さっぽろ地下鉄のなかでマルクスを呼吸する、世界を呼吸する

柔道と承認

夏休みなので仕事が忙しい。授業以外のいろんなことをこの期間にクリアしなきゃいけないので、更新も後回しになってしまいました。

机にかじりつく日々のため、首筋が痛くてたまりません。加えて、テンピュール枕がへたってきててそれも肩や背中や首を痛めます。

こんなたいしたことない痛み自慢は、アスリートや武道家の苦闘をかいまみることでどうでもよくなるような気も多少します。といってもまあ五輪は、余計な装飾がないNHKの放送でほんのわずか観ただけですけど。

今週私にとって一番感銘をうけた言葉は、NHKで観たのですが、谷本歩実の優勝後のインタビューでの言葉です。ご覧になりましたか?こぼれる笑顔が女の子っぽくて爽やかでしたね。

鮮やかで豪快な投げ技を一瞬にして決め、空中ですでに笑みがこぼれてましたからね。すごいです。吉本隆明の『試行』に文章を書いていた南郷継正という武道家が、女らしさと武道は両立する、とどこかで記していたのをおもいだしました。

正確には覚えていないんですけど(感銘したならメモっておけよという説もありますが)、インタビューでは、自分の身体に感謝するという趣旨の言葉と、一本勝ちへのこだわりを語るところがよかった。

自分を支えてくれた人への謝意を述べただけではなく、自分自身にも感謝するってちょっと興味深いものがあります。

自分の身体に感謝するとは、自分の身体を自分から分けながら、自分と承認しあっているということであって、きわめて人間的なふるまいといえましょう。

自分の身体という自然に対して向き合うことは、人間がまさに活動する自然であり、自己を自覚する自然であるということです。

技は身体に刻み込まれた人間精神であって、《精神的・肉体的諸能力の総体》(マルクスの労働力の定義)としての自分に対して自覚的に働きかけて形成された《法則性の適用》とでもいえましょうか。

もちろん、外部の自然的素材を自分の延長とすることによって、この技の形成は支えられています。柔道着や畳といった独自の手段なしに身体に実存する技はない。

彼女によって感謝されている身体がまた彼女自身であり、彼女に体現されている人間という類的存在です。彼女が感謝している対象は、彼女の精神であって、よりていねいにいえば、自分の身体がほとんど無意識に瞬間的に反応して技を決める水準にまで修練してきた彼女自身の精神であって、人間に対する尊厳をまさに彼女の言葉は語っている、とおもいました。ちなみに、これまたあいまいな記憶ですが、瞬間的に体が動く、考えない前に動くように練習の段階でそうしている、みたいなことをヤワラちゃんが語っているのを吉本隆明が評価している文章を見たことがあります。

「一本を取る柔道」を継承する心意気もいいなとおもいました。連続する一本勝ちは観ていて爽快。

おそらく、武道の本来の精神や護身術としての性格からすれば、ポイント制ってのは勝負を決めるためのセカンドベストにすぎないとかんがえるべきものなのでしょうね。南郷が武道はスポーツとは違うんだということを強調していたのをおもいだしました。

谷本は、一本勝ちをすると観客がみな喜ぶ、という意味のことも述べてました。これも感心。技の披露が、観てくれうる人を感銘させると確信してるのですね。修業ってやっぱり他者が歓んでくれる何かに結実することを信じて行うものなのだなあと感じ入りました。
by kamiyam_y | 2008-08-15 22:30