さっぽろ地下鉄のなかでマルクスを呼吸する、世界を呼吸する

まとめの問題

忘年会シーズンが終ったと思ったら、新年会シーズンですね。会社もゼミもサークルも、結束を高め親睦するのに大忙し。体調壊さないようにね。新年会のない方も社会から必要とされていないなんて落ち込んだりしないようにいきましょう。

で、学生の方々は定期試験シーズン。

後期試験用のまとめのエントリーをたてました(→JUMP!☆)。ネットに書いたものを公開することは、ソウルのネットカフェにも、アマゾンのノートPCにも、札幌の会社の端末にも、私の友人や面識のある人にも、東京の学生にも、警察にも、政治家にも、工場労働者にも、飲み屋にも、だれにでもオープンにすることなのですが、もともと公私の境界が曖昧な要素を含んだブログですので、直接には受講生向け更新のお知らせもしてみました。こういうアナウンスも私の生活の一部としてありでしょう。というか学生はたぶんこちらばかり見ていると思うので親切心です。



「俺たちって、ほんとはさあ、給料よりもたくさん生産してるんだって」

「ええ、まじ?さすが経済学部だね」

「いやあ(照れるな)、何が経済学部かわかんないけど」

こんな会話が日々なされているかは判明しませんけど、講義の感想にたまにあります。

講義のコメントカードからちょっと紹介しましょう。

(a) 「バイト先でよく『今自分は剰余価値も生みだしてるのかな』なんて考えちゃいます」

(b) 「私のバイト先の会社は、剰余価値も得てないみたいです。倒産しそう(笑)」

(c) 「ほんとは会社がサラリーマンを雇っているんじゃなくて、サラリーマンが会社を雇っているんですね!!」

(a)みたいに日々考えてみる姿勢がやっぱり大事。暗記も大事だけど。

(b)は、競争の問題を発見してます。資本どうしが奪いあう競争の作用が入ると、個別資本が得る剰余価値は、その資本に雇われた労働者の剰余労働時間とは一致しなくなります。

ちなみに、剰余価値の生産という関係だけを見る場合、労賃の差は問題ではなく、労働力価値を超える剰余価値を労働者が生みだしている点だけがポイントです。

(c)は、資本が労働者の生んだ剰余価値に置きかわっていくことや、可変資本が結局労働者がつくった自分の生産物であり、労働者が自分たちの過去の労働によって雇われていることを、「サラリーマンが会社を雇う」と表現しています。すばらしいですね。剰余価値が追加資本となることを見れば決定的に会社は始めから労働者の労働の産物です。

(c)は、じつは、働く者が社会の主人公であることを鋭く見抜き、理解しています。社会的生産過程が、労働する諸個人が自らつくりだしている、かれら自身のための普遍的な環境であることを発見している、とさえ言えましょう。

それはやっぱり、学生にとって学問は、自分自身の真理ですからね。ちゃんと発見するんですよ。

最初は、学問といっても教師によって強制されるとしても、共同体の強制としてやってくるとしても、労働力販売競争という疎外のなかでの学修であるとしても、やっぱり学問を通過するのはいいことです。資本にとって必要な労働力の要請であるとしても、資本自体共同的なもの。

そんな制約の中で、システムの歯車になるためのゆがんだ学修を超える契機もあるってものです。

むろん勉強に興味ない学生もいるがそれは彼の中の本質が静かにしているだけ。いろんな学生がいますが、それは人々がそれだけ学問に接することができる証し。

社会について思索し、自然の本質を考察し、人間について思考する。昔なら奴隷所有者や支配階級の特権であった学問を今や、大衆が自らの発展のために学ぶ。すごい発展ですね。

およそ人間はこの社会の本質を一人一人が受け持っているのですから、学問の情熱の炎を燃やすことはどの学生も潜在的に可能です。


コメントカードをみると、理論の本筋に関心をもつ学生も多いのですが、社会問題に対する批判的な関心もけっこうあります。総選挙、靖国、耐震強度偽装、国際的貧困、憲法、など。

人権と民主主義、真の国際協調を発展させることが、この世紀の課題ですから、この時代精神を学生も呼吸しているのでしょう。剰余価値論は搾取されて悲惨というお話ではありません。ますます閉塞が深まるという悲観主義は、学問の放棄に等しく、唾棄すべきです。私たちは理性の体現者であり、地球が滅びるといった神秘主義みたいな低レベルとはおさらばすべきです。

資本主義の現代は、科学の発展、研究の世界的公開、非営利組織による社会的活動の発展、個人の行動の自由度の拡大、インターネットによる自由な発言、生産技術の不断の革新、マネジメントの転換、企業形態の転換、労働組織の再編成、第3次産業化など様々の形で労働を社会的労働に転換し、休むことなく社会的な計画性や社会的なルール、社会的生産力を鍛え上げています。

それらがまとう排他性や敵対性、抑圧性をどのように抑えていくのか。着実な労働の発展をどのように管理し活かしていくのか。

深化する生産の社会化を土台にして、労働における豊かさ、権利の実現、自由と民主主義の発展、国際連帯をどうつくりだしていくのか。

国連難民高等弁務官をつとめていた緒方貞子さんが「日本は経済的に裕福な国だ。連帯の証しを立てるのに、貧しい国や災害・病気などの支援に絶えず旗を振れるようにならないといけない」(「私がみるニッポンの力 国際支援で連帯の証しを」日経新聞2006年1月7日朝刊5頁)と言っています。ちなみに、ベンジャミン・フルフォードも「世界の余ったお金が日本に流れている。言い換えれば人類の未来のための資源が日本に預けられている。毎日世界で2万5000人の子供が餓死し、環境破壊もかつてないほど進んでいる。そのすべてを助けることができるほどのお金を日本は持っているが、今はその使い方も全部アメリカのいいなりだ」(「9・11自爆テロは民間航空機ではなかった」『週刊ポスト』1/13・20)と述べています。

日本の発達した生産や経済的連関をどう活かしていくのかは、私たちの国際的な責任です。

私たちが相互にまったく経済的関連がなければ、労働や環境、平和、生活をめぐる国際合意も単なる空想にすぎませんが、私たちは今やグローバルな関連を呼吸して暮らしています。日本の政治も、私たちの生活も、地域も、世界の「人間開発」も、私たちの社会的労働を通じて結びついています。
by kamiyam_y | 2006-01-10 00:14 | 資本主義System(資本論)