さっぽろ地下鉄のなかでマルクスを呼吸する、世界を呼吸する

新春を迎えて


新春を迎え、ご覧いただいている皆さん、あけましておめでとうございます。昨年もいろいろとありがとうございました。本年も気長におつきあいくだされば、幸いです。

新たな年を迎えて、皆さんいかがおすごしでしょうか。

私は、年末年始は研究以外の時間に拘束されてます。このときしかできないこともありますし。おせちはたっぷり食いました。体重増えてるはずです。

元日は、チラシをみてホームセンターに安売りのSDカード1G、1000円を買いに行きました。どこかが元日も営業すれば、競争企業も右にならえです。時間はカネのため。とにかく売りつけろです。私も時間がつぶせます。ホームセンターを歩きながら、シリカゲルとか、真空にできる保存容器とか、あとで買いたいリストを頭のなかでつくったりしてました。


語調を変えて、社会科学を学ぶ意味について雑感です。

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人間が発生以来その歩みを着実に進めていると無邪気に思いこんでいる人はあまりいないだろう。地球環境の破壊、地球規模での格差、戦争、金の支配する政治といった問題群は解決に向かうどころかますます混迷と拡散、収拾不能な領域に入り込んでいるように思える。

人間は、自然であり、自然でありながらも自然と向きあい、それを変革する。変革された自然を受けついで、それにもとづいて自然との交流を深めていく。この交流を前提にして、個々の人間を自由な自己意識、自由な個性として鍛錬していく。労働する個人が社会の根本で生きている。

むろんこの自由は規則を破ることや、協調性がないことではない。他の個人との協調、社会との媒介によって、人間は、世界を拡大する。個性も自由も個人が承認しあうことを介してありうる。

こうした発展の概念に対しては、発展のせいで人間は解決不可能な問題を抱えたのだ、だから発展反対、という悲観論もあるが、発展を疑う意識自体発展の産物である。発展の目的である人間と、発展の無秩序な実際とが全く正反対になっているのだから、これは発展からの疎外のない無邪気な状態をくつがえしている。

産業による地球環境破壊の予測は、いやがおうにも人間に地球環境保全が緊急事態であることを訴える。予測もまた大工業の産物である。問題群の拡大は、人間に対して発展の目的を自覚させる契機である。悲観は冷静な対応に転化する契機を秘める。

人間とその環境を破壊するような発展は、人間の協同的な対応という自覚的な発展をもたらす契機をもたらす。人間の集合力が《他人の富を生産する力》としてのみつくりだされる制限されたありようが問題を制約する壁となっている。

非人間的・非社会的な無計画で《物象的な》関係がまねく発展の暴走に対して、協同の網をかけていくこと、智慧を集結することが求められている。

学問はここでどのような意味をもつのであろうか。人の絆を裂く発展は、前近代的な共同体に人が埋没している状態を破壊する発展であったし、現在でも、その側面はある。しかし、今や発展が要求しているものは、人々の協同的な制御にほかならない。

この制御は、共同体社会への逆行ではない。大工業が鍛える個人の多様性、個人の普遍性を前提して、自由な個人を社会的に自覚した存在として存在させるような社会的しくみである、といってよい。

私たち、個人に対して、問題は開かれている。資本が生みだす《物神崇拝》的な関係は、人間を社会から切り離し、社会を物の形で個人の手段にしている。社会が社会でない状態はしかし、経済法則が制御されずに環境に対立し、人間に対立する地点にまで到達している。この到達点において、自らの集合力を自らどう制御するのか、個人は問われつづけ、《物神崇拝》はその制限された性格を露呈している。学問は、個人に潜む社会的個人としての積極的な意識と連帯する。学問は人間の普遍的な知であり、個人の問題意識と共鳴する。

「心配になるのは、いつでも性急に結論に到達しようとし、一般的な原則と自分が熱中している直接の問題との関連を知りたがるフランスの読者が、どんどん先に進むことができないからといって、読みつづけるのがいやになりはしないかということです。……真理を求める読者に覚悟をさせておくよりほかには、私にはどうしようもありません」(『資本論』フランス語版序文および後書」大月書店全集版、S.31.)


共鳴はそうたやすいものではない。真理は一夜にして身につくモノではない。学問はモノではない。それだからこそ、個人に対して学問は自覚的に働きかけるのである。

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焦らず継続していくことがもっとも大切なことの一つだとおもい、勉強していきましょう。

ということで、新春の挨拶でした。舌足らずで説明不足なため誤解を招く部分もあるかもしれませんが、挨拶文ということで、ご寛容ください。

では、挨拶の繰りかえしになりますが、新年が楽しくご多幸に満ちた日々になりますようご祈念いたします。本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。
by kamiyam_y | 2008-01-02 12:01 | 学問一般