さっぽろ地下鉄のなかでマルクスを呼吸する、世界を呼吸する

「人手不足」

最近買った本の1部。ヒートアップする労働運動と消費者運動から目が離せません。

佐藤彰男『テレワーク』岩波新書。
本間照光・白井邦彦・松尾孝一・加藤光一・石畑良太郎『階層化する労働と生活』日本経済評論社。
NHKスペシャル『ワーキングプア』取材班編『ワーキングプア 解決への道』ポプラ社。
NHK「名ばかり管理職」取材班『名ばかり管理職』NHK出版(生活人新書260)。
河岸宏和『“食の安全”はどこまで信用できるのか-現場から見た品質管理の真実』アスキー新書。

後ろの2つだけ紹介。

河岸宏和『“食の安全”はどこまで信用できるのか』は、現場で食品管理にたずさわってきた専門家によるもの。ギョウザ事件の論評に興味深いものがありました。「日本の管理体制の甘さが、そのまま、委託先の海外業者に引き継がれていた」(105頁)という指摘などです。

原材料を順次加工し有用性のある生産物に変えていく生産の流れが国境を越えて成立している現在、それを統一的に管理する必要があるわけです。最新の設備が移転しても統一的なルールづくりが不十分だったんでしょうか。生産過程が非公開でありながら公開されねばならない、という矛盾は、個別企業を越えた企業倫理、管理の方法が問われるというかたちで露わになっているような気がします。

『名ばかり管理職』(NHK出版)ですが、この本で紹介されている高野店長の言葉がいいですね。

マクドナルド裁判の劃期的な判決(1/28)のあとの記者会見で語ったそうですが、マックは「リーディングカンパニーとしてほかの業界を引っ張っていかなければならない会社だと思いますので」「同じような境遇で働いている人たちにもいい影響が出るような会社になってくれたらと思っているんです」(83-84頁)と。

「リーディングカンパニー」としての会社の地位を認めたうえで、その独自の責任、公共性を指摘し、不公正な労働条件、労働力の不公正な使用を容認することなく問題化することが、ほかの働く人々のためでもあると自覚してますね。

この本でもう1つ面白かったところを挙げると、「名ばかり管理職」がなぜ蔓延したのかについて、行政に対して取材している第5章。「監督署の人手不足」もあって、問題として扱ってこなかったんだ。

そもそも、労働基準監督署って何でしょう。

労働基準法が規定しているの労働問題の監督機関です。労基法は、都道府県労働局と労働基準監督署の設置を規定してます。労働組合法は、中央と都道府県の労働委員会を規定しています。

労働基準法
第97条 労働基準主管局(厚生厚生労働省の内部部局として置かれる局で労働条件及び労働者の保護に関する事務を所掌するものをいう。以下同じ。)、都道府県労働局及び労働基準監督署に労働基準監督官を置くほか、厚生厚生労働省令で定める必要な職員を置くことができる。
第102条 労働基準監督官は、この法律違反の罪について、刑事訴訟法に規定する司法警察官の職務を行う。

監督官は厚労省職員であり労働問題における警察官。立入調査をして是正勧告書をだすだけではなく、刑事事件として被疑者の送検もできるのです。労働法を守らせることも、共同体の秩序維持として重要なのであります。

労働問題が発生して、社会的管理のツールができて、またこれが破られて労働問題が起きて、という循環には資本主義システムの展開の原型があります。

労働力が商品として売買されることが、資本主義の前提ですが、この商品は、購入者が勝手に壊してはなりません。借りたものを壊してかえしたら契約違反ですけど、労働力という商品の場合は、生きた人間です。

ていねいにいうと、購入者が労働力という商品を消費し資本にとって有益な効果を得るためには、いいかえれば、価値を生みだす流動状態にして使用するには、生きた賃労働者の精神と身体を通さなければなりません。不当な使い方をしたら原材料や道具みたいなモノそのものが壊れるんじゃなくて、労働者の精神と身体が壊れるってことです。

消費させる時間について上限をもうけ、また、その消費の仕方にもルールを設けないと、壊れてしまう商品です。労働者は、たっぷりゆっくりぐっすり寝て労働力を再生する時間がなければ、売物を失いますので、不公正な取引です。単に寝るだけではなくて、動物的な限界にとどまるものではなくて、この上限は、健全な正常な状態での生活の再生産を保証する長さ、社会的な基準によって制限されなければなりません。そうでないと、労働者の精神と身体の諸力の総体を不公正に消尽することになります。

労働力の消費の仕方でも、賃労働者が酷使されて激しくその労働力を失うことは避けるべきことであって、正常な使用法、つまり、安全衛生などの社会的な基準を遵守した使用法を購入者はとらねばなりません。

労働力の売手は相手を変えることができるからいいとはなりません。彼は生産手段をもっていないので、総体としてたえずこの取引に連れ戻されますから、基準は社会的統一的でなければなりません。

売買では自由平等・私利・放任・調和という意識が生まれますが、総体においては階級関係が貫き、資本蓄積は労働者の権利と衝突して労働問題を生みだします。この労働問題を介して、労働者の権利の確定とそれを実現するための社会的な制度づくりが求められることになります。自由平等を実質化する試みといってもいいんですが、しかし、その十全な実現は絶えず阻止されてしまう。生産過程に対する制御が求められながら絶えずくつがえされるのが資本の展開ですから。

かくして(やや強引)戦後民主改革の一環として労働三権の法的承認をはじめとする労働者の地位向上が果され、それが高度経済成長の要因の1つにもなり、いまや、グローバル資本の世紀を迎えて、労働者の権利と衝突する資本の相互否定運動によって、労働問題がヒートアップしてきたのであった。
by kamiyam_y | 2008-08-24 18:29 | 企業の力と労働する諸個人 | Comments(0)