さっぽろ地下鉄のなかでマルクスを呼吸する、世界を呼吸する

民間私的諸資本が上映を

表現や芸術を政治の下僕としてしかみない思想はすべて死滅すべきである。マルクスの思想はそうなる。レーニンもそうなる。トロツキーもおそらくはそう考えていたように思われる。政治に奉仕する映像なんて思想的巨匠のどの文献からも正当化できないアイディアである。

しかし、社会主義リアリズムであれ、プロレタリア文学であれ、日本での運動としては、表現の自由を前提にしていたとはいえよう。それに比べると、表現を暴力で押しつぶす右翼の言動は前近代の遙か昔の世界であって、取りあげるのも自分のみすぼらしさを強調するようではばかられる。

日経新聞3/28「市場の危機 政治の不全5」という一面の記事で「北京で米CNNテレビを見ていると、チベットの映像が流れるたびに画面が消えた」という話が載ってました。

じっさいの社会が分裂しているがゆえに、思想信条・表現の自由という近代的自由は押しつぶされる。近代的自由は、前近代の共同体的支配という生産がその役割を終えたから登場した進歩的なものだけれど、発達した近代社会において、こうした自由は社会の分解の表現という性格を帯びる。前近代を残す社会であれば、こうした自由はもっと堂々とつぶされる。権力が露骨に統制する国もあれば、貨幣の力が間接的にメディアを誘導する国もあるというわけである。露骨な統制よりスポンサーによる影響の方が現代的であるが、露骨な統制だって残っている。だからこそ、この近代的自由の基本は、社会を人間的な社会に変えていくためには手放さない拠点である。

日経新聞は4/4(金)の社説で李纓監督「靖国」が右翼を恐れて上映されなくなった問題を取りあげてます。この社説「封じてはならぬ『靖国』上映」は言ってます。

「営利企業とはいえ、芸術文化の担い手でもある劇場の事なかれ主義的な対応は極めて残念である」
「そもそも、右翼団体の街宣活動などに対して警察は弱腰だと感じる人は多い。今回の事態の背景に、そうした不信感があることを警察当局は認識すべきだ」

資本は芸術を売るのなら、政治的介入に屈したり、街宣車を恐れたりして大衆に提供するのをやめてしまうことは、市民的自由を遵守すべき企業としてやっぱり未熟です。近代的自由を抑圧する力に荷担しないという企業の積極的な社会的責任を放棄することになる。もちろん、企業が萎縮してその社会的責任を全うできなくさせてしまうような警察の無力も批判されるべきです。タブーをつくりだす日本社会の雰囲気が個々の企業の行動に表れている。

武力弾圧を批判し、メディア検閲を解除するように求める西欧諸国からの求めに対して、中国政権の広報部は、どこの国でも表現に対する規制はあるみたいなこと言ってました。たしかにどこの国でもありますけれど、自国に対する批判を権力者が自由にカットしたり、政府に都合の悪いことを報道する自由を否定したりするのは、近代的自由に反します。

今回は「自由民主」党の稲田朋美とかいう衆議院議員が映画に対して介入しました。政治家が映画という表現に対して事前検閲を行い、暴力団体に対してこれは「半日」(おっと変換ミス-笑)思想だとかいうくだらないアナウンスをしたことは、犯罪的ではなかろうか。「自由民主党」の自由民主って何なのだ、と思います。アジア的停滞における仲良し兄弟が、現在高度成長に血道を上げる中国共産党と、かつて学生運動を弾圧して高度成長を行った農本主義政党自由民主党でござんす(自民党は選挙で選ばれているとか小学生みたいなこと言わないで下さいね)。

自民党のすべての議員でないのはもちろんのこととはいえ、こういう行動をとれる議員て、それこそ保守思想の好きそうな言葉を使えば「自由社会の敵」じゃないですかね。福田総理もこの上映妨害・自粛問題に遺憾の意を表明してましたが、自分の党の人でしょ。

ハーバマスのいう自由で理性的で公開されたディスカッションこそ現代を発展させるのに不可欠の方向であって、それを否定する暴力を容認してるじゃないですか自由民主党のなかの一部の人。

私はみてないからこそいうんですけど、前評判を調べたかぎりでは、靖国に固執する右左双方を相対化する視点を提示してる。刀を信仰する自分の物神崇拝を映像が捉えて公開してしまったら、それに対して暴力で応えるなんていうのは、まさに宗教的テロそのもの。映像表現を読み込む能力もなく、芸術表現を堪能してそこから考えて自分の信心を相対化する向上心もない無能な政治家によって(もちろん有能でも表現に対する政治の介入はいかんのですが)、表現の自由が押しつぶされようとしている。李纓監督が刀に焦点をあてたり、淡々と映像を流したりした表現手法の斬新さを、大衆が堪能する機会を奪っている。表現には表現をであって、脅迫ではなく理性的な対話、公開された議論でしょ。

北海道新聞では札幌の映画館は上映検討中とあるので(「過剰反応"自粛の連鎖"」16版第2社会面32頁)、やってほしいとおもいますが。

映画館も企業の社会的責任をまっとうしていない。しかし、企業にこういう選択をさせてしまうことは、社会的環境がやはり未熟なのだと思います。だって、右と関わったら家に火をつけられるとか、街宣車がやってくるとか、銃弾打ち込まれるとか、誰だって怖いですもん。市民社会・企業社会が暴力の恐怖から逃れられない未熟で野蛮な状態が企業にこういう選択をさせてしまう。

で、有志による上映ってなっちゃったら、これまた労組のイベントみたいでそのぶん映画の社会的位置は周辺においやられる。本来なら、営利企業という社会の平均的なものが表現を提供する社会的責任を自覚できるはずだったんでしたから。民間資本が営利目的で表現の自由を守ることができるということが、市場経済の成熟、自由社会の成熟じゃないですか。

プリンスホテルだって、営利が直接的な暴力に負けるという日本社会の負の側面を示したわけです。今回は映画館。

このまえプリンスホテル新高輪について書いたこと(ここ)は、個別事実によって齋藤貴男が裏付けています(プリンスホテルの恐るべき『善意』 ルーティンワークが自由を殺す」『世界』4月号)。

齋藤によると、会場の準備は、大会や会議の請負をする企業が行い、順調に進んでいた。組合は、文科大臣へのメッセージの依頼もし、警視庁・警察庁に警備依頼もし、あとは待つばかりだったよう。変な自粛は日本の企業社会の健全な発展を阻害します。

齋藤は日刊ゲンダイでチベット騒動についても書いていて(「二極化・格差社会の真相 チベット騒動で保守系論壇の正体見たり」4/1)、こちらはいまいち。短い文章ですから、こんなこと承知で書いているのでしょうが、どんなもんか。

齋藤は、チベットを取りあげるのはいいとして、「虐殺行為を見て見ぬふりで……国威発揚イベントに参加すれば、イコール武力弾圧の承認につながりかねない」、欧米の政治家知識人メディアは「ボイコットする示唆や提案を重ね始めたのに比べ、何かといえば中国の悪口や侮蔑的な暴言を繰り返してきた保守系論壇からは、ほとんど何も聞えてこない」、これは、こいつらが、ふだん偉そうなこといってもしょせん「中国はゼニになるから当局と事を荒立てたくない」「カネの亡者」だからだ、という趣旨のことを述べてます。

わかる部分もあるんですがあえて言うと、単純に、五輪に参加しても人権抑圧反対という途もあるだろう、というのが即座に思ったことの第一。どんどん中国に行け、という路線もあるわけです。

第二に、これもあえて言ってみると、右側論壇なんてしょせんはゼニの前には黙ってしまう連中だという侮蔑の仕方はありうるとしても、中国市場への参入を至上命題とする財界と、排外的なイデオロギーに酔う論壇とは別であって、保守系論壇とかいうものが中国の経済成長のパイから締め出されることを畏れる「ゼニ」勘定できるほど高尚な頭脳をもってるのかいな、ということです。ゼニのために人権抑圧を認めろと言っているのではありません。ちなみに、保守系論壇とかいうものが経済的結びつきから疎外された観念的幻想的な喜劇役者だとしたら、それは社会病理っぽいものであって、日本社会の成熟度を正しく示しているのは、財界の意向を正確に反映した日経新聞的な論調。また言わずもがなですが、保守系メディアの思想とそこに載っている記事における事実も区別されます。武力蜂起を、と言っている人もチベットに現れてるようですが、チベット人の平均的な物質的利害には反します。

国家主義だって昔は、一部の金持が儲けるのはけしからん、皇帝の下での平和とかいってたわけですから、保守派を「カネの亡者」として批判する視点は限定されたものである、と。齊藤の話にはこう補足しておきたい。

経済的依存関係を利用して人権の国際連帯を考える途こそとられるべきではと思います。物質的依存関係の発展に依拠すること。その物質的利害関係は、たしかに企業に中国政府に取入ることが利益であるような局面ももたらしましょうが、逆に人権侵害に対して企業が取引をやめる等々の対応をすることもありえます。中国との経済交流をすすめることが、人権抑圧を批判していく基盤になりうるわけです。ゼニ勘定を重視しても、「事を荒立てたくない」以外の選択肢がある。「事を荒立てたくない」という物質的利害の方が、人権のことを真摯に捉えているわけではない単なる排外的中国叩き、人権擁護は単なるポーズで中身は国粋主義という幻想よりはましでしょう。

「保守系論壇からは、ほとんど何も聞えてこない」ということがもしも齊藤のいうようにもしあるとすれば、それは、ゼニ勘定というよりも、もともと人権なんて関心なく、日本はすごいんだって自慢したいだけでしょう。「日本は侵略なんてしてない、正しい自衛戦争だった、聖戦だった、日本の軍は蝗軍じゃない、中国こそほらみろ侵略しているではないか」という趣旨の幼稚なレベルでの争いに熱中してる程度の人であるとすれば、そういう人が、本気で人権のための国際連帯なんて考えてるわけない。日本国内で音量の暴力でもって思想弾圧をする団体がもちろんそんなこと本気なわけない。人権擁護を考えているなら、「国境なき記者団」を支援するとかあるんじゃないだろうか。

偏狭なナショナリズムが湧いて出てくる理由のごく一部は、単純な進歩主義左派の側にもありましょうって気がします。政府の悪意で歴史が進むと考えているとまではいいませんけど、反米、真の愛国というレベルに固執してきたことははたしかであり、このことは、労働のグローバルな発展にもとづく人権の国際主義を真剣に考えてこなかったことでしょうから。欧米では政府も野党も問題としているのに、日本の政治的諸党派はなんか声が小さくはないでしょうか。

人権なんて西洋の思想、特殊な歴史的概念とうそぶくことがかっこいいとおもう知的流行が、つまらん国粋主義の台頭する余地をつくってしまったともいえないでしょうかね。右と称する人が自由を否定することで自分たちの存在意義を自ら社会的に抹消しているのと同時に、人権派・民主派・リベラリスト・左翼とかいう人も、こういう退行的な連中がしゃしゃり出てくる余地を与えてしまうような不十分さがなかったとはいえないでしょう。ナショナリスト・テロリストが勝手に社会から自分たちを弾き出しているだけとはいいがたい気もします。

政治解放よりも経済開放を先にすることが大陸の安定に必要なことはおそらくいうまでもない。だからといって、権力によるデモ隊虐殺の疑惑が解明されなくていいわけもない。デモという表現行為を抑圧することに反対しないでいいわけない。

プリンスホテルの問題も、戦争神社をつかんだ映像表現をつぶそうとした自由に対する抑圧も、デモ隊に暴力を発動した警察も、同一の視点で語る態度が重要であろうと。

補足:日刊ゲンダイ4/8号の「江上剛の世相を斬るPART2」がこの上映問題について、大手マスコミはホールをもってるんだから提供せよと書いてます。政府も「『遺憾だ』とコメントするのではなく『断じて許さない』と脅迫者たちを摘発するべきだ」としています。とくに、江上が勤めていた銀行が右翼に脅されていたときに、警察と一緒に戦った、という話にはちょっと勇気づけられる思いがしました。市民社会と企業社会がマフィアによる脅迫から解放されていない現状は異常というべきです。


追記 欧米の対応。
<北京五輪>クリントン氏、ブッシュ大統領に開会式欠席要請 | エキサイトニュース
<欧州議会>五輪開会式「欠席決議案」採択も | エキサイトニュース
<北京五輪開会式>米大統領、欠席に含み…報道官発言 | エキサイトニュース
by kamiyam_y | 2008-04-07 22:19 | 民主主義と日本社会