さっぽろ地下鉄のなかでマルクスを呼吸する、世界を呼吸する

《個人的所有》の再建と「現代」

▼ 2部の講義の20分前に講義資料を印刷しようとしたら、印刷機の調子が悪く、すごく焦り、時限爆弾処理班みたいな気分で、印刷機のなかを調整してました。ばたばたしてて明日の会議の資料家に持ってきてて、これから読みます。
 16日の月曜まで、最終回の講義・ゼミが続きます。つまり、16日で授業は終了。早いもんです。

▼ 講義は楽しいのですが、2月3月の大学教師の繁忙期の業務の大半は楽しいものではありませんので、考えないことにしてます。何時死ぬのか分からないのですから、好きな音楽を聴き、文章を書き、研究し、人と語らう。人生は明日あさって来年から始まるのではなく今以外リアルじゃないんですから。

▼ ゼミで1月1日にバイトしてた人に挙手してもらったら、半分くらいいました。かつてのように正月ずっとお節料理以外食べられず、どこにも行けない時代よりは今のほうが便利ですが、その裏には休みなき労働者もいるわけです。

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以下覚書。きょう講義で「個人的所有の再建」「否定の否定」「資本主義の歴史的傾向」「資本主義の歴史的位置」について話しつつ、思ったことです。




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自由な個性の発達の条件 生産手段を自分のものとすること

生産手段は、人間にとって自分の本質だ。生産手段に対して自己のものに対する形で関わることは、自分の発展の土台を諸個人がわがものとしていることであり、自由な個性の発達の条件が生産手段であると言ってもよい。

資本主義的私的所有が否定するのは、自由な私的所有である「個人的所有」だ。これは、独立的な小経営を内容としており、歴史的には自営農民に示される。

この個人的所有は、生産手段を自己のものとする点で自由な個性の可能性を秘めているが、生産手段を分散的なものにとどめ、社会的生産手段にしていない。社会的生産力の発展、労働の社会的労働としての編成は排除されている。

資本主義の意義は、この小経営が排除していた、社会的生産力の発展、労働の社会的労働としての編成をつくりだすことであり、それは、「個人的所有」を否定し、資本主義的私的所有に置き換える。

自由で社会的な個人の発達の条件 労働の社会的生産力の発展

資本主義的私的所有では、労働する諸個人は生産手段から切断されている。ゆえに彼は労働力を売り、労働を剰余価値として資本に加える。

生産手段は労働者から取り上げられるが、このことによって、生産手段は社会化され、労働力も結合されて社会化される。労働者の無産は、社会的生産の発展のために通過すべき意味をもっているのだ。

私たちは本当に貨幣をもっているのだろうか?ここで問うてみる。私たちのポケットの金は、未来の生活手段(生活に必要な衣食住にかかわる労働生産物)だ。どんな生活手段も消費されて労働力に姿を変える。貨幣とは、過去の労働の代表であり自立化だが、私たちのポケットにある金属は、単なる記号だ。明日は資本家の手に戻る。私たちがお金と呼ぶものは、貨幣として自立していなく、単なる貨幣の代理、形だけの貨幣にすぎない。

自立して増殖する貨幣は、私たちの反対の側にある。そう、もちろんそれが「資本」だ。

私たちはだから、何も持っていない。財布の中の金属にせよ、美味しい食べ物やきれいな家具や家にせよ、労働力の姿にすぎない。

私たちは私たちの発展の土台である生産手段から切り離されている。これが「絶対的貧困」だ。

私たちは、自分たちの労働を、自分たちのものとして持っていない。私たちは、自分たちの労働という社会の発生源を、自分たちの成長の基盤を、自分たちのものとしていない。私たちは、自然の自己変化である労働を、自分たちの自然(本質)を持っていない。

私たちは、自分たちの環境である社会を生みだす発生源である労働を、自分たちのものとしていない。私たちは、私たちの労働から排除され、私たちの本質から排除されている。労働する私たちは、労働から疎外されている。労働は絶対的に分裂している。1つの自己が分裂している。自己疎外である。労働の自己矛盾である。労働の自己矛盾の展開が資本主義である。

この展開は即座に分裂の止揚、統一への運動である。

自己疎外(自己矛盾)は、私たちの対象の形成であり、本質の形成(本質の対象化)である。自分たちの労働を自分たちのものではないものとして発現し、自分たちの対象世界を自分たちで制御できないものとして産出する。疎外は疎外による形成であり、他の物の力としての自己の世界の産出なのだ。

「資本の歴史的傾向」としての《現代》

資本主義の発展は、生産手段を労働者から取り上げることによって、じつは生産を社会化し、労働の社会的生産力を発展させる。「大工業」においては、生産は、科学の応用であり、計画的だ。そこでは労働は組織的社会的労働であり、生産手段は共同で使われる社会的なものだ。

この労働者からの生産手段の簒奪は即座に、資本家からの生産手段の収奪に転化する。資本は蓄積するだけではなく、集中する。大資本は小資本を飲み込む。競争の嵐は弱小資本家を倒し、生産手段を大資本に集積する。

あらゆる個人からの生産手段のとりあげ!

競争による資本家から収奪は生産の社会化を強力に推し進める。

「競争」は、人類がまだそれを必要とするくらい生産力が未熟だから存在するともいえるし、以前の時代よりも生産力が発展したから存在するともいえる。

「競争」の行き着く先は競争の否定であり、「競争」とは社会を創り出すことにほかならない。社会から奪うことが社会的な絆をつくる。労働の疎外は資本を生み、資本は資本として疎外する。資本の自己疎外の実現が「競争」である。資本の自己疎外として、対象世界が形成される。

もはや、対象世界の形成にとって、資本は、そして資本主義的私的所有は単なる「外皮」にすぎない。「外皮」は突破されるだろう。否定運動は否定を完遂するだろう。

人間の発達のためには、1つの社会を創り出すためには、それを可能とする労働の社会的生産力をつくりださなければならない。

資本主義的私的所有はそれを使命とする。それゆえそれは自分自身を乗り越えるべきものとして提示している。

資本主義の生んだ豊かな社会的生産力を、資本主義が否定した労働者との一体性を復権して、労働する諸個人が自らの発展のために、社会的に結びあう諸個人として協同制御すること。

世界市場、国家、株式会社といった範疇。現代の、科学の発展、研究の世界的公開、非営利組織による社会活動の発展、インターネットによる自由な発言、労働組織の再編、企業形態の再編、マネジメントの改革・転換、労働市場、超国民的企業、第3次産業化、消費化、個人化。これらはすべて労働の社会的労働への絶えざる変革であり、生産の社会化、労働の社会的生産力の姿である。資本主義は休むことなく、社会的な計画性や社会的なルール、社会的生産組織を鍛え上げ、様々の形で労働を社会的な労働に転換している。こうした現代的な姿を資本の矛盾が貫いている。

地球規模での環境、労働、食、平和、協力といった「現代」の問題群は、資本の力となって発展した社会的生産力をどう制御するのかを問うている。およそ、資本主義的私的所有は、形式として自由な私的所有であるとともに、この自由な私的所有という自分の立脚点を自ら解体してしまう。他人の労働の無償の取得という資本主義的取得は、自由な私的所有という立脚点をくつがえし、他人労働搾取の権利に展開する。資本主義的私的所有は即座にそれ自身の解体であって、自己解体的だ。

資本主義的私的所有の展開は、自由な私的所有の否定、自由な個性の否定、自由な人格的労働の否定であり、労働者からの生産の切り離しであり、即座に、社会的生産の非人格的な発展であって、それはまた、資本家の私的所有の否定にまですすみ、社会的生産を、誰のものでもないものとして、発展させる。すべての個人から社会的生産・対象世界が疎外されている。資本主義的私的所有は、だから、問うのだ。社会的生産は誰のもので、どのように制御するべきなのか、と。

この問こそがつねに「現代」の問題群の基底を流れている。「現代」の問題群はすべて社会的生産をどう制御するかを問う。

人間解放を、私的所有にもとづく法的自由にとどめることなく、社会的生産という自分たちの社会の根源にまで発展させること。

地球を被う社会的生産過程の体系をどのように、人権(自由平等)を実現するよう民主的に運営するのか、個人の自由な成長があらゆる個人の自由な成長の条件となっている状態、自由で人間的で豊かな社会をつくるために、発達した労働の社会的生産力をどう活かすのか。真の国際化をどう実現していくのか。

「個人的所有」の復権論は、実に現代的である。
by kamiyam_y | 2006-01-11 23:50 | 資本主義System(資本論) | Trackback | Comments(0)
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