さっぽろ地下鉄のなかでマルクスを呼吸する、世界を呼吸する

「格差」という言葉に潜む競争主義・成長主義への拝跪(2)

新聞雑誌から。高山佳奈子京大教授の「世界の潮-危険運転致死傷罪の死角」(『世界』3月)は、法律の厳格な適用が裁判の絶対的な基本であるという法治国家の柱をあらためて確認しています。罪刑法定主義は近代の基本ルールの1つであり、裁判権力の匙加減が法律を越えてしまう事態はいかなる理由であれ当然容認されえない。

道新2月17日6面「くらし」の「労働者に適正配分を」。「富が企業に偏在している」様子を家計貯蓄の減少と配当金・内部留保・役員賞与の増大によって示すグラフがみやすい。大企業の業績好転として現れた資本蓄積は賃銀抑制の賜だったのでした。

『週刊東洋経済』2/16号。特集「雇用漂流」は非正規雇用の問題や「偽装」をとりあげています。とくに「労働現場にはびこる『三つの偽装』の実態」という記事は、偽装管理職・偽装雇用・偽装請負という偽装のひどさをレポート。偽装管理職について「管理職かどうかよりもまず問題とすべきは、本来最低基準である1日8時間、週40時間という労働基準法の規定を大きく越える長時間労働が蔓延している現実ではないだろうか」と締め括っているのは、まさにそのとおり。「時間」問題において資本の運動が人間の自由な生活と衝突するものとして現れます。

資本の理論的把握が「時間」問題を積極的に取りあげるのも、資本の限界を労働時間をめぐる闘いが示すからです。理論は現実による現実の批判であり、現実の実践的問題群に対する自覚的振舞を助長する。「格差社会」論は、この「時間」問題に代表される現代の労働問題に対する関心の高まりとして重要ですね。

同号では短い記事ですが、「中国産は意外に危なくない 毒ギョーザ騒動と危険妄想のウソ」がふつうに冷静。輸入食品の検疫違反率などから、中国産が他国より格段に危険だとする証拠がないことを伝えており、煽る報道が氾濫するなかで有意義な素材を提供しています。


「格差」という言葉に潜む競争主義・成長主義への拝跪(2)

新自由主義的「改革」と社会民主主義

『世界』3月号に掲載された山口次郎・宮本太郎による世論調査分析「日本人はどのような社会経済システムを望んでいるのか」を参考資料としてまず紹介してみます。

この調査によると、「小泉、安倍政権が進めた改革の結果、日本の社会はどうなったと思うか(%)」という質問では、「貧富の差や都市と地方の格差が広がった」とするのが、自民党支持層では58.9%、民主党では70.1%(43頁)。当然民主党支持者の方がポイントは高いんですが、それでも、自民党支持層でも6割がそう考えているのは興味深い。

「改善すべき日本型制度(%)」という質問では、「競争原理を導入し、平等の行き過ぎを見直すこと」という項目に自民党支持層が16.8%、民主党支持層が6.4%賛同。「公的な社会保障を強化すること」は自民党支持層が28.4%、民主党支持層が37.5%。自民党支持者のなかでもいわゆる「競争原理」よりも「社会保障」を重視する人が多いのですね。「官僚の力を弱めること」は、「小さな政府」論の自己陶酔的論調にもみられるのですが、民主党支持層者の方がポイントが高い。政府の仕事と官僚支配とを切り離して考えることができているようです。

山口・宮本は、「都市のサラリーマン」が「競争・効率重視で『小さな政府』を志向するという構図はもやは当てはまらなくなっている」と分析(47-48頁)しており、この間の短期的な雰囲気の読みとしてはまあありうるかなとも思えます。

ところで質問の選択肢にある「平等の行き過ぎ」ってなんでしょうね。本来差別がないと人間は怠けるから差別の鞭が必要だ、政府が弱者を保護するから怠け者が増えた、って性悪説からする見え方でしょうか。本来平等にできないのに無理して平等にしようとすると官僚が権力を握って不平等がひろがる、というひねくれた思想もありましょう。が、この本来平等にできないという見方は、それを逆手にとれば、平等が行き過ぎることが問題なのではなく、タテマエとして掲げながらも実態は不可能だということが問題なのだ、ってぐあいに逆転することもできます。

平等はありえないと主張するのが筋の通った市場主義だとしたら、それは理念的自由平等が現実にはないと断定するに等しくなってしまうため、実際の市場主義は福祉国家との折衷論以外ありえず、平等を配慮しないと正統性を得られません。ここから、機会の平等は国が進めるが結果の平等は個人の責任だというように折衷論もでてくると考えられます。しかし、あらゆる偶然が機会を構成するのであり、結果なるものがまた機会を準備するのですから、機会の平等は保証しますが、結果は保証しません、という分け方はできないというべきですわ。機会の修正のためにはそもそも分配の修正が不可欠なのです。

市場主義批判的平等主義も省略しますが同様にひっくりかえるでしょう。

要するに、平等の基準は何か、何をもって平等とするのか限定しないとほとんど無意味な議論になります。(続く)
by kamiyam_y | 2008-02-17 21:32 | 資本主義System(資本論) | Trackback | Comments(0)
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