さっぽろ地下鉄のなかでマルクスを呼吸する、世界を呼吸する

メール監視と「のまネコ」問題:私有財産の自由から人間の自由へ


「私有財産の自由」が突き当たる矛盾

日経の特集記事が「のまネコ」問題を扱ってました。それに託けて、資本主義経済の「現代」を特徴づける「私有財産」と「社会的生産」との矛盾について考えてみたいと思います。

「私有財産の自由」とは、封建社会から「近代」への転換をよく示す社会関係です。「市民革命」においては、貴族や聖職者に対抗して革命を起こした「第3身分」は、「天賦の人権」を革命の拠り所としていました。この「人権」は、しかし、どこからか湧いてきた理想などではありません。「人権」が求められたのも、その背後に、自由な商売、自由な職業選択の要求というブルジョアの実際的な物質的利害があったからです。この点からいえば、「市民革命」とは、人をとりあえず都市のブルジョアとして解放することでした。

ブルジョアは「私有財産」の自由にもとづいて商売をします。売買を通じて増殖する貨幣を、さしあたり「資本」と呼べば、ブルジョアは資本を、産業資本として生産活動に使うことによって、商品を生産して利潤を手にするようになります。

しかし、ブルジョアの手に資本が集中することは、他方で、労働力を売らないと生きていけない大衆が出現することを意味します。資本の本源的蓄積は、資本家の「節欲」「貯金」「勤勉」によってもたらされるのではなく、働く諸個人が土地から「暴力的に」切り離されることによってもたらされます。

生産手段の剥奪によって創出された近代的労働者もまた、資本家とともに、封建社会から解放された自由な個人です。労働者も、「私有財産の自由」をもつ法的に自由な人格として解放されています。労働者も資本家もこの自由をもつことにおいて対等です。

労働者も資本家も、商品の売買においては等価交換しますし、労働者のもつ10円も資本家のもつ10円もまったく等しい価値として妥当します。さらには、「普通選挙」が実現するようになると、労働者も資本家も、等しく参政権を有する個人となり、「私有財産」による不平等すら、政治的共同体のなかでですが廃止されてしまいます。これはすばらしく進歩的なことです。

ところが、この自由も平等も解放も、その裏側では、いいかえれば、非政治的な実際的生活の世界では、経済の世界では、諸個人の社会的生産過程では、貫徹しません。労働者は事実上労働力を売らざるを得ない強制連関におかれ、剰余労働を搾取される存在です。

自由な個人が主人公ではなく、会社そのものが主人公となったり、カネそのものが主人公となって政治を簒奪している現状を想起すれば分かることです。あるいは、政治的自由において「私有財産」による格差が廃止されているにもかかわらず、実際の経済生活においては、「私有財産」による社会の分断が「自由競争」というタテマエによって美化される。「私有財産」の「自由」がそれ自体自由だとしても、社会的生産の進んだ諸関係においては、その自由の限界が露わとなる。「私有財産の自由」が労働者を搾取する自由として機能したりする。こうした事実を思い浮かべればよいでしょう。

とはいえ、これは歴史に潜む悪意の結果などではなく、人間が、その自由な結びあいのなかでお互いに発展しあうような自由な人間になるための必然的な通過点です。

ひとまず人間はまず部分的に解放されるしかなかったのですから。人間が自由になるためにはまず封建社会を解体し、金がものをいう社会をつくる必要があるのです。社会的生産が金によって「経済法則」の力で成り立つことによって、人間は生産から切り離された政治の世界で形式的に自由になるのです。資本によって生産過程が、諸個人の自覚的関与のできない物象的関連として編成されることによって、諸個人が、孤立し、個人の人格的・法的自由が成立したのです。

これが近代社会の出発点の構図です。この構図を運動させてみます。と、資本主義は、資本のもとで社会的生産を発展させながら、同時に私有財産制度とそれを衝突させることになります。あるいは、諸個人の形式的な自由に対して、それと対立する形で、資本の力として社会的生産の力を発展させることになります。この点も、企業権力という問題を想起すれば感覚的に納得いくはずです。

私有財産と監視

会社は「私有財産」です。「私有財産の自由」は会社においては、労働者を生産手段から排除し、彼等を生産手段の持主の意向に従って行動させるヘゲモニー(支配権)として作用します。労働者は、労働のなかでは、自己の労働の本源的条件である生産手段に対して、他人の所有物に対する様態で関わっています。労働という自己の活動において、労働者は自己の対象から排除されている。矛盾です。

資本主義は、この矛盾を運動させるシステムです。資本という、主人公化した貨幣は、しかし、私有財産という狭い自分の前提と衝突してしまいます。なぜなら、資本主義は資本を増やすということが人々に強制されますが、資本を増やすためには、資本は生産力を上げることが必要となるからであり、それは不断に生産を社会化するからです。労働者を結合して「協業」を組織し、労働者の使う道具を、社会的な道具である「機械」に変えることが、私有財産を殖やすために必要だという矛盾こそが、資本主義の「現代」を定義しています。

パソコンはいうまでもなく道具です。道具ですが、それは人々の会話の延長であったり、記憶や計算の延長であったりします。それは、会社という私有財産のなかに従業員同士の社会的つながり、コミュニケーション領域を形成してしまいます。パソコンは管理労働を社会化する道具として、資本主義のなかで発酵する資本主義を超える条件の一要素かもしれません。

対照的に、工場で組み立て加工を行う労働者が、ハンマーを自分たちのコミュニケーションの媒体にすることはありません。モールス信号に使うかもしれませんけど。

ベルトコンベアーの体系ですら、労働者が実質的に自分たちで社会的に使う以上、そこには「自分たちのもの」という潜在的な承認が生まれます。地球を覆うコンピューターネットワークも、資本にとって無料のインフラであるだけでなく、労働者にとってもコミュニケーションのインフラです。

パソコンは、さらに、全体が連結していると同時に、個人個人が使うために、より従業員との間で親密な関係になりやすい道具のように思えます。

かつて手工業の職人は自分の道具と親密な関係にあるため、資本家が職人を雇って生産しても支配しにくく、機械の登場は、労働者をコントロールするという意味でも革命的でした。パソコンは労働者と道具の親密さを回復しているとも言えます。

しかも、パソコンは心も感性もないですけど頭脳の延長ですから、ゲームの相手もしてくれますし、どこかの誰かとゲームをするインフラにもなります。

巨大なベルトコンベアーを労働者が個人的にゲームに使うことはないでしょう。ハンマーで音楽を奏でることはあるかもしれませんけど。

しかも、パソコンが生産するものが「情報」です。「情報」は、手でつくった木の椅子とは違います。手でつかめませんし、複製が無限にできます。私有財産として括れない観念的で連続した存在なのです。ですから、これは、私有財産制度に依拠した資本の支配からは、はみ出す部分が生じます。

とりあえずここまでで、いいたいことは、パソコンは「私有財産」という概念に揺らぎをもたらすということです。

北海道新聞・特集「あなた見られています 第4部 パソコン監視②」(10月22日・土・朝刊・36頁)に、職場のパソコンを私的メール交換に使ったとして「減給・降格処分」を受けた女性の例がレポートされていました。上司と対立していた社員たちが「抜き打ち検査」にあって、メールの私的交換を理由に「減給処分」を受けたといいます。

「使用者が社員を処分しようとすれば、どんなささいなことでも引っ掛けてくる。」


みなさん、取締の対象なのに取り締まられていない曖昧な状態、禁止されているのに放任されている状態は怖いですよ。ルールのグレーゾーンは、権力が恣意的な取締に使う大事な装置です。会社という私的権力だって同じ。クビにするさいの口実にパソコンの私的利用を持ち出されたら、どうするんですか。

幸いなことに、記事によれば、このケースでは、「処分は懲戒権の濫用にあたる」だとして女性らが民事訴訟を起こし、処分無効の判決を勝ち取っています。私的利用の送受信の数の少なさや、かかった時間の少なさ、職場にパソコン取扱規則がなかったこと、この上司もパソコンの私的利用をしていたこと(笑)などが判決の理由だそう。みなさん、会社にパソコン取扱規程あるか、調べておきましょう。

社会的生産関係が労働者を抑圧する関係として現れるのが資本主義だとすれば、パソコンのネットワークも会社のなかで、労働者を抑圧する手段として機能します。ネットワークを通じた「監視」もその一部でしょう。会社のプライバシーを守るために、従業員のプライバシーは守られず、顧客情報流出を防ぐために、従業員は潜在的犯罪者扱いを受ける。これは働く人々の権利の実現にとっては、あくまでも過渡的な状態にすぎません。

のまネコ問題

最初にあげた日経の特集記事は、「ネットと文明 第2部 新旧価値の衝突2 『皆のもの』信奉意識にズレ ブログ炎上」(10月22日・土・朝・1頁)ですが、これは、ネット掲示板の匿名投稿をもとにした『電車男』の二番煎じの出版が、ネット上で批判され頓挫した話に続いて、「のまネコ」問題をとりあげています。なぜか、日経の記事ではのまネコ「騒動」で、「2ちゃん」と明記されずに「掲示板」とあるのですが、それはいいとして、やっぱり面白い問題ですね。

ネットのインフラは無償の協力で支えられているのが、特徴。“共有財”を資本や企業の論理で安易に囲い込むと手痛いしっぺ返しに遭う。騒動は既存の常識では想定外の「公共のカタチ」を巡り、強弁に自衛しようとするネット界の人たちとの価値観の衝突でもある。


「ネット界」などという世界が存在するのか分かりませんが、また「強弁に自衛しようとする」とはビジネスの側から見た表現におもえますが、まあそれはいいとして、ネット・コミュニズムという妖怪が徘徊しているのも、私有財産と社会的生産という二つの顔をもった現代資本主義のねじれ現象の1つかな、と思います。私有財産増大の悪循環が、社会的生産の深化を求め、社会的生産にとって、私有財産による分断が障碍になり、つまり社会的生産を要する私有財産にとって障碍となる、という矛盾がハッキリ出ていて興味をひかれます。

資本主義の形成にあたって「土地囲い込み」が共有地を私有地に変えていったのは周知の通り。資本主義の発展において、資本が、労働者の社会関係(協業)を包摂して成長したことも、資本による資本の収奪が、多くの工場を1つの資本のもとに統合し、資本主義展開の重要なテコとなっていることも、とりあえず説明は要らないでしょう。「のまネコ問題」も、共有物を私的に収奪する点でこれらの運動と同じですが、ネットの産物という共有物を、私的に簒奪する試みが、うまくいかなかったことは、ほとんど「剰余価値生産」の終焉を暗示しているように思えます。

2ちゃんねるでは、2ちゃん管理人のひろゆきさんが「のまネコ問題への個人的見解。2005/10/13」をアップしています。

資本主義経済のしくみとの関わりで「のまネコ」を論じているcafemochahotさんの「のまネコ問題と情報の私的所有」にあとは譲るとして、松下電器の「知的財産権」戦略の一環であったジャストシステムに対する訴訟、松下の敗訴、よかった、というかあたりまえだろ、という気分です。一太郎ユーザーの「リラックス・ビュー」はなかなかいいですよ。

毎日新聞2005年10月2日東京朝刊社説「知的財産権制度 創意工夫を促す制度に戻そう」から引用しておきます。

 ワープロソフトの「一太郎」をめぐる特許侵害訴訟は、ジャストシステムの主張を認め松下電器産業敗訴の逆転判決となった。今回の訴訟は、知的財産高裁での初の大合議による判決とあって注目されていた。
……
 マウスのカーソルをヘルプボタンにあて、その後、別のボタンにカーソルを移動すると、そのボタンの持つ機能と使い方の説明文が出てくる仕組みが争点となった。

 ジャストシステムは、同じ機能はマイクロソフトのウィンドウズの中にもあるとして、ジャストシステムだけが特許侵害に問われるのはおかしいと主張した。一方、そのマイクロソフトは、パソコンメーカーとの間で、ウィンドウズによる特許侵害について訴訟を起こさないという契約が独占禁止法違反に問われ、現在係争中だ。

 巨大企業同士では特許侵害が起こらないような契約を結び、それ以外の企業が同じ機能を使おうとすると知的財産権の侵害となるということには、多くの人が違和感を感じていた。


おいおいマイクロソフト!!!
by kamiyam_y | 2005-10-23 20:58 | メディア資本と情報化