さっぽろ地下鉄のなかでマルクスを呼吸する、世界を呼吸する

女性の自由(補)

初期雇用契約(CPE)撤回ですね。要するにこの雇用政策って、雇用を増やすという名目で、26歳未満の従業員を理由を告げることなく解雇可能にするわけで、若者使い捨ての制度でしょう。若者の権利を損なうし、フランス労働者が勝ち取った権利を崩すことにつながりますから、大反対は当然。シラク仏大統領が新雇用策の撤回を発表、労組は勝利宣言 | Excite エキサイト : ニュース

さて、先日書いた 女性の自由に補足しておきます。イスラム国家の女性差別をどう見るかという点で、人権の普遍的な意味について言及しました。

《個人》や《人権》や《女性差別反対》や《自由》を「西洋的な価値観であり、私たちにはふさわしくない」と言って女性抑圧を隠蔽しようとするのは、途上国の保守主義者や民族主義者、伝統回帰の共同体主義者です。それだけではなく、市場主義に対して「文化」的深層や構造や制度を対置する論者の中にも、《人権》への疑念がみられます。しかし、個人がかけがえのない1回限りの生を生きる主体であることは、人間の普遍的本性に即してグローバルであって、地域限定の理念ではないのです。マーサC.ヌスバウムの『女性と人間開発』(池本幸生・田口さつき・坪井ひろみ訳、岩波書店)をめくってみて思いました。ヌスバウムは国連の人間開発human developmenの背景にあるcapability approachを推し進める理論家で、アマルティア・センよりもマルクスを前面に出しています。普遍的な《規範》を探る手法は、批評しにくいんですが、おもしろさと物足りなさともに感じます。

《人権》はグローバルゆえに、先進国、途上国を問わず、諸個人にとって武器となります。イスラム国家の女性差別は、先進的現代国家のなかに隠されて残っています。女性差別解消反対論者は途上国だけではなく先進国にこそ新保守主義という形をとって生息しているのですから。

もちろん資本主義の発展が《自由》の発展の条件を創り、女性解放を促すことは、前回指摘しておきました。私は資本主義とは別に家父長制の支配があるとか、男性が支配する構造があるとか考えませんし、資本主義が進むほど女性が差別されるとも捉えません。専業主婦を遅れた存在とみなすのも道徳にすぎないと思います。

さきほど、個人が主体として、人間の普遍的本性に即してグローバルであると述べました。補足すれば、これは人間の本質的活動としての《労働》に立脚してそうなのです。《労働》に即してつかむことによって、市場原理主義の前提となっているような幻想的な「個人」を、イデオロギー(意識の姿をとった特定の社会関係)として批判できます。

資本主義批判が労働論に根拠づけられない場合、《個人》を主体とすること自体が、資本主義の前提する競争主義的個人をもちあげることと混同されてしまいます。「自己責任論」が想定するような競争主義的な個人は、人間の社会的存在性を見失った非学問的な人間観です。市場主義が前提する原子論的個人はじつは市場が生みだした関係性にすぎず、社会の起点などではありません。競争主義的な個人を拒否することは正当ですが、だからといって個人を主体とすること自体が、西洋や近代や資本や市場を美化することにはならないのです。ちょっと書ききれないんですが、労働によって基礎づけられる人間の普遍的な主体性こそ、グローバルな批判の立脚点であり、それを人権主体としての個人と呼ぶなら、個人も人権も廃棄すべき概念などではないのです。
by kamiyam_y | 2006-04-11 00:15 | 現代グローバリゼーション | Trackback | Comments(0)
トラックバックURL : http://kamiyamay.exblog.jp/tb/3777268
トラックバックする(会員専用) [ヘルプ]