さっぽろ地下鉄のなかでマルクスを呼吸する、世界を呼吸する

抽象物としての「市場経済」(1)



都知事選も道知事選もケーサツ官僚の願い通りになったようですけど(都知事選に関する『週刊プレイボーイ』の記事、参照)、選挙といえば、フランス。

フランスは、その徹底した政治革命により近代的な人間解放を牽引し、ナチに対するレジスタンスにより欧州解放を達成し、欧州石炭鉄鋼共同体形成において欧州の恒久平和の意思をリードしてきた社会ですから、今後の欧州の進む方向を考えるうえで目が離せない気がして、及川健二『沸騰するフランス』(花伝社)で大統領選の予習をして待ってました。

及川氏のブログ(及川健二のパリ修行日記http://www.pot.co.jp/oikenparis)によると、サルコジは、「自由競争を尊重する米英流の競争原理をフランス経済に導入すると公約」し、「強硬な治安対策」(同上)で人気を取り、対するロワイヤルは「充実した社会保障」「手厚い子育て支援」を主張しているらしい(4/26《サルコジをロワイヤルが追う展開》)。

図式化すれば、写真の顔が誰かに似ているサルコジは、移民や犯罪に対する強硬姿勢が売りで、それは、幻想上の共同利害を表しています。こういう排他的な保守的言説が、英米的グローバル資本の自由を自由一般と取り違えているのは、ご多分に漏れず、というべきでしょう。他方、社会党の女性政治家ロワイヤルは、この方向のグローバリゼーションに対して、生活と福祉を防衛するという現実的利害に立脚し、理念的には、やはり社会的な連帯という欧州的なものを代表しています。こんなふうに単純化できそうです。

資本主義の現実の蓄積は、決して1つのアメリカという形を取っているわけではなく、総体において多様というべきであり、フランス社会の先進性は知っておきたいと思います。及川氏の本は、極右「国民戦線」のルペンへのインタビューや個性的な諸政党の紹介もあったりして面白いですよ。私がフランスにいたら「快楽党」を支援する・・・かどうかは分りませんけど(笑)。


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資本のグローバルな展開は、労働法制の空洞化、社会福祉の削減、労組への統制、金融資本への統制解体といった協同的なものの解体として進んでいるようにみえます。社会的理性への不信と「市場」への信仰として進んでいるようにみえます。しかしこの解体性は、資本の分裂的な運動が通過する局面のいわば片方にすぎません。解体を通じてつくりだすことが資本という生産なのですから。

以下では、この点には触れず、関連して、このように信仰対象となる「市場」について、資本の展開の姿態として捉え直してみます。といっても、『経済学批判要綱』のなかにあって、よく「資本に先行する諸形態(フォルメン)」とよばれる部分があるのですが、今朝10分くらいそれを読んで思ったことをメモしとくだけなのですけど。

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市場経済なるものの現在のリアルな存立は、労働する諸個人が自己の対象を全面的に喪失しながら、自己の対象世界を産出しているという一過性の運動にある。

いきなり命題ふうに言ってみました。

市場経済とよばれるものが自立してそれ自体で存在していると考えるなら没概念的といわねばなりません。あくまでも市場は資本の競争の姿態としてリアルなのであって、資本とは、形を変えながら蓄積する交換価値(過去の労働)、過程を進んで自己増殖する貨幣であり、この競争が現代を編成する運動をなしています。市場といった場合、単なる自由経済というようなあいまいな没概念的なイメージではなく、超国籍的な企業という形で増大する貨幣に牽引されている経済法則の世界をイメージするべきかと思われます。

労働の矛盾、すなわち、労働する諸個人にとっての客体的なもの(生産手段、生産物)が彼等のものではなく、彼等の労働が彼等の労働ではないという矛盾によって、資本は、労働者が産み出しながら労働者を支配する転倒的な活動体として存立しています。

この転倒こそが、それを通じて労働する諸個人が自らの普遍的な諸力と世界を産出していくのであり、これは避けて通ることができないとともに、この転倒性、敵対性によって諸個人は社会的な活動性を鍛錬され、自らの産出した世界を奪還することになります。このプロセスにおいて、資本の現在の運動が、社会的労働の普遍的諸力を形成するための《局限された生産》としてその限界を証し、資本自身を、通過点として規定していくのです。

市場は自由平等な売買の場として現れますが、それは単なる形式、表象されたものにすぎません。生きた総体において、その現実のありかたにおいて、市場は、資本の姿態として意味をもっています。

労働する諸個人の自己矛盾的な世界産出行為はしたがって、この市場においてするどく現れてきます。ついでにいえば、労働の矛盾と書きましたが、これは資本自身が、自己の産物によって乗り越えられる、という意味で、資本自身の矛盾でもあります。

「現代」はよく、協同性を解体していく新自由主義の支配とそれへの抵抗とか、姿を現しつつあるグローバルな「帝国」とか特徴づけられますよね。

しかし、強調しておきたいのは、どのような特徴づけをしようとも、現在の生産が発酵する諸条件以外に、現在の生産を廃棄する諸条件を育てる世界がないということ、このことが全く自明というべきだということです。現在の生産自身の矛盾にとってそれが関わらないどこかの外部から変革がやってくるということは、空想の世界を除いては、ありえません。どのような変革であれそれは労働の発展の姿態としてのみリアルなのですから。現在を産み出すもののなかに現在を超え出るものが産み出される、という当り前の事実を理論は遮断してならないと思います。

存在する世界は生きた自己運動であり総体であって、存在を再生産することが、その内面的な限界を自ら弁証法的に突破することでしか実現しない、という自己を超え出る運動です。資本という生産自身の産出するもの以外には、「現代」の「最新の」資本主義的生産様式の展開の内部以外には、それを止揚する諸条件を熟成する世界は存在しません。

さて、このように資本は社会総体を編成する力であって、資本は、資本という社会総体にまで自己を形成します。

とすれば、資本という生産様式あるいは資本という社会的生産有機体が、現在する生産様式になるには、自分に先行する諸々の形態を呑みこんで解体していく歴史的過程を通過しなければなりません。先行する生産諸様式から資本という生産様式への変革です。

いわゆる「先行諸形態(フォルメン)」の断片は、過ぎ去った歴史を並べる記述ではなく、資本の再生産によって立てられたものとしての流通を論じる途上で書かれたものです。

資本が資本の産物を前提にして現れる現在の進行は、生産の客体的諸条件と労働力とが癒着している共同体的な生産を否定した歴史状態を過去に想定しています。これに対して、資本のこの現在の進行を捉えない抽象的な見方では、資本は単なる自由な等価交換一般に解消されて現れ、過去の自己労働の産物として描かれてしまいます。このような構図が理解の前提として読み取られるべきでしょう。

この構図のなかで本源的状態の解体過程が記述されているので、いわゆる歴史の段階を人間がわかりやすくパターン化しようという話では全くありません。

『資本論』では蓄積、取得法則の転回、いわゆる本源的蓄積、資本の流通といった論点に分かれていく記述が『要綱』においては一体となっていて、それも1つの魅力でもあるんですが、それはさておき、資本による剰余資本の措定の記述のなかにあることを踏まえて読むことが、「先行諸形態(フォルメン)」の理解を分ける1つのポイントなのでした。

では、資本が今現在生きて運動して社会の基礎になっている、とは、どういうことなのでしょうか。単純にいえば、これは、資本が自分の成果である剰余価値によって生きた労働を再び吸収して自分を立てていく、つまり自分を前提にして自分を立てていくということが、不断に実現していることだ、といっていいかと思います。

資本は、貨幣で商品(生産手段と労働力)を買い、両者を結合して商品を生産し、労働者が消費する生活手段より多くの生産物を生産して、販売し、貨幣を回収する運動ですが、これを一回限りのものとしてみるかぎり、資本としては現れてこないのです。剰余労働による剰余価値を生むだけじゃダメなようなんです(笑)。

『要綱』の表現を真似れば、資本は、《剰余資本》の措定によって、賃金労働者の剰余労働の産物である剰余価値の再資本化によって、はじめて自己を、資本として、自己を再生産する《交換価値》として証すのであって、一回限りの資本は、生産を包含した交換価値ではないのです。

資本を一回限りのものとしてみたばあい、資本は資本に先行するなんらかの《貯め込み》、個人が節約して貯めたお金を、善意で労働者に提供している、という御伽噺が導き出されます。資本を一回限りのものとしてみた場合、資本のリアルな《資本の現在の歴史》は現れず、資本に先行した歴史状態として自己労働による所有が想定されるのです。

これこそ資本を社会的に許容されたものに転換する装置にほかなりません。資本という生産様式が自ずと生みだすイデオロギーであり、資本の弁護論議の基本です。現在する大企業が仮に働く創業者がかつて貯め込んだことを、消え去った歴史上の起点としていると仮定しても、それは本質的に空想であり、現在リアルに存立するということは、生きた労働を不断に《交換価値》が吸収しているからです。

(続く)
by kamiyam_y | 2007-05-04 18:06 | 資本主義System(資本論)