さっぽろ地下鉄のなかでマルクスを呼吸する、世界を呼吸する

「格差」という言葉に潜む競争主義・成長主義への拝跪(5)

まとめ

「格差」批判の意識には、労働環境劣化に対する労働者の抵抗が映されています。自分たちを押しつぶしてすすもうとする力に対して、連帯して防御しようとする共同性がそこに実在している。「新自由主義」という資本の自由に対して、人を主人公にする状態への書き換えの意志が生じている。

しかし、同時に、「格差」として問題を立てて受容する態度は、自分たちに対立する自分たちの関係(法則)として問題を捉えることができず、自分たちのおかれた状態を相対化することができない。人と比べて自分がましならいいや、という受け身で排他的な視点に引きずられてしまう。

全体像が局所的な視野のなかに歪められ、矛盾が、上と下という量の比較に矮小化されてしまうからです。

「格差」は人類普遍の原理だと考えるような「格差」肯定は論外です。しかし「格差」を肯定せず批判するといっても、資本主義社会を安定させるためには、市場をうまく働かせるためには、あんまり格差があると好ましくない、社会が割れてしまう、という程度の批判に落ちついてしまっては、ちっとも革命的ではない。

「福祉」を守る戦いだけでいいのか。そのためにはグローバルな連帯と生産のありかたの変革へと拡がらざるをえない。人の連帯を脱して、資本という生産のつながりが、物象の糸が、地球上をくまなくおおっていき、結びあっていくがゆえに、それを抑えようとする人の連帯もまた地域を突破せざるをえない。

収入の大小が問題なのか。収入に固執すると、カネをもつ人のためにカネが利子を生み、労働を与える人のために労働が労賃を生み、土地をもつ人のために土地が地代を生む、という三位一体的定式の幻想になってしまいます。「格差」論議は生産関係の敵対性を隠す。

労働は商品でないという願望や、公正な賃金という話なのか。労賃は、モノの関係を隠すのがその働き。モノの関係としてみると、労働者は、労働力として消費され、この消費によって、労働力維持のための生産物より多くの生産物を生みだす。

労働においては、労働者は、労働者が消費する生産物と、それを越える生産物とを生産しています。

労賃は、労働者の労働は収奪されていないという法的な公認ですから、このモノの関係、労働の敵対的性格を覆いかくす働きをする。

しかし、法的な公認という疎外が疎外の止揚にむすびつく。モノの関係は、労働者の実態的な不自由として感知されざるをえません。労働者の抵抗は、賃銀の正義、公正な賃銀、平等な賃銀といった労賃の枠内にとどまることはできない。平等な賃銀を、という空想的要求ではなく、モノの支配という転倒からの脱出こそがリアルな課題です。

分配が問題なのか。これも公正な賃金と同じでしょう。生活手段の分配ではなく、生産手段の分配、つまり生産関係こそ問題です。一般的に、「差」の問題なのか。

労働者1人1人が社会の主体になるということは、労働者が全体として(つまり階級として)解放をはたすことであって、差なんて話ではなく、問題を「格差」に切り縮めることは、人がモノに転換する物象的な生産関係から、自由を限界づける階級的な生産関係から、目をそらすことといっていい。

(続く)
by kamiyam_y | 2008-04-24 22:28 | 資本主義System(資本論)