さっぽろ地下鉄のなかでマルクスを呼吸する、世界を呼吸する

自己の時間の他人の時間化(4) 「サービス残業」が露出するもの

「サービス残業」は、たまたまの法律違反ではなくて実態として完全に定着しています。賃金不払が定着しているということは、賃金の本質や、賃金を超える剰余労働のしくみがいわば目に見える形で現れているということです。

「サービス残業」をもたらす圧力をつかんで非サービス残業の内部に剰余時間を発見することは、「サービス残業」として現れた事柄のなかに非サービス残業の真理を見いだすことです。今回は「サービス残業」を眼前に据えて、それが告知するものを明らかにしてみたいと思います。

「サービス残業」は、私たちが気づいていながらも見て見ぬふりをしている事柄を私たちに突きつけています。これを認めたら資本主義の正当性が崩壊してしまい、明るい未来が見えるだけではなく、考えることが増えてしまうので見ないようにしている事実ですけど、それを「サービス残業」はハッキリと見させてしまいます。

「サービス残業」の定着という事実は、ちょっと考えてみると、賃金として支払われている価値額と、実際の労働時間とがまったく別のものだということを示していることが分かります。労働時間が延長されても、賃金は変らないことが定着しているのですから、賃金には固定された上限があるけれども、賃金として支払ったカネで買った労働力を企業が使い込む時間は、延長可能なのだ、ということになります。

賃金は少なく、労働時間は長く、というのはこのことにもとづいて、資本が強制する傾向です。

たとえば、200時間の労働でしたら、労働者5人で40時間ずつすればいいはずですが、企業としては、労働者4人に、各自10時間ずつ「サービス残業」をさせれば、人件費1人分削減になります。賃金を減らして、利潤を増やすことができます。これは賃金の中身と、労働やそれが生む利潤とが別の変数だから可能なわけです。

賃金は労働力商品の代金であって、労働自体は労働力を消費することであって、「労働の値段」なんて経済的実態においては存在せず、それは単なる法的お約束としてあるだけです。

「サービス残業」は、資本主義社会において、法的自由平等と経済の実態とが衝突することをも示しています。法的には企業と労働者は対等で、労働に対して支払われることになっています。

しかし、「サービス残業」は、賃金が時間給という合意があっても現実には時間に対応しないことを意味しており、賃金が労働に対して支払われているのではないことを明かしてしまっています。企業は労働時間に比例する賃金を約束しながら、労働時間に対して支払わない。このことは、貨幣が労働そのものに対して支払われているのではないこと、企業は賃金の大きさに左右されずに、労働時間を延長する力をもつこと、法的な対等は実際には諸個人に制御されない企業の力に転回することを、示しているといえます。

企業が労働力に少なく払い、労働を多くさせるといういわば資本蓄積の法則も、失業・半失業という強制された怠惰を蓄積するのであって、大衆が働くなかで承認しあう自由・権利・能力を疎外しています。資本主義を形づくる奥底の矛盾は、単なる経済の問題にとどまってはいません。

「サービス残業」の定着は、企業の諸力のおりなす関係が、国家による法律的制御を破りつづけていることです。社会的労働の過程が諸個人を強制的に社会的生産に結びつけるけれども、諸個人が主体となる社会的過程とはなっていないことを告知しています。

日本型ホワイトカラー・エグゼンプションと称するものを企業は強引に導入しようとしています。

賃金制度は、個人の自発性を促す契機もありますけれど、労働時間や労働の密度を増大する梃子にもなります。例えば出来高賃金で、以前8時間でおこなっていた仕事を7時間で仕上げ、8時間の生産量を増やすことができるようになっても、それがこんどは賃金の新たな基準になりますから、実質賃下げ、労働強化です。目先の利益のために競争に埋没するほど、自分の首が締められていくしかけなわけです。
by kamiyam_y | 2006-10-07 00:59 | 資本主義System(資本論)