さっぽろ地下鉄のなかでマルクスを呼吸する、世界を呼吸する

人間たることを引裂かれているがゆえに。人はUnion的なものに集結せよ

紀伊国屋書店で岩波文庫をいろいろみていたところ、『蟹工船』が売れてるのを発見。ほんとだったんだ。新潮版が売れてるようですが、かたいイメージの岩波版もそこそこ売れてんのかな。

『蟹工船』ブームの火つけ役となったのは、私は読んでないんですけど、雨宮処凛と高橋源一郎との対談だったとのこと(「毎日jp」 http://mainichi.jp/enta/book/news/20080514dde018040019000c.html)で、「PUBLICITY」(http://www.emaga.com/info/7777.html)1745号(【マスメディアとつきあう12の方法】http://takeyama.jugem.cc/?eid=948)にこの対談について論評があったんで、知りました。

朝日の記事はこんな。

asahi.com>http://www.asahi.com/culture/update/0513/TKY200805120295.html

資本の野放図な肥大運動は、労働者の人間的生活を蝕む。この人間抑圧の過酷さは、周辺や底辺において文字通り命の使い捨てとして現れた。すでに去ったと思われたこの悲惨な歴史は、現代において形を変えて再現しています。

この記事によると、読んでる若者は、労働する諸個人がその過酷な状況にもかかわらず、力を寄せ合って闘うその力強さ、生き生きとした団結に感心したりしてるみたいですね。

労働する諸個人の連帯がますます重要になっていることは、最近出た『偽装管理職』(東京管理職ユニオン監修・ポプラ社)にも強調されてます。「偽装管理職」問題とは、もちろん、「管理監督者」が労働法で支援される諸権利から外れることを悪用して、社内「管理職」を労働法上のこの「管理監督者」であるかのようにみせかけて、搾取すること。会社に労働力を売って会社の監督下で労働しているのに、あんたは会社経営者だから、残業手当は払わないよ、というわけです。

この「管理職」をつかった労働乱費の実態をこの本はレポートしており、とても読みやすい。最初の事例の女性の話からしておもわずひきこまれてしまいます。短大か専門学校を卒業したんでしょうか、「入社3日」(!)で「店長」にされてしまった「21歳」の女性の例。労働する諸個人の教育の権利もへったくれもない。それどころか、「店長」を名目にした各種の時間泥棒=搾取はあるし、コーヒーチェーンなのに、コーヒーメーカーはまるで中古品かというようなボロだと。体をこわして諦めかけてたときに彼女は労組に入って事態を打開していきます。

次の証券会社の話でも、40代の男性は、会長独裁企業による時間泥棒、パワハラの数々を受けますが、「ユニオン」に入って交渉し、いい精神状態を取戻します。「もし、自分が管理職ユニオンに入っていなかったら……と想像すると、いまでもゾッとします」という言葉がとっても重く、考えさせられるところ大でした。

社会を支える生産活動において、主体は1人1人の労働する個人です。しかし、かれに対して抑圧的に現われる会社はどうでしょうか。それは私的所有者という形をとってはいますが、なかみは巨大な社会力です。ですから、労働する個人は、一人で闘うのではなく、本質的に協業をとおして闘う以外にありません。

賃銀労働者は直接には孤立してます。何もしなければかれらは相互に無縁な原子です。それどころか、生活に踏みだすと、資本に買われるための競争に追立てられ、資本の競争にそのエネルギーを吸収され、お互いに足を引張りあい、お互いにつぶしあう原子でもあります。このつぶし合いの総体が、かれらに対する非人格的な暴力としてかれらを押しつぶすのですが、ともかく、かれらはばらばらなのです。

かれは、直接には、相互の連絡を絶たれたものとして存在しています。

しかし、かれらは生きるためには社会的動物として労働せざるをえません。かれらは協働します。ところが―この協働は直接にはかれらの協働ではないのです。

かれらの協働は、企業(私的所有者・資本家)のものになっています。

企業は、かれらの労働力を買ったのだからです。買ったモノを結び付けるのは買った私的所有者の行為です。かれらを協働させたのは資本です。かれらの協働は、資本の自己増殖行為であり、かれらは自らの協働から排除されています。

かれらの協働の力は、かれらの外部の私的所有の権力、企業の権力として現出します。かれらは孤立した点として存在しており、かれらの労働力を結合するのは、それを買った企業・資本であり、かれらの結合の力は資本の力となるのです。

かれらは、労働力を売って、資本のなかでモノとして結合されてはじめて、労働することができる。

労働とは、自己の対象に働きかけるという自己の能動性を発揮することであり、自己と共同する他の労働する諸個人とつながることです。労働力は、労働者の人格を通して動くものであり、労働者の身体を離れて存在しえないものです。労働者は自分で(自分の意志を介して)労働します。労働は本質的に自己の労働です。

しかし、その現実の姿はどうでしょうか。

というと、労働力はモノとして売買されているのですから、今述べたようにかれらの行う労働はかれら自身の労働ではないものとして妥当するのです。

労働者のする労働は、労働力を買った他人がモノを消費する行為として実現します。かれの労働は、他人の富の増大行為という意味を帯びます。

モノとして結合されるということは、自己の対象も、自己の協働も、その成果もすべて、他人のものとしてあるということです。結合の力は、かれらにとって外部である資本が領有しています。労働する諸個人と生産手段との連結の力も、諸個人どうしの集合の力も、結果である生産物も、すべて資本としてかれらの外部にあって、かれらに対峙します。

こうしてかれらの労働は自らを疎外しており、この疎外された労働をする存在としてかれらは、その賃銀の多少にかかわりなく、無産大衆です。かれらは、労働力を売らないと生きることができない非自立的なものに貶められており、自己の対象・自己の協働を喪失した、なにももたない存在です。素寒貧(すっかんぴん)の存在なんですわ。

かれらが唯一もつのは、労働する自己の能力であって、かれらはそれ以外ななにももたない裸の存在といわねばなりません。家を持とうが、服を着ようが、関係ありません。賃銀も、それを介して手に戻した生産物も、すべて賃金労働者の消費対象であり、かれの身体の一部にすぎないのですから。家も服も食料も、彼の主観とは関わりなく、客観的に、かれの労働する道具としての存在を再生する燃料なのであって、かれは自分の身体しかもたない剥ぎ取られた存在なのです。

自己の対象から切断され、他の諸個人から分断されたこの点のごとき存在に対して、反対の極はどうでしょう。そう、こちらの極で増大をはかる企業は、圧倒的な権力です。

賃銀労働者が手にする貨幣が、かれの消費する生産物の象徴にすぎないのに対して、企業はそれ自体、価値の集積として計測される存在であり、企業はそもそも貨幣として存在しているのであり、企業とは、生きた貨幣のとる姿、自己増殖する価値すなわち資本がとる姿にほかなりません。企業とは、まさに巨大な社会的権力にまで発展した貨幣です。

資本制生産様式にもとづく社会の単なる要素としての貨幣でさえも、過去の労働の集積として・価値として独立した社会的力であり、人間を転倒的に支配するという意味で、すでにそれ自体社会的な権力ですけど、企業は、この社会的権力のとてつもない集合体なのです。企業は、孤立した賃銀労働者に対して対立的に独立化したかれら自身の過去の労働の巨大な集積です。

企業はこのように社会的集合力なのですから、賃銀労働者がそれと対峙するには、点的状態にとどまることはできず、かれらの協働へと踏みださねばならないのは当然の理。

労働法や労基署も、私的諸資本を超えた社会的共同利害の形態であり、私的諸資本に対して介入する強制力であって、これも賃銀労働者自身の連結の姿です。私的諸資本の外部の公共的なしくみは、賃銀労働者自身の共同的な紐帯です。こうした共同利害の諸装置総体がまた諸資本の増殖の条件になるとはいえ。

かれらの生産における結合は、他人の所有の力、企業の力としてかれらに対立してきます。これに対して、かれらは私的生産の外において、企業が分断して領有する生産過程の外において、結合をつくりだし、その力を介して、私的生産への制御を試みることになります。

これは、私的生産を私的生産にとどめずに、社会的な、公共的なものとして、社会に認知させていく運動です。私的企業のもとにつくりだされているのは、労働する諸個人自身の社会的な生産過程であり、この社会的性格は、労働者を飲込み収奪し犠牲にすることによって、その社会性をあらわにしてしまうのです。

ややこしくきこえるかもしれませんが、私的生産は労働する諸個人のものではないがゆえに、私的生産の外部から私的生産を制御することになるが、この私的生産がつくりだしているのはじつは労働する諸個人自身の社会的生産であって、この制御の試みが生産の社会性を諸個人に対してますます認知させていく。生産の外部からの制御といっても、生産の外部もまた生産自身の姿にすぎず、この制御の試み自体が生産自身の運動である。労働する諸個人が労働の自己疎外の内部でのそれを克服しようとする試みである。こんなふうにいえましょう。

資本の内部での資本の否定がその限度にまで到達しなければ、資本を超える否定はありえません。日々の闘いとルールづくり、制御の智慧づくりという穏やかな活動が受胎する潜在的な革命について考えてみました。
by kamiyam_y | 2008-06-06 00:03 | 資本主義System(資本論) | Comments(0)