さっぽろ地下鉄のなかでマルクスを呼吸する、世界を呼吸する

市民社会における信頼の否定(後)

asahi.com:米兵釈放 「そっとしておいて、と」 地検「適正捜査」 - 社会

事が大きくなりすぎて傷が拡がるので忘れたいということなのかもしれませんし、女性が拒絶の意思を示しているのにキスを暴力的に強引に迫りつづけたのであればそれでもたしかに問題ですけれども、トーンダウンです。強姦が事実でもしも中傷によって取下げたのなら、中傷は強姦魔を免罪する機能を果したことになる、とでも言えたのですけど、結局、米兵はたいしたことはしてなかったのに、周りが騒いで事が大きくなってしまって中学生は困ってしまった、というのが真相のようにおもえます。まあ、セクハラで冤罪がおきやすいのは被害を主張する人の内心の不快を証明なしに基準にすることを疑わない人が多いからだし、痴漢でもやったと主張すればそれが検証なしに事実とみなされがちだからであり、そうしたことが本当に取りあげるべき人権侵害を見逃すことにつながるとかんがえますが、今回は、冤罪だったという線は棚上げして書いてました。朝日新聞の記事は取りあげるに値する事件を記事にしているので煽っているのではないと仮定して書いたのでしたが、この仮定は撤回した方がよさそうです。米軍基地問題の象徴的存在にこの件を祭り上げさらに被害者を中傷するネットの一部の声をことさら取りあげて大きな問題にしようということだったのかなということで。悪いのは強姦する人であり米国人と交流したい人はすればいいという論点は書いたとおりとはいえべつにいま言わなくてもいいことで、推定無罪の原則を堅持せずにブームに載っかった点反省。米軍だからといって犯人扱いする叩き方をしては、推定無罪の感覚の薄い、俗受けメディアや世論なるものや騒ぎ立てて中傷に熱中する愚かな人達と同じ穴の狢です。米兵だからといって原則を無視していいわけもありません。すみません。

沖縄タイムスhttp://www.okinawatimes.co.jp/day/200802281300_01.html

共同体を実質的に代表するのはその一人一人の構成員であって、この構成員の侵した犯罪について共同体を正式に代表する人が規律の強化を宣言するのはあたりまえですから、ライス長官の反応は、その立場上当然で、文明的対応でした。福田も町村も動きましたし。

沖縄タイムスによると、「沖縄市基地政策課」は「沖縄市内で過去五年間に発生した米軍構成員および外国人による犯罪発生状況をまとめ」、「発生件数は合計九十七件(二十八日現在)で、そのうち約67%が午後十一時から午前七時までの時間帯に発生していた」とか。規律強化はいいとしても、外出を制限された米兵にちょっと同情したくなります。まったく。これからも米日の交流がんばって下さい。

ライス長官とは対照的に高里鈴代は「訴えたことが分かるとみんな殺されるんじゃないかと思い黙っている」(「なくせるか米軍性犯罪」北海道新聞3月2日16版第三社会面37頁)と言っています。服役終了後に報復があり、それをおそれる心理なのでしょうか。そうだとしたら本当に怖いです。米軍による殺人がどの程度多発しているのかも分らないで書きますけど、ほんとかなあと疑問を感じざるをえません。もしほんとだったら沖縄でこのような恐怖にさらされている方々を理解できていないということになり申訳なくおもいますけど、黙っている原因を暴力による恐怖と解説されると、どうなのかなあと若干分りにくさを感じざるをえないです。銃によって言論が封殺されているのだろうか。個人の事件を強引に政治的主張やステレオタイプのジェンダー差別反対論のための手段として取りあげて大衆を引き回そうとしているようにもみえます。もし法に訴えたら、司法を用いるたら、殺されるかもしれないという恐怖が蔓延しているのだとしたらこりゃあ大変すぎます。警察は何をしているのでしょう。政府は何をしているのでしょう。

高里発言を仮に煽りとかんがえるとすれば、こういうかたちでの煽りは、地位協定や治外法権、軍縮等々大きなテーマを人々がまじめにかんがえていくうえで、批判的立場に対する信用に傷を付けます。引き回しは大衆を運動から離脱させていく。あんまり調べないで危機を煽るような言葉と思考法は、反戦運動一般にとってもマイナスでしかないです。

結局確認できたのは米政府の文明的対応であったと評価すべきかな。

以下、高里から離れて、暴力による言論の封殺、暴力による人権への攻撃について、法の支配は空想だったのか、この社会は法治国家でなく恐怖と暴力が支配する社会であったのか、疑問を提起してみたい。やや強引な話題転換ですけど。

で、プリンスホテル新高輪の対応を見るとその要素は指摘できるんじゃないか。とりあえず次の記事だけ参照して読込んでみました。

港区が日教組から聴取 プリンスホテル宿泊拒否で | エキサイトニュース
日教組のホテル使用拒否を了承 社長会見「宿泊客の安全のため」 | エキサイトニュース
東京新聞(TOKYO Web)
社説2/2http://www.tokyo-np.co.jp/article/column/editorial/CK2008020202084385.html

準備が面倒だったからキャンセルしたのかと推測できますが、暴力による言論封殺はこの社会では建前上ないことになっているし説明不足を非難するばかりでは自分の非を認めず責任転嫁してるようにしかみえないでしょう。お気の毒にも、企業としてはここでしっかりとした対応を経験しておけば応用可能なノウハウも蓄えられるし、各種集会客を今後も獲得できるかもしれなかったのに、必要な準備の手配等の調整をする力もなく、憲法も知らず法律も知らずということをみずから晒してしまいました。理不尽な暴力や恐喝に屈服する企業だということを世に知らしめてしまいました。日本社会の一員としての意識の低さを露呈してしまいました。経営担当者の社会的意識の低さを公開してしまいました。顧客に対する差別を行う非人道的な企業だいうことを宣言してしまいました。監督省庁も役所も厳しく調査してほしいとおもいます。

それだけではありません。

理不尽な暴力に屈する企業、言論に対する脅迫に屈服する組織であることを宣言したこの企業は、日本の法律も警察も信用することもなく、基本的自由を暴力で封殺することを「公共の福祉」を持ち出して既成事実として容認するかたちで扱ってしまったのです。公共性という概念を人権の抑圧を認めるトリックに用いてます。騒音から客と地域を守るという公共事は、このような人権否定として実現するべきではありません。しかるべき手段を講じて実現すべきでしょ。皇帝の神話的起源を祝日として押しつけるような前近代的な迷信にとらわれた部分を残す政府を私たちの社会がその共同体的統一の頭上に載せているからといってテロを正当化するほど日本が法治国家として未熟であることはかんがえられず、この迷信が野蛮な国粋主義的妄想をもつ病的な暴力部隊を震い動かすとしても、社会によって正当なものとして認知された暴力機構がこちらの異常な暴力部隊による犯罪を堂々と見逃すということはそうないというか、警察が癒着をその得意技とするといっても、一応業務はするでしょう。

この企業は、今回の振舞において、共同体組織に対しても法律に対しても警察に対しても信頼をおいていないのです。さらにいえば、この企業は、社会に対する信頼を否定し、社会の根源的原理である人間を否定しているのです。基本的人権も憲法も西武ホールディングズの視野のなかには存在していないのです。人権一般・自由な個人一般に対して、人間の尊厳一般に対して侮辱の汚水を浴びせたのであり、人間の本質に対して尊厳を失っているのです。テロリズムと軍国主義と全体主義とに荷担する、もしくはそれを助長する、容認する行動をとったこの企業には、いいかえると近代社会の基本的理念である人権を否定するテロの存在をするこの企業には、よき企業市民だの社会貢献だのCSR(企業の社会的責任)だのコンプライアンス(法令遵守)だの口が裂けても言う資格は今後一切あるまいとおもいます。加藤紘一の背中の垢でも飲んだらいいんじゃないだろうか。
『テロルの真犯人』講談社|エキサイトブックス

人間とその社会に対する不信が、この企業において集会の自由に対する暴力的否定を容認するというかたちで現れています。この企業の振舞はまた今までこの種の暴力を放置してきた私たちの社会のありようを、人間の尊厳と人権を貫き通すことのできない私たちの社会のありようを反映しているのであり、暴力による人間の否定を放置してきた共同体、行政、警察のありようも照らし出しています。憲法論議をしても皇室を税金で経営することの是非を世論調査で問う程度のことすらしないメディアだって、タブーを残しているのですから、一ホテルとその責任者を批判して済む話ではなく、テロという社会病理を治療できない私たちの社会の非人間的現在の現れとして今回のこの企業のこの対応を反省しそこから学び取っていかなければとかんがえます。

この企業が今回の振舞を選択したのも、個別資本の回転の維持のためであり、利潤追求の維持のためであり、そのために事なかれ主義をこの場合選択したのでした。利潤追求維持の圧力が背景にある。

どの個人、どの企業もこの追立てられる圧力からは自由ではありません。

この圧力自体がじつは市民社会における信頼の否定です。他者への不信を前提して私利追求を相互に強制しあうのが市民社会の生還関係的実態ですから。

特殊歴史的な条件を土壌として現れては消えるこうした個別的で偶然的な事件のその背後を貫いて必然的に定着している真の問は、したがって、主体が孤立し相互に否定しあう市場・市民社会の編成をどのように止揚するのかという問です。貨幣が共同体であるという、人格的関係解体的な、社会解体的な生産関係、人格否定的な生産関係、生産における信頼(諸人格の相互承認である社会)の否定を、諸個人が社会的生産を我がものとしてどのように共同制御して止揚していくのか、という問にまで遡ることが、個別的偶然的な流れゆくものを超えた現実的な問いかけであり、現存の編成では解決しないことを解決するようにみせる体制正当化を解体するような正当な問いかけです。企業がより成熟した対応をするように規制を高度にしていくことが、この問いかけを突きつめていく1つの局面であることはまちがいない、ということができます。
by kamiyam_y | 2008-03-07 08:40 | 企業の力と労働する諸個人