さっぽろ地下鉄のなかでマルクスを呼吸する、世界を呼吸する

「格差」という言葉に潜む競争主義・成長主義への拝跪(6)

絶対的貧困

「格差社会を撃つ」論としての「格差社会論」の本質はどこにあるのか。それは、「新自由主義批判」にあります。

これに対して、単に「格差があるよ」という論は、自分は流動的過剰人口でなくてよかったとか、あいつは夢を追ってるから貧乏でも自業自得だとか、個人的な視野で話が途切れてしまいます。社会関係は存在せず、あるのは、ばらばらの個人だけだとする原子論的な幻想につながってます。こういう「単に格差があるよ」論は、生産における矛盾にしっかりと蓋をかぶせてしまいます。はい、何にも見えない。何もない。

「新自由主義批判」というすぐれて自覚的な意識であれど、「格差」として問題をつかむかぎりは、こういう「単にあるよ」論を粉砕しきれないでしょう。

労働者の階級としての一体性が問題であるのに、この問題場面にしかと定位することができず、状況をうやむやに捉えるからです。

「格差」でなく「貧困」が問題であるという主張もたしかにいい議論だとおもいますが、底辺の底上げでいい、って話にもなりかねないんじゃないかなあ、と危惧しますね。

もちろん、貧困や格差を無視すればいいとか、格差こそが貧民に必要だとか、体制美化の坊主説教とは比べるべくもなく、格差を縮めろという議論は人間的ですし、貧困を撃退しろという論議は正しい。しかし、だからこそ底上げだけですむ話ではないことは、貧困撃退論も知っているはずです。

そもそも底上げするためには、成長を管理するという社会的合意が必要であり、この合意を実現するためには、今までの社会のありようを転換することが不可避。

国連が、貧困を増やすための成長ではなく、貧困を解消するための成長という目標を立てています。この合意は単なる道徳というよりは、無政府的成長から、成長の管理へという転換しなければならないという現実自身の要請です。

で、ここで貧困という言葉を考えてみたい。格差の下の方の貧困という問題ではなく、誰もが陥っている貧困がまず理解の大前提ではないだろうか。資本主義的成長の源にある貧困です。

資本主義より前の社会は封建制社会でした。ここでは農奴が労働する大衆の大部分であって、かれらは領主階級に人格的に隷属してます。領主(王・貴族・騎士)は、土地所有者であり、彼の権力は、土地がもたらす。かれらは人の顔をした土地です。かれらの生殖は土地の相続のためにある。この土地が農奴を互いに結びつけ、社会的生産を支配している。

農奴は、自給自足的生活をするほかにも、領主直営地で賦役労働を行います。隷農になると、生産物で地代を納めます。働く人々は、移動を許されない。仕事を変えることも掟によって禁じられている。こういう生産。

資本主義経済では、土地ではなく、自己増殖する価値、すなわち資本が人を支配します。

封建制では生産力をあげないことが体制の維持であったのに対して、こちらは生産力を拡大することでなりたっている。

資本とは、それ自体とってみると、貨幣、金庫、建物、機械、原材料、倉庫、労働力、生産物です。これらの形をとらねば資本は存在できません。なおかつ、これらの形のとどまっていては価値増殖できませんから、これらの形をすみやかに脱ぎ捨てることで資本は存在します。形にとどまらねばならず、とどまっていけないという生きている生産関係・社会的関係です。

資本という価値増殖は、人々の集合力、自然の諸力を捉えて、生きて回転する運動です。自分から自分を増大させることで成りたつ運動ですから、自然環境も破壊します。無政府的生産ですから、労働する諸個人の福利も壊します。

この生きた運動の基本的前提は、ありとあらゆる生産手段(工場設備・原材料)・生活手段(個人消費される生産物)が、労働する諸個人から遊離していることです。労働する諸個人による制御の手から離脱していることです。対象的世界のすべてが、労働する諸個人に対立する他人の所有物になることです。

労働者は、自己の労働能力を、対象(モノ)として、この他人の所有物の主人に対して譲渡することによってのみ、生きていける。この主人が買うべき労働力が存在していること。こういう自由な(遊離した)労働力の存在を、法的観念は、移動の自由、職業選択の自由と名づけ、封建的な身分から近代の労働者を区別します。

……われわれは、労働力の商品としての販売という単なる事実が、一定の社会的な歴史的な諸関係の全系列を指し示していることを見いだす。……(ローザ・ルクセンブルク『経済学入門』岡崎次郎・時永淑訳、岩波文庫、368頁)


労働力を買って消費することで、資本は対象世界を商品としてつくりだします。この商品には、賃銀と利潤がふくまれてます。賃銀は、労働者の生活手段にかわります。かつて農奴が賦役労働をしたように、近代賃金労働者は生活手段を越える生産物を利潤として生みだす。

労働者は、労働力と交換した価値(過去の労働)の印で、生活手段を買い戻し、それを消費する。この消費によって彼は労働力の売手として自分を再生産する。

労働の社会的な力は、かれら労働者の手中ではなく、他人の私的所有の中で蓄積していく。生産は他人の手中で社会化されます。価値増殖のために、価値増殖を越えるであろう社会的労働を発展させる。労働する諸個人は潜在的に社会的生産をつくりだす。

ここでの貧困は《絶対的貧困》です。労働する諸個人が自己の対象世界から疎外されていること。他人の富として社会的生産をつくりださざるをえないこと。これは程度問題ではなく、労働の自己疎外であり、人格の物象化にほかなりません。

この貧困は、ですから、こんなふうに表してみることが可能です。

所有関係からみた貧困
所有として現れる労働の疎外です。対象世界に対して、労働者が自分たちのものとして共同的にかかわることが否定されてます。

価値からみた貧困
労働の生産物がかならず賃銀(生活手段)を上回るのに、それが共同的に用いられていない。

人口法則的貧困
資本が買う労働力は、かならず労働力総体を下回る。

労働現場的貧困
不正があっても社長を怖がって従業員がものをいえない雰囲気とかさ。企業権力における封建制ですね。権力屈服的労働と特徴付けることも可。

生産過程において、労働力が生産手段とともにモノとして消費されるという非人格化のことです。資本の運動原理そのものですね。資本は貧困を原理とする。自己の労働も対象もすべて他人のものとして存在するという労働の貧困がこのモノの運動を支える。

……奴隷労働、賦役労働、賃労働という労働の歴史的形態では、労働はつねに不快なもの〔repulsiv〕であり、つねに外的な強制労働として現われ、それに対立して、非労働が「自由と幸福」として現われる、という点ではA・スミスは正しい。……真に自由な諸労働、たとえば作曲は、まさに同時に、途方もなく真剣な行い、全力をふりしぼった努力なのである。物質的な生産の労働がこのような性格をもつことができるのは、ただ、第一に、労働の社会的な性格を措定されていること、第二に、労働が科学的な性格をもち、同時に一般的な労働であること……すべての自然諸力を規制する活動として現われる主体としての人間の努力であること、によってだけである。いずれにせよ、A・スミスの念頭にあるのは資本の奴隷だけである。……(「経済学批判要綱」『マルクス 資本論草稿集②』大月書店、S.499.)


資本という生産において労働は「労働が魅力的な労働」「個人の自己実現」(同上)でななく「強制労働」である。労働する諸個人が己の自己実現の条件である対象世界を喪失し、社会的労働を社会的労働として「措定」していないことが、《絶対的貧困》なのです。《労働の社会的性格を措定」している状態が資本主義を超えた社会の形成です。つまり、《絶対的貧困》とは資本主義を定義する非社会的状態を言い換えたものだといえましょう。

時間論的貧困
マルクスの自由時間論が批判するものです。自由時間の可能性を他人のための剰余労働の創出においてつくりだすという転倒が資本主義時代。これも自己の労働を他人ものとして実現するという貧困の表現ですね。
by kamiyam_y | 2008-05-04 21:06 | 資本主義System(資本論)