さっぽろ地下鉄のなかでマルクスを呼吸する、世界を呼吸する

抽象物としての「市場経済」(4)

勝訴ですね。松山地裁が仙波さんの主張を認める判決。

内部告発の警官勝訴 松山地裁「配置転換は報復」| エキサイトニュース
違法配転に本部長が関与 愛媛の警官訴訟で地裁 | エキサイトニュース

警察の裏金づくりがあったことを前提にしたうえで、内部告発を封じる工作と、告発に対する報復があったことが認められたのですから、意義は大きい。税金を使って違法行為をしてるんですから、実態の解明をさらにすすめ、監視をしていかなければならないと思います。

公益通報者保護法

(不利益取扱いの禁止)
第五条  第三条に規定するもののほか、第二条第一項第一号に掲げる事業者は、その使用し、又は使用していた公益通報者が第三条各号に定める公益通報をしたことを理由として、当該公益通報者に対して、降格、減給その他不利益な取扱いをしてはならない。

労働基準法
(定義)
第9条 この法律で「労働者」とは、職業の種類を問わず、事業又は事務所(以下「事業」という。)に使用される者で、賃金を支払われる者をいう。

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抽象物としての「市場経済」(4)

システムはアクターを操って欺瞞を告知する

2006年の日本経団連の会員企業による政治献金額が前年より1億3000万円増大したそうです。御手洗会長は「政治寄付が重要な社会貢献であるとの認識は定着しつつある」と語ったのだと(「経団連会員企業 政治献金26億円に増加」日本経済新聞、9月15日、14版5頁)。

政治を手段化しようとする資本の蓄積衝動は、「貨幣が政治をつくりだす」とか、より平凡に「カネで政治を買う」などとは表現されずに、経団連会長の口を通すと「重要な社会貢献」に変換されるんですね。

こういう変換を通さないとオーソライズされないということは、「企業とカネ」に対する批判が「定着しつつある」ということでしょう。変換したってそこに透けてみえる関係は、《貨幣の集合体が政治を取得しようとする運動》です。

「社会貢献」という居直りは、批判の定着です。役者の口を通して資本は、人民よ、企業を批判せよ、と呼びかけているのです。資本による《批判の強制》を無防備な口は語っているのです。

生きた個人ではない彼等の関係が独立化して政治をつくりだそうとすることを、あからさまに告白しているともいえましょう。資本主義の現代は、個人にもとづく民主主義と、それと対立する企業中心社会との衝突です。

エゴイズムの調和と天賦人権の楽園

この衝突においては、個人の《関係》が、個人から独立して、企業の増大しようとする貨幣となって、個人を抑圧する主体として、個人の合意した関係を破壊する力として、つくられています。資本は《生産関係》です。

貨幣ってモノじゃないの?と、私たちの表象は反応するかもしれませんけど、ちがいます。約束してつくった便利な道具でもありません。だったらなんで長時間労働や環境破壊が問題になるのさ。貨幣は、約束事として人々が意識してつくったもの、などでは断じてありません。

貨幣は、人が意識することを否定して、貨幣なのです。約束してつくったのではなく約束の反対です。自分たちの関係を、外部の恐ろしい自然力のように放つところに、貨幣は存在します。意識したり、合意したりする関係の外で、人々のつながりを実在させているのが貨幣なんです。

近代の自由平等もここに由来します。貨幣どうしの絆の発展は、人格的隷従という意識する関係を不要にするからです。労働力の売買には、人が土地と職業に固定される隷属関係を壊す必要もあります。

ちょっと大げさにいえば貨幣が近代をつくる。この貨幣は、対立において貨幣である。人が孤立しており、こうした孤立した人に対して、生産関係がモノの関係としてつくられています。この対立において貨幣は貨幣である。諸個人の生産の社会的紐帯が、諸個人から独立して、彼等の外部のモノの運動に置きかわり、諸個人の側は、社会のなかみに無関心な私人へと分解してしまう。これが近代のなかみだともいえましょう。

貨幣は、商品交換がうみだす商品の共同の絆です。商品においては、個々の労働は社会の労働としては立てられていません。個人は労働を社会的労働として自覚してふるまうことができません。労働が社会的な意義をもつのは、商品を等価交換させる商品価値のなかみとしてのみです。

この価値を追求するのは、自分たちの社会的労働をモノとして追求すること。つまり、私利追求とか競争とかいわれているものは、社会的労働から孤立した人間が、モノとしてそれを自分の私利の対象として求める、という転倒にほかなりません。物神崇拝は、競争賛美や、利己主義や、自由主義といった近代の諸観念になります。

モノだと思っている商品・貨幣は、生産の社会的関係が諸個人にとって制御されない外部になってしまったものです。同時に、物象化した関係は、単に諸個人に所属するモノとして現れることで、諸個人を突き動かしています。人がモノに操られることが、近代の「私有財産の自由」という観念にかわります。物神崇拝とモノの人格化は御手洗にかぎったことではないのだった(笑)。

てか、先の御手洗発言は、物神崇拝とモノの人格化を批判する意識を呼びよせるという資本の矛盾なのでした。商品交換のなかでは貨幣はまだおとなしいです。

「天賦人権の楽園」的幻想のなかに貨幣はモノとしてまだ隠れています。社会組織の力としては現れてません。

労働力の売買が、その限界のなかで行われる流通または商品交換の部面は、じっさい、天賦人権のほんとうの楽園だった。ここで支配しているのは、ただ自由、平等、所有、そしてベンサムである。(『資本論』第1部第4章、マルクス=エンゲルス全集刊行委員会訳、大月書店、S.189.)


孤立しあいモノに動かされる個人は「自由」な主体と表象され、交換されるモノは「平等」な人間という姿をとり、個人が相互に排除しあうことは「所有」として合法化され、彼等の「利己主義」「私利追求」は香しい公共利益として賛美されます。

しかし、市民社会の楽園を解体することでしか、貨幣は、自己再生産をできません。私的所有の自由は物象の自由に、私利調和は私利の衝突に、制御しえない物象化された世界に、転じていかざるをえません。交換に埋もれた対立は交換において解消不可能であり、矛盾によって現出します。それが資本です。自分に対して解体的な運動でしかありえないのが資本です。

必要労働と剰余労働

貨幣は増大しなければなりませんが、交換は等価交換であり、騙しあっても全体の価値は増大しません。貨幣の増殖を可能にするのは、ある独自の商品です。

それが労働力(労働能力)です。労働者の精神的・肉体的諸力の総体であり、この諸力の発現が労働です。商品としての労働力は、買った側が処分します。つまり労働させます。労働すると労働力は疲れて動けなくなります。労働力は1日ごとに労働過程で買った側が消費します。

他方、また翌日も動けるように労働者は、労働力を使わせる権限を回収して、つまり企業の外に出て自分の生活を営む。このことが労働力の再生産という意味を客観的に帯びます。労働力は1日ごとに売ります。

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1日の生きた労働は、必要労働時間と剰余労働時間からなります。必要労働時間は、労働者が正常に暮らすのに必要な生活手段をつくりだします。資本主義社会の賃金労働者のばあいは、この時間で、労働力の値段分の商品を生産します。これで、労働力の買手が支払った分を返しているわけです。

労働者が、労働力の値段に代えて受け取った紙や金属は、生活に必要な物(生活手段)に引き替えられます。企業の外の生活時間で、労働者は、この生活手段を消費して、労働力を明日も売ることができるようにメンテし、自分がなくなったあとの労働力の売手をもつくりだします。なお、ここでは資本と労働者の、資本間の、労働者間の競争は無視すべきなので賃銀の差は考えません。

説明は省きますが、細かくみると、次のようなイメージになります。

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交換の自由平等と労賃

ここで交換の生みだす法的幻想は、労働力ではなく労働そのものへの支払いという観念によって、必要労働と剰余労働の区別を消すように作用します。これが労賃です。労賃は、資本を交換の自由平等のなかに埋めてしまうよう働きます。

前資本主義的な生産、たとえば、封建社会であれば、必要労働と剰余労働とはそのまま人に認知されます。たとえば、必要労働は農奴が自分の土地で行う労働として、剰余労働は農奴が領主の土地で行う労働として分割されているというように。生産関係がそのまま人格的支配関係と癒着しているから、生きた労働の質的境界がハッキリと諸人格に示されているのです。

これに対して、資本主義では、貨幣関係が労働と生産物の結びつきを不明にしてしまいます。生きた労働の産物が、必要労働の産物も剰余労働の産物もいったんすべて企業の商品となってしまいます。生産物がすべて生産手段の所有者の生産物として、商品として販売され、貨幣に変えられます。

結果として出てきた貨幣を労働力の売手と買手とがただ分け合っているようにもみえたりします。たとえば、労働者1人の必要労働が2万円分の商品を、剰余労働が2万円分の商品をつくりだすとします。労働者が得るのは2万円です。しかし労働者は剰余労働の存在を自覚せず、単に分け前の一部を得たと理解する。

近代の法的意識は、労働力の売買をそのまま公式化することはせず、生きた労働時間と、それと等価なものとの交換というように変換します。この変換によって労働時間内の必要労働と剰余労働との区別を見ないようにするのです。生きた労働時間に対する等価を交換すると契約することによって、この区別に対する無自覚さが固定されます。

こういう変換をとおすことで、実態を、自由・平等に整合したもののようにして示す。等価を支払っているのだとしないと、平等に反することになり、システムを正統化できなってしまいます。生きた労働時間全体に対して支払うのだとしないと、交換の自由・平等に収まるものとして資本を示せない。労働時間が必要労働と剰余労働とに分かれていて、剰余労働の産物は、生産手段の所有者が無償で得ている、なんて認めるわけにはいかないのです。

労働者が1日に4万円の価値を生む。しかしそのうち労働者が賃銀として得る労働力価値の等価は2万円。この2万円が労働時間全体の値段になるので、剰余価値は意識から消されます。ということは資本の得る剰余価値は出生不明になり、出自は幻想化します。交換によって生みだされたとか、危険に対する報酬だとか、監督賃銀だとか、資本の生む利子だとか、競争が生みだしたとか、競争で勝ったからだとか、「抜け目のない」弁護論(註)の数々が発生します。

註 「・・・・・・各人がただ自分のことだけを考え、だれも他人のことは考えないからこそ、みなが、事物の予定調和の結果として、またはまったく抜けめのない摂理のおかげで、ただ彼らの相互の利益の、公益の、全体の利益の、事業をなしとげるのである。/この、単純な流通または商品交換の部面から、卑俗な自由貿易論者は彼の見解や概念を取ってくるのであり、・・・・・・」(『資本論』S.190.)

しかし、剰余労働は、交換の平等・自由というヴェールを剥ぎとるように発展します。

可視化する簒奪

貨幣はこのヴェールのなかに潜みつづけることができません。貨幣の進行する過程は、剰余価値を資本として再投下する蓄積として実現していきます。これは交換の自由平等からかけはなれた生産の内部に、社会的労働組織を蓄積してしまうことです。交換が想定していないものです。交換とは社会を否定された労働なのですから。資本は労働者の蓄積した労働であり、社会的労働組織です。私的に孤立しあう社会的労働組織の連関が、諸個人に敵対するのが、環境破壊をはじめとする現代の諸矛盾だとしたら、この矛盾をとおして、剰余労働の発展は社会的労働過程を労働者大衆諸個人のものとして示します。

企業の貨幣は社会的労働組織の集合力であり、まさに献金問題において問われているのは、社会的労働を民主主義破壊的に用いてよいのか、ということです。

献金問題においては、「自由平等な個人」の位置を企業が簒奪しています。企業連合が「自由平等な個人」の地位を盗んでいるとすらいってもいいでしょう。交換に向かう幻想のなかでは、企業は生きた個人たちの延長であり、モノ・道具のはずだった。ところが今や企業が人格として姿をとっている。このことが交換的諸幻想を溶かしさっています。企業の貨幣が社会的集合力であり、生きた個人とは同格・対等ではありえないことは誰の目にも明らかでしょう。交換の生みだす幻想のなかに沈んでいた関係が、明解なコントラストで現像されています。

註 企業献金の問題性は、有井行夫『株式会社の正当性と所有理論』青木書店、1991年、52-53頁。
by kamiyam_y | 2007-09-16 23:48 | 企業の力と労働する諸個人 | Trackback | Comments(7)
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Commented at 2007-09-17 13:30 x
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented by kamiyam_y at 2007-09-19 00:41
タイムリーねらいました(笑)。『資本論』第1部の資本の生産過程の中心概念はやっぱり《剰余価値》です。労働の疎外、資本の一般的概念がそこに集約されてます。
剰余価値論の復習プラス《献金に現象する資本の矛盾》を論じてみました。

『賃労働と資本』にも資本はモノではなく関係なんだ、という話がありましたよね。

ちなみに、経団連会長のことばとしては、キャノンの偽装請負に対する弁解も取りあげようと思ったんですが、興味があったら調べてみてください。キャノンの献金額もたいしたもんです。
Commented by sugi-chi at 2007-09-19 01:53 x
こんばんは~。ホントに4月から8月までの復習になりました!ありがとうございます。これって私のため?とか思うくらいタイムリーでした。抽象物としての「市場経済」(4)と「賃労働と資本」を辞書を引いたりしながら読みまして、少しですが「わかるような気がする」部分が増えました(と思います)。ちょっとですけどー
ブログ更新されるのをかなり楽しみにしてます。心待ちにしてます(笑)昼休みとか勉強のつもりで(ホントですよ)。
写真も色々と面白いなーとか思って楽しみに見てます。
Commented by sugi-chi at 2007-09-19 02:17 x
追加です
キャノンの献金額調べてみました。法を変えて外資系からの献金が可能になったこととか書かれていて勉強になります。4000万って、トヨタに次いで多いんですもんねー。なるほどなぁと思います。だーかーらーああいう発言なんですかねぇ。
しかし、自民党ダントツに多く献金受けてますけど、民主党も・・・
Commented by kamiyam_y at 2007-09-19 11:50
残業代ゼロ法案をとおすために、外資による献金を緩和し、さっそく、積極的に献金を再開したのですから、ここで合理化しておく必要があるのでしょう。
政党の政策に対する評価によって献金をするというのは、自分たちの役に立ちそうな政党を支援する、ということです。受け入れる政治家の側も、みかじめ料の集金力をアップしたいというもたれあいですね。
Commented by sugi-chi at 2007-09-20 21:57 x
今日、御手洗会長が基礎年金を全額税負担で…消費税を財源にと提案したとありました。民主党の政策に一定の理解を示したものというような記事でしたが、消費税を上げるということが経団連の方針だから、どこの政党とも協力するってことなんですかね?
Commented by kamiyam_y at 2007-09-25 23:20
民主党の政策影響力が高まったので、その分シフトしたのでしょう。

団体献金総額は過去2番目の水準らしいが、パーティは開催されているよう。http://www.mainichi-msn.co.jp/today/news/20070915k0000m010115000c.html
ちなみに、あらゆる税が収奪だとして、消費者主権としては収入の支出に課税するのはそれなりに合理性があろうかとおもわれ。