さっぽろ地下鉄のなかでマルクスを呼吸する、世界を呼吸する

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歴史的に形成された総過程Gesamtprozessとしての世界市場Weltmarkt 

諸範疇を1つの社会的総体の諸分肢として規定しながらそこを通過する円環運動、それが社会システムの根源の能動的運動である、特定の社会的形態における労働する諸個人の生産という運動です。封建制における商業であれば、封建的生産に媒介された総体の器官としてそれは有機的なものの要素として存立しているのであって、現代の発展した産業資本の形態としての商業資本とそれを比べたりしても、それが対象の概念的把握ではなく、見る人の関心を満たす行為にすぎないことはあまり理解されてはいない1つの真実です。「生産、分配、消費、交換」は「1つの総体の諸分肢をなしており、1つの統一体の内部での諸区別をなしている」(『マルクス資本論草稿集1』大月書店、MEGA Ⅱ/1.1 S.35)。「資本はいっさいを支配するブルジョア社会を経済力である」(S.42)という『経済学批判要綱』「序説」の言葉は社会システム総体を把握の対象としています。

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『資本論』第3部は、平均利潤の成立、商業資本と利子生み資本、土地所有といった範疇を理論的、概念的に把握するのですが、それは、第2部での社会的総資本の再生産および流通の理論的把握のうえに、資本がその外部にひきついだ総体の諸姿態を自己の必然性の浸透した、自己を内容とする形態として再産出していく運動を追求しています。

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実体的な共同体を想定しない孤立的・排他的・私的な諸主体間の疎外された社会的生産の運動である商品流通が地球全体を覆う物象的相互依存関係を形成することを前提にして、現在、資本の運動は株式会社の形態にいたるまで地球規模で不断に反復しています。生産過程の個々の分肢が国境を越えた協業を形成し、資本の循環の諸要素が地球規模で流動し、流動を否定し、多様な国民的出自の資本が分裂、統合を繰り返し、科学技術をその大気として架空資本が全地球的を駆け巡り、株式会社が世界市場を舞台とする超国籍的な企業の形態となり、自由な個人の私的所有と物象的に拡張する世界的生産との矛盾を世界的に開示しています。資本の運動は私的な形態における社会的生産の展開として国家を超え、個別的な生産過程をますます社会的な生産過程に転化し、その人類史的な存在理由である生産力の増大を遂行し終えようとしています。

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相互依存関係の決定的な確立は、一国主義をもはや不可能なものとし、国際協調なしでは人類が存在できない時代を生み出してます。真の選択肢は、国際協調というにとどまらず、成長のための成長にとらわれたこれまでの生産力発展からの転換として見いだされています。生産関係の物象化と自由な諸人格との分離した統一というプラットフォームから出発した現代は、制御されざる物象的に編成される生産発展そのものを止揚することを課題とする地平にまで自身を超出しているのです。自由な諸人格の協同的な制御の対象は世界市場という総体であり、この総体の主体的モメントとして諸人格は世界的諸問題に立ち向かう時代の課題において自己を自覚し、この総体自身の主体的形態として総体自身の自己否定を成し遂げようとしています。

国際協調を資本の形態にとどまるものとする従来の道に対して、自由な諸人格という生産発展の目的を対自化した真の選択肢としての国際主義とが明確に区別され自覚されねばなりません。国際協調を国際協調の資本主義的形態から区別せず、国際協調そのものを否定するのは、現代のラダイットというべき未成熟な態度として克服されねばなりません。「機械をその資本主義的充用から区別し、したがって攻撃の的を物質的生産手段そのものからその社会的利用形態に移すことを労働者がおぼえるまでには、時間と経験が必要だったのである」(『資本論』第1部、大月書店、S.452)。あるいは外部の敵対関係として現れる資本を外部そのものに放置した批判は資本の巧妙な反転運動の内部にとどまる疎外された理解というべきでしょう。

およそ資本主義という私たちの疎外された労働のシステムが達成したすべてのものを疎外とともに捨て去ることほどばかげた、また不可能かつ非人間的なことはありません。個人の古典的な、また社会的な自由、多様な欲求の実現と多様性の承認、寛容と共生、自由な個性、それらを支える国際化と生産発展、科学と民主主義の発展、この数世紀の人類の努力がもたらしたすべての成果を私たちは受け継ぎ、発展させていくことができるし、そうしていくことが未来の私たちと共存する現在の私たちの責務です。そしてこのことが資本主義というシステムの内部でもはやこのシステムを狭隘な外皮として脱皮するほかないないほどまでに発展した即自的な未来社会を顕在化すること、自由な人間社会の形成として実現することなのです。人類史を世界史として実在化した歴史の頂点を私たちは生きています。「それは、生産過程の物質的諸条件および社会的結合を成熟させるとともに、生産過程の資本主義的形態の矛盾と敵対関係とを、したがってまた同時に新たな社会の形成要素と古い社会の変革契機とを成熟させる」(『資本論』第1部、S.526)。工場立法の一般化についてこのように19世紀に語られた資本の運動の弁証法は現代においてこそますます豊かな内容をもってリアルなのです。

by kamiyam_y | 2017-01-25 21:14 | 資本主義System(資本論)

The So-Called Labour Fund / Der sogenannte Arbeitsfonds

『資本論』第1部第7篇第22章第5節「いわゆる労働財源」は、この章の最後の節で、短い補足的な話なのですぐ読めます。労働力に投下される可変資本を不変量とみなす説がこの節で批判する対象です。

Es ergab sich im Verlauf dieser Untersuchung, daß das Kapital keine fixe Größe ist, sondern ein elastischer und mit der Teilung des Mehrwerts in Revenue und Zusatzkapital beständig fluktuierender Teil des gesellschaftlichen Reichtums.
この研究の過程で明らかになったように、資本はけっして固定した量ではなく、社会的富のうちの弾力性のある一部分であり、剰余価値が収入と追加資本とにどう分かれるかにしたがって絶えず変動する一部分である。(『資本論』岡崎次郎訳、大月書店、S.636.)


資本を固定したものとしてつかもうとする、「古典派経済学」にみられた「偏見」(ドグマ)が、ベンサムにより完成され、マルサス、ジェームズ・ミル、マカロックらによって「弁護論的目的」に用いられたが、この考えでは、とくに可変資本に示される労働ファンドが「自然の鎖」で固定された不変の前提とされてしまっており、可変資本量が搾取度、労働力の価格によって変化する点が見落とされます。

このドグマに対して、その「根底にある事実」として、マルクスがあらためて摘出している事実は、労働者が「非労働者の享楽手段と生産手段への社会的富の分割に口出しはできないこと」、および、労働者が「ただ例外的に恵まれた場合に富者の『収入』の犠牲においていわゆる『労働財源』を拡大することができるだけである」(S.638.)ということです。労働ファンドが固定しているようにみえるのは、労働者の生活手段が弾力的に最低限にまで押しやられているからであり、それは自然の摂理などではなく、資本蓄積という社会システムの運動の作用にほかならない、というのが真相です。「労働財源の資本主義的な限度をその社会的な自然限度につくり変えること」(S.638.)がここでの俗流的な弁護論です。

いうまでもなく、超国籍的な資本が運動する現代の「新自由主義」的に現れる蓄積において、労働者の「貧困」が明るみに出されているのであって、蓄積論のリアリティは現代を貫いています。

ちなみに、ここでのベンサムに対するマルクスの罵倒は冴えていて、面白い。

もう1つ興味深いのは、「労働の生産物」が「労働に反比例して分配される」と論じた、註65におけるジョン・ステュアート・ミルからの引用。マルクスはJ.St.ミルを「俗流経済学的弁護論者の仲間と混同することは、まったく不当であろう」とここで評価しています。他の学説すべてを「俗流」と言い放って分かった気にならずに、きちんと評価すべきものを評価する学問的な作業の積み重ねが「批判」なのです。ここは、「古典派経済学」と「俗流経済学」をマルクスがどう扱っていたかがわかる箇所の1つです。

蓄積において、可変資本と、生産手段に投下される不変資本とは歩調を同じくして拡大するわけではなく、また、可変資本の素材である労働力の増減は蓄積を制約する重要な条件です。そこで、次く24章では、「労働者階級の運命」が課題となり、蓄積に伴う資本主義的人口法則、貧困としての本質の露出、「資本主義的蓄積の一般的法則」が論じられます。
by kamiyam_y | 2016-06-20 23:16 | 資本主義System(資本論)

重商主義 Mercantilismの経済学Political Economy

現代社会の存立原理は、資本主義という生きた運動体です。労働する諸個人の労働は現在、資本主義というありかたをとっています。資本主義が労働の原理としてなりたつためには、労働がある特定の状態になければなりません。それが、労働する諸個人が生産手段・生活手段・生産物・貨幣を失うことです。生産手段などは人間が向きあうその外のもの、つまり対象です。それらは労働する諸個人が生きていくために絶対不可欠なものですから、それらは労働する諸個人にとって自己の対象的諸条件にほかなりません。労働する諸個人が自己の対象的諸条件から排除されること、疎外されること、これが資本主義の大前提です。

資本主義が歴史のなかで生まれた過程は、資本の本源的(原始的)蓄積といいます。それゆえ、この軸をなすのが、対象的諸条件を労働する諸個人が失うことです。15世紀末からの土地囲いこみ(エンクロージャー)のような、農民からの土地収奪ですね。これによって、労働する個人に対して、かれらの世界が独立する(青年マルクス風にいえば疎外された労働に対立する「私的所有」)のです。

こうして、労働する個人は、労働力を商品として売る以外に生きるすべのない賃金労働者になります。

労働する個人が失う対象的なものには、社会という、目ではみえませんが存在するものも重要です。労働する諸個人は、かれらを包んでいた共同体という社会的対象もなくしてしまいます。

労働力を売る労働者は、その対価で生活必需品(生活手段)を取りもどし、それを消費して労働力を再生産し、労働市場に引き戻される存在です。

古い共同体が壊れたことで、万人が商品の交換で生きるばらばらの、孤立した点となります。しかし、これによって、人類が社会的分業を強力におしすすめる体制に入ることを忘れてはいけません。

労働者は、こうして、商品を交換する法的な自由をもつ存在でもあります。労働者の個々の契約は法的に自由なものです。自由な契約を介して、資本は労働力を自分のなかに集中することができます。というわけで、労働力の商品化は、このような法的自由と生産手段からの「自由」という「二重の意味で自由な労働者」の存在を想定します。

資本主義の前の社会は、典型的には封建制ですね。資本主義の誕生は封建社会の解体ですが、この過程で、封建的に分散した権力構造を破壊して、巨大な共同体にまとめあげること、国家としての統一があらわれます。

この統一的国家、絶対王制とは、封建的支配階級とブルジョアジーとに足をのせた過渡的な体制というのは、世界史の教科書的説明のとおりです。その政策は、プロレタリアの創出、統一的な市場圏の形成を背景とした貨幣制度の整備、中央銀行と租税を通じた資本家への富の移転、植民などです。

最初の経済学は、この絶対王制の時期に生まれた「重商主義」の経済学でした。3人ほどみてみましょう。

まず、トマス・マン(Thomas Mun, 1571-1641)。邦訳の解説によれば、1615年に東インド会社の取締役=理事に選ばれた人です。
『外国貿易によるイングランドの財宝(初期イギリス経済学古典選集1) 』渡辺源次郎訳、東京大学出版会、1965年。
http://www.utp.or.jp/bd/978-4-13-044051-6.html
A Discourse of Trade: From England Unto the East-Indies, 1621 - Thomas Mun - Google ブックス

第4章で彼は「商品貿易において貨幣を輸出するのは、わが国の財宝を増加する一手段である」という主張を行っています。

かれらは、貨幣が少しでも国外へ持ち出されるのをみると、手ひどく批判し、あげくにつぎのように断言する。すなわち、われわれはそれだけの貨幣を失ってしまったとか、……スペインさえもが……その輸出を禁止している、とかいうようなことである。(上記訳書、31頁)


マンが貿易の利点として強調しているのは、金銀貨幣を船積みして航海に出るところだけみると、イングランドの財宝を減らしているようにみえるが、遠隔地から買ってきて、それを売り時に近隣諸国に売れば、トータルで金銀貨幣が増える、ということです。マルクスはこれに関連してつぎのように書いています。

……トマス・マンは、『イギリスの対東インド貿易論』で、「重商主義」の基礎づけをおこなったさい、一国がもつことのできる唯一の真の富は貴金属であると認めながらも、同時に、国際収支が輸出国民にとって順調である場合には貴金属の輸出を許してもさしつかえないと、強調せざるをえなかった。この意味で彼は、東インドからの輸入品はおもに他国に再輸出されるものであって、そこからインドで支払に要したよりもはるかに大量の金銀地金が獲得されると強調したのである。……(マルクス「東インド会社-その歴史と成果」大月書店『全集9』146頁)


資本主義が世界史に登場する大きな前提の1つが、貿易による世界貨幣の獲得、貨幣の貯めこみでした。

つぎは、ウィリアム・ペティ(William Petty,1623-1687)
The Economic Writings of Sir William Petty, 2 vols. - Online Library of Liberty

『政治算術Political Arithmetick』の訳書で松川七郎がこう述べているのは注目に値します。

市民社会における富の真実の状態ないしはその実体の認識……という究極の目的に焦点をあわせるならば……政治的解剖は、そのための市民社会の解剖学として、その基本構造の分析を志向する方法であり、また政治算術は、市民社会の諸現象の数量的観察(計算)・比較にもとづくすぐれて実証的な経験的・帰納法的方法である、といえるであろう。そしてこのばあい、「政治的尾(poiltical)」とは、「社会的(social)」というのと同義と考えてさしつかえないであろう。(松川七郎「解題」『政治算術』大内兵衛・松川七郎訳、岩波書店、1955年、163-164頁。引用に際して、旧字体を変更した)


大谷禎之介『図解 社会経済学』(桜井書店)のⅢ頁に、なぜpolticalが社会なのか、説明されていますが、それを補強しているといえましょう。

『租税貢納論』はペティそのものとは関係ないですけど、大内兵衛の「序」が面白い。戦火で大原社研から逃げ出して、戻ってみたら土蔵のなかで訳稿が無事であったが、もちろん出版どころではなかったという話。

ペティは労働価値論の提起者として知られますが、関心のある方は上記岩波文庫で。

3人目は、ジョン・ロック(John Locke, 1632- 1704)。いわずとしれた社会契約説の古典『統治二論』。
統治二論
Locke: Two Treatises of Government | Texts Political Thought | Cambridge University Press

「前篇」はロバート・フィルマーの王権神授説に対する批判。資本主義が自分をあるべき姿としてみせるなら、それは商品生産です。王権神授説が古い共同体的世界のイデオロギー(社会的意識)であるのにたいして、社会契約説は、商品生産の理想化であり、古い共同体の解体から出てくる理論です。個人が社会をつくる主体として認められたという人類史の偉大な一歩。交換する個人という限界のなかでの解放とはいえ、個人が共同体の付属物である状態が商品交換によって破壊されてはじめて法的にではあれ、個人は自由になります。

「後篇」の第5章が「所有権について」です。「共有状態」にたいする「労働」の「投下」が「所有権」を成立させる「自然法」を論じています。

……自然が供給し、自然が残しておいたものから彼が取りだすものは何であれ、彼はそれに自分の労働を混合し、それに彼自身のものである何ものかを加えたのであって、そのことにより、それを彼自身の所有物とするのである。(『完訳統治二論』加藤節訳、岩波書店、2010年、326頁。傍点は省略)


スミスを思わせるところがありますね。市民的個人が理想の時代。

資本主義は資本それ自体の本性を肯定するようなイデオロギーをもちません。資本主義の基本的な上部構造は、交換に由来する自由で自立した個人の社会的意識であり、ここにおいては、搾取による蓄積という資本主義の本体は、合意されるものではないからです。資本主義が自己の理想を述べる自己認識は、社会契約論にまでこの意識を高めたジョン・ロックにおいては、個人的労働による個人の所有として成立しています。絶対王制を批判する社会契約論者ロックと経済学者ロックは一体です。
by kamiyam_y | 2016-05-21 00:40 | 資本主義System(資本論)

大工業 Große Industrie/Grande industrie

資本主義は、剰余と蓄積に駆り立てられた無政府的生産の乱舞によって、社会的に制御された生産という未来の要因の醸成を時々その本体として証明する。

というよりも、絶えずそれを露わにしながら、私たちの社会的意識に自己の限界を刻印していく。

マニュファクチュアは、単純な協業から発生した(Das Kapital,Bd.1,12.Kapitel: Teilung der Arbeit und Manufaktur.)。異種手工業の結合と同種手工業の分割という2つの道は、その始まりにおいては、単純な協業の枠内にあるが、やがて、労働者が1つの機能だけに発達した作業場内分業を形成した。

マニュファクチュアの発展はその没落の条件を成熟させ、大工業が、道具の道具機への転化を起点とする機械の自動体系の形成にもとづいて生れる。資本主義は、マニュファクチュアを自己にふさわしくないものとして粉砕し、自らの地盤として、科学の適用である巨大な工業を成立させた。私利追求と、生産手段および労働力の社会化との反発と結合の回転が、資本の生命活動を不断に肥大化する源として、自律する。無政府的生産は極限にまで達し、人間・自然・社会の収奪によって、孤立しあう諸要素を社会的生産過程に結実させていく(13.Kapitel: Maschinerie und große Industrie.)

Die kapitalistische Produktion entwickelt daher nur die Technik und Kombination des gesellschaftlichen Produktionsprozesses, indem sie zugleich die Springquellen alles Reichtums untergräbt: die Erde und den Arbeiter.
(MEW Bd.23a,S.529-530.:MEGA Ⅱ/10,S455-456.)

それゆえ、資本主義的生産は、ただ、同時にいっさいの富の源泉を、土地をも労働者をも破壊することによってのみ、社会的生産過程の技術と結合とを発展させるのである。(岡崎次郎訳)


社会的労働者を形成し労働する諸個人を破壊する敵対的過程を通して、社会的生産過程の形成という自己を否定する自己の本体を資本は現実化していく。

こうして、社会的生産の否定による社会的生産を繰り広げる資本の自己矛盾的展開の確立が、大工業の確立である。「相対的剰余価値の生産」論の叙述は、単に剰余価値を増大する方法を挙げるにとどまるようなものではない。

商品が奏でる悲喜劇の調べの、商品の表に立つ登場人物が歌う世界の根底にあった、社会的生産の否定による社会的生産は、いまや、姿を現し、賃労働する諸個人を社会的な、自己を陶冶する主体として表舞台に飛び立たせるのである。
by kamiyam_y | 2016-01-18 00:19 | 資本主義System(資本論)

国境を越える人権と未来のアソシエーション社会-人権の国際化と自由な諸個人のアソシエーション

2月11日、ヒューマンライツ・ナウ、SACOM(Students and Scholars Against Corporate Misbehaviour)、 LAC(Labour Action China)という3つのNPOが、ユニクロとその中国下請工場に労働条件・労働環境の改善を求める共同声明を発表しました。
【共同声明】 短期的改善策を超える抜本的解決をファーストリテイリング社とその製造請負工場に求める |ヒューマンライツ・ナウ

企業が労働環境を改善するための行動計画の制定・実行・検証に対して「市民社会」が「知る権利」をもつという点が重要です。資本主義企業の私的排他的行動は、市民をそこに結合し、市民の社会的共同的空間を内包していくがゆえに、私的消費過程を社会的生産過程として実現するがゆえに、民主的共同管理の運動に対して企業の私的内部を公開する結果を導きます。私的所有的正当化と無媒介に企業は日々公共化しているのです。公共的というのはウソでほんとは私的だろ、という幼稚な批判ではなく、企業自身がつくる企業の実体によって企業が自己批判する運動を自覚化するのが理論です。

市民という普遍的性格において工場内の労働者は社会的に連帯しています。人権によって企業を制御することが、人間の尊厳が尊重される人間らしい社会づくりの基本にほかなりません。

民主的な労働組合の設立を勧告している点も見逃せません。働く人々の農奴的根性を払底し個人を主体化するためにも、組合において諸個人が自覚的にアソーシエイトすることが重要であり、民主的な新しい協同は自然発生的共同体や企業の再封建化された位階秩序に埋もれることからは生まれてはきません。市民のアソシエーションが社会的生産過程を包摂していく過程に、結社の自由の実現も含まれています。

この3NPOは先月、広東省のユニクロ下請工場の労働実態を調査し、報告書を公表していました。
ユニクロ:「残業月134時間」NGOが中国での問題指摘 - 毎日新聞

次の頁からpdfファイルを入手できます。
【声明・報告書・記者会見@15日・16日】ユニクロ中国国内製造請負工場における過酷な労働環境 NGOが潜入を含む調査報告書を公表|ヒューマンライツ・ナウ

NPOによる記者会見。
【イベント・記者会見】1/15・16・17開催!ユニクロ:中国製造請負工場における労働環境問題~調査団体の来日・記者会見・イベントのご案内�|�ヒューマンライツ・ナウ
ユニクロ"残酷工場"で何が起きているのか | トレンド | 東洋経済オンライン | 新世代リーダーのためのビジネスサイト

関連記事の一覧が同サイトにあります。
【メディア】ユニクロ記事掲載|ヒューマンライツ・ナウ

報告書は、ユニクロの生産物の生産過程を担うPacific Textile Ltd.およびDonguang Luenthai Garment Co. Ltd.を調査し、できるかぎり少ない資本とできうるかぎり最大の生きた労働を交換しようとする資本の衝動がひきおこす惨状が両工場においてどのように過酷に現れているのか、描き出しています。労働力の低い買取(低賃金)、労働力の長時間の酷使、そして、多数の罰則制度など人格否定的な私的専制の支配や、排水のフロア漏洩、高温、埃にみられるような、労働者の身体的健康・精神的健康・命・安全に配慮しない工場内の環境が具体的に伝えられています。

ここで確認しておきたいのは、資本がグローバルに搾取すれば、それに対する対抗もグローバルになることです。労働者の国際主義なんてありえないと悲観主義に酔った眼差しでは決してみえてこない現実です。資本を単に外部としてしかとらえない疎外された意識でしかない一国主義的共同体主義からは理論化できない現実です。私たちの自覚的社会関係に先行して無意識的に資本の諸連関として形成される労働過程の国際的諸連関があるがゆえに、私たちはそれを自己の対象として制御しようとするのです。

この工場がまったく孤立して運営されているのなら、そこで何が起きても私たちには関係ありません。ユニクロのサプライ・チェーンに束ねられているからこそ、労働者としても消費者としても学生としても研究者としても中国の工場に関心を寄せる。広東省の南沙区と東莞市にあるこの工場は、諸個人の労働が対象化する普遍性の分肢体をなし、私たちの共同の環境に位置しています。

市民的人権として抽象的だが産出された人間の普遍的な個人性は、労働する諸個人の人権の展開として生産的内容を再獲得して内容的に発展させられねばならず、この発展を着実に遂行すること以外に、未来の協同体が生みだされることなど断じてありえません。

やや硬い表現で恐縮ですが、端折って説明するとこうです。資本主義的生産諸関係の成立は、貨幣がまとめあげていく圏域を政治的権力としての共同体から分離させ、政治的国家から、人格的諸関係から経済を自立化させ、政治的権力から宗教的装飾を洗い流して宗教的権力を世俗的なもの、世俗的利己主義の形態に転換し、国家を宗教から解放し、経済を国家から解放し、人間を利己的排他的諸関係に解体され貨幣化された利己的物象的存在と、抽象的な人類、抽象的な人格的存在、抽象的共同体の幻想的な成員(自由平等な公民)とに分裂させます。神的権力であった共同体の権力を公民の幻想的共同体に、近代的政治権力に転換するこの第一の変革、市民/ブルジョアによる民主主義革命は、即座に、資本主義の確立によって、政治権力の本体に、自己に関係する貨幣、運動する貨幣を見いだし、この運動を制御しようとする変革に転換します。

資本主義の成立は、人間の個別性と普遍性の神的なものとしての調和の試みを、人間の分裂を前提する市民社会のなかでの恣意、利己的行為、選択の対象に縮小する一方、政治権力を人間が意図して契約したもの、人間個人が(抽象的に)主体として現れる領域になりたつものに転換し、公的世界を無差別的に普遍的な自由平等な人間を主体とする領域としてつくりだします。国家の正当化は社会契約論という人間の自己認識においてなされ、市民社会のあらゆる組織も自立的個人の合意の産物、アソシエーションとして正当化されるようになります。この第一の変革に対して、国家は絶えず個別性を押しつぶす普遍性として現れようとし、社会契約論的正当化が、絶えず現れてくるこの全体の論理に対して諸個人が闘う唯一の拠点として鍛えられていきます(註1)

第一の変革に対して、第二の変革は企業が労働する市民に対して正当化されざる全体として現れることによって必然化します。これを論じるのが、『資本論』第1部第7編第22章「取得法則の転回」論(=「所有法則と取得法則の分離」論)および第3部第5編第23章・第27章の「所有と機能の分離」論です。この議論は、搾取の露出を直接には主題化しているわけですが、最初期のマルクスの「政治的国家と市民社会の分離」論からの徹底として読まないと、おそらく、このようには理解できないでしょう。

諸個人から自立した全体の力がその真相を明かすのは、企業に形態化した運動する貨幣においてです。資本は、国家を抽象的に個人の集合体に還元しつつ、真の社会統合力は我にありとして振る舞いますが、その現象、現れ出ることが、諸個人にとっての対象としての現出を意味します。諸個人は、自己の社会的労働の力を資本という他者に見いだす。自己の共同の環境を他人の所有の向こう側の私企業の連関に見いだす。

他人の所有の力において、労働する諸個人の普遍性の対立的自立化が媒介され、諸個人に対して、彼ら自身の自己の社会的労働が対立します。

科学を体現する自動機械体系が連動しあう社会的労働のシステムを資本が収奪することにおいて、労働する諸個人の、自由な人格一般の、市民一般の社会的空間が実在化しながら、この社会的空間が他者の私的な領域でもあるという矛盾が生きています。私的労働、私的所有という前提の内部でこの前提を資本は止揚しています。この資本の自己解体的運動は、私的領域とされた資本の内部に見いだされた現実的な公民の世界に対して、この協同性にふさわしい民主的な社会的ルールの網をかぶせていく運動として実現します。

政治権力の制御にとどまることなく、企業の権力を諸個人が社会的共同的に制御することが現実の課題となるのです。労働する諸個人が自己の普遍性を自己の普遍性として自己の対象とすることが、私的諸前提の対立性のなかで出現しています。労働する諸個人の自己疎外は労働する諸個人が産出した対象をみずから獲得する運動に転回します。人権を発展させる主体としての諸個人(註2)が、資本という物象的な自立化の運動に対して、共同的な制御を試みるのは必然的です。

人権が抽象的な交換の自由から、社会的労働における諸個人の人権として具体化することなしには、また、社会的労働が自由な搾取から搾取に制限をかける社会的労働へと陶冶されることなしには、この過程を通過することなしには、人間の自由な個別性と自由な普遍性とを媒介するアソシエーションが成立することはけっしてないでしょう。第一の変革である市民革命による自由な民主的諸個人の形式の成立と資本主義における彼ら諸個人による民主的管理を徹底する以外に未来が実在するわけではありません。「資本主義的発展のもっとも民主主義的な『形態』のための闘争のほかに、どこか純粋な『社会革命』のための闘争があるわけではない」(山口正之『社会経済学 なにを再生するか』青木書店、1994年、267頁)のです。

註1 「国家からの」身体的・精神的自由として表象されるブルジョア的市民的権利・基本的人権もまた内容的に労働する諸個人を中心的担い手として擁護されねばなりません。このことは、労働者の民主的連帯から逃亡した落伍者と、反知性主義・排外主義・差別主義の温床であるこれらの社会的屑を親衛隊にする専制とが表現の自由を圧殺しようとすることに対して、それと闘う国際的な連帯が高まる現在、とりわけ強調されねばならない論点の1つです。表現の自由を抑圧するファッショな動きを許容すれば、民主的で先進的な労働者を弾圧する道が築かれることになります。労働者としての人権の発展は、国際的な工場法の形成はいうまでもなく、第一の革命をも徹底する包括的で総体的なものでなければなりません。
註2 人権・民主主義をブルジョア的と嘲笑したり、それを西洋の普遍主義と侮蔑してすませる左派の一部分は、人権を国家の恩恵に解消する反動派、軍国主義的黴が脳髄に密集する憲法改悪派と変わらない学習能力に欠ける人々にちがいありません。

by kamiyam_y | 2015-02-13 21:50 | 資本主義System(資本論)

『資本論』第1部第7篇の一論点に関して:資本蓄積における原資本の剰余価値への転換について(メモ)

あけましておめでとうございます。

年末年始は忙しかったです。本も読めず、食ってばかりいました。それはbusyとはいわないのかもしれませんが。「食って太った」というとなぜかたいていの人はすごく喜んでくれます。

最近気になった記事など。

学生バイト労組:西日本初結成へ 「ブラック」許さない! - 毎日新聞
日本の大学生は大変です。労働者としての人権の前進のためにも、学ぶ権利を実現していくためにも、頑張ってほしい。

プレカリアートユニオン : セクシュアルマイノリティ労働相談始めました!
労働する空間を、人々が多様性を受容し人権を尊重しあう場に変えていくうえで、LGBTQの人権保障はますます重要性を増していくにちがいありません。社会的包摂の実現において労組がこういう取り組みをするのは、多様な労働する諸個人の自由を社会的に実現するために大切。

アップルのCEOによるカムアウトも現在の社会では大きな意義があります。
[FT]ティム・クック FTが選んだ「今年の人」:日本経済新聞

LGBTQに関してはこの本がなかなかいいです。
ケリー・ヒューゲル『セクシャルマイノリティのためのハンドブック LGBTQってなに?』(上田勢子訳)
LGBTQってなに? - 株式会社 明石書店

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ちょっとメモです。

メモ
 『資本論』第1部第7篇第21章「単純再生産」では、資本家が剰余価値をすべて消費し、同一の規模で生産が反復されるとされた。
 1回の生産では剰余価値の生産をとらえたが、その更新の繰り返しは、交換をその契機に落とし、1回の交換で妥当する法的・意識的諸関連を、外観として示してしまう。
 流れの全体では、労働者が自分自身の産物に雇われること、必須生活手段を資本家階級から得た証文を返還することで取り戻していること、可変資本が労働者の生活ファンドの歴史的形態にすぎないことがあらわれる。
 資本家の自己労働の産物としてあらわれた総資本も、資本家が消費した剰余労働の産物の物質化となる。200ポンドを毎年労働することなく食う資本家が、彼のもつ1000ポンドを資本として投下するなら、彼は5年後にも存在しているであろう。このとき1000ポンドは、彼が食い尽くした剰余価値の堆積である。
 労働する諸個人と彼自身の生産の客体的諸条件からの分離も、外的事実ではなく、システム自身が必然的に産出したものとしてあらわれる。資本の再生産は、労働者が労働力を売らざるをえない強制連関の再生産である。
 『資本論』第1部第7篇第22章「剰余価値の資本への転化」第1節は「取得法則の転回」を課題とする。剰余価値が追加資本に転化し、資本が蓄積する。追加資本も剰余価値取得し、他人の剰余労働の所有がさらなる剰余労働の取得の前提となる。所有は「資本家の側では他人の不払労働またはその生産物を取得する権利」に、「労働者の側では彼自身生産物を取得することの不可能」に旋回する。
 ここでは、限定された課題に即して、剰余価値の追加資本への転化の運動だけが問題である。ゆえに、資本家が消費する剰余価値は問題とされず、剰余価値部分が転化した追加資本を、原資本を投下した資本家が引き続き用いるのか、他の資本家に渡すのかは、「さしあたりはわれわれの関心事ではない」とされる(MEW.Bd.23,S607-608)。
 これに関して、補足的に少し考えてみよう。もし、蓄積運動を媒介する資本家が1人にとどまるとしたらどうであろうか。彼は、原資本が生みだす剰余価値を消費して、その消費額の物質化に原資本は置き換わる。彼が追加資本が生みだす剰余価値をも食べるとすれば、原資本の剰余価値への置き換わりは早く進行しないだろうか。あるいは、1人にとどまるならば、剰余価値の消費ファンドと追加資本への分割において、消費ファンド部分よりも追加資本部分の比重が高まるのではないだろうか。
by kamiyam_y | 2015-01-07 23:39 | 資本主義System(資本論) | Trackback | Comments(0)

産業革命 Industrial Revolution

ちぇっ、まだ咳が取れないな。

産業革命関連の動画を次々とユー・チューブを見ていたら何時間もたってしまった。もったいないので、成果のごく一部分ですが、出しておきます。

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資本主義が自分の足で歩み始めるためには、労働過程の変革が必要です。それが大工業の生誕です。大工業の場面をなすのは、協業すなわち社会的労働です。誰もが同じ作業をする単純な協業は、初期資本主義の大農場や、マニュファクチュアの成立において現れただけとはいえ、協業こそが大工業の境位であり、大工業として完成する労働過程の変革でした。

協業の決定的な点は、社会的計画性にあります。個々の労働力は自覚的に協業という社会的労働力の器官であり、個人の労働は全体の計画の実行のなかで調整されます。とはいえ、労働者自身の協業としてではなく、資本のもとでは、この生産する身体が資本の身体です。孤立しあう労働力を結合するのは資本なのですから。

労働はここでは人間の社会的・類的な能力の発現であって、個人の機械的合計とは異なる社会的な力を形成します。ゆえに、生産手段もまた社会的性格を帯び、生産過程が社会的なものとして実現します。これは私的所有に無媒介にです。

作業を分割して統合する協業、つまりマニュファクチュアに見られる工場内分業は、生産手段と時間の節約、労働の平均化を押し進め、いっそう高度の生産手段と労働時間の計画的配分、生産の計画性をもたらします。

熟練と技能の高度化の反面、1つのことしかできない労働者の存在が資本の流動的本質と対立します。労働者はマニュファクチュアの外では機能しない一面的存在になるとはいえ、まだ労働者から自立した客観的機構がないため、労働者の反抗する力も残っています。道具が専門化する点で労働手段にも変化が現れ、機械が成立し、マニュファクチュアのなかから機械を製造するマニュファクチュアが出現します。

道具の道具機への転化がマニュファクチュア解体の序曲です。産業革命の始まりです。この革命の炎が最初に燃えあがったのは、綿糸・綿布の生産領域でした。

紡ぐ道具は何でしょう。紡錘(ぼうすい)/錘(つむ)/スピンドルspindleといいます。これがわかりやすい。
紡錘車で綿の糸作り - YouTube

ちなみにこの動画を投稿している方が所属していると思われる「人間の歴史の授業を創る会」とは、遠山啓らと『ひと』を刊行した白井春男が代表になっている会。『ひと』は水道方式や仮設実験授業を紹介し、1つの民間教育運動をつくった雑誌です。遠山啓が書いてたころは読んでました。
『ひと』バックナンバーリスト(PDF版)|太郎次郎社エディタス

織るさいの要をなすのは、綜絖(そうこう)heddleと杼(ひ)shuttleです。綜絖は経糸(たていと)を一本おきに持ち上げ、押し下げ、杼は上下に開いた経糸の間に緯糸(よこいと)を通します。この子供用の織機の解説を見て下さい。とくに実際に織る後半以降。
はじめてのおりきイネス1【織り始め】楽しく手織りを始めましょう - YouTube

さて、糸を紡ぎ巻き取る紡錘が、手で扱う手の直接の延長から、機構の部分に転化したものが紡績機です。手の紡錘から機構の紡錘に発展することで、道具が人間の身体の制限から解放され、機構の道具として自由に設計されるようになります。

ミュール紡績機は、レール上の走錘車が移動し、スピンドルの列が糸に縒りをかけながら遠ざかり(外走)、反転して元の位置に戻りつつ巻き取りを行います(内走)。動いている様子を見たければ、Spinning Muleで検索するとよいでしょう。

ロバート・オーエンRobert Owen(1771- 1858)で有名なニュー・ラナークNew Lanarkは世界遺産として当時の様子が復元されており、そこにある工場でミュールの運転が実演されているようです。
http://www.lib.hit-u.ac.jp/service/tenji/owen/pamph2.pdf
New Lanark World Heritage Site

ワットWattの蒸気機関Steam Engineやベッセマー転炉Bessemer Converterなども検索してみると面白いはず。

マニュファクチュアの限界が労働者の抵抗にあったとすれば、機械の採用は、道具を労働者の身体から独立した労働手段体系の器官に変えることでこの限界を突破します。労働手段が労働手段に制御され体系化します。発達した機械は、異なる役割をもつ3部分から構成されます。①労働対象に変化を与える道具機(作業機)、②動力をもたらす原動機、③運動を変換し、調節し、伝える伝導機構です。

機械は自動制御機構を具備して自動体系工場となり、変革は交通革命(鉄道網/航路)、情報革命(ロイターさんの海底通信ケーブル!)へと拡がっていきます。まさに資本主義は大工業によって1つの世界史へと人類を統合する原動力になるのです。

大工業は協業を完成し、資本の力として社会的労働の組織を実現します。社会的労働の展開は公共性の深化であり、公共的なものに関与する民主主義の発展をもたらします。公共的なものの対立的現象は、人権の抽象態を否定し、人間を陶冶します。人間開発の通過点としての資本主義の意義はまさに大工業によって与えられるといっても過言ではありません。

人権の具体化として着目すべきは、工場法です。これもまた大工業の重要な産物です。わが亡き後に洪水は来たれという個別資本の剰余労働への渇望は、労働力供給という共同利害によって制約されており、労働者が労働日を正常な時間に押しとどめる権利も国家を介することなくしては実現しません。工場法に現れた社会による制御は、私的領域内に生産過程が公共的実態として出現する矛盾の解決形態であり、資本主義が展開する条件に転じていきます。同時にまた私的生産がますます社会的理性による制御を求めるという矛盾の提示でもあります。

さらにもう1つ。学校教育です。これも大工業の産物です。資本は職人を失業させ子供を工場に吸収しますが、それは露骨な搾取なので学校教育を対置せざるをえません。子供を搾取から救済すること、子供の学ぶ権利、労働力の育成は私的諸資本の外部の公的機関を介した社会的制御によって実現します。

子供が危険な作業場で搾取されるのは、20世紀の合衆国にもありました。全米児童労働委員会のためにルイス・ハイン(Wikipedia)が撮影した写真が、当時の子供たちの様子をリアルに伝えています。
Amazon.co.jp: ちいさな労働者―写真家ルイス・ハインの目がとらえた子どもたち: ラッセル・フリードマン, Russell Freedman, ルイス・ハイン, 千葉 茂樹: 本
邦訳書は大半の写真ページをページにあわせ、裁ち切りにして見やすく、かつ迫力のある表示にしています。それはそれとして成功していると思います。トリミングされていないもとの写真も興味深いので、写真と英語に関心のある方は、原書もおすすめです。
Amazon.co.jp: Kids at Work: Lewis Hine and the Crusade Against Child Labor: Russell Freedman, Lewis Wickes Hine: 洋書
by kamiyam_y | 2014-11-29 21:59 | 資本主義System(資本論)

Right to live in Peace

イスラエル/被占領パレスチナ地域/パレスチナ自治政府:ガザでの持続的停戦の鍵は3つの基本的人権 : アムネスティ日本 AMNESTY

つねに人権に立ち戻ることが社会づくりには欠かせません。人権は社会システムの産出過程の途上の最後である現システムにおける公認の原理であり、非公認の公認の原理である(資本のもとでの)社会的生産過程との対立において社会づくりの最大の武器として機能します。人権と民主主義の社会的現実(生産過程)への貫徹以外の選択肢を示すことは誰にもできないはず。

労働問題は諸個人の人権の深化であるし、平和の獲得もまた人権を原理にすることが重要であると思います。

土地所有を変革し賃労働を包摂する資本の成立(本源的蓄積)は、労働する諸個人が「二重の意味で自由な労働者」という規定を受け取ることでした。二重の意味で自由とは、1つは法的な自由人、自由な人格としての自由、もう1つは生産諸手段からの自由、すなわち自己の対象的世界の完成した喪失でした。自己の対象もそれにかかわる自己も、かかわることもすべて非自己。「疎外された労働論」をマルクスは物象化論に進化したので捨てたとか、物象化が疎外された労働よりも根本であって物象化によって疎外された労働が起きるとか、自分の頭のよさを示すそうとするためのくだらない解釈です。法的に自由な人格は、資本主義的社会の個別的な主体の形態であり、これに疎遠に社会的生産という彼らの普遍性が形成されていきます。自由な諸個人と、資本の生産力としての社会的労働の生産力との疎外された統一が資本主義的社会ですから、諸個人の社会的行為能力と実態としての社会的生産力の行為とが矛盾することが、「ブルジョア社会の自己批判」として現代を特徴づけています。

人格的自由を単なる物象の仮面にすぎないと単純化しないことが大切。現代において労働者を軸とする発展した人権主体がブルジョア社会を乗り越えて社会的な生産を包摂することが変革。

商品が商品所持者に対してじつは能動的であることは、資本において資本家という生きた人格に対しても資本が自立的に現われるというように発展します(現代株式会社現象)

マルクスが「ブルジョア民主主義」という言葉を用いているのは、『要綱』での次の1カ所(MEGA,Ⅱ/1.1, S.164-165)

単純につかまれた貨幣諸関係のなかでは、ブルジョア社会の内在的対立がすべて消し去られたようにみえ、またこの面からして、ブルジョア経済学者によって現存の経済的諸関係を弁護するための逃げ場とされる以上に(かれらはこのばあい少なくとも首尾一貫していて、交換価値と交換という、貨幣関係以上に単純な関係にさかのぼる)、ブルジョア民主主義によって、この貨幣関係がふたたび逃げ場に使われる。(資本論草稿集翻訳委員会訳『マルクス 資本論草稿集』①、大月書店)


単純流通は、等価交換として「平等」という法的規定を生み、異なる使用価値を得る「自由」の観念も、私的利害の追求という人間を手段とする転倒的な目的意識とともに、もたらします。資本主義的社会が諸個人に現存の生産の対立性を忘れさせるのは、そこでは、社会的な流れと拡がりから切り離されたものとして交換の諸観念が現れるからです。これをブルジョア的限界とみるのであって、民主主義一般をあざ笑うことは「ブルジョア民主主義」の裏返しにすぎず、社会変革の原動力には断じてなりえません。「人権」を人権派とか戦後民主主義などと揶揄する左派の一部は、まさにブルジョア的限界にとどまるのであって保守派と同質です。人権と民主主義の徹底という路線を認めない左派なるものは、ポル・ポトからソ連までの20世紀の自称社会主義の人権抑圧的専制諸国家を批判する資格はまったくなしと考えます。
by kamiyam_y | 2014-09-04 04:42 | 資本主義System(資本論)

商品・貨幣(価値形態) Commodities and Money: The Form of Value or Exchange-Value

(司会)それでは今日の発表をどうぞ。
(発表者)今日の箇所は「商品」です。『資本論』第1部第1章(大月書店他)の内容をヨハン・モストのダイジェスト版(ヨハン・モスト原著/カール・マルクス加筆訂正/大谷禎之介訳『マルクス自身の手による資本論入門』大月書店、2009年)で補ってまとめてみました。
---(以下発表)-----

現代社会総体は資本主義であって、資本主義とは資本、つまり、姿態転換しつつ価値増殖する貨幣が社会的労働を実現してなりたつ生きた有機的な総体です。貨幣は商品の社会的性格の自立化であり、商品をつかむことが学習の基礎になります。諸個人の孤立と相互排除は、その社会的性格を諸個人から分離してつくりだし、それが神や国家だったわけですが、それは貨幣という社会的労働の疎外に帰ることによって完成します(1)。「市民社会の神」の存在を解き明かす商品という出発点は難しいかもしれませんが、極めて重要なものです。

資本は大量の商品を原材料や機械として吸いこみ、大量の商品生産物を吐きだしては貨幣に戻し生きています。貨幣の生きた運動である個別諸資本同士はまた商品流通によって絡みあい、それだけではなく、社会的総資本が利子生み資本や土地所有といった関係を自己の形態に捉えて、資本の環境をもつくりだし1つのシステムを生みだしています。私たちの労働力もまた、自分たちの生産物を商品として買い戻し消費することによって再生産され、商品として日々販売されます。諸個人は自己の生産手段から疎外され、自己の対象的世界全体が諸個人に対立する他人の富となっています。労働する諸個人が客体的諸条件から分離し、あらゆる労働生産物が商品形態をとることが、資本の運動をもたらす基本的な前提であり、資本の運動そのものがもたらして恒久化する条件なのでした。

資本主義における富の形態である「膨大な商品の集り」を構成するのは、1つ1つの商品にほかなりません。

商品はまず何よりも外的な対象として存在します。この物は、その幾何学的・物理的・化学的など自然的諸属性によって、諸個人の特定の欲求を充足します。この有用性が生産物を使用価値にします。鉄、小麦、綿布といった商品を構成する肉体が有用なのですから、商品のそのままの姿が使用価値なのです。使用価値という価値をもつというようにイメージしないで下さい。商品とはまず第1に使用価値なのです。

特定の種類の使用価値の生産には特定の種類の具体的に行われる労働が必要です。例えば、刃物の生産に鍛冶が必要なように。目的、対象、手段、作業の形態、生産物に規定される特定の合目的的な活動が、自然素材を加工・組織し特定の使用価値に転成させます。労働の具体的に規定された有用な形態、これが商品の特定の使用価値に反映しています。

孤島の「ロビンソン」を思い浮かべてみましょう。自給自足する個人、ロビンソンによる生産総体において、ロビンソンの同じ労働力が、代る代る、漁猟、建築など異なる労働の種類に、異なる有用な形態に、支出され、魚介や倉庫といった生産物に結果します。

これに対して、資本主義では、異なる有用な労働は社会的分業を成立させ、労働諸種の有用性は諸商品の異なる諸使用価値に反映しています。多様な使用価値がじつは多様な有用な労働を示しています。社会的労働が直接には私的に排除しあう諸分枝に分解しているため、社会的分業を実現する媒体はここでは商品の交換(諸個人に疎遠な経済法則)です。ロビンソンの生産がロビンソンの目的意識に統御されているのとは異なり、商品生産は全体として無政府的です。

耕作という種類の有用な労働が、麦という有用物をもたらすということ自体は、社会的形態からはフリーです。麦は、古代の王が消費しようが、現代の労働者が消費しようが、麦であることに変りありません。

そこで商品のもう1つの要因です。生産物を商品にしているのは、使用価値であるだけではなく、交換価値であることです。

布1巻=刃物2丁

布という使用価値と、刃物という使用価値との交換比率ですが、商品はここで交換価値であり、使用価値が交換価値の素材的担い手になっています。

布と刃物という使用価値は全く異なる欲求を充たす異質なものであって、比較不可能です。布への欲求に対して刃物は代用になりません。比較が成立するのは、比較において現れる共通なもの、同質でなものがあるからです。布と刃物に対する第3のもの、共通性、これが価値です。布と刃物に共通する無差別な同一性、量的なちがいとして現れる質的同一性、これが商品の価値です。商品とは相対立する使用価値と価値という2要因の統一としてつかまねばなりません。

諸商品から使用価値を捨象すれば商品に残るのは、労働生産物だということそれ自体ですが、この残ったものとは使用価値を捨象した無差別な単なる労働の凝固物です。ですから、この凝固物になる労働も、有用な形態を捨象された人間的労働です。価値とは対象化した人間的労働です。布を織る、刃物をつくるという具体的な有用労働が労働の種類であり「どのような」労働かを示すのに対して、価値に反映する抽象的労働は、織布や鍛冶といった支出の形態に関わらない支出そのもの、「どのくらい」の労働か、量から見た労働です。

価値において示されているのは、織布と、鍛冶は質的に異なるけれども、それぞれそこに同一の人間的労働の一部分が提供されているということです。布生産・織布と刃物生産・鍛冶における労働需要に対して、社会的労働力の一部分が提供されねばなりません。どの生産も、筋肉や神経の生理学的意味での生産的支出、人間の労働力の支出なしでは遂行できません。商品の価値は、社会的労働の投下・供給という必要を反映しています。

このばあい、価値の量を規定するのは、社会的な平均的な労働の量です。社会の労働力が、社会に必要な生産活動に供給され、支出されているのです。個人の労働力は、あくまでも社会の労働力の分枝として、同一の人間労働力として作用します。商品の価値量を規定するのは、その商品の生産に要費される社会的労働の量です。社会的に必要な労働時間なのです。ていねいにいえば、「社会的に正常な生産条件と労働の熟練および強度の社会的平均度をもって、何らかの使用価値を生産するのに、必要な労働時間」が価値の大きさを規定します。

ここまでは、交換価値から価値を発見したわけですが、つぎに、交換の展開での、交換価値に戻りましょう。交換価値は価値の表現の仕方ですから、これを価値形態ともいいます。貨幣という価値形態は知られていますが、困難かつ重要なことは、最も単純な価値形態から神々しい貨幣の姿がどう誕生するかを想い出すことです。貨幣という価値形態にどういたるのか、貨幣の発生という人類にとっての謎の解明です。現代社会の最も抽象的な形態から解明することが課題です。

そもそも商品価値は労働の社会的性格の客体化であって、1つの商品それ自体には価値は現象せず、表現されず、それが現象するのは、商品の社会的関係においてです。1つの商品はどんなに投げても食べても壊しても単なるあるがままの現物形態にすぎませんが、他の異種の商品への関係において価値形態をもち、その価値存在を露出します。

まず、共同体内部で生産を共同的に行い、生産物を共同的に分配するような、自家需要に限られた生産を行っている部族がいるとしましょう(2)。この部族が、他の部族と接触するなかで、毛皮という生産物の余剰を、他の部族の余剰な布と偶然交換するとします。この交換が繰り返されるなかで、毛皮の価値が布によって示されます。

毛皮1枚=布3巻

交換が行われるのははじめは極めてまれにであり、交換比率は一定しませんが、やがて、交換の絶えざる反復が、比率を一定水準に落ち着かせます。毛皮を交換する部族の側から見れば、相手の生産物布はその現物形態で、毛皮の価値を示す等価物になります。

毛皮は、自分の価値をこの関係において示すので、相対的価値形態です。塩は毛皮の等価物、等価形態、直接的交換可能性の形態にあります。毛皮の価値が、布の現物形態によって表現されています。毛皮=布という関係では、毛皮が、布を自分の等価物にし、布のなかに毛皮価値を見いだすわけです。(やや細かくいえば、少し大雑把に付け足しますけど、毛皮は、布に私の等価物だよとしてかかわり、布をつくった有用な労働を毛皮をつくった労働と同じ人間的労働にします、それだけではなく、布はこのかかわりのなかで現物形態で価値の代表ですから、毛皮をつくった労働が人間的労働として価値に結晶する、その価値を布という使用価値・現物形態が示すわけです。布という使用価値の量で毛皮の価値量も示されるのは、まず毛皮が布を等置するという質的関係があってのことですね)。

そして、この部族は、毛皮を交換向けに生産するようになり、布だけでなく、酒や、皿、塩、など多様な生産物と交換するようになります。そうなると、毛皮にとって、毛皮と交換されるすべての物が、毛皮の等価物として機能するようになります。毛皮の価値が毛皮の使用価値からはっきりと独立して形態化していきます。生産物はますます商品性格を高めます。とはいえ、毛皮の価値は際限ない他の商品の系列で示されるだけであり、統一性を欠いています。

しかし、反対の諸商品の側から事態を把握すれば、統一的な等価物が現れます。毛皮以外の商品所持者にとって彼等の財貨の価値が毛皮によって統一的に出現しています。毛皮が一般的等価物になるのです。毛皮は、毛皮以外の全商品の共通の価値表現の材料であり、毛皮以外の全商品と交換可能なものになります。毛皮以外のすべての商品が価値を比較・計量する材料の位置を毛皮が占めます。

この一般的等価物の役割が、交換の圏域の展開において、時間的空間的に様々の商品に付着するのを繰り返しながら、最終的にある商品に独占的に担われることになります。それが貨幣形態の誕生です。

一般的等価物は、一般的ゆえ1つの商品に定着します。価値という質的同一性を表現するにふさわしい素材に癒着します。すなわち金銀です。

こうして、価値形態は偶然的、個別的な形態から、全体的で開展した形態へ、そして一般的形態に発展し、貨幣形態にいたるのです。秘密は個別的な価値形態にあったのです。

単純な価値形態において見られた等価形態の神秘化も完成します。金銀という現物形態が価値を示すこととなり、金銀は眩く光るというその自然属性と同じように、すべての商品と交換可能であるという力を、社会的労働の力を、生まれながらにしてもつかのように見えます。

細かい点は省きましたが、商品による貨幣の発生についてでした。

---(以上発表)-----

(司会)ありがとうございました。(終り)

(1)モスト『入門』加筆箇所でマルクスが価値形態の展開を交換関係の発展においてつかんでいる点については訳者による「まえがき」参照。
(2)神・国家・貨幣としてマルクスは諸個人の疎外されたGemeinwesenを批判的につかみ、資本としての貨幣にその完成を見た。有井行夫『マルクスはいかに考えたか』桜井書店、2010年、参照。

by kamiyam_y | 2014-05-17 23:51 | 資本主義System(資本論)

ある日のとりとめない会話 剰余価値率・蓄積率

労働問題が発生するのは、労働者の社会的な集合力が貨幣の自己増殖によって人々に対立的に発展するからですが、それだけではありません。働く人々が人権主体として立ち現れたこと、主体の側での発展が決定的です。平たくいえば、労働者が目覚めているがゆえに、労働問題が労働問題として認知されるのです。労働者の社会的力が工場内部に協業として実在化すれば、私的所有の内部の物の消費過程にとどまることなく、生産過程内部に人権主体である諸個人が集うことになります。

人権という武器を手にしてはじめて諸個人にとって、社会をつくりだす転倒は正しさに反するものとして、蔓延る人間破壊は不正として明確化されるといってもよい。市民革命によって幕を開けた近代、その近代の徹底線上に現代は展開しています。人権への知識人的虚無主義は正義を嘲笑して真を自称する病理に通底しましょう。

大工業は協業を完成し、そのことによって生産体内部に労働者の共同世界をつくりだし、社会的理性による制御を必然化しました。労働時間の制限、作業場の安全衛生確保等が生産組織である企業にその責務として課される現代的世界が登場します。

この理性的制御は、労働時間内に健康的に働けるような労働環境を得る労働者の人権だけではなく、労働時間を制限して人間的発達のための自由時間を確保する権利を実現していこうとすることであり、人権が生産における人権、労働者の人権として深化することを意味します。

 すべて人は、労働時間の合理的な制限及び定期的な有給休暇を含む休息及び余暇をもつ権利を有する。(世界人権宣言第24条、外務省仮訳)
 すべて人は、自由に社会の文化生活に参加し、芸術を鑑賞し、及び科学の進歩とその恩恵とにあずかる権利を有する。(同第27条 1)


世界人権宣言とILOの宣言をふまえ、OECD多国籍企業行動指針はこう謳っています。

OECD多国籍企業行動指針
A. 企業は次の行動をとるべきである。
 2. 企業の活動によって影響を受ける人々の国際的に認められた人権を尊重する。(外務省仮訳2011年)


直接生産している社会組織が人権配慮義務を負うのです。これはまさに協業にもとづく「工場法」以降の人権発展の流れにあるといえましょう。

日経の記事によれば、フォーチュントップ500社のじつに「97%(484社)が、性的指向による差別禁止規定をもつ」のだそう。
http://www.nikkei.com/article/DGKDASDG1603G_R21C13A2CC1000/

ここでガガフェミに触れてもよいでしょう。反差別の運動家として知られるレディ・ガガですが、ウィキペディアでは日本語版も英語版もLGBTの権利向上に取り組む真摯な姿勢について記述されています。
http://www.jackhalberstam.com/gaga-feminism/
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AC%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%AC%E3%82%AC
http://en.wikipedia.org/wiki/Lady_Gaga

職場の安全衛生を維持する義務もあれば、人権を維持する義務も企業にはあります。

消費者問題も畢竟労働問題に同じ。消費者の権利は生産内部を公開し、生産内部の社会的労働組織の責務を明らかにしていきます。CSR(企業の社会的責任)の本体は、労働する諸個人の社会的自覚にほかならないのです。

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T:労働力の日価値、つまり賃金が10ターラーだとしましょう。むろんここでは価値通りの売買を想定しています。1つの産業資本はあらゆる資本の代表・見本、労働者もあらゆる労働者です。

S1:労働者とその子が社会的平均的に消費する1日あたりの生活手段の価値が10ターラーなんですね。

T:そうです。必須生活手段を労働者が消費することが、労働力という商品の再生産なんでしたね。さて、糸生産の資本家が「賃金奴隷」を1日に100人買って、剰余価値を得るとしましょう。1労働日が10時間。半分が必須労働で、半分が剰余労働としましょう。もちろんこれは労賃という法的関係ではみえないことです。

S2:剰余価値率100%ですね。

S1:賃金奴隷というのは労働者は法的に自由だが、じつは労働力を商品として売り、剰余価値を生みださないと生きていけないという強制をさしているんですね。

T:はい。糸生産の資本家は、100人の労働力を1日に消費するわけです。100人の日労働1000時間を吸収するのに原料の綿何百キロかいるとしましょう。ただの数値例ですからほんとに何でもいいですけど、技術的に正常な割合で適切な量の綿、そうですね5トンの綿が必要で、それは3000ターラーの価値をもつ。資本家は3000ターラーを綿に支出します。

S1:原料は他にもありますが。

T:これも例なので原料は綿だけにしましょう。染料用の虫150キロとか、そのための水とかも無視。3000ターラー毎日綿を買っている。この労働対象の部分ともうひとつ、労働手段ですが、これは紡錘だけにしておきましょう。

S2:固定資本ですね。全部消費するのに何度も生産に用いられ、その都度の生産で価値が一部分ずつ、生産物に移ります。

T:そのとおり。そこで、5トンの綿を糸に加工するさいに紡錘からの移転する価値が1000ターラーだとします。不変資本は1日の生産物糸5トンに(あ、綿のうち屑になる部分は無視)、どれだけ保存されてますか。

S1:糸をつくるこの生産過程以前にあった古い価値が受け継がれているだけですから、不変資本なんですね。

S2:綿の価値3000ターラーと紡錘からの移転価値1000ターラーで、合計4000ターラーです。
T:そうですね。不変資本はconstantのcで示して、これを4000cと表します。1000時間の労働は、綿を糸に合目的的に加工することで古い価値を保存するわけです。

S1:具体的有用的労働の作用でしょうか。

T:はい。同時に労働は刻一刻、新たな労働時間を付け加えていきます。

S2:労働力を資本家が消費するのが、労働させるということで、この生きた労働が労働力そのものの支出として、抽象的人間的労働としては価値を生産物に加えるということですね。

T:ええ。労働力が10ターラーで100人ですから、1000ターラーが賃金として支出されます。1000ターラー貨幣は労働力100本に変り、これが生産過程で消費されますが、この消費が生きた労働ですから、これは労働力の日価値を超えて剰余価値を生みだします。剰余価値を生むことが、労働力商品の消費で実現する使用価値というわけです。

S1:1人5時間の労働が10ターラーを生み、さらに5時間が10ターラーを生みだすのですね。とすると、1日100人を消耗すると、その100人の労働力価値の等価(総賃金)=再生産コストと剰余価値がそれぞれ1000ターラーずつ付加されています。

T:可変資本をvariableのvで剰余価値をMehrwertのmで示しますと、1000vという可変資本の補填=再生産部分と1000mが生産物に付加されています。ですから生産物糸の総生産物価値は4000c+1000v+1000mと表現できますね。

S1:わかりました。

T:少しまとめておきましょう。「生産物価値形成において、労働過程の客体的要因と主体的要因とが演じるそれぞれ異なる役割」に注目してみます。客体的要因は生産手段(労働対象と労働手段)、主体的要因は生きている労働、活動しつつある労働力です。生産手段はその価値を生産物に移転保存しますが、労働は新たに価値を付加するのです。ですから、生産手段に投下・前貸しされる部分を不変資本、労働力の買い入れに用いられる部分を可変資本というのでした。
 もう少し例解をしてみましょう。剰余価値率を計算してみて下さい。

(1)賃金は1人1日5円。
(2)紡績工場での1週間(5日間)の生産。
  A.生産手段。
   流動不変資本
    原材料41トンの綿(加工時に1トンが屑)5000円。
    燃料(石炭・ガス・油)500円。
   固定資本
    建物(500000円・耐用年数500週)。
    550個の紡錘(計5000円・10週間で消耗)。
  B.毎日100人の賃金労働者が雇われる。
  C.1週間(5日間)の生産物は、40トンの糸で、総価値14000円。

さあ、どうなりますか。

S1:まず、生産物価格に含まれる不変資本価値ですね。

S2:原材料5000円と燃料500円で5500円。

T:それと。

S1:固定資本ですが、建物500000円を耐用年数500週で割ると1000円、550個の紡錘5000円を10週で割ると500円、計1500円が移転します。

S2:つまり5500円と1500円で7000cですね。

T:補填・回収されるべき1週間の可変資本の大きさは?

S1:5円×100人×5日ですから、2500円。2500vです。

S2:そうすると、総価値14000円から、7000cと2500vとを引くと4500円。

T:4500mですね。

S1:4500m÷2500vは1.8。剰余価値率m'は180%です。

T:剰余価値率が搾取率であるのはわかりやすいけれども、なぜ「真の増殖率」なのですか。

S2:不変資本はその生産過程で増えたものではなくて、受け継いだだけだからです。

S1:労働力が価値を創造するので、可変資本に対する剰余価値をみないといけないと思います。不変資本+可変資本に対する剰余価値では、生産過程のなかで剰余価値が生みだされることがみえませんから。

S2:境界線は本質的に旧価値cと新価値(価値生産物)であるv+mの間にあるということですね。剰余価値についてですが、それを資本に転化することを蓄積というのでしたね。蓄積とは1000mを資本家が個人的消費に用いずに、資本として投下するというイメージでいいのですか。

S1:蓄積率が0%なら資本家がすべて消費で、100%ならすべてを追加資本にすることですね。

T:ええ。蓄積率とは、剰余価値のうちどれだけを蓄積に振り向けるかということです。例えば、剰余価値率100%。蓄積率50%。20000c+5000vという構成の紡績資本があるとしましょう。単位は何でもいいです。不変資本は1年で全部消費されるとします。この資本は年間に、剰余価値5000を生みますね。この剰余価値5000のうち半分が追加資本に転化するので、それは?

S1:2500です。

T:追加資本の構成も原資本と同じであれば、どうなりますか。

S2:20000c+5000vで、4:1ですから、2500のうち追加不変資本が2000、追加可変資本が500になります。

T:記号で示すと追加資本は、2000mc+500mv、と表せるわけです。
by kamiyam_y | 2014-01-06 23:59 | 資本主義System(資本論)