さっぽろ地下鉄のなかでマルクスを呼吸する、世界を呼吸する

観念的生産物の製造責任

《メディア・リテラシーが欠けていたのは、視聴者よりもむしろ制作者の側ではなかったか》

と、関テレの事件を素材に日垣隆が問うていました(「あるある大事典」だけが悪いのか:どこへ行くのかニッポン、日刊ゲンダイ2/23号)。下請けのつくったものを評価する力なかったんですから。そりゃそうですわ。

リテラシーの態度として重要なのは、他者の外化としての表現を疑うこと。

だけじゃなくて、さらに、疑う自分自身の外化である「自分の言葉」を疑うこと。この外にあるものは自分の内面をしっかり規定してきます。

この点、内田樹がこう語っています。

《人間は他人の言うことはそんなに軽々には信じないくせに、「自分がいったん口にした話」はどれほど不合理でも信じようと努力する不思議な生き物だからです》(『狼少年のパラドクス』81頁)。

《「自分がいま発信しつつある情報」に対して適切な評価が下せるかどうか》(80頁)

こそがリテラシーにおいて大事なことなんだというのです。

言うまでもなく、ペン(今ではパソコン?)が民衆にとっての強力な武器ならば、それは民衆を圧殺する威力にだってなります。

貨幣もペンをもつ。権力もペンを持つ。ウソ偽りでっち上げもペンによって拡大する。テレビ局が存在しない事実を創りあげれば、警察権力も存在しない事実を創りあげる。

だから、

ペンの生産物を消費するときは、批判的知性を立ち上げよ。

さらに、私たちは消費者としてだけではなく生産者のなかで労働する人間でもあります。

ペンの生産物を生産するときには、その倫理と手続をできるだけ明らかにしておけ。

と私たちは自分に命じておかなきゃなりません。

福田ますみ『でっちあげ 福岡「殺人教師」事件の真相』(新潮社、2007年1月)は、2003年にマスコミが教師によるいじめとして大々的に報道した事件が、じつは想像された事実にほかならなかったことを論じています。

著者は、教師によるいじめを伝える最初の報道を受けて、現場に入り聴きとりをしてみるのですが、報道されたイメージと現場の雰囲気とがあまりにかけはなれていたために、自分の足によって事件の真相を確かめていきます。

いじめがあったとする保護者の言い分が、正確に検証されることなくマスコミによって拡げられていった過程、それによって、善良でおとなしい教師が凶悪な差別主義者に仕立てあげられていった過程を読むと、ほんとこわいですよ。

とはいえ、ちゃんと救いはあって、社会の理性が働きます。マスコミも原告保護者の主張に対して懐疑的となっていきますし、裁判でも、カルテの開示によって、教師のいじめによって児童がPTSD(心的外傷後ストレス障害)になったという原告の主張が覆されたりしていきます。

教員の「労働時間は1日11時間、休憩時間はわずか9分」(『週刊東洋経済』1/27号、41頁)。保護者との関係が、最近の教師の精神疾患の原因にある(40頁)。

真面目な教員ほど過重労働に苛まされているのが現状でしょう。教師を叩けばよいとするかのような論調の背景にはなんらかの政治的意図がないとは断言できません。

被害者の内面なるものが無媒介に何にも勝る客観的な事実であるかのように思いこむ病気にメディアも感染しているようです。
by kamiyam_y | 2007-03-03 16:46 | メディア資本と情報化 | Trackback | Comments(0)
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