さっぽろ地下鉄のなかでマルクスを呼吸する、世界を呼吸する

「格差」という言葉に潜む競争主義・成長主義への拝跪(4)

▽何の罪もない親子がなぜ1億4000万円の税金で買った軍艦によって無惨に海に突き落とされねばならないのだろう。捜索のために船を出した漁師仲間の映像を見て思わず涙しそうになりました。

▽犯人の証拠隠滅の片棒を担ごうとした犬山署といい、冤罪をなかったことにしようとした法務大臣といい、漁をして働く人を暗く冷たい海に沈めた軍艦といい、誤った情報を流したり口止めをしようとしたりした防衛省自衛隊といい、政治的権力は腐敗するという陳腐な法則・傾向は生きています。

司法解剖の問題に取り組んでいる柳原三佳(Amazon.co.jp: 焼かれる前に語れ: 岩瀬博太郎,柳原三佳: 本)が日刊ゲンダイで連載をしているんですが、そこでも時津風部屋の傷害致死事件に触れられていました。

もしも「遺族が新潟大学に承諾解剖を依頼していなかったら」(「『死因究明』お粗末過ぎる日本の現状2」日刊ゲンダイ2月19日号発売18日)、犬山署によって病死とされたままだったのです。おそろしい。司法解剖率世界最低レベルとはこういう隠蔽を可能にすることです。

▽経済権力についても腐敗する法則は妥当。生産物の安全な供給という使命を忘れたJTといい、中国国営企業といい、生協といい。

労災申請をさせないようにしたグッドウィルにおいては、より多くの利潤を得るよう強制されている企業が、労災申請を阻止しようとした愚劣な労働者の行為を介して、労災申請しようとした労働者を抑圧した。資本という生産関係が、法令を遵守しないような個人の野蛮な個性をとらえて、主体化・能動化して、法に反するような行為を行ったのである。資本とは労働者の関係なのに労働者を抑圧する未熟な生産関係である。

グッドウィルに労災隠しの疑い…指骨折報告せず派遣継続(読売新聞) - goo ニュース
<グッドウィル>派遣男性の骨折労災事故、報告せず 宮崎(毎日新聞) - Yahoo!ニュース

企業が民主主義と人権と人間の自由と法を阻碍している。生産関係が犯罪を犯すのが現代です。

▽次の記事によると、米兵による暴行事件の被害にあった14歳の子供を中傷する人がいるらしい。もしもそれが本当だとしたなら、この記事が周辺的なマイナーな現象をことさら取りあげて危機を煽っているではなくて取りあげるに足る現象をきちんと取りあげているのだとしたら、この成熟しつつある社会に、自己責任論ブームは終焉したのに、被害者の傷に集る蠅のような人間以前的な感情が人民のごく一部分にでしょうが、残っているということになる。優しそうな人でも警戒するようにといった心構えを心構えとして限定して知性的に対話するならまだしもであり、人々が犯罪被害にあわないよう対策を構築するために、米兵による犯罪を減らしたり被害にあわないようにするために考えるならよいとしても、そのようなふりをして被害者を中傷する人がたくさんいるのだとしたらいいことではないと思います。米兵に対する米軍の管理指導体制が行き届けばよいという見解も成立しますから基地の是非からは相対的に独立した問題として扱うこともできますしそうすべきでしょうけど、基地反対闘争にこの事件を皮相に利用することに対して反対することが少女を断罪することでできると考えるのは、単に裏返しに過ぎずあさはかです。加害者被害者双方の相関において起きるからといって被害者がいなければ犯罪が起きなかったのだぞと被害者に責任を転嫁するなんてことをばかばかしいとは思わないほどの低い知性なのか、お上やお国を批判することをこころよく思わない奴隷根性、農奴的未開の心情がまだ残っているのか、法と道徳を区別できないのか、軍や政府を批判することに対して悪意と反感をもって被害者を叩かなければと、なにか被害妄想をいだいているのか、米軍基地の街沖縄の抱える問題という文脈を女の子のミスを叩くというテーマにすりかえて矮小化できるとでも思っているのか、人権擁護に対する悪意なのか、人と反対のことを言ってみたいだけなのか、新聞やテレビに出ないような自分の感情論を正しいものとして主張して偉くなった気分を味わいたいのか、劣等感を埋めるために自分を臣民が尽くすべき王の位置において人を断罪してみたいのか、犯罪を犯した側よりも被害者を責めることを正義だとおもう幼稚で冷酷な感情を相対化・反省できないのか、被害者には落ち度あるのだと称して被害者を叩くことで自分を道徳的にご立派な人物だと思い込みそれによって自分のコンプレックスをごまかしたいのか、加害者を免罪して被害者を叩く転倒を転倒と思わない知性のレベルは結局何の経験も学びもしないのか、異性や外国人の友達をつくれないひがみなのか、自分の道徳を絶対として他者に押しつけたい宗教右翼的な共同体幻想なのか、道徳によって他者を支配したいのか、心構えの問題を犯罪加害者を免罪するという転倒にまで不当に一般化して平気な論理能力のなさなのか、個人の心構えと社会問題とを区別できないのか、個人の自己責任・心構えの問題で犯罪がなくなるとでも思っているのか(それなら警察も検察も裁判所も法律も政治家も議会も選挙もいらないし、社会科学も社会そのものもいらない)、知力・価値観・体力など被害者の多様な個性に応じて加害者よりも被害者を叩くのが正しいと思っているのか、鍵を閉めない田舎の家に泥棒が入ったら泥棒ではなく鍵を閉めなかった人が犯罪の原因であるから刑罰を受けるべきだとでも思っているのか、人を信じやすい無垢な人や知識の乏しい人をだます詐欺があったらだまされる方が悪くだます方はやむを得なかった・しかたなかったとでもいうのか、知りませんが、なぜ被害者によってたかって嫌がらせをするのかとおもいます。こういう粗野で教養のない姿勢は、社会病理として分析する必要はあるでしょう。自分以外のあらゆる人間を泥棒や強姦魔や殺人鬼の可能性があるものとみなして行動するという絶対的な人間不信を、実現不可能な信頼の拒絶を、非人間的な敵対を追求したい人は、勝手に独りで自分に対して説教していればよいのです。いっさい警察も検察も裁判も頼らずに殺されたら自己責任と歓び、それをけっして他の人に強要しないでいればよいのです。

asahi.com:自己責任論にNO 女性団体、立ち上がる 米兵事件 - 社会

同世代の子たちはどう感じているのか。

 県中部の高校2年の女子生徒(17)は「繁華街に出かけると、米兵にプリクラや携帯電話の番号を交換しようと話しかけられることも多い」と言う。米兵の友達もいるが、危険な目に遭ったことはない。「米兵の友達を作ることが悪いんじゃなくて、悪いのは性犯罪をする人でしょ?」


米国人と仲良くなったら強姦されても殺されても仕方ないのか。毒入り冷凍食品を食べて死んだら、リスクを考えないのかおまえはと、よってたかっていたぶられねばならないのか。「悪いのは」犯罪する人です。被害者がだれであろうと犯罪は犯罪。女子生徒の言う通り。おしまい。



「格差」という言葉に潜む競争主義・成長主義への拝跪(4)


資本のグローバルな展開

この一国福祉国家もまた資本主義の展開において過渡的なものです。株式会社を要素としている市場という形をとった社会的生産、社会的生産を実現している世界市場、この社会的生産・世界市場という客体的世界を産出しながらそれを喪失している発展した諸個人。こうした資本主義の頂点において、一国福祉国家は人類の最終的な姿ではありえない。

単純にいって資本主義自身が国家を制限と感じ、規制の束を解こうとします。資本主義は、低賃金、長時間労働を強要する圧力を内在しています。いまやそれが、グローバルな連関の力として作用し、国家による規制の効力を弱める形で現れています。この連関の力から問題が発生しているのであれば、新自由主義が国内で「生活」「福祉」をまもろうとする声によって頓挫するのとまったく同様に、一国福祉国家もまた実現しえない理念の地位に落とされることになります。この理念の内部にとどまるかぎり、資本主義のグローバルな圧力を無化することができないというべきであり、この理念は労働する諸個人に対してごまかしとして作用することになりましょう。

「格差社会」批判が労働者にとっての資本の圧力に対する抵抗という側面をもつとしても、そこにとどまるなら解体していく思想でしかないのではないか、ということです。

「格差」の悪循環からの脱出を

一国福祉国家路線が頓挫するという点から「格差社会論」の限界をみましたが、さしあたり2つにわけて異なる論点からも考えてみます。

第1に、「格差社会」論議の受け取り方のなかに、諸個人による協働的規制ではなく諸個人の孤立と相互の否定を表現する立場が混じっていることです。「格差社会」論の受容態度には競争崇拝に連続する契機が含まれている、あるいはもっと強くいえば、流行の「格差社会」論議には「自己責任論」イデオロギーが混在している。

自分の下には下がいると安心したり不安になったりするだけだったら、それは「格差社会」を対象化する態度ではありません。それは、上の上には上がいて、下の下には下がいるという悪循環、これを「格差社会」論議の悪循環の罠、とすれば、この罠にとらえられてしまうことです。「格差社会」の受け取られ方のなかに、自分はニートでなくてよかった、と安心する気分があるとすれば、それは、《比較》による安心と不安というエゴイスティックな《社会関係》が混じっていることです。だれもがこういう関係から逃れられないのですけれど、問題の立て方を「格差」に限定してしまうと、この関係を超える契機をみえなくさせるそういう方向をふさぐことができない。

自分の子供がフリーターとして企業の車輪の下敷きにされないように、正社員として下敷きにされるように教育という社会的活動を利己的生存の手段に貶めるというみみっちい話が「格差社会」論議には混在してます。人間どうしが疎外された現代ではだれもがこの卑小さから逃れられない。「格差社会」論はこの卑小さを超える協同的な契機をふくむとともに、この卑小さにとどまらせる契機もふくんでいる。

すぐに捨てられる部品としてよりも長く使われる部品になること、非正規雇用として労働力をモノとして売り搾取されるよりも、正規雇用として労働力をモノとして売り搾取されることを望んで相互に足を引張りあい否定しあう(「競争する」ともいう)という利己的振舞に働く人々が終始するかぎり、社会的解決の糸口は閉ざされています。弱い資本よりも強い資本に買われることをのぞみ、他の労働者より高く買われることをのぞむという制約されたありかたを、「格差」論議は相対化できない。労働者間競争は競争しあう資本の運動の一側面にすぎず、「格差社会」を対象化せずそこに埋没することは自分をモノにしつづけるということです。

差の問題なのか

第2に、問題は量の差なのか、ということです。

上の上には上がいて、下の下には下がいるという悪循環は、まさしく競争主義を前提するものです。剰余価値の飽くなき追求による蓄積のための蓄積という資本の本性は、資本どうしが押しつけあう競争において実現し、競争とは、相互に否定しあうことです。競争を通じた成長のための成長は、環境破壊、労働における自由の制限、民主主義の企業による空洞化を招きます。上だの下だのという蟻地獄のなかでの話ではなく、蟻地獄全体を対象化すること、成長のための成長というシステムそのものの転換をすることが現実的な変革です。

端的にいえば、労働者という1つの階級のなかでの「差」は重要な問題ではない、ということです。大衆のあいだでの収入なりなんなりの量的な差ではなくて、大衆一人一人の自己疎外の全体こそが問題であって、「格差社会」論議は肯定的な契機を含んではいても、この論議にとどまるのでは、成長主義・競争賛美・物神崇拝・市場原理主義の裏返しという側面から抜けられないのではないかということです。分配において諸個人が受け取る生産物の量的差や、雇用条件の差別的体系に問題を限定してしまうと、問題の領域そのものの転換ができない。問題のなかでのあれこれになってしまう。

「格差」論はじつは市場原理主義と同じものを共有していながらそれを批判する論議であって、根底的な批判になるためには労働者のなかでの「格差」を超え出なければならないとおもいます。「格差」という問題の立て方をすると、市場主義が前提する労働者の疎外や孤立を追認することをふくんでしまうのです。

「格差」について以前に書いたことと多少異なる点もあるかもしれませんが、「絶対的不平等」という言葉を以前に使ってみた(抽象物としての「市場経済」(5)-メンヘル、格差、知識労働-)のも、量の差ではなく、生産関係における対立という質的なものこそが重要だといいたかったからです。(続く)
by kamiyam_y | 2008-02-22 23:27 | 資本主義System(資本論)