さっぽろ地下鉄のなかでマルクスを呼吸する、世界を呼吸する

「美しい国」という空虚な観念

「ロビ地下」と言っても通じない学生がいるのですが、ススキノにあるロビンソン百貨店は飲みに行くときの集合場所としてよく使われます。

この百貨店がヨーカドー系列なのは知ってましたが、スピッツの「ロビンソン」がタイのロビンソン百貨店に由来するというのは知らなかったです(Wikipedia、ロビンソン百貨店ロビンソン (シングル))。だからといって、知ってもべつだん利口になる情報ではありませんけど。


「美しい国」という空虚な観念

安倍晋三の所信表明演説。

読んでみる?安倍首相・所信表明演説の「全文」-政治もニュース:イザ!

人当たりがよさそうというムードに騙されちゃいけません(笑)。戦前回帰オタクは「美しい国」が好き。国家という抽象物への愛情を冒頭から語っています。

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 私が目指すこの国のかたちは、活力とチャンスと優しさに満ちあふれ、自律の精神を大事にする、世界に開かれた、「美しい国、日本」であります。この「美しい国」の姿を、私は次のように考えます。

 一つ目は、文化、伝統、自然、歴史を大切にする国であります。

 二つ目は、自由な社会を基本とし、規律を知る、凛(りん)とした国であります。

 三つ目は、未来へ向かって成長するエネルギーを持ち続ける国であります。

 四つ目は、世界に信頼され、尊敬され、愛される、リーダーシップのある国であります。

 この「美しい国」の実現のため、私は、自由民主党および公明党による連立政権の安定した基盤に立って、「美しい国創り内閣」を組織しました。……

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人間ではなくいきなり「伝統」です。「美しい国」が定義されないがらくたであるとと同様に、「伝統」も人それぞれ。「革命の伝統も伝統」とか、「茶髪こそ真の日本的伝統」という主張も安倍のあこがれる「伝統」と等価のはずですが、彼が意図しているのは異なります。「美しい国」というなら利権がらみの乱開発を止めることこそ「美しい」だろうという考えもあるにもかかわらず、彼の「美しい」の中身は「伝統」。しかも「伝統」の中身は、個人を共同体の手足と見るような観念。

「歴史」を大切にだって、《歴史を修正する》という戦前美化の教えですし。

「凛とした国」ってのも、凛々しさを愛する軍国主義を思わせます。この手のすがすがしさを好むのはいかにもファシストの感性。

「美しい国創り内閣」というキャッチフレーズは、後ろに出てくる「子育てフレンドリーな社会」とともに恥ずかしいセンスですし。

「筋肉質の政府」というのも出てきます。これは虚弱体質や高脂血症に対する当てつけですかね。体が弱い人は経済効率が悪いのかな。

「未来へ向かって成長する」というのは、政治主体が資本主義にとどまろうとしながら語らざるを得ない資本主義超克の宣言ですね。安倍自身の思想と矛盾する、社会の発展の本筋としての《持続可能性》です。

「世界に信頼され、尊敬され」も、憲法と教基法の国際主義的な人権宣言を実現することですから、この言葉で安倍が示したい妄念とは正反対の理念です。

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 最近、エレベーターの事故や、ガス瞬間湯沸かし器による一酸化炭素中毒といった、規律の緩みを思わせる事故が相次いでいます。事故リスク情報の公開や安全規制の強化など、再発防止に向けて取り組んでまいります。

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企業犯罪にも、「規律」という言葉をことさら使いたいようです。企業犯罪が教育基本法のせいだと言わんばかりというか。

企業の社会的責任(CSR)は、しかし、「規律の緩み」という精神論的なニュアンスで片づけるべきではありません。企業の社会的責任がなぜ問われ、また、企業に対する規制がなぜ有効に働かないのか、という点が社会科学的に詰められねばなりません。

企業と人権との対立という問題は、社会統合を無秩序な成長主義経済に委ねることが必然的に含む矛盾です。企業犯罪は、小手先の強化策のレベルで終る問題ではありません。

企業の社会的責任は、多国籍企業に対する社会的制御の意識であり、それは、地球規模で問題となっています。企業の社会的責任が問題となってくるのも、企業の形で発展した社会的労働は、誰のものであり、誰のためのものであるのか、社会的に問われているからです。発展した社会的生産を、個人を押しつぶす経済法則や市場や企業の暴走としてではなく、個人の生を豊かに実現するためのものに転換しなければならない。そのためには、この社会的生産に対して社会的な制御が必要である。このことが、一種の合意となっているから、企業の社会的責任が問題となっているのです。

地球規模での人権の実現の試みに、企業の社会的責任論は包摂されるといえましょう。

ですから、企業犯罪に対して、「美しい」国家主義という、反人権主義的な「規律」強化によって対処しようとするのなら、あまりに浅薄といわねばなりません。

ここでは、単に企業犯罪を取りあげてみただけでしょう。背後の社会関係を見ることのないただの所信表明、ただの付け足しです。「再発防止に向けて取り組んでまいります」と官僚的な作文で終ってます。

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 私が目指す「美しい国、日本」を実現するためには、次代を背負って立つ子どもや若者の育成が不可欠です。ところが、近年、子どものモラルや学ぶ意欲が低下しており、子どもを取り巻く家庭や地域の教育力の低下も指摘されています。

 教育の目的は、志ある国民を育て、品格ある国家、社会をつくることです。……
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ここは、安倍がその国家主義的妄想をあらわにしてる箇所です。

ここは安倍の倒錯ぶりがよく表れてますから、ここを批判しているブログもかなりあります( ONO-Masa Home Page (はてな出張所) - 教育基本法「改正」反対―所信表明演説・危険。、など)。

「私が目指す『美しい国』」のために教育改革を行うのでしょうか。そうだとしたら、転倒です。

学ぶ意欲が低下するって何でしょうか。そんなことあるんですか。ついこないだまで、そんなみんな学ぶ意欲にあふれてたんですか。

仮に低下したとしても、それは、家父長制的家族を復活させたい宗教右翼的熱意や、共謀罪や国民投票法、改憲や教育基本法改悪などによって、国家権力による教育支配、メディア介入、表現の弾圧、自由な思想の弾圧によって、子供の意欲が向上するのですかねえ。

しかも何のために学ぶのかというと、「品格ある国家」のため。おいおい。

結局、何のための「学ぶ意欲」かといったら、国家のために奉仕する人柱。あれ、ここは北朝鮮か。まあ、つきつめてしまえば、すすんで企業や軍隊の歯車になろうとする人間、批判的思考を失った人間を生産したいだけ。

ちなみに最近「小学校で校内暴力増加」というニュースが流されましたが、教育基本法改悪のための下地づくりのにおいがします。

カルトvsオタクのハルマゲドン/カマヤンの虚業日記

で指摘されているように、特定の県だけに集中してます。小学生で校内暴力もへったくれもないでしょうが。

現代日本の変革に必要なのは、教基法と憲法の理念を実現することであって、それらが古くなったとか、個人が権利を主張しすぎるから国家が大事だ、といった議論は根本的に逆さまです。こうした逆立ちに潜む全体主義への回帰願望は、企業の私利による社会退廃とじつは補い合っている空虚で仮想的な関係であって、なんらの進歩をもたらすものでもなく、個人に対する抑圧を強化する道です。

安倍は、憲法と教基法を全体主義的に変えることにあこがれているだけあって、この演説には「権利」も「人権」も「民主主義」も出てきません。

「自由な社会」という言葉も出てきますが、これは、個人の権利と民主主義(憲法の「基本的人権」「主権在民」)から切り離されていますから、生きた個人という主体(内容)を欠いた、飾りにすぎないというべきでしょう。

あるいは、新自由主義の弁護イデオロギーとして機能するしかないような抽象的な観念としての自由であり、生きた個人の自由、労働する大衆の自由ではなく、拝金主義エリートや巨大資本の自由をまず拡大する「自由」でしょう。「レッドパージ」的なイデオローグのいう「自由」といってもいいかもしれません。【生きた個人の自由な発展を徹底する自由】ではありません。中途半端で抑圧的に機能する「自由」です。例えば、大企業の自由を守るために思想統制をするのが本音の自由は、自由を抑圧する自由ですから、こういう反民主主義的な自由は、社会的実体のない、自由に矛盾する自由ともいえます。


なお、教育基本法をめぐる最近の論考として、以下のものがあります。
竹内常一『いまなぜ教育基本法か』桜井書店。
大内裕和・高橋哲哉『愛国心・格差社会・憲法』白澤社。
美馬孝人「国民の教育権の後退と教育基本法の『改正』」(北海学園大学『経済論集』第54巻第1号、2006年6月)。
by kamiyam_y | 2006-09-30 20:36 | 民主主義と日本社会 | Trackback | Comments(3)
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Commented by きぼう屋 at 2006-10-01 21:06 x
右か左かということではなくて
抽象的か具体的か
イメージのみか中身つきか
ってところで議論せねば
と思います・・・
勉強になりました。感謝。
Commented by kamiyam_y at 2006-10-17 23:30
きぼう屋さん、読んでほしい点をしっかりと読んでいただき、ありがとうございます。

中身を限定しない抽象的な言葉は、裏にあるものを隠します。これに対して、事柄に即して、場面を限定していき、隠れていた具体的な中身を露出させていくのが、現実的で批判的ということでしょうね。

それ自体きれいな言葉でも、じつはまったく中身が限定されず、いわば使う側の裁量で特定の観念のために使うこともあるわけです。意図や具体案を知らさせないことによって、何となくいいかという雰囲気をつくろうとしたり。

「自由」にしても、それが具体的な労働の発展や人間の成長を含まない形式的なものにとどまると、労働における疎外や犠牲を隠したり、助長したりするものになってしまいます。
Commented by kamiyam_y at 2006-10-17 23:30
社会の具体的な深部の発展では、大企業もあれば、権利を実現できない貧しい人もいて、利害が抗争してますから、単に形式的に自由というだけでは、それは一部分にますます富を集中させ、他方自分の豊かな生を犠牲にする人々を放置することにもなりましょう。

具体的な中身をともなった権利として権利を具体化する姿勢が、安倍には決定的に欠けています。というか、それとは反対の指向性をもってるわけです。格差に配慮するポーズもみせてますけど。

自分の国家観から出発するという逆立ちが安倍氏の言葉には含まれているわけですが、これに対して、明確に自覚すべき選択肢は、生きた個人個人の生活や権利を、単なる合言葉にせず、具体的に展開された社会にとっても堅持すべき軸として、原則として実現していくこと、でしょう。

左と右は場面によって相互に入れ替わりします。不毛な水掛け論も可能です。きちんと対象を限定していくことが、共有の知を拡げるのではと思います。権利だってそれ自体は、社会に共有されている原理ですし。具体的に展開することがラディカルなんではないでしょうか。