項だ。
(J・E・スティグリッツ『世界に格差をバラ撒いたグローバリズムを正す』楡井浩一訳、徳間書店、2006年、288-289頁)


政治家に投資せよ。リターンは大きいぞ。賄賂とよばず献金とよべ。政治支配はビジネスなのだ。

個人が協同社会に参加する政治が、利益(剰余価値)獲得のためのビジネスに転換してます。個人の自由平等な契約という形式が、不払労働に転換するように、個人の自由平等な政治が、剰余価値収奪の条件に転換してます。

スティグリッツが「社会と個人の利益がぶつかる……領域」と表現しているのはちょっと感心しました。

個人の生存権の実現よりも、企業の利益が優先されます。製薬業界の利益が貧困削減よりも、医療を受ける権利よりも、まず優先されてしまう。資本の目的は直接には価値にあり、人間的必要と人間的欲求はそのための手段です。

貧困層において子供の死亡率が高い(『人間開発報告書2005』73頁)のは、人間の自由平等に反しています。自由平等が人間の本質であるならば、こうした格差は人間の本質が疎外されていることです。

製薬業界が開発費と称して独占的価格を、知的財産保護と称して社会の利益を排除する私的所有の自由を、政治を通して押しつけてくることが、貧困撲滅という人類的課題と衝突している。「神の見えざる手」という牧歌的な時代ではないのです。諸個人の利益に対して業界の私的利益が優先される。これはまた、医療に対するアクセスから貧困層をいっそう排除するように働く。貧困が富を生み、剰余労働の増大が少数者の自由として自由を実現する。

社会的には、人々に対して大きな犠牲を強いるにもかかわらず、企業の利益を実現するように、政策を誘導する。個人に対して、ここで自由な政治主体は企業です。人々ではなく、企業のカネが政治を動かす。絶対的に不平等じゃないですか。個人に対して、個人の集合力が用いられているのですから。

組織された労働者と知的労働

諸個人に対立する企業の力は、労働者の共同労働にもとづいています。計画的な協働である協業の力がそっくりそのまま諸個人に対して敵対的な力になっています。

献金問題の本質も、諸個人の社会的労働の力を諸個人のもとに包摂しなければならない、という人類史的課題にあります。献金において深くつかむべきは、大企業の悪事やら、グローバリゼーションの性悪な本性でありません。もちろん、個人の自由を資本の自由と混同する弁護論でもありません。そうではなく、諸個人が労働においてつくりだした世界を、諸個人が奪還する、という課題です。

最後に協業について冒頭の労災との関わりで少しだけ確認します。

……大工業の発展とともに……直接的労働は……監視と制御の活動に転化される……生産物がばらばらな直接的労働の生産物であることをやめて、むしろ社会的活動の結合〔Conbination〕が生産者として現れる……。……直接的交換では、ばらばらの直接的労働は、ある特殊的生産物または生産物部分のかたちで実現されたものとして現われるのであって、この労働の共同的な社会的生活-一般的労働の対象化および一般的欲望の充足としてのそれの性格-は、ただ交換によって措定されるにすぎない。これにたいして、大工業の生産過程では、一方で、自動過程にまで発展した労働手段の生産力においては、自然諸力を社会的理性に従わせることが前提なのであり、また他方で、直接的定在における個々人の労働は、止揚された個別的労働として、すなわち社会的労働として措定されているのである。(『要綱』S.585)


めっちゃ面白い文章です。19世紀のイギリスでマルクスは現代のコンピュータ社会を先取りしてます。協業という社会的労働が、労働のいわば情報化をふくんでいます。自然法則の適用が自動的な過程にまで進まざるをえない。目の前の事象が資本主義一般から外れていることを証明するのにエネルギーを費やす議論がありますけど、マルクスは全然違います。マルクスの理解に「型」とか「段階」はありません。

単純な交換では、個人の私的労働は、商品の価値・使用価値というかたちでその社会的性格を反映し、交換によって社会的労働として実現しました。資本主義的大工業の発展は、この私的労働のなかに、直接、社会的労働組織を編成してしまいます。

生産物は労働組織の産物であり、生産手段所有者は労働力1つ1つに支払うだけで、労働力の結合の成果は、ただで手にいれます。情報通信網も科学も無償の環境になります。

注目したいのは生産過程の性格です。自然諸力を社会的理性によって制御し、労働手段の体系が自動的なものに変わっている。労働者はコンピュータが制御する生産過程を監視する位置に立つ。労働は共同的に、そして監視と制御の活動に転換する。労働者は社会的労働に組織され制御を行う。ドラッカー風にいえば、「知識労働」です。「知識労働」は労働の社会化であり、管理の社会化です。発展した資本主義ではあらゆる労働が知識的になっていく、といっても過言ではないでしょう。

労働現場での人間破壊もまたメンタルヘルスの問題として「知識労働」的になっていくにもかかわらず、社会問題として解決する努力はまだまだです。誰もが精神をやられうる時代です。精神疾患に陥るのは自己責任ではなく、人類の共同の課題をその心身において示している人です。
by kamiyam_y | 2007-09-25 22:54 | 労働論(メタ資本論) | Trackback | Comments(2)

大学で社会科学を学ぶということ

一気に書きましたけど、タイトルほどのものではないです。

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履修登録の時期ですんごく混み合ってるんですよ。狭い校舎がいっそう狭くなるわい。

大学院生向け、留年生向け、卒業延期者向け、新入生向け、三年生向け、教職課程受講者向け、などなど大学って今の時期、ガイダンスだらけ。関係者の皆さんお疲れ様です(いやご愁傷様です、かな)。

30年近く前にも大先生が嘆いていました。

「今の学生生活は、ガイダンス漬けである。……生活はそれだけ受け身となる」(隅谷三喜男『大学で何を学ぶか』岩波書店、1981年、53頁)

私とてガイダンスという方法で情報を整理して提供すること自体は否定しませんし、学則や講義要項を渡して「読んでおけだ」と、後になって泣きつく学生が出そうですから予防的な措置としてガイダンスをするのも効率的かもしれません。

けれど、それだけの話です。

以下、この「受け身」性についてちょっと拘ってみますね。

この受け身性には社会科学的に立派な理由があります。資本主義的生産様式という理由が。特殊日本的なもの、消費社会的な要因など諸々の他の要因は無視して、指摘だけしておきましょう。

資本主義という社会の様式はそもそも、人から積極性を奪うことで成り立っているんです。

というのは、まず第1に、資本主義は人の結びつきをすべて貨幣の増殖に置き換えていく運動だからです。人は受け身ですみます。

貨幣は、交換価値によるモノの配分として、人を自由に連結していきます。ここに、市民革命の精神も発生します。貨幣が労働を結びつけるのですから、王権による支配が要らないわけです。個人が個人として社会関係の作り手になっていく進歩性もここにあります。

しかし同時に、金銭関係の浸透は、人の結びつきである共同体を壊すことですから、必ず人を孤立させるように作用します。生存に必要なのは共同体の手足になることではなく自分の利益を追求すること、という社会の分解状態が生じます。

第2に、より積極的に貨幣が貨幣であるためには、貨幣は人を孤立させるだけではなく彼等の結合労働自体を貨幣の道具にするからです。積極性はこの増殖する貨幣のなかに、資本のなかにあります。人が貨幣の増殖のための道具(客体)になるという労働過程の転倒が社会に行き渡るため、個人の社会的積極性は制限されます。積極性は資本の側にあります。

けれども、ここが強調すべきことですけど、資本をつくる労働者の積極的なこの受け身性こそが、諸個人を社会的主体として立ち上げていくためには欠かせない起点をつくっているんです。受け身ゆえに受け身からの脱却に反転せざるをえないのですね。物神崇拝すること、会社の奴隷になることは潜在的には素晴らしいものを含んでいる。

資本のもとでの労働過程の発展は、働く人々なしには社会が発展しないことを実証し、実質的に社会の基盤に、働く人々の積極的な関与を染みこませていきます。

受け身性に対して、資本主義という生産様式が、受け身性からの脱却という結果へと導いていくほかはないのは、まず労働過程が実質的に働く大衆のものになっていくからです。生産力がますます、労働する諸個人の社会的な生産力に転換するからです。

それだけではありません。

この社会的生産力は、直接には、暴走する貨幣の増殖の手段です。資本は、労働の社会的生産力をつくりだし、それを容赦なく殺戮にも使えば、環境破壊や健康破壊にも使います。

温暖化現象、戦争、国際的な食の安全問題、企業による民主主義の空洞化、労働問題、超国籍的な資本による収奪など地球大のニュースを辿っていくと、すべて、資本(貨幣の増殖運動)に突き当たります。貨幣の増殖運動は、私たちの受け身的な生活に対して多様な影響を与え、受け身にとどまることの限界を社会的に見えるようにするでしょう。私たちの長時間労働を合法化するホワイトカラーエグゼンプション導入の動きは、企業の利潤追求、資本の増殖なしには理解できません。

受け身性を反転する作用を資本主義が自ら秘めているのは、まさに資本主義の矛盾が、人々の積極的な関わりを求めざるをえないからでもあるのです。

資本の増殖は労働の社会的生産力を人に対しても環境に対しても破壊的に作用するよう放置するので、この社会的な基盤に人々が積極的に関与しないかぎり、問題が解決しない。問題を解決するためには、人々の関与のしくみを資本主義は鍛え練り上げていかざるをえないが、鍛え上げることは資本主義が前提していた人々の受け身と貨幣の支配を超える要因を熟成させることになります。



かくして、ガイダンスという情報の整理はただの入口なのでした。社会のかかえる問題に対して積極的にかかわる活動性を養い鍛錬していくことこそ、ガイダンスそのものの先にある学の世界のはずなのであり、全力を傾注すべき教育活動の中心であるべきはずのものなのです・・・・・けれど(笑)。

実際には大学の学問もいろいろ資本の作用に汚染されてますし。学問自体が一種の運動であり、闘いの場でもあります。

なお、もちろんのことですけれど学の途をつくりだすこと自体は、自由な個人の営みです。学的蓄積と継承をになう共同体組織がもっぱら大学であるとしてもそのこと自体は、学の途をたどることやつくることにとっては本質的な問題ではありません。学び方を学ぶための場を提供するのが大学だとしたら、大学の外でこそ学ぶことが始まるのであり、学ぶこと、教育することが大学の役割だとたら、それは大学という場を離れても可能なものというべきでしょう。
by kamiyam_y | 2007-04-10 19:41 | 労働論(メタ資本論) | Trackback | Comments(6)

率直なる転倒

子供を「産む機械」だけじゃなく〈利益に貢献する労働者〉だって転倒している

というようなことをこのまえ書きました(こちら)。日経連の「雇用ポートフォリオ」など、この転倒をストレートに示す言葉、ほかにもあるなと思い出していましたら、ちょうどまた、斉藤貴男の文章が、「労働者は製品だ」ってハッキリ言ってる例を取りあげてました。

『日刊ゲンダイ』2月6日号の「二極化・格差社会の真相」です。斉藤がとりあげている高橋宏首都大学東京理事長の私大経営者の会合での挨拶がそれ。

斉藤は、柳沢厚労相の女性蔑視発言について、それをエリートが共有する《人間》蔑視だとしてより一般的に捉えなおしています。
《人間を蔑むこととリーダシップを完全に混同している》。


この文脈で斉藤が取りあげた例の1つが、この高橋とかいう人の挨拶。いわく、


「大学の役割は民間の会社と同じだ。原材料を仕入れ、加工して製品に仕上げ、卒業証書という保証書をつけて企業へ送り出す」


これまた超ストレートに物神崇拝を表出してます。生産関係の物象化を自明のものとして疑わない信心です。

大学は人のモノ化の装置である、大学は企業に対して利潤を生むための部品を納品する下請け機関である。企業のために奉仕せよ、お国のために死ね、それが公共的なのだ。学問する自由人ではなく、社会的生産に供する奴隷を納入せよ、批判精神をもった市民ではなく、従順でよく動く家畜を納入せよ。

とまあ、とてもすなおに倒錯を語ってるわけで。

高橋とかいう人の個性という偶然的なものを通して、経済法則の衝動が人格化している、あれこれの個体において、利潤(剰余価値)追求という強制法則が、強制法則として自覚されず、そのまま人格化されている。
誰もが物神崇拝から逃れられないし、経済法則(物象化された生産関係)による人間支配という倒錯をあからさまに語って恥じないエリートも、関係の歯車にほかならない。とはいえ、このようにあからさまに語る役割は、それ相応の人柄や性格というものをつくりだすのでしょうね。

人間としての教養のある人は、無批判にこんなこと語ったりしませんから。
by kamiyam_y | 2007-02-07 23:42 | 労働論(メタ資本論) | Comments(2)