さっぽろ地下鉄のなかでマルクスを呼吸する、世界を呼吸する

「再チャレンジ」のいかがわしさ

昨晩ススキノで、平日なのに人出てるな、家族連れも多いし、と思ったら、お盆休みなのですね、世間は。それで、遇った学生が「今から帰省します」といってたわけだ。

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昨日は「再チャレンジふれあいトーク」という安っぽい言葉に赤面しましたが、「再チャレンジ」という言葉だけでも、欺瞞に満ちています。

要するに、この言葉は、「負け組」という烙印を押された者にも、もう一度チャレンジさせる、といっているに等しい。

「勝ち組」「負け組」という二分法をあらかじめ動かぬ前提としているわけです。この二分法自体が、社会問題を個人の問題にすり替えて隠してしまう装置なのですから、「再チャレンジ」論はほんとうにいかがわしい。

確かに「格差社会」を課題として認知している点では認めうる前進はあります。「負け組」を放置するのが資本主義の正しい姿だ、という野蛮な思想は現代では通用しません。

とはいえ、「再チャレンジ」の安倍的発想は、理念なき弥縫策と呼ぶのがふさわしいと考えます。

「再チャレンジ」をカネの言葉に翻訳すれば、安く使い捨てた労働力を、リサイクルしてまた安く使う、ということでしょう。資本主義は資本蓄積(成長)のためには、使われていない労働力の貯水池を必要とし、この貯水池は、蓄積がすすむ時期には労働力を企業に提供し、蓄積が減退する時期には、企業から労働力を吸収します。資本蓄積はみずから調整装置をつくりだすのであって、この資本主義の運動様式が、いわば自然発生的に、「再チャレンジ」という言葉に現れる思考を生みだすのだといえます。

「再チャレンジ」論は、この運動様式を隠す役割も果しています。この思考方法は、格差が発生する社会の問題を見えなくするように、イデオロギー的な塗装を施します。「負け組」の発生を前提したうえで、競争経済の歯車になることが社会のためだ、という虚偽意識に人々を統合しようとしているのですから。

「負け組」を社会のお荷物であるかのように印象づけたうえで、それを救ってやるとみせるマッチポンプともいえるかもしれません。

現在のもっとも先進的な社会であれば、個人の労働の権利を実現する問題として、政策の理念をたてるはずです。少なくとも今必要なのは、「再チャレンジ」という曖昧な標語ではなく、「スキルスタンダード法」や「労働力投資法」のような具体策でしょう。
by kamiyam_y | 2006-08-11 18:40 | 民主主義と日本社会 | Trackback | Comments(0)
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