さっぽろ地下鉄のなかでマルクスを呼吸する、世界を呼吸する

協業と機械-スミス『国富論』とマルクスの《資本の生産力》(2)

領収書書き換え(首相、領収書書き換えで陳謝 参院予算委スタート | エキサイトニュース)だけでなく、国と請負契約した企業から献金を受け取るのも脱法でしょう。企業献金による税の搾取でしょう。

こういう搾取においても、貨幣が貨幣を突破していることをみることができます。

貨幣が、物として認知されている関係を飛び出して、政治を攪乱する力として、人を操り、大衆を搾取している主体としてあらわれているのですから。

政治という場面において、自己増殖する貨幣の敵対的諸関係、企業の諸関係という現実的疎外を貨幣自らが示してしまっています。政治という場面において、企業中心社会の転倒的性格が露呈しているともいえます。この転倒性は、企業の力が労働者大衆の社会的生産過程の力でありながら、すくみあう他人の私有としてあらわれ、労働者大衆を抑圧することです。

現実的に疎外された社会的なものである企業の力が、観念的に社会的なものである政治を乗っ取ろうとする。このことによって、社会的なものの分裂が誰の目にも露わになる、といってよいかとおもわれます。

巨大な貨幣の力は、政治を引き裂くことによって、主権在民的な近代的政治という、人々が観念的には主人公である場面を引き裂くことによって、現実の疎外を、人々の現実的な未解放を、非主人公性を、露わにします。転倒を、法的に解放されても現実的に非主人=奴隷であるという転倒を、公開しているのです。

企業において存在してるのは、私物=売買対象のかたちで社会的生産組織にほかなりません。この私物総体は、労働する諸個人にとって外的な疎遠なものとしてそびえたっています。

企業献金の不当さは、企業の力が主権者ヅラをすることにあるわけですけど、この主権者ヅラにおいて、生きた諸個人の社会力が彼等に対して敵対していることを意味しましょう。

私物として認知された貨幣は、それ自体社会的生産の力だったのですが、企業という姿においてそれは、実在的にも社会的生産過程そのものとして立てられています。私物である貨幣が、私物でないものとして、物である貨幣が物ではないものとして、存在しています。

この私物において、私物ではない社会的生産過程そのものをたてるという資本の自己解体的自己媒介は、資本が労働の社会的生産力を資本の生産力として立てるという相対的剰余価値の議論に基本があります。
by kamiyam_y | 2007-10-19 22:52 | 資本主義System(資本論)