さっぽろ地下鉄のなかでマルクスを呼吸する、世界を呼吸する

ビジネス的デスポティズムあるいは慈悲深き独裁

久々の更新です^^;

自宅のデスクトップがいかれてしまいました。MSに納めた十分の一税は、デジタル貧民の救済には向けられないのでしょうか。出張用のノートパソコンを引っ張り出してみたものの、小さなキーボードも小さなモニターも苦手です。

交差点でカラスの糞を受けとめました。頭にぐちゃっとおちてきた瞬間、見上げると青空に飛びたっていくカラス。「運がついた」なんて変なフォローいらないですけど、ティッシュで拭き取ったら、いいもん食ってるのか、いい土になりそうな糞でした。

人類の悩める頭に尿酸混じった糞尿を落として去るカラスの自由よ。

とでもいいたくなるところですが、畜生への憧憬は無用。彼は飛ぶことしかできないから飛んでるだけです。会社の奴隷になることすらできません。人間は自由だからこそ奴隷になるのですよ。

ビジネス的デスポティズムあるいは慈悲深き独裁

企業内部の非倫理的慣行や法令無視を暴きたてるメディアの情熱に対しては詮索はしないでおく。個々の事例ではなく、以下では、視点を少しばかり上に引き上げて対象を俯瞰しなおしてみたい。

企業と犯罪という二つの単語をつなげただけの「企業犯罪」というありふれた言葉も、あらためて考えなおしてみると、とても奇怪な事態を示す言葉に見えてくる。

「自由平等」「所有」「利己心」といった決まり文句を扉に記した空間から出ることなく、【企業が犯罪をする】現実をつかもうとするならば、それは逆立ちした奇怪な事態として現れる。

「近代」を説明するために人々が集まるこの空間では、生身の人だけが確固たる存在とみなされているのだから、企業なるものが人と同じ主体として現れるのは、あってはならぬ歪んだ仮の現実なのだ。

生身の人ではない企業が意思をもった人として現れることは、「近代」の立脚点だと認知されているこの空間を破壊する事態が出現したことを意味するのである。

あの人やこの人の意思ではない企業の意思なるものは、この空間では「所有」にもとづく株主の総意でなければならない。だが、それは1つの虚構にほかならず、この虚構は虚構としてすべての人に了解されうるほどに解体してしまった。

私たちの現在とは、「近代」を説明するこの空間が、あるいは近代そのものとして現れたこの空間がそれ自身で立ち上がっているのものではないことを、潜在的にはあらゆる人が了解しうる時代である。「自由平等・所有」という近代のこの理念的空間の外部に現実の真の形成者が存在していることが、隠されているのではなく、そこかしこで示されている。

Management would discharge its duties by being a benevolent despot. As in all benevolent despotisms, no one tried to define what those “best balanced interests”were or should be. Worse still, there was no attempt to make management accountable to anyone.(Peter F. Drucker, Post -Capotalist Society ,New York,Harper Collins Publisher, 1993, p.92.)

そして経営管理陣は、組織内において博愛専制であることによって、その責務を果たすことができるとした。しかしこの博愛専制は、他のあらゆる博愛専制と同じように、「最も均衡ある利益」とは何であり、何であるべきかについては、明らかにしなかった。さらに悪いことには、経営管理陣に対して、何者かに対して責任を負わせる試みも行なわれなかった。(ドラッカー『ポスト資本主義社会』上田惇正・佐々木実智男・田代正美訳、ダイモンド社、1993年、145-146頁)


ドラッカーは、所有権を持たず所有権の拘束から脱した専門経営層の出現がひきおこす、社会空間の深刻な裂け目に着目している。この経営専制は誰のために、何にもとづき構成されているのか。生身の人の所有に制御されずそれ自身の意思をもつような権力は、「近代」が自分を説明するための舞台を破壊してしまった。

独自の専制権力として現れた経営は、専制権力のご多分に漏れずというべきか、自らを対立しあう利益の平均値だと称することによって自分自身の土台を確保している、と錯覚している。

引用文中のbenevolentは、慈悲深い、博愛の、仁慈の、慈善のための、善意の、好意的なといった意味をさし、その類義語のphiranthropicは、人類の福祉に関心を寄せるありようを、charitableは、貧しい人に与えることなどを示す(『研究社 新英和大辞典 第6版』2002年から)。

Enlightened despotismといえば啓蒙専制君主だが、ここで言われているのは、benevolent despotisms。この「博愛専制」は、いってみれば褒め称えられるべき慈悲深い君主、神の人格的代表としての君主、とでもいえようか。個体の行為が自発的に人類の福利を導く神の行為であるような博愛を、共同体の意思としての君主が体現する。分裂した現実を覆いかくすこのありえない世界、幻想は企業の権力において再現されるのか。

企業の専制権力に対して「企業倫理」「社会的責任」が要求され続けている。このことが意味する発展は何だろうか。さしあたり指摘するべきは、この権力が、無差別な「私的所有者」による自由平等な合意という虚構を飛び出してしまっているということだ。

この虚構の内部に止まるならば、「企業倫理」「社会的責任」など要求されるはずもない。

「近代」の単純で形式的な「所有」の「法」の外側に、権力として現れている共同的関係は、労働の社会的関係が積み重なって出来上がっている。「企業倫理」の要求とは、誰もが破ってもよい道徳によって、企業の自発性に期待することによって、企業の利潤追求の矛盾を隠すにとどまらない。

この要求は、労働の社会的関係に即した規範を生みだす試みであって、社会的生産の発展が単純で形式的な私的所有の法だけではもはや対応できないことを示す。加えて、この倫理を破ると「市場による淘汰」という経済法則の制裁を加えられる可能性もある。

しかし、この「企業倫理」「企業の社会的責任」は、企業による規範の突破、企業犯罪と補完しあっているようにみえる。犯罪へと誘引する経済法則が働くからこそ、社会的責任の要求は消滅しない。「博愛」はどこまで行っても経済の論理の本体には届かないという部分を残す。

企業の権力の公共性が君主の「博愛」や権力の「慈悲」によってしか担保されないものならば、どこまで行ってもこの権力は働く人々のものではなく、彼等にとって外部の存在に止まるというほかはない。

神を利己心の闘争の世界に売り払った近代は、神ならざる神、すなわち貨幣を、人間の統一性を仲立ちするものにした。この貨幣は労働を吸って肥大することによってのみ存在する主体となっている。主体となった企業の権力は、貨幣の人格的代表のようでもある。

自立した企業の意思は企業の意思ではなく、それはもはや意思と呼べるものではなく、生身の人と衝突する経済的諸利害の衝突であって、物象の意思とでもいうほかない経済法則なのだ。企業が社会的規範を引き裂くことは、物象が人間的関係を引き裂くことだ。物象とは生身の人と敵対する形で形成された、彼等自身の社会的生産の編成運動である。

生産組織の「博愛専制」は、社会的生産が真の社会的生産に転換する地平が現れることを指示している。
by kamiyam_y | 2007-02-21 00:04 | 資本主義System(資本論)