さっぽろ地下鉄のなかでマルクスを呼吸する、世界を呼吸する

「格差」という言葉に潜む競争主義・成長主義への拝跪(1)

数日前に腸の具合が変になりました。キシリトールとってないのになぜ、とおもって、原因とかんがえられるものをあげてみたところ、酒からくるアセトアルデヒドなども候補にあがったのですが、おそらくは、サプリメントが原因だろうと。

サプリメントの袋の注意書きにはよくみると胃腸関連の副作用みたいなもんが書いてあります。

サプリじゃなくて野菜なり肉なりとった方が文化的であるだけでなく合理的なのか、やっぱり。栄養素を一部分だけ抽象することが効率よいようにおもっても、やっぱり野菜や肉の筋みたいな嵩(かさ)・ボリュームというか全体が大事なんですね。有機性が合目的的なのでした。無駄におもえるものにこそ存在意義があるのでした。


格差」という言葉に潜む競争主義・成長主義への拝跪(1)

「格差社会」という観念の定着

「自分さえよければいいという人が格差社会をつくっている」

テレビドラマ「特命係長只野仁」で主人公が最後にこんな独白をしてました。

「格差社会」という言葉が流行っているのも、いろいろ理由はありましょうが、この言葉でああそうそう、と納得するできるようないろんな要素が現実にあるからなのでしょう。

「格差社会」批判の盛りあがりには、企業に対する規制緩和、民営化を旗印にする新自由主義路線、もっと短期的には小泉「構造改革」路線に対するわかりやすい反対とか、「構造改革」路線のマイナスの修正とか、以前のスローガンに対する反動という面がありますよね。

生活と福祉の防衛を掲げる野党にとって、与党の「改革」路線を批判する象徴的なキーワードとして、この言葉が働いたのもたしかです。与党がこの批判を取り込むのも、「構造改革」なるものが完結不可能な、社会システムを形成することができない偽の原理だということを証明してます。

よりひろくかんがえると、「格差社会」批判には、拝金主義・利己主義、人間の分断といった現代の負の側面を超えようとする意識が表現されているともいってよい。新自由主義という「市場原理主義に対する批判、労働者の酷使や長時間労働に対する批判が、「格差社会」論議の言葉のなかには現れている。こんなふうにおもうわけです。

格差社会は国会で議論されるテーマにもなったほど。政治が「格差」論議を主題にせざるをえないという事実が、人権と共同体(国家)のそれなりの成熟を語っています。生存権のような人権の発展と、人権をもつ個人からなる共同体のそれなりの深化をみとめていいようにおもえます。

告知

明日11日に北大北大学術交流会館で「北海道の労働と福祉を考える会」主催「格差社会とホームレス―北海道の現状とその行方」というシンポがあります。関心のおありの方は足を運んでみてください。

講演する岩田正美氏は「格差」でなく「貧困」こそが問題と主張しています。

「格差」の機能

ちゃんと読んでないので、不正確かもしれませんが、「格差」が単にあるものにすぎないのに対して、「貧困」はあってはならないという価値判断を含む概念だ、と述べているみたいです。

「格差」が問題なのではない、という論点はおもしろい。「格差」という言葉と「貧困」という言葉にこういう区分をするのはどうなのかな、とも思いますけど。

以下では、氏の主張とは全く関係なく、「格差」を問題として、すこしばかり綴ってみます。「格差」という言葉のイデオロギー性を考えてみようかと。いいかえると、「格差」という言葉は、ある対象のたしかに批判なのですが、この批判対象にとらわれた批判であり、あくまでも中途半端で通過点にすぎないもの、もっといえばこの言葉は、本来批判すべき対象をじつはみえなくしてしまうのではないか、ということです。
by kamiyam_y | 2008-02-10 21:06 | 資本主義System(資本論) | Trackback | Comments(0)
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